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歩留まり 第一部
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序章 歩留まり
2024年7月中旬|高知市近郊・島崎精穀|島崎周平(精米業・三代目)
一 祖父の帳面
4時半に目が覚める。目覚ましは鳴っていない。
島崎周平は二階の六畳から降りて、事務室の蛍光灯をつけた。窓の外はまだ紺色で、国道を走る車の音が2分に一度ほど通り過ぎる。流しで手を洗い、やかんに水を入れて火にかけた。
工場に入る。コンクリートの床がひやりとしている。7月の中旬でも、夜のあいだ機械が止まっていると、ここだけは涼しい。
昇降機の前に、玄米のフレコンバッグが三つ残っていた。令和5年産。去年の秋に入れた米の、これが最後になる。
周平は一つ目のバッグの口を開けた。手を突っ込んで、ひとつかみ取る。掌の上で転がして、指で押した。米粒を目の高さまで持ち上げ、蛍光灯にかざす。白い。透き通っているべきところが、粉を吹いたように濁っている粒が混じっている。
去年から、ずっとこうだ。
昇降機を回した。玄米が吸い上げられ、石抜き機を通り、精米機に落ちていく。低い唸りが工場に満ちて、床から足の裏に伝わってくる。周平はこの音を50年近く聞いている。音の高さが変われば、どこかが詰まっている。今朝の音は正常だった。
排出口の下に、白米が落ちはじめる。
7時に松岡が来た。74歳になる。周平の父の代からいる。挨拶をしない。ヘルメット代わりの野球帽をかぶって、無言で計量台のほうへ歩いていった。
7時10分に西森が来た。71歳。こちらは「おはようございます」と言う。40年言い続けている。
7時半に岡林が来た。28歳。3年前に入った。軽トラックのエンジン音でわかる。ドアの閉め方が乱暴なのも、3年変わらない。
四人で回す。あとの二人はパートで、9時からだ。
袋詰めの工程に入ったところで、周平は計量台の脇に立った。30キロの紙袋が、秤の上で満たされていく。数字が29.8で止まり、30.0になって、ベルトが動く。
1時間ぶん流したところで、周平は事務室に戻って伝票を開いた。
投入した玄米の量と、出てきた白米の量。その比率。
89.2。
鉛筆の先が紙の上で止まった。
去年の同じ時期の伝票を引っ張り出す。90.8。一昨年は91.3。
1.6。
30キロの袋にして、およそ半分ぶん。1トンで16キロ。100トンで1.6トン。
周平は電卓を叩かなかった。叩かなくても出る数字だった。
伝票を閉じ、机の引き出しを開けた。今年の消費税の書類がどこかにあるはずだった。引き出しの奥に紙束が詰まっていて、手を入れると、いちばん下に硬いものが当たった。
引き出すと、表紙が革のような手ざわりの、黒い帳面だった。角が丸くすり減っている。
祖父の字だ。
周平は帳面を膝に載せ、めくった。
縦書きの罫線に、住所と、名前と、数字が並んでいる。名前の下には括弧書きで人数が書かれていた。四人、五人、二人。
配給の台帳だった。
米屋というのは、昔は自分で売る相手を決められない商売だった。米は国が買った。全部だ。農家は作った米を国に売り、国が値段を決めて卸に流し、小売の値段も国が決めた。米屋は許可がなければ店を開けない。開いたところで、自分の店で買える人間は、住んでいる場所で決まっていた。この住所の人はうちの店、あの住所の人は向かいの店。台帳に書かれた人数は、その世帯が何人ぶんの米を受け取る権利を持っているかを意味している。
売る量も、売る相手も、売る値段も、決まっていた。
商売ではなく、配置だった。
祖父はその配置の末端で、50年近く米を挽いていた。周平が子どもの頃、店の土間には米穀通帳を持った客が来た。判子を押してもらいに来る客もいた。
帳面のうしろのほうに、別の字がある。祖父の字だが、少し震えている。
平成5年、と書いてあった。
周平は二階の窓から外を見た。夜が明けきって、田んぼの向こうに山の稜線が出ている。稲はもう穂を出している。今年は早い。
平成5年の夏は、寒かった。
7月に入っても気温が上がらず、雨が続いた。周平は31歳で、父の下で働いていた。秋になって、米が足りないという話が本当らしいとわかり、冬に国がタイから米を買った。
店の前に列ができた。周平はそれを見た。国が全部の米を管理している国で、店の前に人が並んだ。
祖父の帳面にはこうある。
「客、60人。品なし。詫び言のみ」
その次の行に、日付だけがあって、あとは白紙だった。
祖父は翌年、店に出なくなった。
周平は帳面を閉じ、引き出しに戻した。消費税の書類は結局出てこなかった。
工場に戻ると、松岡が計量台の前で紙袋の口を折っていた。周平は隣に立って、しばらく手を動かした。
「今年のは、どうですかね」
松岡が、袋を見たまま言った。
周平は口を開きかけて、やめた。
「まだ、わからん」
松岡はそれ以上聞かなかった。
二 父の借金
昼の休みに、周平は工場の奥へ入った。
色彩選別機がある。緑色の筐体で、上から流れ落ちる米粒にカメラを当て、色の違う粒をエアで弾き飛ばす。着色粒、死米、異物。弾かれた粒は別のシュートに落ちる。
この機械は、父が入れた。
平成8年だ。周平が34歳のとき、父が信用金庫から金を借りて、工場の三分の一を建て替えて、この機械を入れた。父は当時60を過ぎていて、周平は反対した。あと何年やるつもりだと言った。父は答えなかった。
前の年に、法律が変わっていた。
食糧管理法がなくなり、食糧法になった。国が全部の米を買う仕組みが終わった。政府が持つ米と、農家や農協が自分で売る米に分かれた。値段は、入札で決まるようになった。
米屋の許可制も、登録制に変わった。
父はそれを見て、これからは選ばれる側になると言った。国が配置してくれる客はもういない。買ってくれる相手に、うちの米は他所より綺麗ですと言えなければ終わる。だから機械を入れた。
周平はその頃、まだ理解していなかった。理解したのは、その8年後だった。
平成16年。法律がもう一度変わった。
計画流通という制度そのものが無くなった。誰でも、届け出さえすれば米を売買できるようになった。800屋でもコンビニでもドラッグストアでも、米を並べられるようになった。
工場の壁に、木の札が並んでいる。取引先の名札だ。父の代からのやり方で、新しい取引が始まると札を掛け、切れると外さずに裏返す。
周平は札の列の前に立った。
37枚あって、表を向いているのは9枚だった。
裏返っている札には、卸の名前が多い。県内に四つあった米卸のうち、二つはもうない。一つは県外の会社に吸収され、名前が変わった。残る一つは、いまも取引がある。
表を向いている9枚のうち、6枚は量販店の名前だった。
昔は卸に納めていた。卸が小売に流し、小売が客に売った。いまは、量販店のチェーンが直接、産地や精米業者と話をする。間の卸が薄くなっていく。周平の工場は、量販店のプライベートブランドの精米を請け負っている。袋には島崎精穀の名前は出ない。裏の表示欄に、小さく製造者として印刷されるだけだ。
それでいい、と周平は思っている。名前が出ない仕事のほうが、量が安定する。
自由になった、と当時は言われた。
自由になったというのは、値段を決める人間が国から市場に移ったということだ。市場というのは抽象的な言葉だが、具体的には卸と量販店のことだった。米屋がそれを決めることは、一度もなかった。
周平が子どもの頃、この集落から市街地までのあいだに、米屋が7軒あった。いまは2軒だ。1軒は雑貨屋になっていて、米も置いている、という程度になっている。
精米所も減った。周平が父から工場を継いだのは平成14年で、そのとき近隣に11軒あった。いまは4軒だ。廃業した工場の機械は、2軒ぶんをこの工場が引き取った。使っていない機械が、奥の倉庫で錆びている。
外の空が明るい。田んぼの水面が光を返している。
周平は倉庫のシャッターを半分だけ上げて、腰をおろした。缶コーヒーを開ける。
米を食う人間が減っている。
昭和30年代の終わりごろ、日本人は1年に一人あたり118キロの米を食べていた。いまは50キロほどだ。半分以下になった。それも、まだ下げ止まっていない。毎年、10万トンずつ需要が消えていく。10万トンというのは、この工場が100年かけて挽く量よりも多い。
だから、作る量を減らしてきた。
減反、と呼ばれた。作らない田んぼに金を出す仕組みだ。周平が生まれてすぐの頃に始まって、50年続いた。国が県に、県が地域に、地域が農家に、作っていい量を割り振った。
平成30年に、国が割り振るのをやめた。
新聞は減反廃止と書いた。周平は、そうだろうか、と思った。国が数字を配るのはやめたが、田んぼで米以外を作れば交付金が出る仕組みは残った。県は目安の数字を出し続けた。農家は目安を見て作付けを決めた。
減反は終わった、と言う人がいる。終わっていない、と言う人もいる。
周平の見るところ、どちらも本当だった。命令する人がいなくなって、全員が空気を読むようになっただけだ。命令には反抗できるが、空気には反抗しようがない。
缶を飲み干して、周平は立ち上がった。
シャッターの内側で、錆びた昇降機が斜めに傾いていた。2軒目に引き取った工場のものだ。持ち主は周平より10歳上で、去年、施設に入ったと聞いた。
三 自分の計量器
午後は、量販店向けの5キロ袋を流した。
包装機がフィルムを引き、白米を落とし、シールする。1分間に十数袋。岡林が箱に詰め、パレットに積む。
周平は計量台の秤を見ていた。
秤は正しい。毎年、業者が来て検定を受けている。狂っているのは秤ではない。
昼過ぎに、伝票をもう一度確認した。
89.2。
数字そのものは、ありえない数字ではない。米は生き物だ。年によって粒の張りが違う。乾き具合も違う。90を切る年は過去にもあった。
問題は、去年もそうだったということだ。
去年の夏は暑かった。7月の終わりから9月の頭まで、ほとんど雨が降らず、夜も気温が下がらなかった。稲は、夜に涼しくならないと、昼に作ったでんぷんを実に送り込めない。送り込めないまま登熟が進むと、粒の中に隙間ができる。白く濁って見えるのはそのためだ。粒が小さく、腹が白く、精米機を通すと割れる。
割れた米は、選別機で弾く。ふるいでも落ちる。
だから、同じ量の玄米から取れる白米が減る。
歩留まりが落ちる、という。
周平は5キロ袋の一つを手に取り、透明な窓の部分を見た。並んでいる粒は綺麗だった。選別機が弾いたからだ。弾いたぶんは、この袋には入っていない。
弾いたぶんはどこへ行くか。工場の裏手のホッパーに溜まり、業者が引き取っていく。加工用の値段で。
去年、そのホッパーが例年より早く1杯になった。周平は業者に電話をして、引き取りの回数を増やしてもらった。業者は「どこも同じですわ」と言った。
どこも同じ、というのが、周平の頭の隅に引っかかったまま消えない。
米が足りないかどうかは、作況指数という数字で発表される。平年を100として、その年の出来を示す。去年は100を切らなかった。少なくとも、大きくは崩れなかった。
だが作況指数は、田んぼで実った量を見ている。
袋詰めされて店の棚に並ぶ量を見ているわけではない。
同じ玄米の量から、白米が1.6%少なく出る。全国で見れば、何0トンという単位になる。その何0トンは、田んぼには実っていた。統計にも入っている。しかし棚には並ばない。
周平は伝票を閉じた。
こういうことは、これまでにもあった。
平成26年の秋、米の値段が落ちた。農協が農家に払う前払いの金が、前の年から大きく下がった年だ。あのとき、集落の何軒かが米をやめた。周平の取引先の農家も2軒やめた。
それから6年ほどして、疫病が来た。飲食店が閉まり、旅行が止まり、給食も止まった。家で食べるぶんは残ったが、外で食べられていたぶんが丸ごと消えた。米が余った。令和3年、値段はもう一段落ちた。周平の工場も、その年は稼働を3割落とした。
余ったから、作る量を減らそうという話になった。田んぼは麦や大豆や飼料用の米に切り替わった。
減らした。次の年も減らした。
在庫が薄くなっていった。
そこへ、去年の暑さが来た。
周平は工場を歩いた。包装機が動いている。岡林がパレットのフィルムを巻いている。西森が空になったフレコンを畳んでいる。松岡は計量台の前にいる。
四人とも、何も変わったことはないという顔で働いている。
事務室に戻って、周平は受話器を取った。
いちばん大きい取引先の、担当者の番号を押しかけて、途中で指を止めた。
なんと言えばいいのか。
今年の米は、去年と同じ玄米量から白米が減っています。だから同じ数の袋を作るには、去年より多くの玄米が要ります。
そう言えば、担当者はどうするか。
上に報告する。上は、来年の仕入れ計画を見直す。見直せば、いつもより多く押さえようとする。多く押さえようとするのは、この会社だけではない。同じことを考える担当者が、全国に何100人といる。
全員が、いつもより少しだけ多く押さえる。
その「少しだけ」が全部足されると、どうなるか。
周平は受話器を戻した。
言えば、不安になる。不安になれば、余分に頼む。余分に頼まれれば、本当に足りなくなる。
言わなければ、いまのところは、誰も困っていない。
自分の工場が、いつもより多めに玄米を仕入れておけばいい。それで済む話だ。
周平は帳面を開き、来期の仕入れ量の欄を消しゴムで消した。
書き直した数字は、前の数字より1割多かった。
鉛筆を置いて、しばらく手を見ていた。
自分がいま、たったいま、何をしたのか。
1割。この工場ひとつの、1割。
大した量ではない。
夕方、5時半に岡林が上がり、6時に西森が帰った。松岡は最後まで残って、計量台の周りを箒で掃いてから、野球帽をかぶり直して出ていった。
周平は工場の電気を落とし、機械の主電源を切った。唸りが消えて、耳の奥に残響だけが残る。
シャッターの前に立って、外を見た。
日が長い。田んぼはまだ明るく、緑が濃い。今年の早期米は、あと10日ほどで刈り取りが始まる。この県の米は、日本でいちばん早く出る。
周平はシャッターの取っ手に手をかけた。
金属が軋み、ゆっくりと下りて、地面に当たって止まった。
錠を掛け、鍵をポケットに入れる。
二階への外階段を上りながら、周平は一度だけ振り返った。
国道の向こうの空が、まだ白く残っている。
第一部 臨時情報
145万トン
第一章
2024年7月下旬|高知・香長平野/JA乾燥調製施設|公文晋作(ながおか営農代表)
午前2時に、公文晋作は軽トラックのドアを開けた。
外の空気が、家の中と同じ温度だった。
7月の下旬になって、夜が涼しくならない。日が落ちて5時間経っても、アスファルトが熱を吐いている。晋作は懐中電灯を助手席に放り、エンジンをかけた。
集落の道を300メートル走り、用水路の分岐で停まる。
長靴で畦に降りた。懐中電灯を水面に向ける。
水は動いていた。動いてはいるが、遅い。上の堰で誰かが余計に引いている。晋作は水路を50メートル遡り、堰板を2枚抜いた。板の縁に藻が張りついていて、指が滑る。抜いたところで水音が変わった。
自分の田に戻る。畦から手を入れた。
温い。
風呂の残り湯くらいだ。30度は超えている。
稲は穂を出しはじめている。4月に植えた早期米ではない。あとから植えたコシヒカリのほうだ。この時期に出穂したものは、これから2週間ほどが勝負になる。籾の中に実が詰まっていく。詰まっていくためには、昼に葉が作ったものを、夜のうちに穂へ送り込まなければならない。
夜が暑いと、稲は自分の呼吸で作ったものを使ってしまう。
送り込めないまま日が経つと、実の中に隙間ができる。白く濁った粒になる。等級が落ちる。
だから水を入れる。夜に入れて、土と根を冷やす。それしかできることがない。
晋作は水口の板を1枚起こした。冷たいわけではない水が、細く田へ入っていく。
30分待って、水位を見た。2センチ。
板を戻し、軽トラックに戻る。次の田へ。
4枚目まで回って、家に帰り着いたのが4時前だった。
台所で麦茶を飲んだ。妻の里美はもう起きていた。6時前に家を出る。市内の病院で、今日は日勤だという。
「今日から刈るがやろ?」と、里美が炊飯器の蓋を閉めながら言った。
「うん」と、晋作が答えた。
「ほんなら弁当、二つ入れちょくき」
晋作は頷いた。
5時半に、コンバインを軽トラックの荷台から降ろした。
1枚目の田は、集落のいちばん南にある。品種は南国そだち。この県でいちばん早く穫れる米だ。4月の上旬に植えて、7月の半ばから刈る。日本でいちばん早い新米になる。
穂が垂れている。
晋作は刈り取り部を下ろし、外周を一周した。エンジン音が朝の田んぼに広がって、電線の雀が一斉に飛んだ。
二周目に入ったところで、軽トラックが1台、畦道に停まった。西内が降りてくる。78歳。ながおか営農の構成員で、いちばん古い。
西内は畦に立ったまま、動かない。晋作はコンバインを停め、降りた。
「どんなね?」と、西内が言った。
「まあ、穫れよります」と、晋作が答えた。
西内は稲を一本引き抜き、籾を指で潰した。潰した中身を見て、また潰した。
「粒が細いのう」
「そうですね」と、晋作が言った。
「去年もそうやった」
西内はそう言って、稲を畦に置いた。それから何も言わずに軽トラックに戻り、帰っていった。自分の田はもう法人に預けていて、刈るのは晋作の仕事になっている。それでも毎年、初日には見に来る。
昼までに1枚を刈り終えた。
グレンタンクの籾を軽トラックのコンテナに移し、荷台のフィルムを掛けた。市内の、JAの乾燥調製施設まで40分。
施設の前に、軽トラックが6台並んでいた。
晋作は列の最後尾で窓を開け、エンジンを切った。前から順に、荷受けの計量台に乗り、籾を落とし、水分を測ってもらって帰っていく。
3台前が山中だった。降りて、こちらへ歩いてくる。69歳。晋作より五つ上で、集落では若いほうに入る。
山中は運転席の窓に肘を置いた。
「晋作さん、聞いたか?」
「なにを?」と、晋作が聞き返した。
「値や」
晋作は前を向いたまま言った。
「まだ出ちょらんろう?」
「出ちょらんけど、上がるらしい」
山中は声を落とさなかった。落とす必要がないと思っている声だった。
「1万を超えるらしいで。30キロで」
晋作はハンドルに手を置いたまま、少し考えた。
「誰が言いよった?」
「農協の若いのが、そういう話が出ちょると」
「そうか」と、晋作が言った。
「上がったらええのう」
山中はそう言って、自分の軽トラックに戻っていった。
列が二つ進んだ。
晋作は、前の車のテールランプを見ていた。
米を売るというのは、変な商売だと思う。
刈って、乾かして、籾を摺って、袋に詰めて、農協に渡す。渡した時点で、値段は決まっていない。
渡してしばらくすると、概算金というものが振り込まれる。前払いの金だ。あとで最終的な値段が決まって、差額が精算される。精算されるのは、翌年の春や夏になる。
つまり、いま刈っている米が最終的にいくらになるのかは、1年近く経たないとわからない。
晋作はそれを40年近くやっている。おかしいと思ったことは、若い頃に一度だけある。父に聞いた。父は「そういうもんじゃ」と言った。
そういうもので、済んできた。
自分の順番が来た。計量台に乗り、荷台のフィルムを外す。ホッパーに籾を落とす。粉塵が上がり、乾いた匂いが立った。
窓口の若い職員が伝票を差し出してきた。水分22.4。
「上等です」と、職員が言った。
「そうか」と、晋作が受け取った。
伝票をダッシュボードに放り、車を出す。
帰りの道で、施設の駐車場を出たところに、見慣れない車が停まっていた。
白いミニバンで、県外のナンバーだった。運転席に男が座っていて、こちらは見ていない。膝の上でノートを開いている。
晋作はすれ違いながら、ナンバーの地名を読んだ。
神戸。
夕方、2枚目を刈った。
7時を過ぎて、ライトを点けたまま最後の一列を回った。刈り終えて、コンバインのエンジンを切ると、蛙の声が戻ってきた。
晋作は畦に座った。作業服の背中が張りついている。ペットボトルの水を飲んだ。
1万。
30キロで1万円を超えるという。
去年は、そこまでではなかった。一昨年も、その前も。
晋作の頭の中で、いくつかの数字が並んだ。この法人の早期米は12ヘクタールある。10アールあたり500キロとして──いや、そこまではいかない。粒が細い年だから、もう少し落ちる。
それでも、30キロで1万を超えるなら。
ペットボトルの蓋を閉めた。
蓋を閉めながら、晋作は10年前のことを思い出していた。
平成26年の秋。値が落ちた。落ちたというより、崩れた。前の年から3割近く下がって、集落が静かになった。あの年、依光さんと片山さんが米をやめた。依光さんの田んぼは、いまはこの法人が預かっている。
やめると言いに来たとき、依光さんは怒っていなかった。それがいちばんこたえた。
晋作は立ち上がり、コンバインに戻った。
家に帰ったのは8時半だった。
風呂に入って、飯を食って、テレビをつけた。ニュースは東京の暑さを伝えていた。里美は先に寝た。
晋作は居間の座卓の前に座り、しばらくテレビを見ていた。
それから、テーブルの上の携帯電話を取った。
電話帳を開き、「拓」のところで止まる。
大阪にいる。今年で31になった。4月に電話をしたとき、忙しいと言っていた。それだけの会話だった。
晋作は通話ボタンを押した。
呼び出し音が鳴った。
三回。四回。
五回目で、繋がった。
「もしもし」
息子の声がした。うしろで誰かの笑い声がしている。外にいるらしい。
晋作は口を開いた。
今年の米は、値が上がるらしい。30キロで1万を超えるという。うちは12ヘクタールある。もし、それが本当なら。
「もしもし。親父?」と、拓が言った。
晋作は答えなかった。
「聞こえよる?」
晋作は親指を動かした。
通話が切れた。
座卓の上に携帯電話を置いて、晋作はテレビを消した。
暗くなった画面に、自分が映っている。
しばらく、そのままでいた。
11時過ぎに、晋作は作業服を着直した。
台所で靴下を履いていると、寝室から里美の声がした。
「行くが?」
「水、見てくる」と、晋作が答えた。
「ほどほどにしいや」
軽トラックのエンジンをかける。
外はまだ温い。日中と三度も違わない。
用水路の分岐で停まり、懐中電灯を点けた。水面に光を当てる。
水は、動いていた。
晋作は水口の板を1枚起こした。細い流れが田に入っていく。指を浸すと、やはり温い。冷たい水など、この時期のこの水路には流れていない。
それでも、入れないよりはましだ。
穂の並びに光を当てた。白い列が、闇の中に浮かんで、すぐ闇に沈む。
晋作は懐中電灯を消した。
目が慣れると、田の輪郭がわかる。山の稜線もわかる。星は出ていた。
30分待って、水位を見た。2センチ。
板を戻す。
軽トラックに戻りながら、晋作は独りごとを言った。
「まあ、来年やね」
何が来年なのか、自分でもわからなかった。
エンジンをかけ、次の田へ向かった。
第二章
2024年7月下旬|JA営農経済部|明神奈緒(米穀担当)
朝の8時15分に、明神奈緒の机の電話が鳴った。
受話器を取る前に、誰からかはわかっていた。この時期の8時台にかかってくる電話は、ほとんど同じ用件だ。
「はい、営農経済部です」と、奈緒が出た。
「明神さんかね?」
香長の生産者だった。名前を言われる前に声でわかる。
「はい、明神です」
「いくらになるが?」
奈緒は前を向いたまま、机の上のファイルの背表紙を見た。
「まだ決まっておりません」
「いつ決まる?」
「今月中には」
「もう刈りゆうがやけど」
「はい」と、奈緒が答えた。
「刈りゆうのに、いくらで買うてくれるかわからんがか?」
奈緒は受話器を持ち替えた。
「毎年、そうです」
電話の向こうで、少し間があった。
「そうやったな」
生産者はそう言って、切った。
奈緒はモニターに向き直った。エクセルの表が開いている。行が品種、列が年次。数字が並んでいる。
隣の席で、宮地が電話のメモを取っていた。今年の4月に入った。23歳になる。
「明神さん」と、宮地が顔を上げた。
「なに?」
「さっきの電話、どういう意味ですか?」
「どれ?」
「値段がわからんのに刈りよる、っていうところです」
奈緒はキーボードから手を離した。
「宮地くん。米の代金って、いつ払われると思う?」
宮地はしばらく考えてから答えた。
「……売ったとき、ですか」
「売ってない」
宮地が瞬きをした。
「農家さんは、うちに米を売ってるわけじゃないの」と、奈緒が言った。「うちに預けてる。うちが代わりに売る。売れた代金から手数料を引いて、農家さんに返す」
「委託、ですか」
「そう」
「じゃあ、売れるまでお金は入らないんですか?」
「入らない。でも米が売れ切るのは、次の年の夏くらいまでかかる」
宮地の顔が、少し動いた。
「1年、お金が入らないんですか?」
「入らないと、農家さんは困る。肥料も農薬も機械の修理も、もう払ってる。だから、先に払う」
奈緒はモニターを指で示した。
「これが、その金額。概算金」
「がいさんきん」と、宮地が繰り返した。
「仮渡金とも言う。前払い。売れたあとで最終的な値段が決まって、差額を精算する」
「足りなかったら、返すんですか?」
奈緒は少し黙った。
「理屈ではね」
宮地はメモを取った。取りながら、もう一度聞いた。
「その前払いの金額って、誰が決めるんですか?」
「上」と、奈緒が言った。
「上、ですか」
「そのための資料を、私が作る」
「今、ですか?」
「今」
9時半に、県本部から連絡が入った。
九州の数字が固まりつつあるという。鹿児島と宮崎の早期米。前の年から、4割から5割上げてくる。
奈緒は電話を切って、しばらく画面を見ていた。
米の値段が最初につくのは、この国の南のほうだ。九州と、この県。7月に刈って、8月に出す。ほかの産地の新米は、まだ田んぼの中にある。
だから、南の数字が、その年の最初の目印になる。
新聞に載る。卸が見る。量販店の担当者が見る。他県の農協が見る。そして、9月以降に決まる本州の数字が、その目印を基準に動きはじめる。
奈緒が今日つくる資料の数字は、この県の農家に払う金額であると同時に、その年の最初の目印になる。
11時に、筒井課長が席に来た。
「明神さん、どんな?」
「九州が4割から5割です」と、奈緒が答えた。
「うちは?」
「まだ入れてません」
「入れて」と、筒井が言った。
「はい」
筒井は行きかけて、戻ってきた。
「集荷、どうなっちゅう?」
奈緒は別のファイルを開いた。
「先週から、県外の業者の話が出てます」
「何社?」
「わかりません。名前が出てるのは2社。ただ、生産者から直接聞いた話なので、実際はもっといると思います」
「いくら出しゆう?」
「聞いた範囲では、うちより高いです」
筒井は天井を見て、それから頷いた。
「わかった」
昼を食べずに、奈緒は起案用紙を出した。
農経-三。決裁欄が五つある。起案者、係長、課長、部長、常務。
いちばん上の欄に日付を書く。
その下の本文に、いつもの文言を書いた。
令和6年産早期米の仮渡金額について、下記のとおり決定したく、決裁を仰ぐ。
そこから下は表になっている。品種ごとに、等級ごとに、30キロあたりの金額。
南国そだち。一等。
金額欄で、シャープペンシルの先が止まった。
奈緒は前年の数字を見た。その前の年の数字も見た。
上げなければならない、というのは、はっきりしている。
上げなければ、米が集まらない。
農家は、農協に米を出す義務を負っていない。どこに売ってもいい。30年近く前に法律が変わってから、ずっとそうだ。集まるのは、農協に出すのが慣れているからであり、乾燥調製の施設を使っているからであり、代金の入りが確実だからだ。
そこに、現金を持った業者が来て、農協より高い額を言えば、米は動く。
今年は、動く。動きはじめている。
だから上げる。
上げれば、集まる。
奈緒はシャープペンシルを置いた。
上げれば、集まる。集まるが、それだけでは終わらない。
概算金は前払いだ。最終的に、その米がいくらで売れたかで精算する。前払いした額より安くしか売れなければ、追加で払う金はない。
そして、農家はその金額を「今年の米の値段」だと受け取る。
翌年の春、その数字を見て、作付けを決める。上がった年の翌年は、みんなが作る。作れば、余る。余れば、下がる。
奈緒はそれを一度見ている。
入組して2年目の秋だった。値が崩れた。前の年から3割近く下がって、窓口に生産者が並んだ。
奈緒はカウンターの内側にいた。
怒鳴られると思っていた。怒鳴られなかった。
70をいくつか越えた男の人が、通知の紙を両手で持って、しばらく読んで、それから顔を上げた。
「そうかね」
その人はそれだけ言って、帰った。
背中が、10年経っても消えない。
奈緒はシャープペンシルを持ち直した。
数字を書いた。
前年に対して、4割2分。
30キロあたり、1万を少し超える額になった。
書いてから、消しゴムをかけた。
消して、もう一度、同じ数字を書いた。
書き直したのではない。同じ数字を、二度書いた。
午後2時に係長の判が押され、2時40分に筒井が判を押した。
3時に、筒井が戻ってきた。
「明神さん。部長が、もうちょっと上や言いゆう」
奈緒は起案用紙を受け取った。金額欄の横に、鉛筆で数字が書き込まれている。
奈緒の数字より、300円高い。
30キロで300円。1トンで1万円。この県の早期米全体でいえば、億に届くかもしれない。
「理由は?」と、奈緒が聞いた。
「九州に負けたらいかん、と」
奈緒は数字を見た。
負ける、という言葉を、奈緒はしばらく頭の中で転がした。
負けるというのは、誰に対してだろう。
九州の農協に対してではない。九州の農協も、同じことをしている。県外の業者に対してでもない。業者は、この数字が出てから、その上を出してくる。
奈緒が知っているかぎり、この勝負には終点がない。
「明神さん。直せる?」と、筒井が言った。
奈緒は起案用紙を机に置いた。
消しゴムを持って、自分の数字を消した。
紙の表面が少し毛羽立った。
300円高い数字を、そこに書いた。
「できました」
3時20分に、起案用紙は部長の机へ回った。
4時過ぎに、判が四つ揃って戻ってきた。
奈緒はそれをスキャンして、県本部あての報告メールに添付した。送信ボタンを押す前に、宛先をもう一度確認した。押した。
宮地が横から覗き込んだ。
「決まったんですか?」
「決まった」と、奈緒が答えた。
「すごいですね。1万超えるんですね」
「そうね」
「農家さん、喜びますね」
奈緒は椅子の背に体を預けた。
窓の外は、まだ明るい。駐車場のアスファルトが白く光っている。
「宮地くん」と、奈緒が言った。
「はい」
「来年、みんな米を作ると思う?」
宮地は少し考えた。
「作ると思います。高いんですから」
「そうよね」
奈緒はモニターを閉じた。
「私もそう思う」
5時に、電話がまた鳴った。
今朝と同じ生産者だった。
「明神さん。決まったかね?」
「決まりました」と、奈緒が答えた。
「いくらな?」
奈緒は金額を言った。
電話の向こうで、息を吸う音がした。
それから、しばらく何も聞こえなかった。
「明神さん」
「はい」
「ほんまかね?」
「ほんまです」
「そうか」
生産者は、それだけ言って切った。
奈緒は受話器を置いた。
置いた手を、そのまま少し置いていた。
帰りに、駐車場で車のドアを開けたとき、熱がこもった空気が顔に当たった。
エンジンをかけ、エアコンを最強にして、動き出すまで待った。
国道に出る手前で、信号に引っかかった。
対向車線に、白いミニバンが停まっている。県外のナンバーだった。運転席の男が、地図か何かを広げている。
信号が青になった。
奈緒はアクセルを踏んだ。
第三章
2024年8月上旬|島崎精穀|島崎周平(精米業)
8月の5日に、令和6年産の玄米が最初のロットで入った。
30キロの紙袋が、パレットに二段。南国そだち、一等。袋の側面に検査印が押されている。
島崎周平は、袋の口を開けて手を入れた。
指の腹で粒を転がす。掬い上げて、蛍光灯にかざす。
透けている粒と、白く曇っている粒が混じっている。曇っているほうが、多い。
周平は玄米を袋に戻し、事務室から検査成績書を持ってきた。
整粒歩合、72.1。
しばらく、その数字を見ていた。
去年の同じ時期の成績書を出す。74.8。
一昨年を出す。86.3。
3枚を並べて、机の上に置いた。
3枚とも、等級の欄には同じ字が入っている。
一等。
昼前に、JAの吉本が来た。検査員の資格を持っている。50代の半ばで、周平とは20年以上の付き合いになる。
軽ワゴンから降りてきて、事務所の戸を開けた。
「暑いのう」と、吉本が言った。
「うん」と、周平が言った。
吉本は伝票を置き、次の入荷の日取りを口で伝えた。周平は手帳に書き込んだ。
書き終えて、周平は成績書の3枚を吉本のほうへ滑らせた。
吉本が覗き込む。
「なんぞ?」
「整粒が」と、周平が言った。
吉本は3枚を順に見て、それから顔を上げた。
「まあ、去年よりはちっとええくらいやね」
「一昨年から見たら、14落ちちゅう」
「一昨年がええ年やったき」
吉本は成績書を揃えて、周平のほうへ戻した。
「等級は一等で通っちゅう。心配せんでええ」
周平は、それに答えなかった。
答えないまま、成績書を引き出しにしまった。
吉本が帰ったあと、周平は工場に入った。
新米を挽く。
昇降機を回し、石抜きを通し、精米機に落とす。低い唸りが立ち上がる。音の高さは正常だった。
排出口の下に、白米が落ちはじめる。
周平は排出口の前に立って、掌を出した。
落ちてくる白米を受ける。熱い。
指で広げて見た。
割れている粒がある。細かく砕けたものは、このあとのふるいで落ちる。落ちたものは、ホッパーに溜まる。
1時間ぶん流して、周平は計量台へ行った。
投入した玄米の量。出てきた白米の量。
紙に書いて、割った。
88.7。
先月、前の年の米を挽き終えたときが89.2だった。
また落ちている。
周平は数字を見て、それから工場を見渡した。
包装機の前で、岡林がフィルムのロールを交換している。西森が空のパレットを重ねている。松岡は計量台の反対側で、袋の口を折っている。
誰もこちらを見ていない。
周平は紙を二つに折って、作業服の胸ポケットに入れた。
3時に、土佐米穀の大石が来た。
県内に残っている唯一の米卸で、大石は仕入の担当をしている。40代の前半で、いつも半袖のワイシャツを着ている。
応接の椅子に座り、大石は麦茶を一口飲んでから言った。
「島崎さん、今年、量どんくらい要ります?」
「前の年と同じで」
「同じ、ですか」
「うん」
大石は手帳を開いた。
「そのつもりで押さえよったんですけど、ちょっとお伝えしとくことがあって」
「なにが?」
「相場が、ちょっと動きよります」
周平は座り直した。
大石が続けた。
「早期米の仮渡し、出たでしょう。あれ、4割上げてきました。九州も同じくらい。うちらの仕入も、その分上がります」
「そうか」
「秋の本州がどうなるかは、まだわからんですけど」
大石は手帳のページを繰った。
「まあ、去年の在庫が薄いんは前から言われよったき、上がるとは思うちょったんです。ただ、4割は」
そこで言葉を切って、麦茶をもう一口飲んだ。
周平は、胸ポケットの紙を意識した。
言うべきかどうか。
言えば、この男は上に報告する。上は、仕入計画を見直す。
見直せば、いつもより多く押さえる。
多く押さえようとするのは、この会社だけではない。
周平は、そこまで考えて、口を開いた。
「大石さん」
「はい」
「歩留まりが落ちちゅう」
大石が手帳から顔を上げた。
「はい?」
「玄米から、白米が取れん」
「ああ」
大石は頷いた。頷きながら、手帳に何も書かなかった。
「猛暑ですもんね。粒が小さいて聞きます」
「去年から続いちゅう」
「2年続きですか。ほんまですね」
大石は手帳を閉じた。
「まあ、そのぶんは歩留まりの係数で見ちょきますんで。何か困ったら言うてください」
周平は、それ以上言わなかった。
大石は5分後に帰った。
軽自動車のエンジン音が遠ざかっていくのを、周平は事務所の窓から見ていた。
見ながら、胸ポケットの紙を出して、机の上に置いた。
88.7。
この数字が意味しているのは、単純なことだ。
去年と同じ数の袋を作るには、去年より多くの玄米が要る。
1.6%多く、あるいは2%多く。
この工場だけの話ではない。同じ玄米を、全国の工場が挽いている。
周平は紙を裏返して、そこに数字を書いた。
100。
102。
差の二を、丸で囲んだ。
丸を囲んでから、ボールペンを置いた。
4時半に、電話が鳴った。
事務所の固定電話で、表示は大阪の番号だった。
周平が取った。
「島崎精穀です」
「お世話になっております。マルヨシの大原です」
阪神に店を持っているチェーンで、周平の工場はそこのプライベートブランドの精米を請けている。袋に島崎の名は出ない。裏面の製造者欄に、小さく印刷されるだけだ。
「はい」
「9月からの出荷の件で、ちょっとご相談なんですけども」
「はい」
「数量、少し上乗せさせていただけませんか?」
周平は、受話器を持ち直した。
「どれくらい」と、周平が言った。
「1割から、1割5分」
「理由は?」
電話の向こうで、少し間があった。
「うちの上が、今年は早めに押さえとけと」
「そうですか」
「原料の確保、大丈夫ですか?」
周平は事務所の壁を見た。裏返った札が並んでいる。
「確認します」
「お願いします。あと、これはご参考までにですけど」
大原の声が、少し早くなった。
「うちだけやないみたいです。同業さん、みんな動きよります」
周平は返事をしなかった。
「島崎さん?」
「聞いちょります」
「じゃあ、よろしくお願いします」
電話が切れた。
周平は受話器を置いた。
置いてから、机の上の紙をもう一度見た。
100と、102と、丸で囲んだ二。
その下に、周平は新しく書いた。
110。
1割。
さっき大原が言った数字だ。
そしてそれは、先月自分が仕入帳に書き直した数字と、同じだった。
周平は紙を三つに折って、引き出しに入れた。
6時に、西森が帰った。
6時半に岡林が帰り、松岡は7時まで残って、箒で床を掃いた。
「社長」と、松岡が言った。
周平は計量台の前で振り返った。
「なに」
「今年のは、どうですかね」
7月に一度、同じことを聞かれている。
そのときは「まだ、わからん」と答えた。
周平は松岡を見た。松岡は箒を持ったまま、床を見ている。顔を上げない。
「松岡さん」と、周平が言った。
「はい」
「玄米、多めに要る」
松岡は箒を止めた。
止めて、少し考えてから、言った。
「そうですか」
それだけだった。
松岡は箒を壁に掛け、野球帽をかぶり直して、出ていった。
周平は工場の電気を落とし、主電源を切った。
唸りが消える。
排出口の下に、白米が少しだけ残っていた。周平はそれを手で掬い、隣のバケツに入れた。
シャッターを下ろす。金属が軋んで、地面に当たって止まった。
錠を掛け、鍵をポケットに入れた。
外階段を上る途中で、周平は一度足を止めた。
国道の向こうの空が、赤く残っている。
8月の日は、まだ長い。
第四章
2024年8月8日〜15日/週末の安芸|高知県庁・災害対策本部|有澤志穂(県産地・流通課課長補佐)
8月8日の午後4時43分に、県庁の四階が揺れた。
有澤志穂は机の前に座っていた。
最初に、天井の照明が鳴った。カバーがかたかたと音を立てて、その音が続くうちに、机がゆっくり左右に動きはじめた。
書類の山が滑って、床に落ちた。
志穂は椅子の肘掛けを掴んだ。
正面のモニターが揺れている。倒れそうで、倒れない。誰かが「わっ」と言った。
10秒か、15秒か。
揺れが遠のいた。
「震度、いくつ?」
課長の森下が立ち上がって、天井を見ていた。
久保がテレビのリモコンを取った。今年入ったばかりで、まだ26歳になっていない。壁の受像機が点く。
速報の帯が出た。日向灘。マグニチュード7.1。
県内は震度4。
志穂は床に落ちた書類を拾いはじめた。
拾いながら、手が少し震えているのに気づいた。
5時前に、庁内放送が入った。
災害対策本部が設置される。関係する部の職員は所定の場所へ。
志穂は名札を首から下げ直し、ノートパソコンを抱えて、階段を降りた。
三階の会議室に、すでに20人ほどが入っていた。危機管理部の職員が机を並べ、ホワイトボードに班の名前を書いている。
被害情報班。避難所班。物資班。
志穂は物資班の島に座った。
正確に言えば、志穂の所属は農業振興部の産地・流通課で、平時の仕事は県産の農産物をどう売るかを考えることだ。ただ、災害のときには食料の調達に回る。米も野菜も加工品も、動かすのは同じ流通だからだ。
そういう決まりになっている。
隣に、危機管理部の和田が座った。40代の後半で、この10年ずっと地震の担当をしている。
「有澤さん」と、和田が言った。
「はい」
「これ、たぶん出ますよ」
「何がですか?」
和田はホワイトボードを見たまま答えた。
「臨時情報」
志穂は和田の横顔を見た。
南海トラフ地震臨時情報。
想定される震源域で一定の規模の地震が起きたとき、次の大きな地震につながる可能性を評価して発表する仕組みだ。運用が始まってから5年になる。
一度も出ていない。
「出たことないですよね」と、志穂が言った。
「ないです」と、和田が言った。「だから、誰も、出たあとに何が起きるか知らんのです」
午後7時15分。
会議室のテレビが、記者会見の中継に切り替わった。
南海トラフ地震臨時情報。巨大地震注意。
読み上げられた文言は、慎重だった。
大規模な地震が発生する可能性が平常時と比べて相対的に高まっている。ただし、特定の期間に必ず発生するというものではない。避難の必要はない。日頃の備えを再確認してほしい。
志穂はノートにその要点を書き取った。
書きながら、和田が言ったことを考えていた。
出たあとに何が起きるか、誰も知らない。
会議室がざわついている。誰かが電話をかけ、誰かが別の部屋へ走っていった。
森下が志穂の席に来た。
「有澤さん。広報の原稿、うちも一部見るき」
「食料の部分ですか?」
「そう。危機管理から回ってくる。今夜中や」
志穂は頷いた。
原稿が回ってきたのは、9時過ぎだった。
危機管理部が作った、県民向けの呼びかけ文。A4で1枚半ある。
避難の必要はないこと。家具の固定を確認すること。避難経路を確認すること。連絡手段を家族で決めておくこと。
その下に、食料の項目がある。
「家庭内備蓄の確認をお願いします」
志穂はその一行を読んだ。
読んで、赤ペンを持った。
この一行のままでは、何をどれだけ確認すればいいのかがわからない。県民から問い合わせが来る。窓口が止まる。
具体的な日数を書くべきだ。
志穂は行の下に書き足した。
「飲料水・食料は、最低3日分、可能であれば1週間分の備蓄を」
書いてから、ペンを止めた。
1週間分。
高知県は、南海トラフの正面にある。津波の到達が早い場所では、数分で水が来る。道路は寸断される。孤立する集落が出る。だから県は昔から1週間分と言ってきた。3日では足りない。
これは、間違っていない。
志穂は原稿を机に置き、椅子の背にもたれた。
蛍光灯が白い。窓の外はもう暗く、ガラスに会議室が映っている。
もう一つ、書くべきかどうか迷っている文言があった。
買いだめは控えてください。
志穂はその言葉を、頭の中で二度読んだ。
書けば、丁寧になる。県民に配慮している文になる。
書けば、その単語が原稿に載る。
載った原稿は、新聞に出る。テレビが読み上げる。
「買いだめは控えてください」という文を読んだ人が、何を考えるか。
志穂は赤ペンのキャップを閉めた。
閉めて、また開けた。
結局、書かなかった。
備蓄の確認を、と書いた。買いだめには触れなかった。
原稿を危機管理部に戻したのが、10時20分だった。
11時に、久保が携帯電話を持って志穂の席に来た。
「有澤さん、これ見てください」
画面に、写真が表示されていた。
コンビニの棚だった。飲料水の列が、半分空いている。
「同期が、いま撮って送ってきました」
「どこの店?」と、志穂が聞いた。
「高知市内です」
志穂は写真を見た。
水が動くのは、想定の範囲だった。
「久保くん」
「はい」
「明日、県内の量販店の在庫、確認できる?」
「できます。どこにかけたら」
「協定を結んでる先が一覧になってる。私の机の右の引き出し」
久保は頷いて、走っていった。
志穂は自分のノートパソコンに向き直った。
呼びかけ文の原稿を、もう一度開いた。
自分が書き足した一行を見る。
飲料水・食料は、最低3日分、可能であれば1週間分の備蓄を。
正しい。
10年前も同じことを書いた。3年前も書いた。去年の防災週間にも書いた。
書いてきたが、今度は違う。
今度は、臨時情報が出ている。
翌9日の午後3時に、久保が報告に来た。
「県内、水はほぼ全滅です。ミネラルウォーターの2リットル、どこも棚から消えてます」
「カップ麺は?」
「減ってます。でも、まだあります」
久保はメモをめくった。
「あと、米です」
志穂は顔を上げた。
「米?」
「5キロ袋が動いてます。3店舗から同じ話を聞きました」
「どれくらい?」
「昨日の売上が、前の週の同じ曜日の2倍くらい、と」
志穂はしばらく黙っていた。
「2倍」
「はい」
「久保くん、ありがとう。引き続き見といて」
久保が戻っていったあと、志穂は電卓を引き出しから出した。
米の袋を、5キロで考える。
一つの家が、いつもより1袋だけ余分に買う。
1袋だけだ。買いだめとも言えないくらいの量だ。冷静な人でも、そのくらいはする。
この県の世帯数は、およそ34万。
34万に5を掛けた。
170万キロ。1,700トン。
高知県だけで、1,700トン。
志穂は電卓の数字を消した。
もう一度、別の数字を入れた。
この国の世帯数は、5,000万を超える。
5,000万に5を掛ける。
25万トン。
志穂は画面の数字を見た。
国内で1年に食べられる主食用の米は、700万トンに届かないくらいだ。ひと月あたりにすると、60万トン弱。
25万トンというのは、その半月分に近い。
一つの家が、1袋。
それだけで、この国の半月分の米が、家庭の戸棚に移動する。
志穂は電卓を裏返して、机に置いた。
しばらく、そのままにしていた。
移動するだけだ、と志穂は自分に言った。
消えたわけではない。誰かが食べれば、また買う頻度が落ちる。ならすと元に戻る。
理屈では、そうだ。
ただ、店の棚は、ならされる前に空になる。
8月15日の午後5時に、注意の呼びかけは終了した。
1週間だった。
その1週間で、県内の水は戻らず、米は戻らなかった。
呼びかけが終わったという報道が出た日に、久保が言った。
「有澤さん。終わったのに、止まらんですね」
「そうやね」と、志穂が答えた。
「なんでですか?」
志穂は答えを持っていなかった。
「棚が空いちゅうき、やと思う」
「空いちゅうき、買う。買うき、空く」
久保はそう言って、自分で頷いた。
「なんか、変ですね」
「変やね」
その週末、志穂は安芸に帰った。
母は81になる。玄関を開けると、廊下の奥から声がした。
「志穂か?」
「うん」
母は台所にいた。流しの前で、鍋を洗っている。
志穂は荷物を置いて、冷蔵庫を開けた。牛乳の期限を見て、卵の数を見た。それから、いつものように床下収納の蓋を開けた。
米の袋が入っていた。
5キロが、三つ。
志穂は蓋を持ったまま、動かなかった。
「お母さん」と、志穂が言った。
「なに?」
「米、いつ買うたが?」
「先週」
母は鍋を伏せて、布巾で手を拭いた。
「地震の、あれが出たろ」
「うん」
「テレビで、1週間分用意しときなさいゆうて言いよったき」
志穂は蓋を閉めた。
「3袋も要らんろう」
「二人おったら、要る」
「私、住んじょらんが」
母は少し笑った。
「帰ってくるやろ」
志穂は立ち上がって、流しの水道を止めた。母が閉め忘れていた。
「あんた、そういうの作りゆう人やろ」と、母が言った。
志穂は母を見た。
「なにを?」
「テレビで言いよったやつ。県が言いよったやん。1週間分がどうこう」
「……うん」
「ほんなら、ちゃんとせないかんろ」
母は台所を出て、居間のテレビをつけた。
志穂は床下収納の前に立ったままだった。
蓋の板の上に、母がいつも置いている買い物のレシートが挟んである。
日付は、8月10日。
志穂はそれを見て、それから蓋の上に手を置いた。
板は冷たかった。
居間から、テレビの音が聞こえてきた。母がチャンネルを変えている。
志穂は蓋の上の手を離し、台所の電気を消した。
第五章
2024年8月9日|神戸のスーパー|名前のない女性
8月9日の夕方、女はスーパーの自動ドアを抜けた。
冷気が顔に当たった。外は35度あった。
カートを引き出し、青果の売り場から入る。きゅうりを三本、トマトを1パック。かごに入れて、通路を曲がった。
飲料の棚の前で、足が止まった。
2リットルの水が、無い。
正確には、六本入りのケースが積まれていた場所に、床が見えている。棚板の上には、炭酸水が数本と、値段の高い外国産のものが四本だけ残っていた。
「本日、お一人様1点限りとさせていただきます」という紙が、テープで貼ってある。
女は棚を見て、それから通路の先を見た。
上の子が炭酸水を飲む。下の子は麦茶しか飲まない。家に麦茶のパックはまだある。
女は外国産の水を一本だけ取って、かごに入れた。
通路を進むと、乾物と即席麺の棚が続く。
カップ麺は減っていた。半分ほど空いている。棚の奥のほうに、辛いものと、大盛りのものが残っている。
女は一つも取らなかった。
角を曲がったところが、米の売り場だった。
5キロの袋が、いつものように積んである。
女は袋の値札を見た。
いつもと同じだった。
しばらく、そこに立っていた。
店内放送が流れている。鮮魚売り場の刺身が値引きになりましたという内容だった。うしろをカートが1台、通り過ぎた。
女は5キロの袋を一つ持ち上げ、カートの下段に置いた。
置いてから、もう一つ持ち上げた。
二つ目をその隣に置いて、女はカートの取っ手を握り直した。
次に買い物に来られるのは、たぶん来週の金曜だ。
米は毎日炊く。今ある分は、あと5日か6日で無くなる。
いつもなら、5日か6日で無くなる頃に、また来て買う。
今日は水が無かった。
女はカートを押して、精肉の売り場へ向かった。
鶏もも肉を2パック。豚こまを1パック。特売のシールが貼ってある。
レジは4台のうち3台が開いていて、どの列も六、七人が並んでいた。
女は真ん中の列についた。
前の人のカートに、5キロの袋が二つ載っている。
その前の人のカートにも、二つ載っている。
女は自分のカートの下段を見た。
同じだった。
順番が来た。かごを台に上げ、米の袋は下段のまま通す。店員がバーコードのリーダーを袋に当てた。
「袋、二つで大丈夫ですか?」と、店員が言った。
「はい」と、女が答えた。
支払いを済ませ、サッカー台でかごの中身を持参の袋に移した。米は下段に載せたまま、駐車場まで押していった。
後部座席に、米を2袋。
助手席に食料の袋を置いて、女は運転席に乗った。
エンジンをかけると、ラジオがついた。
昨日の地震のニュースをやっていた。震源は九州の東の海で、この地域に被害は出ていない。ただし、南海トラフの想定震源域にあたるため、気象庁が初めての情報を発表した、という説明が続いた。
避難の必要はありません、とアナウンサーが読んだ。
日頃の備えを確認してください、と続いた。
女は駐車場を出て、右に曲がった。
信号で停まったとき、コンビニの前を通った。
貼り紙がしてある。文字までは読めなかった。
信号が青になった。
家に着いたのが、6時20分だった。
玄関を開けて、食料の袋を先に運び、それから米を1袋ずつ運んだ。
台所の米びつは、床に置いてある。蓋を開けると、底が見えていた。
女は1袋を開け、米びつに空けた。ざあ、という音がして、粉のような匂いが立った。
もう1袋は、開けなかった。
流しの下の扉を開ける。鍋と洗剤とごみ袋が入っている。奥のほうを片手で押して、隙間を作った。
そこに、2袋目を横にして入れた。
扉を閉めた。
上の子が二階から降りてきて、冷蔵庫を開けた。
「炭酸ないん?」
「ないよ」と、女が答えた。
「なんで?」
「売ってなかった」
上の子は冷蔵庫を閉めて、麦茶のポットを出した。
「地震のやつ?」
「たぶん」
「へえ」
上の子はコップに麦茶を注いで、二階に戻っていった。
女は炊飯器の内釜を出し、計量カップで米を3合すくった。
流しで研ぐ。
水を替えて、二度、三度。
水が澄んでくる。
内釜を炊飯器に戻し、蓋を閉め、ボタンを押した。
炊飯器が短く鳴った。
女はエプロンで手を拭き、冷蔵庫から鶏もも肉を出した。
第六章
2024年8月19日〜20日|高知市内のスーパー/新聞社編集局|片岡瑞希(県紙記者)
8月19日の朝、片岡瑞希は編集局の自席でメールを開いていた。
8時40分に、横山デスクが後ろを通った。通ってから、戻ってきた。
「片岡。米、見てこい」
瑞希は椅子を回した。
「米、ですか?」
「スーパーから消えよるらしい」
「水は聞いてますけど」
「米や」と、横山が言った。「うちの家内が、昨日、3軒回って買えんかったと」
瑞希はメモ帳を引き寄せた。
「3軒というのは、市内ですか?」
「市内。潮江と、あと二つは知らん」
「わかりました。何時までですか?」
「夕方までに一本。写真も撮ってこい」
横山はそう言って、自分の席に戻っていった。
瑞希は経済部で農政を担当している。2年目になる。県内の農林水産業と、それに関わる県の施策を追う。米の話は年に何度か書く。作付面積、収穫量、新品種の発表会。どれも短い記事だ。
社用車のキーを取って、瑞希は編集局を出た。
1軒目は、市の東側の郊外店だった。
10時過ぎで、駐車場は半分ほど埋まっている。
瑞希は入口でかごを取らずに、そのまま奥へ入った。
飲料の棚は、2リットルの水が空だった。「お一人様1点限り」の紙が貼ってある。
米の売り場は、店の中ほどにあった。
平台に、5キロの袋が積んである。
無くはない。
瑞希は台の前に立って、数えた。20袋ほど。銘柄は三種類あるが、そのうち一つは残り4袋だった。
台の端に、手書きの紙が置いてある。
「お米は、お一人様2点までとさせていただきます」
瑞希はスマートフォンではなく、カメラを構えた。平台の全体が入る角度で2枚。手書きの紙が読める角度で1枚。
サービスカウンターで名刺を出し、店長を呼んでもらった。
出てきたのは50くらいの男で、名札に細木とあった。
「新聞の方ですか」と、細木が言った。
「はい。お米のことでお聞きしたくて」
細木は少し笑った。
「もう3件目です、今日」
「そうですか」
「まあ、そうなりますわね」
瑞希はメモ帳を開いた。
「品薄というのは、いつからですか?」
「先々週の土曜からです」と、細木が答えた。「地震のあれが出た次の日」
「どれくらい売れてますか?」
「あの週は、前の年の同じ週の、倍は出ました。今週も、1.5倍は行きよります」
「入荷のほうは?」
細木は腕を組んだ。
「発注はしゆうんです。ただ、来る量が決まっちゅう」
「決まっている、というのは?」
「卸さんが、割り当てで出しよります。うちが100欲しい言うても、60とか、70とか」
瑞希はそれを書き取った。
「なぜ、割り当てになるんでしょうか?」
「それは、うちに聞かれても」と、細木が言った。「卸さんに聞いてもろたほうが」
瑞希は礼を言って、店を出た。
2軒目は、市内の商店街にある中規模の店だった。
米の平台は、ほぼ空だった。台の上に袋が三つ残っていて、そのうち二つは無洗米だった。
写真を3枚撮った。
副店長という30代の女性が出てきて、同じことを言った。発注は出している。来る量が決まっている。理由は卸に聞いてほしい。
3軒目は市の西側で、ここは在庫があった。かわりに、値札が高かった。
瑞希は3軒とも値札を撮った。
社に戻る途中、車の中から卸に電話をかけた。
土佐米穀。県内に残っている唯一の米卸だと、以前の取材で聞いたことがある。
仕入担当の大石という男が出た。
「割り当てになっている理由を教えていただきたいんですが」と、瑞希が言った。
「産地から来る量が、去年より少ないんです」と、大石が答えた。
「どれくらい少ないですか?」
「品目にもよりますけど、うちの契約分でいうと、1割から1割5分は」
「原因は何でしょうか?」
大石は少し黙った。
「いくつかあります」
「いくつか」
「まず、去年の在庫が薄かった。それから、今年は取り合いになっちゅう」
「取り合い、というのは?」
「県外から業者が来て、産地で直接買いよります。うちの取り分が減る」
瑞希はハンドルに肘を置いて、メモを取った。片手で書くと字が崩れる。
「その業者というのは、どういう会社ですか?」
「いろいろです。名前を知らん会社もあります」
「産地というのは、県内ですか?」
「県内です。うちは早期米を扱うんで、この時期は県内が中心になります」
「産地のほうは、なんと言っていますか?」
「農協さんに聞いてください」と、大石が言った。「うちも、そこから買いよるんで」
社に戻って、瑞希はJAに電話をかけた。
営農経済部の米穀担当につないでもらう。明神という女性が出た。
「今年の仮渡金について、確認させてください」と、瑞希が言った。
「はい」
「今月、決定されていますよね。前の年と比べて、どれくらい上がっていますか?」
明神は数字を答えた。
瑞希はそれを書いて、確認のために読み上げた。
「4割強、ということでよろしいですか?」
「はい」
「これは、なぜ上げられたんでしょうか?」
電話の向こうで、一拍の間があった。
「販売の見通しと、集荷の状況を勘案して決定しております」と、明神が言った。
「集荷の状況、というのは」
「例年より、系統外への出荷が多い見込みですので」
「系統外というのは、農協以外に売るということですか?」
「そうです」
瑞希はペンを止めた。
「明神さん。基本的なことを伺ってもいいですか?」
「どうぞ」
「農家さんは、農協に米を出す義務はないんですね?」
「ありません」と、明神が答えた。「どこに売っても自由です」
「それは、いつからですか」
「制度としては、平成の半ばからです」
瑞希はそれを書いた。
書きながら、自分がそれを知らなかったことに気づいた。
農協が米を集めるのは決まりごとだと、どこかで思い込んでいた。
「もう一つだけ」と、瑞希が言った。「その仮渡金というのは、最終的な代金ではないんですよね?」
「前払いです。売れたあとで精算します」
「精算はいつですか?」
「翌年です」
瑞希は受話器を持ったまま、少しのあいだ黙った。
「翌年ですか」
「はい」
礼を言って、電話を切った。
3時に、県庁に電話をかけた。
農業振興部の産地・流通課。有澤という課長補佐が出た。
「県内で、米が不足しているという認識はありますか?」と、瑞希が聞いた。
「県内の流通に、大きな支障は出ておりません」と、有澤が答えた。
「ただ、店の棚は空いています」
「はい」
「不足していないのに、空くというのは、どういうことでしょうか?」
有澤は、すぐには答えなかった。
「需要が1時的に集中しております」と、有澤が言った。「供給の総量が減っているわけではありません」
「総量というのは、どこの数字ですか?」
「国が公表している在庫の統計です」
「その統計は、店の棚の在庫を見ていますか?」
また、間があった。
「見ていません」と、有澤が答えた。
瑞希はそれを、そのまま書き取った。
4時半から書きはじめて、6時前に出した。
40行。
書いたのは、次のようなことだった。
県内のスーパーで米の品薄が続いていること。3軒のうち2軒で購入制限が行われていること。販売数量が前年の同じ時期を上回っていること。卸への入荷が例年より1割から1割5分少ないこと。県外業者による産地買い付けが増えていること。農協の仮渡金が前年比で4割強引き上げられたこと。県は流通に大きな支障はないとしていること。
一行も、推測を書かなかった。
「不足」という言葉は、店と卸の発言の中でしか使わなかった。
写真は、2軒目の空の平台を選んだ。
7時過ぎに、整理部から内線が入った。
「片岡さん。米の記事、明日の社会面に行きます」
「はい」
「見出し、こっちで付けますんで」
「お願いします」
瑞希は受話器を置いた。
見出しは、記者が付けない。整理部が付ける。それがこの新聞社のやり方で、どこの新聞社でもだいたいそうだと聞いている。
夜の9時に、ウェブ版が先に出た。
瑞希は自分のスマートフォンで開いた。
見出しは、こうなっていた。
「県内スーパー コメ品薄続く 購入制限も」
瑞希は本文をスクロールした。
自分が書いたとおりだった。一文字も変わっていない。
翌8月20日の午前10時に、瑞希は1軒目の郊外店に行った。
続報のためではない。写真をもう1枚欲しかっただけだった。
駐車場が、昨日より混んでいた。
店に入って、米の売り場へ向かった。
平台に、袋が無かった。
台の上には、昨日と同じ手書きの紙が残っている。「お一人様2点まで」の下に、新しい紙が足されていた。
「入荷は未定です」
瑞希はカメラを構えて、2枚撮った。
サービスカウンターに行くと、細木がすぐに出てきた。
「片岡さん」と、細木が言った。
「おはようございます」
「昨日の記事、見ましたよ」
「ありがとうございます」
細木は、笑っていた。怒ってはいなかった。
「今朝、開店前から並んでました」
瑞希は、メモ帳を開きかけた手を止めた。
「並んで、ですか」
「30人くらいですかね。開けたら、まっすぐ米のとこ行かれて」
「……そうですか」
「あの、責めゆうわけやないですよ」と、細木が言った。「ほんまのこと書いてあったし」
瑞希は礼を言って、店を出た。
車に戻って、シートに座った。
エンジンをかけずに、カメラの液晶画面を開いた。
昨日撮った写真を表示する。平台に、袋が20ほど。
送りボタンを押す。
今日の写真が出た。平台に、何も無い。
瑞希はその2枚を、行ったり来たりさせた。
昨日の写真。今日の写真。
昨日の写真。今日の写真。
液晶を閉じて、瑞希はスマートフォンで自分の記事をもう一度開いた。
40行を、最初から最後まで読んだ。
事実の誤りは、無かった。
不足していると断定した箇所も、無かった。県のコメントも入れてある。
読み終えて、瑞希はもう一度、最初から読んだ。
やはり、無かった。
社に戻ったのが11時半だった。
横山が瑞希の席に来た。
「片岡。反応ええぞ」
「そうですか」
「ウェブ、ようけ読まれちゅう」
瑞希はカメラを机に置いた。
「デスク」
「なんぞ?」
「今朝、1軒目の店、開店前に30人並んどったそうです」
横山は少し眉を動かした。
「ほう」
「うちの記事が出た次の日です」
横山は瑞希の顔を見た。それから、椅子の背に手を置いた。
「片岡。煽るなよ」
「はい」
「事実だけ書け。数字と、当事者の言うたことだけや」
「昨日は、それしか書いてません」
「知っちゅう」と、横山が言った。「読んだ」
横山はそこで一度、言葉を切った。
「明日も行け。続報や」
「はい」
「あと、これ、一面で行くかもしれん」
横山はそう言って、自分の席へ戻っていった。
瑞希は椅子に座ったまま、机の上のカメラを見ていた。
液晶を、もう一度開いた。
今日の写真が出ている。
平台の上には、何も無い。
瑞希はそれを、送稿用のフォルダに入れた。
第七章
2024年8月26日|マルヨシ商品本部(阪神)|大原祐介(米穀バイヤー)
8月26日の月曜、大原祐介は8時20分に本部に着いた。
三階の商品本部は、フロアの半分が空いている。店舗担当は朝から現場に出ているので、この時間に席にいるのはバイヤーだけだ。
大原はノートパソコンを開き、前の週の販売データを呼び出した。
米の欄を出す。
5キロ、精米、全店合計。
前年同週比、147。
大原はその数字をしばらく見た。
先週が147。その前の週が162。その前が190。
8月8日の週が、いちばん高かった。
数字は下がってきている。ただ、下がってきて147だ。
同じ表の右側に、欠品率の列がある。
12.3%。
先週、全店の売り場のうち、1割以上で米の棚が空いた時間があった。
大原はその数字を、赤いセルのまま見ていた。
9時に、三宅が来た。今年の春に配属された25歳で、大原の下についている。
「おはようございます」と、三宅が言った。
「おはよう。三宅くん、日曜の店着報告、まとめといて」
「はい」
三宅は自分の席に座って、パソコンを開いた。
15分ほどして、三宅が振り向いた。
「大原さん」
「なに?」
「日曜、16店で夕方に米が切れてます」
「何時から?」
「早いとこで、2時です」
大原は椅子を回した。
「2時か」
「はい。閉店まで6時間、棚が空です」
大原はペンを取り、手元のメモに数字を書いた。
16店。6時間。
「三宅くん」と、大原が言った。
「はい」
「米の棚が空いてるとき、うちは何を失ってると思う?」
三宅は少し考えた。
「米の売上、ですか」
「それだけやない」
大原は椅子の背にもたれた。
「米を買いに来た客が、無いのを見て帰る。その客は、その日、うちで肉も野菜も買わへん」
「あ」
「米は、それ目当てで来る商品や。重いから、車で来る。車で来たら、ついでにまとめて買う」
三宅はメモを取りはじめた。
「一回、無いのを見た客は、次の週、別の店に行く。別の店に米があったら、その客はそのまま向こうの客になる」
「戻ってこないんですか?」
「戻ってくることもある。戻ってけえへんこともある」
大原は自分のパソコンに向き直った。
「逆に、米が余ったらどうなると思う?」
「値引き、ですか」
「そう。値引きして売る。売れ残っても、米は腐らへん。夏を越すと味は落ちるけど、それは来年の夏の話や」
三宅がペンを止めた。
「じゃあ、余るほうが安いんですか」
「安い」と、大原が言った。「圧倒的に安い」
三宅がメモに何か書いた。
大原はその横顔を見て、もう一言だけ足した。
「せやから、この商売は、積むほうに倒れるようにできてる」
10時に、卸との定例電話が入った。
関西に本社のある大手の卸で、担当は入江という50前の男だった。
「大原さん、9月の内示ですけどね」と、入江が言った。
「はい」
「申し訳ないんですけど、ご要望の数字は全部は出せません」
「どれくらいですか?」
「8割です」
大原はスプレッドシートを開いた。
「8割やと、去年の9月とほぼ同じですよ」
「そうです」
「去年と同じでは足りません。先週の売上、前年比147です」
入江は少し黙った。
「大原さん。それ、どこも同じこと言うてはるんです」
大原はマウスから手を離した。
「どこもですか」
「どこもです。うちが持ってる玄米の総量は決まってます。それを配分してます」
「増やせないんですか?」
「産地から来る量が増えてません」
「産地は、どうなってるんですか?」
「取り合いです」と、入江が言った。「今年は、うちらの外の業者が動いてます」
大原はペンでメモの端を叩いた。
「じゃあ、来月はもっと減りますか?」
「わかりません」
「わからない、というのは」
「新米が出てきたら、ある程度は落ち着くと思います。九州と四国の早いのは、もう出てます。関東と東北の本番が9月の後半から10月です」
「そこで戻ると」
「戻る、と思います」
大原は「思います」という言葉を、メモに書いた。
「入江さん」
「はい」
「思います、というのは、根拠がありますか?」
入江は今度は長く黙った。
「毎年、そうやったからです」と、入江が言った。
電話を切って、大原はしばらく画面を見ていた。
毎年そうだった、というのは、根拠として弱い。
ただ、それ以外の根拠を、自分も持っていない。
昼を食べに出ずに、大原は9月から12月までの数字を組み直した。
前提を三つ置いた。
一つ。販売は、9月末までは前年比130前後で推移する。
二つ。新米が出れば、10月に前年比110まで落ちる。
三つ。卸からの入荷は、要望の8割で頭打ち。
この三つで計算すると、10月の第2週に在庫が切れる。
大原は前提の二つ目を変えた。
新米が出ても、前年比120までしか落ちない。
計算し直すと、切れるのが9月の最終週になった。
もう一度、前提を変えた。
落ちない。ずっと130のまま。
9月の第3週で切れた。
大原は電卓を置いた。
置いて、両手で顔をこすった。
三宅が席から声をかけた。
「大原さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫」と、大原が答えた。
2時半に、商品本部長の樽井が呼びに来た。
会議室で、5分だけの立ち話だった。
「大原、米どうなっとる」と、樽井が言った。
「入荷が要望の8割です」
「切らすなよ」
「はい」
「切らしたら、あかん。それだけや」
樽井はそう言って、出ていった。
大原は会議室に一人残って、ホワイトボードの前に立った。
切らすな、というのは、命令として明快だった。
明快で、実行の方法が示されていない。
方法は一つしかない。
多めに頼む。
大原は自分の席に戻って、発注の画面を開いた。
9月分の数字が入っている。
その横に、自分で作った欄がある。「必要量」と書いてある。
大原はそこに、計算で出した数字を入れた。
必要量。前年比130で推移した場合に必要な玄米の量。
その下に、もう一つ欄を作った。
「発注量」
大原はカーソルをそこに置いた。
必要量と同じ数字を入れれば、切れるかもしれない。卸が8割しか出さないなら、必要量を頼んでも8割しか来ない。
8割で足りるように頼むには、必要量の1.25倍を頼むことになる。
大原は1.25を掛けた数字を打ち込んだ。
打ち込んで、消した。
1.25では、前提が外れたときに間に合わない。
1.3を掛けた。
数字が出た。
大原はその数字を見た。
去年の同じ月に頼んだ量の、およそ倍だった。
4時に、大原は島崎精穀に電話をかけた。
高知にある精米工場で、マルヨシのプライベートブランドの精米を請けている。袋の裏に、製造者として小さく名前が載る。
「島崎精穀です」と、低い声が出た。
「お世話になっております。マルヨシの大原です」
「はい」
「先日お願いした上乗せの件、原料の確保はいかがでしたか?」
電話の向こうで、間があった。
「1割は、なんとかなります」と、島崎が言った。
「1割5分は、難しいですか?」
「難しいです」
「そうですか」
大原はメモに書いた。
「島崎さん。差し支えなければ、なんで難しいんでしょうか?」
「玄米が、要る量だけ入らんのです」
「入らないというのは」
「産地で、取り合いになっちゅうと聞いちょります」
大原はペンを止めた。
同じ言葉を、今日三回聞いた。
「わかりました。1割でお願いします」
「はい」
「あと、これはお願いなんですけども」と、大原が言った。
「なんでしょう」
「もし、原料に余裕ができたら、真っ先に教えていただけませんか?」
また、間があった。
「わかりました」と、島崎が言った。
電話を切って、大原はメモを見た。
「取り合い」という言葉が、三つ並んでいる。
卸の入江。産地の話。島崎。
誰も、自分が取り合っているとは言っていない。
全員が、誰かが取り合っていると言っている。
7時過ぎに、三宅が帰った。
フロアには大原ともう一人しかいなくなった。
大原は発注画面に戻った。
1.3を掛けた数字が、そのままセルに入っている。
送信ボタンにカーソルを合わせた。
合わせて、そのまま動かさなかった。
この数字を送ると、卸は割り当てを計算する。全社からの要望を足して、持っている玄米を按分する。
自分が1.3で頼めば、按分の分母が増える。
分母が増えれば、他社の取り分が減る。
減った他社は、次に1.4で頼む。
1.4で頼まれた卸は、また按分する。
大原はカーソルを外し、椅子の背にもたれた。
自分がやっているのは、それだ。
わかっている。
わかっているが、自分だけ1.0で頼めば、うちの店の棚が空く。
空いた棚を見た客は、隣のチェーンへ行く。
隣のチェーンの担当者も、いま同じ画面を見ている。
大原はカーソルを戻し、送信を押した。
確認のダイアログが出た。
「発注を確定します。よろしいですか?」
大原は「はい」を押した。
8時10分に、携帯電話が鳴った。
同業のチェーンで米を担当している、細川という男からだった。3年前の展示会で名刺を交換して以来、たまに情報を交換する。
「大原さん、まだ会社?」と、細川が言った。
「まだおるよ」
「うちもや」
細川は笑った。笑ってから、声を落とした。
「なあ、9月の発注、いくつにした?」
大原は窓のほうを見た。
外はもう暗い。ガラスに、フロアの蛍光灯が映っている。
「1.1くらいかな」と、大原が言った。
「へえ。うちも、そんなもんや」
「そうか」
「まあ、あんまり無茶したら卸に嫌われるしな」
「せやな」
「ほな、また」
電話が切れた。
大原は携帯電話を机に置いた。
置いて、パソコンの画面を見た。
送信済みのフォルダに、さっきの発注データが入っている。
1.3。
大原はそれを開かずに、パソコンを閉じた。
第八章
2024年8月27日|神戸・長田/高知・香長平野|樋口諒(たなつもの商店代表)
8月27日の朝6時に、樋口諒は長田の事務所を出た。
事務所は雑居ビルの二階にある。ワンフロアを半分に区切って、手前が机三つ、奥が在庫の置き場になっている。米袋がパレットに二段積んであるが、いまはその半分ほどしか埋まっていない。
シャッターを下ろす前に、樋口はもう一度、在庫を見た。
10月からの分が、足りない。
白いミニバンに乗り、高速に入った。
明石海峡を渡るころに日が上がった。淡路島の丘の上を走って、鳴門を越え、徳島から高知へ入る。
4時間半かかった。
樋口が独立したのは2年前だ。
その前は、大手の食品メーカーで営業をしていた。12年いた。担当していたのは加工品で、原料を仕入れて、工場で作って、量販店に納める。
営業だから、価格の交渉をする。上から言われるのは、いつも同じことだった。
原料を下げろ。
樋口は下げた。下げるために産地へ行き、生産者に会い、頭を下げた。頭を下げて、下げてもらった。
12年やって、樋口が覚えたのは、下がるということだった。
作る人の取り分は、いちばん最初に決まって、いちばん最後まで動かない。動くとしたら、下にしか動かない。
39のときに辞めて、翌年に会社を作った。
米を扱うことにしたのは、ほかの品目より、生産者の顔が見えやすいと思ったからだ。
たなつもの商店。従業員は二人いる。
やり方は決めていた。産地から直接買う。買値を先に決める。それを商品の説明に書く。買った値段を隠さない。そのぶん売値は高くなるが、説明すれば買う人はいる。
実際、2年で少しずつ客はついた。
去年まで、樋口は兵庫の内陸の集落から米を買っていた。3軒の農家と契約していた。
今年の6月に、3軒のうち2軒から電話が来た。
今年は出せない、と言われた。
理由を聞くと、別のところに出すことになった、と言う。
いくらで、とは聞かなかった。聞くのは失礼だと思った。
樋口は聞かなかったが、額は想像がついた。
11時に、樋口はJAの乾燥調製施設の駐車場に着いた。
先週から、これで四回目になる。
軽トラックが列を作っている。順番に計量台に乗り、籾を落として帰っていく。
樋口は車を隅に停めて、待った。
膝の上にノートを開いている。この1週間で声をかけた農家の名前と、断られた理由が書いてある。
11軒に声をかけて、11軒に断られている。
理由はだいたい同じだった。
農協に出しゆうき。
もう決まっちゅうき。
あんた、どこの人な。
樋口は車を降りて、施設の入口のほうへ歩いた。
荷を下ろし終えた軽トラックが1台、こちらへ来る。運転席の男は70くらいに見えた。
樋口は少し手を上げた。
軽トラックは、速度を落とさずに通り過ぎた。
12時前に、施設の職員らしい若い男が出てきて、樋口のほうへ歩いてきた。
「あの、どういったご用件でしょうか」と、その男が言った。
樋口は名刺を出した。
「神戸で米の販売をしております、樋口と申します」
男は名刺を見て、それから樋口を見た。
「うちの敷地内での営業は、ちょっと」
「申し訳ありません。すぐ出ます」
樋口は頭を下げて、車に戻った。
エンジンをかけたところで、窓を叩く音がした。
さっきの若い男が立っていた。
「あの」と、男が言った。
「はい」
「ここでは駄目ですけど、ながおか営農さんとこは、法人なんで、直接行かれたら話くらいは聞いてくれるかもしれません」
樋口は窓を全部下ろした。
「ながおか営農さん、ですか」
「代表の公文さんいう方です」
「なぜ、教えてくださるんですか?」
男は少し笑った。
「いや、四回も来られよるんで」
樋口は礼を言った。
男は施設に戻っていった。
ながおか営農の作業場は、集落の東の外れにあった。
トタン屋根の下に、コンバインと乾燥機が入っている。奥にフォークリフトが1台。
樋口が車を停めると、屋根の下から男が出てきた。
日に焼けていて、50代の半ばに見えた。作業服のズボンに、乾いた泥がついている。
「公文さんでしょうか」と、樋口が言った。
「そうですけど」
樋口は名刺を出した。
「神戸から参りました、たなつもの商店の樋口と申します」
公文は名刺を受け取って、両手で持った。ゆっくり読んで、それから作業服の胸ポケットに入れた。
「米な」と、公文が言った。
「はい」
「うちは農協に出しゆう」
「存じております」
「ほんなら、話は無いろう」
樋口はもう一度、頭を下げた。
「30分だけ、お話を聞かせていただけませんか」
公文は樋口を見た。
見て、それから空を見た。
「暑いき、こっち来い」
作業場のトタンの下は、外より二度ほど涼しかった。
公文はコンテナを一つ引きずってきて、樋口の前に置いた。自分は乾燥機の台に腰かけた。
「何が聞きたい」と、公文が言った。
「今年の作の様子を、教えていただきたくて」
「早いのはもう刈った」
「南国そだち、ですか」
公文が少し顔を上げた。
「知っちゅうがか」
「調べました」と、樋口が答えた。「日本でいちばん早い新米だと」
「そうやね」
「反当たり、どのくらい穫れましたか?」
公文は指で数字を作らずに、口で言った。
「今年は、7俵ちょっとかね」
樋口は膝の上のノートに書いた。
「例年より、少ないですか?」
「少ない。8俵は行きたいところや」
「原因は」
「暑さ」と、公文が言った。「夜が下がらん」
樋口は頷いた。
頷いてから、聞いた。
「公文さん。田んぼ、見せていただけませんか?」
公文は軽トラックの助手席を指した。
「乗り」
3分走って、集落の南に出た。
刈り取りの終わった田が続いている。切り株が並んで、土が乾いて割れている。その向こうに、まだ緑の田があった。
「あれが、遅う植えたコシヒカリや」と、公文が言った。
樋口は車を降りて、畦を歩いた。
穂が出ている。頭を垂れかけているが、まだ立っているものが多い。
樋口は畦にしゃがんで、田を見た。
風が抜けて、稲の列が一斉に傾いた。傾いて、戻った。
「きれいですね」と、樋口が言った。
公文は答えなかった。
樋口は稲を一本、手を伸ばして引き抜いた。
籾を一つ取って、指で潰す。
中から白いものが出てきた。
「これ、お米ですよね」
「まだ実が入りよる途中や」
「なるほど」
樋口は潰した中身を見て、それから稲を畦に置いた。
立ち上がって、田の端から端まで目で追った。
「公文さん」と、樋口が言った。
「なんぞ」
「素人の質問をしてもいいですか?」
「ええよ」
樋口は田を指した。
「これ全部で、何袋になるんですか?」
公文は少し黙った。
黙ってから、田を見た。
「これ1枚で、30キロの袋にして、60くらいかね」
樋口はノートを開いて、書いた。
「1枚というのは、何アールですか?」
「30アール」
「じゃあ、1町で200袋くらいですか」
「まあ、そんなもんや」
樋口は電卓を出さなかった。頭の中で計算した。
1町で200袋。今年の仮渡金が30キロで1万を少し超える。
1町で、200万円と少し。
そこから、種代、肥料代、農薬代、燃料代、機械の償却、乾燥調製の手数料が引かれる。
樋口は顔を上げた。
「公文さん。田んぼ、何ヘクタールやっておられますか?」
「18」
「そのうち、早いのが」
「12」
樋口はノートを閉じた。
「失礼を承知でお聞きします」と、樋口が言った。「去年は、30キロでいくらでしたか?」
公文は乾燥機の台に腰かけたときと同じ姿勢で、樋口を見ていた。
「7,000と少しや」
樋口は、その数字を聞いた。
聞いて、少しのあいだ、何も言わなかった。
7,000と少し。
1町で200袋なら、140万円と少し。
そこから経費を引く。
樋口はこの2年で、いくつかの産地の数字を見てきた。だいたいの内訳はわかる。引いていくと、残るのはわずかだ。年によっては残らない。
作業の時間は、10アールあたり20時間を超える。18ヘクタールなら、法人全体で3,600時間を超える。
残ったものを、その時間で割ったら、いくらになるか。
樋口は割らなかった。
割るまでもなかった。
「公文さん」と、樋口が言った。
「なんぞ」
「今年は、上がりましたよね」
「上がった。4割上がった」
「それでも、まだ安いと思います」
公文は樋口を見た。
樋口は続けた。
「私は12年、原料を安く買う仕事をしてきました。会社に言われて、産地に頭を下げて、下げてもらう仕事です」
公文は何も言わない。
「その仕事を辞めて、いまの会社を作りました。理由は一つで、作る人の取り分が、いちばん最初に決まって、いちばん最後まで動かないからです」
樋口はノートを持ち直した。
「うちは小さい会社です。買える量は多くありません。ただ、値段は、こちらから先に申し上げます」
「いくら出す」と、公文が言った。
樋口は言った。
農協の仮渡金より、30キロで1,200円高い数字だった。
作業場のトタンに、風が当たって鳴った。
公文は、しばらく樋口の顔を見ていた。
それから、目を逸らして、乾燥機の側面を見た。
「あんた」と、公文が言った。
「はい」
「それ、儲かるがか」
樋口は答えた。
「売値を上げます。買った値段を、商品の説明に書きます。説明すれば、買ってくださるお客さんはいます」
「ほんまかね」
「2年やって、そうでした」
公文は台から降りた。
降りて、作業服のズボンについた泥を、手で二度払った。
「考える」と、公文が言った。
「はい」
「すぐには言えん」
「もちろんです」
樋口は名刺をもう1枚出して、裏に携帯電話の番号を書いて渡した。
公文はそれを、さっきの1枚と同じポケットに入れた。
帰りの車で、高速に乗る前に、樋口は道の駅の駐車場に停まった。
ノートを開いて、今日の内容を書き足した。
反当たり7俵。30アールで60袋。18ヘクタール。うち早期12。
去年、30キロで7,000と少し。
樋口はその行を、二重線で囲んだ。
囲んでから、しばらくノートを見ていた。
7,000と少しというのは、5キロに直すと1,200円ほどになる。
樋口の店で売っている米は、5キロで3,000円を超える。
そのあいだにあるのは、乾燥と、調製と、精米と、包装と、輸送と、保管と、それぞれの利益だ。
どれも必要な仕事だ。誰かがやらなければ、米は台所に届かない。
必要な仕事だが、全部合わせると、作った人の取り分より大きい。
樋口はノートを閉じた。
閉じて、ハンドルに手を置いた。
正しくないと思った。
思ったことは、この2年、一度も変わっていない。
夕方、6時半に事務所に戻った。
西岡が残っていた。28歳で、去年から働いている。
「おかえりなさい。どうでした?」と、西岡が言った。
「1軒、話ができた」
「ほんまですか」
「まだ返事はもらってない。ただ、聞いてくれた」
樋口は上着を椅子にかけて、パソコンを開いた。
「西岡さん」
「はい」
「10月からの分、仕入値を上げようと思う」
西岡が手を止めた。
「どれくらいですか?」
「30キロで、1,200円」
西岡は電卓を叩いた。
「……売値、上げますか?」
「上げる」
「お客さん、離れませんか?」
樋口はモニターを見たまま答えた。
「説明する」
「説明したら、わかってもらえますか」
「わかってもらえる」と、樋口が言った。
西岡はそれ以上聞かなかった。
樋口は商品ページの原稿を開いて、書きはじめた。
「今年の仕入価格を引き上げました。理由をご説明します」
そこまで打って、樋口は手を止めた。
窓の外は、もう暗い。
高知の田んぼで見た、緑の列を思い出した。
風が抜けて、一斉に傾いて、戻った。
きれいだった。
樋口は続きを打った。
第九章
2024年9月3日|JA乾燥調製施設・早期米の進発式|公文晋作(生産者)
9月3日の朝8時に、JAの乾燥調製施設の前に幟が立った。
「高知県産 早期米 出荷」と白抜きで染めてある。前の年と同じものだ。竿の先が少し曲がっている。
10トントラックが2台、頭を東に向けて停まっていた。荷台には10キロの紙袋を詰めたパレットが積まれ、シートがかけてある。
公文晋作は、施設の壁際に立っていた。
作業服ではなく、襟のあるシャツを着ている。妻の里美が昨夜アイロンをかけたものだ。
8時10分に、人が集まりはじめた。
JAの職員が10人ほど。市の農林課から二人。県の出先から一人。県議が一人。生産者は、公文を含めて六人が呼ばれている。
8時20分に、報道が来た。
テレビ局のカメラが1台。新聞社が2社。
そのうちの一人が、若い女だった。首から一眼レフを下げて、施設の入口の看板を撮っている。
8時30分に、式が始まった。
JAの常務が最初に挨拶をした。今年は猛暑で管理に苦労が多かったこと。生産者の努力で品質が確保されたこと。日本でいちばん早い新米として、県外の消費者に届けたいこと。
3分半で終わった。
次に県議が挨拶をした。4分半かかった。
それから、公文が呼ばれた。
「生産者を代表して、ながおか営農の公文晋作さん」
公文は前に出た。
マイクの高さが合っていなかったので、少し屈んだ。
「えー、公文です」
自分の声が、スピーカーから遅れて返ってきた。
「今年は、暑うて、大変でした」
そこで一度、言葉が途切れた。
紙は用意していない。前の晩に三行だけ考えて、それも忘れた。
「夜も、水が冷えんかったです。ほんで、粒が細いです」
前に並んだJAの職員のうち、何人かが小さく頷いた。
「けんど、まあ、穫れました」
公文は、そこで顔を上げた。
「食べていただけたら、ありがたいです」
以上です、と言って、下がった。
拍手が起きた。
テープカットのために、五人が前に並んだ。常務、県議、市の課長、公文、それからJAの女性職員。
公文はハサミを渡された。
赤いテープが、目の前で張られている。
「せーの」という声がして、五人が同時に切った。
カメラのシャッターが連続して鳴った。
トラックが動きはじめた。
運転席の男が窓から手を出して、集まった人に振った。
公文も手を上げた。
2台が国道に出て、東へ消えた。
式が終わって、人が散りはじめたころ、公文は施設の日陰に立って、ペットボトルの茶を飲んでいた。
さっきの若い女が、こちらへ歩いてくる。
「すみません、公文さんでしょうか」
「はい」
女は名刺を出した。
新聞社の名前と、片岡瑞希という名前が印刷してある。
「先ほどのご挨拶、よかったです」と、片岡が言った。
「そうですか」
「粒が細い、というお話でしたが、収量は落ちましたか?」
公文は茶の蓋を閉めた。
「落ちました。8俵行きたいところが、7俵ちょっとです」
「1割くらいですか」
「まあ、そうです」
片岡はメモを取った。
「価格のほうは、上がっていますね」
「上がっちょります」
「率直に、どうお感じですか?」
公文は、少し考えた。
「ありがたいです」
「ありがたい」
「うちは18ヘクタールやりよりますけど、去年までは、正直、しんどかったです」
片岡はそれを書いた。
書いてから、顔を上げた。
「公文さん。県外の業者さんが買い付けに来ているという話を聞くんですが、そちらには」
公文は片岡の顔を見た。
「来ちょります」
「何社くらいですか?」
「うちには、3社です」
片岡のペンが止まった。
「3社、ですか」
「1社目が先月の末で、あと2社は今週です」
「値段は、JAさんより高いんでしょうか」
「高いです」
片岡はまたメモを取った。
公文は、それ以上聞かれる前に、茶を飲んだ。
10時前に、公文は軽トラックで作業場に戻った。
事務机の上に、名刺が3枚並べてある。
1枚目は、たなつもの商店の樋口。神戸の会社だ。8月の末に来て、乾燥機の台に腰かけた公文の前で、30キロあたり1,200円高い数字を言った。
2枚目は、大阪の会社だった。今週の月曜に来た。若い男が二人で来て、車から降りてきたときにはもう名刺を出していた。
3枚目は、東京だった。水曜に来た。この男は電話だけで、会っていない。
公文は2枚目の名刺を裏返した。
数字が書いてある。樋口の額より、30キロで400円高い。
3枚目の名刺の裏にも、数字がある。
2枚目より、200円高い。
公文は3枚を並べたまま、椅子に座った。
1週間で、三段上がった。
8月の末に樋口が言った数字が、いまは3枚のうちいちばん低い。
そして、その樋口の数字ですら、JAの仮渡金より1,200円高い。
公文は電卓を出した。
この法人の早期米は12ヘクタールある。今年の穫れ高で、30キロの袋にして、およそ1,700袋。
1,200円を掛ける。
200万円。
2枚目の額なら、その上に67万円。
3枚目なら、さらに34万円。
公文は電卓を伏せた。
伏せて、しばらく机を見ていた。
この法人は、7戸で作っている。公文を除く6戸の平均年齢は、73になった。
いちばん上の西内が78。次が81の片山の奥さん。片山さん自身は10年前に米をやめて、去年亡くなった。田んぼは奥さんの名義のまま、この法人が預かっている。
構成員には、面積に応じて配分する。
去年の配分は、1戸あたり、多いところで50万円ほどだった。少ないところは20万を切る。
それが、今年は。
公文は電卓をもう一度起こして、割った。
割った数字を見て、しばらく動かなかった。
昼過ぎに、山中が来た。
作業場の入口から、首だけ入れた。
「晋作さん、おるか」
「おるよ」
山中は入ってきて、公文の向かいのコンテナに座った。
「式、どうやった?」
「まあ、いつもどおりや」
「テレビ出たか?」
「知らん」
山中は笑った。笑ってから、机の上の名刺に目をやった。
「それ、業者か?」
「うん」
「何社来た?」
「3社」
山中は身を乗り出した。
「うちにも2社来た」
公文は顔を上げた。
「いくら言いよった?」
山中は指で数字を作った。
公文が見ている3枚目より、100円低い数字だった。
「晋作さん、いくら言われた?」
公文は名刺を裏返したまま、山中のほうへ滑らせた。
山中はそれを見た。
見て、口を少し開けた。
「これは」
「うん」
「これ、ほんまか?」
「ほんまや。まだ返事はしちょらん」
山中は名刺を机に戻した。
戻して、腕を組んだ。
「晋作さん」
「なんぞ」
「農協に出さんかったら、どうなる?」
公文は、答えるのに少し時間がかかった。
「出さんかったら、出さん、いうことや」
「怒られんか?」
「怒られはせん」
公文は椅子に座り直した。
「農協に出す義務は、無い。法律で決まっちゅうわけやない」
山中は公文を見た。
「ほんまか?」
「ほんまや。ずっと前から、そうなっちゅう」
「知らんかった」
「わしも、ちゃんと知ったんは去年や」
山中は笑った。
「ほんなら、どこに売ってもええがか」
「ええ」
「ほんなら、なんで、みんな農協に出しよる?」
公文は乾燥機のほうを見た。
「乾燥も調製もしてもらいゆうき。あと、金が確実に入るき」
「業者は、入らんか?」
「入らんとは言わん。けんど、農協は50年潰れちょらん」
山中は腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
それから立ち上がった。
「晋作さん」
「なんぞ」
「うちは、晋作さんに合わせるき」
「わしはまだ決めちょらん」
「決めたら、教えてくれ」
山中は出ていった。
夕方、公文はもう一度、施設のほうへ行った。
明日の出荷の割り当てを確認するためだった。
事務室の前で、明神が立っていた。
その横に、昼間の女記者がいる。
公文は少し離れたところで足を止めた。
「今後の見通しについて、伺えますか」と、片岡が言っていた。
明神は、手元の資料を持ったまま答えた。
「県内の早期米は、これから本格的な出荷になります」
「価格は高止まりするとお考えですか?」
「今後の需給の状況によりますので、確たることは申し上げられません」
「ただ、店頭の品薄は続いています」
明神は少し間を置いた。
「新米が出回れば、不足感は収束していくと考えております」
片岡がそれを書いた。
「収束、というのは、いつごろでしょうか」
「本州の新米が出てくる、9月の後半から10月にかけてと思われます」
「ありがとうございました」
片岡は頭を下げて、事務室のほうへ歩いていった。
明神は資料を抱えたまま、その場に立っていた。
公文が近づくと、明神が気づいた。
「公文さん。今日はお疲れさまでした」
「お疲れさまです」
「ご挨拶、よかったです」
「そんなことないです」
公文は割り当ての紙を受け取った。
受け取りながら、聞いた。
「明神さん」
「はい」
「収まりますかね」
明神は資料を持ち替えた。
「例年は、そうです」
「例年は」
「はい」
公文は紙を折って、胸ポケットに入れた。
「ほんなら、まあ、そうやろね」
明神は何か言いかけて、やめた。
やめて、頭を下げた。
「気をつけてお帰りください」
家に帰って、風呂に入って、飯を食った。
里美が今日の式のことを聞いたので、テープを切ったと答えた。里美は写真を撮っておけばよかったと言った。
9時前に、公文は外に出た。
軽トラックには乗らず、歩いて集落の南へ行った。
刈り取りの終わった田が、暗い中に並んでいる。切り株が月の光を返して、うっすら白く見える。
その向こうに、まだ刈っていないコシヒカリの田がある。
公文は畦に立った。
穂が重くなってきている。8月の末に樋口が来たときより、垂れている。
風が来た。
稲の列が、一斉に傾いて、戻った。
公文は、その音を聞いていた。
200万円。あるいは、その上の数字。
7戸で割ると、いくらになるか。
西内さんに、いくら渡せるか。
片山さんの奥さんに、いくら渡せるか。
公文はポケットから携帯電話を出した。
出して、画面を見た。
電話帳を開かずに、そのままポケットに戻した。
「まあ、来年やね」
公文はそう言って、畦を歩きはじめた。
来年も、これくらいならええのう、と思った。
思って、家のほうへ歩いた。
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