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歩留まり 第四部

第四部 南国そだち 七三五〇

243万トン


第二十七章

2025年10月16日〜2026年6月19日|JA営農経済部/JA低温倉庫|明神奈緒(JA米穀担当)

10月16日の午前中に、令和7年産の集荷実績が固まった。

明神奈緒は集計表を印刷して、赤いペンで一行だけ丸をつけた。

系統集荷率、84.1。

去年が68.2だった。

16ポイント近く、戻っている。

宮地が横から覗き込んだ。2年目になる。

「明神さん。戻りましたね」

「戻った」

「よかったですね」

奈緒は集計表を机に置いた。

「宮地くん」

「はい」

「なんで戻ったと思う?」

宮地は少し考えた。

「うちの概算金が高かったからですか」

「それもある」

「ほかに、ありますか」

「業者が来なかったから」

宮地の顔が、少し動いた。

「来なかったんですか」

「去年、うちの管内に来ていた業者が何社あったか、覚えてる?」

「たしか、二桁でした」

「今年は、4社」

奈緒は集計表の下のほうを指した。

「そのうち、去年と同じだけ買ったのは、1社だけ」

宮地はメモを取った。

「明神さん」

「なに?」

「それは、いいことですか、悪いことですか」

奈緒はペンを置いた。

「集めた分は、売らないといけない」

11月に、倉庫がいっぱいになった。

奈緒は現場を見に行った。

分厚い扉を開けると、冷たい空気が出てくる。中は15度に保たれている。

天井まで、パレットが積まれていた。

去年の冬に来たときは、奥に空きがあった。床が見えていた。

いまは、いちばん奥の壁まで詰まっている。

パレットの列のあいだの通路が、去年より狭い。

倉庫の担当者が、フォークリフトを降りてきた。

「明神さん。もう入りません」

「あとどれくらい残ってますか」

「調製が終わったのが、まだ外にあります」

「外」

「はい。第二倉庫の軒下に、シートかけて置いちょります」

奈緒は倉庫を出て、第二倉庫のほうへ回った。

軒下に、パレットが二列並んでいる。

青いシートがかけてあった。

奈緒はシートの端をめくった。

紙袋の肩に、令和7年産と刷ってある。

12月に、販売の進捗を確認した。

契約が、去年の同じ時期より遅れている。

奈緒は土佐米穀に電話をかけた。

「明神です。年明けの引き取りの件で」

「大石です」と、相手が答えた。

「予定より、少なめでお願いしたいとのことでしたが」

「すみません」

「理由を伺ってもいいですか?」

大石は少し間を置いた。

「うちの倉庫にも、まだあるがです」

「去年のものですか」

「去年のと、備蓄米が」

「備蓄米は、期限があったはずですが」

「期限のあとに届いた分です」と、大石が言った。「あれは、いま売っちょります」

奈緒は電話を切って、しばらく受話器に手を置いていた。

年が明けて、価格が動きはじめた。

1月の相対取引の価格が、前の月より下がった。

2月に、また下がった。

奈緒は月ごとの数字を表にした。

去年の秋がいちばん高くて、そこから、階段のように下りている。

3月9日に、筒井課長が席に来た。

「明神さん。精算の見通し、どんな」

奈緒は資料を出した。

「概算金が、30キロで11,350円です」

「うん」

「いまの売れ方でいくと、販売代金から経費を引いた額が、それに届きません」

筒井は資料を見た。

「どればあ足らん」

奈緒は数字を言った。

筒井はしばらく黙っていた。

「不足が出たら、どうなる?」

奈緒は規程の写しを出した。

「規程では、精算の結果、概算金が販売代金を上回った場合、その差額の返還を求めることができます」

筒井は写しを受け取って、その条文を読んだ。

読んで、机に置いた。

「明神さん」

「はい」

「これ、やったことあるか」

「私が入ってからは、ありません」

「わしもない」

筒井は椅子に座り直した。

「これやったら、来年から誰も出さんなる」

「そうなると思います」

「ほんなら、やらん」

「やらないとして、その差は、どこが持ちますか?」

筒井は少し考えてから言った。

「連合会と、うちや」

奈緒は資料を揃えた。

「それは、来年の概算金に効きます」

筒井は奈緒を見た。

「効くね」

「はい」

筒井は立ち上がった。

「6月に、また書いてもらう」

4月に、宮地が席に来た。

「明神さん。ちょっといいですか」

「なに?」

宮地はノートを開いた。

一昨年の4月からのメモが、そのまま続いている。

「僕、入った年に、明神さんに聞いたんです」

「なにを」

「概算金って、足りなかったら返すんですかって」

奈緒は宮地のノートを見た。

「聞いたね」

「明神さん、理屈ではね、って答えました」

「答えた」

「今年、返すんですか?」

「返さない」

宮地はメモを取った。

「じゃあ、その分は」

「誰かが持つ」

「誰かって、誰ですか」

奈緒は椅子を回して、宮地のほうを向いた。

「今年は、連合会とうちが持つ」

「来年は?」

奈緒は答えなかった。

答えないでいると、宮地が言った。

「来年は、農家さんですか」

奈緒はモニターを見た。

「値段が下がったら、そうなる」

宮地はノートを閉じた。

閉じて、しばらく何も言わなかった。

6月に入って、九州の数字が動きはじめた。

鹿児島と宮崎の早期米。

前の年から、3割5分から4割下げてくるという。

奈緒はその連絡を受けて、しばらく画面を見ていた。

米の値段が最初につくのは、この国の南のほうだ。

そこが下げれば、あとが下げる。

6月19日の朝、奈緒は起案用紙を出した。

農経-三。

決裁欄が五つある。起案者、係長、課長、部長、常務。

いちばん上の欄に日付を書いた。

その下の本文に、いつもの文言を書いた。

令和8年産早期米の仮渡金額について、下記のとおり決定したく、決裁を仰ぐ。

そこから下は表になっている。品種ごとに、等級ごとに、30キロあたりの金額。

南国そだち。一等。

金額欄で、シャープペンシルの先が止まった。

奈緒は前の年の数字を見た。その前の年の数字も見た。

11,350。10,950。7,500。

3年並べると、山になっている。

奈緒は生産費の資料を横に置いた。

30キロあたりの生産費が出ている。

1万円を、少し超えている。

奈緒はその数字を見て、それから金額欄に戻った。

下げなければならない、というのは、はっきりしている。

下げなければ、また同じことになる。

去年の米が、まだ倉庫にある。今年も豊作の見込みが出ている。売れる値段より高い額を前払いすれば、その差は誰かが持つことになる。

だから下げる。

下げれば、収まる。

奈緒はシャープペンシルを置いた。

下げれば、収まる。収まるが、それだけでは終わらない。

農家は、その金額を今年の米の値段だと受け取る。

来年の春、その数字を見て、作付けを決める。

奈緒はシャープペンシルを持ち直した。

数字を書いた。

7,650。

書いてから、消しゴムをかけた。

消して、もう一度、同じ数字を書いた。

書き直したのではない。同じ数字を、二度書いた。

午後1時半に係長の判が押され、2時10分に筒井が判を押した。

2時40分に、筒井が戻ってきた。

「明神さん。部長が、もうちょっと下や言いゆう」

奈緒は起案用紙を受け取った。

金額欄の横に、鉛筆で数字が書き込まれている。

奈緒の数字より、300円低い。

7,350。

「理由は?」と、奈緒が聞いた。

「九州が下げてきちゅう。上に張りついたら、売れ残る、と」

奈緒は数字を見た。

売れ残る、という言葉を、奈緒はしばらく頭の中で転がした。

「明神さん。直せる?」と、筒井が言った。

奈緒は起案用紙を机に置いた。

消しゴムを持って、自分の数字を消した。

紙の表面が、少し毛羽立った。

300円低い数字を、そこに書いた。

「できました」

3時前に、起案用紙は部長の机へ回った。

4時過ぎに、判が四つ揃って戻ってきた。

奈緒はそれをスキャンして、県本部あての報告メールに添付した。

送信ボタンを押す前に、宛先をもう一度確認した。

押した。

宮地が横から覗き込んだ。

「決まったんですか?」

「決まった」と、奈緒が答えた。

宮地は数字を見た。

見て、何も言わなかった。

「宮地くん」

「はい」

「来年、みんな米を作ると思う?」

宮地はしばらく考えた。

「わかりません」

「そう」

「明神さんは、どう思いますか」

奈緒はモニターを閉じた。

「減ると思う」

5時に、電話が鳴った。

奈緒が受話器を取った。

「はい、営農経済部です」

「明神さんかね」

生産者だった。おととし、決まったかと二度かけてきた人と、同じ声だった。

「はい、明神です」

「決まったかね?」

「決まりました」

「いくらな?」

奈緒は金額を言った。

電話の向こうで、しばらく何も聞こえなかった。

紙をめくるような音がした。

「明神さん」

「はい」

「ほんまかね?」

「ほんまです」

また、間があった。

「そうかね」

生産者は、それだけ言って切った。

奈緒は受話器を置いた。

置いた手を、そのまま少し置いていた。

帰りに、駐車場で車のドアを開けた。

6月の夕方の空気が、顔に当たった。

エンジンをかけ、エアコンを入れて、動き出すまで待った。

国道に出る手前で、信号に引っかかった。

奈緒は対向車線を見た。

車は、1台も停まっていない。

信号が青になった。

奈緒はアクセルを踏んだ。


第二十八章

2025年10月8日〜2026年3月12日|マルヨシ商品本部(阪神)/高知・香長平野|大原祐介(米穀バイヤー)

10月8日の午前、入江から電話が入った。

「大原さん。新米の仕切り、出ました」

「お願いします」

入江は数字を言った。

大原祐介はメモを取りながら、途中で手を止めた。

「入江さん。もう一回、言うてもらえますか」

入江はもう一度言った。

大原は電卓を出した。

去年の同じ時期と比べる。

3割近く、下がっている。

「入江さん」

「はい」

「これ、間違いないですか」

「間違いありません」

「なんでこんなに下がるんですか?」

「作が多いんです」と、入江が言った。「みなさん、作られましたので」

大原はメモを見た。

「割当は」

「今年は、ありません」

「ない」

「欲しいだけ出せます」

大原は椅子の背にもたれた。

去年の秋は、注文の8割しか来なかった。

「入江さん」

「はい」

「うちの手持ちの在庫、どうなりますか」

入江は少し間を置いた。

「高いところで仕入れられた分ですね」

「はい」

「それは、うちには戻せません」

「わかってます」

大原は電話を切った。

切ってから、在庫の一覧を開いた。

PBの原料として卸から引いた分が、まだ残っている。

その単価と、いま提示された新米の単価を並べた。

差は、2割5分あった。

10月21日に、細川から電話が入った。

「大原さん。うち、下げます」

「いくらですか?」

細川は数字を言った。

マルヨシのPBより、250円安い。

「早いですね」と、大原が言った。

「よそが先に下げよるんです」

「どこですか」

「大手さんです。先週から、チラシに出てます」

大原は端末でチラシを検索した。

出ていた。

5キロで、2,000円を切っている。

「細川さん」

「はい」

「うち、まだ高い在庫が残ってます」

「うちもです」

「下げたら、その分は」

細川は少し笑った。

「かぶるだけです」

翌週、大原は樽井のところへ行った。

「本部長。米、下げます」

樽井は資料を見た。

「いくら下げる」

「三段階で考えてます」

大原は表を出した。

いまが、2,530円。

11月に、2,280円。

年明けに、2,080円。

3月に、1,980円。

樽井は表を上から下まで見た。

「四段階やないか」

「四段階です。すみません」

「去年、三回上げたな」

「上げました」

樽井は表を机に置いた。

「大原。在庫の評価はどうなる」

「売価が仕入を割る分は、評価損で落とします」

「いくらや」

大原は金額を言った。

樽井はしばらく黙っていた。

「それ、経理に説明できるか」

「できます」

「どう説明する」

「去年の値段で仕入れたものを、今年の値段で売ります、と」

樽井は判を押した。

押してから、言った。

「大原」

「はい」

「去年、値上げの指示書を出したときな」

「はい」

「店から、質問が20件来た」

「来ました」

「今回は、何件来ると思う?」

大原は少し考えた。

「ゼロやと思います」

三宅が値下げの指示書を作った。

大原はそれを読んで、一箇所だけ直した。

「三宅くん。理由の欄、消して」

「消すんですか?」

「要らん」

「お客様には、なんと説明したらいいですか」

大原は端末から顔を上げた。

「値下げの説明は要らん」

「要らないんですか」

「安うなって怒る客はおらん」

三宅はメモを取った。

取ってから、聞いた。

「去年は、書きましたよね」

「書いた」

「原料価格の上昇によるもの、って」

「書いた」

大原は指示書を送信した。

11月に一段目を下げた。

数量は、少し戻った。

年明けに二段目を下げた。

数量は、動かなかった。

大原は週販のデータを開いた。

金額は、下がっている。値段を下げたのだから当然だった。

数量が、上がらない。

大原は基準を変えて、2年前の同じ週と比べる表を作った。

一昨年を100とする。

金額、84。

数量、73。

米を買った客数、81。

大原はその三つの数字を、しばらく見ていた。

値段は、ほぼ2年前に戻っている。

数量は、戻っていない。

三宅が横から覗き込んだ。

「大原さん」

「なに」

「値段が戻ったら、数量も戻ると思ってました」

大原は表を閉じた。

「俺もや」

2月10日に、大原は樽井に企画書を出した。

産地との直接取引の検討。

樽井はそれを読んだ。

「卸を飛ばすんか」

「全部は飛ばしません。PBの原料だけです」

「なんぼ安うなる」

「試算では、5キロで150円ほどです」

「それだけか」

「それだけです」

樽井は企画書を机に置いた。

「大原。おまえ、産地行ったことあるか」

大原は少し間を置いた。

「ありません」

「一遍も?」

「一遍もです」

樽井は椅子を回した。

「行ってこい」

3月12日の朝、大原は高知に着いた。

空港からレンタカーで30分ほど走ると、平野に出た。

田が並んでいる。

何も植わっていない。

土が乾いて、細かく割れている。

大原は路肩に車を停めて、降りた。

風が冷たい。

田のあいだの農道に入って、少し歩いた。

畦から下を見ると、土の割れ目が思ったより深かった。

大原はしゃがんで、指で土に触れた。

固かった。

指の腹に、粉のようなものがついた。

10時に、JAの事務所で明神奈緒に会った。

「大原と申します。マルヨシの米穀を担当しております」

「明神です」

会議室で、大原は企画書を出した。

「PBの原料を、産地から直接お願いできないかと考えています」

明神は企画書を読んだ。

「数量は、どれくらいですか」

大原は数字を言った。

明神はメモを取った。

「産地指定でのお取引になりますと、事前に契約を結んで、栽培から追える形にします」

「はい」

「その場合、価格は先に決めます」

「先に、ですか」

「はい。作る前に決めます」

大原はペンを止めた。

「作る前に決めて、相場が下がったらどうなりますか」

「契約の額でお支払いいただきます」

「上がったら」

「同じです。契約の額です」

大原は企画書を見た。

「明神さん」

「はい」

「率直に伺います。30キロあたり、いくらでしたらお願いできますか」

明神は少し間を置いた。

「今年の仮渡金が、7,350円です」

「はい」

「産地指定になりますと、乾燥調製と保管と、それから追跡の手間が乗ります」

「いくら乗りますか」

明神は数字を言った。

大原は電卓を出した。

自分の逆算した額より、2,000円ほど高かった。

「明神さん」

「はい」

「うちが5キロを1,980円で売る場合、玄米の原料は30キロで5,300円ほどになります」

明神は大原を見た。

「5,300円」

「はい」

「それでは、作れません」

「作れませんか」

「作れません」

明神は資料を出した。

「30キロあたりの生産費が出ています」

大原はその数字を見た。

1万円を、少し超えている。

大原は電卓を置いた。

昼過ぎに、明神が生産者のところへ案内してくれた。

集落の作業場だった。

トタン屋根の下に、育苗箱が積んである。

公文晋作という男が出てきた。50半ばに見える。作業ズボンに長靴を履いていた。

「公文です」

「大原です。神戸のほうでスーパーをやっております」

「遠いところを」

三人はトタン屋根の下に立った。

大原は名刺を出した。

公文はそれを受け取って、しばらく見ていた。

「大原さん」と、公文が言った。

「はい」

「うちの米、置いてもろうちょりますか」

大原は答えるのに、少し時間がかかった。

「わかりません」

「わからんですか」

「うちは卸さんから仕入れています。産地は書いてありますが、どこの誰が作ったかまでは」

公文は名刺を胸ポケットに入れた。

「そうですね」

大原は作業場を見た。

奥に、乾燥機が二基並んでいる。

「公文さん」と、大原が言った。

「はい」

「不躾に伺いますが」

「どうぞ」

「30キロで、いくらやったら作れますか」

公文は乾燥機のほうを見た。

「1万円は要ります」

「1万円」

「肥料と、燃料と、機械の償却と、あと、人が要ります」

「人件費を入れて、ですか」

「入れんかったら、もっと安うできます」と、公文が言った。「入れんかったら、誰も継ぎません」

大原は電卓を出さなかった。

出さなくても、答えは出ていた。

「公文さん」

「はい」

「うちは、5,000円ちょっとしか出せません」

公文は大原を見た。

見て、少し頷いた。

「そうですか」

それ以上、何も言わなかった。

大原も、何も言えなかった。

しばらく、二人でトタン屋根の下に立っていた。

風が入ってきて、育苗箱の上のビニールが鳴った。

「大原さん」と、公文が言った。

「はい」

「今年の仮渡金、聞かれましたか」

「伺いました」

「去年より、4,000円下がりました」

「はい」

「去年は、高うて、ありがたかったです」

公文は育苗箱に手を置いた。

「ありがたかったですけんど、まあ、今年はこうです」

大原は頭を下げた。

「お時間をいただいて、ありがとうございました」

「いえ」

公文は作業場の奥へ歩いていった。

明神が、大原の横に立っていた。

「大原さん」と、明神が言った。

「はい」

「5,300円で買える米は、どこかにありますか」

大原は少し考えた。

「あると思います」

「どこですか」

「わかりません」

明神は頷いた。

「私も、わかりません」

夕方の便で、大原は伊丹に戻った。

翌朝、本部のトイレで、大原は靴を見た。

底の溝に、土が挟まっている。

ペーパーを取って、拭いた。

表面は取れた。溝の奥は取れなかった。

大原はその靴を履いて、売り場政策の会議に出た。

会議のあと、自席で週販のデータを開いた。

3月の第2週。

一昨年を100として、金額、84。数量、73。米を買った客数、81。

先週と、同じだった。

大原は新しい行を作った。

産地直接取引の検討。

その横の、結論の欄に、カーソルを合わせた。

合わせて、何も入れずに、ファイルを閉じた。


第二十九章

2025年11月7日〜2026年5月14日|神戸・長田|樋口諒(たなつもの商店代表)

11月7日の午後、樋口諒は在庫置き場の扉を開けた。

新潟から届いた分の搬入が、その日で終わった。

樋口はパレットのあいだを歩いた。

手前が、令和7年産。奥が、令和6年産。

去年の米は、まだ420袋あった。

今年の米が、1,280袋入った。

合わせて、1,700袋になる。

30キロで、51トンだった。

樋口は在庫表を持って、列の端から数え直した。

数え終わって、扉を閉めた。

事務所に戻って、西岡真由に聞いた。

「西岡さん。先月の出荷、なんぼやった?」

「190袋です」

「先々月は」

「210袋です」

樋口は電卓を叩いた。

1,700を、190で割る。

8.9。

9か月分だった。

12月に、定期便の解約が続いた。

西岡が月末に集計を出した。

「先月から、27件減りました」

「今月は」

「今日までで、19件です」

樋口は数字を見た。

「理由の欄、書いてくれてる人はおる?」

「います」

「なんて書いてある?」

西岡はプリントを渡した。

樋口は上から読んだ。

家計の事情、というのが多かった。

その下に、こう書いているものがあった。

スーパーで1,980円で売っているので。

樋口はその行で、指を止めた。

「西岡さん」

「はい」

「うちの5キロ、いくらやった?」

「4,600円です」

「2倍以上か」

「2倍以上です」

1月に、樋口は売値の見直しをした。

パソコンに原価の表を作って、下げられる幅を出した。

4,600円を、3,800円にする。

その場合の粗利を計算した。

出てきた数字を見て、樋口は電卓を置いた。

赤になる。

去年の秋に払った額が、そのまま原価に乗っているからだ。

樋口は表を閉じた。

閉じて、また開いた。

「西岡さん」

「はい」

「うちの商品ページ、生産者にいくら払ったか書いてあるよな」

「書いてあります」

「あれ、いつから書いてる?」

「創業のときからです」

樋口は画面を見た。

高知の南国そだち。生産者への支払額、30キロあたり12,550円。

その下に、売値が出ている。

「西岡さん」と、樋口が言った。

「はい」

「この払った額を書いたまま、売値だけ下げたら、どうなる」

西岡は少し考えた。

「計算が合わなくなります」

「合わへんな」

「お客さんに、なんて説明しますか」

樋口は答えなかった。

答えないまま、表を閉じた。

2月10日に、樋口は公庫へ行った。

担当者は、去年と同じ人だった。40くらいの男で、丁寧な喋り方をする。

「運転資金の追加を、お願いできればと思いまして」

「金額は、いかほどでしょうか」

樋口は数字を言った。

担当者は資料を受け取って、決算書と試算表を並べた。

しばらく、数字を追っていた。

「樋口さん」

「はい」

「在庫が、増えていますね」

「増えています」

「回転期間が、去年の倍近くになっています」

「なっています」

担当者はページをめくった。

「売上は、前の年から3割落ちています」

「落ちました」

「原因は、どのようにお考えですか」

樋口は少し間を置いた。

「うちの売値が、下がった相場についていっていません」

「下げるご予定は」

「下げると、原価を割ります」

担当者は資料を閉じた。

「今回の追加は、難しいと思います」

「そうですか」

「既存のご融資について、返済の条件変更のご相談でしたら、お受けできます」

「条件変更」

「元金の返済を、一定期間、軽くする形です」

樋口は頷いた。

担当者は書類を出した。

「その場合、保証の内容は変わりません」

樋口は書類を見た。

1枚目の下のほうに、去年の11月15日に自分が書いた名前がある。

代表者の個人保証。

会社が返せなくなった場合、代表者個人がその債務を負う。

「変わりませんか」

「変わりません」

樋口は書類を折って、鞄に入れた。

3月の半ばに、西岡が席へ来た。

「樋口さん。少し、お話があります」

樋口はパソコンから顔を上げた。

「どうぞ」

「今月いっぱいで、辞めさせていただきたいと思っています」

樋口は椅子を回した。

「次、決まってるんか」

「決まっています。実家のほうです」

「そうか」

「すみません」

樋口は首を振った。

「謝らんでええ」

西岡は少し黙っていた。

「樋口さん」

「なに」

「一つだけ、聞いてもいいですか」

「ええよ」

「去年の6月に、備蓄米をやめたときのことです」

「うん」

「あのとき樋口さん、安い米を置いたら高い米が売れんようになる、って言いました」

「言うた」

「その日のうちに、新潟さんに同じ額を出すって電話しました」

樋口は西岡を見た。

「したな」

「私、逆やないですかって聞きました」

「聞かれた」

西岡はメモを持ったまま立っていた。

「あのとき、樋口さんは、備蓄米の話やって言いました」

「言うた」

「いまは、どうですか?」

樋口は少し考えてから答えた。

「同じ話やった」

西岡は頷いた。

頷いて、自分の席に戻った。

3月31日に、西岡は辞めた。

もう一人の従業員は、2月に辞めていた。

4月から、事務所は樋口一人になった。

4月9日の午後、樋口は在庫置き場へ行った。

送り状を出すための袋を取りに行ったのだが、扉を開けたところで、しばらく立っていた。

奥に、去年の米が300袋残っている。

手前に、今年の米が900袋ある。

樋口は袋の一つに手を置いた。

ぬるかった。

手を離して、扉を閉めた。

事務所に戻る途中、ビルの一階の自販機の前で足を止めた。

缶しか出ない型だった。ボタンの表示が、半分消えている。

樋口は小銭を入れて、缶コーヒーを買った。

階段の踊り場で、プルタブを開けた。

一口飲んだ。

甘い。

樋口は缶を持ったまま、壁にもたれた。

おととしの10月に、高知の作業場で、同じ味の缶を飲んだ。

明神という人が、二本買って、一本をくれた。

あのとき、あの人はこう言った。

作れば、余ります。余れば、下がります。

そのとき、樋口さんの倉庫には、今年の高い米が残っています。

樋口は、回転させます、と答えた。

あの人は、回転させても、仕入れは先に払っています、と言った。

樋口はそれを聞いた。

聞いて、意味はわかった。

わかったが、そのときは、自分の話だと思わなかった。

樋口は缶を飲み干した。

飲み干して、階段の下の箱に入れた。

音が、踊り場に響いた。

5月14日の午前、新潟から電話が入った。

去年、樋口が二度訪ねた農家だった。

「樋口さんかね」と、男が言った。

「はい、樋口です。ご無沙汰しております」

「今年は、どうするね」

樋口は在庫表を開いた。

1,200袋の行が、画面に出ている。

「今年は」

そこで、言葉が止まった。

「樋口さん?」

「はい」

「どうしたね」

樋口は在庫表を閉じた。

「すみません」

「なんね」

「今年は、お約束できません」

電話の向こうで、少し間があった。

「買えんのかね」

「買えません」

「そうかね」

男の声は、責める調子ではなかった。

「去年の分が、まだ残っております」と、樋口が言った。

「残っとるか」

「残っています」

「そうかね」

樋口は受話器を持ち直した。

「2年前も、去年も、同じ額を出すと申し上げました」

「言うたね」

「出しました」

「出してもろうた」

「今年は、出せません」

男は少し黙っていた。

「樋口さん」

「はい」

「あんた、大丈夫かね」

樋口は窓の外を見た。

雑居ビルの二階の窓から、路地が見える。

白いミニバンが、いつもの場所に停めてある。

「大丈夫です」と、樋口が言った。

「ほうかね」

「はい」

「まあ、こっちも今年は安いすけ、どこも似たようなもんろも」

男はそう言って、少し笑った。

「樋口さん」

「はい」

「あんたが来た年は、よかったのう」

樋口は返事をしなかった。

「じゃあ、また電話するわ」

電話が切れた。

樋口は受話器を置いた。

置いた手を、そのまま置いていた。

午後に、高知の番号を出した。

公文晋作の携帯電話だった。

画面に名前を出したまま、樋口はしばらく見ていた。

見て、通話の印を押さずに、画面を閉じた。

夕方、樋口は帳簿を出した。

公庫の返済表がある。

条件変更をしたので、当面の元金は減っている。

減っているだけで、無くなってはいない。

樋口は在庫表を横に並べた。

1,200袋。

1袋あたりの原価を掛けた。

出てきた金額を、返済表の残高と並べて書いた。

二つの数字を、しばらく見ていた。

7時前に、樋口は帳簿を閉じた。

パソコンを落とした。

窓の鍵を確認して、机の上の書類を揃えた。

西岡が使っていた机は、そのままにしてある。

引き出しは空になっている。

樋口はその机の前を通って、入口まで行った。

壁のスイッチに手を伸ばした。

伸ばして、一度、事務所を振り返った。

蛍光灯が二列、点いている。

樋口は手前の列を消した。

半分だけ暗くなった。

しばらくして、奥の列も消した。

樋口は鍵をかけて、階段を下りた。


第三十章

2026年6月26日〜8月8日|高知・香長平野/ながおか営農の作業場|公文晋作(生産者)

6月26日の午前中に、JAから通知が届いた。

公文晋作は作業場の机で封を切った。

令和8年産早期米の仮渡金額について。

1枚の紙に、品種と等級と、30キロあたりの金額が並んでいる。

南国そだち。一等。

7,350円。

公文はその数字を、しばらく見ていた。

去年の紙を、引き出しから出した。

11,350円。

並べて置いた。

差が、4,000円ある。

昼前に、山中が来た。作業場の入口から首だけ入れて、それから入ってきた。

「晋作さん。来たか」

「来た」

山中はコンテナに腰かけずに、机の前まで来た。

公文は紙を滑らせた。

山中はそれを持ち上げて、目を近づけた。

「7,350」

「そうや」

「去年は」

「11,350や」

山中は紙を持ったまま、動かなかった。

「4,000か」

「4,000や」

山中は紙を机に戻した。

戻して、ようやくコンテナに座った。

「晋作さん」

「なんぞ」

「これ、一昨々年より安いがか」

公文は引き出しから、もう1枚出した。

令和5年産のものだった。

7,500円。

山中はそれも見た。

「安いのう」

「安い」

「あのころは、肥料も燃料も、いまほど高うなかったやろ」

「高うなかった」

山中はしばらく黙っていた。

「増やしたのう、うちら」

「増やした」

「2反、わしが言うたやつや」

公文は紙を揃えた。

「あれは、法人で決めたことです」

山中は首を振った。

「わしが最初に言うた」

「言いましたけど、賛成したのは全員です」

山中は膝に手を置いた。

置いたまま、しばらく座っていた。

7月16日の朝6時に、公文はコンバインを田に入れた。

去年と同じ日だった。

1枚目は、集落のいちばん南にある。南国そだち。

穂が垂れている。

二周目に入ったところで、軽トラックが畦道に停まった。

西内が降りてきた。79になる。

公文はコンバインを停めて、降りた。

「どんなね?」と、西内が言った。

「まあ、穫れよります」

西内は稲を一本引き抜いて、籾を指で潰した。

潰した中身を見て、また潰した。

「粒は、去年よりええね」

「ええです」

「夜が、去年ほど暑うなかったき」

「そうですね」

西内は稲を畦に置いた。

置いてから、公文のほうを見た。

「晋作さん」

「はい」

「値は、聞いた」

「はい」

「7,000いくらやと」

「7,350です」

西内は畦に立ったまま、田を見た。

「昭和46年から作りよる」と、西内が言った。

「はい」

「あのころは、作るなゆうて言われた」

「聞きました」

「去年、みんなが作れゆうた」

「言いました」

西内は軽トラックのほうへ歩き出した。

歩きながら、振り返らずに言った。

「今年は、また、作るなゆう話が出るろう」

公文は畦に立ったまま、それを聞いた。

西内は軽トラックに乗って、帰っていった。

刈り取りは、10日で終わった。

反当たり、8俵に届いた。

去年と同じだった。

7月30日に、公文は作業場の机で電卓を出した。

早期米は14ヘクタールある。

反当たり8俵で、30キロの袋にすると、2,240袋になる。

7,350円を掛けた。

1,646万円。

去年の額を出した。

同じ袋数に、11,350円を掛ける。

2,542万円。

差が、900万円ほどあった。

公文は電卓を伏せた。

伏せてから、また起こした。

引き出しから、4月にJAでもらった資料を出した。

30キロあたりの生産費が出ている。

10,300円。

公文はその数字と、7,350を並べた。

2,950円、足りない。

2,240袋に掛けた。

660万円。

公文は電卓を置いた。

置いてから、もう一度取って、別の計算をした。

去年増やした2ヘクタール。

20反で、8俵なら320袋になる。

320に、2,950を掛けた。

94万円。

公文はその数字を、紙の隅に書いた。

書いて、その紙を裏返した。

8月3日に、公文は構成員を作業場に集めた。

総会ではない。配分の見通しを説明するための集まりだった。

7戸のうち、六人が来た。片山さんの奥さんは来ず、嫁が代わりに来た。

公文は資料を配った。

1枚目に、今年の収量。2枚目に、仮渡金の額。3枚目に、配分の見込み。

3枚目のところで、部屋が静かになった。

「これ、去年の半分ですか」と、片山家の嫁が言った。

「半分より、少し上です」

「一昨年と比べたら」

「一昨年よりも、下です」

嫁は資料を見た。

「面積は、増えてますよね」

「増えちょります」

「増えて、下がるんですか」

「下がります」

嫁は資料を膝に置いた。

「そういうものですか」

公文は答えた。

「そういうものです」

山中が口を開いた。

「晋作さん。来年は、どうする」

公文は資料を持ったまま、しばらく黙っていた。

「2月に、また集まって決めます」

「増やすか、減らすか」

「減らす方向で、たたき台を作ります」

山中は頷いた。

頷いてから、聞いた。

「休ませた田は、どうなる」

「草を刈らんといかんです」

「作らんでも、刈らんといかんがか」

「刈らんかったら、隣に迷惑がかかります」

山中は湯呑みを取った。

「金にならんことを、やるがか」

「やります」

集まりは、40分で終わった。

みんなが帰ったあと、公文は作業場の椅子に座っていた。

西内は、最後まで何も言わなかった。

8月8日の夜、9時前に、公文は居間の座卓の前に座った。

引き出しから、名刺の束を出した。

輪ゴムで束ねてある。

公文はそれを解いて、座卓に並べた。

6枚あった。

2年前の1月に、6枚になった。

そこから、増えていない。

裏に数字が書いてあるのは、4枚。

そのうち3枚は、去年連絡が取れなかった。

1枚だけ、去年も同じ額を出した会社がある。

その1枚を、公文は手に取った。

神戸の会社だった。

今年は、電話が来ていない。

こちらからかけた。二度かけた。

一度目は呼び出し音が鳴って、出なかった。

二度目は、使われていない番号だという案内が流れた。

公文は名刺を裏返した。

数字が書いてある。

30キロで、12,550円。

公文はその名刺を、束のいちばん下に入れた。

入れて、輪ゴムで束ねた。

束ねて、引き出しに戻した。

9時20分に、携帯電話が鳴った。

座卓の上で、画面が光っている。

拓、と出ていた。

公文は電話を取った。

「もしもし」

「親父? 俺」

「おう」

「いま、大丈夫?」

「大丈夫や」

拓の後ろは、静かだった。部屋にいるらしい。

「あのさ、盆やけど」と、拓が言った。

「うん」

「今年、帰れんようになった」

「そうか」

「仕事が入って」

「ええよ」

拓は少し黙った。

「母さんに、言うといて」

「言うちょく」

また、間があった。

「親父」

「なんぞ」

「米、えらい安うなったらしいね」

公文は座卓の上を見た。

「ニュースで、やりよったか」

「やりよった。2,000円切ったとか」

「そうか」

「うちは、大丈夫なが?」

公文は口を開いた。

今年の仮渡金は、去年より4,000円下がった。30キロで7,350円になった。作るのに10,300円かかる。法人で、660万足りん。去年増やした2ヘクタールの分だけで、94万足りん。西内さんが、また作るなという話が出るろうと言いよった。あの人は昭和46年から作りよる。休ませた田は、金にならんでも草を刈らんといかん。来年は減らす方向でたたき台を作る。減らして、その先がどうなるかは、わからん。

「まあ、ぼちぼちや」と、公文が言った。

「そうなん」

「うん」

「ならええけど」

拓は少し笑った。

「親父、無理せんときや」

「せんよ」

「ほんなら、また電話するわ」

公文は口を開いた。

開いたが、何も出てこなかった。

「親父?」

「おう」

「切るで」

「おう」

通話が切れた。

公文は座卓の上に携帯電話を置いた。

置いて、テレビを消した。

暗くなった画面に、自分が映っている。

しばらく、そのままでいた。

11時前に、公文は作業服を着直した。

台所で靴下を履いていると、寝室から里美の声がした。

「行くが?」

「水、見てくる」

「ほどほどにしいや」

軽トラックのエンジンをかけた。

外は温い。日中と、三度も違わない。

用水路の分岐で停まり、懐中電灯を点けた。

水面に光を当てる。

水は、動いていた。

公文は水口の板を1枚起こした。

細い流れが田に入っていく。

指を浸すと、温い。

穂の並びに光を当てた。

普通期のコシヒカリが、出穂を始めている。

白い列が、闇の中に浮かんで、すぐ闇に沈む。

公文は懐中電灯を消した。

目が慣れると、田の輪郭がわかる。山の稜線もわかる。

星は出ていた。

30分待って、水位を見た。

2センチ。

板を戻す。

軽トラックに戻りながら、公文は独りごとを言った。

「まあ、来年やね」

言ってから、足が止まった。

去年も、同じところで言った。

その前の年も言った。

その前も、たぶん言った。

毎年、同じ場所で、同じことを言いよる。

何が来年なのか、今年は、わかっていた。

わかっていて、それでも、ほかに言うことがなかった。

公文は軽トラックのドアを開けた。

エンジンをかけ、次の田へ向かった。


第三十一章

2026年8月17日〜8月20日|編集局/島崎精穀/市内の郊外店|片岡瑞希(県紙記者)

8月17日の朝、横山デスクが片岡瑞希の席の後ろを通った。

通ってから、戻ってきた。

「片岡。米、どうなっちゅう」

瑞希は椅子を回した。

「安いです」

「なんぼな」

「県内の店で、5キロが1,980円です。特売やと、1,700円台が出ちょります」

横山は少し黙った。

「2年前、4,000しよったな」

「4,480円でした」

「半分以下か」

「半分以下です」

横山は椅子の背に手を置いた。

「2年やな」

「2年です」

「なんか書くか」

瑞希はメモ帳を開いた。

「書きたいと思っています」

「なにを書く」

「安すぎる、ということです」

横山は瑞希の顔を見た。

見て、自分の席に戻っていった。

その日の午後、瑞希は社内のデータベースを開いた。

自分の署名の入った記事を、年で絞る。

三本、出てきた。

一本目は、2024年8月20日。40行。

見出しは、県内スーパー コメ品薄続く 購入制限も。

瑞希は本文を最初から読んだ。

3軒のうち2軒で購入制限が行われていること。販売数量が前年の同じ時期を上回っていること。卸への入荷が例年より1割から1割5分少ないこと。県外業者による産地買い付けが増えていること。農協の仮渡金が前年比で4割強引き上げられたこと。県は流通に大きな支障はないとしていること。

読み終えて、瑞希はもう一度、最初から読んだ。

事実の誤りは、無かった。

不足していると断定した箇所も、無かった。

数字は、どれも当時の公表値と、当事者の発言のとおりだった。

訂正すべき事実は、一行も無かった。

二本目は、2024年12月23日。60行。

見出しは、コメはどこへ 県内倉庫を歩く。

農協の倉庫が例年より3割少ないこと。卸の倉庫が例年より多いこと。精米工場が1割多く持っていること。転売の規模が限定的であること。作柄が悪くないこと。全国の世帯が5キロを1袋余分に持てば25万トンになること。

瑞希は最後の段落を読んだ。

誰も隠していない。全員が、少しずつ持っている。

その一行も、直すところが無かった。

三本目は、去年の8月の三回連載だった。

一回目の見出しは、使われぬ袋22万枚 備蓄米、工場に届かず。

写真は、段ボールを下から見上げたものが使われている。

瑞希は三回目の本文を開いた。

効果を測る指標が、そもそも定められていない。

その一行を、しばらく見ていた。

三本とも、事実として直すところが無い。

瑞希は画面を閉じた。

閉じてから、また開いた。

一本目のウェブ版の閲覧数を出した。

二本目の閲覧数を出した。一本目の、十分の一に届いていない。

三本目の一回目は、二本目より少し多かった。二回目はその半分、三回目はさらに半分だった。

瑞希はその四つの数字を、メモ帳に書き写した。

書き写して、その下に一行足した。

事実に誤りはない。

書いてから、ペンを止めた。

止めて、その一行を丸で囲んだ。

8月18日に、瑞希は島崎精穀へ行った。

去年の7月以来だった。

国道沿いの工場で、シャッターが開いている。

中から、低い音がしていた。

事務所に入ると、島崎周平が伝票を見ていた。

「お久しぶりです」と、瑞希が言った。

「はい」

「動いていますね」

「動きよります」

島崎は伝票を置いて、立ち上がった。

瑞希は工場のほうを見た。

昇降機が回っている。包装機も動いていた。

パートらしい女性が二人、袋を段ボールに詰めている。

「忙しいですか」と、瑞希が聞いた。

「量は、あります」

「去年より」

「去年より、ようけ挽きよります」

瑞希は工場の東側を見た。

壁沿いに、段ボールが積んである。

去年の夏に見たときより、低い。

半分ほどの高さになっている。

「島崎さん」

「はい」

「あの袋は」

島崎はそちらを見た。

「半分は、処分しました」

「処分」

「産廃です」

瑞希はメモ帳を開いた。

「費用は、かかりましたか?」

島崎は答えた。

金額を言った。

瑞希はそれを書いた。

「残りは、どうされるんですか」

「置いちょります」

「使えますか?」

「使えません」

島崎は東の壁のほうへ歩いた。

瑞希はついていった。

箱の一つが開いている。中に、5キロの袋が入っている。

島崎は1枚取って、瑞希のほうへ向けた。

産年の欄に、令和3年産と刷ってある。

「捨てるにも、金が要ります」と、島崎が言った。

「はい」

「置いちょいても、減りません」

島崎は袋を箱に戻した。

瑞希は工場に戻る島崎の背中を見た。

「島崎さん」

島崎が振り返った。

「いま、量があるのは、なぜですか」

島崎は少し間を置いた。

「米が安いき、みんなよう買います」

「売れているんですね」

「売れよります」

「では、いいことですか?」

島崎は工場の中を見た。

機械が動いている。

「挽く量は、多いです」と、島崎が言った。「けんど、挽き賃は上がりません」

瑞希はメモを取った。

「下がっていますか?」

「下がっちょります」

「なぜですか」

「よそも安うするき」

瑞希はペンを止めた。

「島崎さん。去年の歩留まりは、84とおっしゃいました」

「言いました」

「今年は」

島崎は作業服の胸ポケットに手をやった。

やって、そのまま下ろした。

「87です」

「戻りましたか」

「少し戻りました」

「なぜですか」

「今年の米は、新しいき」

島崎はそれだけ言って、工場へ入っていった。

8月19日、瑞希は原稿を書いた。

書いたのは、次のことだった。

県内の店頭で、5キロの米が2年前の半分以下で売られていること。今年の早期米の仮渡金が30キロで7,350円と、前の年から4,000円下がったこと。県が示している生産費が30キロで1万円を超えていること。6月末の民間在庫が243万トンと、統計のある期間で最も多いこと。県内の作付面積が、来年に向けて減少する見込みだと複数の農業法人が答えていること。

瑞希は仮渡金の欄で、手を止めた。

7,350。

2年前に書いた記事に、その年の仮渡金の額が入っている。

1万円を少し超える額だった。

瑞希は二つの数字を、原稿の余白に並べて打った。

打ってから、消した。

消して、本文に戻った。

最後の段落を、瑞希は三度書き直した。

一度目は、2年前の高騰は誰の責任でもなかった、と書いた。

消した。

二度目は、今の安値は2年前の高騰の結果である、と書いた。

これも消した。

因果を一本の線で書けるほど、瑞希は確かめていない。

三度目に、瑞希はこう書いた。

2年前、店から米が消えたとき、隠している者はいなかった。いま、米は余っている。作った者の手取りは、生産費を下回っている。この2年で、誰かが罰せられたということも、誰かが得をしたということも、確認できていない。

そのまま出した。

8月20日の朝刊に、記事は載った。

50行。

経済面だった。

見出しは、整理部がこう付けた。

「コメ 2年で半値 産地は減反へ」

瑞希は紙面を広げて、その見出しを見た。

減反、という言葉を、自分は本文に書いていない。

書いていないが、間違ってもいない。

その日の午前10時に、瑞希は市の東側の郊外店へ行った。

続報のためではない。写真が1枚欲しかっただけだった。

駐車場は、平日の午前らしく空いていた。

店に入って、米の売り場へ向かった。

平台に、5キロの袋が積んである。

三段になっていた。

台からはみ出した分が、床にじかに積んである。

その横に、のぼりが立っていた。新米入荷、と書いてある。

値札は、1,980円だった。

その下に、赤い紙が貼ってある。

本日限り、1,780円。

瑞希はカメラを構えて、平台の全体が入る角度で2枚撮った。

値札が読める角度で、1枚撮った。

サービスカウンターへ行くと、細木がすぐに出てきた。

「片岡さん」と、細木が言った。

「おはようございます」

「今朝の記事、見ましたよ」

「ありがとうございます」

細木は笑っていた。

「2年で半値ですか」

「そうなります」

「うちも、そのとおりです」

瑞希はメモ帳を開いた。

「売れていますか?」

「よう売れよります。数量は、2年前より出ちょります」

「金額は」

細木は少し肩をすくめた。

「そこは、まあ」

「下がっていますか」

「下がっちょります」

瑞希はメモを取った。

「細木さん」

「はい」

「2年前の朝、開店前に30人並んだとおっしゃいました」

「並びました」

「今朝は」

細木は入口のほうを見た。

「ゼロです」

「ゼロですか」

「安いもんは、並ばんでも買えますき」

瑞希は礼を言って、店を出た。

車に戻って、シートに座った。

エンジンをかけずに、カメラの液晶画面を開いた。

今日撮った写真が出ている。

平台に、三段。床にも積んである。

瑞希は送りボタンを逆に押していった。

去年の写真が出た。段ボールの山。

その前が、去年の店頭。整理券の紙。

さらに戻ると、一昨年の冬の倉庫が出た。

そのまま戻していくと、一昨年の8月に着いた。

8月19日の写真。平台に、袋が20ほど。

8月20日の写真。平台に、何も無い。

瑞希はその2枚を出した。

それから、今日の写真を出した。

3枚を、順に送っていった。

20袋。

何も無い。

三段。

もう一度、逆に送った。

三段。

何も無い。

20袋。

瑞希は液晶を閉じた。

閉じて、スマートフォンで今朝の記事を開いた。

50行を、最初から最後まで読んだ。

事実の誤りは、無かった。

読み終えて、瑞希はもう一度、最初から読んだ。

やはり、無かった。

瑞希はスマートフォンを助手席に置いた。

置いて、エンジンをかけた。


第三十二章

2026年8月12日|高知〜神戸・10トン車の車中|竹村孝(長距離ドライバー)

8月12日の午前2時10分に、竹村孝は営業所の門を開けた。

外は28度だった。

夜になっても下がらない。アスファルトが熱を吐いている。

竹村は10トン車の周りを一周した。タイヤを蹴り、灯火を確認し、ミラーを拭く。運行前点呼のアルコール検知器に息を吹き込み、点呼簿に判を押した。

「竹村さん、今日は南国の倉庫からです」と、配車の浜口が言った。

「積み込み、何時から?」

「3時です」

「バース、空いちゅうがか」

浜口は端末を見た。

「2台入っちゅうみたいです」

「2台」

「はい」

竹村は点呼簿を閉じた。

「最近、多いね」

「多いです」

3時前に倉庫に着いた。

バースには、まだ2台入っていた。

竹村は駐車帯にトラックを停め、エンジンを切った。

窓を少し開けると、倉庫の中の音が聞こえる。フォークリフトの警告音と、パレットが床に当たる音。

外の空気が入ってくる。ぬるい。

3時20分。まだ出ない。

竹村はシートを倒して、目を閉じた。

4時5分に、2台目が出た。

竹村はバックでバースに入れた。荷台のシートを外し、あおりを開ける。

倉庫の中は明るい。

天井まで、パレットが積まれている。

去年の同じ時期に来たときより、多い。通路の幅が狭くなっている。

米だった。

30キロの紙袋が、パレットに横六段で積んである。

倉庫の担当者が出てきた。

「竹村さん、おはようございます」

「おはようございます。何パレットですか?」

「16です」

「16」

竹村は倉庫の奥を見た。

「ようけありますね」

「ようけあります」

「捌けよりますか?」

担当者は少し笑った。

「出ゆうことは出ゆうんですけど、入るほうも多いき」

積み込みが終わったのは、5時25分だった。

1時間20分かかった。

フォークリフトは、1台だった。

竹村はあおりを閉め、シートを掛け、ロープを締めた。

運転席に戻って、デジタコの記録を確認する。

営業所を出てから、3時間15分が経っている。

そのうち、運転していたのは40分だった。

高速に乗ったのが5時40分だった。

南国から入って、東へ。徳島を抜けて、淡路島を渡る。

法定の速度で走って、4時間半かかる。

4時間走ったら、30分の休憩を取る。

8時半に、淡路のサービスエリアに入った。

竹村はエンジンを切って、缶コーヒーを買った。

自販機の前で立って飲んだ。

朝の日が、駐車場のアスファルトに当たっている。

トラックが10台ほど停まっていた。

隣の車の運転手が降りてきて、同じ自販機でボタンを押した。

30くらいに見える男だった。

「暑いですね」と、男が言った。

「暑いです」

「どこまでですか?」

「神戸です」

「うちもです」

竹村は缶を持ち替えた。

「積んどるがは」

「米です」

「うちも米や」

男は少し笑った。

「今年、多いですよね」

「多いです」

「去年の今ごろは、そんなに無かったです」

竹村は自分のトラックのシートを見た。

「去年は、東北まで行った」

「東北ですか」

「行きが空でな」

男は缶を開けて、一口飲んだ。

「いまは、空で行くことはないですね」

「無い」

「荷は、あります」

男はそう言って、自分のトラックに戻っていった。

10時40分に、神戸の物流センターに着いた。

門で受付をして、番号札をもらう。

「52番です。呼ばれるまでお待ちください」と、警備員が言った。

竹村は待機場に入れた。

トラックが、23台停まっていた。

竹村はエンジンを切って、待った。

11時。呼ばれない。

12時。呼ばれない。

竹村は弁当を開けた。香代子が作ったものだ。冷めた卵焼きと、ウインナーと、白い飯。

飯を食いながら、竹村は窓の外を見ていた。

トラックが、また2台入ってきた。

1時10分に、番号が呼ばれた。

バースに着けて、シートを外す。

荷降ろしは向こうの作業員がやる。フォークリフトが2台入って、16パレットを降ろすのに30分かかった。

伝票にサインをもらい、竹村は運転席に戻った。

1時50分。

営業所を出てから、11時間40分。

待機に、2時間半かかっていた。

竹村は携帯電話で浜口にかけた。

「竹村です。神戸、降ろしました」

「お疲れさまです」と、浜口が言った。

「帰り荷は?」

少し間があった。

「無いです」

「4日連続やな」

「はい」

竹村はハンドルに手を置いた。

「浜口さん」

「はい」

「今年、米、安いらしいな」

「安いです。うちも家で買いよります」

「うちも安うなったって、嫁が言いよった」

竹村は缶の空を助手席に置いた。

「その米、わしが運びよる」

「そうですね」

「運賃、下がったか?」

浜口は少し黙った。

「下がってないです」

「そうか」

「はい」

竹村は前を向いた。

「ほんなら、なんで、わしの手取りが減りゆう?」

浜口は、今度は長く黙った。

「本数です」

「本数」

「はい」

「減っちゅうがか」

「減っちょります」

竹村は目を閉じた。

「なんで減る?」

浜口は答えるのに、少し時間がかかった。

「荷主さんから、運賃下げてくれ言われよります」

「なんでな」

「米が安うなったき、いう話です」

竹村は目を開けた。

「米が高いときは、上げてくれんかったで」

「上げてもろてません」

「ほんで、安うなったら下げてくれ言うがか」

「言われよります」

「断りよるがか」

「断りよります」

「ほんなら、ええやん」

浜口は少し声を落とした。

「断ったら、次の期の本数を減らされます」

竹村はしばらく、何も言わなかった。

「浜口さん」

「はい」

「それ、社長は知っちゅうがか」

「社長が断りよります」

「そうか」

「すみません」

「浜口さんが謝ることやない」

竹村は電話を切った。

高速に乗り直して、西へ向かった。

荷台は空だ。

空のトラックは、跳ねる。

段差を越えるたびに、後ろが軽い音を立てる。

竹村はこの音が嫌いだった。

4時前に、徳島の手前のパーキングで休憩を取った。

30分。決まりだからだ。

竹村はトイレに行って、自販機で茶を買って、運転席で飲んだ。

携帯電話が鳴った。

香代子からだった。

「もしもし」

「今どこ?」と、香代子が言った。

「徳島の手前や」

「今日、早い?」

「6時半には着く」

「ほんなら、ご飯あるき」

「うん」

「結衣、帰っちゅうよ」

「盆やもんな」

「あんた、あの子に何か言うた?」

竹村は茶のキャップを閉めた。

「何をな」

「奨学金」

竹村は、少し間を置いた。

「聞いちょらん」

香代子は電話の向こうで息を吐いた。

「そう」

「借りたがか」

「借りた。春から」

「わしは聞いちょらん」

「言うたら反対するき、って」

竹村は前を向いたまま、何も言わなかった。

「帰ってから、話しいや」と、香代子が言った。

「わかった」

電話を切った。

6時40分に、営業所に戻った。

点呼を受けて、日報を出す。

浜口が待っていた。

「竹村さん、お疲れさまです」

「うん」

「明日も、南国です」

「同じ倉庫か?」

「同じです。3時積みで」

竹村は日報にペンを走らせた。

走行距離。拘束時間。休息期間。

書きながら、下の余白に数字を書いた。

一昨々年、460万。

一昨年、430万。

去年、415万。

今年は、そこから、また落ちる見込みだった。

竹村はその四行を、線で消した。

消して、日報を提出箱に入れた。

家に着いたのが7時前だった。

風呂に入って、飯を食った。

結衣は、食卓に座っていた。大学の2年になる。髪が短くなっていた。

「おかえり」

「おう」

「暑かったやろ」

「暑かった」

飯を食い終わって、香代子が茶碗を下げた。

竹村は湯呑みを持った。

「結衣」

「なに?」

「奨学金、借りたがか」

結衣は湯呑みに手をかけたまま、少し止まった。

「借りた」

「なんで言わん」

結衣は湯呑みを両手で持った。

「言うたら、お父さん、もっと働くやん」

竹村は結衣の顔を見た。

結衣は下を向いていた。

「働くわ」

「やろ」

「働くけんど」

竹村はそこで、言葉を切った。

「働いても、増えんがよ」

結衣は顔を上げた。

「増えんが?」

「増えん」

竹村は湯呑みを置いた。

「時間が決まっちゅう。走れる時間が決まっちゅうき、それ以上は増やせん」

「そうなん」

「そうや」

結衣はしばらく黙っていた。

「お父さん」

「なんぞ」

「あのとき、県内にしとったら、よかったが?」

竹村は湯呑みを取って、茶を飲んだ。

飲んで、置いた。

「そんなこと、言うな」

「けんど」

「行きたいとこに行ったがやろ」

「行った」

「ほんなら、それでええ」

結衣は湯呑みを両手で持ったまま、動かなかった。

「お父さん」

「なんぞ」

「ありがとう」

竹村は立ち上がった。

「風呂、沸いちゅうき、入り」

「うん」

結衣は二階へ上がっていった。

竹村は食卓に一人残った。

香代子が台所から出てきて、向かいに座った。

「言えた?」

「言うた」

「なんて」

「行きたいとこに行ったがやろ、て」

香代子は湯呑みを持った。

「あんた、大丈夫?」

「なにが」

「お金」

「なんとかする」

「なんとか、ゆうても」

「なんとかする」

香代子はそれ以上言わなかった。

テレビがついている。

夕方のニュースの再放送で、米の話をしていた。

スーパーの棚が映っている。

積んであった。

平台に三段、床にも積んである。

アナウンサーが、2年前の半分以下の価格になったと読んだ。

買い物客が映って、安くなって助かる、と言っていた。

竹村はテレビを見ながら、今日運んだ16パレットのことを思い出していた。

480袋。

あれは、今ごろ、どこかの店の棚に並んでいるはずだ。

並んで、たぶん、まだある。

竹村は湯呑みを置いた。

「香代子」

「なに?」

「明日も3時や」

「早いね」

「早い」

竹村は立ち上がって、風呂場の脱衣所で作業着を畳んだ。

寝室の目覚ましを、1時40分に合わせた。


第三十三章

2026年8月17日〜8月31日|高知県庁 産地・流通課/安芸|有澤志穂(県産地・流通課課長補佐)

8月17日の午後、国から通知が来た。

有澤志穂はそれを印刷した。

政府備蓄米の買入れについて。

数量が書いてある。

買戻し条件付きで売り渡した分の買戻しと、そのほかの買入れを合わせた数量だった。

志穂は2枚目をめくった。

買入れの対象になる事業者の要件。応募の手続き。期限。

3枚目に、都道府県への依頼が一行あった。

管内の集荷業者及び生産者団体への周知方、よろしくお願いいたします。

志穂はその行に線を引いた。

「久保くん」

「はい」

久保が席から顔を上げた。3年目になる。

「買い戻しの通知が来た」

「買い戻し、ですか」

「去年の備蓄米。売った分を、国が買い戻す」

久保は資料を受け取って、目で追った。

「これ、去年の条件に入ってたやつですね」

「そう」

「1年以内、でしたよね」

「延びちゅう」

「延びたんですか」

「5年以内になった」

久保は資料をめくった。

「有澤さん」

「なに?」

「これ、国が米を買うんですよね」

「買う」

「いま、米は余ってますよね」

「余っちゅう」

「余ってるときに国が買ったら、どうなりますか?」

志穂は資料を机に置いた。

「市場に出る量が減る」

「減ったら」

「値は、上がる方向に行く」

久保はメモを取った。

取ってから、顔を上げた。

「去年と、逆ですね」

「逆やね」

「去年は、出したら下がるはずでした」

「そう」

「今年は、買ったら上がる」

志穂は答えなかった。

答えないでいると、久保が言った。

「上がりますか?」

「わからん」

翌日、志穂は周知の文書を起案した。

県の様式を開く。

上に県のマークが入り、その下に標題、宛先、本文、問い合わせ先が並ぶ。

志穂は標題を打った。

政府備蓄米の買入れに係る応募の周知について。

本文に、国の通知の要点を写した。

数量。要件。手続き。期限。

打ち終えて、志穂は最後の行を見た。

行が、一つ空いている。

志穂はファイルを一度保存して、別のフォルダを開いた。

2年前の8月のフォルダだった。

原稿が一つ入っている。

南海トラフ地震臨時情報を踏まえた家庭内での備えについて。

最終更新は、2024年8月8日の22時14分になっている。

志穂はそれを開いた。

同じ様式だった。県のマーク。標題。本文。問い合わせ先。

本文の三行目に、こう入っている。

飲料水や食料について、1週間分程度を目安に、日ごろから備えておくことが望まれます。

志穂はその一行を、しばらく見ていた。

書き足した行だった。

出す前に一度消して、また書いた。書いて、そのまま出した。

いまも、消していない。

志穂はファイルを閉じた。

閉じて、今日の起案に戻った。

空いた行に、カーソルを置いた。

打った。

なお、本件への応募は、本県産米の需給の安定に資するものと考えられます。

打ち終えて、志穂はその行を読んだ。

読んで、もう一度読んだ。

この一行を入れれば、読む人は応募する。

応募すれば、米が動く。

動けば、値が上がるかもしれない。

上がれば、去年より手取りが増える。

志穂はキーボードから手を離した。

離して、椅子の背にもたれた。

2年前も、同じことを考えた。

書けば、備える。備えれば、助かる。

志穂は手を戻した。

一行を、選択した。

消した。

消したあと、しばらく画面を見ていた。

空いた行が、そのまま空いている。

志穂は文書を保存して、決裁に回した。

8月21日から、電話が増えた。

一本目は、県内の農業法人だった。

「国が買うてくれるいう話は、ほんまですか」

「はい。買入れの公募が出ております」

「なんぼで買うてくれますか」

志穂は資料を見た。

「価格は入札で決まります。県では把握しておりません」

「うちも出せますか」

「応募できるのは、要件を満たす集荷業者です。生産者の方は、出荷先の団体にご相談ください」

「農協ですか」

「そうなります」

相手は少し黙った。

「農協に出しちょったら、ええがですか」

「そこは、農協さんにご確認ください」

「県は、わからんがですか」

「わかりません」

その電話も、それで切れた。

二本目は、県外の業者だった。

三本目は、市の農林課だった。

四本目は、県議の事務所だった。

内容は、どれも同じ形をしていた。

いくらで、どれだけ買ってくれるのか。

志穂は、そのどれにも答えられなかった。

森下が席に来た。

「有澤さん。問い合わせ、どればあ来ちゅう」

「今週で、30本を超えました」

森下は腕を組んだ。

「2年前と、似ちゅうね」

「似ています」

「あのときは、無いゆう話やった」

「今度は、余っちゅう話です」

森下は少し笑って、それから笑うのをやめた。

「有澤さん」

「はい」

「県は、なにをするが」

「情報提供です」

「情報、あるが?」

志穂は資料を揃えた。

「ありません」

8月26日の午後、片岡瑞希が県庁に来た。

会議室で、向かい合って座った。

「買い戻しの件で伺いました」と、片岡が言った。

「はい」

「県内から、どれくらい応募が出ていますか」

「県では把握しておりません」

「県別の数量は」

「示されていません」

片岡はメモを取った。

取ってから、ペンを置いた。

「有澤さん」

「はい」

「ここからは、記事にしません」

志穂は片岡を見た。

「どうぞ」

片岡は少し間を置いた。

「2年前の8月に、県が出した呼びかけの文書があります」

「あります」

「1週間分程度、と書いてあります」

「書いてあります」

「あれを書かれたのは、有澤さんですか」

志穂は答えた。

「私です」

片岡は頷いた。

「あの文書が出たのは、8日の夜です」

「はい」

「県内のスーパーから米が消えたのは、その次の週です」

「そうです」

片岡はメモ帳を閉じた。

「有澤さん。あの一行が無かったら、違いましたか?」

志穂は少し黙った。

「わかりません」

「わかりませんか」

「はい」

片岡はテーブルの上で手を組んだ。

「私も、わかりません」

志穂は片岡を見た。

「私は、8月19日に、店の棚の記事を書きました」と、片岡が言った。「40行です」

「読みました」

「翌朝、その店の開店前に、30人並んでいました」

志穂はテーブルを見た。

「書いたことに、誤りはありませんでした」と、片岡が言った。「いま読み返しても、訂正するところがありません」

「そうでしょうね」

「有澤さんの文書にも、誤りは無いと思います」

「無いと思います」

二人とも、しばらく何も言わなかった。

「片岡さん」と、志穂が言った。

「はい」

「一つ、聞いてもいいですか」

「どうぞ」

「あの記事を、書かないという選択はありましたか」

片岡は即答した。

「ありませんでした」

「なぜですか」

「棚が空いていたからです」

志穂は頷いた。

片岡がペンを取り上げて、また置いた。

「有澤さん」

「はい」

「2年前に戻れるとしたら、あの一行を書きますか?」

志穂は、答えるまでに少し時間がかかった。

「書くと思います」

「書きますか」

「書きます」

「なぜですか」

志穂は片岡の顔を見た。

「あのとき、地震が来ていたかもしれないからです」

片岡は何も言わなかった。

しばらくして、メモ帳を鞄に入れた。

「ありがとうございました」

「記事は、どうされますか」

「買い戻しの数量と、手続きだけ書きます」と、片岡が言った。「いま伺ったことは、書きません」

「そうですか」

片岡は立ち上がった。

立ち上がってから、言った。

「有澤さん」

「はい」

「2年前に、私と有澤さんが別々に同じ計算をしていたことがあります」

「ありました」

「あれ、結局、どちらも自分の名前では出しませんでした」

「出しませんでした」

片岡は少し笑った。

「いまでも、出せないと思います」

「私もです」

片岡は頭を下げて、会議室を出ていった。

8月30日の日曜、志穂は安芸に帰った。

母は縁側で新聞を読んでいた。

「志穂か」

「うん」

「あんた、これ見た?」

母が新聞を持ち上げた。米の記事だった。

「見た」

「安いね」

「安いね」

志穂は台所に入って、冷蔵庫を開けた。

それから、床下収納の蓋を開けた。

5キロの袋が、三つ入っていた。

志穂は蓋を持ったまま、それを見ていた。

「お母さん」

「なに?」

母が台所に来た。

「三つある」

「買うたき」

「買うたが?」

「安うなったき、また買うた」

志穂は袋を一つ引き出した。

新しい袋だった。裏を見ると、精米年月日が今月になっている。

奥の二つを引き出した。

一つは、2年前の8月のものだった。

もう一つも、同じ日付だった。

「お母さん」

「なに」

「これ、2年前のよ」

「そうやね」

「食べんが?」

母は流しの前に立った。

「置いちょく」

志穂は2年前の袋を床に立てた。

立てて、鋏を取った。

「志穂」

「なに?」

「なにするが」

「炊く」

母は何か言いかけて、やめた。

志穂は袋の口を切った。

米びつに空けた。

ざあ、という音がした。

粉のような匂いが立った。

志穂は指で米をすくって、蛍光灯にかざした。

白い。少し粉が吹いている。

虫は、いなかった。

3合を量って、研いだ。

いつもより、水を多めにした。

夕方に、二人で食べた。

母が一口食べて、茶碗を持ち上げた。

「ちょっと古いね」

「古いね」

「けんど、食べれる」

「食べれる」

志穂は自分の茶碗を見た。

見て、もう一口食べた。

食べ終わって、志穂は流しで茶碗を洗った。

洗ってから、床下収納の蓋を開けた。

袋が、二つ入っている。

2年前のものが一つと、今月のものが一つ。

志穂は蓋を閉めた。

9月1日の朝、志穂は自席の引き出しを開けた。

付箋が2枚入っている。

25万トン。

21万トン。

志穂はそれを机に出した。

新しい付箋を1枚取って、ペンを持った。

243万トン、と書いた。

3枚を、並べて置いた。

しばらく、そのまま見ていた。

久保が向かいの席から顔を出した。

「有澤さん。おはようございます」

「おはよう」

「それ、なんですか?」

志穂は3枚の付箋を見た。

「メモ」

「なんのメモですか?」

志穂は少し考えた。

「動かんかった米の量」

久保はよくわからないという顔をした。

「動かなかった、ですか」

「そう」

「三回ともですか」

「三回とも」

電話が鳴った。

志穂は付箋を3枚とも引き出しに入れて、受話器を取った。

「はい、産地・流通課です」


終章 一袋

7,350


2026年8月22日|神戸のスーパー|名前のない女性

8月22日の夕方、女はスーパーの自動ドアを抜けた。

冷たい空気が顔に当たった。外は34度だった。

下の子が、うしろからついてきた。背が伸びている。

カートを引き出し、青果の売り場から入る。

きゅうりを三本。トマトを1パック。

通路を曲がった。

飲料の棚は、埋まっていた。

角を曲がったところが、米の売り場だった。

平台に、5キロの袋が積んである。

三段になっていた。台からはみ出した分が、床にじかに積んである。

横に、のぼりが立っていた。新米入荷、と書いてある。

女は値札を見た。

1,980円だった。

その下に、赤い紙が貼ってある。

本日限り、1,780円。

「安いね」と、女が言った。

下の子が平台を見た。

「安いん?」

「安い」

女は袋を一つ持ち上げた。

裏を返して、表示の欄を見た。

産地、兵庫県。産年、令和8年。

精米年月日は、4日前だった。

女はそれをカートの下段に置いた。

一つだけ置いて、カートの取っ手を握り直した。

隣に、2キロの袋が並んでいる。

女はそちらを見なかった。

精肉の売り場で、豚こまを2パック。鶏もも肉を1パック。

牛乳を一本。豆腐を2丁。

レジは5台のうち4台が開いていて、列は二人ずつだった。

女は左の列についた。

前の人のカートの下段に、米が載っていた。

その前の人には、載っていなかった。

順番が来た。かごを台に上げ、米は下段のまま通す。

「袋、一つで大丈夫ですか?」と、店員が言った。

「はい」と、女が答えた。

下の子が、袋詰めの台で牛乳を袋に入れた。

駐車場で、後部座席に米を1袋置いた。

助手席に下の子が乗った。食料の袋を膝に載せている。

女は運転席に乗った。

エンジンをかけると、ラジオがついた。

米の話をしていた。

新米の価格が2年前の半分以下になっていること。産地に支払われる前払い金が、30キロあたり7,350円まで下がったこと。生産にかかる費用が30キロで1万円を超えていること。

女はラジオを消さなかった。

車を出して、国道に入った。

信号で停まったところで、続きが流れた。

来年の作付面積が減る見込みであること。

女は前を見ていた。

下の子が窓の外を見ている。

信号が青になった。

家に着いたのが6時20分だった。

エンジンを切ると、ラジオも切れた。

途中だった。

女は米を持ち、下の子が食料の袋を持って、玄関に入った。

台所の米びつは、床に置いてある。

蓋を開けると、半分ほど残っていた。

女は流しの下の扉を開けた。

奥に、何も入っていない。

鍋と、洗剤と、ごみ袋。

その奥の場所が、空いている。

女は今日買った袋を、そこに横にして入れた。

一つだけ入れて、扉を閉めた。

米びつから米を量って、研いだ。

7時10分に、飯が炊けた。

上の子と下の子が食卓についた。

女は茶碗に飯をよそった。

下の子が一口食べた。

顔は上げなかった。

上の子も、何も言わなかった。

女は自分の茶碗の飯を見た。

見て、一口食べた。

それから、豚こまの皿を真ん中へ寄せた。

「食べや」

「うん」

食べ終わって、女は流しで茶碗を洗った。

洗いながら、換気扇の音を聞いていた。

上の子が二階に上がる音がした。下の子はテレビをつけた。

女は水を止めて、布巾で手を拭いた。

米びつの蓋の上に、計量カップが置いたままになっている。

女はそれを取って、米びつの中に戻した。

蓋を閉めた。


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