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『西関五千言』 第六部 無為

第十六章 勝たぬ戦

 夜が明ける前、国都の東と北では三つの軍が、それぞれ命令を待っていた。
 公孫敖の軍。
 公孫烈の軍。
 そして、尹喜の命令で動く兵。
 まだ大きな戦闘は始まっていない。だが街道には兵糧車が並び、牛は夜明け前から鼻息を荒くしていた。槍の穂先は薄明かりを拾い、国都へ入る商人の荷車は昨日よりさらに減っている。誰か一人が進めと命じれば、同じ洹国の兵が同じ洹国の兵を殺す。
     *
 尹喜は地図の前にいた。
 昨夜までに考え抜いた策は、ほとんど完成していた。橋、倉、街道、荷車、牛、地方部隊の所属、敖と烈それぞれの性格まで含めて組み立てた、最も短く終わらせるための策だった。
「作戦を説明します」
 将校たちが集まる。
 尹喜は北側の橋を指した。そこを落とせば、大将軍軍の一部は補給から切り離される。敖の側についた地方部隊には使者を送り、中立へ戻す。烈軍には正面から当たらず、先に荷車と牛を買い上げる。烈は民から無理に徴発することを嫌う。だから補給を断てば、戦わずとも前進速度は落ちる。
 7日で烈軍は止まる。
 その後、両軍へ降伏を勧告する。
 拒めば、双方を同時に叩く。
「勝てますか」
「勝てる」
「損害は」
「我が軍800以内。烈軍1,500前後。大将軍軍2,000以上の可能性」
 誰もすぐには口を開かなかった。
 数字だけを見れば、もっと悪い戦いはいくらでもある。父子が正面からぶつかれば、死者はさらに増える。国都の周囲で戦が長引けば、穀物も塩も止まり、兵だけでなく民まで巻き込まれる。
 尹喜の策は、それよりましだった。
 しかも勝てる。
 敖を止められる。烈も止められる。公子申を守れる。国都も焼かずに済む。
 最後には、自分の下へ軍権が集まる。
 完璧だった。
 勝てる。
 国も取れる。
「尹将軍、命令を」
 皆が待つ。
 尹喜は地図の3本目の線を見る。
 正しい。
 だからこそ手が止まった。
 雨の戦場で君命の竹簡を折ったときは、自分の判断の方が正しいと信じた。実際に正しかった。その後も、正しく判断するたびに人は尹喜を信じるようになった。
 いま、この場の全員が同じように待っている。
「全軍」
 尹喜は言った。
「動くな」
     *
「……何と?」
「動くな」
 若い将校が聞き返した。
「どこへです」
「どこへも」
「では何をするのです」
「今言った」
「何もしない?」
「違う。動かないと決める」
 部屋の空気が変わった。
 尹喜が迷っていると思った者もいた。怖じ気づいたと思った者もいた。だが尹喜自身は、先ほどまでよりはっきりしていた。
 勝てる。
 それでも動かさない。
 若い将校が言った。
「将軍なら決めてください」
「決めた」
「どちらにつくかを!」
 尹喜は静かに答えた。
「私が決めれば、お前たちは従う。それが怖い」
 誰も返事をしなかった。
     *
「喜が来ない?」
 烈は3度聞いた。
 返事は短い。
 ――進むな。
「何だこれ」
 副将が地図を見る。
「進軍しますか」
 烈は剣の柄を叩く。
 国都は遠くない。進めば、今日中に父の軍と向き合える。
「……止まれ」
「は?」
「喜の考えが分かるまでだ」
 烈は不満そうだった。それでも兵を進めなかった。
 尹喜が来ないことそのものが、烈を止めた。
     *
「喜が動かん?」
 公孫敖は笑った。
 報告を持ってきた兵は、笑いどころが分からない顔をしている。敖の側でも、橋を確保する部隊はすでに配置についていた。
 そこへ老聃がやってくる。
「喜に何を吹き込んだ」
「何も」
「何もしないって言ってるぞ」
「何もせぬことを考えているのだろう」
 敖が止まり、笑った。
「考えて何もしないなら、それは策だ」
「そうかもしれぬ」
 敖は笑いながらも、すぐには兵を動かさなかった。
 尹喜が何を待っているのか。
 それを読めないことが、敖には気味が悪かった。
     *
 それでも、何も起きなかったわけではない。
 街道の小さな橋で、互いを斥候と誤認した兵が武器を抜いた。
 死者が出た。
 最初は3人。
 次に7人。
 また4人。
 大軍は動いていない。戦も始まっていない。だが境目では、命令の曖昧さと恐怖だけで人が死んだ。
 尹喜は14人の名を記録した。
「私が動かなかったからです」
 田嬰は答えない。
「作戦を実行していれば」
「4,000人死ぬ計算でした」
「計算だ。14人は事実だ」
 尹喜は言った。
「何もしないことも無罪ではない」
 名を書き終えたあとも、竹簡を閉じなかった。
     *
 両軍から同時に使者が来た。
 ――尹喜はどちらにつく。
 返事は同じだった。
「3人で話しましょう」
 どちらの使者も、すぐには意味を理解しなかった。
 だが、尹喜が敖にも烈にもつかないという事実は、双方に同じ疑いを生んだ。
 もし自分が先に動けば、尹喜は相手側へ回るのではないか。
 その恐れが、兵を止めた。
 やがて停戦の角が鳴った。
 尹喜は初めて軍を動かした。
 敵を倒すためではなく、話す場所を作るために。

第十七章 天下を救わぬ者

 3人とも武器を持たなかった。
 場所は国都東の小さな祠(ほこら)だった。大軍を入れられない狭い場所を、尹喜が選んだ。
 尹喜。
 公孫敖。
 公孫烈。
 外にはそれぞれ少数の護衛だけが待つ。遠くでは、止まったままの軍勢の炊事煙が細く上がっていた。
「喜、何でお前が真ん中なんだ」
「2人を信用していないからだ」
「俺を?」
「両方だ」
 烈が顔をしかめた。
 敖は笑わなかった。
     *
 父子はすぐに言い争った。
「兵を返せ」
「嫌だ」
「命令に逆らった」
「疑ったからだ」
 尹喜が止める。
 同じ言葉が何度も戻った。命令。疑い。反逆。安全。国。
 やがて公孫敖が口を閉じた。
 沈黙が長くなった。
「怖かった」
 烈が見る。
「何が」
「お前が」
「俺?」
「兵が、俺よりお前を信じていた」
 烈の顔から怒りが少し抜けた。
 敖は続ける。
「洹公が喜を恐れたとき、馬鹿だと思った。でも自分の息子が同じ場所へ来たら、分かった」
「何が」
「怖かった」
 烈は何も言わなかった。
 尹喜も口を挟まなかった。
 洹公と敖は違う。
 それでも、恐怖は同じ形を取ることがある。
     *
 しばらくして、烈が地面を見ながら言った。
「俺、戦が好きなのかもしれん」
「急に何だ」
「平和だと暇だった。戦になると何をすればいいか分かる」
 敵。
 味方。
 前進。
 後退。
 守る者。
 戦場では全部はっきりする。
 政治のように、味方の顔をした敵も、敵の顔をした味方もいない。誰を信じるか迷う必要もない。進むべきときは進み、退くべきときは退く。
「戦えば皆が俺を必要とする」
 烈は初めて言った。
「君位はいらん。金もいらん。でも勝つのは好きだ」
 烈は一度息を吐き、父を見ずに続けた。
「俺から兵を取れ」
「全部じゃない」
 烈は父を見る。
「俺自身を信用できなくなった」
 敖は息子を見返した。
 返す言葉はなかった。
     *
 尹喜が出した竹簡は3本だけだった。
 第十五章で机を埋め尽くした制度案とは比べものにならないほど少ない。
「少ないな」
 公孫敖が言う。
「烈は東境司令を辞任。直属兵を解体」
「ああ」
「大将軍権限を縮小。軍倉、人事、地方軍の一部を分離」
「ずいぶん取るな」
「あなたが作った仕組みです」
「自分で壊すのか」
「全部ではありません。全部壊すと困る」
「少し賢くなったな」
 最後の竹簡を置く。
「公子申殿へ決める権限を返します」
「申にできるか」
「分かりません」
「お前がやれば」
「たぶん、もっと上手くできます」
 尹喜は答えた。
 その言葉に迷いはなかった。
「だからといって、私が全部決めるのはやめます」
 正しくできることと、すべて決めてよいことは同じではない。
 尹喜はようやく、それを別々に考えられるようになっていた。
     *
 周囲は失望した。
「尹将軍なら国を一つにできたのに」
「それが良いのか」
「今よりは」
 兵は言う。
「強くなれば滅びません」
 尹喜は否定しなかった。
 その恐怖は、洹公にも敖にも烈にも尹喜にも、国全体にあった。
 弱ければ奪われる。
 だから強くなる。
 強くなれば、さらに多くを守れる。
 そうして守るものが増えるほど、さらに強さが必要になる。
 どこで十分と言うのか。
 その答えは、竹簡のどこにも書けなかった。
     *
「正しかったと思いますか」
 尹喜が老聃へ尋ねる。
「何が」
「戦わなかったこと」
「少し死んだ」
「はい」
「その後2人死んだ。16人だ」
「はい」
「それでも正しかったか」
 尹喜が聞く。
「知らん」
「やはり」
「だから、お前が決めたのだろう」
「はい」
 以前なら、その答えでは足りなかった。
 正しいか、間違っているか。
 どちらかを求めただろう。
 今は、初めてその答えで足りた。
     *
 尹喜は官印を返した。
 公子申はしばらく印を受け取らなかった。
「必要だから残ってください」
 公子申が言う。
「私がいる方がうまくいく?」
「はい」
「私もそう思います」
「なら」
「だから辞めます」
 公子申は困った顔をした。
 公孫敖は横で腕を組んでいた。
「逃げるのか」
「そうかもしれません」
「認めるのか」
「人間は一つの理由で動くほど単純ではないのでしょう」
 敖が大笑いした。
「それ俺の言葉だぞ」
「知っています」
 笑いが収まったあと、尹喜は西関での勤務を願い出た。
 公子申はすぐには答えなかったが、最後には認めた。
     *
 出発前、老聃は消えていた。
「追いますか」
 田嬰が聞く。
 尹喜は笑った。
「今度こそ逃げられた」
「どこへ」
「西だろう」
「我々は」
「西関へ行こう」
 国都の西門が開いた。
 今度は誰にも追われず、尹喜は西へ向かった。

第十八章 西関五千言

 数年後。
 尹喜は西関の関令(かんれい)になっていた。
 大将軍ではない。
 関所の朝は、昔とそれほど変わらない。商隊が列を作り、牛車の車輪が土を削り、塩や布、薬草、馬具が門を通る。冬が近づけば、山から降りてきた者が薪や乾いた肉を売りに来る。
 変わったものもあった。
 規則は以前より少ない。
 武器、銅、軍馬、人身売買は厳しく止める。
 だが、冬を越すための塩や薬、少量の穀物まで同じようには扱わない。帳簿を見る。行き先を見る。去年その村で何人死んだかを見る。
 全部を見逃すわけではない。
 全部を止めるわけでもない。
     *
「これは密輸です」
 若い役人が言う。
「そうだな」
「なら止めないと」
「何を運んでいる」
「塩です」
「どこへ」
「山向こうの村」
「去年、冬に何人死んだ」
「調べます」
 翌日。
「6人です」
「原因は」
「病気と食糧不足」
「塩は」
「不足」
「では通せ」
「でも規則では」
「記録は取れ。税は半分」
 若い役人は納得しきれない顔をしている。
「どこまで見逃せばいいんです」
 尹喜は筆を止める。
 昔、自分も似たようなことを石庚へ聞いた。
「知らん」
「関令?」
「毎日決めろ」
 若い役人はさらに困った顔をした。
 尹喜は少し笑った。
     *
 秋の終わり。
 夕暮れ。
 門を閉じる時刻が近づき、最後の商隊が西へ抜けていった。空は薄い赤から灰色へ変わり、風が冷たくなっている。
「関令、旅人が1人」
「入るのか」
「出ます」
「通せ」
「許可がありません」
 尹喜の手が止まった。
 門へ降りる。
 老人がいた。
 白髪。
 粗い衣。
 小さな荷。
 何年も前と、ひどく変わったようにも、何も変わっていないようにも見えた。
「生きていましたか」
「たぶんな」
「出国証は」
「ない」
 若い役人が尋ねる。
「止めますか」
 尹喜は老人を見る。
「通せ」
「無許可です」
「知っている」
「でも規則では」
「老人一人出ていったところで、国は痩せん」
 老聃が少し笑った。
「誰の言葉だ」
「昔ここにいた、少し賢い男です」
 尹喜は石庚の顔を思い出した。
     *
 門が開く。
 老聃が歩き出す。
 1歩。
 2歩。
 3歩。
「先生」
 尹喜が呼んだ。
 老人が止まる。
「その呼び方はやめろと言った」
「覚えています」
「ならやめろ」
「嫌です」
「何だ」
 尹喜は少し言葉を探した。
 昔なら、洹のため、国のため、天下のためと理由を並べただろう。
 必要だと説明し、価値があると説き、最後には規則か命令を使ったかもしれない。
 今は、そうしなかった。
「あなたの言葉を、少しだけ残していただけませんか」
「嫌だ」
「そう言うと思いました」
「文字は嫌いだ」
「知っています」
「長生きする」
「それも」
「間違いも残る」
「はい」
「人が勝手に使う」
「はい」
「お前みたいにな」
「それも知っています」
 老聃が聞く。
「なぜ欲しい」
 尹喜は少し考えた。
「分かりません」
「昔なら長く説明したな」
「そうでしょうね」
「今は」
「残っても、残らなくてもいい。ただ、もし残してもよいと思う言葉があるなら、読んでみたい」
 老聃はすぐには答えなかった。
 西へ続く道は、門の向こうで暗くなり始めている。
「泊まるところはあるか」
「あります」
「飯は」
「あります」
「酒は」
「石庚殿ほど悪くないものを」
 老聃は荷を降ろした。
 底の方から、古い筆が出てきた。
 西関で初めて会ったときから持っていた筆だった。
「まだ持っていたのですか」
「物持ちはいい」
「書くために?」
「違う」
「では」
「今決めた」
 老聃は筆を持つ。
「長くは書かんぞ」
 尹喜は笑った。
「その方が、あなたらしい」

 その夜、西関の小さな部屋で、長いあいだ使われなかった筆が初めて墨を含んだ。



終章 五千言

 老聃は、3日たっても西関を出なかった。
 書くと言ったわりに、ほとんど書かなかった。
 朝になると飯を食い、門の外を歩き、市場を一回りして戻ってくる。昼には眠り、夕方になると酒を欲しがった。
 夜になって、ようやく筆を取る。
 数行書く。
 読む。
 消す。
 また書く。
 翌朝になると、その半分を火へ入れた。
「何をしているんです」
 尹喜が聞いた。
「減らしている」
「昨日、ずいぶん書いていましたが」
「長かった」
 老聃は、火鉢へ竹簡を放り込んだ。
 乾いた竹が鳴り、端から黒く縮れていく。
「それも残さないのですか」
「長い」
「全部そう言って捨てるつもりですか」
「その方が楽だな」
「私は困ります」
「お前が頼んだのだろう」
「書いてくれと頼みました。燃やしてくれとは言っていません」
「細かい男だ」
「あなたにだけは言われたくありません」
 老聃は笑った。
     *
 4日目、尹喜は自分の竹簡を持ってきた。
 若い頃から書き続けてきたものだった。
 兵の名前。
 戦の記録。
 街道の距離。
 穀物の量。
 西関の裁定。
 政変の記録。
 公孫敖との会話。
 烈との会話。
 老聃へ投げた問い。
 史角が書き写したものも混じっている。
 老聃は半日かけて読んだ。
「よく書いたな」
「褒めていますか」
「量をな」
「内容は」
「長い」
 尹喜は息を吐いた。
 老聃が一本の竹簡を持ち上げる。
 そこには、以前の問答が残っていた。
 何もしなければいいのか。
 あなたの沈黙で死ぬ人間を、どうする。
 老聃はしばらく読んでいた。
 そして、その竹簡も脇へ置いた。
「それは残してください」
「なぜ」
「あなたの答えだけでは、意味が分からなくなる」
「分からぬくらいでいい」
「後の人間が誤解します」
「するだろうな」
「なら」
「全部書いても誤解する」
 尹喜は黙った。
 老聃は筆の先を整えた。
「人は、自分の読みたいものを読む」
「それでは書く意味がない」
「そうかもしれぬ」
「あなたは本当に、最後までそれですね」
「何が」
「逃げ道を残す」
「道は塞がぬ方がいい」
 尹喜は何か言い返そうとして、やめた。
 老聃が顔を上げた。
「今、何か言おうとしたな」
「やめました」
「なぜ」
「長くなりそうだったので」
 老聃は声を立てて笑った。
     *
 7日目の朝。
 机の上には、それまでよりずっと少ない竹簡が残っていた。
 最初に書いたものの、おそらく10分の1にも満たない。
 尹喜はそれを読んだ。
 一度で意味の分かるものではなかった。
 何度読んでも、分からないところがある。
 だが以前の尹喜なら、その場で問いただしたであろう箇所を、今は黙って読み進めた。
 最後まで読む。
 竹簡を置く。
「どうだ」
「分からないところがあります」
「そうか」
「たぶん、間違って読んでいるところもあります」
「そうか」
「直さなくていいんですか」
「お前はどう思う」
「また質問ですか」
「ああ」
 尹喜は少し考えた。
「今は、このままでいいと思います」
「そうか」
 老聃は荷をまとめ始めた。
 着替え。
 乾いた豆。
 縄。
 針。
 そして、筆。
 尹喜はそれを見ていた。
「先生」
「その呼び方はやめろ」
「最後くらいいいでしょう」
「最後と誰が決めた」
「西へ行くのでしょう」
「そうだな」
「戻りますか」
「知らん」
 昔なら、尹喜はさらに聞いただろう。
 どこへ行くのか。
 何のために行くのか。
 いつ戻るのか。
 西に何があるのか。
 だが、もう聞かなかった。
 老聃が荷を背負う。
 そこで尹喜は、一つだけ尋ねた。
「なぜ今になって書いたのです」
 老人は門の方を見た。
「お前が聞かなくなったからだ」
 尹喜は笑った。
「それは、ずいぶん意地の悪い理由ですね」
「今ごろ気づいたか」
     *
 西関の門が開いた。
 許可証を確かめる者はいなかった。
 老聃は西へ歩いた。
 尹喜は見送った。
 止めなかった。
 呼び戻さなかった。
 老人は一度も振り返らなかった。
 道は山の間へ入り、やがて姿が見えなくなった。
     *
 その後のことを記したものは、多く残らなかった。
 公孫敖が何を恐れたのか。
 公孫烈がなぜ兵を返したのか。
 洹公がどこで死んだのか。
 尹喜が、天下を取れる軍を持ちながら、なぜ動かなかったのか。
 記録は失われた。
 焼けたものもあった。
 戦で散ったものもあった。
 誰かが不要と判断して捨てたものもあった。
 史角の記録にも欠けた箇所が増え、後の者が写すたびに人名や日付が落ちていった。
 何十年か後には、洹国そのものの名さえ、大国の記録の片隅に残るだけになった。
 それでも、一つの短い話だけが残った。
 老子という老人が国を去ろうとした。
 西の関で、関令尹喜がその人物を見出した。
 尹喜が言葉を請うた。
 老人は道と徳について五千余言を書いた。
 そして、西へ去った。
 それだけだった。
     *
 さらに長い年月が過ぎた。
 西関の門はなくなった。
 土塁は崩れ、見張り台の跡には草が生えた。
 国君も、将軍も、洹という国も消えた。
 誰が正しかったのかを知る者もいない。
 風が草を倒し、また起こした。
 かつて門のあった場所を、一筋の道だけが西へ続いていた。

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