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『西関五千言』 第四部 勝者

第十章 良き政治

 塩が安くなった。
 政変からまもなく1年。国都の市場では、西から運ばれてきた粗塩の山が朝ごとに崩され、粟や麦、豆、布、薪、干した魚までが以前のように並ぶようになっていた。値段を巡って商人と客が声を張り上げ、荷車同士が狭い道を取り合う。喧嘩が起きるほど物が戻ったこと自体が、国都の人間には何より分かりやすい変化だった。
 税を軽くした地方があるにもかかわらず、歳入は回復していた。徴収率を上げたからではない。逃げていた農民が戻り、耕地が使われ、街道を荷が動き始めたからだった。
「ほら」
 尹喜は公孫敖へ帳簿を差し出した。
「何が」
「以前より税率が低くても歳入は増えています」
「よかったな」
「だから言ったでしょう」
「喜」
「何です」
 敖は帳簿ではなく、尹喜の顔を見ていた。
「今、すごく危ない顔してるぞ」
「何が」
「自分が正しかった顔だ」
「実際、結果が出ています」
「分かってる。だから危ない」
 尹喜は眉を寄せた。数字が合っている。それを確認して何が危険なのか、敖は説明しなかった。
     *
 ほどなく、尹喜は正式に将軍となった。
 公子申から渡されたのは青銅の印だった。小さい。だが、それを手にした者の命令で、何千という兵と荷車が動く。
「あなたなら兵を無駄に死なせない」
「それが理由ですか」
「大きな理由です」
 尹喜は掌の印を見た。
「なら、もっと死なせない軍にします」
 尹喜が最初に変えたのは戦術ではなかった。兵の食事、倉の屋根、鼠に食われる穀物、運搬袋の口の縛り方、荷車の車軸、兵の履物、飲み水を汲む場所と糞尿を捨てる場所、負傷者を後方へ運ぶ荷車。それまで「戦では仕方がない」とされていた小さな損失を、一つずつ拾った。
 兵から見れば地味な命令ばかりだった。
「尹将軍は糞の場所まで決めるのか」
「決める」
「何で」
「お前が腹を壊して死ぬのが嫌だからだ」
 笑いが起きた。だが、尹喜は本気だった。
 雨で濡れた穀物を捨てる量が減り、車軸の故障が減り、行軍中に足を傷めて脱落する兵も少なくなった。負傷しても置き去りにされずに済むという安心は、兵の歩みそのものを変えた。
 やがて、それまで7,000人ほどを動かすのが限界だった補給網で、1万人近い兵を動かせるようになった。
 兵を死なせないための改革が、同じ国に、以前より大きな軍を遠くまで運ぶ力を与えていた。
     *
「兵を死なせぬために、兵を増やしたのか」
 市場帰りの老聃が、軍倉の前で言った。
「増やしていません。動かせる数が増えただけです」
「同じに見える」
「違います」
「強ければ攻めない?」
「はい」
「隣もそう思う」
「それは前にも聞きました」
「なら覚えているな」
「覚えているから軍を整えるのです」
 老聃は返事をせず、倉へ運び込まれる穀物袋を見ていた。以前より雨に強い袋だった。尹喜が改めさせたものだ。
     *
 公子申の善政も、目に見える形を取り始めていた。
 孤児へ穀物を配り、戦死者の家族には徭役(ようえき)を軽くし、軽い罪については刑罰を見直した。以前なら鞭を受けていた者が労役で済み、家族まで巻き込まれることも減った。
 それを弱さと見る者もいた。
「弱い」
 旧来の貴族が、公子申の前で言った。
「何がです」
「刑が軽い。罪人が国君を恐れなくなる」
「恐れさせることが政治でしょうか」
「少なくとも必要です」
 公子申は少し考えた。すぐに反論しないところが、洹公とも尹喜とも違っていた。
「では、恐れだけなら国は立つのでしょうか」
 貴族は答えなかった。
     *
 ある晩、公孫敖は尹喜の執務机に積まれた報告書を指で叩いた。
「成功すると何が増えると思う」
「税収です」
「違う。支持者だ」
「良いことでは」
「支持者が増えると期待が増える」
「当然でしょう」
「成功した国は、失敗する自由を失う」
「失敗しなければいい」
 敖はしばらく尹喜を見たあと、息を吐いた。
「だからお前は怖いんだ」
 尹喜には、やはり意味が分からなかった。
     *
 異変は、宮城より先に市場へ現れた。
 北から来る馬が高くなった。東から入る塩が減り、鉄を積んだ荷車も少なくなった。いつもなら同じ季節に顔を見せる商人が、何人も来ない。
 尹喜は市場で、東の街道を往復している商人を捕まえた。
「道が怖い」
「盗賊か」
「兵です」
「どこの」
「東」
「戦になると聞いたか」
「聞いてません」
「ではなぜ来ない」
 商人は、そんなことも分からないのかという顔をした。
「聞いてから逃げたんじゃ遅いでしょう。商人は兵より先に逃げます」
 馬の値段。塩の量。空いた宿。
 老聃が以前言った言葉を思い出すまでもなかった。大きな出来事は、宮城へ届く前に道と市場の形を変える。
 3日後、東方大国から正式な使者が来た。
 文書は公子申を国君と呼ばなかった。洹公を正統な国君として復位させ、公孫敖以下の「反逆者」を処罰するよう求めていた。拒めば、兵をもって正義を行うという。
「来ますか」
 公子申が尋ねた。
「はい」
 尹喜は迷わなかった。
 烈が席から立ち上がる。
「じゃあ、ようやく仕事だ」
 誰も笑わなかった。

第十一章 亡命した君

 東方大国が国境へ集めた兵は、洹軍のほぼ2倍と見積もられた。
 軍議で尹喜は守りを主張し、烈は攻撃を主張した。地図の上ではまだ矢も血もない。だからこそ、烈の声はいつも以上に軽かった。
「正面からなら不利です」
 尹喜が言う。
「俺なら勝つ」
 烈が言う。
「お前が勝っても、兵が半分死ねば負けと同じだ」
「半分は死なせない」
「なぜ言える」
「俺が勝つからだ」
「会話にならん」
 敖が笑いかけたが、途中でやめた。
     *
 東の軍より先に、洹公の檄文(げきぶん)が国内へ入った。
 ――公孫敖は逆臣(ぎゃくしん)。
 ――公子申は傀儡(かいらい)。
 ――旧臣、豪族、兵は余のもとへ帰れ。
 ――洹を救う。
 竹簡の文面は短かったが、その効き目は大きかった。東部の豪族の中には兵を出すのを遅らせる者が現れ、どちらが正統なのかを確かめるまで穀物を倉から出さない者もいた。
「新しい国君が善人でも、正統は別の話だ」
 公孫敖が言った。
「正統とは」
「皆がそう思うことだ」
「曖昧ですね」
「だから強い」
 尹喜は納得しなかったが、否定もできなかった。公子申が善良であることと、国中の人間が彼を国君だと思うことは、別の問題だった。
     *
「私も行く」
 和平使節の人選を聞いた老聃が言った。
「あなたが?」
「ああ」
「なぜ」
「国君を見たい」
 尹喜は呆れた。だが老聃は理由をそれ以上説明しなかった。
 国境近くの館には、東方大国の使者だけでなく、洹公本人が待っていた。
 以前より痩せていた。衣は整い、賓客として粗末には扱われていない。それでも、宮城で見た頃より一回り小さく見えた。
 卓の横には、乾いて葉を落とした楡の枝が置かれていた。逃亡の夜、宮城の庭から切り取った枝だった。
「老人」
 洹公が老聃へ尋ねる。
「私を暴君と思うか」
「知らん」
「皆はそう言う」
「皆とは誰だ」
「民」
「全員?」
 洹公は黙った。
 館の外では東方大国の兵が歩いている。自国の国君でありながら、自国の兵ではない者に守られている。
「国君が臣下を信じれば裏切られる」
「そうだろうな」
「ならば疑うしかない」
「疑えば、裏切られぬか」
 洹公の手が止まった。
「私は国を守っている」
「国とは何だ」
 長い沈黙が落ちた。
 洹公は楡の枝へ目をやった。
「質問が悪い」
 洹公が言う。
「そうかもしれぬ」
 老聃は、それ以上追わなかった。
     *
 老聃が外へ出たあと、洹公は尹喜だけを残した。
 先ほどまでの国君の顔が、わずかに緩んだ。
「敖は元気か」
「……はい」
「酒は」
「相変わらずです」
「太ったか」
「以前と変わりません」
「嘘だな。あいつは年ごとに太る」
 尹喜は何も言えない。
「烈は」
「元気です」
「まだ馬に名前を付けるか」
「はい」
「そうか」
 洹公は笑わなかった。それでも、その一言には国を追われた国君ではなく、昔から敖とその息子を知る男の声が残っていた。
     *
 和平条件は、言葉だけが和平だった。その実態は併呑(へいどん)に近い。
 公子申の退位。洹公の復位。公孫敖の軍権剥奪。尹喜の罷免(ひめん)。さらに東部の城邑へ東方大国の軍を駐屯させる。
 受け入れれば、洹国は名前だけ残る。
「これは和平ではありません」
 尹喜が言う。
「では何と」
「併呑です」
 交渉は終わった。
     *
 尹喜が選んだのは、国境近くの城を敵へ明け渡す策だった。
 守れないからではない。空にして与えるためだった。
 倉から兵糧を移し、井戸は使えるまま残し、住民だけを先に後方へ逃がす。敵には「守り切れず撤退した城」に見せる。
 住民の移動を見ていた女が、尹喜に尋ねた。
「家は」
「残してください」
「戻れる?」
「戻れるようにします」
「いつ」
「戦が終わったら」
「いつ終わる」
 尹喜は答えられなかった。
 軍議ならば、敵の進路も補給日数も説明できる。だが、この女が家へ戻れる日だけは計算できない。
 決戦の前夜、烈は東の空を見ていた。遠くに敵の焚き火が点々と並んでいる。
「今度こそ終わりだ」
「ああ」
 尹喜が答える。
 少し後ろで、老聃が聞いていた。

第十二章 天下の猛将

 敵は、抵抗のない城を手に入れた。
 だが城内に残された兵糧はわずかだった。大軍を養うには足りない。城を確保した以上、後ろへ戻るより前へ出る方がよい――そう判断するように、尹喜は道と倉を空けていた。
 洹軍は退いた。小さく戦い、わざと負け、また退く。
 敵は追った。
 数日前から空を覆っていた雲が、ついに雨を落とした。南には水を含む低湿地。北には低い丘。その間に広い平野がある。
 敵の中央が平野へ入り始めた。
「烈」
「待ってた」
「まだだ」
「いつ」
「中央が丘を越えてから」
「遅い」
「まだだ」
 烈は剣の柄を叩く。待つことだけは昔から苦手だった。
 敵の前衛が進み、中央が続く。南へ回った戦車は、湿った地面へ少しずつ車輪を取られている。
「今」
 尹喜が言った。
 烈が笑った。
「やっとだ!」
     *
 洹軍の戦車と歩兵が一斉に動いた。
 南では敵の戦車が泥に沈み、互いの進路を塞いだ。北の丘から矢が降り、中央は前へも後ろへも動きにくくなる。
 烈は、その中で最も危険な場所を選んだ。
 最初の戦車を失った。馬を替えた。また替えた。3頭目の馬で、敵将の旗が見える場所まで突き抜ける。
 旗が傾いた。
 人垣の向こうへ消えた。
「敵将討ち取った!」
 誰が最初に叫んだのかは分からない。本当にその時点で敵将が死んでいたかどうかさえ、尹喜には確認できなかった。
 だが戦場では、事実より早く噂が走ることがある。
 敵兵が信じた。
 中央が揺れ、そこから全体が崩れ始めた。
     *
「追うな!」
 尹喜が命じても、勝った兵の一部は追った。敗走する敵の背を見ると、止まれない。
 しばらくして、烈が徒歩で戻ってきた。鎧には泥がこびりつき、袖口には血が乾きかけている。
「馬は」
「全部駄目になった」
「3頭」
「ああ」
「名前は」
「最後に聞くか、それ」
「付けていたのだろう」
「全部」
 そのとき、近くの兵が叫んだ。
「烈将軍!」
 別の声が重なる。
「烈公!」
 歓声が広がった。
 尹喜の顔が止まる。
 公という呼び名は、ただ強い将軍へ投げるものではない。
     *
 戦場には洹公の旗が残っていた。
 だが本人はいない。東方大国の陣を探しても見つからず、楡の枝も消えていた。生きて逃れたのか、別の場所へ移されたのか、それとも戦の混乱の中で死んだのか、確かなことは分からない。
 敗走する敵を追った洹軍は、そのまま国境を越えた。
「ここで止まれば、また来る」
 烈が言う。
 街道の先には、敵国側の前線城があった。
「ここを取れば二度と侵攻されない」
 尹喜は城壁を見る。
 正しい。
 少なくとも、いま目の前にある軍事上の問題だけを考えれば。
 そこへ公孫敖から命令が届いた。
 ――追うな。
「どうする」
 烈が聞く。
「取る」
 尹喜が答える。
「大将軍命令は」
 田嬰が聞く。
「現場が変わった」
 田嬰は少し言いにくそうに尹喜を見た。
「昔と同じですね」
 雨の戦場で折った竹簡が、ほんの一瞬、尹喜の頭をよぎった。
「今回は国を守るためだ」
     *
 前線城は5日で落ちた。
 尹喜は略奪を禁じ、降伏した兵を斬ることを禁じ、井戸を汚すことも禁じた。食糧を取るなら記録し、可能な限り代価を残すよう命じた。
 占領した側が規律を守れば、住民の被害は減らせる。
 それもまた、正しいことだった。
「ここを取った」
 城壁の上から外を見ながら、烈が言う。
「ああ」
「これで安全だな」
「少なくとも以前よりは」
「でも次の城から兵を出されたら同じだな」
 尹喜は黙る。
 東の街道は、さらに次の城へ続いている。
「次も取る?」
「今は、ここまでだ」
 少し離れたところで、老聃は2人を見ていた。何も言わなかった。
     *
 帰国すると、国都は戦勝に沸いた。
 凱旋する烈へ布が投げられ、酒が差し出され、子供まで彼の名を叫ぶ。
「烈公!」
 烈は手を振った。
 公孫敖だけは、その呼び声を聞いて笑わなかった。
 夜の戦勝の宴で、烈は兵と同じように酒を飲み、十分に酔ってから大発見をした顔で言った。
「俺、戦をなくす方法が分かった」
 老聃が杯を置いた。
「酒を飲んでから分かったことは大抵ろくでもない」
「全部の国を一つにすればいい」
 老聃が尋ねた。
「兄弟はいるか」
「弟がいる」
「喧嘩したか」
「した」
「一つの家にいたのに?」
「兄弟だからな」
「一つの家でも争うのに、一つの国なら争わぬか」
 烈は黙る。
「でも減るだろ」
「そうかもしれぬ」
「ほら!」
「一つにするまで、どれだけ戦う」
 烈の笑みが少し消えた。
 宴の外では、勝利を祝う声がまだ続いていた。
     *
 夜、尹喜は城壁の上にいた。
 東へ続く街道は暗く、昼に帰ってきた軍の轍だけが月の光に薄く残っている。隣へ老聃が来た。
「また始まった」
 老聃が言った。
「何がです」
「勝った者が、自分は止まれると思うことだ」
「私たちは止まりました」
「そうだな」
「城一つで」
「今はな」
 尹喜は東を見る。
「今回は私たちは正しかった」
「そうかもしれぬ」
 右親指が、左人差し指の節をなぞっていた。
 尹喜はまだ、その理由を考えなかった。

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