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『西関五千言』 第二部 関

第四章 許可証のない老人

 夕刻、西関の門を閉じる時刻が近づいていた。山影は谷底まで伸び、日中は絶えなかった商隊の列もまばらになっている。門前では最後の荷改めが続き、塩俵を載せた牛車が、乾いた軋みを残して1台ずつ関を抜けていった。
 その列から少し外れたところに、老人が一人立っていた。粗末な衣に小さな荷、白い髪。旅慣れては見えるが、馬も供もなく、武器らしいものも持っていない。西へ出ようとする旅人としては、妙に身軽だった。
「出国証は」
 尹喜が尋ねた。
「ない」
 老人は答えた。
「身分は」
「今は老人だ」
 尹喜は眉を寄せた。隣で石庚が鼻を鳴らす。
「通してやれ」
「許可証がありません」
「爺さん一人出たところで国は痩せん」
「規則です」
「またそれか」
 石庚は面倒そうに頭を掻いた。
「荷を改めます」
 尹喜が言うと、老人は肩から荷を下ろした。衣、乾いた豆、縄、針、古い筆。金目のものはほとんどない。
「筆?」
「昔、書く仕事をしていた」
「何を」
「いろいろだ」
 尹喜は老人を見る。
「名は」
「李耳(りじ)と呼ばれたこともある」
「老聃(ろうたん)とも?」
 老人の目が少し動いた。
「そう呼ぶ者もいた」
 尹喜は黙った。李耳。老聃。どちらの名にも聞き覚えがあった。かつて周王室の蔵や記録に関わり、諸国の法や兵制、交易にまで異様に詳しい老人がいるという。半ば噂話として耳にしていた人物が、許可証1つ持たず西関の門前に立っている。
「今日は泊まってください」
「嫌だ」
「門は閉じます」
「なら明日出る」
「明日も許可証はありません」
「困ったな」
 困った顔には見えなかった。
     *
 門を閉じたあと、尹喜は老人を関所の客舎(きゃくしゃ)へ移した。道すがら、老聃は壁に掲げた軍令の前で足を止めた。尹喜が西関へ来てから整理し直した、検問と持ち出し品目の規定だった。
「長いな」
「何がです」
「命令だ」
「必要事項が多い」
「負ける国の命令は長い」
 尹喜の顔が硬くなる。
「洹は負けていません」
「そうか」
「西関の防備について書いてあります。警備、検問、軍馬、武器、銅の持ち出し――」
「だから長い」
「説明がなければ現場が迷います」
「説明があっても迷う」
「何を言いたいのです」
「別に」
 老人は歩き出した。
「腹が減った」
     *
 客舎の食事は粟粥と豆、それに少量の漬け菜だった。老聃は椀を持ち上げると、まず湯気の匂いを嗅いでから口へ運んだ。
「毒はありません」
「匂いを嗅いだだけだ」
「疑っているのかと」
「お前の国君ほどではない」
 尹喜の箸が止まる。
「洹公を知っているのですか」
「知らん」
「では、なぜ」
「最近、諸国の人間はよく国君を疑う。国君も臣下を疑う」
「答えになっていません」
「質問が悪い」
 尹喜は老人を睨んだ。
「来春、東の国が攻めてくると思いますか」
「知らん」
「さっきは国の事情を知っているように」
「馬はいくらだ」
「何です」
「北から来る馬」
「去年より高い」
「どれくらい」
「良馬で2割ほど」
「塩は」
「少し高い」
「鉄は」
「変わりません」
 老聃は返事を急がず、粥をもう一口食べた。
「では、東が戦を考えているかもしれぬ」
 尹喜は老人を見る。
「なぜ分かる」
「分からん」
「今」
「かもしれぬと言った」
「馬の値段だけで?」
「戦は、宮城より先に市場へ来ることがある」
 尹喜は黙った。馬の値と塩と鉄、それだけで国境の向こうにある意図を読もうとする。外れているかもしれない。それでも、尹喜にはこの老人の知識そのものが武器に見えた。そんな人間を、自分の判断で国外へ出してよいのか。
     *
「洹に残ってください」
 夜になっても、尹喜の考えは変わらなかった。客舎の灯火の下で、向かいに座る老人へ言った。
「嫌だ」
「あなたの知識は国の役に立つ」
「私は洹のものか」
「そういう意味では」
「なら出る」
「通せません」
「許可証がないから?」
「それもあります」
「他には」
 尹喜は老人を見る。
「あなたを他国へ渡すわけにはいかない」
「渡す?」
「知識を」
「私の頭はお前の倉か」
「国に必要です」
「皆そう言う」
「何が」
「必要だ、守るためだ、皆のためだ」
 尹喜の声が静かになる。
「強行するなら、殺します」
 老聃が止まった。
「今の言葉を、もう一度言え」
 尹喜の方が普段使う言葉だった。
「通せない。強行するなら殺す」
 老人はしばらく尹喜を見ていた。
「お前ほど善良な若者が、それを言うのか」
「善良かどうかは関係ありません」
「そうだな」
 老聃は少し笑った。
「だからお前は国君になれる」
「洹には国君がいます」
「そういう話ではない」
 そのとき、門の外から激しい蹄(ひづめ)の音が響いた。夜間の閉門後に馬が駆け込んでくるのは珍しい。関兵の怒鳴り声が重なり、やがて泥と汗にまみれた伝令が、戸口へ転がり込むように現れた。
「国都で兵変(へいへん)です!」
 尹喜は立ち上がった。
「誰が」
 伝令は息を整えようとした。
「首謀者は――」

第五章 老聃

「公孫敖大将軍です」
 伝令の言葉を、尹喜は一度では意味として受け取れなかった。耳には入っている。だが、その名と「兵を挙げた」という言葉が結びつかない。
「もう一度」
「公孫敖大将軍が兵を挙げました」
「烈は」
「宮門攻撃に加わっています」
「公孫烈が?」
「はい」
 石庚が尹喜を見る。
「知ってる相手ほど見誤るもんだ」
 尹喜は返事をしなかった。公孫敖は恩人であり、師であり、父親に近い男だった。烈は親友だ。その2人が、国君へ兵を向けている。戦場で敵の意図を読むより、ずっと理解しにくかった。
「国都の状況は」
 尹喜が問いを重ねると、伝令は息を整えながら答えた。
「宮城周辺で戦闘。南営は大将軍側。東営は分裂しています。近衛(このえ)は宮門を守っていると」
「洹公は」
「不明です」
「公子申(こうししん)は」
「分かりません」
「事実だけ言え」
「今申し上げたものだけです」
 尹喜は地図を広げた。老聃が横から覗く。
「老人、下がっていてください」
「見ているだけだ」
「これは軍議です」
「兵を使うのだろう」
「それとこれは違う」
「皆そう言う」
     *
 翌朝、国都から正式な使者が来た。竹簡には公孫敖の印があり、尹喜を左将(さしょう)に任じ、西関兵を率いて国都へ帰還せよと記されていた。
 尹喜は文面より先に封を見た。見覚えがある。西関へ左遷された直後、公孫敖から送られてきた物資文書と、同じ軍需組織の印だった。
「ずっと前から準備していた」
 尹喜が呟く。石庚が腕を組む。
「そう見えるな」
 西関の倉、街道沿いの宿、馬、荷車、橋。どこに何があり、何人をどれだけの速さで東へ戻せるか、尹喜は赴任してから自分の仕事として調べてきた。だが、調査のきっかけを作ったのは公孫敖だった。異様に詳しい西方地図を渡したのも敖である。親切だと思っていたものが、別の形に見え始めた。
「私は救われたのではない」
 尹喜は言った。
「置かれたのだ」
「半分はな」
 石庚が答える。
「残り半分は?」
「本人に聞け」
     *
 出発準備は昼までに整った。ただし西関を空にするわけにはいかない。国都で何が起きていようと、この門を無防備にすれば、西から別の問題が入ってくる。
「200で行きます」
「少ない」
 石庚が言った。
「関の守備を削れません」
「分かってる」
「騎乗できる者50。馬は伝令と斥候(せっこう)を優先。荷車8台」
「食糧は」
「道中で買う」
「徴発しないのか」
「代価を払う」
「時間がかかるぞ」
「それでもです」
 石庚は尹喜を見る。
「好きにしろ」
 そこへ老聃が市場の方から戻ってきた。なぜか子供が2人ついてきており、その後ろには犬までいる。国都で兵変が起きたという朝に、この老人だけがいつもどおり市場を歩いていた。
「何をしているのです」
「飯を買っていた」
「出ます」
「どこへ」
「国都へ」
「私は?」
「同行してください」
 老聃が笑った。
「昨日は殺すと言った」
「今日は連れていく」
「勝手な男だな」
「否定しません」
「嫌だと言ったら」
「拘束します」
「やはり殺す方が早くないか」
「必要なら」
「善良な若者は怖いな」
 尹喜は聞き流した。
     *
 出発前、尹喜は石庚へ言った。
「西関の兵をこれ以上出さないでください」
「分かってる」
「国都から命令が来ても」
「誰の命令だ」
「公孫敖殿でも」
「今のお前がそれを言うか」
 尹喜は黙った。石庚が肩をすくめる。
「関は残す。心配するな」
 老聃が門の外で待っている。馬を用意したが、乗らなかった。
「歩く」
「遅れます」
「急ぐ者ほど遠くへ行けぬ」
「今は急ぐ必要があります」
「そうか」
 朝の門が開くと、尹喜は西関を出た。国都へ急ぐ兵の列の中に、どう見ても軍旅には似つかわしくない老人を連れて。

第六章 国都燃ゆ

 最初の難民に出会ったのは、昼前だった。家族5人が、布団、鍋、穀物袋を牛車へ積み、国都とは逆の西へ向かっていた。旅支度というより、家の中で持ち出せるものを手当たり次第に載せてきたような荷だった。
「どこから」
 尹喜が尋ねる。
「都の方です」
「何が起きている」
「分かりません」
「兵は」
「います」
「どちらの」
 男は尹喜の鎧を見る。
「どちらの洹です?」
 尹喜は言葉を失った。
「同じ旗です」
 男が続ける。
「同じ鎧。夜は誰が誰か分からない」
 子供が母親の衣を強く掴んだ。尹喜はそれ以上問い詰めず、自軍の荷車から食糧を少し出させた。
「西へ行け。西関で石庚という男を訪ねろ」
「兵に取られませんか」
「私の名を出せ」
 老聃が横で子供を見る。子供は老聃を見ている。
「怖いか」
「兵が」
「そうか」
 老人はそれ以上言わなかった。
     *
 国都へ近づくほど、街道の様子は悪くなった。牛車は軍に徴発され、農民は荷を背負って反対方向へ歩き、街道沿いの宿は昼間から戸を閉ざしている。ようやく開いている1軒を見つけても、主人は尹喜たちの鎧を見るなり入口に立ちはだかった。
「軍には売らない」
「代価を払う」
 尹喜が言う。
「前の兵もそう言った」
「誰だ」
「知らん」
「徴発書は」
 主人は奥から竹片を持ち出し、卓の上へ投げた。徴発を命じる文言はあるが、印は薄く、日付もない。どの軍の誰が出したものかさえ分からなかった。尹喜はしばらくそれを見た。
「これは無効だ」
「でも粟は戻らない」
 尹喜は不足分を含め、市場価格より高い代価を自軍から払わせた。それで帳尻は合う。少なくとも尹喜はそう考えたが、老聃は竹片を指先で返しながら言った。
「金を払えば、奪っていないと思うか」
「払わないよりはいい」
「そうだな」
「では何です」
「別に」
     *
 さらに東へ進むと、道端に若い軍馬が倒れていた。死体はまだ新しく、革具も外されていない。尹喜は馬を止めた。
「死んでいる」
 烈なら、馬に名があるかを先に聞いただろう。そんな考えが一瞬よぎる。老聃は気にした様子もなく腰を屈め、馬の歯を見た。
「若い」
「分かります」
「腹が薄い」
「飼葉(かいば)不足」
「蹄も割れている」
「長く歩かせた」
 尹喜は馬ではなく、その周囲に重なった轍(わだち)へ目を移した。深い車輪跡が何本も同じ方向へ伸びている。
「補給が崩れている」
「何でも役に立てたがる」
 老聃が言った。
「何がです」
「死んだ馬まで」
「見れば分かることがあります」
「そうか」
     *
 その夜は街道脇で野営した。兵たちの火が小さく並び、少し離れたところでは荷車の車輪を直す音が続いている。尹喜は火の向こうで粥を食べている老聃へ、昼間から胸の奥に残っていた問いをぶつけた。
「暴君を倒すことは悪いのですか」
 老聃は返事を急がず、粥をもう一口食べた。
「知らん」
「洹公は人を殺した」
「そうだろうな」
「密告を奨励した」
「聞いた」
「無実の者も牢に入れた」
「そうか」
「なら止めるべきでしょう」
「誰が」
「できる者が」
「次の者は苦しませぬか」
「公孫将軍は違う」
「そうか」
「私は手伝える」
「そうか」
「何です」
「何も」
 尹喜は火へ視線を落とした。薪が崩れ、赤い火の粉が1つだけ上がった。
「あなたは何も答えない」
「答えが欲しいのか」
「正しい答えなら」
「道を教えてくれと言う者ほど、もう自分の道を決めている」
「私はそんなことを」
「そうか」
     *
 翌日、街道脇に死体が並べられていた。鎧を着ていない者が多く、役人らしい衣の者もいる。それぞれの首から木札が下がり、同じ2字が墨で書かれていた。反逆。
「どちらの反逆者です」
 田嬰が呟く。尹喜は答えない。老聃が札を見る。
「昔、似たものを書いた」
 尹喜が老人を見る。
「あなたが?」
「勝った方に命じられてな」
「事実だったのですか」
「さあ」
「確認しなかった?」
「したものもある」
「しなかったものも?」
「ある」
 老聃は札から目を離す。
「勝者は札を書く」
     *
 その夜、尹喜は荷の奥から死者名簿を取り出した。雨の戦場でも手放さず、韓余の名を書き足したばかりのものだった。
「何です」
 老聃が尋ねる。
「昔、私が囮にした兵です」
「何人」
「300」
「生きたのは」
「17」
「何人を救った」
「5,000以上」
「なら正しかったか」
 尹喜は答えない。
「全員、囮になると知っていたのか」
「……いいえ」
「名前は」
「覚えています」
「全員?」
「はい」
 老聃はすぐには手に取らず、尹喜の膝の上にある名簿を見た。
「完全に正しいと思っている男は」
「何です」
「名を持ち歩かんかもしれぬな」
 尹喜は名簿を閉じた。
     *
 翌日の夕刻、ようやく国都が見えた。先に見えたのは城壁ではなく煙だった。低い空が赤く染まり、風向きが変わるたび、遠くで火の粉が舞う。尹喜は馬を止めた。
「間に合わなかったか」
 老聃が尋ねる。
「何にだ」
 尹喜は答えられなかった。何に間に合うつもりだったのか、自分でもまだ言葉にできない。その向こうで、国都は燃えていた。

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