注目の投稿

舌切雀 ―― 潮鳴館連続事故殺人事件

第一章 弓島

1

 連絡船の甲板(かんぱん)は、十人も立てば窮屈になるほど狭かった。

 白いペンキの剥げかけた手すりに寄りかかり、私は流れていく瀬戸内の海を眺めていた。凪いでいる、と言っていい。うねりはほとんどなく、船の起こす波だけが白く割れて、後ろへ長く伸びていく。ただ、水の色がどこか濁って重たかった。青でも緑でもない、灰色を一滴落としたような色だ。遠くの島影の上には、白でも灰でもない妙な色の雲が、平たく積み上がっていた。

 午後2時を回ったところだった。日差しはまだ強い。デッキの鉄板は熱を持っていて、靴底から伝わってくる。それなのに、風だけが妙に涼しかった。

「ええ天気にゃあ見えますけどねえ。夜には荒れますよ」

 隣で同じように海を見ていた老人が、誰にともなくそう言った。

 仕立てのいいリネンのジャケットに、使い込まれた革の鞄。七十に近いだろうか。背筋がまっすぐで、皺(しわ)の刻まれた顔に人の好い笑みが浮かんでいる。潮風で乱れた白髪を、手のひらで撫でつけるでもなく放っておくあたりに、身なりに気を遣う人間の余裕があった。

「台風、そんなに近いんですか」

「進路が読めんのですわ。四国の南で足踏みしとる。こういうのが一番いけません。動いてくれれば、いつ来るかがわかるんですがね」

 老人は鞄から折り畳んだ新聞を取り出し、天気図の面をこちらへ向けた。指先が黒く汚れている。インクではなく、長年何かを扱ってきた者の指の色だった。爪が短く切り揃えられている。

「四国の南、というと」

「まだ遠いですよ。ただ、こういう年は、島の連中がみんな早めに支度を始めます。港に船を上げるでしょう。あれを見れば、天気予報より確かです」

 彼は新聞を畳み直し、鞄の同じ場所に戻した。動作に無駄がない。

「弓島にお泊まりで」

「ええ。潮鳴館という宿に」

「わたしもですよ。宮下(みやした)といいます」

 名刺は出さなかった。その代わりに彼は、私の隣に立つ妻をちらりと見て、目を細めた。

「奥様、さっきから船の風向きばかり気にしてらっしゃる」

 小春(こはる)は手すりに軽く両手を置いたまま、鼻の頭をわずかに上へ向けていた。船が舵(かじ)を切って、風が右舷(うげん)から回り込んできたところだった。髪が顔にかかっても、彼女はそれを払わなかった。

「ええ。西から風が回ってきましたでしょう。今、島のほうから、いい匂いがしましたの」

「ほう」

「薪の匂いだわ。それも、今日燃やし始めたばかりの匂いじゃない。何日も、何ヶ月も、同じ場所で焚き続けている匂いです」

 宮下老人の目が、そこで初めて本気になった。人の好い笑みはそのままだったが、視線の焦点が一段深いところへ移った。

「……よくおわかりだ。潮鳴館(しおなりかん)は薪火(まきび)の店です。窯(かま)を落とさんのですよ、1年中」

「まあ。それは素敵ですねえ」

 小春はふわりと笑った。船の上の風に髪が乱れても、彼女の横顔は驚くほど崩れない。

 私はその横で、ひっそりと胃のあたりに手を当てていた。

 妻がこういう顔をするとき、私は反射的に身構える癖がついている。1年前の4日間以来の習性だ。四国の山奥、笹鳴館(ささなきかん)。吊り橋が落ち、圏外になり、五人が死んだ。世間ではあれを「天才シェフによる連続密室殺人」と呼んでいる。

 そういうことになっている、というだけの話である。

「真悟(しんご)さん、顔が白いわよ。船に酔ったの?」

「いや……大丈夫。ちょっと寝不足でね」

「もう。せっかくの旅行なんだから、しっかりしてちょうだいな」

 しっかりしろ。まったくその通りだ。今回は何もない。ただの島の宿である。政治家も実業家もいなければ、吊り橋もない。ポケットの中のスマートフォンは、さっき確かめたときアンテナを三本立てていた。

 あれは異常事態だった。人生に一度の事故のようなものだ。二度は起こらない。

 起こるはずが、ないのである。

 やがて船首の向こうに、緑の斜面がせり上がってきた。

 弓島(ゆみじま)。人口は二百人を切っていると聞いた。斜面を段々に削った柑橘(かんきつ)の畑が、島の南面を上から下まで覆っている。石垣で組まれた段が、等高線のように何10本も横に走っていた。

 ただ、近づくにつれてわかった。畑の三割ほどは、木が黒くなって放置されている。葉が落ち、枝だけが残って、緑の中に錆びたような色の帯を作っていた。石垣の一部は崩れ、そこから土が舌のように流れ出している。

「5年前までは、あの斜面が全部生きとりました」

 宮下老人が、鞄の留め金を留めながら言った。

 その声の温度が、それまでとわずかに違っていた。私は聞き返そうとしたが、船が減速し、エンジンの音が急に大きくなって、言葉は海風に散った。

2

 桟橋(さんばし)には、日に焼けた男が一人立っていた。

 三十半ばくらいだろうか。ポロシャツの上に作業用のベストを羽織り、船が着くより先に、もう舫(もや)い綱に手を伸ばしている。投げられた綱を空中で掴み、腰を落として引き、係船柱に二回巻いて、余りを掌(てのひら)の中で八の字にまとめた。全部で5秒ほどの動作だった。それから渡し板をかけ、板の端を靴の先で二度叩いて位置を直した。

「潮鳴館の三浦(みうら)です。足元、気ぃつけて」

 それだけだった。荷物を受け取り、桟橋の先に停めてあった軽トラックの荷台に積む。積み方にも順番があるらしく、彼は私たちのスーツケースを一番奥に置き、その手前に宮下老人の革鞄を横向きに寝かせ、隙間に古毛布を押し込んだ。愛想がないというより、喋る役目は自分ではないと決めているような態度だった。

 桟橋から宿までは、歩いて3分ほどの登りになる。

 舗装は三十歩ほどで切れ、そこから先は苔(こけ)の生えた石段だった。段の高さがまちまちで、20センチのものと10センチのものが交互に来る。おまけに途中で二度、左に折れる。折れた先が見通せないので、あと何段あるのかがわからない。

「雨が降ったら、これは滑るな」

「そうでしょうねえ。段の真ん中が磨り減っているもの」

 小春は苔の乗った石を指先で撫でて、その指をハンカチで拭った。

 登りきったところに、潮鳴館はあった。

 旧網元(あみもと)屋敷を改装したという触れ込みの通り、母屋(おもや)は堂々とした木造の平屋だった。黒く焼いた板を張った外壁が、海からの光を吸って鈍く沈んでいる。瓦は本葺(ほんぶ)きで、棟が長い。庭には手入れの行き届いた松と、大ぶりの敷石。右手の奥、庭を三十歩ほど行った先に、離れが二棟。

 左手には屋根つきの薪棚(まきだな)があり、割られた薪が信じられないほど整然と、まるで石垣のように積み上げられていた。

「ようこそ潮鳴館へ。支配人の谷口(たにぐち)でございます」

 玄関で迎えてくれたのは、五十がらみの丁寧な男だった。姿勢がよく、言葉遣いに1分の隙もない。差し出された手拭きのおしぼりが、外気とちょうど同じ温度に調整されていた。本土のホテルで長く勤めてきた人間の仕事だ。

「雀部(ささべ)様。開業一周年のレセプションにご参加いただき、ありがとうございます。三泊四日、どうぞごゆっくり」

 案内されたラウンジは、元の屋敷の広間をそのまま生かした空間だった。天井が高く、太い梁(はり)が黒く艶を持って剥き出しになっている。その下に低いソファが四組、間隔を空けて散らしてあった。床は板張りで、歩くと足音がよく響く。

 海に面した壁は、一面が硝子(ガラス)だった。桟の入っていない大きな一枚が三枚並び、瀬戸内が横長に切り取られている。硝子の下端と水平線の高さが揃うように、床の高さを調整してあるらしかった。

「まあ、いいお部屋」

 小春が硝子の前まで歩いていき、外を眺めて言った。

「奥様、あちらが本土でございます。夜になりますと、対岸の街の灯りが」

「谷口さん、あの薪棚、いつもあんなに積んでいらっしゃるの?」

「はい。冬の分まで先に割っておくのが、うちのやり方でして。乾かす時間が要りますので」

「2年ものねえ。いい仕事だこと」

 そのとき、ラウンジの奥から、静かな声が飛んできた。

「谷口さん。少しいいかな」

 海側から一番遠いソファに、男が座っていた。

 五十代半ばだろうか。麻の上下を品よく着こなし、脚を組んで、膝の上にタブレットを置いている。髪には白いものが混じり始めているが、手入れが行き届いていた。顔立ちも悪くない。むしろ、穏やかで人の話をよく聞きそうな顔である。

 その隣には、まだ二十代と見える女性が背筋を伸ばして立っていた。細い黒縁の眼鏡。手には革表紙のファイル。表情がまったく動かない。

「柿沼(かきぬま)様。何かご不便でも」

「不便じゃない。確認だよ」

 柿沼と呼ばれた男は、私たちの存在に気づくと、そこでいったん言葉を切った。タブレットを伏せ、立ち上がり、丁寧に会釈をする。

「ああ、失礼。お客様の前で仕事の話などして。柿沼と申します。この宿に少しばかり出資をしておりましてね」

「雀部です。妻の小春です」

「ゆっくりなさってください。料理は本当にいいんですよ。ここのシェフは若いが、腕は確かです」

 柿沼はそう言って笑い、それから、何気ない世間話の続きのような調子で谷口に向き直った。

「谷口さん。夕食のワインのリスト、去年と同じだね」

「はい。島の柑橘に合わせたものを中心に」

「悪くない。悪くないんだ。ただね、去年と同じというのは、1年何もしなかったということでもある。違うかな」

「……いえ、それは」

「責めてるんじゃない。私はこの1年でこの島に何が積み上がったかを見に来た。積み上がっていないなら、それはそれで、確認しておく必要があるというだけの話です」

 柿沼の声は、最後まで一度も大きくならなかった。むしろ後半になるほど小さくなり、谷口は一歩前に出て聞き取らなければならなかった。

 谷口の額に、うっすらと汗が浮いている。彼は「承知いたしました」と頭を下げ、丁寧な足取りでラウンジを出ていった。板の床に響く足音が、来たときより速かった。

 柿沼は満足そうにソファに戻り、タブレットを取り上げた。隣の女性がファイルを開き、万年筆で何かを書き込む。二人とも、もうこちらを見ていない。

(……なるほど)

 世の中には、怒鳴らずに人を追い詰める種類の人間がいる。

 前の宿にいたのは、怒鳴るほうの男だった。グラスが曇っているだの、ソースの酸味が立ちすぎているだの、あの男は最後まで喚き続け、そして頭を割られて死んだ。

 この男は、喚かない。

 私は少しだけ安心した。

3

 私たちに割り当てられたのは、母屋の東の端、「橙」と札のかかった部屋だった。

 十二畳の和室に、四畳半ほどの板の間が付いている。畳は青みが残っていて、目がきれいに揃っていた。板の間には低い椅子が二脚と丸いテーブル。壁の一面が地袋つきの押入れで、その引き手が古い真鍮のままだった。改装のときに残したのだろう。

 障子を開けると、庭の松の向こうに海が見えた。窓を細く開ける。潮の匂いが入ってきて、それに混じって、乾いた木を割る音が規則的に響いてきた。カン、と間を置いて、カン。三度に一度、少し湿った音が混じる。

「静かねえ」

 小春は荷物をほどきながら、心底満足そうに言った。旅行鞄から出すものの順番がいつも同じだ。まず洗面道具、次に翌朝の服、最後に寝間着。

「気に入ったか」

「ええ。畳の目が揃っているわ。それに、この部屋、風の抜け方がとてもいいの。北の窓と南の障子で、ちゃんと通るでしょう。夜、よく眠れそう」

 妻の宿の評価基準は、いつもこの三つに集約される。食事と、寝床と、静けさ。

 夕食まではまだ間があった。私たちは敷地を歩いてみることにした。

 母屋を出て西へ回ると、地面が土から砂利に変わる。踏むたびに音が立った。突き当たりに、屋根だけの簡素な小屋がある。柱は太い丸太で、屋根は波板。それが薪棚だった。

 近くで見ると、量は圧倒的だった。屋根の下に、割られた薪が三段、四段と積み上げられている。断面を手前に向けて、隙間なく、しかし空気が通るように少しずつ角度をずらして。

 樹皮の色ごとに、三つに分けてあった。右の三分の一が白っぽいもの。真ん中が赤みの強いもの。そして左の端が、表面のひび割れた、細く歪んだもの。境目は、定規を当てたようにまっすぐだった。

「これは桜。こっちは樫(かし)ね」

 小春は薪の一本に手を触れ、それから鼻を近づけた。

「この細いのは、柑橘の木だわ。古木を切ったのねえ」

 薪棚の脇には、切り株を利用した割り台(わりだい)と、粗い木屑(きくず)の山があった。若い男が一人、腰をかがめて木屑を掻き集めている。二十代前半だろう。目が合ったので会釈をしたが、彼は小さく頭を下げただけで、すぐに手元へ視線を戻した。掻き集めた木屑を麻袋に詰め、口を捻って肩に担ぐ。

「よく乾いてるわ」

 小春が言った。

 若い男の手が、そこで一瞬だけ止まった。だが彼は何も言わず、袋を担ぎ直して建物の裏手へ消えていった。

 薪棚を過ぎると、敷地の端から海へ向かって、あの苔の石段が下っている。上から覗き込むと、二つ目の折れ返りから先が完全に隠れていた。桟橋の屋根の一部だけが、木の枝の間から見える。

「気をつけたほうがいいな、ここは」

「あら、真悟さんは高いところが苦手だものねえ」

「高さの問題じゃない。段の高さが揃っていないんだ。人間の足は、二段目で同じ高さを予測するようにできている。それが裏切られると転ぶ」

「ふうん」

 小春は興味なさそうに頷いて、石段の一段目に足をかけ、すぐに戻ってきた。

 部屋に戻ると、板の間のテーブルに、ウェルカムの菓子と島の柑橘が一皿置かれていた。青みの残る小ぶりの実が三つ。添えられた小さなカードに、品種名と、収穫した畑の名前が手書きされている。

「まあ、丁寧」

 小春はカードを読み、皿の脇に置かれた小刀を取って、実の皮を剥き始めた。刃を浅く入れ、実を回しながら、切れ目なく一本に剥いていく。剥かれた皮は途中で一度も途切れず、螺旋を描いて皿の上に落ちた。

「真悟さん、召し上がれ」

 口に入れると、酸味が先に来て、そのあとに輪郭のはっきりした甘さが追いかけてきた。皮の内側の白い部分に、わずかな苦みがある。

「うまいな」

「そうでしょう。この島、いい島ね」

 妻は満足そうに頷き、皮を丁寧にまとめて皿の隅へ寄せた。

 外で、また木を割る音がした。さっきより間隔が短くなっている。

4

 夕方、私たちはラウンジへ降りた。

 硝子の向こうの海は、昼間より確実に色を濃くしていた。水平線のあたりに、灰色の帯が横たわっている。帯の縁だけが白く光っていて、その上に本来の空の青が残っているのが、かえって落ち着かなかった。宮下老人の言った通りだった。

「雀部様。少しお時間よろしいでしょうか」

 声をかけてきたのは、白いコックコートの女性だった。

 二十代の後半だろう。背は高くない。髪をきつく後ろでまとめ、袖を肘まで捲っている。前腕に、火傷の痕が古いものから新しいものまでいくつも重なっていた。爪は短く、指の関節が太い。

「シェフの藤代(ふじしろ)です。ご予約の際に、奥様からご連絡をいただいておりましたので」

「……連絡?」

 振り返ると、小春はごく自然な顔で立ち上がり、深く頭を下げていた。

「雀部小春です。突然にお手紙を差し上げて、失礼いたしました」

「いえ。……あの、お会いできて、光栄です」

 藤代シェフの声が、そこでわずかに揺れた。彼女は捲った袖を無意識に一度直し、それから両手を体の脇に下ろした。

「笹鳴館に、いらしたんですよね」

 その名前が出た瞬間、私の背中を冷たいものが走った。

「……藤代さん、あなたは」

「私、堂島誠一(どうじま せいいち)のもとで、5年間スーシェフをしておりました」

 ラウンジの空気が、私の中でだけ、音を立てて止まった。

 藤代灯(あかり)は、コックコートの胸のあたりに手を当てて、静かに続けた。

「あの人が笹鳴館を始めるとき、私はついていきませんでした。自分の店を持ちたくて、こちらに残ったんです。……結局、それが最後になりました」

「……そうでしたか」

「奥様からのお手紙に、書いてありました。堂島の仔羊のローストを、二度食べたと」

 藤代シェフは、そこで初めて笑った。泣き笑いに近い、不器用な笑い方だった。

「あの人の料理を、最後に食べてくださった方だと」

 私は隣に立つ妻を見た。

 小春は、いつもの平坦な顔で頷いていた。

「ええ。とても素晴らしいお料理でした。あれ以上のものは、いただいたことがありません」

(……手紙を出していたのか)

 私は完全に虚を突かれていた。

 半年前、妻が「瀬戸内の島に、いい宿があるみたいなの」と言い出したとき、私はただ、彼女が旅行雑誌でも見たのだろうと思っていた。そうではなかった。妻はこの1年、探していたのだ。あの味の続きがどこかに残っていないかを、静かに、諦めずに。

 そう考えると、それは奇妙なほど真っ当な、人間らしい執着に見えた。

 見えた、のだが。

「厨房に、師匠のノートがあります」

 藤代シェフが言った。

「あの人が手書きで残していたものです。私が独立するときに、一冊だけ譲ってもらいました。仔羊も……載っています。同じものは、まだ作れませんけど」

 小春の目が、そこで、わずかに動いた。

 感情が動いたのではない。焦点が合ったのだ。カメラのレンズが対象を捉えたときのような、ごく物理的な動き方だった。

「見せていただける日が来ると、嬉しいですわ」

「はい。滞在中に、ぜひ」

 藤代シェフは頭を下げ、厨房へ戻っていった。捲った袖を歩きながらもう一度直している。

 私は椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。落ち着け。何も起きていない。妻が死んだ料理人のレシピを追いかけて島まで来た。それだけの話だ。美談ですらある。

「――おや。おやおやおや!」

 その声を聞いた瞬間、私の全身の血液が、心臓を素通りして足の裏まで落下した。

 ラウンジの入口に、麻のジャケットを肩に引っ掛けた男が立っていた。日に焼けていない白い顔、後ろに撫でつけた髪。こちらを見つけた瞬間、その顔に歓喜が広がっていく。

「これはこれは、雀部さんご夫妻ではありませんか! いやはや、世界とは狭いものだ!」

 結城蒼(ゆうき あおい)だった。

「……結城さん。どうして、ここに」

「招かれたのですよ」

 結城は勝手に向かいのソファへ腰を下ろし、脚を優雅に組んだ。

「拙著をお読みになった、こちらの宿の方から。開業一周年のレセプションに、文化人枠で、と」

(文化人枠。文化人枠だと)

 この男が笹鳴館の事件をまとめて出した本は、私も書店で見かけた。帯に「私はいかにして天才の美学を読み解いたか」と書いてあり、私はその場で棚に戻した。

「いやあ、あれから1年ですか。あの4日間は、私の学者人生における最大の知的財産です。ときにご夫妻、その後お変わりは」

「……おかげさまで、平穏です」

「平穏。結構。実に結構」

 結城は満足そうに頷いてから、ふと真顔になった。

「ですが雀部さん。平穏というのは、構造が安定しているという意味に過ぎません。安定した構造ほど、外から一点の力を加えたとき、思いがけない壊れ方をするものですよ」

「……何の話ですか」

「建築の話ですが」

 結城は微笑んだ。

 私はそれ以上何も言わず、ポケットからスマートフォンを取り出した。ほとんど無意識の動作だった。

 画面の左上に、アンテナが三本立っている。

 私は指の腹で画面を一度撫で、それから電源ボタンを押して暗くし、ポケットに戻した。窓の外では、庭の松の枝が、昼間とは逆の方向へ揺れていた。


第二章 煙

1

 夕食の前に、希望者への館内案内があるという。

 レセプションの企画の一つらしく、フロントの前に集まったのは、私たち夫婦と宮下老人、それに結城の四人だった。柿沼と秘書の姿はない。案内役は谷口ではなく、和服の年配の女性だった。

「大女将(おおおかみ)の網野(あみの)です。今日はよう来てくださいました」

 六十を少し過ぎたくらいだろうか。小柄で、背中がわずかに丸い。灰青の紬に、帯は地味な織りのもの。声は低く、語尾に土地の訛りが柔らかく残っていた。手の甲に日焼けの染みがあり、指の関節が太い。長く外の仕事をしてきた人の手だった。

「この家は、元は網元の屋敷でしてね。うちの人の家ですわ」

 彼女はそれだけ言って、先に立って歩き出した。

 案内は母屋の裏手から始まった。廊下の突き当たりに、業務用の重い扉がある。網野が押し開けると、熱と音が同時に流れ出してきた。

 厨房である。

 思っていたより広い。ステンレスの調理台が二列、通路を挟んで平行に走り、その奥の壁が一面、耐火煉瓦で組まれていた。煉瓦の中央に鋳鉄の扉。その左に、扉のない開口部があり、そこで火が燃えている。

「うちは薪です」

 網野が言った。

「窯は落としません。1年中、火を絶やしません。落とすと、次に上げるのに三日かかりますでな」

 開口部の奥は、思ったほど明るくなかった。炎はほとんど立っていない。赤く熾(おこ)った塊が層を作り、その上を細い青い火がときどき舐めるように走る。手前に鉄の五徳(ごとく)が渡してあり、その上で厚い鉄板が熱を持っていた。

 顔に当たる熱が、五歩離れていても痛いほどだった。

「まあ」

 小春が一歩前に出た。

「いい熾ですねえ。今日の昼に足したものと、昨日のと、二層になっているわ」

 網野が振り返った。

「……よう見えますなあ」

「色が違いますもの。手前が新しくて、奥が沈んでいます」

 白いコックコートの背中がいくつか動いて、藤代灯がこちらを向いた。彼女は火から一度も離れず、鉄板の上のものを長い箸で裏返しながら、片手を軽く上げて会釈した。

 厨房を出て、外へ回る。

 砂利を踏んで西へ行くと、昼間に見た薪棚に出た。日が傾いて、屋根の下は暗くなっている。

 薪棚の前に、切り株を据えた割り台があった。直径60センチほどの樫の株で、上面は無数の刃跡で毛羽立(けばだ)っている。中心のあたりが窪(くぼ)んで、そこだけ色が黒ずんでいた。

 その割り台に、斧(おの)が一本、立てかけてあった。

 刃を下にして、柄を台の縁に預けている。柄は白木で、握りのあたりだけが飴色に光っていた。刃の反対側――背の部分が、四角い塊になって鈍く光を返している。

「涼、まだやりよるんか」

 網野が声をかけた。

 薪棚の陰から、昼間の若い男が出てきた。首に巻いたタオルで顔を拭いている。近くで見ると、思ったより背が高かった。腕は細いのに、前腕だけが不自然に太い。

「孫ですわ。火の番をしとります」

「網野涼(りょう)です」

 彼はそれだけ言って、頭を下げた。

「毎日、どのくらい割るんですか」

 結城が尋ねた。

「日によります。夏場は一日2時間くらい」

「なるほど。運動になりますな」

「……はあ」

 会話はそこで途切れた。涼は割り台の脇に落ちていた木片を拾い、木屑の山へ放った。それから薪棚の前に立ち、いちばん上の段の一本を、指先で少しだけ押し込んだ。面が揃った。

「積み方が、揃っていますな」

 結城が言った。

「断面を手前に、角度をずらすんです。一段ごとに、右、左、右と」

 涼は山を撫でるように、手を左から右へ動かした。

「空気が通らんと、乾かんけん」

「なるほど。合理的だ」

「……はあ」

 私はそれを、乾かすための話として聞いた。

「この斧、柄が長いわねえ」

 小春が言った。

 彼女は斧を持ち上げるでもなく、立てかけられたままの柄に指を一本かけて、その長さを目で追っていた。

「ええ」

 涼が答えた。

「割るときに、腰を落とさんでええけん」

「そう。楽でしょうねえ」

「はい」

 それだけだった。

 網野が「そろそろお食事の支度が」と促し、私たちは母屋へ戻った。歩きながら振り返ると、涼はまだ割り台の前にいて、斧の位置を少しだけ直していた。刃を下にしたまま、柄を台の縁の、さっきと同じ場所に戻していた。

 海のほうから、風が来ていた。昼間より強い。薪棚の波板が、端のほうで一度だけ鳴った。

2

 食事は7時からだった。

 ラウンジの隣、元の座敷を洋室に改めた部屋に、テーブルが五つ。硝子越しに海が見えるが、もう水平線は闇に沈んでいて、対岸の街の灯りだけが細い線になって浮かんでいた。

 席に着くと、客室係の女性がおしぼりを配って回った。四十がらみの、よく笑う人だった。

「久住(くすみ)と申します。お飲み物の前に、失礼ながら確認をさせていただいております」

 彼女は小さな手帳を開いた。

「食物アレルギー、お苦手なもの、ございませんでしょうか」

「特にありません」

「奥様は」

「ありませんわ。何でもいただきます」

「ありがとうございます」

 久住は手帳に何か書き込み、隣のテーブルへ移った。柿沼と早瀬(はやせ)のテーブルである。

「柿沼様は、甲殻類でしたね」

「そう。海老と蟹は駄目だ。子供の頃に一度死にかけてる」

 柿沼は水のグラスを傾けながら、面倒くさそうに答えた。

「出汁(だし)もね。姿が入っていなくても、出汁で出る」

「承知しております。厨房にも徹底しております」

「毎年言ってるからね」

 久住は深く頭を下げて、次のテーブルへ行った。手帳を持つ左手の指が、表紙の角を一度だけ強く押さえていた。

 最初の皿が来た。

 浅い白磁の器に、真鯛の薄い切り身が三枚重ねてあり、その上に薄緑の粒が散らしてある。柑橘の果肉を房から外して、一粒ずつほぐしたものだった。器の底に、透明な液体が1センチほど張られている。

 口に入れると、まず冷たさが来て、鯛の身が舌の上でほどけた。塩の当たりが強い。そのあとに柑橘の酸が来て、最後に、出汁の匂いが鼻から抜けた。

「昆布ねえ」

 小春が言った。

「ええ。それも、水出しを一晩」

「あら、わかりますの」

「沸かした昆布は、もっと後ろに残るでしょう。これは前に出て、すっと消えるもの」

 次の皿は、薪窯で丸ごと焼いた玉葱だった。

 外側の皮が炭になっていて、それを切り開くと、中から半透明の層が現れる。フォークを入れると崩れて、透明な汁が皿に溜まった。上から、焦がしたバターと、削った鰹節ほどの薄さの何かがかけてある。

「これは……」

 私は思わず口を挟んだ。

「灰で焼いてるな。皮ごと灰に埋めてる」

「あら、真悟さん、詳しいのね」

「前にも食べたからだ」

 そう言ってから、私は自分の言葉を後悔した。

 笹鳴館の二日目の夜に出た皿である。堂島誠一は、根菜を熾の中に直接埋めていた。灰の温度が均一だから、火が通りすぎない、と説明していた。あのときも同じように、外側は炭で、中は半透明だった。

「ええ、そっくりですわねえ」

 小春が、平坦な声で言った。

 そのとき、藤代灯が皿の説明のために回ってきた。

「島の玉葱です。灰の中に1時間半」

「藤代さん」

 小春が顔を上げた。

「これ、堂島さんのやり方でしょう」

 藤代シェフの動きが止まった。

「……いえ。これは、私が」

 彼女は言いかけて、そこで自分の手を見た。皿を支えていた手のほうではなく、空いているほうの手を、なぜか見た。

「……そうですね。そうかもしれません」

 声が小さくなった。

「灰の温度が均一だから、というのは、あの人がよく言っていました。私は、そう教わったから、そうしているだけで」

「いいお料理ですわ」

「……ありがとうございます」

 藤代シェフは頭を下げて、下がっていった。

 メインは、薪火で焼いた鰆(さわら)だった。皮目だけを強い火で焼き、身のほうにはほとんど火を入れていない。皮が縮んで、その下の脂が沸いている。付け合わせは何もなく、皿の隅に塩が一つまみ置いてあるだけだった。

 私はそれを黙って食べた。うまかった。

 食後のコーヒーが出たころ、柿沼が立ち上がった。彼はゆっくりと部屋を横切り、厨房から出てきた藤代シェフのところで足を止めた。

「藤代さん。少しいいかな」

 距離が近いので、話し声はこちらまで届いた。柿沼は、声を落とすということをしなかった。落とす必要を感じていないのだ。

「例の件、考えてくれたかな」

「……あの、私は」

「悪い話じゃない。『堂島誠一 監修』の五文字が付けば、この島の柑橘が三倍で売れる。工場も押さえてある」

「監修も何も、あの人はもう」

「だから名義なんだ。君が師匠から受け継いだレシピを使う。それは君の権利だろう。何か問題があるかな」

「……レシピは、そういうものでは」

「藤代さん」

 柿沼は、そこで初めて声を落とした。

「私は君の師匠の名前を買いたいんじゃない。君の店を続けたいだけだ。この宿、今年の数字を見たかい」

 返事はなかった。

「明後日、私は本土に戻る。それまでに聞かせてくれればいい。急かしてはいないよ」

 柿沼はそう言って、彼女の肩を軽く叩き、自分の席へ戻っていった。

 藤代シェフは、しばらくその場に立っていた。両手を体の前で組んで、指の関節が白くなっていた。

3

 食後、私たちはラウンジに移った。

 ソファに腰を下ろすと、久住が飲み物を運んできた。彼女はよく喋った。島に来て8年になること、冬は柑橘の手伝いに行くこと、去年の台風で艇庫(ていこ)の屋根が飛んだこと。

「奥様、明日は荒れますよ。朝のうちは持つと思いますけど」

「船は出ませんの」

「明日の朝の便は出ると思います。昼からはわかりません」

 彼女はグラスを置き、テーブルの水滴をおしぼりで拭いて、下がっていった。

 宮下老人が、コーヒーカップを持ってこちらのソファへ移ってきた。

「奥様。玉葱の皿を、あなたはご覧になって何と思われましたか」

「おいしゅうございました」

「そうではなく」

「灰の温度が均一だから、火が通りすぎない。そういう料理ですわ」

 宮下は笑った。

「あなたは料理をなさる方だ」

「いいえ。作りません。食べるだけです」

「それは結構。食べるほうが難しい」

 老人はカップを置いた。

「わたしは40年、人の料理を食べて、それを文章にして飯を食ってきました。書くたびに思うんですが、料理というのは、うまいか、まずいかしかないんです。それ以外のことは、全部あとから人間が付けた話でしてね」

「そうですわねえ」

「なのに、あとから付けた話のほうが、値段になる」

 宮下の視線が、少しだけ動いた。

 その先で、柿沼がタブレットを見ながら誰かと電話をしていた。声は聞こえない。ただ、笑っている。

「宮下さん」

 私は口を挟んだ。

「柿沼さんという方は」

「ご存じない?」

「名前だけは」

「いい商売をなさる方ですよ」

 老人はそう言って、それ以上は言わなかった。カップの底に残ったコーヒーを飲み干し、「明日また」と言って部屋へ戻っていった。

 私が手洗いに立ったのは、そのすぐあとだった。

 廊下は薄暗い。足元の間接照明だけが点いている。角を曲がったところで、私は足を止めた。

 柿沼の秘書――早瀬千夏(ちなつ)が、壁際に立っていた。

 彼女は電話を持っていた。通話中ではない。画面を見ているわけでもない。ただ、両手で持って、胸の高さに構えたまま、廊下の先を見ていた。廊下の先には、ラウンジの入口がある。

 私が近づくと、彼女は気づいて、こちらを見た。

「失礼しました」

 彼女はそう言って、脇へ避けた。表情は動かなかった。眼鏡のレンズに、足元の照明が二つ、小さく映っていた。

「いえ、こちらこそ」

 私は通り過ぎようとして、もう一度振り返った。

 早瀬千夏は、まだ同じ場所に立っていた。同じ姿勢で、同じ方向を見ていた。

 部屋に戻ると、小春はもう寝る支度をしていた。

「早いな」

「布団がとてもいいんですって。久住さんが言っていたわ」

 窓の外で、風が鳴っていた。松の枝が擦れる音が、昼間より高い。

 私はスマートフォンで台風の進路図を開いた。夕方見たときと、予報円の中心が変わっている。四国の南で足踏みしていたものが、北東へ、こちらへ向かって一段動いていた。

「明日、荒れるらしい」

「あら。じゃあ、船が出ないかもしれないわね」

「そうなるかもな」

「まあ、いいわ。ここのお料理、おいしいもの」

 妻はそう言って、布団に入り、30秒ほどで眠った。

4

 叩き起こされたのは、午前2時過ぎだった。

 廊下を走る足音がして、それがいくつにも増えた。誰かが何かを叫んでいる。私は跳ね起きて、障子を開けた。

 庭に明かりが動いていた。懐中電灯だ。三つ、四つ。それが離れのほうへ集まっていく。

「……真悟さん」

 布団の中から、恐ろしく平坦な声がした。

「うるさいのだけれど」

 背筋が冷えた。

「いや、待て、待ってくれ。俺が見てくる。君は寝ていていい。いいから寝ていてくれ」

 私は寝間着の上に上着を引っかけ、サンダルを突っかけて外へ出た。

 風が正面から吹きつけてきた。庭の砂利が、風の当たる場所だけ乾いた音を立てている。

 離れの一棟、その扉が開け放たれていた。中の明かりが漏れて、地面に長方形を作っている。前に人が三人。谷口と、三浦朔(さく)と、久住だった。

 その手前の芝生に、柿沼が座り込んでいた。パジャマの上に上着を羽織り、頭を抱えている。顔色は暗くてわからないが、呼吸が浅く、速い。

「柿沼様、もう少しこちらへ。風のあるほうへ」

「……頭が割れそうだ」

「吐き気は」

「ある。さっき戻した」

 谷口が朔に何か言い、朔は無言で離れの中へ入っていった。

 私も扉のところまで行って、中を覗いた。

 六畳ほどの板の間に、ベッドが一つ。奥の壁際に、鋳鉄の薪ストーブが据えられている。煙突が天井を抜けて外へ出ていた。ストーブの前の床に、薪が二本転がっている。窓は――大きく開いていた。網戸ごと開け放たれ、カーテンが外へ吸い出されるように膨らんでいる。

 朔がストーブの前にしゃがみ、煙突の根元に手を伸ばした。金属の細いレバーが、そこから横に出ている。彼はそれを指でつまんで、九十度回した。

 カチ、と音がした。

「……閉まっとった」

 朔が言った。

「ダンパーが、全閉」

「そんなはずは」

 谷口が中に入ってきた。

「今夜は火を入れておりません。八月ですよ」

「入っとる」

 朔はストーブの扉を開けた。中に、白い灰と、燃え残った炭が見えた。まだ熱を持っているらしく、朔は手を近づけて、すぐに引いた。

「夕方、寒いから焚いてくれと言われたんです」

 久住が外から言った。

「柿沼様が。冷房が効きすぎるからと。涼さんが焚きつけに来ました」

 谷口が振り返った。

「……涼くんは」

「呼びました。もう来ると思います」

 私は一歩下がって、扉の外に出た。

 柿沼はまだ芝生に座っていた。久住が水を持ってきて、彼はそれを一口飲み、また頭を抱えた。

「開けたんですか。窓は」

 私が尋ねると、彼は顔を上げずに答えた。

「一時ごろかな。頭が痛くて目が覚めた。息が苦しくて、それで開けた。……開けたら、少し楽になった」

「それは、幸運でしたね」

「幸運?」

 柿沼はそこで初めて顔を上げた。

「幸運じゃない。私は昔から、頭痛で目が覚める体質なんだ。低気圧のせいだと思ってな。……ああ、頭が痛い」

 庭の向こうから、足音が近づいてきた。

 涼だった。彼はTシャツにサンダルで、髪が乱れていた。谷口が離れから出てきて、彼を呼んだ。

「涼くん。夕方、こちらの火を入れたね」

「はい」

「ダンパーは」

「……開けました」

「間違いないね」

「開けました」

 彼はそれだけ言って、それ以上何も言わなかった。両手をだらりと下げたまま、離れの扉のほうを見ている。谷口が何か続けたが、涼は返事をしなかった。

 朔が離れから出てきて、谷口に言った。

「レバーが硬い。古いけん、振動で落ちることもある」

「落ちる?」

「重みで、下がることがある。ゆっくりと」

 谷口はしばらく黙っていた。それから、大きく息を吐いた。

「……とにかく、柿沼様。母屋の空き部屋をご用意します。今夜はそちらで」

「そうさせてもらう」

 柿沼は立ち上がった。少しふらついたが、久住が支えようとすると、その手を軽く払った。

 人の列が母屋へ戻っていく。私はその最後尾を歩いた。

 振り返ると、涼がまだ離れの前に立っていた。開いたままの扉から漏れる明かりが、彼の足元だけを照らしている。彼は動かなかった。

 部屋に戻ると、小春は完全に眠っていた。呼吸が深い。

 私は布団に入り、天井を見上げた。風の音が、さっきより強くなっている。

 換気の事故だ。古いストーブの、レバーが下がっただけの話である。

 私は寝返りを打ち、目を閉じた。胃のあたりが、まだ固かった。


第三章 出汁

1

 二日目の朝は、雨が降っていなかった。

 ただ、空の色がおかしかった。雲が二層になっていて、下の層だけが速く流れている。上の層は動かない。硝子の外の松が、枝の先を一方向に押さえつけられたまま、ときどき戻っては、また押さえつけられていた。

 朝食は8時からだった。

 焼きたてのパンが籠に入って出てきた。表面が硬く、割ると湯気が立つ。島の卵は黄身の色が薄く、その代わりに白身に厚みがあった。それに、深めの白い器に注がれた野菜のスープ。

 スープは淡い黄緑色をしていた。玉葱と、莢の若い豆と、名前のわからない菜っ葉。ミキサーにかけず、素材の形が残るように刻んで煮てある。口に入れると、まず塩気が来て、それから野菜の甘さが後ろから追いついてきた。

「昨日の玉葱ねえ」

 小春が言った。

「灰焼きの、残りの部分を使っているわ。焦げの香りが底にあるでしょう」

 柿沼が席に着いたのは、私たちが二皿目に入ったころだった。

 顔色は悪くない。ただ、歩き方が少し慎重だった。母屋の空き部屋で寝直したせいか、髪が乾いた方向に癖をつけている。秘書の早瀬が半歩後ろについて、椅子を引いた。

「おはようございます、柿沼様。ご気分は」

 久住がコーヒーポットを持って近づいた。

「頭は残ってる。まあ、生きてるよ」

「よろしゅうございました。お食事、お持ちしますね」

 久住は下がり、2分ほどで戻ってきた。トレイに、パンの籠とスープの器を載せている。彼女はスープを柿沼の前に置き、器の向きを少しだけ直した。

「熱いのでお気をつけて」

「ああ」

 柿沼はスプーンを取り、一口すすった。それから、パンを千切って口に入れ、もう一口スープを飲んだ。

 私は自分の皿に視線を戻した。

 異変に気づいたのは、それから30秒ほど後だった。

 椅子の脚が床を擦る音がした。顔を上げると、柿沼が立ち上がっていた。片手で襟元を掴んでいる。もう片方の手でテーブルの縁を掴んだが、指がうまくかからず、皿が一枚滑って落ちた。

「柿沼さん?」

 彼は答えなかった。口を開けて、何か言おうとしている。喉から、笛のような音が細く出た。

「早瀬さん!」

 早瀬千夏が動いた。

 彼女は椅子を蹴って立ち、床に置いていた鞄を引き寄せ、口を開けた。中から細長いオレンジ色のケースを取り出す。手が震えていなかった。キャップを外し、柿沼の脇へ回り込み、彼のズボンの上から、腿の外側に押し当てた。

 カチッ、と乾いた音がした。

「動かないでください」

 彼女は5秒数えて、それを抜き、その場所を手のひらで擦った。

「谷口さん、救急に。アナフィラキシーです。エピネフリンを一本、8時14分に投与しました」

 谷口が携帯を耳に当てて走っていく。久住が呆然と立ったまま、トレイを胸に抱えていた。

 柿沼は床に座り込み、背中を椅子に預けていた。呼吸はまだ荒いが、さっきの笛のような音は消えている。顔と首に、赤い斑が浮き上がっていた。

「柿沼さん、聞こえますか」

「……ああ」

「口の中は。腫れてますか」

「わからん。……舌が、厚い」

「もう一本あります。悪くなったらすぐ打ちます」

 早瀬は柿沼の隣に膝をついたまま、彼の手首を取って脈を見ていた。表情は昨日の廊下と同じで、まったく動いていない。

 谷口が戻ってきた。

「消防に繋がりました。ただ……」

 彼は一度言葉を切った。

「防災ヘリは、風で飛べないそうです。海保も同じです。今の風速だと、着陸できる場所がないと」

「船は」

 三浦朔が入口に立っていた。いつからそこにいたのかわからない。

「うちの船は出せん。うねりが入っとる。連絡船は9時の便が最後や。それも、出るかどうか」

「本土まで40分ですよね」

「40分は、凪いだときの話です」

 谷口は携帯を握ったまま、しばらく黙っていた。それから、電話に向かって「はい、はい」と何度か答えた。

「……わかりました。経過を報告します」

 彼は通話を切って、こちらを向いた。

「本土の医師と、電話で繋がったままにできるそうです。血圧と呼吸を30分おきに報告して、悪化したら二本目を打つようにと」

「二本しかないぞ」

 柿沼が言った。声はかすれていたが、内容は明瞭だった。

「三本目はない。いつもは二本持たない。今回はこの島だから二本にした」

 彼はそう言って、笑おうとして、うまくいかずに咳き込んだ。

 結城が私の横に来て、小声で言った。

「雀部さん。ゆうべの一酸化炭素と、今朝のこれは」

「偶然でしょう」

「そうです。偶然です。偶然ですが」

 彼はそこで口をつぐんだ。

 私は自分のスープの器を見た。半分ほど残っている。

 私はそれを、なぜか、飲む気になれなかった。

2

 柿沼は母屋のラウンジのソファに横たえられた。

 9時を過ぎるころには、呼吸は落ち着いていた。赤い斑もひいてきている。彼は上体を起こし、水を飲み、それから携帯を持ってこいと言った。

 厨房は止まっていた。

 私が谷口に呼ばれて厨房の前を通ったとき、扉が開いていて、中が見えた。藤代灯が調理台の前に立ち、両手を台についていた。若い調理助手が二人、その後ろで動けずにいる。

 台の上に、朝のスープの寸胴が載っていた。蓋が外され、その脇にレードルと、小皿がいくつも並べられている。彼女は自分でスープを掬い、味を見て、また掬っていた。何度も。

「藤代さん」

 谷口が声をかけた。

「鍋には入っていません」

 彼女は顔を上げずに答えた。

「私が三回見ました。助手にも見させました。海老は入っていません。そもそも今日の仕入れに甲殻類はありません。冷蔵にも冷凍にも、乾物棚にもありません」

「では、どこから」

「わかりません」

 彼女は初めて顔を上げた。目が赤い。

「わからないんです。でも、出したのは私の厨房です」

 谷口は何も言えなかった。

 ラウンジに戻ると、柿沼が谷口を呼んでいた。彼はソファに背を預け、片手に携帯を持っている。声は昨日より弱かったが、話す速度は変わらなかった。

「谷口さん。座ってくれ」

「はい」

「怒ってはいないんだ。まずそれを言っておく」

 柿沼は水のグラスを口元へ運び、一口飲んだ。

「私は毎年ここに来て、毎年同じことを言っている。甲殻類が駄目だと。それは記録に残っているね」

「はい。予約システムにも、当日の申し送りにも」

「なのに出た。これは、事故ではなく、管理の問題だ」

「……申し訳ございません」

「謝罪はいい。私は今日死にかけた。事実として、そういうことが起きる体制なんだ、ここは」

 彼は携帯の画面を一度見て、それから伏せた。

「藤代さんを責める気はない。彼女は腕がいい。ただね、腕のいい料理人が一人で全部を背負う体制というのは、こういうときに壊れる。だから体制を変える必要がある。違うかな」

「……と、おっしゃいますと」

「運営に、人を入れる。私のところから」

 谷口の手が、膝の上でわずかに動いた。

「それは、支配人の権限を」

「谷口さんの席は残るよ。ただ、決裁のところに一つ判子が増える。それだけの話だ」

「……本社と相談させていただきます」

「もう話してある。今朝、救急車を待っている間にね」

 柿沼は笑った。

「私は寝ていたわけじゃない。電話はできる」

 谷口は立ち上がり、深く頭を下げて、部屋を出ていった。廊下に出てから、彼は一度立ち止まった。硝子越しにその背中が見えた。彼は右手で自分の首の後ろを掴み、そのまま5秒ほど動かなかった。

 ソファの柿沼は、もう携帯に戻っていた。

 その隣で、早瀬千夏が二本目のエピペンをケースごとテーブルの上に置き、位置を直していた。柿沼の手から30センチのところに、ラベルを彼のほうへ向けて。

 彼女はその作業を、恐ろしく丁寧にやっていた。

3

 朝食の器は、まだ下げられていなかった。

 食堂は事故の現場ということになっていて、久住が「触らないでください」と言い、誰も触らなかった。テーブルの上に、途中まで食べられた皿が、そのまま残っている。

 私は小春を探した。彼女は食堂にいた。

 柿沼の席の前に立って、器を覗き込んでいた。

「おい」

「見ているだけよ」

 彼女は器の縁に指をかけ、少しだけ手前に傾けた。スープが動いて、器の内側に線が残る。

「真悟さん、これ、匂いを嗅いでごらんなさい」

「やめておく」

「嗅いでごらんなさいったら」

 仕方なく顔を近づけた。

 最初に、野菜の甘い匂いがした。そのあとに、別の匂いが来た。乾いた、香ばしい、少し埃(ほこり)っぽい匂いだった。

「……海老だな」

「そうねえ」

 小春はスプーンを取った。

「おい、待て」

「大丈夫よ。私は平気なんだから」

 彼女はスープを掬い、少量を口に含み、しばらく動かなかった。それから飲み込んで、一度目を閉じた。

「これ、厨房の仕事じゃないわ」

「どういうことだ」

「三つあるの」

 小春はスプーンを器に戻した。

「一つ。この海老の香りは、上にあるの。下じゃなくて、上」

「上」

「ええ。もし厨房が海老の出汁でこのスープを作ったなら、海老は野菜の下に潜るのよ。一緒に煮るんですもの、香りが野菜と一体になって、底のほうから上がってくるの。でもこれは違う。海老の匂いが表面に浮いていて、野菜と混ざっていないの。あとから加えたのよ。それも、火を止めたあと」

 私は器を見た。表面に、油の粒が細かく散っている。

「二つ。乾物だわ。これ、生の海老でも、殻を炒って取った出汁でもないの。乾いた海老を粉にして、湯で戻したものよ。だから埃っぽい匂いがするの。生の海老の出汁は、もっと甘くて、生臭さが少し残るものだから」

「……乾燥した海老」

「桜えびか、それに近いものね。うちの台所にもあるわ」

 彼女は器から手を離した。

「三つ。私のスープには、入っていなかったの」

「え」

「私のにも、真悟さんのにも、宮下さんのにも。同じ鍋から注いだのなら、全員の器に同じだけ入っているはずでしょう。入っていたのは、あの方の器だけ」

 小春は、テーブルの上に並んだ器を順に見た。

「だから、鍋じゃないの。器なのよ」

 私の背中に、冷たいものが降りた。

「藤代さんは、鍋を三回味見していたわ」

 彼女は続けた。

「かわいそうに。あの人、一生見つからないものを探しているのよ」

「……小春」

「なあに」

「それを、他の人に言えるか」

「言うわ。だって、あの人のお料理が違うって言われるのは、間違っているもの」

 妻はそう言って、食堂を出ていった。

 そのとき初めて、私は入口に人が立っていることに気づいた。

 宮下老人だった。彼はいつからそこにいたのか、両手を後ろで組んだまま、こちらを見ていた。

「……宮下さん」

「聞いておりました」

 彼は食堂に入ってきて、テーブルの器を一つずつ見て回った。

「わたしは40年やってきましたが、あそこまで速くはできません。奥様は、何をなさっている方ですか」

「……何も。主婦です」

「そうですか」

 老人は器の前で足を止めた。

「雀部さん。昨日、柿沼さんのことをお尋ねになりましたね」

「ええ」

「あの人の金は、あの人の金ではないんです」

 宮下は器から目を離さずに言った。

「5年前、この島の柑橘園が売られました。網野園(あみのえん)という、古い園でしてね。わたしは若いころ、あそこの柑橘を食べて文章を書いたことがある。そういう園です」

「はい」

「買ったのは柿沼さんの会社ということになっていますが、実際に出たのは、地方創生の看板がついたファンドの金です。公的な資金が半分近く入っている。彼はその組成をやって、名義を持って、手数料を取る。買われた側は、借金の形に土地を出して、加工場の権利を取られて、それでも園の名前だけは残った」

「……残った?」

「名前が残っていないと、ブランドとして売れませんから」

 老人はそこで、初めてこちらを見た。

「園主だった網野宗一(そういち)さんは、その2年後に亡くなりました。ご自分でね」

 風の音が、食堂の硝子を一度、大きく鳴らした。

「奥さんが、今、ここの大女将です」

4

 9時の連絡船は、出なかった。

 欠航の連絡が入ったのは9時10分で、それを谷口がラウンジで告げると、誰も何も言わなかった。柿沼だけが「明日の朝は」と聞き、谷口が「未定です」と答えた。

 10時を過ぎるころ、風向きが変わった。

 それまで海から来ていた風が、島の背後から吹き下ろすようになった。松の枝が反対側へ倒れる。庭の砂利が飛んで、硝子に当たって細かい音を立てた。

 島の人間が動き始めたのは、その直後だった。

 三浦朔が軽トラックで桟橋へ下りていき、艇庫のシャッターを開けた。中から小型の漁船を引き出し、ウインチで斜路の上まで巻き上げる。ワイヤーが軋(きし)む音が、風の合間に切れ切れに届いた。彼は船体に太いロープを二本かけ、斜路の脇のコンクリートに埋まった環に通して、それぞれ三回ずつ巻いて締めた。

 涼は薪棚にいた。

 彼は薪の一番上の段を、下ろしていた。両手で三本ずつ抱えて、屋根の下の奥のほうへ積み直している。それから青いシートを広げ、四隅に土嚢(どのう)を置いた。土嚢は最初から用意されていたらしく、薪棚の柱の陰に積んであった。

 久住は雨戸だった。母屋の廊下を端から歩いて、戸袋から重い板を引き出し、溝に落として、桟を掛けていく。一枚ごとに、ガタン、と音がした。

「お手伝いしましょうか」

 私が声をかけると、彼女は驚いた顔をして、それから笑った。

「とんでもない。お客様に」

「暇なんです」

「じゃあ、こっちの端を持っていてくださいますか。風が入ると、戸が持っていかれるので」

 私は言われた通り、戸の端を押さえた。彼女が桟を掛ける。次の戸へ移る。それを八枚繰り返した。

 その間、彼女はほとんど喋らなかった。昨夜あれだけ喋った人が、である。

「久住さん」

「はい」

「今朝のこと、気になさっていますか」

 彼女の手が、桟の途中で止まった。

「……気になりますよ。私が運んだんですから」

「そうですね」

「トレイに載せて、置いて、向きを直しただけです。それしかしていません」

「ええ」

「それしか、していないんです」

 彼女は桟を最後まで掛け、次の戸袋へ歩いていった。

 昼過ぎに、雨が来た。

 最初は横殴りの細かいもので、それがすぐに粒の大きなものに変わった。硝子に当たる音が、一定の間隔から不規則なものになり、やがて音同士が重なって、区別がつかなくなった。

 昼前から、島の人間が総出で台風の支度をしていた。

 三浦朔は桟橋の艇庫から青いブルーシートを何枚も出してきて、繋いである小舟を覆い、四隅に土嚢を置いていた。久住奈津(なつ)が庭に出て、松の落ち葉を熊手(くまで)で掻き寄せていた。掻いた跡が、砂利の上にきれいな平行線を残していた。網野涼は薪棚の前で、屋根の縁から吹き込む雨を測るように、しばらく空を見ていた。

 私は手伝わなかった。結城が梁の話をやめなかったからである。

 午後2時、桟橋が壊れた。

 誰も見ていない。ただ、3時ごろ、雨具を着た朔が戻ってきて、谷口にそう告げた。

「渡し板の付け根が持っていかれた。桁(けた)も一本折れとる」

「船は着けられませんか」

「今の状態やと、着けても人が渡れん。板を渡す足場がない」

「……直せますか」

「凪いだらな。道具は艇庫にある」

 朔は雨具の水を土間で切って、そのまま出ていった。

 私はラウンジの硝子の前に立って、外を見た。

 海は完全に色を失っていた。白い筋が縦横に走って、その下に灰色の塊が動いている。対岸の街は見えない。水平線もない。

 ポケットの中で携帯が震えた。会社からのメールだった。私はそれを開き、読み、閉じた。アンテナは三本立っていた。

 電話はできる。メールも届く。ニュースも読める。

 ただ、誰も来られない。

 背後で、結城の声がした。

「雀部さん。この宿は、いい造りをしていますよ」

 彼は硝子を指で叩いていた。

「梁がいい。この規模の木造で、この開口を取って、それでも音が響かない。壁の中に何か入れていますね」

「……そうですか」

「ええ。ですから、離れで人が倒れても、母屋には聞こえないのです」

 結城はそう言って、満足そうに硝子から離れていった。

 私は、彼が指で叩いた場所を、しばらく見ていた。


第四章 潮止まり

1

 三日目の朝、雨が止んでいた。

 台風は夜半に最も近づき、明け方には東へ抜け始めたのだという。谷口がそう説明した。ただ、風だけは残っていた。雨の音が消えたぶん、風の音がはっきりと聞こえる。母屋の屋根のどこかで、金属が一定の間隔で鳴っていた。

 庭は荒れていた。松の枝が二本折れて敷石の上に落ち、その周りに緑の葉が散っている。砂利が芝生のほうまで飛んで、地面の色を二つに分けていた。

 朝食は、パンと卵とヨーグルトだけだった。スープはなかった。

「大変申し訳ございません」

 谷口が各テーブルを回って頭を下げた。

「本日の連絡船は、終日欠航が決まりました。桟橋の復旧は、風が落ちてからになります」

「明日は」

 柿沼が尋ねた。彼は昨日より顔色がよく、パンを普通に食べていた。

「明日の朝の便は、出る見込みです。ただ、うちの桟橋に着けられるかは、朝になってみないと」

「私は今日、本土に戻る必要があるんだがね」

「……申し訳ございません」

「北の浜はどうだ。あそこなら、風裏だろう」

 谷口が答える前に、三浦朔が食堂の入口から言った。

「北も駄目です。今日はうねりが回り込んどる」

「回り込む?」

「台風が抜けた後のほうが、波は高うなることがあります」

 柿沼は黙って朔を見た。それから、フォークを置いた。

「君は、私を運びたくないのか」

「運べんと言うとります」

 朔はそれだけ言って、下がっていった。

 午前10時ごろ、私は結城に捕まっていた。彼はラウンジの硝子の前で梁の話を続けており、私は逃げる口実を探していた。

 そのときである。

 庭のほうから、エンジンの音がした。

 私は硝子越しに外を見た。軽トラックが、艇庫の脇の置き場から出てくるところだった。運転席に、麻のジャケットが見えた。

「……柿沼さん?」

「ああ、あの方は毎年ご自分で運転なさいます」

 久住がおしぼりを配りながら言った。

「島の中は免許があれば誰でも。道が一本しかありませんから」

「一本?」

「桟橋から北の浜まで、ぐるっと一本です。途中に何もありません」

 軽トラックは砂利を鳴らして敷地を出て、坂を上っていった。荷台に何も積んでいないので、後ろが軽く跳ねている。

 30分ほどして、電話が鳴った。

 谷口が取り、二言三言話して、顔色を変えた。

「三浦さん! 三浦さん、車を!」

 朔と谷口が出ていき、私と結城もその後を追った。宮下老人が「わたしも」と言ったが、谷口が制した。

 現場は、島の北側へ回る坂道の途中だった。

 道は片側が山、片側が海側の斜面で、その斜面側にコンクリートの擁壁(ようへき)が伸びている。軽トラックは、その擁壁に左の前を当てて止まっていた。バンパーが潰れ、ボンネットの角が持ち上がっている。だが車体は横を向いておらず、まっすぐ壁に寄りかかったような形だった。

 柿沼は、車の外に出て、路肩の草の上に座っていた。

「柿沼様!」

「大丈夫だ。……大丈夫じゃないが、生きてる」

 彼は左の肩を右手で押さえていた。額の生え際に擦り傷があり、血が細く一筋垂れている。

「どうされました」

「ブレーキが利かなかった」

 谷口の動きが止まった。

「坂を下り始めたところで、踏んでも下がらなかった。二回、三回踏んだが、床までいった」

「……それで」

「サイドを引いた。引いたが遅くて、壁に当てた。……速度が出ていなかったのが幸いだ。上りで一度止まっていたからな」

 朔が、車の前へ回った。

 彼はまずタイヤの前にしゃがみ、ホイールの内側を覗いた。それから立ち上がってボンネットを開けようとしたが、歪んで開かない。彼は車の下に潜った。

 誰も何も言わなかった。風の音だけがしていた。

 しばらくして、朔が出てきた。腹と肘に土がついている。彼は右手の親指と人差し指を擦り合わせた。指の腹が濡れて、色がついていた。

「ブレーキ液が抜けとります」

「どこから」

「ホースです。左の前輪の上」

「破れていたんですか」

 朔はしばらく答えなかった。彼は自分の指をもう一度見て、それをズボンで拭いた。

「……古い車ですけん」

 彼は谷口を見ずにそう言った。

「20年乗っとります。ゴムは硬うなります」

「そうですか」

 谷口は、それ以上聞かなかった。

 柿沼を軽自動車の助手席に乗せ、私たちは宿へ戻った。車の中で、柿沼は一度も口をきかなかった。

2

 柿沼の左肩は、打撲だった。

 早瀬千夏が電話で本土の医師と話し、湿布と三角巾で固定して様子を見ることになった。骨に異常があれば動かせないはずだ、というのがその根拠だった。

 彼はソファに座り、三角巾で吊った左腕を膝の上に置いて、右手で携帯を操作していた。

 結城が動いたのは、その30分後である。

 彼はラウンジの中央に立ち、両手を軽く広げた。芝居がかった仕草だったが、本人は完全に真剣だった。

「皆さん。少しお時間をいただきたい」

 誰も動かなかった。谷口は電話中で、久住は雑巾を持ったまま立ち止まり、宮下老人はコーヒーを飲んでいた。

「三度です」

 結城は指を三本立てた。

「一昨日の夜、一酸化炭素。昨日の朝、甲殻類。そして今朝、制動装置の故障。すべて同じ人物に起きている」

「結城さん」

 私は止めようとした。

「まあ聞きたまえ、雀部さん。私は数の話をしているのです」

 彼は指を一本ずつ折った。

「一度目は事故です。二度目は不運です。三度目は、統計の外側にある。この宿の客は十名に満たない。3日間で、一人の人物にだけ、三種類の異なる災難が起きる確率を計算してごらんなさい。ゼロにはなりませんが、ゼロと呼んで差し支えない数になる」

「……何がおっしゃりたいんですか」

 久住が言った。声が硬かった。

「連続殺人未遂です」

 ラウンジが静かになった。

 風の音が、硝子の向こうで一段大きくなった。

 そして、笑い声が起きた。

 柿沼である。彼は右手で携帯を伏せ、肩の痛みに顔をしかめながら、それでも笑っていた。

「先生。あなた、本を書いてらっしゃるそうだね」

「ええ。前作は」

「読んでいないが、想像はつく」

 柿沼は身を起こした。

「私を狙う人間がいる、と言いたいわけだ。だが、それは違う」

「なぜです」

「単純な話でね。狙われているとしたら、私は今ここで震えていなければならない。だが私は震えていない。震える理由がないからだ」

「理由がない?」

「三つとも、この宿の設備の話だからだよ」

 彼は指を三本立てた。結城とまったく同じ仕草だった。

「古いストーブ。管理されていない厨房。20年物の軽トラック。犯人がいると考える必要はどこにもない。ここには、事故が起きるだけの条件が最初から揃っている。それだけの話です」

「しかし柿沼さん、それでは」

「それでいいんだ、私は」

 柿沼は微笑んだ。

「犯人がいるなら、警察の仕事になる。設備の話なら、私の仕事になる。どちらが早く片づくと思いますか」

 結城は口を開いて、閉じた。

 谷口が電話を切って戻ってきた。彼は結城と柿沼を交互に見て、それから深く頭を下げた。

「……ご不便をおかけしております。設備につきましては、点検の記録をすべてお出しします」

「そうしてくれ」

 柿沼は携帯を取り上げ、また画面に目を落とした。

 結城は、しばらくその場に立っていた。それから私の隣に来て、腰を下ろした。

「雀部さん」

「はい」

「あの方は、賢い人だ」

「そうですね」

「賢すぎて、自分が死ぬ可能性を、値段のつく話に変換してしまった」

 彼はそう言って、ソファの背に体を預けた。

「私は間違っているかもしれません。ですが、間違っている場合、失うものは私の面目だけです」

 私は何も答えなかった。

 胃の上のあたりが、朝から固かった。昨夜からだ。硬いというより、そこだけ体温が低いような感じがする。私はそこを手のひらで押さえて、しばらく息を吐いた。

 三度。一酸化炭素。甲殻類。ブレーキ。

 妻はどこにいるだろうと、私はふと思った。

 振り返ると、小春は硝子の前の椅子に座って、海を見ていた。膝の上に何も置かず、背筋を伸ばして、ただ外を見ていた。

「何を見ているんだ」

「波」

「面白いか」

「いいえ。でも、他に何もありませんもの」

 彼女は少しだけこちらを向いた。

「今夜のお食事、最後だそうよ。楽しみだわ」

3

 昼過ぎ、私は宿の中を意味もなく歩いていた。

 柿沼は部屋で休み、結城は自室に籠もり、宮下老人は読書をしていた。谷口は電話をかけ続けていた。することが何もなかった。

 厨房の裏口の前を通ったとき、久住奈津がいた。

 彼女は客室から下げてきたシーツを抱えて、洗濯機の前に立っていた。私が通りかかっても気づかない。

 彼女は洗濯機の蓋を開け、シーツを入れ、蓋を閉めた。それからボタンを押さずに、しばらく立っていた。そして蓋を開け、シーツを一度取り出し、畳み直して、また入れた。同じことを、私が見ている間に二度やった。

 薪割り場では、涼が薪を割っていた。

 風はまだ強い。青いシートは半分めくれて、土嚢の一つが転がっていた。彼はそれを直さないまま、割り台に薪を立て、斧を振り下ろしていた。

 昨日までの音と違った。カン、という乾いた音の間隔が不規則で、三度に一度、鈍い音が混じる。刃が芯を外しているのだ。外すと薪が倒れ、彼はそれを拾い、また立てて、振り下ろす。

 私が見ている間に、彼は同じ一本を四回立て直した。

 艇庫では、朔が座っていた。

 斜路に上げた漁船の陰に、木箱を置いて、その上に腰かけている。両手を膝の間に垂らして、何かを持っていた。距離があってよく見えなかったが、黒い、細い、短いものだった。彼はそれを親指で撫でていた。何度も、同じ方向に。

 私が近づくと、彼は顔を上げ、それを作業ズボンの尻ポケットに入れた。

「どうも」

「……どうも」

「船、上げるの大変でしたね」

「毎年やっとります」

「桟橋、直せそうですか」

「凪いだらな」

 会話はそれで終わった。私が去りかけると、彼が言った。

「あの車」

「はい」

「あんな乗り方したら、坂で危ないんじゃ」

「……はあ」

「毎年、あの人だけが乗るんじゃ。誰も止めん」

 彼はそう言って、また下を向いた。

 母屋に戻る途中、庭の隅で大女将を見た。

 網野睦(むつみ)は、庭の西の端に立っていた。そこから斜面の畑が見える。柑橘の段々畑が、雨に洗われて、緑の部分だけがやけに鮮やかになっていた。その中に、黒く枯れた帯が三本。

 彼女は動かなかった。

「大女将さん」

 声をかけると、彼女は振り返った。

「ああ、雀部さん。えらい荒れましたなあ」

「畑は大丈夫ですか」

「うちの畑ではありませんけん」

 彼女はそう言って、笑った。皺が深くなり、目が細くなった。

「昔はうちのでした。今は違います。あの黒いところは、手が入らんようになったところですわ。買うた人が、木を切るのに金がかかる言うて、そのままにしとります」

「……そうですか」

「切らんでも、腐って倒れますけんね。いつかは」

 彼女はもう一度畑を見て、それから母屋のほうへ歩き出した。歩幅が小さい。左足を少しだけ引きずるような歩き方だった。

「雀部さん」

「はい」

「今夜のお料理、うちの子が腕を振るいます。ようけ召し上がってください」

 午後3時を過ぎて、雨が戻ってきた。

 最初の一粒が硝子に当たる音を、私はラウンジで聞いた。それから5分もしないうちに、外の景色が白くなった。庭の松も、薪棚も、海も、全部が同じ色になった。

4

 最終夜の食事は、7時に始まった。

 卓上に蝋燭(ろうそく)が立てられていた。停電に備えてのことだと谷口が説明したが、実際にはそれが照明の一部になっていて、部屋は薄暗く、温かかった。硝子の向こうは真っ黒で、雨粒が当たっては流れていくのが、蝋燭の光でときどき見えた。

 最初は、島の魚の椀だった。

 澄んだ汁の中に、白身の切り身が一切れ。上に薄く切った柑橘の皮が一片。飲むと、昨日の昆布の水出しと同じ味の底に、魚の骨を焼いた香ばしさが重なっていた。

「骨を焼いてるわ」

「そうねえ、と言われても俺にはわからん」

「わからなくてもいいのよ。おいしいでしょう」

 二皿目は、鯛だった。

 一尾を丸ごと、薪窯で焼いてある。皿に載って出てきたとき、皮がまだ音を立てていた。取り分けると、身が骨からきれいに離れ、内側から湯気が上がった。塩だけで、他に何もない。

 三皿目に、肉が出た。

 島の若鶏を、骨付きのまま焼いたものだった。皮が黒に近い茶色で、その下の脂が透けている。噛むと、皮が割れて、中の身が締まっていた。付け合わせは、灰で焼いた根菜だった。

 誰も喋らなくなった。

 柿沼も、三角巾で吊った左腕をそのままに、右手だけで食べていた。宮下老人は、一口ごとに間を置いていた。結城は珍しく黙っていた。

 デザートの前に、谷口が立った。

「本日は最終日でございます。よろしければ、皆様、厨房の窯の前へお越しください。シェフが最後の一皿をお作りいたします」

 厨房の入口に、簡単なカウンターが設えてあった。窯の開口部から2メートルほどの場所である。近づくと、熱が顔に当たった。

 藤代灯が、窯の前に立っていた。

 彼女は熾の上に鉄板を置き、その上で柑橘を半分に切ったものを焼いていた。切り口が焦げて、泡が立っている。焼けたものを皿に取り、上から冷たいクリームを落とす。それだけの皿だった。

 私は一口食べた。熱いものと冷たいものが同時に来て、酸と甘さが最後に残った。

「藤代さん」

 小春が言った。

「あの、ノートを」

「あ」

 灯は顔を上げた。それから、笑った。

「そうでした。お約束していましたね」

 彼女は厨房の奥へ行き、戻ってきた。手に、黒い表紙のノートを持っていた。A4より少し小さい。角が丸くなって、表紙に油の染みがいくつもある。背が布テープで補修されていた。

「これです」

 彼女はそれをカウンターの上に置き、開いた。

 右のページに、細かい字がびっしり並んでいた。文字は小さく、角ばっていて、行の間に矢印や数字が書き足されている。ところどころに、線で消された箇所があった。

「うわ」

「読めませんでしょう。私も3年かかりました」

 小春は身を乗り出して、ページを覗き込んだ。彼女がこんなに前のめりになるのを、私は久しぶりに見た。

「これ、温度ですの」

「はい。窯の中の位置と、時間です。あの人は温度計を使わなかったので、位置で書いてるんです。奥から何センチ、と」

 そのとき、横から手が伸びた。

 柿沼だった。彼は右手でノートを取り上げ、自分のほうへ引き寄せた。

「これか」

「……あの」

「見せてもらうよ。話には聞いていた」

 彼は片手でページをめくった。三枚、四枚、五枚。指の腹で紙を送る音がした。

「藤代さん。これは資産だ」

「返してください」

「返すよ。返すが、聞いてくれ」

 彼はページをめくる手を止めた。

「昨日の話の続きだ。私はこれを売れと言っているんじゃない。この中身に、あの人の名前をつけて、世に出そうと言っている。誰も損をしない」

「損をします」

「誰が」

「あの人が」

 灯の声が、少しだけ大きくなった。

「これは、まだ途中なんです。線が引いてあるでしょう。あの人は毎年書き直していました。完成していないものに名前をつけて売るのは、あの人が一番嫌ったことです」

「完成しないものに、価値はない」

「あります」

「藤代さん」

「あります」

 柿沼は、そこでノートから顔を上げた。

 彼の表情は、怒っていなかった。むしろ、少し疲れた顔をしていた。それから彼は、ページを一枚、指で挟んだ。

「そうか。わかった」

 紙の裂ける音がした。

 高い音ではなかった。低く、短く、途中で一度引っかかるような音だった。

「――やめ」

 柿沼は、その一枚を、窯の開口部に放った。

 紙は空中で一度ひるがえり、熾の上に落ちた。落ちた瞬間は何も起きなかった。白いまま、赤い塊の上に乗っていた。それから縁が茶色くなり、内側へ向かって色が走り、丸まりながら黒くなった。炎が一度だけ立ち、消えた。

 3秒ほどだった。

「72ページです」

 灯が言った。声が出ていなかった。

「仔羊です。仔羊の、ローストの」

「私は、価値を証明しただけだ」

 柿沼はノートをカウンターに置いた。

「今、君は焼かれた一枚を惜しんだ。惜しむということは、そこに価値があるということだ。価値のあるものは、世に出すべきだ。……明日の朝、もう一度話そう」

 彼は左腕を庇いながら、厨房の入口を出ていった。

 誰も動かなかった。

 灯は窯の前に立ったまま、熾を見ていた。もう何も残っていない。灰の上に、少し白っぽい部分があるだけだった。

「藤代さん」

 谷口が近づいた。

「……大丈夫です」

「しかし」

「大丈夫です。片づけます」

 彼女は鉄板を降ろし、火掻き棒を取って、熾をならした。白い部分が崩れて、他の灰と混ざって、見分けがつかなくなった。

「雀部さん」

 結城が私の腕を掴んだ。

「今の音を聞きましたか」

「……音?」

「紙が燃える音ですよ。この窯は開口部が横に広い。だから音が外へ出る。もし奥に深い窯なら、あの音は聞こえなかった」

「結城さん」

「いや、失礼。しかし建築というのは」

 彼はそこから5分ほど喋り続けた。私は相槌を打ちながら、灰をならす灯の背中を見ていた。

 人が一人ずつ、厨房の前から離れていった。宮下老人が首を振りながら出ていき、久住が皿を下げ、谷口が谷口の仕事に戻った。

 私が部屋に戻ったのは、10時前だった。

 部屋の明かりは点いていた。布団が二組敷いてある。妻の姿はなかった。

 風呂だろうと思って、私は上着を脱いだ。


第五章 薪棚

1

 妻が戻ってきたのは、10時15分だった。

 障子が開く音がして、私は畳んでいた上着から顔を上げた。小春は寝間着ではなく、夕食のときの服のままだった。髪の先が濡れている。肩のあたりにも、細かい水滴が乗っていた。

「風呂じゃなかったのか」

「外に出ていたの」

「外?」

「雨が弱くなったでしょう」

 確かに、9時半を過ぎたころから、硝子に当たる音が細くなっていた。風も一度落ちて、庭の松が動かなくなっていた。

 小春は座卓の前に座り、湯呑みに手を伸ばした。中身は空だった。彼女はそれを置いて、両手を膝の上に揃えた。

「真悟さん」

「うん」

「私、あの人を片付けといたから、あとはお願いね。手が疲れちゃった」

 部屋の音が消えた。

 正確には、消えていない。雨の音も、遠くの風の音も、廊下の外の空調の音もそのままだった。ただ、私の耳がそれを拾わなくなった。

「……何を」

「柿沼さん」

「片付けたって、何を」

「頭を叩いたの。後ろから」

 小春は湯呑みをもう一度持ち上げて、空なのを確かめ、また置いた。

「薪割り場よ。あの方、あそこで電話をしていたわ」

 私は膝立ちになっていた。いつそうしたのか覚えていない。

「小春」

「なあに」

「なんで」

「聞いてしまったからよ」

 彼女は顔を上げた。表情は、朝、スープの匂いを嗅いだときとまったく同じだった。

「電話の向こうの人に、こう言っていたの。『一枚焼いたら顔色が変わった。あれで落ちる』って。それから、笑ったの」

「……」

「あれは、交渉のためにやったのね。惜しむかどうかを試すために、一枚焼いたの。焼いてみせれば値段がつくと思ったから」

 小春は膝の上で手を組み直した。

「私、料理を粗末にする人が嫌いなの。真悟さんも知っているでしょう」

「知ってるが、あれはノートで」

「同じことよ」

 彼女は言った。

「あの人が焼いたのは紙じゃないわ。あれは、堂島さんが10年かけて直し続けた温度と時間の記録なの。藤代さんが3年かけて読めるようになったものなの。それを、値段を吊り上げるために燃やしたのよ」

 彼女はそこで、少しだけ首を傾けた。

「あれは、料理を燃やしたのと同じですわ」

 私は何も言えなかった。

 言えないまま、頭の中では別の部分が勝手に動き始めていた。時刻。人の位置。雨。足跡。それはもう1年前に一度動いたことのある回路で、動き方を覚えていた。

「小春。落ち着いて答えてくれ。誰かに見られたか」

「見ていないと思うわ。誰もいなかったもの」

「そこへ行く途中は」

「廊下は通っていないの。部屋の窓から出て、庭を回ったわ」

「戻りは」

「同じよ」

「何か触ったか」

「斧」

 私は目を閉じた。

「他には」

「何も。あの方にも触っていないわ。倒れたあと、動かしていないもの」

「斧はどうした」

「割り台に戻したわ」

「……戻した?」

「道具ですもの。出しっぱなしはいけないでしょう」

 小春は立ち上がり、押入れから寝間着を出した。

「私、寝るわね。眠くなってしまったの」

「待て。待ってくれ」

「あら」

 彼女は寝間着を抱えたまま、こちらを見た。

「明日の朝ごはん、あるかしら」

 私は答えなかった。

 答える言葉が、この世に一つも存在しなかった。

 庭に出たのは、10時半だった。

 部屋の窓から出て、松の陰を伝って西へ回った。地面は水を含んでいて、靴が沈む。砂利のところだけが音を立てるので、そこは芝の上を歩いた。

 薪棚の屋根の下は、暗かった。

 外の常夜灯(じょうやとう)が届く範囲は、屋根の縁から1メートルほどしかない。その外側、割り台のあたりは影になっている。

 柿沼敬吾(けいご)は、そこにいた。

 うつ伏せに倒れていた。頭は薪棚のほうを向き、右腕が体の下に折れ込んでいる。左腕は三角巾で吊ったままで、その白い布だけが暗がりの中で浮いて見えた。

 少し離れたところに、携帯電話が落ちていた。画面が上を向いていて、濡れた表面が常夜灯を細く反射している。

 私はしゃがんだ。膝が地面についた。

 後頭部の、右寄りの位置に、へこみがあった。髪が濡れて張りついているので、輪郭がはっきり見える。

 四角かった。

 角が、直角に近い。一辺は3センチほどで、その縁だけが陥没していた。

 私は割り台を見た。

 斧は、そこに戻されていた。刃を下にして、柄を台の縁に預けて。3日間ずっとそうであったのと、まったく同じ位置に。

2

 私は屋根の柱に手をついて、選択肢を数えた。

 一つ。何もしない。斧の柄に妻の指紋がある。却下。

 二つ。斧を海に捨てる。網野涼が毎朝使う道具だ。なくなれば10秒で分かる。却下。

 三つ。この人ごと消す。石段を七十いくつ降ろす。却下。

 四つ。

 私は顔を上げた。

 屋根の下に、二年分の薪が石垣のように積んである。その足元に、人が倒れている。

(崩れたことにすればいい)

 考えは一行だった。一行で言えるものはたいてい正しい。前の宿で私が失敗したのは、途中から目的が四つも五つもに増えたからだ。

 薪が崩れて、下敷きになった。それだけだ。

 私は袖で手を覆って、上段から一本抜いた。柿沼の背中に落とした。跳ねて、砂利に転がった。

 二本目。三本目。四本目。

 三歩下がって見た。

 男が一人うつ伏せに倒れていて、そのまわりに薪が四本落ちていた。

(これで死ぬか)

 死なない。四本落ちてきたら、痛いだけだ。人が死ぬには、もっと要る。もっとたくさん、もっと高いところから、一度に。

(山ごと落とすしかないのか)

 私はその考えを、一度、頭の隅へ押しやった。

 先に確かめることがあった。

 後頭部の傷は四角い。落ちてきた薪が当たったことにするなら、四角い断面の薪がなければならない。

 私はしゃがんで、足元の一本を拾い、傷に近づけた。

 合わない。断面が丸い。

 次の一本。合わない。

 次。楔(くさび)だ。合わない。

 私は上段から抜いては当て、抜いては当てた。角度を変えて、二度、三度。

(型合わせだ)

 保育園にあった。丸い穴には丸い積み木を入れる、あれだ。

 15本目で、私は声に出していた。

「惜しい」

 言ってから、口を押さえた。

 19本目で、合うものが出た。

 細い。硬い。樹皮が縦にひび割れている。割れた面が階段のように角ばっていて、その角の一つが、傷の四つ角にぴたりと重なった。

 私は薪を離して、樹皮を爪で剥いだ。下の木肌は赤みのある褐色だった。

 初日の夕方、妻が薪棚の前で言っていた。

 ――これは桜。こっちは樫ね。この細いのは、柑橘の木だわ。古木を切ったのねえ。

 私は携帯を出して、光を山に向けた。

 薪棚は、三つに分かれていた。

 右の三分の一は太くて樹皮の厚いもの。真ん中は樹皮の滑らかなもの。そして左の端、私の立っているところの真上だけが、細くて、硬くて、皮のひび割れたものだった。

 網野涼は、樹種ごとに分けて積んでいた。

(左だ)

 四角い角を持つのは、柑橘だけだった。

 私は割り台のほうを向いた。斧が立てかけてある。妻の手が触れている。

 上着の裾(すそ)で柄を拭いた。上から下まで、丁寧に。

 拭き終えて、光を当てた。

 そこだけ艶が消えていた。まわりの木肌は雨で鈍く濡れているのに、拭ったところだけ乾いて白い。

 私は10秒ほど、それを見ていた。

(涼さんの指紋も、消えたな)

 戻す方法はなかった。

 私は斧を割り台に戻した。刃を下にして、柄を台の縁に預けて。妻が置いたのと、同じ角度に。

 11時10分だった。


3

 この人を、3メートル運ばなければならない。

 薪棚の左端の真下まで。柑橘の下まで。

 抱えるのは無理だ。引きずれば砂利に跡が残る。何かに載せて引くしかない。

 昨日、三浦朔が船をブルーシートで覆っていた。あれは艇庫から出てきた。

 用具入れは、裏口の脇にある。初日に谷口支配人が「何かございましたら、こちらに一通り」と開けて、すぐ閉めた。私は水道の元栓の話だと思って見ていなかった。

 私は庭を回って、裏口から中へ入った。土間で靴の水を切った。誰にも会わなかった。

 開けた。棚が三段。園芸鋏(ばさみ)、針金、麻紐(あさひも)。ゴム引きの手袋の束。厚手のゴミ袋。熊手、箒(ほうき)、ちりとり。

 懐中電灯は中段の隅にあった。ついた。

 手袋を二双取って、一双をはめた。

 艇庫は桟橋の脇にある。行くには苔の石段を降りる。

 一段目。二段目。三段目。

 四段目で滑った。

 私は尻から落ちて、背中で三段ぶん滑り落ちた。左肘が石の角に当たった。懐中電灯が跳ねながら転がっていって、折れ返りで消えた。

 仰向けのまま、雨を顔に受けた。

(設計した人間を訴えたい)

 起き上がって、7段下の懐中電灯を拾った。スイッチを入れた。

 ついた。落ちた拍子に接触が戻ったらしい。

 艇庫は鍵がかかっていなかった。油と潮の匂いがした。

 中は異様に整っていた。棚一面の缶も箱もロープもパックも、全部ラベルを正面に向けて置いてある。奥のものも手前のものも例外がない。

(三浦さんだな)

 電池のパックを取った。封が切れていて二本残っている。二本とも抜いて、懐中電灯に入れた。安定した光が出た。

 空のパックを棚に戻した。

 ラベルを正面に向けて。

(なぜ揃えた)

 奥の棚にブルーシートが畳んで積んであった。一枚取った。四つに折って三つに折ってある。角が全部揃っている。

 戻せるように一度開いて、畳み直してみた。

 角が揃わなかった。もう一度。揃わない。三度目。揃わない。

 折り目に沿って畳んでいるのに、最後に必ず三角形が余る。

 丸めて抱えて出た。

 石段を登った。登りは楽だった。足元が見える。

 登りきったところで、私は足を止めた。

 母屋の二階の窓に、明かりがついていた。

 10秒で消えた。

 私は庭を横切って、屋根の下に入った。

 懐中電灯を柱の根元に置いて、光を天井に向けた。屋根板に当たった光が、屋根の下をぼんやり照らした。外の常夜灯は、屋根の縁から1メートルのところで止まっている。その内側は、この光しかない。

 柿沼はさっきと同じ姿勢で伏せていた。

 私はシートを広げた。

 11時50分だった。


第六章 古木

1

 うつ伏せの人間は、仰向けにならない。

 肩を掴んで引いた。上半身だけ浮いて、また落ちた。

(重いんじゃない)

 掴むところがなかった。上着は雨を吸って、掴むと布が伸びるだけで中身がついてこない。

 仰向けは諦めた。シートを横に広げて、押した。三度押して半分乗った。もう一度押して全部乗った。

 シートの端を両手で握った。

 引いた。

 滑った。

 濡れた砂利の上で、ビニールはよく滑った。私が思っていたよりずっとよく滑った。柿沼敬吾は3メートルを一息で走り抜けて、薪棚の一番下の段に頭から突っ込んで止まった。

 私は握ったままの姿勢で固まっていた。

(そりだ)

 子どものころに引いたことがある。同じだった。

 母屋を見た。窓は暗い。

 薪棚の下を見た。

 柿沼は、薪棚に額を押しつけて伏せていた。

(なんで頭から突っ込んでるんだ)

 引き戻すことにした。足のほうへ回って、シートの端を掴んで引いた。

 シートだけが抜けた。

 体は動かなかった。ビニールは体の下から気持ちよく滑り出てきて、私は尻餅をついた。

(さっきは滑ったのに)

 私はシートを畳んで脇へ置き、柿沼の肩を押した。20センチずつ、三回に分けて戻した。

 三歩下がって、位置を見た。

 頭の真上に、柑橘の区画があった。細くて、硬くて、皮のひび割れた薪が、三段ぶん積み上がっている。

 そのとき、三角巾がほどけた。

 柿沼は昼の事故から左腕を吊っていた。押したり引いたりしているうちに、首の後ろの結び目がゆるんで外れた。腕が体から離れて、変な角度に伸びた。

 私は腕を戻して、布の両端を持った。

 持ったまま、動けなかった。

(どう結ぶんだ、これは)

 中学の保健で習った気がする。覚えているわけがない。

 私はネクタイの結び方でやった。

 一方を長く垂らして、短いほうに巻きつけて、輪に通す。

 きれいに締まった。

(誰も三角巾の結び目なんか見ない)

 私は心の底からそう思った。

 0時20分だった。


2

 上段に手を伸ばして、両手で山の上のほうを押した。

 動かない。

 肩を入れて体重をかけた。動かない。横に回って側面を押した。動かない。

(積んであるだけだろう)

 積んであるだけのものが、なぜ人間の体重で動かない。

 私は柱に足をかけて、そこから山へ肩からぶつかった。

 跳ね返されたのは私のほうだった。

(上からいく)

 私は薪棚によじ登った。二年分の薪の上に立つと、屋根の裏が近かった。

 膝を曲げて、その場で跳ねた。

 一回。二回。三回。

 上の段が動いて、奥へ落ちた。

 薪棚は壁との間に隙間を空けて積んである。空気を通すためだ。私が上から踏み込んだぶん、上段は前ではなく後ろへ滑って、壁との隙間へ吸い込まれるように落ちていった。

 私は山の上に立って、それを見送った。

(そっちかよ!!)

 前には一本も落ちていない。柿沼の上には何も載っていない。私は壁の裏に十数本を捨てただけだった。

 降りた。

(下だ)

 膝をついて、柑橘の区画のいちばん下の段に手をかけた。床の角材の上に組んである一本を、両手で掴んだ。

 腰を落として、引いた。

 3センチ出た。

 もう一度。5センチ。

 私は足を突っ張って、全体重で引いた。

 抜けた。

 抜けた瞬間に、その上の段が下がった。下がった段が前へ滑り出して、その上の段の尻を持ち上げ、持ち上がった段が屋根の裏を擦って、外れた。

 音が、上から来た。

 私は仰向けに転がって、屋根の柱まで這った。

 柑橘の区画が、三段ぶん、まとめて前へ倒れてきた。

 一本ずつではなかった。壁のまま倒れてきた。倒れながら崩れて、砂利に当たって跳ねて、跳ねたものが後ろから来たものに押されて、屋根の外まで転がっていった。

 音は、長く続いた。

 私は柱を掴んで、それが終わるのを待った。

 終わった。

 雨の音が戻ってきた。

 私は柱から手を離して、懐中電灯を拾った。

 光を当てた。

 柿沼敬吾は、いなかった。

 薪の山があった。

 私の胸ほどの高さの、柑橘の薪だけでできた山が、屋根の下いっぱいに広がっていた。屋根の外にも転がり出て、庭の飛び石の上まで届いていた。

 外へ出たぶんだけが、常夜灯に当たっていた。白っぽい断面が、いくつも、こちらを向いていた。

 腕も、足も、上着の裾も出ていなかった。

 私は光を左右に振った。

(どこだ)

 山の裾を回って、反対側から当てた。

 見えなかった。

 私は膝をついて、いちばん手前の一本を持ち上げた。持ち上げて、下を見た。薪だった。その下も薪だった。

(埋まってる)

 完全に埋まっていた。

 私はしゃがんだまま、山を見上げた。

 そして、薪棚を見た。

 右の三分の一と、真ん中の三分の一は、初日の夕方と同じ姿で立っていた。断面を手前に、角度を互い違いに、隙間を均等に空けて。一本も欠けていなかった。

 左の三分の一だけが、床まで、きれいに無くなっていた。

 1時50分だった。


3

 私は薪を一本、山から取った。

 濡れていた。

 雨は屋根の下まで吹き込んでいる。倒れた薪は雨に当たり、砂利の泥を吸って、樹皮の割れ目に土が入っていた。

 私はその一本を持ったまま、薪棚の左を見た。

 床から屋根の下まで、何もない空間がある。ここに三段ぶんの薪が積まれていた。何本あったのかは分からない。百本では足りない。

(戻すのか)

 戻すには、まず柿沼を掘り出す。掘り出して、どかして、百何十本を一本ずつ拾って、断面を手前に、角度を互い違いに、隙間を空けて、床から三段ぶん積み直す。

 網野涼は、それを毎朝やっている。

 私は一本を積んでみた。角材の上に置いて、次の一本を隣に置いた。二本目が転がった。押さえて、三本目を置いた。二本目がまた転がった。

 私は座り込んだ。

(濡れてる)

 積み直したところで、その区画の薪だけが濡れて泥をかぶっていることになる。右の三分の一と真ん中の三分の一は乾いている。左だけが濡れている。

(夜のうちに、左だけが雨に濡れる理由が要る)

 そんな理由はない。

 私は時計を見た。

 2時5分。

 夜明けは5時半だ。

 3時間半で、百何十本を、あの積み方で。積み直したあとに、乾かす方法まで考えて。

 私は立ち上がって、もう一度だけ、山の裾に手をかけた。

 上の一本をどけた。下の一本をどけた。その下も薪だった。

 私は手を止めた。

 手袋の指先が裂けていた。

 私は屋根の柱に背中をつけて、そのまま座った。

 雨が屋根を打っていた。

(終わりだ)

 そう思った。思ってから、私は少し待った。何か思いつくのを待った。

 何も思いつかなかった。

 私は膝の上に肘をついて、両手で顔を覆った。

 覆ったまま、そうしていた。

 どれくらいそうしていたか、分からない。屋根を打つ雨の音が、途中で細くなったのは覚えている。細くなって、それから止んだ。止んだあとの静けさで、私は顔を上げた。

(戻せない)

(戻したら、もっとおかしい)

(このままのほうが、まだましだ)

 そして、笑いそうになった。理由は分からない。笑いそうになって、口を押さえた。

 立ち上がった。

 シートを丸めて抱えた。懐中電灯を拾った。手袋を外してポケットに入れた。

 石段を降りて、艇庫にシートを返した。棚の奥の積んであるシートの上に載せた。載せたやつだけ、明らかに畳み方が違っていた。

 私はそれを直さなかった。

 石段を登った。

 登りきったところで、空が変わっていた。

 雨が上がって、東の低いところが、灰色から白へ動き始めていた。

 私は薪割り場のほうを見た。

 見えた。

 母屋の角を回る手前、庭の飛び石の三つ目のところから、薪の山が正面に見えた。屋根の下からあふれて、庭に流れ出している。まだ暗いのに、輪郭がはっきりしていた。

 私は歩いた。

 渡り廊下の硝子戸を開けて、中に入った。

 廊下の突き当たりの窓から、見えた。

 同じ山が、硝子の枠の中に収まっていた。屋根の下に薪が満ちていて、その手前の砂利に、こぼれた薪が扇のように広がっている。

 私は歩いた。

 階段の踊り場に、小さな窓がある。

 そこからも見えた。

 高さがあるぶん、山の全体が見えた。屋根の下の右側と真ん中に、整然と積まれた壁が二枚。左側は空。そして床に、白っぽい薪の山。

 私は歩いた。

 ラウンジを通った。海に面した一面の硝子は、山とは反対を向いている。

 だが西の端に、小さな地窓(じまど)がある。

 私はしゃがんだ。

 そこからも見えた。

 低い位置から見ると、山の稜線(りょうせん)が屋根の桁と重なって、薪が屋根を支えているように見えた。

 私は立ち上がった。

 廊下を歩いて、部屋の前まで来た。

 襖(ふすま)に手をかけて、止めた。

 もう一度、廊下を戻って、突き当たりの窓から見た。

 まだあった。

 私は部屋に入った。

 上着を脱いだ。泥がついていた。裂けた手袋をゴミ袋に入れ、袋を鞄に押し込んだ。

 布団に入った。

 小春が寝返りを打った。

「……真悟さん、寒いわ」

「うん」

 それきり静かになった。

 私は仰向けになった。左の肘が痛んだ。右の人差し指の爪が割れていた。右足の甲が腫れていた。

 天井を見た。

 4時20分だった。


4

 騒がしくて起きた。

 跳ね起きてから、自分が寝ていたことに驚いた。

 外は明るい。雨は上がっている。

 小春は隣で寝ていた。

 廊下に出ると、人の声が庭のほうからしていた。私は上着を掴んで、渡り廊下を抜けた。

 薪割り場の屋根の下に、人が集まっていた。

 網野涼が、山の前に立っていた。手にマッチの箱を持っていた。

 谷口支配人、久住奈津、三浦朔。少し遅れて宮下と結城蒼。藤代灯は前掛けのまま来た。網野睦は、母屋の縁側から見ていた。

 誰も、柿沼敬吾を探していなかった。

 全員が、薪を見ていた。

「昨日の晩は、なんともなかったんか」

 朔が涼に聞いた。

「なんともないです」

 涼の声は掠れていた。

「おれが積んだんじゃ。三日前に積み直したところで」

「そうか」

「崩れるように積んどらんです」

 涼は屋根の下に入って、薪棚の右側に手を当てた。それから真ん中に当てた。そして、左の何もない空間の前に立った。

「なんで、ここだけ」

 三浦朔が薪棚の前に立って、山を見上げた。

「こっちは崩れとらん」

 彼は右の三分の一を撫でるように、左から右へ手を動かした。

「揃うとる。一本も抜けとらん」

「では、なぜ端だけが」

 谷口が言った。

「知らん」

 朔は手を離した。

 久住奈津が、庭に転がった薪を一本拾った。

「あら。これ、柑橘ですわね」

 彼女はもう一本拾って、並べた。

「これも。これも」

 奈津は屋根の下を見渡した。

「全部そうですわ。桜も樫も、一本もありませんもの」

 結城蒼が、その場でしゃがんだ。

 彼は薪を拾わなかった。山に顔を近づけて、しばらく見ていた。

 それから低い声で言った。

「柑橘だけが、崩れている」

「偶然でしょう」と谷口。

「三つに分けて積んであるものの、一つだけが、床まで、完全に。偶然ですか」

「では何です」

 結城は答えなかった。

 そのとき、藤代灯が言った。

「支配人。朝食の火が」

 全員が彼女を見た。

「窯も竈(かまど)も、薪がないと」

 薪は、目の前に百何十本ある。屋根の下と、庭の飛び石の上に。

「片付けましょう」

 谷口が言った。

「お客様の朝食が先です。皆さん、申し訳ありませんが」

 私は、逃げ場を探した。

 見つからなかった。

「雀部様、お手を煩わせるわけには」

「いえ」

 私はそう言っていた。

(何を言ってるんだ)

「手伝います」

「恐れ入ります」

 私は、自分が埋めた山を掘りに行った。

 四人でやった。涼と朔と谷口と私。奈津が籠を運んだ。

 涼は、一本ずつ拾って、腕に抱えて、薪棚の左へ積み直していた。断面を手前に、角度を互い違いに。彼は泣きそうな顔で、それを正確にやっていた。

 朔は無言で、屋根の外に転がったものを集めていた。

 私は、山の手前のほうを崩していた。

(浅いところだけやれ)

(深いところは、誰かがやる)

(誰かがやったら同じだ)

(同じだが、私がやるよりましだ)

 10分ほど経ったころ、結城蒼が屋根の下に入ってきて、誰にともなく言った。

「なぜ柑橘だけなのか」

「結城さん、危ないですから」

「柑橘だけが崩れるということは、柑橘だけが崩されたということです」

「あとにしてください」

 谷口が言った。

 結城は下がった。下がって、腕を組んで、山を見ていた。

 私は薪を運んだ。籠に三本ずつ入れて、奈津に渡した。

 山が低くなっていった。

 そのとき、三浦朔の手が止まった。

 彼は山の中ほどにしゃがんで、一本をどけたまま、動かなくなった。

「三浦さん?」

 谷口が言った。

 朔は答えなかった。

 彼はもう一本どけた。それから、その下の一本をどけた。

 そして、後ろへ下がった。

「……手がある」

 久住奈津が籠を落とした。

 涼が薪を抱えたまま振り返った。抱えていた薪が、腕から落ちた。

 私は、そこに立っていた。

 谷口が走ってきて、朔の横にしゃがんだ。

「どこです」

 朔は答えずに、その手を掴んだ。

 掴んで、すぐ離した。

「冷たい」

 もう一度掴んで、指を握らせようとした。指は動かなかった。

「固まっとる」

 谷口が自分でその手首を取った。しばらく持っていた。

「……脈が」

「ないですろ」

 朔は谷口の手をどけて、上の薪を三本、続けてどけた。

 腕が肩まで出た。上着の袖が見えた。

「柿沼さんじゃ」

 灯が両手で口を押さえた。

 谷口が立ち上がって、山に向かって呼んだ。

「柿沼様。柿沼様、聞こえますか」

 返事はなかった。

 朔がさらに二本どけた。背中が出た。上着の背は、動いていなかった。

「息、しとらんです」

「救急を」

「船が出んですろ」

 谷口が言葉を切った。

 宮下が屋根の下に入ってきて、山を見下ろした。

「支配人さん。もう、ええ」

「しかし」

「3時間や4時間の話じゃない。手が固まっとる」

 谷口はその場に膝をついたまま、動かなかった。

 縁側で、網野睦が立ち上がった。

 結城蒼が、腕を組んだまま一歩前に出た。

「……四度目だ」

 低い声だった。

「え?」

 谷口が振り返った。

「一度目は煙。二度目は食事。三度目は車。そして今朝だ」

 結城は山を見下ろしていた。

「私は昨日、申し上げましたな。これは連続殺人未遂であると。どなたも相手にしてくださらなかった」

 誰も答えなかった。

 谷口が携帯を出して、その場でかけた。相手が出るまでに時間がかかった。彼は状況を説明し、それから何度か、はい、はい、と言った。

 電話を切って、全員のほうを向いた。

「桟橋が壊れているので、船が着けられません。海が収まらないと巡視艇も出せないそうです。それで、その」

「いつだ」と宮下。

「早くて、今日の夕方だと」

 夕方まで、この島の外から誰も来ない。それが、その場の全員に同時に分かった。

 結城が、私のほうを向いた。

「雀部さん」

「はい」

「その肘は」

 私は左腕を隠した。

「石段で」

「その爪は」

「石段で」

「足も引きずっておられるが」

「石段です」

 結城は少し眉を寄せて、それから深く頷いた。

「あの石段は危ない。段の高さが揃っていない。上から下も見通せない。設計として最悪です」

「……はい」

「しかし雀部さん。あなたは昨夜、なぜ石段を降りたのですか」

 私は口を開けた。

「……眠れなくて。海を」

 結城は私を見た。

 そして、笑った。

「よく分かります。私も昨夜は眠れなかった。実は、私もあの石段で滑って膝を擦りむきました。雨の日の石段は、極めて危険だ」

 彼は私の肩を叩いた。

「ああいう夜は、人を海へ行かせるものです」

 そして山のほうへ戻っていった。

 網野涼は、まだ薪を拾っていなかった。

 落とした薪が、彼の足元に散らばっていた。彼はそれを見ていた。

 それから、しゃがんで、一本を拾った。

「涼」

 縁側から、睦が言った。

「もう、ええ」

 涼は薪を持ったまま、動かなかった。

第七章 統一理論

1

「お待ちなさい」

 結城蒼が、そう言ったのは、三浦朔がもう一本の薪に手をかけたときだった。

「触れないでください」

「掘らんといかんですろ」

「掘り出したところで、生き返りはしません。それより、掘ってしまえば二度と戻らないものがある」

 谷口支配人が携帯を耳から離した。

「……警察も、そのままにしておくようにと」

 朔は手を止めて、後ろへ下がった。

 藤代灯が、屋根の下から一歩出た。

「支配人。朝食は、結構です」

「藤代さん」

「今日は、火は入れません」

 灯はそう言って、厨房のほうへ戻っていった。誰も止めなかった。

 薪の山は、そのままになった。

 中ほどから、手の甲が出ていた。三浦朔がどけた三本ぶんの穴の底に、それだけが見えていた。

 結城は、その穴の縁にしゃがんだ。

 しばらく動かなかった。

 それから、誰にともなく言った。

「この程度の薪が崩れたくらいでは、人は死にません」

(は?)

 私は、自分の耳を疑った。

「結城さん」

 谷口が言った。

「あなたは何をおっしゃっているんですか。百本以上ありますよ」

「二百近いでしょうな。しかし数の問題ではない」

 結城は立ち上がって、薪棚を指した。

「この棚の高さは、私の胸ほどです。いちばん上の段から落ちても、2メートルない。一本の重さは、乾いていれば1キロか2キロだ」

 彼は足元の一本を拾って、掌に載せた。

「2メートルから1キロの棒が落ちてくる。痛い。骨も折れるかもしれない。だが二百本が同時に一点へ集まることはありません。落ちるものは散る。散るから、傷も散る」

「では、あの方はどうして」

「そこです」

 結城は穴を覗き込んだ。

「掘らずとも、いくつか分かります。手の甲に打撲がない。庇っていない。上から物が落ちてくれば、人は必ず頭を庇う。庇わなかったということは――」

 彼は言葉を切った。

「落ちてくる前に、庇えない状態だったということです」

 久住奈津が口を押さえた。

 宮下が、しわがれた声で言った。

「結城さん。頭を見せてもらえんかね」

「宮下さん」と谷口。

「支配人。この人は昨日、三度も未遂があると言うたんじゃ。誰も聞かんかった。今日くらいは聞いてやったらどうかね」

 谷口は、しばらく黙っていた。

「……三本だけです」

 結城は手袋もせずに、穴の縁の薪を三本どけた。

 柿沼敬吾の後頭部が出た。

 私は、そこから目を逸らした。逸らしてから、逸らしたことが不自然かもしれないと思って、また見た。

 結城は顔を近づけて、光を当てた。谷口の携帯の光だった。

「――四角い」

「四角?」

「陥没です。角が四つ、直角に近い。一辺は3センチほどしかない。しかも、一つだけだ」

 彼は立ち上がった。

「薪が落ちてきたのなら、傷はいくつもできる。丸いもの、細長いもの、擦れたもの。ばらばらになる。ところがこの方の頭には、深い四角が一つしかない」

 結城は屋根の下を見回した。

「この場所に、四角い鉄の面を持つものが、いくつありますか」

 誰も答えなかった。

 彼は歩いた。

 薪割り台の前で止まった。

 斧が、そこに立てかけてあった。刃を下にして、柄を台の縁に預けて。初日の夕方と同じ位置に。

 結城は、その柄を見た。

 触らずに、顔を近づけた。

「網野さん」

 涼が顔を上げた。

「この斧は、あなたが毎日お使いですな」

「……はい」

「昨日の朝も」

「使いました」

「拭かれますか」

「拭かんです」

「刃は」

「刃は、たまに。柄は拭かんです。手の脂で光るけん、そのほうがええんです」

 結城は頷いた。

 そして、皆のほうを向いた。

「見なさい」

 彼は指で、柄の中ほどを示した。触らなかった。

「握るところが、乾いて白い。その上と下は、雨と手垢で黒く濡れている。握るところだけが拭かれている」

 涼が二歩前に出て、斧を見た。

 そして、動かなくなった。

「毎日使う道具の、握るところだけを拭く人間はおりません。拭いた者がいる。しかも、この方の指紋を消すためではなく、ほかの誰かの指紋を消すために」

(違う)

(妻の指紋を消すためだ)

(結果は同じか)

 結城は斧から離れた。

「谷口さん。警察に、もう一度お電話なさい」

「何と」

「凶器は薪ではありません。そこにあります、と」

 誰も、斧に近づかなかった。

 網野涼だけが、それを見ていた。


2

「昨夜10時から今朝までの、私の位置を申し上げます」

 ラウンジに戻って30分ほど経ったころ、早瀬千夏がそう言った。

 全員が彼女を見た。

「9時40分に柿沼が部屋に戻り、私は10時から11時10分まで、本土の弁護士と電話をしていました。通話記録があります。その後、11時半に柿沼の部屋へ行きましたが、不在でした。私は部屋に戻り、3時ごろまで契約書を修正していました。ファイルの更新履歴が残っています」

 誰も、すぐには答えなかった。

「11時半に不在でした。それを、私は誰にも言いませんでした。言えば、彼が外にいることを私が知っていたことになるからです」

「それを、なぜ今おっしゃるんです」

 久住奈津の声が固かった。

「言わないほうが変でしょう」

「でも」

「私が言わなくても、いずれ分かります」

 早瀬は膝の上で手を組んでいた。爪が白かった。

「私はあの人が嫌いでした。ここにいる皆さんもご存じでしょう。隠す気はありません」

 誰も答えなかった。

 私はその空気を見ていた。彼女が正直に言えば言うほど、部屋の中の視線が彼女に集まっていく。

(この人は、何もしていないのに)

 そう思ったが、私が言えることは何もなかった。

 結城蒼が立ち上がった。

「私は少し、見て回ります」

「結城さん」

「警察が来るのは夕方だ。それまでに雨が降れば、消えるものがある」

 彼はラウンジを出た。

 私は少し迷って、ついて行った。

 理由は整理できていなかった。この人が何を見るのかを知っておきたかった。それだけだったと思う。

 結城はまず離れへ行った。

 一号棟の扉を開けて中に入り、薪ストーブの前にしゃがんだ。それから外へ出て、煙突の根元を見上げた。

「雀部さん、光を」

 私は携帯の光を当てた。

 煙突は壁を貫いて外に出て、そこから上へ伸びている。壁のすぐ外側に、ダンパーの軸が出ていた。

 結城はその軸に顔を近づけた。

「傷がある。金属を挟んだ跡です。二方向から。プライヤーですな。しかも外から回してある」

「中のレバーで回せるんじゃないんですか」

「回せます。だから、外から回す理由がない。中で回せば済むものを、わざわざ外から工具で回した者がいる。中に入りたくなかったのです」

 彼は立ち上がって手を払った。

「一度目です」

 次に、裏へ回った。

 厨房の裏手のゴミの集積場に、袋が積んであった。船が三日出ていないので、二日目からのぶんが全部残っている。

 結城は上着を脱いで、私に渡した。

「持っていてください」

 そして袋を開けた。

(この人は、本当にやる)

 三袋目で手が止まった。

「これだ」

 透明な袋の中から、赤い殻を摘まみ出した。

「海老です。頭と殻だけ。身がない。出汁を取ったあとの殻ですな」

 厨房で藤代灯に見せると、彼女は首を振った。

「仕入れていません。柿沼さんが甲殻類のアレルギーです。初日の申し送りで、期間中は一切扱わないと決めました」

「その紙は」

「あります」

 灯は事務所から申し送りの用紙を持ってきた。二日目の朝食の欄に、甲殻類不可、と書いてある。

「二度目です」

 最後に、軽トラックを見に行った。

 車は坂の途中に停めてあった。結城は地面に寝転がって下へ潜り込んだ。しばらくして出てきた。上着の背中が泥だらけになっていた。

「ブレーキホースに切れ目があります。刃物だ。全部は切っていない。半分ほど切って、あとは圧で裂けるようにしてある」

「事故ではなく」

「そして切断面のまわりに、拭った跡がある」

 彼は宙で拭う仕草をした。

「泥を落として切れ目を隠そうとしている。ところが泥は切れ目の内側にも入る。外だけ拭っても中は落ちない。あとから消しに来た者がいます」

 母屋に戻った。

 結城は泥だらけの上着を椅子の背に掛けて、硝子を背に立った。

「皆さん」

 彼は全員を見渡した。

「一度目は事故です。二度目は不運です。三度目は――統計ではありません」

 谷口が椅子から半分立ち上がった。

「離れの煙突のダンパーは、外から工具で閉められていた。二日目のスープには、この宿が仕入れていない海老の出汁が入っていた。昨日のブレーキホースには刃物の切れ目があり、それを消しに来た者がいる」

 彼は言葉を置いた。

「三度とも、狙われたのは柿沼敬吾さんだ。三度とも失敗している。そして四度目に、彼は死んだ」

 窓の外で波の音がした。

 早瀬千夏が、低い声で言った。

「私はやっていません」

 誰も答えなかった。

 私は妻を見た。

 小春は、出されなかった朝食のことを考えている顔で、硝子の外を見ていた。


3

 昼を回って、結城は全員を屋根の下へ呼んだ。

 谷口が止めようとしたが、この人は止まらない。宮下も朔も奈津も涼も、そして網野睦も来た。私と小春も行った。

 結城は薪の山を背にして立った。

「まず、この場にあるものだけを見ます」

 彼は薪棚を指した。

「この棚は、三つに分けて積んであります。右は樫。真ん中は桜。左が柑橘。網野さん、そうですな」

「そうです」

 涼が答えた。

「右と真ん中は、一本も欠けておりません。三浦さんが今朝、確かめてくださった」

「揃うとる」と朔。

「左だけが、床まで、完全に消えている」

 結城は空になった空間を指した。

「二百本近い薪が、隣り合った三つの区画のうち、一つだけ、床まで落ちた。境目は一直線です。樫は一本も落ちていない」

 久住奈津が、庭に転がった薪を見た。

「そういえば、拾ったの、全部柑橘でしたわ」

「そうです」

 結城は歩き出した。

「では、なぜ落ちたのか」

 三浦朔が腕を組んだ。

「そこじゃが、結城さん」

「はい」

「あの積み方は、崩れんです」

「ほう」

「涼の積み方は、断面を手前に、一段ごとに角度をずらす。噛むんですわ。押しても動かん。おれが押しても動かんです」

 朔は自分の肩を叩いた。

「おれが動かせんもんを、誰が動かすんですか」

(そうだ)

(言ってやってくれ)

(私は登ってまで駄目だったんだ)

 結城は、嬉しそうな顔をした。

「三浦さん。ありがとうございます。それこそが、この事件の骨です」

(え?)

「あなたのおっしゃるとおり、押しては動きません。押してはいけないのです」

 彼は薪棚の右の区画へ行って、しゃがんだ。

「引くのです。しかも、上からではない。いちばん下の一本を」

 結城は、床に渡した角材の上に組んである一本に、手をかけた。

「谷口さん、危ないので離れていてください」

「結城さん、何を」

 結城は両手でその一本を掴んで、膝を落とし、上体を後ろへ倒した。

 薪が、3センチ出た。

 上の段が、わずかに下がった。

「結城さん!」

 朔が飛びついて、結城の腕を掴んだ。

「やめてください、それ以上引いたら」

「はい」

 結城は素直に手を離した。

 そして、出た一本を掌で押し戻した。面が揃った。

 立ち上がって、手を払った。

「――今、動きましたな」

 朔は何も言わなかった。

「押すときは、二百本ぶんの重さと噛み合いを、こちらの力で押し返さねばならない。ところが引くときは違います。抜けた一本が空けた隙間へ、二百本ぶんの重さが自分から落ちてくる。人がやるのは、最初の一本を抜くことだけです」

 彼は自分の体を指した。

「しかも、腕で引く必要はない。掴んで、体重を後ろへ預ければいい。60キロの人間が後ろへ倒れれば、60キロぶんの力が水平にかかります。腕力は関係ない」

 宮下が唸った。

「では、誰にでもできると」

「いいえ」

 結城は首を振った。

「誰にでもできますが、誰もが思いつくわけではない」

 彼は薪棚のほうへ戻った。

「力のある人間は、押します。押して動かなければ、もっと強く押す。それで終わりだ。三浦さんがそうおっしゃった」

 朔が顔をしかめた。

「引くことを思いつくのは、押しても動かないと最初から分かっている人間です。つまり、自分の力を当てにしていない人間だ」

 結城は、そこで一度、言葉を置いた。

「そしてもう一つ、証拠があります」

 彼は薪棚の裏へ回った。

 壁と棚のあいだの隙間に腕を突っ込んで、一本を引きずり出した。もう一本。もう一本。

 十数本を、足元に並べた。

(あ)

「壁の裏に、これだけ落ちています。全部、上の段のものです」

 彼はその一本を持ち上げた。

「そして見なさい。樹皮に、靴の跡がある」

(やめろ)

「犯人は、最初に上へ登ったのです。上から押し落とせば早いと思われたのでしょう。ところが上段は前ではなく奥へ落ちた。空気を通すために、壁との間に隙間を空けて積んであるからです」

 結城は薪を置いた。

「押しても駄目。上に登っても駄目。二度失敗しています。二度失敗して、それから下の一本を引くことを思いついた」

 彼は皆を見渡した。

「これは、力のある人間の手順ではありません」

 屋根の下が、静かになった。

 結城はしゃがんで、山の裾の薪を横へよけ始めた。

「結城さん」

「触りません。よけるだけです」

 彼は割り台のほうへ向かって、薪を一列ぶんだけ左右へよけていった。細い道ができた。

 その道の途中で、手が止まった。

「谷口さん。これをご覧なさい」

 薪をよけた先、割り台の脇の砂利の上に、携帯電話が落ちていた。

 画面を上に向けたまま、濡れて、そこにあった。転がってきた薪が、その縁にかかっている。

「柿沼さんのものですな」

「……そうです」

 早瀬千夏が答えた。「その機種です」

「あの男は、ここで電話をしていたのですよ。夜中に、屋根の下で、雨を避けて。落とした場所がそれを言っている」

 結城は立ち上がって、薪の山を指した。

「ところが、あの方が埋まっていたのは、そこから3メートル離れた柑橘の下だ。電話をしていた場所と、埋まっていた場所が違う」

 私は、屋根の柱に手をついた。

「あの方は、薪棚の下で殺されたのではない。割り台のあたりで殺されて、薪棚の下まで運ばれたのです」

 そのとき、私の妻が言った。

「あら」

 全員が振り返った。

 小春は、割り台の斧を見ていた。

「それなら、柑橘の薪で殴ればよろしかったのに」

(は?)

「小春」

「だって、柑橘の下に置くために運んだのでしょう? それなら、はじめから柑橘で殴ればよろしいでしょう。運ばなくても済みますわ」

(何を言ってるんだこの人は)

(というか、なんでそんなことを考えるんだ)

「それは違いますよ、奥様!」

 結城の声が、私の声に被さった。

 彼は片手を上げて私を制し、それから足元の薪を一本拾った。

「奥様。これをお持ちください」

 小春はそれを受け取った。

「軽いでしょう」

「軽いですわね」

「1キロか、2キロです。柑橘は硬い。硬いが、細い。細いものは軽いのです」

 結城は割り台へ歩いて、斧を指した。触らなかった。

「こちらは3キロ以上ある。しかも重さが刃と背に集まっていて、柄が長い。振り下ろせば、先が加速する。梃子(てこ)ですよ」

 彼は小春のほうを向いた。

「薪では、人は殺せません。振り回したところで、頭蓋を四角く陥没させるだけのものが出ない。当たっても、痛いだけです」

「そうですの」

「とくに、力のない人はそうです」

 結城は薪を受け取って、足元に戻した。

「力のある男なら、あるいは薪でも足りたかもしれない。だが力のない者が、一度で確実に仕留めようとするなら、この場所には斧しかない。ほかにないのです」

 彼は皆を見渡した。

「犯人は、それを知っていた。木では殺せないと知っていた。だから斧を選び、殺してから、木のところへ運んだ」

 そして、小春に頭を下げた。

「奥様。あなたは今、犯人がなぜ斧を使ったかを、逆から証明してくださった」

 小春は、少し首を傾げた。

「そう」

 私は、柱に手をついたまま、しばらく動けなかった。

「なぜです」

 谷口が言った。

「なぜ、わざわざ運んだんです」

 結城は答えなかった。

 彼は、空になった薪棚の左側を見上げていた。

 私は妻を見た。

 小春は、山の中ほどから出ている手の甲を見て、それから空を見上げていた。

「雨、上がりましたわね」


4

 夜の10時に、結城蒼が全員を集めた。

「警察は明け方になるそうです。海が収まらない」

 谷口がそう伝えた。誰も驚かなかった。夕方はとうに過ぎていた。

 結城はラウンジの中央に立った。

「私は、この一日で分かったことを申し上げます。反論は歓迎します」

 彼は指を三本立てた。

「三つの未遂があった。手口はまったく違います。一酸化炭素、食物アレルギー、ブレーキ。共通点がない」

 宮下が言った。

「別々の人間がやった、とは考えんのかね」

「そこです。私も最初はそう考えました。三人いる、と。だが、それでは説明できないことが二つある」

 彼は一本目を折った。

「一つ。三人が同じ屋根の下にいて、同じ男を、同じ三日間で狙った。互いに気づかずに」

「気づかんかもしれん」と朔。

「そう。かもしれない。では二つ目です」

 二本目を折った。

「三度とも、下手なのです」

 彼は歩き出した。

「一度目。ダンパーを閉じた。閉じただけだ。窓を開けられたら終わりで、実際そうなった。二度目。エピペンを持っている人間に、アナフィラキシーを起こさせた。持っていることは全員が知っている。三度目。ブレーキを半分だけ切った。坂の下は擁壁です。海ではない」

 彼は立ち止まった。

「三人いたのなら、二度目は一度目を見ている。三度目は二度目を見ている。同じ屋根の下です。結果は必ず見える。見れば、学びます。人間は学ぶ」

 誰も答えなかった。

「ところが三度とも同じくらい下手だ。学習していない」

 三本目を折った。

「学習していないということは、互いの結果を自分のものとして受け取っていない。つまり相談していない。ところが標的は同じで、期間も同じだ。相談していないのに一致する偶然は、ありません」

 彼は全員を見渡した。

「一人です。一人の人間が、三度、別々の手で試した。だから毎回下手なのだ。得意な手が一つもないからです」

 私は、そのとき、なるほどと思ってしまった。

(そう言われると、そう聞こえる)

(この人は、こうやって人を連れていくのか)

 結城は続けた。

「では、その一人は誰か。私は手口ではなく、触れる範囲で考えました」

 彼は指を折り直した。

「一度目、離れの煙突。火の側です。二度目、朝食のスープ。厨房です。三度目、軽トラック。車と道だ」

 彼はそこで、少し声を落とした。

「そして四度目」

「薪割り場」

 谷口が言った。

「いいえ」

 結城は首を振った。

「柑橘です」

 彼は歩いた。

「四度目に選ばれたのは場所ではない。木です。殺した場所は割り台のあたりだった。それを3メートル運んで、柑橘の下に置いた。運んだ理由は一つしかありません。あの木の下でなければならなかった」

 宮下が顔を上げた。

「この島は、柑橘の島です。斜面の畑の三割が枯れて放置されている。伐られた木は薪になる。二年乾かして、燃やす」

 結城は言葉を置いた。

「柿沼敬吾さんが、この島の何を買い、何を枯らしたか。それは皆さんのほうがよくご存じでしょう」

 誰も答えなかった。

「あの男は、この島の木を伐らせた人です。その男を、伐られた木の下に置いた」

 彼は静かに言った。

「隠すためではない。返すためです」

 ラウンジが、静かになった。

 私は、23本目に合った薪のことを思っていた。

(角が立っていたからだ)

(それだけだ)

 結城は続けた。

「では、その木がどこに積んであるかを知っていて、どの区画が柑橘かを知っていて、押しても崩れないことを知っていて、下から引けば落ちることを思いつく人が、この宿に何人おられますか」

 彼は、ラウンジの隅を見た。

「そして、火と、食べ物と、道と、木。この四つ全部に、断りなく入れる人が」

「一人です」

 網野睦は、椅子に座ったまま、動かなかった。

 長い沈黙があった。

 それを破ったのは、網野涼だった。

「ばあちゃんは、やっとらん」

 若い声だった。彼が声を上げるのを、私はそれまで聞いたことがなかった。

「おれがやった。おれが、煙突を」

「涼」

 睦が言った。

 久住奈津が立ち上がった。

「違います。私です。スープは私です。私が入れました」

「奈津さん」

「大女将は関係ありません」

 三浦朔が壁から背を離した。

「車はおれじゃ」

 三人が同時に喋っていた。

 谷口が両手を上げて、待ってください、と言った。誰も待たなかった。

 結城蒼は、その光景を見て、片手で顎を撫でた。

「――ご立派だ」

 彼はそう言った。

「皆さん、この方をお守りになりたいのですな。よく分かります。だが、三人が別々に名乗り出るのは、いささか無理がある。人は庇うときに口裏を合わせるものです。合わせていない自白は、たいてい嘘だ」

 三人が黙った。

 私は、そのとき初めて、この人の誤読の完成を見た。

(正しいことを言って、正しくないところに着地する)

「お待ちなさい」

 網野睦が立ち上がった。

 小さな人だった。立っても、涼の肩の高さもなかった。

「支配人さん。警察の方に、お伝えください」

「大女将」

「わたしがやりました」

 谷口が首を振った。

「煙突も、お出汁も、車も、昨日の晩も。全部わたしです」

 睦は三人のほうを見なかった。まっすぐ谷口を見ていた。

「この子らは何も知りません」

「大女将、それは」

「支配人さん」

 睦の声は、静かなままだった。

「わたしは、あと長くありません。お医者様に言われております。ですから、刑がどうというのは、わたしには関係のないことです」

 結城が、一歩前に出た。

「網野さん。一つ、伺ってよろしいか」

「はい」

「あの方の左腕の、三角巾です」

(やめろ)

「昨日の午後、久住さんがお吊りになった。ところが今朝、あれは結び直されていた。ネクタイの結び方でした。ウィンザーノットです」

 睦は、結城を見ていた。

「三角巾をあの結び方でまとめる人間は、この世におりません。あれを結べる人は、日常的にネクタイを結んでこられた方だ」

 結城は少し、声を落とした。

「網野さん。ご主人は、この島の網元でいらした」

「はい」

「毎朝、ネクタイを締められたでしょう」

 睦は、動かなかった。

「四十年、あなたが結んでこられたのではありませんか」

(違う)

(私だ)

(中学の保健を覚えていなかっただけだ)

 網野睦は、長いあいだ黙っていた。

 それから、両手を前で重ねた。

「……よう見ておられますこと」

(否定しないのか!!)

 結城は深く頷いた。

「失礼を申しました」

「いいえ」

 睦は、そこで初めて、庭のほうを見た。

「あの薪のことを、申し上げます」

 結城が身を乗り出した。

「三年前に、うちの人が亡くなりました。柑橘の木の下でした」

 睦は言葉を続けた。

「古い木でした。実がならんようになって、それでも切らずにおいたものです。うちの人は、その枝で首を吊りました」

 誰も動かなかった。

「わたしは、その枝を、自分で切りました」

 睦の声は変わらなかった。

「切って、割って、薪にしました。左の端に、積んであります」

 灯が口を押さえた。

「燃やすつもりでおりました。いつか、うちの人の命日にでも焚こうと。三年、そのままにしております」

 睦は顔を上げた。

「今朝、あの人の上にあった薪を見ました」

 私は、息を止めた。

「柑橘でございました。細うて、皮の割れた、古い木の」

 彼女はそこで言葉を切って、それから、はっきりと言った。

「わたしが、選びました」

 結城蒼は、深く頷いた。

「――やはり、そうでしたか」

 私は、屋根の下で二十三本の薪を当てては外していた夜のことを思い出していた。

 私はただ、角の立った断面を探していた。角が立つのは硬い木だけで、硬いのは古い柑橘だけだった。

 私は、あの区画に何が積んであったのかを、知らない。

 網野睦は、椅子に座り直した。

 涼がその前に膝をついた。何か言おうとして、言葉にならなかった。睦は孫の頭に手を置いて、そのままにしていた。

 明け方の4時を過ぎて、海の音が変わった。

 打ち返す音の間隔が長くなり、それから低くなった。

 5時40分に、東の空が白んだ。

 谷口が硝子の前に立って、沖を指した。

「船です」

 白い船体が、島影の向こうから出てきた。

終章

1

 巡視艇は、桟橋に着けられなかった。

 桟橋は二日目の高潮で、付け根から半分が持っていかれている。船は沖に停まって、そこから小さな艇が下ろされた。艇は石段の下の浜に寄せた。

 制服の人が四人上がってきた。谷口支配人が石段の上で待っていて、頭を下げた。

 私は、石段の中ほどに立っていた。

 降りるつもりはなかった。ただ、部屋にいられなかった。上着を着て廊下に出て、庭を横切って、気がついたら石段の途中にいた。段の高さが揃っていないので、同じ段に両足を揃えて立っていた。

 網野睦が降りてきた。

 制服の人が一人、先に立っている。睦は手すりのない側を、右手を石垣に添えて降りてきた。着替えていた。昨日までの割烹着(かっぽうぎ)ではなく、外へ出るための着物だった。荷物は持っていなかった。

 私は道をあけるために体を寄せた。

 睦は、私の二段上で止まった。

「雀部さん」

「……はい」

「お客様に、こんなことになりまして」

 私は首を振った。首を振ることしかできなかった。

 睦は少しだけ笑った。宿の人の笑い方だった。

 それから、言った。

「昨日の朝、あなたはわたしを見ておられました」

 私は顔を上げた。

「わたしが、薪を見ておりましたでしょう。あの、崩れた薪を」

「……はい」

「見ておられたのは、あなただけでした」

 海のほうで船の音がしていた。制服の人が二段下で待っていた。急かす様子はなかった。

 睦は、石垣に添えた手を少し握った。

「雀部さん。お願いがございます」

「はい」

「あの薪を選んだ人に、会うことがございましたら」

 私は、息が止まった。

「……はい」

「ようやってくれた、と」

 睦は私の顔を見ていた。

「そう言うといてください」

 私は口を開けた。

 何も出てこなかった。

 睦はもう一度、宿の人の笑い方をして、頭を下げた。

「お世話になりました」

 そして、降りていった。

 段の高さが揃わないので、彼女は一段ごとに足を揃えて降りた。私と同じ降り方だった。

 浜まで降りて、艇に乗った。制服の人が手を貸した。睦は座って、こちらを一度も見なかった。

 艇が出た。

 私は石段の中ほどに立ったままだった。

 沖の白い船に艇が着いた。人が乗り移るのが、豆粒のように見えた。

 それから船は、島影の向こうへ回っていった。

 私は石段を登った。

 登りは、下が見える。私は段の高さを一つずつ確かめながら登った。


2

 朝食は8時半に出た。

 前の日と違って、厨房から匂いがしていた。

 ラウンジの席は半分空いていた。制服の人が二人残っていて、事務所で谷口や従業員から話を聞いている。網野涼と久住奈津と三浦朔は、順番に呼ばれていった。呼ばれて出ていくとき、三人とも同じ顔をしていた。

 宮下は来た。結城も来た。早瀬千夏は部屋から出てこなかった。

 藤代灯が、飯と汁を運んできた。

 飯は炊きたてだった。汁は島の味噌に、大根と油揚げ。香の物には柚子(ゆず)の皮が入っていた。

 私はあまり食べられなかった。

 小春は全部食べた。

 食べ終わったころに、灯がもう一皿を持ってきた。

 小春の前だけに置いた。

 小さな皿だった。白身の魚が一切れ、皮を上にして載っている。付け合わせは何もない。塩と、柚子の皮が少し削ってあるだけだった。

「三浦さんが、今朝獲ってきました」

 灯はそう言った。

「窯で焼きました。ほかに何もありませんので」

 小春は箸を取って、皮のところから切った。

 食べた。

 しばらく、何も言わなかった。

 もう一口食べて、飲み込んで、それから顔を上げた。

「……これ、仔羊の焼き方ですわ」

 灯は皿を見ていた。

「はい」

「表面をいっぺん強く当てて、離して、遠火で置いておくのね。それから、もう一度だけ近づける。魚にこれをする人はいませんわ」

「はい」

「どうして?」

 灯は、少し黙った。

「師匠のノートの72ページ、焼けたのは仔羊のローストでした」

 小春は箸を置いた。

「そう」

「あの一皿だけ、火の入れ方が三段に分けて書いてありました。師匠は、ほかのどのページにも、あんな書き方をしていません」

 灯の声は震えていなかった。

「柿沼さんが破ったのは、そのページです」

 宮下がこちらを見ていた。結城も箸を止めていた。

 小春は皿の残りを見ていた。

「じゃあ、あなたが覚えていないと」

 灯が顔を上げた。

「覚えています」

 小春は頷いた。

「そう」

 そして、残りを食べた。

 食べ終えて、箸を置いて、灯を見た。

「美味しゅうございました」

 灯は頭を下げた。

 下げたまま、しばらく上げなかった。

 私は汁の椀を持って、それを見ていた。

 私は堂島誠一の仔羊を食べたことがある。前の宿で、最後の晩に出た。妻がそのとき何と言ったかも覚えている。もう二度と食べられないわね、と言った。

 私はそのとき、大袈裟だなと思った。


3

 船を待つあいだ、私たちはラウンジにいた。

 海は凪いでいた。硝子の外は、三日ぶりに青かった。

 宮下が、湯呑みを置いて言った。

「結城さん」

「はい」

「あんたは、あれで納得しとるのかね」

 結城蒼は、脚を組み直した。

「いいえ」

(え)

 私は、湯呑みに伸ばしかけた手を止めた。

 宮下は頷いた。

「わしもじゃ」

「宮下さん。順を追って申し上げてよろしいか」

「聞こうかね」

 結城は指を立てた。

「三日間に、三度の未遂がありました。一度目、離れの煙突。二度目、朝食の海老。三度目、軽トラックのブレーキ。三度とも柿沼さん一人が狙われ、三度とも失敗している」

「うむ」

「私はこれを、一人の仕業と読みました。理由は、三度とも同じくらい下手だからです。三人おれば、後の者は前の者の失敗を見て学ぶ。学んだ形跡がない。ゆえに相談していない。相談していないのに標的が同じというのは、偶然ではありえない」

「そこまでは分かる」

「そして四度目。柿沼さんは割り台のあたりで斧の背によって殺され、3メートル運ばれて、柑橘の薪の下に置かれた。柑橘だけが崩されている。樫も桜も一本も欠けていない」

 結城は硝子のほうを向いた。

「この島は柑橘の島です。あの方が買い叩き、枯らした畑の木が、あの薪です。あれは隠すためではない。返すためでした」

「それで、大女将が名乗り出た」

「はい」

 結城は指を下ろした。

「全部わたしがやりました、と。煙突も、出汁も、車も、昨夜も。警察は、その供述を持って行きました。動機は十分ある。ご主人を追い詰められている。余命の告知も受けておられる。刑を恐れる理由がない」

「筋は通っとる」

「通っています。通りすぎている」

(は?)

「と、言うと」と宮下。

 結城は、指を一本立てた。

「一つ。あの方は、薪棚のいちばん下の一本を引くことはできます。体重を後ろへ預ければいい。腕力は要りません」

 彼は二本目を立てた。

「二つ。しかしあの方は、75キロの男を3メートル引きずることはできません」

 私は、湯呑みを置いた。置いた手が震えたので、膝の上に戻した。

「あれは腕の力ではなく、腰の力です。私が一昨日、あの石段でよろけただけで肩が上がらなくなった。あの方は御年六十を過ぎておられる。腰も曲がりかけている。無理です」

「協力者がおったのでは」

「なら、なぜ一人でやったとおっしゃるのですか」

 宮下が黙った。

 結城は三本目を立てた。

「三つ。ブレーキホースです。車の下へ仰向けに潜り込んで、刃物で半分だけ切って、あとは圧で裂けるようにしてある。あれは車を知っている人間の手つきです。あの方は、この島で一度も車を運転しておられない」

「……四つ目もあるのかね」

「あります」

 結城は、少し声を落とした。

「三角巾の結び目です。私は昨夜、あの方に申し上げました。ご主人のネクタイを四十年結んでこられたのではありませんか、と」

(言ったな)

(言った)

「あの方は、なんと答えられたか」

 宮下が眉を寄せた。

「よう見ておられますこと、と」

「そうです」

 結城は指を下ろした。

「はい、とはおっしゃらなかった」

 ラウンジが静かになった。

 宮下が長い息を吐いた。

「じゃあ、あんたは何と思うとるんかね」

「あの方は、設計者です」

 結城はそう言った。

「実行者ではない」

(設計者)

「この一年、あの方は四人それぞれに、別々の場所で、別々の言葉をかけてこられた。誰も命じられたとは思っていない。だが四人とも、同じことを考えるようになった。三度の未遂は、そこから出たものです」

「四度目は」

「四度目も、同じ土から出ています。ただ、腕が違う。あれは運べる人間の仕事だ」

 結城は硝子の外を見た。

「実行者は、あの三人のうちの誰かです」

 私は、膝の上で両手を組んでいた。

(違う)

(三人じゃない)

(私の隣で味噌汁を飲んでる)

「なぜ、それを警察に言わんのかね」

 宮下が聞いた。

「言えません」

 結城は首を振った。

「私に言えるのは、あの方にはできないという話だけです。誰にできたかは指せない。三人とも動機があり、三人とも機会があり、三人とも自分から名乗り出た。あれでは選べません」

「大女将は、それを分かってやっとるんじゃな」

「そうでしょう」

 結城は湯呑みを持った。

「そして、いちばんむごいのはそこです。あの三人は、これから互いを疑って生きていくことになる。三人とも、自分ではない誰かがやったと思っている。誰も口を割らない。割れば、残りの二人を差し出すことになるからだ」

 彼は湯呑みを置いた。

「あの家は、これから何十年も、それを抱えて薪を割ります」

 宮下が、深く頷いた。

 そのとき、私の妻が言った。

「あら。じゃあ、大女将さんは無実ですのね」

 結城は小春のほうを向いた。

「無実ではありませんよ、奥様」

「そう?」

「三度の未遂は、あの方が生んだものです。人を刺したのは刃ですが、刃を研いだのはあの方だ。ただ、四度目の腕だけが別です」

 小春は、少し考えた。

「難しいことですわねえ」

「難しいのです」

 結城は満足そうに頷いた。

 小春は湯呑みを置いて、厨房のほうを向いた。

「灯さん。お汁、お代わりいただけるかしら」


4

 昼前に、島を出ることになった。

 定期船は集落の桟橋から出る。宿の桟橋は使えないので、三浦朔の船で回ることになった。

 石段を降りて、浜に出た。

 朔が船を寄せていた。彼は無言で荷物を受け取って、船に積んだ。私が礼を言うと、朔は「はい」と言った。それだけだった。

 谷口支配人が見送りに来た。頭を下げる角度が、来たときと同じだった。

 藤代灯は来なかった。厨房にいると谷口が言った。

 宮下が先に乗った。早瀬千夏も乗った。彼女は誰とも口をきかなかったが、船に乗るときに一度だけ、宿のほうを見上げた。

 結城蒼は、最後に乗る前に、浜で立ち止まった。

「雀部さん」

(来た)

「今回は、実に骨のある事件でした」

「……そうですか」

「手口の不統一という一点に、私は最初、完全に足を取られていた。三人いると考えていたのです。恥ずかしい」

(三人でしたよ)

(三人プラス一人でしたよ)

「だが、最後の決め手は、薪でもなければ、血の跡でもない」

「では、何ですか」

「斧です」

 私の心臓が、一度、止まった。

「あの斧は、柄が長い」

 結城は宿のほうを振り返った。ここからは屋根の下は見えない。

「後頭部の陥没は、斧の背によるものです。ところがあれは重い。刃を上にして構えて、背で人の頭を打つには、腕の力ではなく体重をかけねばならない」

「はい」

「柄が長ければ、それができる。梃子です。非力な者であっても、柄が長ければ、振り下ろすだけで十分な打撃になる。もし柄が短ければ、あの傷は作れなかった」

「……なるほど」

「犯人があの斧を選んだ理由は、そこにあります。あの人は、道具を知っていた」

 結城は満足そうに頷いた。

 そして、思い出したように言った。

「ああ、そういえば」

(やめてくれ)

「奥様も、初日にあの斧をご覧になっていましたな」

 私は返事ができなかった。

「柄が長い、とおっしゃった。私はそのとき、脇で聞いておりました。薪割りの道具など見ても何も思わない人がほとんどでしょうに、奥様はあの一本を見て、まず柄の長さをおっしゃった」

 結城は小春のほうを向いた。

「昨日は、犯人がなぜ斧を使ったかを教えていただいた。今日は、なぜあの斧だったかを教えていただいたことになる。二度、慧眼を拝見しました」

 小春は船のほうを見ていた。

「そうですか?」

「そうですとも。あなたは道具をご覧になる。料理をなさる方はそうなのかもしれませんな。私などは、斧は斧だとしか思わない」

「斧は斧ですわ」

「ご謙遜を」

 結城は笑って、船に乗った。

 私は浜に立っていた。

 何も起こらなかった。

 波が来て、靴の先を濡らした。

「真悟さん」

 小春が船の上から呼んだ。

「濡れますわよ」

 私は乗った。

 朔が舫いを解いて、船を出した。エンジンの音が高くなって、船首が上がった。石段が遠ざかり、その上の宿の屋根が見えた。薪割り場の屋根も見えた。左の三分の一が空のままなのは、ここからでは見えなかった。

 小春は鞄から何かを出していた。

 宿の栞だった。ウェルカムの柑橘と一緒に、部屋に置いてあったものだ。

「次はどこにする?」

「え?」

「秋のお休み。まだ決めていないでしょう」

 小春は栞を裏返して、そこに刷ってある地図を見ていた。

「山のほうがいいわ、今度は」

「……そうだね」

「川のそばがいいの。魚が違うから」

 船が向きを変えた。

 島が横に流れていった。斜面の段々畑が見えた。緑の区画と、黒い区画があった。黒いほうは、上から三割ほどを占めていた。

 小春は栞をたたんで、鞄に入れた。

「お腹が空いたわ」

「さっき食べたじゃないか」

「船に乗ると、空くんですのよ」

 私は海を見ていた。

 風が、南から吹いていた。

コメント