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「スカイ・クロラ」小説と映画を比較してみた
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原作・森博嗣,映画監督・押井守『スカイ・クロラ』
原作小説も映画も,どちらも好きな作品です.
結末や「世界観」が微妙に違うのもいい味が出ています.
※でも原作者の森氏いわく,「“世界観”って何のこと?」とのことですが(森博嗣 著『自由をつくる自在に生きる』より)
けっこう有名な作品なので,これを分析比較したサイトやブログも多いのかと思います.
それらでどんな考察や解釈をしているのか,見ていないまま書いちゃうので,以下の記述は重複するところもあるかもしれません.
普通にストーリーの違いを比較している人は多いかと思います.
ここはひとつ,2人の作者が “作品に込めた想い(みたいなもの?)” に違いがあると感じましたので,それを私なりに比較してみました.
ということで,
小説と映画はもちろん,お二人がそれぞれの作品について語った,もしくは関連があるのではないかと思われる著書を持ち出してきました.
まずは映画.
押井守氏が映画公開に先駆けて出した『凡人として生きるということ』によると,
「『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』は,今の僕が若者に向けて放つメッセージである.映画監督としては精一杯に本質をえぐり出し,若者たちの置かれた状況を映画に投影したつもりだ」
とのこと.
で,その若者たちの置かれた状況というのは,どんな状況なのかというと,
「昔の若者は判断できないから,何でもかんでも,無分別に手を出し,挑戦した.それで何度も失敗し,そこから学んでいった.今の若者は無判断なのは同じだが,何に対しても手を出さなくなった.これでは,学ぶ機会さえも自ら放棄してしまったも同然である.すると,彼らは一生オヤジにもなれず,年だけは取っていくのに,中身はいつまでものっぺりとした若者のままでいることになる.」
ということなのでしょうか.
この記述はスカイ・クロラに言及している部分ではないのですが,押井氏の「若者論」なのでしょうし,実際に映画で訴えたかったことだと私は汲み取っています.
また,
「何連敗,何十連敗してもいいではないか.何度も負けても,勝負を続ける限り,いつかはきっと一勝できる日はやってくる.」
「どんな結末を迎えるにしても,何もせず,すべてを保留した生き方より,はるかにそれは豊かな人生だったといえるだろう.」
というのは,映画でのラストのドッグファイト・シーンとして表現されているのかもしれません.
実は原作者の森博嗣氏については,私は小説ではなくその他の書籍を先に読んでいました.
上記で紹介した『自由をつくる自在に生きる』や,『大学の話をしましょうか』,『喜嶋先生の静かな世界』などです.
同じ大学教員,そして研究者として森氏の考え方に共感する部分が多く,参考にさせてもらっていました.
以前にも
などで記事にしております.
なので,件の小説『スカイ・クロラ』とか,『すべてがFになる』などのミステリー小説を読んだ時は,「森先生の考え方が滲み出ている,“らしい” 小説だなぁ」というのが私の印象なのです.
ではどこが違うのかというと,この「子供のままであり続けることを宿命づけられた“キルドレ”」という設定に込められたテーマです.
押井監督の映画『スカイ・クロラ』は,「いつまでも子供のままでいるな」といったテーマであるのに対し,森先生は「いつまでも子供のままでいたい」というテーマなのではないかと.
小説『スカイ・クロラ』を読み解く上で重要だと思われる森氏の著作として『喜嶋先生の静かな世界』をあげておきましょう.
「つまらない雑事ばかりが押し寄せる.人事のこと,報告書のこと,カリキュラムのこと,入学試験のこと,大学改革のこと,選挙,委員会,会議,会議,そして,書類,書類,書類・・. —中略— 今は,いろいろなことを考える.それは,大人になったとか,一人前になったとか,バランスの取れた社会人になったとか,家庭を持ち,人間として成熟したとか・・・,そういった言い訳の言葉でカバーしなければならない寂しい状態のこと.僕はもう純粋な研究者ではない.僕はもう・・・.」
この『喜嶋先生の静かな世界』における主人公のモノローグ,「スカイ・クロラ」シリーズの登場人物である草薙水素のモノローグと凄く重なるんです.
以下はスカイ・クロラシリーズの『ナ・バ・テア』での草薙水素のモノローグです.
「僕たちは,普通の人間じゃないのだろうか?少なくとも,普通の大人ではない. —中略— きっと僕たちは妬まれているのだ.みんな子供のままでいたかったのに,嫌々大人にならざるをえなかったから,羨ましいのだろう.」
なんか,
その,
この人,ホントに研究者だなぁって思います.
大学の先生とか,研究者ってこういう人が多いんですよ.
すごく分かる気がする.
すごく分かる気がする.
つまり,「子供(若者)のままでいいじゃないか.それが幸せな人もいるんだし」的なメッセージです.
そして,これが一番重要なんですけど「そういう人たちを理解することも大事だよ(私たちみたいな人も理解してほしい)」と.
『大学の話をしましょうか』でも森氏が自ら引用しているのですが,『喜嶋先生の静かな世界』で訴えたかったのは実際ここでして,以下はとある2人の登場人物の会話です.
「でもね,社会の人って,みんな,そういうことを,もの凄く知りたがっているんだよ.君みたいに,構成方程式の一般形がどうのこうのって,そんなことには興味はないわけ.それよりもね,あの人とあの人はどうして仲が悪いの,どうしてあんなに仲が良いの,あの態度はどういうつもりなの,何を考えているの,なにか隠し事をしているんじゃないの,そんなことばっかり一所懸命考えて,一所懸命話し合っているんだよ.おかしいでしょう?絶対おかしいよね.
おかしくはないよ.興味の対象っていうのは,人それぞれ,自由だと思うし.
そう,それが正しい.でもね,違うの.世間の大部分の人はね,貴方みたいな数式ばかり考えている人は,頭がおかしいって思ってるわけ. —中略— みんなが変なんだよ.数式を一所懸命考えている人って,みんなのことを認めているのに,人間の心がどうこうって言う人は,数式を考えている人を認めないじゃない」
という感じ.
以上が小説と映画における “メッセージ” とか “考え方の下敷き” の違いを私なりに妄想したものです.
ただ,このお二人は「自由」ということについては考え方が似ているようで.
上記でも引用させてもらっている森博嗣『自由をつくる自在に生きる』と押井守『凡人として生きるということ』では,「自由」について語る部分では内容がほぼ一致.
「自由」な状態などない
自由とはつまり「自在に生きる」
ということ
結局,お二人の哲学が,これら著書のタイトルより汲み取れちゃったりするわけです.
森氏は「“変人として” 自由に生きるとはどういうことか」
であり,
押井氏は「“凡人として” 自由に生きるとはどういうことか」
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