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科学者や専門家のあいだで見解が分かれている,っていうのは当たり前のことだ

前回の記事,
に関連して,今回の「新型コロナ騒動」のような事態に向き合う上で大切だと思うことを1つ.

上記記事で紹介した評論家の方々が口にするものに,

「科学者や専門家のあいだでも見解が分かれている.科学的なコロナ対応なんてものは不可能」

だとか,

「飛行機の操縦についてはパイロットに任せるべき.飛行機が墜落しそうだからって,素人がしゃしゃり出て口をはさんではいけない」

といったものがあります.


もちろん,これはある文脈においてはその通りだと思うし,私も似たような表現を使うこともあります.

しかし,こうした考え方は,新型コロナ対応における評論のすべてに当てはまるものではありません.

まず,何かの事柄について「科学者や専門家のあいだで見解が分かれている」というのは当たり前のことです.
見解が一致していることの方が珍しいでしょう.

ましてや,「だから科学的なコロナ対応は不可能」とか,「蓄積されたデータを分析しても未来予測はできない」などと断じることは非常に危ないと思います.

これは新型コロナに限らず,あらゆる問題で同じことが言えます.


この点について,日本だけでなく,多くの国々で混乱を生んでいる原因は,

「様々な領域からの科学的な見解を,広く多角的に開示した上で議論し,意思決定する」

という手順をとらなかったことです.


たしかに煩雑で面倒な手順だし,緊急事態においてこれらの手順をすっ飛ばして仕事をしたかった,という言い訳は当然あるのでしょう.
しかし,これをすっ飛ばしたことのツケは非常に大きかった.

繰り返しますが,未経験の事態や現象を前にして,科学者や専門家の見解が一致することなどありません.
ましてや,その解決策や対応方法についての具体案など,てんでバラバラでしょう.

ですから,今回の新型コロナ騒動のような危機に際して,国・政府がやらなければいけなかったのは,
(1)様々な領域の科学者や専門家に意見を出させて,
(2)それらの見解を国民に向かって公開・開示し,
(3)その上で国家・政府として,カクカクシカジカの理由でこの方策を採用する
といった手順をとることでした.

逆に,結論としての「方策」だけを国民に提示しても,政府に雇われた専門家以外の専門家から異議申し立てが出るのは当たり前だし,専門家じゃない人からの不服・不満が噴出しやすくなるのは当然のこと.

さらに言えば,方策を出している政府・為政者としても「専門家の意見を聞いてやっています」などと言ってしまえば責任逃れが容易です.
で,日本の政府では実際にそういう事態になっている.


「未曾有の危機を前にしたら,科学的な対応は不可能」
などと諦めるのも早合点というものでしょう.
どんなときも科学的なデータは必要不可欠です,少なくとも現時点の人類文明においては.

事実,ロックダウンしたり活動自粛したりしても,感染者増加の動きとは相関しないことが多いのが,新型コロナ騒動のやっかいなところでした.
逆に言えば,ロックダウンや活動自粛といった振る舞いには,科学的な根拠は見いだせないことを意味します.

その上で頑なにロックダウンや活動自粛を叫ぶのは,それこそ「欲しがりません勝つまでは」の精神であり,「竹槍でB29を撃ち落とす」の姿勢ではないでしょうか.


専門家の見解に素人が口を出すな,というのも言い過ぎの感がありますね.
だいたい,どこからどこまでが「専門家」なのか? そもそも,専門家として招聘されたその人物は,本当に専門家足り得るのか? という問題もある.

墜落しそうな飛行機を立て直すためには,パイロットに任せて素人は引っ込んでおくべきだ,というのはその通りだし異論はないのですが,パイロットと言ってもたくさんいます.
墜落しないための対策は,パイロットが違えばやり方も違うことは十分にあるでしょう.

それに,飛行機と一口に言っても,ジャンボ旅客機やセスナ機,戦闘機やウルトラライトプレーンなどいろいろです.
それらの違いによって,とるべき方策も違うでしょうから.


別に彼ら「活動慎重派」「自粛容認派」の言論人・評論家の揚げ足取りをしたいわけではありません.
世の中には,いろいろな考え方と生命観,文化観,思想信条を持っている人がいて,そうした人々と折り合いをつけて生きていくのが「社会」というものです.

だからこそ国家と政府は,現在のような「活動自粛の徹底」や「人流の抑制」を指示するのであれば,そうした指示内容に反する理論やデータも踏まえた上で,「それでもカクカクシカジカの理由で自粛をしてもらう」と述べるための,根拠や目標値を示すべきでした.


最後に,私が「慎重派」「自粛派」とされる人たち,より具体的に言えば「感染リスクを可能な限り下げる」ことを大事にする人たちに言いたいのは,
「リスクを可能な限り下げる」
という考え方は思考停止に陥る非常に危険なものだということです.

そんなこと言うと,
「別にリスクゼロを目指しているわけではない」
といった反論が返ってきそうですが,だとすれば,じゃあどれくらいのリスクや犠牲だったら許容できるのか考えてほしいのです.

けど,「可能な限り下げる」という思想のもとでは,これに回答できません.
だったら,それは事実上の「リスクゼロ思想」に他ならないでしょう.

例えば私なら,例年の感染症患者および死亡者の推移から,1年間の新型コロナ感染者100万人程度,死亡者10万人程度というのが適当なところだと考えていますが,別にこの数字に絶対的な正解はありません.

なんでもいいんです.
死亡者が50万人でもいいし,1000人でもいい.
我々政府は,これだけの犠牲者に抑えるために様々な方策をとり,その範囲内で経済・文化・教育・レジャー活動を展開するよう調整していく,と言って数字を出してくれれば,一般国民や専門家から出る不満も幾分やわらぐでしょう.

逆に,「可能な限りの対応をする」などといった,仕事のできない営業マンみたいなことを叫ばれても,その目標達成のための判別基準は人によってバラバラです.


私が昨年からこのブログで新型コロナ騒動を取り上げるなかで,繰り返しているのはこの点です.
自粛する必要はないとは言わないし,マスクせず飲食店で酒飲んでも私は一向に構わないと思っています.
私が問題視しているのは,この「どこまでのリスクと犠牲を許容するのか」という覚悟が,政府に無いことです.


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