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第二部 新米が出れば下がる
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第十章
2024年9月17日〜10月1日|JA事務所/ながおか営農の作業場|明神奈緒(JA米穀担当)
9月17日の午前中に、早期米の集荷実績が固まった。
明神奈緒は集計表を印刷して、赤いペンで一行だけ丸をつけた。
系統集荷率、68.2。
前の年が、85.7だった。
17ポイント落ちている。
奈緒はその紙を持って、筒井課長の席へ行った。
筒井は紙を受け取って、上から下まで一度に見た。それから、丸のところで指を止めた。
「これ、確定か?」
「確定です」
「68」
「はい」
筒井はしばらく紙を見ていた。
「去年は85やったよね」
「85.7です」
筒井は椅子を回して、窓のほうを向いた。
「常務に持って上がらないかん」
「はい」
「明神さん、原因のとこ、1枚にまとめて」
「わかりました」
奈緒は自分の席に戻って、A4を1枚作った。
原因は三つ書いた。
一つ。県外の集荷業者の参入が例年になく多いこと。
二つ。仮渡金を4割以上引き上げたが、業者の提示額がそれを上回っていること。
三つ。業者が現金決済または短期決済を提示しており、生産者にとって資金の入りが早いこと。
書き終えて、奈緒は三つ目の行をしばらく見ていた。
農協は、精算に1年かかる。
1年かかることを、これまで誰も問題にしなかった。ほかに選択肢がなかったからだ。
選択肢ができた年に、それは問題になった。
午後、常務に説明した。
常務は50代の後半で、営農の出身ではない。信用事業を長くやってきた人だった。
「明神さん。これ、来年はどうなる」と、常務が言った。
「来年は、業者がもっと増えると思います」
「理由は」
「今年、儲かったからです」
常務は湯呑みを置いた。
「儲かった、いうのは、業者が?」
「業者もです。ただ、主には生産者です」
「生産者が儲かったら、なんで業者が増える?」
奈緒は資料をめくらずに答えた。
「儲かった産地には、翌年、買いに来る人が増えます。それだけの米が動いた実績があるからです」
常務は頷いた。
「ほんで、うちは、どうする」
「集荷対策を打つしかありません」
「集荷対策いうのは、要するに、金を積むいうことやろ」
「はい」
常務は少し笑った。笑ったが、目は笑っていなかった。
「明神さん。それ、終わりがあるか?」
奈緒は答えなかった。
答えられなかった。
9月の下旬から、奈緒は現地を回った。
普通期のコシヒカリの刈り取りが始まる。早期米で系統外へ流れた生産者が、秋の分も同じところへ出すかどうか。そこを押さえないと、集荷率はさらに落ちる。
回るというのは、頼んで歩くということだった。
10年前、奈緒がこの仕事に就いたころ、生産者が農協に米を出すのは前提だった。営農指導員の仕事は、どう作るかを一緒に考えることで、どこへ売るかは論点になかった。
いまは、頼む。
出してください、と言う。
10月1日の午後に、奈緒はながおか営農の作業場へ行った。
軽自動車を停めると、先客がいた。
白いミニバン。神戸のナンバー。
奈緒はハンドルに手を置いたまま、少しのあいだ動かなかった。
7月の終わりに、帰りの信号で見た車と同じだった。
車を降りて、トタン屋根の下へ歩いた。
公文が奥から出てきた。
「明神さん。ちょうど、お客さんが来ちゅうところで」
作業場の中に、男が一人立っていた。
40くらいで、薄いグレーのシャツを着ている。首にタオルをかけていない。作業場に入る人の格好ではなかった。
男は奈緒を見て、頭を下げた。
「すみません、お邪魔しています」
公文が言った。
「明神さん、ちょっと待ってもらえますか。この人の話が先やったき」
「はい」と、奈緒が答えた。「外で待たせてもらいます」
そのとき、公文の携帯電話が鳴った。
公文は画面を見て、「乾燥機の業者や」と言い、事務室のほうへ入っていった。
トタンの下に、奈緒と男が残された。
男が先に口を開いた。
「農協の方ですか」
「はい」
男は名刺を出した。
たなつもの商店 代表 樋口諒。
奈緒は受け取って、名前を読んだ。
読んで、自分の名刺を出した。
樋口はそれを両手で受け取り、しばらく見ていた。
「米穀のご担当なんですね」
「はい」
「一度、お会いしたいと思っていました」
奈緒は樋口を見た。
「なぜですか?」
「農協の方は、私のことを、どう思っておられるのかと」
奈緒は答えなかった。
作業場の脇に、古い自販機が置いてある。缶しか出ない型で、ボタンの表示が半分消えている。
奈緒は財布から小銭を出して、二本買った。
一本を樋口に差し出した。
樋口は驚いた顔をした。それから受け取った。
「ありがとうございます」
「暑いですから」
10月に入っても、まだ30度を超えている。
二人は、トタンの支柱に寄りかかって立った。
奈緒がプルタブを開けた。樋口も開けた。
「うちの早期米の集荷率が、17ポイント落ちました」と、奈緒が言った。
樋口は缶を持ったまま、動かなかった。
「そうですか」
「ご存じでしたか?」
「数字は知りませんでした。ただ、そうなっているだろうとは思っていました」
「樋口さんのところは、何トン買われましたか?」
樋口は答えた。奈緒が思っていたより、少ない数字だった。
「それだけですか」
「うちは小さい会社ですから」
「では、大きく持っていったのは、別のところですね」
「そうだと思います」
奈緒は缶を一口飲んだ。
甘い。この自販機の缶コーヒーは、昔からこの味だ。
「樋口さん。一つ、伺ってもいいですか?」
「どうぞ」
「なぜ、うちより高く出せるんですか?」
樋口は少し姿勢を変えた。
「売値を上げるからです」
「上げて、売れますか?」
「うちは、買った値段を商品の説明に書いています。生産者にいくら払ったか、そのまま書きます。そのうえで、売値をつけます」
「それで、お客さんは買われますか」
「買ってくださいます」と、樋口が言った。「多くはありません。でも、いらっしゃいます」
奈緒は缶を持ち替えた。
「それは、正しいと思います」
樋口が奈緒のほうを見た。
「正しい、ですか」
「はい」
「農協の方に、そう言われるとは思いませんでした」
「私も、安すぎると思っています」と、奈緒が言った。
樋口は缶を口に運びかけて、止めた。
「去年まで、この県の早期米は、30キロで7,000円台でした」と、奈緒が続けた。「生産費を出したら、そこに乗るかどうかです。年によっては、乗りません」
「乗らないんですね」
「乗りません」
「私も、そう計算しました」
「樋口さんの計算のほうが、たぶん正確です」と、奈緒が言った。「私の仕事は、その数字を紙に書くことなので」
樋口は缶を下ろした。
「明神さん」
「はい」
「怒っておられると思っていました」
「怒っています」と、奈緒が言った。
「そうですか」
「ただ、樋口さんに怒っているわけではありません」
奈緒は作業場の中を見た。
コンバインの刈り取り部に、稲わらが挟まったままになっている。
「今年、うちは仮渡金を4割上げました」と、奈緒が言った。「その起案を書いたのは私です」
「そうなんですか」
「書いた数字に、上が300円足しました。理由は、九州に負けたらいかん、です」
樋口は黙って聞いていた。
「私は、その300円を、自分の手で書き直しました」
奈緒は缶を見た。
「樋口さんがやっていることと、私がやっていることは、同じです」
「同じですか」
「同じです。どちらも、値を上げています」
樋口は少し考えてから言った。
「上がることは、悪いことでしょうか」
「悪くありません」
「では」
「上がったあとに、何が起きるかです」
奈緒は缶を支柱の上に置いた。
「樋口さん。来年も、同じ額を出せますか?」
樋口は即答した。
「出します」
「米が余っていても、ですか」
樋口は、そこで初めて詰まった。
「余りますか」
「余ります」と、奈緒が答えた。
「なぜ、そう思われるんですか」
「今年、みんなが儲かったからです」
樋口は奈緒を見た。
「それは、いいことではないですか」
「いいことです」と、奈緒が言った。「だから、来年、みんな作ります」
樋口が何か言おうとした。
奈緒は続けた。
「作れば、余ります。余れば、下がります」
「下がっても、うちは同じ額で買います」
「そうおっしゃると思いました」
奈緒は缶を取って、残りを飲んだ。
「そのとき、樋口さんの倉庫には、今年の高い米が残っています」
樋口は動かなかった。
「安い米が市場に出てきているときに、高い米を抱えている。売値を下げたら赤字になる。下げなかったら売れない」
「回転させます」
「回転させても、仕入れは先に払っています」
樋口は、缶を持った手を少し下ろした。
奈緒は空になった缶を、自販機の横の箱に入れた。
音が、トタンの下で響いた。
「明神さん」と、樋口が言った。
「はい」
「それを、私に言われるのは」
樋口はそこで言葉を探した。
「止めるため、ですか」
奈緒は首を振った。
「止められません」
「では、なぜ」
「言っておきたかったからです」
奈緒は樋口の顔を見た。
「私は、来年も同じ起案を書きます。上がっていれば上げます。下がっていれば下げます。それしかできません」
「明神さんは、どうしたいんですか」
奈緒は少し黙った。
「わかりません」
正直に言った。
「ただ、下がる年に、農家さんの前に立つのが、私です」
樋口は缶を最後まで飲んで、箱に入れた。
事務室のほうから、公文の声が聞こえた。電話が終わったらしい。
樋口は姿勢を直した。
「明神さん」
「はい」
「また、お会いできますか」
奈緒は少し考えた。
「会うと思います」
「そうですか」
「この仕事をしている限り、たぶん、会います」
公文が出てきた。
「すまん、長うなった」
「いえ」と、樋口が言った。「私が先に失礼します。明神さんのご用件を先に」
「そんな、わざわざ来てもろうたのに」
「また参ります」
樋口は公文に頭を下げ、それから奈緒にも頭を下げた。
白いミニバンが、砂利を鳴らして出ていった。
奈緒はその後ろ姿を見送った。
「明神さん」と、公文が言った。
「はい」
「あの人、悪い人やないですよ」
奈緒は公文のほうを向いた。
「わかっています」
夕方、奈緒は事務所に戻った。
集荷対策の起案を書かなければならない。仮渡金の追加払い。あるいは、集荷奨励金。どちらにしても、金を積むことになる。
奈緒は起案用紙を出した。
農経-三。
夏に一度使った、同じ様式だった。
日付を書く。本文の文言を書く。表の欄に、金額を入れる。
シャープペンシルの先を、金額欄に置いた。
置いて、しばらく動かさなかった。
隣の席で、宮地が電話を切った。
「明神さん」
「なに?」
「いま、生産者さんからです。業者さんが来たけど、断ったって」
「断った?」
「はい。農協に世話になっちゅうき、いうて」
奈緒はシャープペンシルを置いた。
「その人、お名前は?」
宮地はメモを見た。
「西内さんです。78歳って言うてました」
奈緒はそれを聞いて、何も言わなかった。
言わずに、金額欄に数字を書いた。
第十一章
2024年10月〜11月|神戸・長田/新潟/高知|樋口諒(買い付け業者)
10月8日の朝、樋口諒は長田の事務所で在庫表を開いた。
高知の早期米が入っている。ながおか営農から、30キロで420袋。ほかに2軒から、合わせて180袋。
600袋。18トン。
去年の同じ時期より多い。
多いが、足りない。
この600袋は、11月の半ばで尽きる。
そこから先は、本州の新米に切り替える。去年まで契約していた兵庫の3軒のうち、残っているのは1軒だけだ。
樋口は電話の受話器を取って、その1軒にかけた。
「樋口です。お世話になっております」
「ああ、樋口さん」
70前の男の声だった。3年目の付き合いになる。
「今年の分、いつごろお願いできますでしょうか」
電話の向こうで、少し間があった。
「樋口さん、あのな」
樋口は受話器を持ち直した。
「はい」
「今年な、よそから話が来ててな」
「そうですか」
「30キロで、樋口さんとこより2,000円ほど高いんや」
樋口は在庫表の余白に、その数字を書いた。
「どちらの会社でしょうか」
「名前は言わんほうがええやろ」
「そうですね。失礼しました」
「わしも、樋口さんには世話になっとるさかいな、悩んどるんや」
樋口は、少し考えてから言った。
「うちも、上げます」
「上げるいうて、なんぼや」
「その額と、同じにします」
電話の向こうで、息を吸う音がした。
「同じにするいうても、樋口さん、そんなん出せるんかいな」
「出します」
「ほんまか」
「ほんまです」と、樋口が言った。「去年、私はあなたに安く買わせていただいていました。それは私が悪いんです」
しばらく、何も聞こえなかった。
「樋口さん」
「はい」
「ほんなら、あんたとこに出すわ」
電話を切って、樋口は電卓を出した。
2,000円。この農家からの仕入れは、30キロで240袋ある。
48万円。
樋口はそれを在庫表の下に書いた。
書いてから、売値の欄を開いた。
10月15日に、樋口は新潟へ行った。
新幹線と在来線を乗り継いで、5時間半かかった。
紹介してもらった集落は、山の裾にあった。刈り取りは終わっている。
訪ねた農家は、60代の夫婦二人でやっていた。2町ほど作っている。
作業場に通されて、樋口は名刺を出した。
「神戸から来られたんですか」と、男が言った。
「はい」
「遠いのに」
「お米を分けていただきたくて」
男は笑わなかった。
「今年はの、うちにも何軒か来とるんさ」
「そうですか」
「東京の会社と、名古屋の会社と、あと、名前も知らんとこ」
樋口はノートを開いた。
「差し支えなければ、いくらとおっしゃっていますか」
男は指で数字を作った。
樋口はそれを見た。
概算金より、30キロで3,000円ほど高い。
樋口は自分の頭の中で、去年の数字と並べた。
去年、この地域の概算金は、30キロで7,000円台だった。
今年、概算金が3,000円ほど上がって、11,000円ほどになっている。
そこに、業者がさらに3,000円を乗せている。
去年から見れば、6,000円上がっていることになる。
上がり幅が、農協の上げ幅の2倍を超えている。
樋口はノートに、四つの数字を縦に書いた。
去年の概算金。
今年の概算金。
上乗せ額。
合計。
書き終えて、樋口はしばらくその四行を見ていた。
見て、顔を上げた。
「私も、同じ額を出します」
男が樋口を見た。
「同じって、あんた」
「同じです。3,000円乗せます」
「あんた、小さい会社らろ」
「小さいです」
「ほんで、その値段で買うて、どうやって売るんだね」
樋口は答えた。
「売値を上げます。仕入れた値段を、そのまま商品に書きます」
男は腕を組んだ。
「書いて、どうなるんだね」
「買ってくださるお客さんがいます」
「ほんとかね」
「今年は、特にそうです」
樋口は続けた。
「いま、店に米が無いんです。神戸でも、大阪でも、棚が空いています。うちには在庫があります。だから、値段が高くても、買っていただけます」
男は、腕を組んだまま黙っていた。
「あんた」と、男が言った。
「はい」
「去年も、そう言うたんかね」
樋口は少し考えた。
「去年は、言いませんでした」
「なんでだね」
「去年は、店に米があったからです」
男は笑った。
今度は、笑った。
「正直な人だのう」
「すみません」
「ええわ。あんたとこに出す」
帰りの新幹線で、樋口は電卓を叩いた。
新潟の分、600袋。3,000円上乗せで、180万円。
兵庫の分、240袋。2,000円で、48万円。
高知の分は、すでに払っている。
合計すると、去年の同じ量を仕入れるのに比べて、400万円ほど多く払うことになる。
樋口は電卓を伏せた。
伏せて、窓の外を見た。
トンネルに入って、窓が黒くなった。
黒い窓に、自分の顔が映っている。
400万円は、この会社にとって小さくない。
ただ、売値を上げれば戻る。
今年は、上げても売れる。
樋口は電卓を鞄にしまった。
10月22日に、樋口はもう一度、高知へ行った。
ながおか営農の秋の分を確認するためだった。公文とは、早期米のあと、秋のコシヒカリも一部を出してもらう話になっている。
作業場で公文と話し、帰りかけたとき、公文が言った。
「樋口さん」
「はい」
「うちの構成員に、西内さんいう人がおる」
「お聞きしています」
「あの人だけ、農協に出しゆう」
樋口は足を止めた。
「そうなんですか」
「78になる。ずっと農協や」
公文は乾燥機の側面を見ながら言った。
「まあ、そういう人もおるいうことです」
樋口は少し考えてから言った。
「一度、ご挨拶に伺ってもいいですか」
公文は樋口を見た。
「挨拶な」
「はい。買わせてくださいという話ではなく、ご挨拶です」
公文は少し間を置いて、道を教えた。
西内の家は、集落の北の端にあった。
古い木造で、庭に軽トラックが停まっている。
樋口が声をかけると、家の裏から老人が出てきた。背は樋口より低く、腰が少し曲がっている。
樋口は名刺を出した。
西内は名刺を受け取って、遠くに離して読んだ。
「神戸か」
「はい」
「公文さんとこに来ゆう人やね」
「そうです」
西内は名刺を胸ポケットに入れた。
「うちは、農協に出しちゅうき」
「存じています」
「ほんなら、話は無いろう」
樋口は頭を下げた。
「ご挨拶だけです。今年、お世話になった集落なので」
西内は少し表情を緩めた。
「そらまあ、ご苦労さん」
樋口は庭先に立ったまま、少し話をした。
今年の暑さのこと。粒が細かったこと。西内が50年以上米を作っていること。
会話が途切れたときに、樋口は聞いた。
「西内さん。失礼を承知で伺うんですが」
「なんぞ」
「なぜ、農協に出しておられるんですか」
西内は樋口を見た。
「世話になっちゅうき」
「どういうお世話でしょうか」
「乾燥も、籾摺りも、農協の機械でやりよる。肥料も農薬も農協から買いゆう。金も農協や」
「なるほど」
「40年、そうしてきた」
樋口は頷いた。
頷いてから、言った。
「ただ、今年に限って言えば、農協に出すより、業者に出したほうが、手取りは多くなります」
西内は、樋口を見たままだった。
「30キロで、2,000円から3,000円は違います」と、樋口が言った。「西内さんの作付けなら、年間で、それなりの額になります」
西内は何も言わない。
樋口は続けた。
「作った人の取り分が、いちばん低いというのは、私はおかしいと思っています。西内さんは、それだけの仕事をされています」
樋口は、自分の声が少し熱くなっているのに気づいた。
気づいたが、止めなかった。
「義理で損をされる必要は、ないと思います」
西内は、庭の隅を見た。
そこに、使わなくなった育苗箱が積んである。
「あんた」と、西内が言った。
「はい」
「損しゆうがか、わしは」
樋口は口を開いた。
「そういう意味では」
「損しゆうがやね」
西内は、それだけ言った。
樋口は言葉を継ごうとして、継げなかった。
西内は腰を伸ばして、家のほうを向いた。
「まあ、気をつけて帰り」
そう言って、裏へ入っていった。
樋口は庭に立ったまま、しばらく動かなかった。
車に戻って、エンジンをかけた。
集落の道をゆっくり走りながら、樋口は考えていた。
言い方が悪かった。損という言葉を使うべきではなかった。
ただ、言ったことそのものは、間違っていない。
30キロで3,000円は、事実だ。年間の差額も、事実だ。
西内は、その事実を知らずに40年やってきた。
知らせるのは、悪いことではないはずだ。
いつか、わかってもらえる。
樋口はそう思って、国道に出た。
11月10日に、事務所で月次を締めた。
西岡が集計表を印刷して、樋口の机に置いた。
「樋口さん」
「うん」
「10月の売上、過去最高です」
樋口は表を手に取った。
前の年の10月の、2.3倍だった。
「注文、どこから来てる?」
「新規が多いです」と、西岡が答えた。「ネットからの新規が、先月の4倍です」
「理由は聞いてる?」
「問い合わせのメールに、書いてくださる方がいます」
西岡はパソコンを開いて、画面を樋口に向けた。
「近所のスーパーで買えないので、こちらで注文しました、っていうのが、いちばん多いです」
樋口はその文面を読んだ。
「あと、こういうのも」
西岡がスクロールした。
「高くても、生産者にちゃんと払っている店から買いたいと思いました」
樋口は、その一行を二度読んだ。
読んでから、椅子の背にもたれた。
「西岡さん」
「はい」
「値段、まだ上げられると思う?」
西岡は少し考えた。
「上げても、たぶん売れます」
「そうか」
「ただ」
西岡は言葉を選んだ。
「仕入れも上がってますよね」
「上がってる」
「来年も、この値段で仕入れるんですか?」
樋口は表を机に置いた。
「来年も、同じ額を出す」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫や」と、樋口が言った。「下げたら、去年の私と同じになる」
西岡はそれ以上聞かなかった。
11月15日に、樋口は公庫の担当者と会った。
運転資金の追加を相談するためだった。
仕入れが増えている。売上も増えているが、入金より先に支払いが立つ。
担当者は30代の男で、書類を丁寧に見た。
「売上の伸びは、素晴らしいですね」と、担当者が言った。
「おかげさまで」
「在庫の回転も悪くない」
「はい」
「ただ、単価が上がっていますので、同じ量でも運転資金は膨らみます」
「そう思います」
担当者は書類をめくった。
「保証のほうは、前回と同じ形になりますが」
「はい」
「代表者の個人保証です」
「わかっています」
樋口は署名した。
事務所に戻ったのが、4時過ぎだった。
奥の在庫置き場に入って、樋口は積まれたパレットを見た。
8月には半分しか埋まっていなかった場所が、いまは二段積みで奥まで詰まっている。
樋口は袋の一つに手を置いた。
冷たかった。
これだけあれば、切らさない。
樋口はそう思って、置き場の電気を消した。
第十二章
2024年11月12日|高知〜神戸・10トン車の車中|竹村孝(長距離ドライバー)
11月12日の午前2時10分に、竹村孝は営業所の門を開けた。
外は8度だった。この秋いちばん冷えた朝で、フロントガラスに薄く曇りが出ている。
竹村は10トン車の周りを一周した。タイヤを蹴り、灯火を確認し、ミラーを拭く。運行前点呼のアルコール検知器に息を吹き込み、点呼簿に判を押した。
「竹村さん、今日は南国の倉庫から先です」と、配車の浜口が言った。
40を過ぎたばかりで、去年から配車についている。
「積み込み、何時から?」
「3時です」
「バース、空いちゅうがか」
浜口は端末を見た。
「1台入っちゅうみたいですけど、たぶん3時には出ます」
竹村は点呼簿を閉じた。
「たぶん、な」
3時前に倉庫に着いた。
バースには、まだ前の車が入っていた。
竹村は駐車帯にトラックを停め、エンジンを切った。
窓を少し開けると、倉庫の中の音が聞こえる。フォークリフトの警告音と、パレットが床に当たる音。
3時10分。まだ出ない。
竹村は運転席のシートを倒して、目を閉じた。
眠れはしない。ただ、体を横にしておくのと、起きているのでは、あとで違う。
3時40分に、前の車が出た。
竹村はバックでバースに入れた。荷台のシートを外し、あおりを開ける。
倉庫の中は明るい。天井まで、パレットが五段積まれている。
米だった。
30キロの紙袋が、パレットに横六段で積んである。ラップが巻いてある。
倉庫の担当者が出てきた。
「竹村さん、おはようございます」
「おはようございます。何パレットですか?」
「16です」
「16」
竹村は荷台を見た。
10トン車に16パレットは、積める。ただ、この倉庫はフォークリフトが1台しかない。
「1台ですか?」と、竹村が聞いた。
「1台です。すみません」
「まあ、しゃあないですね」
積み込みが終わったのは、4時50分だった。
1時間10分かかった。
竹村はあおりを閉め、シートを掛け、ロープを締めた。
運転席に戻って、デジタコの記録を確認する。
営業所を出てから、2時間40分が経っている。
そのうち、運転していたのは40分だった。
高速に乗ったのが5時10分だった。
南国から入って、東へ。徳島を抜けて、淡路島を渡る。神戸まで、およそ300キロ。
法定の速度で走って、4時間半かかる。
4時間走ったら、30分の休憩を取らなければならない。連続運転は4時間までと決まっている。
竹村はこの決まりを守っている。守らないと、デジタコに残る。残ると、会社に指導が入る。
8時前に、淡路のサービスエリアに入った。
竹村はエンジンを切って、缶コーヒーを買った。
自販機の前で立って飲んだ。
隣に、別の会社のトラックが停まっている。運転手が同じように缶を持って立っていた。60くらいに見える。
「早いね」と、その男が言った。
「そっちも」
「わし、四国から?」
「高知です」
「米か」
竹村は缶を持ったまま、自分のトラックのシートを見た。
「なんでわかるんです?」
男は笑った。
「今年、米ばっかりや」
「そうですか」
「みんな、米運びよる」
男は缶を潰して、ごみ箱に入れた。
「わしは新潟から来た」
「新潟から」
「行きは米。帰りは空や」
竹村は缶を口に運びかけて、止めた。
「帰り、無いですか」
「無い」と、男が言った。「今年は特に無い」
「なんでですかね」
「知らん。荷主に聞いてくれ」
男は自分のトラックに戻っていった。
10時20分に、神戸の物流センターに着いた。
門で受付をして、番号札をもらう。
「37番です。呼ばれるまでお待ちください」と、警備員が言った。
竹村は待機場に入れた。
トラックが14台停まっている。
竹村はエンジンを切って、待った。
11時。呼ばれない。
11時半。呼ばれない。
12時に、竹村は弁当を開けた。妻の香代子が作ったものだ。冷めた卵焼きと、ウインナーと、白い飯。
飯を食いながら、竹村は荷台のことを考えていた。
後ろに、16パレットの米が載っている。
480袋。14.4トン。
この米は、店に並べば、あっという間に売れる。今年はそういう年だ。ニュースでもやっている。棚が空いていると言っている。
その米が、いま、この待機場にある。
エンジンを切ったトラックの荷台の中に、14トンある。
12時40分に、番号が呼ばれた。
バースに着けて、シートを外す。
荷降ろしは向こうの作業員がやる。フォークリフトが2台入って、16パレットを降ろすのに25分かかった。
伝票にサインをもらい、竹村は運転席に戻った。
1時20分。
営業所を出てから、11時間10分。
竹村は携帯電話で浜口にかけた。
「竹村です。神戸、降ろしました」
「お疲れさまです」と、浜口が言った。
「帰り荷は?」
少し間があった。
「無いです」
竹村は目を閉じた。
「無いか」
「すみません。今日は、どうしても」
「3日連続やな」
「はい」
竹村はハンドルに手を置いた。
「浜口さん」
「はい」
「空で300キロ走るがは、しんどいで」
「わかっちょります」
「わかっちゅうがやったら、なんとかならんがか」
浜口は答えなかった。
答えられないのはわかっていた。
帰り荷というのは、こちらの都合で作れるものではない。関西から高知へ運ぶ荷が、そもそも少ない。行きは農産物や紙製品が出るが、帰りに入れるものが無い。
昔は、多少無理をしてでも2軒目を回った。3軒目も回った。積み合わせて、少しでも空で走る距離を減らした。
今は、それができない。
1日の拘束時間の上限が決まっている。原則13時間で、延ばしても15時間まで。しかも、延ばせる回数が決まっている。
今日はもう11時間を超えている。
2軒目を回れば、超える。
竹村は電話を切った。
高速に乗り直して、西へ向かった。
荷台は空だ。
空のトラックは、跳ねる。
段差を越えるたびに、後ろが軽い音を立てる。
竹村はこの音が嫌いだった。
4時前に、徳島の手前のパーキングで休憩を取った。
30分。決まりだからだ。
竹村はトイレに行って、自販機で茶を買って、運転席で飲んだ。
携帯電話が鳴った。
香代子からだった。
「もしもし」
「今どこ?」と、香代子が言った。
「徳島の手前や」
「今日、早い?」
「6時には着く」
「ほんなら、ご飯あるき」
「うん」
「あと、結衣が、話があるって」
竹村は茶のキャップを閉めた。
「なんぞ?」
「進路の話」
「決まったがか」
「まだ。けんど、そろそろ言わないかんて」
「わかった」
電話を切った。
結衣は高校3年になる。
夏ごろから、県外の大学の話をしていた。行きたいところがあるらしい。私立で、4年で600万ほどかかると言っていた。
竹村はその数字を、頭の中に置いたままにしている。
去年の年収は、430万だった。
一昨年は、460万だった。
減っている。
理由ははっきりしている。
4月から、時間外の上限が厳しくなった。走れる時間が減った。運送は、走った分で稼ぐ仕事だ。走れなくなれば、減る。
安全のためだ、と言われている。竹村もそう思う。事故が減るなら、そのほうがいい。40のころ、居眠りで中央分離帯に当てたことがある。誰も巻き込まなかったのは、運がよかっただけだ。
だから、規制そのものに文句はない。
ただ、減った分をどうするかは、誰も言っていない。
6時15分に、営業所に戻った。
点呼を受けて、日報を出す。
浜口が待っていた。
「竹村さん、お疲れさまです」
「うん」
「明日も、南国です」
「同じ倉庫か?」
「同じです。3時積みで」
竹村は日報にペンを走らせた。
「浜口さん」
「はい」
「今年、米、高うなっちゅうらしいな」
浜口は少し笑った。
「らしいですね。うちも家で買いよります」
「うちも高いって、嫁が言いよった」
竹村はペンを置いた。
「その米、わしが運びよる」
「そうですね」
「運賃、上がったか?」
浜口は笑うのをやめた。
「……上がってないです」
「そうやろ」
「すみません」
「浜口さんが謝ることやない」
竹村は日報を出して、事務所を出た。
外はもう暗い。
駐車場で自分の軽自動車に乗り、エンジンをかけた。
家に着いたのが6時50分だった。
風呂に入って、飯を食った。
食べ終わって、結衣が二階から降りてきた。
制服のままだった。
「お父さん」と、結衣が言った。
「おう」
「進路のことなんやけど」
竹村は箸を置いた。
結衣はテーブルの向かいに座って、パンフレットを二冊置いた。
一冊は、県外の私立大学。もう一冊は、県内の国公立だった。
「どっちにするが?」と、竹村が聞いた。
結衣は少し黙った。
「……こっち」
指したのは、県内のほうだった。
竹村は二冊を見比べた。
「行きたいがは、どっちな」
結衣は答えなかった。
「結衣」
「……こっち」
今度指したのは、県外のほうだった。
竹村は、しばらく何も言わなかった。
「なんで、県内にするが?」
「お父さん、最近、しんどそうやき」
竹村は結衣の顔を見た。
結衣は下を向いていた。
「しんどうないよ」
「嘘や。土曜も日曜も寝ゆうやん」
「寝るがは、昔からや」
「昔と違う」
竹村はパンフレットを1枚めくった。
学費の欄が出ている。
「結衣」と、竹村が言った。
「なに?」
「まだ決めんでええ」
「けんど」
「まだ11月やろ。決めんでええ」
結衣は顔を上げた。
「お父さん」
「なんぞ」
「無理せんでね」
竹村は笑った。
「無理はせん。無理できんようになった」
結衣は少し笑って、パンフレットを持って二階に上がっていった。
竹村は食卓に一人残った。
香代子が台所から出てきて、湯呑みを置いた。
「言うたが?」
「言うた」
「県内やって?」
「まだ決めんでええ言うた」
香代子は向かいに座った。
「あんた、大丈夫?」
「なにが」
「お金」
竹村は湯呑みを持った。
「なんとかする」
「なんとか、ゆうても」
「なんとかする」
香代子はそれ以上言わなかった。
竹村は湯呑みの茶を飲んだ。
テレビがついている。夕方のニュースの再放送で、米の話をしていた。
スーパーの棚が映っている。
空だった。
アナウンサーが、新米が出回れば落ち着くと専門家が話している、と読んだ。
竹村はテレビを見ながら、今日運んだ16パレットのことを思い出していた。
480袋。
あれは、今ごろ、どこかの店の棚に並んでいるはずだ。
並んで、たぶん、もう無い。
竹村は湯呑みを置いた。
「香代子」
「なに?」
「明日も3時や」
「早いね」
「早い」
竹村は立ち上がって、風呂場の脱衣所で作業着を畳んだ。
寝室の目覚ましを、1時40分に合わせた。
第十三章
2024年11月26日〜12月24日|県内の倉庫・精米工場/編集局|片岡瑞希(県紙記者)
11月26日の朝、横山デスクが片岡瑞希の席にプリントを置いた。
編集局宛に届いた投書のコピーだった。
手書きで、便箋2枚ある。
差出人は市内の70代の女性で、要旨はこうだった。新米が出たのに米が高い。店には並んでいるが、去年の倍近い値段だ。国は不足していないと言っている。不足していないなら、米はどこにあるのか。誰かが隠しているのではないか。
「片岡」と、横山が言った。
「はい」
「これ、同じ内容が今週で9通目や」
瑞希は便箋を手に取った。
「9通ですか」
「電話も来よる。ネットのほうも似たようなもんや」
横山は自分の席に戻りかけて、振り返った。
「消えた米、追え」
「追う、というのは」
「どこにあるがか、書け」
瑞希は投書を机に置いた。
「デスク。無いところを探すことになりますけど」
「無いなら、無いと書け」
その日の午後、瑞希は統計から入った。
農林水産省が毎月出している米穀の在庫の調査がある。
10月末の数字が出ていた。
出荷業者と販売業者が持っている在庫の合計。前の年の同じ時期と比べて、2割ほど少ない。
作況指数も出ている。
全国で101。東北は103。宮城は107。
やや良、という区分だった。
瑞希はメモに二行書いた。
作は悪くない。
在庫は少ない。
その二つを並べて、しばらく見ていた。
作が悪くないのに在庫が少ないというのは、作った量ではなく、動いた量の問題だということになる。
瑞希は電話をかけはじめた。
最初にJAの明神にかけた。
「県内の倉庫に、米は残っていますか?」と、瑞希が聞いた。
「残っています」と、明神が答えた。
「例年と比べて、どうですか」
「少ないです」
「どれくらいですか」
明神は数字を答えた。前の年の同じ時期より、3割近く少ない。
「原因は」
「集荷が減っているからです」
「農協に来なかった分は、どこへ行っていますか?」
「系統外です。県外の業者さんに」
「その業者は、いま、その米を持っていますか?」
明神は少し間を置いた。
「わかりません」
「わからない、というのは」
「うちの統計に入らないからです」
瑞希はペンを止めた。
「入らないんですか」
「うちが把握できるのは、うちが集荷した分だけです」
翌日、瑞希は倉庫を見に行った。
JAの低温倉庫に、明神が案内してくれた。
分厚い扉を開けると、冷たい空気が出てきた。中は15度に保たれている。
天井まで、パレットが積まれている。
積まれてはいるが、奥に空きがあった。床が見えている。
「例年だと、ここまで埋まっています」と、明神が壁の高いところを指した。
瑞希はカメラを構えて、2枚撮った。
「明神さん。失礼な質問をしますが」
「どうぞ」
「隠している、ということはありませんか」
明神は瑞希を見た。
「ありません」
「そう言われることは、ありますか?」
「あります」と、明神が答えた。「先週、電話で3件」
瑞希は倉庫の中を歩いた。
パレットの列のあいだを抜けて、いちばん奥まで行った。
奥の壁は、何もない灰色だった。
「片岡さん」と、明神が言った。
「はい」
「隠すとしたら、どこに隠すと思われますか」
瑞希は振り返った。
「どういう意味ですか?」
「米は嵩張ります」と、明神が言った。「1トンで、30キロの袋が33個です。1,000トン隠すには、この倉庫がもう一つ要ります」
瑞希は天井を見上げた。
「倉庫は、登録されています。どこに何があるかは、届出でわかります」
「では、どこにも隠せない」
「隠せません」
12月に入って、瑞希は卸に行った。
土佐米穀の倉庫は、市の西の工業団地にあった。
仕入担当の大石が案内してくれた。
こちらの倉庫は、埋まっていた。
「例年より多いくらいです」と、大石が言った。
瑞希はメモを取った。
「多いんですか」
「多いです」
「なぜですか?」
大石は少し言いにくそうにした。
「切らせないからです」
「切らせない」
「小売さんから、切らすなと言われます。切らしたら、次から発注が来ません」
「では、多めに持つ」
「持ちます」
瑞希はパレットの山を見上げた。
「これは、いつ出ますか?」
「順次出ます。ただ、去年より回転が遅いです」
「遅い、というのは」
「みんな、抱えたがるんです」と、大石が言った。「うちも、小売さんも」
工業団地を出たところで、瑞希は車を停めてメモを開いた。
農協の倉庫は、例年より3割少ない。
卸の倉庫は、例年より多い。
数字は、逆を向いている。
瑞希はその二行の下に書いた。
移動している。
12月10日、瑞希は島崎精穀に行った。
精米工場を見るのは初めてだった。
島崎という60代の男が出てきて、事務所に通してくれた。あまり喋らない人だった。
「玄米の在庫は、いかがですか」と、瑞希が聞いた。
「多めに持っちょります」と、島崎が答えた。
「例年より、ですか」
「1割ほど」
「なぜですか?」
島崎は少し黙った。
「取引先から、量を増やしてくれと言われよりますき」
「増やせていますか?」
「増やせちょりません」
瑞希はメモを取った。
「島崎さん。一つ、素人の質問をしてもいいですか」
「どうぞ」
「玄米があれば、すぐに白米になりますか?」
島崎は瑞希を見た。
見て、それから工場のほうを指した。
「見ますか」
工場の中は、低い音で満ちていた。
島崎は昇降機から順に説明した。玄米を吸い上げて、石を抜いて、精米機を通す。糠を落として、ふるいにかけて、色の違う粒を弾く。それから計量して、袋に詰める。
「1時間で、どれくらいできますか?」と、瑞希が聞いた。
島崎は数字を言った。
瑞希はそれを書いて、頭の中で1日分に直した。
「これ以上は、増やせないんですか?」
「機械の能力が決まっちょります」
「機械を増やせば」
「入れる場所と、動かす人が要ります」
島崎は工場の中を見渡した。
四人が働いている。うち二人は、70を超えているように見えた。
瑞希は工場を出るときに、もう一つ聞いた。
「島崎さん。今年、玄米から取れる白米の量は、例年どおりですか?」
島崎の動きが、そこで止まった。
「なんで、それを聞きますか」
「なんとなくです」
島崎は事務所のほうを向いた。
「落ちちょります」
「どれくらいですか」
島崎は少し考えてから、答えた。
「2年で、二くらいです」
「2パーセント、ですか」
「はい」
瑞希はそれをメモに書いた。
書いたが、その意味を、そのときはまだ測れていなかった。
翌週、瑞希は転売の話を追った。
フリマアプリで米を検索する。出品はあった。5キロで5,000円を超えるものもある。
ただ、件数を数えて、瑞希はペンを置いた。
多くない。
全部足しても、トラック1台に載るかどうかだ。
県警の生活安全課にも聞いた。米に関する相談は、この秋に数件あったという。いずれも高額転売の苦情で、事件にはなっていない。
瑞希は業者にも当たった。
県外から買い付けに来ている会社のうち、連絡先がわかったのは4社だった。3社は取材を断った。
1社だけ、電話で答えた。神戸の小さな会社で、樋口という代表が出た。
「今年、どれくらい買われましたか」と、瑞希が聞いた。
樋口は数字を答えた。
瑞希はそれを聞いて、少し拍子抜けした。
「それだけ、ですか」
「うちは小さい会社なので」
「大きいところは、もっと買っているんでしょうか」
「そうだと思います。ただ」
樋口はそこで言葉を選んだ。
「業者が買った米も、どこかで売られています。捨ててはいません」
「売られている」
「はい。私たちが買った米は、うちのお客さんの家にあります」
瑞希は、その言葉をメモに書いた。
12月18日の夜、瑞希は編集局で電卓を叩いた。
国内の世帯数を出した。5,000万を超える。
一世帯が5キロの袋を一つ、いつもより余分に買ったとする。
掛ける。
25万トン。
瑞希は電卓の数字を見た。
国内で1年に食べられる主食用の米は、700万トンに届かない。ひと月あたりにすると、60万トン弱になる。
25万トンは、その半月分に近い。
瑞希はもう一度、メモを最初から読み返した。
農協の倉庫、3割減。
卸の倉庫、例年より多い。
精米工場、1割多め。
小売のバックヤード、切らせないので多め。
そして、家庭の戸棚。
どこにも、大量の米は無い。
どこにも無いが、全部足すと、動かないまま止まっている米が、相当な量になる。
瑞希はメモの最後に一行書いた。
誰も隠していない。全員が、少しずつ持っている。
記事は、12月23日の朝刊に載った。
60行。
書いたのは、統計と、四つの倉庫の実態と、家庭内の在庫の試算だった。
隠匿の事実は確認できなかったこと。転売の規模は限定的であること。作柄は悪くないこと。それでも在庫が薄く見えるのは、流通の各段階と家庭が、それぞれ少しずつ多く抱えているためだと考えられること。
見出しは、整理部がこう付けた。
「コメはどこへ 県内倉庫を歩く」
反応は、静かだった。
24日の午前、瑞希はウェブ版の閲覧数を見た。
8月に書いた品薄の記事の、十分の一に届いていなかった。
投書も、電話も、来なかった。
昼過ぎに、横山が瑞希の席に来た。
「片岡」
「はい」
「昨日の記事な」
「読みました?」
「読んだ」
横山は椅子の背に手を置いた。
「よう調べちゃある」
「ありがとうございます」
「けんど、これ、何が言いたい記事や?」
瑞希は横山を見た。
「誰も隠していない、ということです」
「うん」
「隠していないのに、足りなく見える。その理由を書きました」
横山は少し黙った。
「片岡。読者はな」
「はい」
「誰が悪いか知りたいがや」
瑞希は何も言わなかった。
「悪いやつがおる話は読まれる。おらん話は読まれん」
横山はそう言って、自分の席に戻っていった。
瑞希は画面の閲覧数を、もう一度見た。
その日の夜、瑞希は10時前に家に帰った。
一人暮らしのアパートで、台所は狭い。
コートを脱いで、冷蔵庫から麦茶を出した。
コップに注ぎながら、瑞希は流しの下の扉を見た。
見て、しゃがんで、開けた。
鍋と、洗剤と、ごみ袋が入っている。
その奥に、5キロの米の袋が横になっていた。
未開封だった。
瑞希は、それを見た。
いつ買ったか、思い出した。
9月の初めだった。取材の帰りにスーパーに寄って、棚に袋があるのを見て、家に1袋あるのに、もう1袋買った。
そのときは何も考えなかった。
考えなかったが、たしかにそのとき、自分は棚の前で少し立ち止まった。
瑞希は扉を閉めた。
閉めて、そのまま床に座っていた。
麦茶のコップが、台所の台の上に置いたままになっている。
瑞希は立ち上がって、それを飲んだ。
冷たかった。
第十四章
2024年10月〜12月|マルヨシ商品本部/武庫川店|大原祐介(米穀バイヤー)
10月7日の月曜、大原祐介は9時前に卸との定例電話に出た。
「大原さん、新米の仕切り、出ました」と、入江が言った。
「お願いします」
入江が数字を読み上げた。
大原はそれを、スプレッドシートの空欄に打ち込んだ。
打ち込んで、隣のセルと見比べた。
隣は、去年の新米の数字だ。
4割5分、高い。
大原はマウスから手を離した。
「入江さん」
「はい」
「これ、新米ですよね」
「新米です」
「新米が出たら落ち着くという話でしたよね」
入江は少し黙った。
「そう申し上げました」
「落ち着いてないですけど」
「はい」
大原は椅子の背にもたれた。
「産地の仮渡金が上がってるのは知ってます。4割です。でも、これは4割5分ですよ」
「産地から出てくる値段が、仮渡金より上なんです」
「上、というのは」
「農協以外の業者が、仮渡金の上を出して買っています。その米が、うちらのところに回ってくるときには、もう一段乗ってます」
大原はメモに書いた。
「もう一段」
「はい」
「入江さん。いつ下がりますか」
入江は、今度は長く黙った。
「わかりません」
「8月には、毎年そうだったから下がる、とおっしゃいました」
「言いました」
「今回は」
「それが、言えなくなりました」
大原は受話器を持ち替えた。
「言えない、というのは」
「毎年そうだった、という理由しか持っていなかったからです」と、入江が言った。
10時半に、大原は値上げの稟議を書きはじめた。
対象は、米の全アイテム。27品目ある。
上げ幅を、品目ごとに入れていく。
いちばん上げなければならないのは、自社のプライベートブランドだった。
これは店の看板商品で、5キロの値段が売り場の印象を決める。安いから売れる。安いから客が来る。
だからこそ、仕入れが上がったときにいちばん苦しい。
大原は電卓を叩いた。
仕入れが4割5分上がっている。同じ利益率を保つなら、売値も4割5分上げることになる。
そのまま上げると、売価は1,000円を超えて上がる。
大原はその数字を、しばらく見ていた。
去年、この商品は1,800円台だった。
上げると、3,000円に近づく。
大原は上げ幅を落とした。
利益率を削って、2割5分だけ上げる。
削った分は、店が被る。
それでも、2,300円台になる。
11時に、大原は稟議を樽井のところへ持っていった。
樽井は書類を見て、上げ幅の列を指でなぞった。
「これ、全部上げるんか」
「全部です」
「PBもか」
「PBが、いちばん上げないと厳しいです」
樽井は書類を机に置いた。
「大原。PBは、うちの顔やぞ」
「わかっています」
「2,300円のPBに、意味があるか?」
大原は答えた。
「意味はありません」
樽井が顔を上げた。
「わかってて持ってきたんか」
「意味はありませんが、仕入れが4割5分上がっています。上げなければ、売るほど損が出ます」
樽井は腕を組んだ。
「上げんかったら、どうなる」
「1袋あたり、400円ほどの逆ざやです」
「月にすると」
大原は数字を言った。
樽井は目を閉じた。
「上げてくれ」
「はい」
「ただし、二段階や。今月と、来月に分けろ」
「一度に上げないんですか?」
「一度に上げたら、客が気づく」と、樽井が言った。
大原は書類を持ち直した。
「二段階でも、上がる額は同じですが」
「同じでも、見え方が違う」
大原は頭を下げて、部屋を出た。
10月15日に、一段目の値上げが実施された。
大原は店舗向けの指示書を作った。
新しい値札のデータを送り、切り替えの日を指定し、旧価格のPOPを撤去するよう書いた。
指示書の最後に、一行足した。
「お客様からお問い合わせがあった場合は、原料価格の上昇によるものとご説明ください」
三宅がそれを見て、聞いた。
「大原さん。理由、これだけでいいんですか?」
「これだけや」
「もう少し説明したほうが」
「説明できるほど、わかってへん」
大原はそう言って、送信ボタンを押した。
10月20日の日曜、大原は武庫川店に行った。
バイヤーが店に行くのは、月に一度か二度だ。売り場の作りを見るためで、客を見るためではない。
米の売り場は、入口から入って右の奥にある。
平台に5キロの袋が積んであった。
新しい値札がついている。
大原はその前に立って、しばらく見ていた。
客が来た。
60くらいの女性で、カートを押している。
女性は平台の前で止まり、値札を見た。
見て、動かなかった。
3秒か、4秒。
それから、女性は棚の下段に手を伸ばした。
2キロの袋を取って、カートに入れた。
大原は、それを見ていた。
女性が行ったあと、大原は下段を見た。
2キロの袋が、並んでいる。
数が減っていた。
売り場の担当者を呼んだ。
「2キロ、動いてる?」と、大原が聞いた。
「動いてます」と、担当者が答えた。「先月から、5キロより2キロのほうが数が出ます」
「初めてか?」
「初めてです」
「5キロは」
「落ちてます。半分くらいです」
大原はメモを取った。
「金額は?」
「金額は、そんなに落ちてません。単価が上がってるので」
大原はメモを閉じた。
本部に戻って、全店の数字を出した。
10月の米の売上金額は、前年の同じ月の121。
売上数量は、前年の同じ月の78。
大原は二つの数字を並べて、しばらく見ていた。
金額は上がっている。
量は、2割2分減っている。
つまり、客は買う量を減らしている。
減らしているのに、金額が上がるのは、値段がそれ以上に上がっているからだ。
大原はスプレッドシートに、もう一列足した。
「客数」
米の売り場を通った客の数は、出せない。ただ、米を買った客の延べ人数は出る。
出してみると、前年の96だった。
買う人はほとんど減っていない。
一人が買う量が、減っている。
11月12日に、二段目の値上げが実施された。
その週に、店から報告が上がってきた。
苦情が増えている、という内容だった。
「高すぎる」「先月も上がった」「なぜ二回も上げるのか」
大原は報告を一つずつ読んだ。
読み終えて、三宅を呼んだ。
「三宅くん」
「はい」
「これ、全部読んどいて」
「はい」
「読んで、何か思ったら言うて」
三宅は2時間かけて読んだ。
夕方に、大原の席に来た。
「大原さん」
「どうやった?」
「みんな、うちが儲けてると思ってます」
大原は椅子を回した。
「そうやろな」
「うち、儲かってますか?」
「米は、逆ざやギリギリや」
「じゃあ、なんでそう思われるんですか?」
大原はモニターを指した。
「値段を書いてるのは、うちやからや」
三宅は少し黙った。
「産地が上げた、とは書けないんですか?」
「書けん」
「なんでですか?」
「産地が悪いことにしてしまうからや」
大原は椅子を戻した。
「産地は悪いことしてない。上がる理由があって上がってる。それを、値札の横に書いたら、産地が犯人みたいになる」
三宅はメモを取った。
「じゃあ、うちが黙って恨まれるんですか」
「そういうことになる」
12月2日に、入江から電話が入った。
「大原さん。年明けの仕切りですけど」
大原は反射的に姿勢を正した。
「上がりますか」
「上がります」
「どれくらいですか」
入江は数字を言った。
大原はそれを打ち込んだ。
10月から見て、さらに1割。
「入江さん」
「はい」
「三回目です」
「はい」
「うちは、三回目の値上げをすることになります」
「申し訳ありません」
大原はモニターを見たまま言った。
「入江さんが謝ることやないです」
「いえ」
「ただ、一つだけ教えてください」
「はい」
「どこかで、下がりますか?」
入江は答えた。
「下がると思います」
「根拠は」
「これだけ高ければ、来年、みんなが作るからです」
大原はペンを止めた。
「作れば、下がりますか」
「作れば、余ります。余れば、下がります」
大原はそれをメモに書いた。
「それは、いつですか?」
「来年の秋以降です」
「1年先ですか」
「そうなります」
電話を切って、大原は椅子の背にもたれた。
1年先。
その1年、うちは高い米を売り続けることになる。
高いから、客は量を減らす。
量を減らした客が、来年、値段が下がったときに、元の量に戻るかどうか。
大原はそこまで考えて、スプレッドシートを開いた。
10月の数量、78。
11月の数量を出す。
74だった。
12月の第1週を出す。
71。
下がり続けている。
大原はその列を、赤で塗った。
12月20日、三宅が残業していた。
大原が声をかけた。
「三宅くん、まだおるんか」
「年明けの値札のデータ作ってます」
「三回目やな」
「はい」
三宅は手を止めて、大原のほうを見た。
「大原さん」
「なに?」
「8月に、積むほうに倒れるようにできてる、って教えてもらいましたよね」
「言うた」
「あれ、いまもそうですか?」
大原は少し考えた。
「そうや」
「でも、量が落ちてます」
「落ちてる」
「積んでも、売れないんじゃないですか」
大原は三宅の画面を見た。
新しい値札のデータが並んでいる。
「三宅くん」
「はい」
「切らしたら、客は隣に行く」
「はい」
「高うても、うちに来る客はおる。少ないけど、おる」
「はい」
「その客のために、積む」
三宅は頷いた。
頷いてから、もう一度聞いた。
「その積んだ米、来年どうなりますか?」
大原は答えなかった。
答えずに、自分の席に戻った。
パソコンを開いて、来年3月までの発注計画を出した。
数字が並んでいる。
8月に1.3を掛けたセルが、そのまま生きている。
大原はカーソルをそこに合わせた。
合わせて、動かさなかった。
窓の外は暗い。ガラスにフロアが映っている。
大原はカーソルを外して、パソコンを閉じた。
第十五章
2024年12月|高知県庁/県議会 農林水産委員会|有澤志穂(県産地・流通課課長補佐)
12月10日の午前に、作況指数の確定値が公表された。
有澤志穂は自席で資料を開いた。
全国、101。
東北、103。宮城が107で、全国でいちばん高い。
区分は「やや良」だった。
志穂は下へスクロールした。
四国、99。
高知県、97。
志穂はその数字を、しばらく見ていた。
97は「やや不良」の一つ手前で、区分としては「平年並み」の下限に入る。
夏の暑さが効いている。夜温が下がらず、粒が細くなった。県内の生産者から、収量が1割落ちたという話は何度も聞いていた。
志穂は数字を二つ並べてメモに書いた。
全国は、やや良。
この県は、平年並みの下。
書いてから、ペンを置いた。
それでも、この県の米は足りていないわけではない。県内の生産量は、県内の消費量を上回っている。
上回っているのに、県内の店の棚が空いている。
理由は、はっきりしている。
この県の早期米は、県外に出るからだ。日本でいちばん早く出る新米として、8月に関西や関東へ運ばれる。
9月3日の進発式で、トラックが東へ出ていった。志穂もあの場にいた。
12月16日に、県議会の農林水産委員会があった。
志穂は答弁の資料を作る側で、答弁するのは久武部長だった。
想定問答は前の週に作ってある。
米に関する質問が来ることは、わかっていた。
午前10時40分に、一人目の委員が手を挙げた。
「県内のスーパーで、米が買えないという声を、私はこの3か月で何10件と聞いております」
久武が立ち上がった。
「はい」
「国は、不足していないと説明しております。県も同じ認識でしょうか」
久武は資料をめくった。
「国が公表している需給の見通しにおいては、令和6年産の全国の作柄は平年をやや上回っており、供給量が不足する状況にはないとされております」
「県内はどうですか」
「本県の作況指数は97で、平年をやや下回っております」
委員は資料を持ち上げた。
「下回っているのに、不足していないんですか」
久武は少し間を置いた。
「米は全国で流通しておりますので、本県の作柄のみで需給を判断するものではございません」
「では、県内の店に米が無いのは、なぜですか」
「需要が1時的に集中していることによるものと認識しております」
「1時的というのは、いつまでですか」
久武は答弁書の3ページ目を開いた。
「新米の流通が進むにつれ、順次解消に向かうものと考えております」
「新米はもう出ています」
久武は黙った。
志穂は、後ろの席で資料を持ったまま、その黙りを聞いていた。
3秒か、4秒だった。
「引き続き、流通の状況を注視してまいります」と、久武が言った。
委員はそれ以上追及しなかった。
追及されなかったが、答えていないことは、傍聴席にも報道席にもわかっていた。
委員会が終わったあと、廊下で久武が志穂に言った。
「有澤さん」
「はい」
「3ページ目、書き直してくれ」
「順次解消に向かう、のところですか」
「そこや」
「なんと書きますか?」
久武は少し考えた。
「わからん、とは書けん」
「書けません」
「ほんなら、注視する、でええ」
久武はそう言って、歩いていった。
翌日の午前10時に、電話が鳴りはじめた。
前の日の委員会が地元紙に載った。
見出しは「県、コメ不足を否定」だった。
一本目は9時55分だった。
「もしもし、県庁ですか」
「はい、産地・流通課です」
「新聞に、不足してないって書いてありましたけど」
「はい」
「うち、3軒回って買えませんでしたよ」
志穂は受話器を持ち直した。
「ご不便をおかけしております」
「不便やない。無いんです」
「はい」
「無いのに、不足してないって、どういうことですか」
志穂は、いつもの説明をした。
国の統計上、全国の供給量は需要量を大きく下回っていないこと。作柄は全国では平年をやや上回っていること。ただし、店頭の在庫は統計の対象ではないこと。
言い終わって、相手が黙った。
「あの」と、相手が言った。
「はい」
「その統計は、店を見てないんですね」
「見ておりません」
「ほんなら、その統計は、なんの役に立つんですか」
志穂は、答えを探した。
「国全体として、どれだけの米が生産され、業者の手元にどれだけあるかを把握するためのものです」
「私が買えるかどうかは、わからんのですね」
「……わかりません」
電話は、そこで切れた。
11時までに、六本かかってきた。
12時までに、九本。
久保が二本を受けて、あとは志穂が受けた。
昼を食べに出ずに、志穂は資料を作り直した。
問い合わせ対応の説明文を、もう少し丁寧にする必要があった。
作況指数とは何か、から書いた。
平年の収量を100としたときの、その年の10アール当たり収量の比であること。全国の田んぼを全部数えているのではなく、標本を選んで調べていること。あくまで田んぼで実った量を示すものであること。
書きながら、志穂は8月のことを思い出していた。
8月に、店の棚が空きはじめたとき、志穂は電卓を叩いた。
一つの家が5キロの袋を一つ余分に買えば、全国で25万トンになる。
25万トンは、ひと月分の半分近い。
その25万トンは、田んぼでは実っている。統計には入っている。
入っているが、家庭の戸棚にある。
志穂は説明文の最後に、一行足そうとした。
「なお、家庭内で保有されている米は、統計の対象外です」
書いて、消した。
書けば、正確になる。
書けば、「家庭が抱え込んでいるせいだ」と読まれる。
そう読まれれば、県が県民を責めていることになる。
志穂は、その一行を書かなかった。
12月18日の午後、片岡が来た。
8月に電話で話した記者だった。会うのは二度目になる。
会議室で向かい合って座った。
「先日の委員会について、伺いたくて」と、片岡が言った。
「はい」
「県は、不足はしていないという認識で変わりませんか」
「国の統計に基づく限り、供給量が需要量を大きく下回っている状況ではありません」
片岡はメモを取った。
「有澤さん」
「はい」
「8月に、私、同じことを伺いました」
「覚えています」
「そのときも、統計は棚を見ていない、とお答えいただきました」
「はい」
「4か月経ちました」
志穂は、片岡の顔を見た。
「はい」
「まだ、棚は空いています」
志穂は、資料を机に置いた。
「そうですね」
片岡はペンを止めた。
「有澤さん。これは記事にしませんので、一つだけ教えてください」
志穂は少し身構えた。
「なんでしょうか」
「県は、いま、何がわからないんですか」
志穂は、しばらく黙っていた。
窓の外で、風が鳴っている。
「どこに、どれだけあるかが、わかりません」と、志穂が言った。
「業者の在庫は、統計で出ますよね」
「出ます。ただ、それは調査に協力している業者の分です」
「協力していない業者は」
「入りません」
「今年、県外から買い付けに来ている業者は」
「多くは、入っていないと思います」
片岡はメモを取らなかった。取らないと言ったからだ。
「それから」と、志穂が続けた。
「はい」
「家庭にある分は、どこにも入りません」
片岡は少し首を傾げた。
「家庭というのは、普通の家の、台所の」
「はい」
志穂は続けた。
「一つの家が、いつもより1袋多く持つ。それだけで、全国では相当な量になります」
片岡は、そこで初めて口を開いた。
「25万トン、ですか」
志穂は片岡を見た。
「計算されましたか」
「先週、しました」
二人とも、しばらく何も言わなかった。
「有澤さん」と、片岡が言った。
「はい」
「それ、記事に書いてもいいですか」
「私が言ったことにしないでいただけるなら」
「わかりました」
片岡は帰りぎわに、もう一つ聞いた。
「8月に、県は県民に備蓄を呼びかけましたよね」
志穂は立ち上がりかけて、止まった。
「呼びかけました」
「あれは、間違いでしたか」
志穂は答えた。
「間違いではありません」
「そうですか」
「この県は、南海トラフの正面にあります。津波の到達が早い場所では、数分です。道路が寸断されれば、孤立する集落が出ます」
「はい」
「3日では足りません。1週間分と言い続けてきました。それは、正しいと思っています」
片岡は頷いた。
「わかりました」
片岡が帰ったあと、志穂は自席に戻った。
パソコンを開いて、フォルダをたどった。
8月のフォルダに、呼びかけ文の原稿がある。
ファイルの更新日時は、8月8日の22時14分になっていた。
志穂は開いた。
自分が赤で書き足した行が、そのまま残っている。
飲料水・食料は、最低3日分、可能であれば1週間分の備蓄を。
志穂はその行を、しばらく見ていた。
見て、ファイルを閉じた。
消さなかった。
5時10分に、電話が鳴った。
その日の11本目だった。
「もしもし」
年配の男の声だった。
「県庁の、米の担当の方ですか」
「はい、産地・流通課です」
「新聞、見ました」
「はい」
「不足してないんですね」
志穂は、いつもの説明を始めた。
三行ほど言ったところで、相手が遮った。
「あのね」
「はい」
「わしはね、8月に、県が言うたとおりにしたんです」
志穂は、受話器を持つ手に力が入った。
「はい」
「テレビでも新聞でも、1週間分用意しなさいって言いよった」
「はい」
「だから、買いました。米も、水も」
「はい」
「そしたら、次に行ったら、無いんです」
「……はい」
「無いのに、不足してないって言われても、困るんですよ」
志穂は、何か言おうとした。
言葉が出なかった。
「あんたらが、備えろ言うたがやろ」
男は、怒鳴らなかった。
普通の声だった。
「そうです」と、志穂が言った。
「そうですって」
「はい。県が、そう申し上げました」
電話の向こうで、少し間があった。
「まあ、あんたを責めゆうわけやないけどね」
「いえ」
「けんど、なんぼなんでも、おかしいろう」
「おかしいと思います」
志穂は、そう言った。
言ってしまってから、自分の言葉を聞いた。
「そうやろ」と、男が言った。
「はい」
「ほんなら、ええわ」
電話が切れた。
志穂は受話器を置いた。
久保が、隣の席からこちらを見ていた。
「有澤さん」
「なに?」
「いま、おかしいって言いました?」
志穂は少し笑った。
「言うた」
「大丈夫ですか」
「大丈夫やない」
志穂はパソコンの画面を閉じた。
窓の外は、もう暗い。
12月の日は短い。
志穂はコートを取って、机の上のメモを引き出しに入れた。
引き出しの中に、8月に電卓を伏せて置いたときのメモが、まだ入っている。
25万トンと書いてある。
志穂は引き出しを閉めた。
第十六章
2024年12月13日|神戸のスーパー|名前のない女性
12月13日の夕方、女はスーパーの自動ドアを抜けた。
暖かい空気が顔に当たった。外は7度だった。
カートを引き出し、青果の売り場から入る。白菜を四分の一、大根を半分。かごに入れて、通路を曲がった。
飲料の棚は、埋まっていた。
2リットルの水が、六本入りのケースで床に積んである。「お一人様1点限り」の紙は、もう無い。
女は一本も取らずに通り過ぎた。
乾物と即席麺の棚も、埋まっていた。
角を曲がったところが、米の売り場だった。
平台に、5キロの袋が積んである。
女は値札を見た。
いつもの銘柄が、4,000円に近い。
女は、その値札をしばらく見ていた。
8月に来たときは、3,000円を切っていた。
女は視線を右に動かした。
隣に、別の袋が積んである。産地の名前ではなく、複数の産地を混ぜたものだと小さく書いてある。
そちらの値札を見た。
3,200円台だった。
女は袋の表を見た。裏に回して、原料の欄を読んだ。
読んで、平台に戻した。
そのまま、下段を見た。
2キロの袋が並んでいる。いつもの銘柄の、2キロだ。
値札を見た。
2キロで1,700円台だった。
女は電卓を出さなかった。
5キロで4,000円なら、1キロで800円になる。2キロで1,700円なら、1キロで850円を超える。
小さいほうが、高い。
女は5キロの平台に戻った。
いつもの銘柄と、混ぜたもの。
800円ほど違う。
女は混ぜたもののほうを持ち上げて、カートの下段に置いた。
一つだけ置いて、カートの取っ手を握り直した。
精肉の売り場で、鶏もも肉を2パック。豚こまを1パック。
レジは4台のうち2台が開いていて、列は三人ずつだった。
女は右の列についた。
前の人のカートには、米が載っていなかった。
その前の人にも、載っていなかった。
順番が来た。かごを台に上げ、米は下段のまま通す。
「袋、一つで大丈夫ですか?」と、店員が言った。
「はい」と、女が答えた。
駐車場で、後部座席に米を1袋置いた。
助手席に食料の袋を置いて、女は運転席に乗った。
エンジンをかけると、ラジオがついた。
米の話をしていた。新米が流通しても価格が下がっていないこと。政府は供給量が不足している状況ではないと説明していること。
女はラジオを消した。
家に着いたのが6時40分だった。
食料の袋を運び、それから米を運んだ。
台所の米びつは、床に置いてある。蓋を開けると、まだ三分の一ほど残っていた。
女は流しの下の扉を開けた。
奥に、5キロの袋が横になっている。
8月に買ったものだった。
女はそれを引き出して、床に立てた。
袋の口を切って、米びつに空けた。
ざあ、という音がして、粉のような匂いが立った。
空になった袋を畳んで、ごみ袋に入れた。
それから、今日買った袋を、同じ場所に横にして入れた。
扉を閉めた。
7時20分に、飯が炊けた。
上の子と下の子が降りてきて、食卓についた。
女は茶碗に飯をよそった。
下の子が一口食べて、顔を上げた。
「なんか、いつもと違う」
「そう?」と、女が言った。
「うん。ちょっと違う」
上の子が茶碗を持ち上げて、覗き込んだ。
「べつに、わからん」
「わかるって」
「わからん」
下の子はもう一口食べて、それから何も言わずに食べ続けた。
女は自分の茶碗の飯を見た。
見て、一口食べた。
それから、鶏の皿を下の子のほうへ寄せた。
「食べや」
「うん」
食べ終わって、女は流しで茶碗を洗った。
洗いながら、換気扇の音を聞いていた。
上の子が二階に上がる音がした。下の子はテレビをつけた。
女は水を止めて、布巾で手を拭いた。
米びつの蓋の上に、計量カップが置いたままになっている。
女はそれを取って、米びつの中に戻した。
蓋を閉めた。
第十七章
2025年1月19日|集落の公民館・ながおか営農総会|公文晋作(生産者)
1月19日の午後1時に、ながおか営農の総会が開かれた。
場所は集落の公民館で、畳の部屋に長机を四本並べる。座布団は事務局が朝のうちに出しておいた。
構成員は7戸。この日は八人が来た。片山さんの奥さんが、嫁と二人で来たからだ。
公文晋作は、いちばん奥の席に座った。
机の上に、資料が配ってある。
1枚目が今年の作付けと収量。2枚目が販売の実績。3枚目が配分の案だった。
1時5分に、公文が口を開いた。
「ほんなら、始めます」
1枚目と2枚目は、すぐ終わった。
早期米は12ヘクタール。反当たり7俵ちょっと。収量は前の年より1割落ちた。
そこまでは、全員が知っている。
3枚目に入ったところで、部屋の空気が変わった。
「販売の内訳ですけど」と、公文が言った。
資料に、二つの行がある。
系統出荷。神戸の業者。
数量と、単価が書いてある。
単価の欄に、二つの数字が並んでいる。
30キロあたり、1,200円の差があった。
誰も、すぐには何も言わなかった。
山中が、資料を持ち上げて、目を近づけた。
「晋作さん」
「なんぞ」
「これ、業者に出した分のほうが、高いがやね」
「高い」
「1,200円か」
「そうや」
山中は資料を机に置いた。
「うちの分は、どっちに入っちゅう?」
「山中さんとこは、業者や」
「西内さんは?」
公文は、西内のほうを見なかった。
「西内さんは、農協や」
部屋が、少し静かになった。
西内は、いちばん端に座っている。資料は膝の上に置いたまま、顔を上げていない。
「あの」と、片山さんの嫁が言った。40くらいで、この集落に来て15年になる。
「はい」
「うちは、どっちですか」
「片山さんとこは、業者に出した分と農協に出した分と、両方あります」
「両方」
「はい。うちの法人は、まとめて出しゆうわけやないです。田んぼの区画ごとに、乾燥機に入れた順で、出し先が変わっちょります」
嫁は資料を見て、少し眉を寄せた。
「じゃあ、たまたま、ですか」
公文は答えた。
「たまたまです」
1時半に、配分の話になった。
問題は、そこだった。
法人としては、面積に応じて配分するのが決まりだ。誰の田んぼの米がどこに出たかは関係ない。売上を合計して、経費を引いて、面積で割る。
これまでは、それでよかった。出し先が一つしかなかったからだ。
今年は、二つある。
「晋作さん」と、山中が言った。
「はい」
「面積割でええがやろ」
「そのつもりです」
「ほんなら、ええやん」
山中はそう言って、資料を置いた。
置いたところで、片山さんの奥さんが口を開いた。81になる。声が小さい。
「あのね」
「はい」
「うちの田んぼは、農協のほうに行ったんかね」
公文は資料をめくった。
「奥さんとこは、半分ずつです」
「半分」
「はい」
奥さんは、しばらく黙っていた。
「ほんなら」と、奥さんが言った。「全部、業者のほうに行っちょったら、もっともろうたがやね」
公文は答えなかった。
答えられなかった。
「奥さん」と、山中が言った。「面積割やき、そこは関係ないですよ」
「関係ないがは、わかっちゅう」
奥さんは、それだけ言った。
「けんど、なんとなくね」
2時前に、来年の話になった。
公文は資料の4枚目を出した。
来年の作付け計画の、たたき台だった。
早期米12ヘクタール、普通期6ヘクタール。今年と同じ数字が入っている。
「同じですか」と、山中が言った。
「とりあえず、同じで書いちょります」
山中は資料を見て、それから顔を上げた。
「晋作さん。増やさんがか」
公文は山中を見た。
「増やす、いうて、どこを」
「うちの、休みゆう田んぼがある。2反ほど」
「あそこは、水が悪いろう」
「悪いけど、作れんことはない」
山中は資料をめくった。
「今年の値段やったら、2反でも、けっこうな額になるろう」
部屋の何人かが、頷いた。
公文は、少し間を置いてから言った。
「来年も、この値段とは限らん」
山中は笑った。
「限らんけど、下がる理由もないろう」
「下がる理由」
「米が足りんゆうて、テレビでもやりよる。買いに来る業者も増えちゅう」
公文は資料を持ったまま、机を見た。
「明神さんは、収まる言いよった」
「いつな」
「9月や」
「9月から、4か月経っちゅうで」
山中はそう言って、湯呑みを取った。
「収まっちょらんやん」
公文は、それに答えなかった。
答えられなかったからだ。
明神は9月に、新米が出回れば不足感は収束すると言った。公文はそれを聞いて、安心した。
安心して、4か月経った。
米は、まだ高い。
「わしも」と、別の構成員が言った。60代の男で、山中より三つ下になる。
「はい」
「うちも、1反、去年から休ませちゅうとこがある」
「作りますか」
「作れるがやったら、作りたい」
公文は資料を机に置いた。
置いて、部屋を見た。
7戸のうち、5戸が来年の増反を口にしている。
残る2戸のうち、1戸は片山さんのところで、これは奥さんの体のことがあるから増やせない。
もう1戸が、西内だった。
「西内さん」と、公文が言った。
西内は、初めて顔を上げた。
「なんぞ」
「西内さんとこは、どうですか」
西内は、少し考えた。
「うちは、今のままでええ」
「そうですか」
「体が持たん」
西内はそう言って、湯呑みを取った。
そのとき、山中が言った。
「西内さん」
「なんぞ」
「来年は、業者に出したらどうな」
部屋が、静かになった。
西内は湯呑みを持ったまま、動かなかった。
「農協より、1,200円高いで」と、山中が続けた。「今年、西内さんとこだけ、損しちゅうやん」
公文は口を開こうとした。
開く前に、西内が言った。
「損しゆうがか、わしは」
山中は少し笑った。
「損とは言わんけど、まあ、もろうた額は少ないろう」
「そうやね」
西内は湯呑みを机に戻した。
「少ないね」
それだけ言って、また下を向いた。
公文は、その一連を見ていた。
損しゆうがか、わしは。
その言い方を、公文はどこかで聞いたことがある気がした。
考えて、思い出した。
秋に、樋口という男が西内の家に行った。公文が道を教えた。
あのあと、西内は何も言わなかった。
言わなかったが、そのとき何を言われたのかは、いま、わかった。
2時40分に、総会が終わった。
来年の作付けは、増やす方向で調整することが決まった。具体的な面積は、2月にもう一度集まって決める。
公文はそれを議事録に書いた。
書きながら、手が少し止まった。
止まったが、書いた。
みんなが帰ったあと、公文は公民館の座布団を片づけた。
片づけていると、入口に西内が立っていた。
帰ったと思っていた。
「西内さん。忘れもんですか」
「いや」
西内は入ってきて、長机の端に手を置いた。
「晋作さん」
「はい」
「来年、増やすがやね」
「まあ、そういう話になりました」
西内は頷いた。
「増やしたら、どうなる」
公文は座布団を持ったまま、西内を見た。
「どうなる、いうと」
「みんなが増やしたら、どうなる」
公文は、答えを持っていなかった。
「……穫れる量が、増えます」
「増えたら」
「増えたら、まあ」
そこで、公文は口を閉じた。
西内は、それ以上聞かなかった。
「わしはね」と、西内が言った。
「はい」
「昭和46年から作りよる」
「はい」
「あのころは、作るなゆうて言われた」
公文は座布団を机の上に置いた。
「減反ですか」
「そうや。作るなゆうて、金くれた」
西内は手をこすった。
「作れゆうて言われたことは、一遍もない」
「そうですね」
「今年、初めて、みんなが作れゆう」
西内は入口のほうを向いた。
「晋作さん」
「はい」
「気をつけや」
そう言って、出ていった。
公文は座布団を積み上げ、電気を消して、公民館の鍵を閉めた。
外は寒かった。
軽トラックに乗って、家に帰る途中、田んぼの横で一度停まった。
刈り取りの終わった田が、冬の色になっている。土が乾いて、割れている。
来年、ここに苗が入る。
いつもより、少し多く。
公文はハンドルに手を置いたまま、しばらく田を見ていた。
家に帰って、風呂に入って、飯を食った。
9時前に、居間の座卓の前に座った。
引き出しから、名刺の束を出した。
秋には3枚だった。
いまは、6枚になっている。
公文はそれを並べた。
裏に数字が書いてあるものが、4枚。
いちばん高いものと、いちばん低いものの差が、30キロで1,000円ある。
公文は名刺を集めて、輪ゴムで束ねた。
束ねて、引き出しに戻した。
戻して、引き出しを閉めた。
閉めてから、そのまま座っていた。
台所で、里美が洗い物をしている音がする。
公文はテレビをつけた。
ニュースが、米の話をしていた。
政府が備蓄米の放出を検討している、と読んでいた。
公文は、その言葉を初めて聞いた。
備蓄米。
画面には、倉庫の映像が映っている。天井まで袋が積まれている。
公文はしばらく見ていた。
見て、リモコンを取って、チャンネルを変えた。
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