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舌切雀 ―― 谺鳴庵一夜密室殺人事件
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第一章 谺鳴庵
1
谷を遡る道は、途中から一車線になった。
対向車が来たら、どちらかが待避所まで下がることになる。その待避所が、500メートルに一箇所くらいの割で現れた。私は数えながら走っていた。四つ目を過ぎたあたりで、道の左側が擁壁ではなく素の岩肌になり、その岩肌に「落石注意」の標識が針金で括りつけてあった。針金は錆びていた。
注意しろと言われても、と私は思った。落ちてくるものを注意して避けられる人間はいない。
「気持ちのいい道ね」
助手席で小春が言った。彼女はさっきから一度も目を閉じていない。窓の外を、まっすぐに見ている。谷は右手にあって、道より20メートルほど下を流れていた。水は少なかった。石が白く干上がって、その白い石の間を、細い流れがいくつにも分かれて落ちていた。
「もう少しで着くと思う」
「そう」
11月の初めだった。標高が上がるにつれて、山の色が変わっていくのが分かった。麓では黄色が主だったのが、この高さでは赤が混じっている。ところどころ、まだ濃い緑が残っていて、それが杉なのだろうと思った。
四国の、地図では線がほとんど描かれていないような場所である。妻がこの宿を見つけてきたとき、私は正直なところ、そんなに山の中でなくてもいいのではないかと言った。妻は「茸だそうよ」と答えた。それで話は終わった。
橋を渡った。橋は短く、欄干が低く、渡った途端に道が右へ折れた。折れた先の斜面に、茅葺きの屋根が見えた。
看板が出ていた。木の板に、彫った字が黒く塗ってある。
谺鳴庵
読み方が分からないまま予約していた。妻は「こだまなりあん」と言った。
車を停めると、玄関の戸が開いて、若い女性が出てきた。前掛けをして、駆けるように3歩ほど進んで、そこで思い出したように歩きに変えた。
「雀部(ささべ)さまですね? お待ちしておりました」
名札に「蛍(ほたる)」とあった。それが姓なのか名なのかは、しばらく分からなかった。
土間が広かった。というより、玄関を入ったところが全部土間で、右手に上がり框(あがりかまち)があり、その先が板の間になっている。土間の隅に、莚(むしろ)が三枚ばかり丸めて立てかけてあった。壁には鎌と、竹の籠と、用途の分からない木の道具が掛かっていた。飾りではなく、使うものを置いてある置き方だった。
「お荷物、お持ちします」
「いえ、大丈夫です」
私は靴を脱いで、揃えて、框の下に寄せた。妻の靴も揃えた。蛍さんが少し待っていた。
板の間の中央に、囲炉裏が切ってあった。四角い炉に灰が入って、炭が熾っている。炉の四辺は石で組んであった。角の丸くなった、なめらかな石だった。何十年も人が手をついてきたのだろうと思った。天井から自在鉤(じざいかぎ)が下がっていて、鉄瓶が掛かっていた。鉤は太い竹を削ったもので、上のほうは煤で黒くなっている。
「囲炉裏の間です。お食事はここで召し上がっていただきます」
「へえ」
「お茶はこちらから出しますので」
蛍さんが板の間の奥へ歩いた。私は数えた。14歩で、彼女は暖簾の向こうに消えた。厨房らしかった。私はまた14歩を数え直しながら、囲炉裏のこちら側に戻った。同じだった。
これは癖である。悪い癖だとは思っていない。歩数を数えても誰も困らない。
囲炉裏の間の向こうに廊下があって、廊下の突き当たりに姿見が置いてあった。古い鏡で、木の枠に彫りがある。廊下は暗く、鏡はその暗さをそのまま映していた。
客室は四つだった。名前がついている。私たちは一番手前の「山法師」だった。
「お風呂は離れになります。渡り廊下を渡っていただいて」
案内された渡り廊下は、屋根はあるが横が吹き抜けだった。板が張ってあるだけで、風がそのまま抜ける。途中で2段下がる。突き当たりの戸を開けると、そこが離れの湯だった。石で組んだ湯船に、樋から沢の水が落ちて、その先に釜があった。
「冬は寒いです」
蛍さんが正直に言った。
裏手も見せてもらった。勝手口があって、その外に長靴が四足並んでいる。壁に沿って棚があり、乾物の袋と瓶が並んでいた。干し場には竹の簀(す)が渡してあって、大根と、茸らしいものが干してあった。もう少し先に蔵があった。
部屋に戻って、荷物を置いた。私は座布団の角が畳の縁とずれているのが気になって、直した。
小春(こはる)が窓を開けた。谷の音が入ってきた。
「いいお宿ね」
「そうだね」
「お茸だそうよ」
それは車の中で三度聞いた。
2
夕方の5時過ぎに、他の宿泊客が揃った。
囲炉裏の間で、若女将が挨拶をした。宮地千鶴(みやじ ちづる)さんという。20代の後半くらいだろうか。着物ではなく、作務衣の上に前掛けをしていた。挨拶は短く、丁寧で、途中で一度だけ言葉が止まった。止まったところは、宿の名前の由来を話しているところで、内容とは何の関係もなかった。
「祖父の惣一(そういち)です」
紹介された老人は、囲炉裏の向こう側に座っていた。80近いだろう。頭を一度下げて、それきり何も言わなかった。手が大きかった。指の関節が節くれ立っていて、爪が短く切ってある。
「板場の山際(やまぎわ)です」
40代半ばくらいの男が、厨房の暖簾から半分だけ顔を出して、こちらも頭を下げた。すぐに引っ込んだ。
そして仲居の蛍さん。
宿泊客は私たちを入れて六人だった。
まず、古賀敏夫(こが としお)と名乗った男。50代で、体が大きい。名刺を出した。茸の卸をしているという。「古賀商会」とあった。
「こちらとは長いお付き合いでね。まあ、こういう宿は仕入れが命ですから。私が言うのもなんだが」
そう言って、囲炉裏の周りを見回した。見回し方が、値踏みをする見回し方だった。梁を見て、灰を見て、それから若女将の前掛けを見た。
「よくここまで戻したもんです。本当に」
千鶴さんが「おかげさまで」と言った。
次に、柏木亨(かしわぎ とおる)さん。50前後で、痩せていて、上着の袖が少し余っていた。挨拶のとき、名前だけ言って、あとは黙っていた。座る位置を決めかねている様子で、蛍さんに「こちらへ」と言われるまで、土間に近いところに立っていた。
「柏木さんは、以前こちらにいらしたんですよ」
蛍さんが言った。柏木さんは何も言わなかった。千鶴さんも何も言わなかった。古賀さんが笑った。
三人目は戸倉(とくら)さんという老人だった。70くらいで、小柄で、リュックサックを背負ってきていた。
「元は高校の教員です。生物をやっておりました。今は暇なので、茸ばかり見ております」
「茸のどこを見るんですか?」
私が訊くと、戸倉さんは嬉しそうな顔をした。
「裏です。傘の裏。あそこが一番、嘘をつきません」
そして四人目に、見覚えのある男が立っていた。
「やあ」
私は返事をするまでに、たっぷり2秒かかった。
「……結城さん」
結城蒼(ゆうき あおい)。大学の准教授である。会うのはこれで三度目になる。三度とも、私は自分の人生の中でかなり困った状態にあった。彼はそのことを知らない。知らないまま、二度とも、たいへん自信のある推理を披露して帰っていった。
「奇遇ですね。というより、これはもう偶然ではないのかもしれない」
「偶然だと思います」
「いや、雀部さん。偶然というのは、観測の粒度が粗いときにだけ現れる概念でしてね」
蛍さんがお茶を配りに来て、話が中断した。私は心の底から蛍さんに感謝した。
小春が湯呑を両手で持って、囲炉裏の炭を見ていた。
「よく熾ってますね」
千鶴さんが「ありがとうございます」と言った。それだけの会話だったが、千鶴さんの声が、この日いちばん自然だった。
3
夕食は6時半からだった。
囲炉裏の四方に座布団が並べられ、それぞれの前に膳が置かれた。座る場所は蛍さんが決めた。炉の一辺に二人ずつ、私と小春が一辺、戸倉さんと結城さんが一辺、古賀さんと柏木さんが一辺、残る一辺は空けてあって、そこから山際さんが焼き物の世話をする。
「お席は、三食ともこちらで固定になります。お荷物やお飲み物を置いていただいて構いませんので」
古賀さんの隣が、柏木さんだった。
膳には小鉢が四つと、椀と、飯があった。小鉢は全部、茸だった。名前を訊くと、山際さんがひとつずつ答えてくれる。しめじの類、平茸の類、ぬめりのあるもの、干して戻したもの。同じ材料で味の方向を四つに分けてあった。
「これは、いい」
戸倉さんが小鉢のひとつを覗き込んで、それきり黙ってしまった。
そして焼き物が来た。
山際さんが盆に串を並べて運んできた。竹の串に、切った茸と、鶏と、銀杏が刺してある。彼はそれを、囲炉裏の灰に一本ずつ立てていった。刺すときに、串の下のほうを親指で押さえて、少し捻るようにする。
10本ほど立ったところで、結城さんが身を乗り出した。
「これは、向きが決まっているんですか?」
「決まってます」
山際さんが答えた。
「節を手前にして刺します。そのほうが、お客さんが回しやすいので」
「回す?」
「焼けてきたら、ご自分で回していただきます。手前に節があると、指が引っかかって回しやすいんです。向こうを向いてると、つるっと滑る」
言われて見ると、灰から立っている串は、全部が同じ向きを向いていた。節の膨らみが、こちら側に来ている。
「なるほど。理に適っている」
結城さんが深く頷いた。
「機能が形を決めているわけだ。人間の道具というのは、たいていそうなんですよ。装飾に見えるものの九割は、元は機能です」
「はあ」
山際さんは、それ以上は付き合わずに次の串を刺した。
自在鉤の鉄瓶に、千鶴さんが水を足しに来た。鉤から一度外して、厨房へ持っていって、また掛け直した。掛けるときに、鉤の高さを1段下げた。
「重そうですね」
私が言うと、千鶴さんは少しだけ笑った。
「重いです。これしかないので、大事にしてます」
「一つだけなんですか?」
「はい。祖父の代からのもので。同じものはもう作れないそうなので、割れたら終わりです」
「割れるんですか、鉄瓶が」
「落とせば割れます」
「この石は」
私は炉の縁を指した。
「あれも祖父の代からです。角が取れてしまって、もう何を置いても滑ります」
そう言って、彼女は自分の前掛けの紐の端を、指で一度折り直した。折る必要はなかった。
古賀さんが酒を頼んだ。二本目を頼むときに、山際さんではなく千鶴さんを呼んだ。
「若女将。今年の分だけどね。あの山、まだ入れるの?」
「祖父が見に行っております」
「見に行くだけじゃ商売にならんでしょう」
「そうですね」
「まあ、こっちも困るんだよ。うちだって、どこから引いてくるか決めなきゃいけない。あんまり待たせないでほしいな」
千鶴さんは頭を下げた。下げてから、鉄瓶の位置をもう一度直した。直す必要はなかったように見えた。
柏木さんは、ほとんど何も口にしていなかった。串を一度手に取って、回して、また灰に戻した。焼けていなかったわけではない。
「柏木さん」
古賀さんが呼んだ。
「食べなよ。せっかく呼んでもらったんだから」
柏木さんが顔を上げた。
「……誰に呼んでもらったんです?」
古賀さんは答えずに、自分の串を取った。
小春が、自分の膳の小鉢をひとつ空にして、次の小鉢に箸を伸ばした。彼女は端から順に食べる。並んでいる順に食べる。今日もそうしていた。
「山際さん」
小春が言った。
「はい」
「この干したの、いつ干されたんですか?」
「今年のです。9月の終わりに」
「そう。ありがとうございます」
小春は残りを食べた。山際さんは、少し待ってから、次の串を刺しに戻った。
4
9時を回った頃だった。
私は部屋で、鞄の中身を出して並べ直していた。旅行のたびにやる。持ってきたものが全部そこにあることを確認しないと落ち着かない。小春は先に湯に行っていた。
音が聞こえた。
低い音だった。地面から来る種類の音で、2秒か3秒続いて、それから止まった。障子が一度だけ震えた。
私は廊下に出た。他の部屋からも人が出てきていた。戸倉さんが「今のは」と言い、結城さんが「山だ」と言った。
囲炉裏の間に降りると、惣一さんが土間で長靴を履いているところだった。千鶴さんが懐中電灯を渡した。山際さんも出ていった。
「何かあったんですか?」
「落ちたと思います」
千鶴さんが言った。
「よくあるんですか?」
「年に何度かは」
30分ほどして、二人が戻ってきた。惣一さんは長靴のまま土間に立って、千鶴さんに何か短く言った。私には聞き取れなかった。千鶴さんの顔つきが変わった。
「橋の少し先です」
千鶴さんが、囲炉裏の間に集まっていた全員に向かって言った。
「県道が塞がっています。かなり大きいそうで、うちの機械では動かせません」
古賀さんが立ち上がった。
「動かせないって、どのくらい」
「幅で10メートルくらいだと。祖父が言うには、上から続けて落ちてきているので、しばらく近づかないほうがいいと」
「明日の朝は?」
「役場には連絡します。ただ、この道は業者さんが一つしかないので……早くて明日の夕方だと思います」
「夕方?」
「はい」
古賀さんが舌を鳴らした。
「困るな。明日の昼には出るつもりだったんだが」
「申し訳ありません」
「あんたが謝ることじゃないよ。山が悪いんだ」
そう言って、古賀さんは自分の言葉に自分で笑った。誰も一緒には笑わなかった。
千鶴さんが電話を取りに行った。固定電話は土間の隅の柱に据えてある。ダイヤル式ではないが、かなり古い型だった。彼女が受話器を上げ、通じることを確認して、こちらに向かって頷いた。
「電話は生きています。携帯は、うちは元々入りません」
「入りませんね」
結城さんが自分の端末を掲げた。画面が白かった。
「これはこれで、悪くない」
「悪くないですか?」
「ええ。人間の思考は、通信が切れたときにいちばん精度が上がる。外部参照ができなくなると、内部の整合を取り始めますからね」
戸倉さんが「そうですかねえ」と言った。
千鶴さんは、それから宿の者と客の分の食料と燃料をひととおり確認して、皆に説明した。米、味噌、乾物、炭。2日や3日は何も困らないという話だった。話し方は落ち着いていて、数字が具体的だった。
「ご不便をおかけしますが、明日は明日で、いつも通りにお出しします」
「お風呂は?」
蛍さんが訊いた。
「沸きます」
湯から上がってきた小春が、髪を拭きながら囲炉裏の間に入ってきた。話の途中から聞いていたらしい。
「では、明日はゆっくりできますね」
千鶴さんが、一瞬だけ止まってから、「はい」と答えた。
第二章 茸
1
落石の話が一段落しても、誰も部屋に戻らなかった。
出られないと分かった直後に一人で寝られる人間は、たぶんあまりいない。囲炉裏の火が焚き足され、蛍さんが茶を淹れ直し、私たちはさっきと同じ場所に座り直していた。ただし膳は下げられていたので、四辺の間隔が少し詰まった。
戸倉さんが、リュックサックを引き寄せた。
「せっかくですから、お目にかけましょうか」
出てきたのは新聞紙の包みだった。開くと、茸が五種類ばかり並んでいた。傘の色も形もばらばらで、大きいものは掌ほどあり、小さいものは指の先くらいしかない。
「今日、こちらへ来る途中の林道で拾ったものです。20分ほどで、これだけ」
「食べられるんですか?」
蛍さんが訊いた。
「二つは食べられます。二つはまずい。一つは死にます」
蛍さんが手を引っ込めた。
戸倉さんは、いちばん右のものを摘まみ上げて、裏返した。
「まず、裏を見るんです。ここに襞があるか、管があるか、針が並んでいるか。それだけで、大きく三つに割れます。傘の表は嘘をつきます。色は雨で変わるし、日に当たれば褪せる。裏は変わらない」
「なるほど」
私は素直に感心した。感心してから、指の先ほどの一本を指した。
「これが、死ぬやつですか?」
「いえ、これは食べられます。死ぬのはこちらです」
戸倉さんが摘まんだのは、五本のうちでいちばん見栄えのしないものだった。白茶けていて、傘が薄く、しなびている。
「見た目は、いちばん害がなさそうですが」
「そこがよくないところです。派手なものは、たいてい大丈夫なんですよ。人が警戒するように出来ているので、そもそも口に入らない。恐ろしいのは、こういう、どこにでもありそうなやつです」
暖簾が上がって、山際さんが出てきた。手を拭きながら、戸倉さんの手元を覗き込む。
「ああ、それは持って帰らんほうがいいですよ」
「持って帰りません。捨てます」
「捨てるのもね、生ゴミに入れると鶏がつつくんで」
「なるほど、それは考えていませんでした」
二人が急に実務の話を始めたので、私は少し取り残された。
「山際さんは、山にも入られるんですか?」
「入りますけど、うちの出しものはほとんど栽培です」
山際さんは囲炉裏のほうへ顎をしゃくった。
「ここのは、しめじも平茸も、菌床(きんしょう)のを室(むろ)で出してます。山採りは、量が読めんので。どうしても使いたいときだけ、旦那さん――惣一さんが採ってきたのを、目の前で分けてもらいます」
「目の前で?」
「はい。誰が採ったか分からんものは、うちは使いません」
彼はそう言って、それ以上は説明しなかった。
千鶴さんが茶を注ぎ足しに来た。急須の口が湯呑の縁に一度当たった。
古賀さんが、あぐらの上で手を組み替えた。
「山際さん、それは正しいよ。うちも同じだ。うちは全部、伝票が残ってるからね」
「はあ」
「伝票が残ってりゃ、誰の責任かはっきりする。曖昧にしとくと、あとで揉める」
千鶴さんが急須を持ったまま立っていた。
戸倉さんは、新聞紙を畳み直していた。
「死にます、という言い方をしましたがね」
彼は誰にともなく続けた。
「実際には、死ぬまでに時間がかかるものが多いんです。食べてすぐ苦しむものは、まだ救いがある。恐ろしいのは、一晩なんともなくて、翌日になってから効いてくるやつです」
「怖いですね」
蛍さんが言った。
「怖いですよ。手遅れになってから、体が気づくんです」
囲炉裏の炭が一つ崩れた。
小春が、崩れたところを火箸で直した。彼女は火箸を戻して、湯呑を持ち上げた。
「先生」
「はい」
「そういうのは、味は違うんですか?」
戸倉さんが、初めて少し言葉に詰まった。
「……違わないんです。それが、いちばん厄介なところで」
2
そこで結城さんが咳払いをした。
私は湯呑を置いた。この咳払いは知っている。
「戸倉先生。今のお話、たいへん興味深く伺いました。ただ、少し補助線を引かせていただいてもよろしいですか?」
「どうぞ」
「先生は今、茸を『物』としてお話しになった。しかし茸というのは、本来、物ではないんです」
「と、言いますと?」
「あそこに出ているもの――子実体(しじつたい)といいます。傘とか柄とか、我々が食べている部分ですが、あれは本体ではない。あれは、生殖器官です」
蛍さんが「うわ」と小さく言った。
「本体は地面の下にあります。菌糸です。細い糸が、土の中に何百メートルも、場合によっては何キロも広がっている。我々が見ている茸というのは、その広大な網が地上に押し出した、いわば指先にすぎない」
「それは、そのとおりです」
戸倉さんが頷いた。
「でしょう。そして、ここからが面白い」
結城さんが身を乗り出した。囲炉裏の火が、彼の眼鏡に映った。
「その菌糸は、木の根と繋がっている。一本の木ではありません。森じゅうの木と繋がっている。そして木と木の間で、糖を融通し合っている。日の当たらない若木に、大木が糖を送る。虫にやられた木が、隣の木に警告を送る。こういうことが、地面の下で、常に起きている」
「送っている、というのは」
戸倉さんが、控えめに手を挙げた。
「いささか強い言い方でして。糖が移動しているのは確かなんですが、木が意図して送っているというより、菌のほうが自分の都合で回している、という見方も」
「先生、そこは本質ではありません」
結城さんが遮った。
「本質はこうです。**森というのは、木の集まりではない。一つの通信網なんです。**そして我々はそれを、木が集まっているだけだと思って見ている。地上に出ている部分だけを見て、全体を分かった気になっている」
彼は一同を見回した。
「これは、森の話ではありませんよ」
私は茶を飲んだ。
「人間の集団も同じです。我々はいま、この囲炉裏の周りに八人で座っている。八人がそれぞれ独立していると思っている。しかし実際には、我々の間には、我々が意識していない繋がりが張り巡らされている。誰かが誰かに何かを送っている。誰かが誰かに警告を発している。地上に出ているのは名刺と挨拶だけです」
「はあ」
古賀さんが鼻から息を出した。
「先生は、何の先生でしたっけ」
「専門はいろいろやっています」
「いろいろね」
「重要なのは、視点の粒度です。粒度を上げれば、無関係に見えるものが繋がって見える。逆に言えば、繋がっているものを無関係だと思っているとき、人は必ず何かを見落としている」
「先生」
戸倉さんがもう一度言った。
「あの、菌根を作る菌と、枯れ木を分解する菌とは、まるで別の暮らしをしておりまして。網が全部繋がっているというのは、そのう、話としては美しいのですが、実際には」
「先生。美しいというのは、しばしば正しいということです」
戸倉さんは、口を開けたまま、少し待って、それから閉じた。
私は座布団の角を直した。
小春が湯呑を置いた。
「結城さん」
「はい、奥さん」
「そのお話、長くなりますか?」
「いや、まあ、要点はもう申し上げました」
「そう。よかった」
蛍さんが下を向いて肩を震わせた。柏木さんが、初めてわずかに笑った。
結城さんは、まったく気を悪くした様子がなかった。彼はいつもそうだ。
「私は毎晩、手記をつけているんですよ。今日の話も書いておきます」
「毎晩?」
「毎晩です。寝る前に、その日に見たことと考えたことを、時刻を入れて書く。習慣というより、これは義務だと思っています」
「義務ですか?」
「人間の記憶は、放っておくと物語になりますから。時刻を書いておくと、物語になりにくい」
これについてだけは、私は何も言い返せなかった。
3
10時前に、湯に行った。
渡り廊下は、屋根はあるが横が吹き抜けである。日が落ちてから通ると、昼に見たときとは別の場所だった。板を踏むと、足の裏から冷たさが上がってくる。途中で2段下がるところがあって、暗いと段を踏み外しそうになる。歩数を数えると、母屋の戸から離れの戸まで30歩あった。
戸を開けると、湯気の中に先客がいた。
柏木さんだった。石の湯船の縁に腰かけて、肩から手拭いを垂らしている。入っているというより、休んでいる格好だった。
「あ、失礼しました」
「いえ。どうぞ」
私は体を流して、湯に入った。沢の水を樋で引いて、釜で沸かしているという。湯は熱く、縁から溢れた分がそのまま石の床を流れて、外へ落ちていく。
しばらく、二人とも黙っていた。樋から落ちる水の音だけがした。
「雀部さん、でしたか」
「はい」
「奥さんと、二人で?」
「そうです。妻が、この宿を見つけてきまして」
「そうですか」
柏木さんは、湯を手ですくって、また落とした。
「いい宿ですよ。ここは」
「以前、こちらにいらしたと伺いました」
言ってから、まずかったかと思った。柏木さんは怒らなかった。ただ、少し間を置いた。
「板場に、5年ほど」
「そうなんですか」
「7年前までです」
私は返事をしなかった。返事をしにくい言い方だった。
「事故がありましてね」
柏木さんが続けた。
「食中毒です。お客さんが二人、当たって、一人は助かりませんでした。茸です」
「……そうですか」
「宿は営業停止になって、賠償もして、3年ほど閉めていました。それで、私は出たんです」
「柏木さんの、責任だったんですか?」
訊いてから、自分でも不躾だと思った。
柏木さんは、湯の面を見ていた。
「そういうことになっています」
彼はそれ以上言わなかった。私も訊かなかった。
湯気が上がって、天井の梁のところで散った。
「女将さんが、いい人でした」
しばらくしてから、柏木さんが言った。
「若女将さんの、お母さんですか?」
「そうです。私は、ここへ来る前にいろいろありましてね。誰も雇ってくれないような状態でした。それを、あの人だけが、そんなことは知りませんという顔で使ってくれた」
「そうですか」
「5年、飯を食わせてもらいました」
彼は手拭いを絞った。
「その女将さんも、もういません」
私は、どう返すべきか分からずに、湯の中で膝を抱えた。
「柏木さんは、今回はどうして?」
「それが、分からないんです」
彼は初めてこちらを見た。
「手紙が来たんですよ。今年の秋に、一度お越しくださいと。日にちまで指定してあって」
「若女将さんから?」
「そうです。何のことか分からんまま、来ました。来てはみたが、まだ何も言われていない」
「訊いてみないんですか?」
「訊けませんよ」
柏木さんは立ち上がった。
「7年経って呼ばれるというのは、いい話ではないでしょう」
戸が閉まって、湯気が一度大きく揺れた。
私は湯に残った。熱くなりすぎるまで残っていた。
4
母屋に戻ると、囲炉裏の間に古賀さんがいた。
一人だった。他の客は部屋に引き上げたらしい。彼は炉のこちら側に胡座をかいて、膝の上に小さな手帳を開いていた。書いている。手帳は掌に載る大きさで、表紙が黒く、角が丸くなっている。
私が板の間に上がる音で、彼は顔を上げた。
「ああ」
「まだ起きてらしたんですね」
「明日の段取りをね」
彼は手帳を閉じた。閉じてから、輪ゴムを一本、外から掛けた。
「出られないんじゃ、段取りも何もないんだが。まあ、書いとかんと忘れる」
「マメですね」
「マメじゃないよ。忘れるから書くんだ。マメな奴は、忘れんから書かん」
これは筋が通っていた。
古賀さんは手帳を上着の内ポケットに入れて、囲炉裏の火を見た。炭はもうかなり落ちていた。
「雀部さん、だっけ」
「はい」
「あんた、あの若女将をどう見た?」
私は湯呑を探す振りをした。
「しっかりされた方だと思いますが」
「そうだな。しっかりしてる。しっかりしてるが、あれは19か20で全部背負わされた顔だ」
彼は膝を叩いて立ち上がった。
「まあ、こっちも商売だから。同情で仕入れるわけにいかん」
「はあ」
「同情で仕入れて、また何かあったら、今度は誰が責任取るんだって話でね」
そのとき、廊下のほうから足音がした。惣一さんだった。長靴ではなく足袋のままで、手に懐中電灯を持っている。
古賀さんが「じゃ、お先に」と言って、廊下へ消えた。
惣一さんは、囲炉裏の前を横切って、勝手口へ行った。桟(さん)を落とす。それから板の間を戻って、廊下へ入り、渡り廊下の戸に閂(かんぬき)を落とした。最後に土間へ降りて、玄関の閂。それから外へは出ずに、蔵の鍵を柱の釘から取って――取ってから、少し考えて、また掛け直した。蔵は昼のうちに締めてあったらしい。
一連の動作の間、老人は一度もこちらを見なかった。
「祖父ですみません」
厨房から蛍さんが出てきた。ふきんを持っている。
「いえ。しっかりされてますね」
「もう3年になりますけど、あの順番、一度も変わったことないんですよ」
「順番、決まってるんですか?」
「勝手口、渡り廊下、玄関、蔵。ずっとそれです。わたし、最初の頃に玄関から先に締めちゃって、あとで全部やり直されました」
「やり直された?」
「やり直されました。何も言われずに」
「厳しいんですね」
「厳しくはないんです。ただ、旦那さんは夜中にもう一度起きるので」
「起きるんですか」
「2時ごろに一度、下りてこられます。歳を取ると眠りが浅いんだそうで。それで、閉めたところをもう一回だけ見て回られるんです。わたし、最初の頃は泥棒かと思いました」
蛍さんは笑って、囲炉裏に灰をかけた。炭が灰の下に隠れて、部屋の明るさが一段落ちた。
「明日、どうなるんでしょうね」
彼女はそう言って、厨房へ戻っていった。
私は廊下を通って部屋へ戻った。廊下の突き当たりの姿見に、自分が映った。宿の浴衣を着た、髪の濡れた中年の男が映っていた。それだけだった。
小春はもう寝ていた。
私は布団に入って、天井の梁を見た。梁は太く、煤で黒く、蜘蛛の巣も埃も見当たらなかった。誰かが定期的に拭いているのだ。
それが気になって、私は一度起き上がり、土間に置いた自分の靴を見に行った。
揃っていた。
第三章 串
1
朝食は7時半だった。
昨夜と同じ席に、同じように膳が並んだ。違うのは、全員が寝不足の顔をしていることと、誰も落石の話以外をしなかったことである。
「役場には6時に連絡しました」
千鶴さんが言った。
「業者さんは、今日の午前中に現場を見に来ます。見てから重機を回す段取りになるそうです」
「見てからねえ」
古賀さんが箸を置いた。
「見なくても分かるだろう。10メートル落ちてるんだ」
「そういう決まりだそうです」
「まあ、そうだろうな。決まりだ決まりだで、うちの荷も3日遅れる」
朝の膳は、夕食より軽かった。粥と、香の物と、小鉢が二つ。小鉢のひとつは、昨夜と同じ干した茸を戻したものだった。
そして囲炉裏には、また串が立っていた。
山際さんが盆から一本ずつ取って、灰に刺していく。朝のは短い串で、切り身の魚と、厚く切った茸と、餅がついていた。彼は昨夜と同じ手つきで、下のほうを親指で押さえて、少し捻るように刺す。八本立てて、彼は厨房へ戻った。
八本とも、節がこちらを向いていた。
「これは、昨夜のとは違う茸ですね」
戸倉さんが自分の串を覗き込んだ。
「よく分かりますね」
蛍さんが感心した。
「柄の切り口の色が違います。夕べのは、切ってしばらく置いたものです。これは今朝切ったものでしょう」
「先生は、何を見ても分かるんですか?」
「分からないもののほうが多いですよ」
結城さんが、朝から機嫌がよかった。
「戸倉先生。私は昨夜、寝床で考えたのですが」
「はい」
「山というのは、あれは輸送網ですね。水も、養分も、種も、上から下へ運ばれる。ところが菌糸だけは、下から上へも運ぶ。つまり山で唯一、重力に逆らって物を動かしているのは菌なんです」
「水も、木の中を上がりますが」
「先生、そこは本質ではありません」
私は粥を食べた。
古賀さんが立ち上がったのは、その少しあとだった。
「ちょっと失礼」
彼は板の間を横切って、土間に降りた。電話のところで受話器を取り、番号を押して、二言三言喋って切った。それから玄関の戸を開けて、外を覗いた。冷たい空気が入ってきて、囲炉裏の煙が一度こちらへ流れた。
「まだ来てないな」
彼は戸を閉めて、上がってきた。自分の席に戻って、座る前に、膝をついた格好で灰の上に手を伸ばした。
串が焼けすぎているのを直したのだと思った。実際、彼は二本ばかり触っていた。
そして座った。
「あら」
小春が言った。
「この二本、向きが違うわ」
私は自分の串を見て、それから炉の向こうを見た。
古賀さんの前と、柏木さんの前。その二本だけ、節の膨らみが向こう側を向いていた。他の六本は、こちらを向いている。
「そうですか」
蛍さんが茶を注ぎながら答えた。彼女は手元を見ていて、串は見ていなかった。
「回すときに、そうなることもあるんじゃないですか」
「そうね」
小春はそれ以上言わなかった。彼女は自分の小鉢に箸を伸ばした。端から順に、いつもどおりに。
結城さんは山の輸送網の話を続けていた。戸倉さんは相槌を打っていた。千鶴さんは厨房のほうを見ていた。
顔を上げていたのは、古賀さんだけだった。
彼は小春を見ていた。まっすぐに、2秒か3秒くらい。それから視線を落として、自分の串を取った。
上着の内ポケットから、小さな筒を出した。金属の、蓋に穴の開いたものである。
「わしは何にでもこれをかけるんだ」
彼は自分の串に、それを振った。
「うちの婆さんがな、こればっかりは持って歩けと言うんで。柏木さん、あんたもどうだ?」
柏木さんは首を横に振った。
「いえ、結構です」
「そうか」
古賀さんは筒を内ポケットに戻して、串を回した。餅が焼けて、白く膨らんでいた。
柏木さんも串を取った。灰から抜いて、一度回して、また戻した。それから抜いて、魚のところから食べた。
「柏木さん」
千鶴さんが厨房の暖簾のところから声をかけた。
「はい」
「あとで、お時間をいただけますか?」
柏木さんが箸を止めた。
「……はい」
「お昼を過ぎたころに、お部屋のほうへ伺います」
「分かりました」
古賀さんが餅を噛みちぎった。
2
8時10分に、柏木さんが箸を落とした。
音がしたので、皆がそちらを見た。柏木さんは膳の縁に手をついて、体を前に折っていた。顔が下を向いていて、表情は見えなかった。
「柏木さん?」
蛍さんが近寄った。
「……すみません」
「どうされました?」
「腹が」
彼は片手で腹のあたりを押さえた。もう一方の手は膳についたままで、指が白くなっていた。
戸倉さんが座布団を回り込んできた。素早かった。
「柏木さん、いつからです?」
「今、急に」
「痛みは、どのあたりですか?」
柏木さんは答えようとして、答えられなかった。彼は横向きに倒れて、膝を抱えた。膳がずれて、椀が転がった。粥がこぼれて、畳の縁のところで止まった。
「若女将さん」
戸倉さんが振り向いた。声が、昨夜までとまったく違っていた。
「洗面器と、水を。それからタオルを何枚か」
千鶴さんが厨房へ走った。
戸倉さんは柏木さんの脇にしゃがんで、手首を取った。それから瞼を上げて、顔を近づけた。
「何を召し上がりました?」
「……朝の」
「朝の何ですか?」
「串と、粥と」
柏木さんが咳き込んだ。
戸倉さんは立ち上がって、囲炉裏の灰に残っていた串を見た。柏木さんの前の串は、半分ほど食べられて、灰に立て直されていた。彼はそれを抜いて、匂いを嗅いだ。それから、指で残りの茸を挟んで、割った。断面を見た。
長い時間、見ていた。
「戸倉先生」
私は訊いた。
「何ですか、それは」
「……この宿の茸ではありません」
彼は誰にともなく言った。
「山際さん」
厨房から山際さんが出てきていた。前掛けで手を拭きながら、串の断面を覗き込んで、そこで動きが止まった。
「うちのじゃないです」
「ですね」
「うちの平茸は、そんな肉厚になりません」
「ええ」
戸倉さんは串を持ったまま、囲炉裏の周りを見回した。
「他の方は、召し上がりましたか?」
私は自分の串を見た。半分食べていた。小春も食べていた。結城さんも、戸倉さん自身も。
「食べました」
「今、どこか具合の悪い方は?」
誰も手を挙げなかった。
「では、これは柏木さんのものだけです」
古賀さんが立ち上がった。
「待ってくれ。うちの荷は今週はまだ入れてないぞ」
「ええ」
「先週入れた分は、うちの伝票が全部残ってる。分けたのは山際さんの目の前だ。そうだろう?」
「そうです」
山際さんが言った。
「そうです、じゃないよ。何が入ってたって言うんだ」
「何も言ってません」
千鶴さんが洗面器を持って戻ってきた。柏木さんの脇に置いて、膝をついた。彼女は柏木さんの背中に手を当てた。
「柏木さん。柏木さん」
柏木さんは目を開けていた。開けていたが、千鶴さんを見ていなかった。
戸倉さんが私のほうへ来た。声を落とした。
「雀部さん。電話をお願いできますか」
「消防ですね」
「はい。道が塞がっていることも伝えてください」
私は土間へ降りた。受話器を取ったとき、自分の手が震えているのが分かった。
昨夜、戸倉さんが言った言葉を、私は思い出していた。
一晩なんともなくて、翌日になってから効いてくるやつがいちばん恐ろしい、と。
だが柏木さんが倒れたのは、朝食の25分後だった。
3
消防はすぐに出た。
私は場所を説明し、道路が塞がっていることを伝え、それから受話器を戸倉さんに渡した。戸倉さんは症状を順に述べて、いくつか質問に答えて、そのあとは指示を聞きながら「はい」「はい」と繰り返した。受話器を置くと、彼は千鶴さんに、水を少しずつ飲ませることと、体を横向きにして寝かせることと、意識の様子を時計を見ながら記録することを伝えた。
「記録は、私がやります」
結城さんが手を挙げた。
「先生、これは冗談ではなく、私は時刻を書く訓練ができています」
戸倉さんが「では、お願いします」と言った。結城さんは手帳を出して、囲炉裏端に座った。彼は本当にきちんと書いた。
9時に、業者から電話が入った。千鶴さんが出て、途中から返事が短くなった。
「……はい。はい。分かりました」
受話器を置いて、彼女は振り返った。
「重機は、明日の朝に回すそうです」
「明日?」
古賀さんが言った。
「今日の夕方じゃなかったのか」
「別の現場が先に入っているそうで」
「人が倒れてるんだぞ。そう言ったか?」
「言いました」
千鶴さんの声は落ち着いていた。落ち着きすぎていた。
「先方も、それは分かったうえで、そう言っています。あちらも、動かせる機械が一台しかないので」
古賀さんが舌を鳴らして、土間へ降りていった。
10時前に、山が鳴った。
昨夜と同じ音だった。ただし昨夜より短く、そして近かった。惣一さんが長靴を履いて出ていき、15分ほどで戻ってきた。彼は土間に立って、千鶴さんに何か言った。
千鶴さんが電話に飛びついた。
「──もう一回落ちました。同じところです」
彼女は受話器を握ったまま、皆のほうを見た。
「上が緩んでいるので、しばらく重機も入れられないそうです。落ち着くのを待つと」
「待つと、いつになるんです?」
蛍さんが訊いた。
「早くて明日の午後です」
囲炉裏の間が静かになった。柏木さんの呼吸の音だけが聞こえた。
「ヘリコプターは?」
結城さんが顔を上げた。
「要請しました」
戸倉さんが答えた。
「谷が深いので、降ろせる場所がないそうです。上空から吊り上げる方法もあるが、風の条件が悪いと。今、判断待ちだと言われました」
「判断待ち」
「そう聞きました」
私は窓の外を見た。谷の上のほうで、木がかなり揺れていた。
11時ごろ、柏木さんが一度、はっきりした声で喋った。
「若女将さん」
千鶴さんが顔を近づけた。
「はい」
「話というのは、何ですか?」
千鶴さんが答えなかった。
「聞いておきたい」
「……あとで、必ずお話しします」
「そうですか」
柏木さんは目を閉じた。
古賀さんは、囲炉裏の間の隅に座って、ずっと膝を揺すっていた。上着は着たままだった。
4
1時20分に、戸倉さんが時計を見た。
それから千鶴さんのほうを向いて、首を横に振った。
蛍さんが両手で口を押さえた。結城さんは手帳に何か書いて、それから手帳を閉じた。閉じてから、開き直して、もう一度何かを書いた。
千鶴さんは、柏木さんの脇に膝をついたまま動かなかった。
「若女将さん」
戸倉さんが言った。
「はい」
「警察に連絡してください。事故でも病気でも、こういう場合は連絡します」
「はい」
彼女は立ち上がって、土間へ降りた。受話器を取る音がして、そのあと、番号を押す音が何度か途切れた。押し間違えたらしい。
警察も、来られなかった。
道が二箇所で塞がっている以上、こちらへ入る方法がないという返事だった。明日の午後、開通と同時に来る。それまで現場を保存すること。遺体は動かさないほうがいいが、この気温と、囲炉裏の火があることを考えると、涼しい別室へ移してよい。移す前に、位置を写真に撮っておくこと。触ったものと時刻を記録しておくこと。
そういう指示だったと、千鶴さんが伝えた。
「離れの、湯の手前の部屋が空いています」
彼女は言った。
「そちらへお移しします」
惣一さんと山際さんが運んだ。私も手を貸した。渡り廊下は横が吹き抜けで、昼でも寒かった。30歩の間、誰も何も言わなかった。2段下がるところで、山際さんが「段です」と一度だけ言った。
部屋に寝かせて、布団をかけて、戸を閉めた。
囲炉裏の間に戻ると、蛍さんが畳を拭いていた。こぼれた粥が乾きかけていた。彼女は同じところを何度も拭いていた。
「蛍ちゃん」
千鶴さんが言った。
「もういいから」
「でも」
「もういいから」
蛍さんは雑巾を持ったまま、しばらく座っていた。
古賀さんが立ち上がった。
「若女将」
「はい」
「はっきりさせておきたい」
彼は上着の裾を直した。
「今朝の串は、どこから出た?」
「山際が用意しました」
「材料の話をしてる」
千鶴さんが山際さんを見た。山際さんは答えなかった。
「うちの茸です」
千鶴さんが言った。
「若女将」
山際さんが遮った。
「まだ分かりません」
「でも、うちが出したものです」
「出したのは私です」
山際さんが1歩前に出た。
「材料は室のと、旦那さんが採ってきたのを目の前で分けたものです。それ以外は使っていません。それがどうしてああなったのかは、私には分かりません。分からないことを、うちのですとは言えません」
「山際さん」
「若女将。7年前と同じことを言ったらいけません」
千鶴さんの手が止まった。
彼女は膝の上で、前掛けの紐の端を、何度か折り直していた。折る必要はなかった。
囲炉裏の火は落としてあった。灰の上に、朝の串が六本、そのまま残っていた。
私はそれを数えた。六本だった。柏木さんの分と、古賀さんの分が、抜かれていた。
第四章 過失
1
3時ごろ、結城さんが囲炉裏の間の中央に座り直した。
私はそれを見て、席を立とうかと思った。立たなかったのは、私が立てば代わりに誰かが彼の正面に座ることになるからである。
「皆さん。少し、整理をしませんか」
蛍さんが茶を配っていた手を止めた。千鶴さんは厨房の暖簾のところに立っていた。山際さんはその後ろにいた。惣一さんは土間の框に腰かけて、鉈の刃を見ていた。
「整理と言いますと」
戸倉さんが訊いた。
「柏木さんが亡くなった原因です。私は素人ですが、素人には素人の役目があります。誰も口にしないことを口にする役目です」
古賀さんが胡座を組み直した。
「先生、どうぞ」
「まず、事実を三つ並べます」
結城さんは指を三本立てた。
「一つ。柏木さんが召し上がった串には、この宿のものではない茸が入っていた。これは戸倉先生と山際さんが、断面を見て一致しておられる」
「はい」
「二つ。同じ皿から出た他の串には、それは入っていなかった。八人が食べて、一人だけが当たった」
「そうです」
「三つ。この宿は7年前にも、同じことを起こしている」
千鶴さんの手が、暖簾に触れたまま止まった。
「先生」
戸倉さんが言った。
「それは、今ここで並べる必要のある事実ですか?」
「あります。ここが要ですから」
「しかし」
「先生。私は誰かを責めているのではありません。むしろ逆です」
結城さんは千鶴さんのほうへ体を向けた。
「若女将さん。私は、この宿に落ち度はないと申し上げようとしているんです」
千鶴さんは何も言わなかった。
「よろしいですか。菌類というものは、地上に出ている部分が本体ではない。本体は地面の下の菌糸です。ここまでは昨夜申し上げました」
「はい」
「では、栽培というのは何をしているのか。菌床という塊に、種菌を植えて、育てている。塊が並んでいる部屋があるわけです」
「室です」
山際さんが暖簾の後ろから言った。
「そう、室。──その室は、この山の中にある。土台は地面です。壁の外は森です」
結城さんは掌を上に向けた。
「つまり、室の中の網と、山の中の網は、隔てられているように見えて、隔てられていない。菌糸は隙間を通ります。コンクリートの継ぎ目でも、木の節でも通る。何年もかけて、少しずつ入ってくる」
「先生」
戸倉さんが手を挙げた。
「菌床は、植える前に高い温度で殺菌します。もし外から別の菌が入れば、その塊は丸ごと駄目になります。腐って、色が変わって、匂いが出る。使う前に分かるんです。一本だけ別のものが生えて、しかも見た目が同じで、それが一皿の一本にだけ混じる、ということは」
「先生。それは、我々が見ている粒度の話です」
「粒度」
「見えるほど大きくなれば分かる。分からないうちは、ないことになっている。しかし網は、分からない大きさのときから既に繋がっているんです」
戸倉さんが、口を開けたまま少し待った。
「──雑菌が入ったなら、匂いで分かります」
「分かる場合は、ですね」
「いえ、あの、そういう話ではなくてですね」
「先生。私は先生を否定していません。先生のおっしゃることは、条件が揃っていれば正しい」
結城さんは全員を見回した。
「私が申し上げたいのは、これです。──**この宿は、誰も間違えていない。**手順は正しく、伝票も残り、目の前で分けて、殺菌もしている。それでも起きるんです。なぜなら、山の網は、宿の網より古いからだ」
彼は満足そうに頷いた。
「7年前も、たぶん同じでした。誰も間違えていないのに、二人が当たった。それを人の落ち度にしたから、この宿は3年閉まったんです。私はそれを、もう一度繰り返してほしくない」
囲炉裏の間が静かになった。
古賀さんが、ゆっくりと手を打った。二回だけ叩いた。
「なるほどね。つまり、宿のせいだが、宿は悪くないと」
「そうは言っていません」
「言ってるよ、先生。要するに、ここの室から出たってことだろう」
「可能性の話です」
「可能性ね。──若女将、聞いたか。7年前もそうだった。誰も悪くない。誰も悪くないのに、人が死ぬんだ」
千鶴さんは、暖簾を掴んだままだった。指が白かった。
「7年前は」
彼女が言った。
「はい?」
「7年前は、うちの仕入れではありませんでした」
古賀さんが笑った。
「そういう話をしたいのか?」
「いえ」
「今しなくていいだろう。今日死んだのは、あんたが呼んだ人だ」
千鶴さんが暖簾を離した。
彼女は厨房へ入って、それきり出てこなかった。
結城さんが手帳を出して、何か書き込んだ。
「いい整理ができました」
彼はそう言った。
2
夕食は6時半に出た。
献立は前の日と同じ形だった。小鉢が四つ、椀、飯。焼き物はなかった。串を出さない、というのは山際さんの判断だったらしい。
囲炉裏の四方に、膳が五つ並んだ。柏木さんの一辺が空いていた。
誰も箸を取らなかった。
「山際さんが作ってくださったものです」
蛍さんが言った。
「今日のは、全部、乾物と根菜だそうです。茸は使っていません」
戸倉さんが「いただきます」と言って、椀を取った。それでも、他の者は動かなかった。
古賀さんは箸袋を弄んでいた。
「悪いが、わしは遠慮する」
「そうですか」
「食えと言われても、喉を通らんよ」
彼は膳を少し前へ押した。
結城さんは飯だけ食べた。彼は自分が食べていないことに気づいていない様子だった。手帳を開いて、片手で何か書きながら、飯を三口ほど口に運んで、そこで止まっていた。
小春は食べた。
彼女はいつもどおり、小鉢を端から順に食べた。四つとも空にして、椀を飲んで、飯を食べた。途中で一度、箸を止めた。
「山際さん」
暖簾の向こうから返事があった。
「はい」
「この蕪、面取りしてありますね」
「してます」
「今日はしなくてもよかったんじゃありませんか?」
暖簾が動いた。山際さんが顔を出した。前掛けを握っていた。
「……煮崩れるので」
「そうですか」
小春は残りを食べた。
蛍さんが下を向いた。千鶴さんは、厨房の奥で背中を向けていた。
食後、私は水を飲みに厨房のほうへ行った。暖簾の隙間から、千鶴さんが見えた。
彼女は流しの前に立っていた。手には何も持っていなかった。蛇口も出ていなかった。ただ立っていた。
私は水を諦めて戻った。
囲炉裏の間には、戸倉さんと山際さんが残っていた。二人は小声で話していた。
「──その串だけ、というのが、どうしてもね」
戸倉さんが言った。
「刺したのは私です」
「ええ」
「盆に並べて、運んで、順に刺しました。並べたときは、全部うちのものです」
「それは、間違いないですか?」
「間違いないです。私は自分で切って、自分で並べました」
「では、刺してから召し上がるまでの間ということになりますね」
「なりますね」
二人とも、それ以上言わなかった。
私は自分の膳の前に座り直して、囲炉裏の灰を見た。
刺してから食べるまでの間。あの30分ほどの間に、あの串に何かが入った。
入れたのなら、入れた人間がいる。
囲炉裏の四方には、八人が座っていた。そのうち一人が死んだ。残りの七人のうち、二人は私と妻だった。
私は、残りの五人の顔を順に思い浮かべた。思い浮かべてから、そういうことを考えている自分がひどく居心地が悪くなって、やめた。
土間で、惣一さんがまだ鉈を見ていた。刃を布で拭いて、光にかざして、また拭いていた。
私は「おやすみなさい」と言った。老人は顔を上げなかった。
3
8時を回った頃だった。
小春が湯に行く支度をしていた。私は部屋で、荷物の中から手拭いを出していた。
廊下に出ると、古賀さんが立っていた。
彼は姿見の前あたりに立って、こちらを見ていた。正確には、私の後ろから出てきた小春を見ていた。
「奥さん」
「はい」
「よく食べられましたな」
「いただきました」
「大したもんだ」
古賀さんは笑った。笑ったが、目のあたりが動いていなかった。
「わしは駄目だ。人が死んだ日に飯が食えるほど、図太くない」
「そうですか」
「気を悪くしないでください。褒めてるんですよ」
「はい」
小春は会釈をして、渡り廊下のほうへ歩いていった。古賀さんはその背中を見ていた。曲がって見えなくなるまで見ていた。
私はそこに立っていた。
「古賀さん」
「ああ、失礼」
彼は私のほうを向いた。
「いや、いい奥さんだ」
「はあ」
「ああいう人は強い。わしの女房もそういうところがあった」
そう言って、彼は自分の部屋へ入っていった。
私は廊下に残って、姿見に映った自分を見た。
腹が立っていた。
古賀という男が、妻が平然と飯を食ったことを腹の底で笑っている。そういうふうにしか受け取れなかった。宿の落ち度だと言い立てて、若女将を追い込んで、それで自分は箸をつけない。つけないくせに、つけた人間を「大したもんだ」と言う。
そういう男は、どこの会社にもいる。
私は手拭いを持ち直して、湯へ向かった。
囲炉裏の間を通ると、蛍さんが灰をならしていた。
「雀部さん、お風呂ですか?」
「そうです」
「奥様が先に行かれましたよ」
「みたいですね」
蛍さんは灰の上を、火箸の背でまっすぐに撫でていた。
「明日の朝なんですけど」
「はい」
「奥様、朝いちばんに白湯を召し上がるんですよね」
「よく知ってますね」
「昨日の朝、伺いました。だから今朝も、土瓶をお部屋の前に置いといたんです。夜のうちに沸かして、置いとくんですよ。朝は火を落としてますから」
「そうだったんですか」
「明日もそうします。今夜も置いときますね」
「ありがとうございます」
「うちは朝が遅いので、それくらいしか」
蛍さんは火箸を戻して、立ち上がった。
囲炉裏の間は、天井が高い。声がよく通る。夜になって静まると、廊下の奥まで聞こえるのだと、初日に千鶴さんが言っていた。壁が薄いのではなく、上に抜けるのだそうだ。
そのとき、廊下のほうで戸が閉まる音がした。
私は振り返った。廊下は暗くて、誰がいたのかは分からなかった。古賀さんの部屋は、廊下の手前から二つ目である。
「風ですかね」
蛍さんが言った。
「そうですね」
私は渡り廊下へ出た。板が冷たかった。30歩の途中で、2段下がるところを踏み外しかけた。
4
11時に、惣一さんが戸締まりに回った。
私は囲炉裏の間で茶を飲んでいた。老人は昨夜と同じ順で回った。勝手口の桟を落とし、廊下を通って渡り廊下の戸に閂を落とし、それから土間へ降りて玄関の閂。最後に蔵の鍵を柱の釘から取って、確かめて、掛け直した。
戻ってきて、彼は初めて私のほうを見た。
「明日、来ます」
「はい」
「昼過ぎには」
それだけ言って、老人は奥へ引っ込んだ。
私は部屋へ戻った。
小春はもう寝ていた。彼女は寝つきがいい。今日も、いつもと同じ時刻に寝た。
私は布団に入って、天井を見た。
この家には、いま10人いる。うち一人は離れの部屋で布団をかけられている。残る九人が、この屋根の下で寝ている。
そのうちの誰かが、今朝、串に何かを入れた。
そう考えると、天井の梁が急に低く見えた。私は寝返りを打った。障子の外は真っ暗で、谷の音だけがしていた。
12時を回ったころ、厠へ立った。
廊下は暗かった。足元だけ見て歩いていたので、前から来る人影に気づくのが遅れた。
古賀さんだった。
彼は右手を壁についていた。壁づたいに、1歩ずつ足を出している。上着は着ておらず、シャツのままだった。
「古賀さん」
彼は顔を上げた。上げたが、焦点が合っていないように見えた。
「……ああ」
「大丈夫ですか?」
「うん」
「飲まれました?」
彼は返事をしなかった。手を壁から離して、2歩ほど自分で歩いて、それからまた壁についた。
「部屋、こっちですよね」
私が言うと、彼は「うん」と言った。
そのまま、私の横を通り過ぎた。すれ違うとき、酒の匂いはしなかった。
だが、人はこういうとき、必ずしも酒臭くならない。私はそう考えて、それ以上は考えなかった。
厠から戻る途中、廊下の一室の障子が明るかった。結城さんの部屋である。彼は毎晩、時刻を入れて手記をつける。
障子の紙に、机に向かった影が映っていた。
私は自分の部屋へ戻って、布団に入った。
小春は寝ていた。
私は目を閉じて、しばらくして、また開けた。天井の梁は、やはり低かった。
第五章 二つの夜
1
1時20分に、小春が部屋へ戻ってきた。
私は眠っていなかった。妻が布団を抜け出したのには気づいていたが、水を飲みに行ったのだろうと思っていた。彼女は夜中に水を飲む。
障子が開いて、閉まった。
「片付けといたわ。あとはお願いね」
小春はそう言って、自分の布団の縁に腰を下ろした。
私は天井を見ていた。天井の梁を見たまま、いま自分が何を聞いたのかを考えていた。三度目である。三度目だからといって、慣れるということはない。
「……何を?」
「あの方」
彼女は掛け布団を膝の上に引き寄せた。
「古賀さん。お台所で」
私は起き上がった。速すぎて、肩を布団の縁に引っ掛けた。
「小春」
「なあに」
「今、何て言った?」
「古賀さんを片付けたと申し上げました」
彼女は私を見ていた。暗がりでも、その顔に何もないことは分かった。困った顔でも、後ろめたい顔でも、興奮した顔でもない。冷蔵庫の麦茶を作り足したと報告するときと、まったく同じ顔である。
「冗談だろう」
「冗談なわけないじゃない」
私は膝立ちになっていた。膝が震えていた。
「……何をした」
「鉄瓶で殴りました」
「後ろからか?」
「いいえ、前からです。ちゃんとお顔を見ました」
私の腹の底が冷たくなった。
「なんで」
「なんでって」
小春は少しだけ首を傾げた。
「あの方、お台所で、明日の朝の分に、お粉を入れてらしたのよ」
「粉?」
「白いお粉。紙に包んだのを持ってらして、少しずつ入れてらしたわ」
「何の粉だ」
「存じません」
彼女は膝の上で両手を重ねた。
「でもね、真悟さん。飲むものに、飲むものではないものを入れるでしょう。あれはいけません」
「小春」
「わたくし、声をかけたんです。それは召し上がるものではありませんでしょう、って。そうしたらあの方、振り返って、こちらをご覧になって」
「それで?」
「笑われたの」
小春は、そこで初めて、わずかに眉を寄せた。
「わたくし、あの笑い方がいけないと思いました」
「お前、自分が何をしたか分かってるのか」
「分かっております」
「人を殺したんだぞ!」
声が出た。出してから、慌てて口を押さえた。障子の外は静かだった。私は自分の心臓の音を聞いていた。
「そんなに大きな声を出さなくても」
「大きな声も出るだろう!」
呼吸が速くなっていた。吸っているのに、入ってこない。
「警察が来るんだぞ。明日の午後に。人が二人だ。二人死んでる家に、警察が来るんだ。そこにお前が」
「一人目は、たぶんあの方ですよ」
小春が言った。
私は止まった。
「……何だって?」
「昨日の朝、お串の向きが二本だけ違いましたでしょう。わたくし、申し上げましたけど」
「小春」
「あの方、お食事に手を入れる方でしたから」
彼女はそれ以上、何も足さなかった。
推理をしたわけではない。彼女は昨日の朝に見たことと、さっき見たことを、そのまま並べただけである。並べただけなのに、私の頭の中で二つの絵が繋がった。
古賀さんが、柏木さんの串に何かを入れた。そして今夜、また同じことをしていた。
だとすれば、妻が殴ったのは、柏木さんを殺した人間だということになる。
「……本当か?」
「わたくしは、お粉を入れているところしか見ておりません」
「粉が何かは分からないんだろう」
「はい」
「じゃあ、砂糖かもしれないだろう。薬かもしれないだろう」
「そうかもしれませんね」
「そうかもしれませんねって、お前」
「けれど、真悟さん」
小春は布団に入った。
「あの方が召し上がるのではないものに、あの方がお粉を入れていたことは、確かです」
彼女は掛け布団を肩まで上げた。
「わたくし、手が痛くなってしまいました。あとはお願いね。お肌に悪いので、もう寝ます」
「小春」
「おやすみなさい」
30秒もしないうちに、呼吸が規則正しくなった。
私は暗い部屋に、膝立ちのまま残された。膝を下ろして、座って、それから両手で顔を覆った。手が濡れていた。汗なのか、そうでないのかは分からなかった。
確かめなければならない。
もしかしたら、妻の言い間違いかもしれない。何かをひどく大袈裟に言っただけかもしれない。私は上着を羽織って、部屋を出た。
廊下は真っ暗だった。突き当たりの姿見のあたりだけが、わずかに明るかった。囲炉裏の間を横切る。火は落としてあり、灰がならしてある。厨房の暖簾まで14歩を数えて――数えている自分に気づいて、数えるのをやめた。
暖簾をくぐった。
豆電球が、ひとつ点いていた。
古賀さんは、流しと調理台の間の床に、うつ伏せに倒れていた。
私は暖簾の縁を掴んだ。掴んだ手が滑って、体が壁に当たった。当たった音が思ったより大きくて、私は口を押さえた。
頭が調理台のほうを向いている。右腕が体の下に入っている。シャツは昼と同じもので、上着は着ていない。後頭部の、耳の少し上のあたりに、髪がかたまっていた。額の生え際のあたりにも、暗い色のものがあった。
床に血があった。
私は膝をついた。ついてから、後ろへ下がった。下がって、流しの縁に背中をぶつけた。
胃の奥が持ち上がった。私は口を押さえて、そのまま20秒ほど動かなかった。
冗談ではなかった。
2
しばらく、私は流しの前に座り込んでいた。
腕時計を見た。1時27分だった。見てから、いま何時だったのかを忘れて、もう一度見た。同じだった。
立ち上がろうとして、膝が伸びなかった。私は流しの縁を掴んで、体を引き上げた。
まず、目的を決めなければならない。
この男は頭を割られている。これは動かない。誰が見ても、頭を割られた人間である。
ならば、割った人間がいることになる。それをどうにかしなければならない。
私は、しばらく厨房の壁を見ていた。
そして、思いついた。
茸に当たってふらついて、倒れて、頭を打ったことにする。
それだけだった。昨日、柏木さんは茸に当たって死んだ。この男も茸に当たった。当たって、ふらついて、倒れて、どこかに頭を打った。
そうであれば、誰も何もしていないことになる。誰も殴っていない。誰も殺していない。妻もいない。
私に思いつく道は、それだけだった。
調理台の上を見た。
紙が一枚あった。薬包紙だった。小さく畳まれていたものを開いた形で、真ん中がわずかに窪んでいる。白い粉が、その窪みの縁に残っていた。
その隣に、土瓶があった。蓋が外れて、横に置いてある。口の縁にも、同じ白いものが付いていた。
妻の言ったとおりだった。そこまでは、確かに、妻の言ったとおりだった。
私は薬包紙を畳んで、上着のポケットに入れた。これは使うつもりだった。
流しの中に、鉄瓶があった。
私はそれを取り出した。重かった。持ち上げたときに、底のほうで湯が動いた。まだ中身が入っていた。
蛇口をひねって、外側を洗った。底のあたりに何かが付いていたので、そこを重点的に洗った。指が震えて、一度、流しの底に落とした。
音が響いた。
私はそのまま動かなくなった。暖簾のほうを見た。30秒か、40秒か、そのまま息を止めていた。何も起こらなかった。
割れたら終わりです、と若女将は言っていた。私は鉄瓶を持ち上げて、底を見た。割れていなかった。それを確かめて、初めて息を吐いた。
洗い終わって、布巾で拭いた。
囲炉裏の間へ持っていって、自在鉤に掛けた。掛けてから、高さが違うことに気づいた。着いた日の夜、若女将は1段下げていた。私は1段下げた。
無くなれば、全員が気づく。この宿に鉄瓶は一つしかない。あるべき場所にあれば、誰も見ない。
厨房へ戻った。
土瓶を洗った。蓋も洗った。伏せて、水を切った。
なぜそうしたのかは、うまく言えない。縁に白いものが付いているものを、そのままにして帰るという選択肢が、私の中に存在しなかった。
調理台の上には、ほかに、乾物の袋の口が開いたものが二つと、小皿が一枚と、小さな匙が出ていた。
私はそれを片付けた。袋は口を折って、棚へ戻した。棚には同じような袋が並んでいたので、並びの間に入れた。小皿は洗って、伏せた。匙も洗った。
そして、床の血を拭いた。
拭きながら、変だと思った。
血が、広がっていない。引き伸ばされていた。濡れた布で一度拭いて、途中でやめたような形をしている。拭いた跡の先が、ぷつりと終わっていた。
妻が拭いたのだろうか。妻はそういうことをしない。彼女は片付けたと言ったら、それは殺したという意味で、床を拭くという意味ではない。
だが、他に誰がいる。
私は雑巾を絞り直して、その半端な跡を拭き取った。拭いてから、拭いたところだけが濡れて色が違うのが気になって、周りも拭いた。周りを拭くと、その周りが気になった。
私は厨房の床を、全部拭いた。
そこで自分がやっていることに気づいて、雑巾を持ったまま立ち上がった。
腕時計は2時2分を指していた。
35分を、洗い物に使っていた。
そして、床を見た。
血の跡が、どこにもなかった。
私はしばらく、そこに立っていた。
頭から血を出した人間が、血の跡のない床に倒れている。倒れて頭を打ったのなら、打ったところに血が残る。残っていなければならない。
自分で消したのだ。
私は雑巾を流しに放り込んで、両手で顔をこすった。
厨房は使えない。
3
囲炉裏の間しかなかった。
囲炉裏には石の縁がある。角のある石が、四辺に組んである。あそこなら、倒れて頭を打ったことになる。
そして、あそこは昨日の朝、柏木さんが茸に当たった場所である。同じ場所で、同じものに当たって、同じように死ぬ。
私はそう決めて、男の脇の下に腕を入れた。
抱えられなかった。
肩の下と膝の下に腕を入れて、持ち上げようとした。腰から下が上がらなかった。もう一度やって、5センチほど浮いて、落ちた。落ちたときの音が、床から天井へ抜けた。
私は座り込んだ。息が上がっていた。吸っても入ってこない感じが、また来ていた。
70キロか、80キロか。分からない。ただ、生きている人間より重かった。生きている人間は、抱えられたときに自分でいくらか協力する。この男はしなかった。
土間へ降りた。
莚が三枚、丸めて隅に立てかけてある。着いた日に見たものである。私はいちばん上のものを取って、広げた。埃が立った。喉に入って、咳が出そうになった。両手で口を押さえて、咳を殺した。殺しながら、涙が出た。
莚を床に敷いて、男を横に転がして載せた。転がすのは、持ち上げるよりずっと簡単だった。
莚の端を両手で掴んで、引いた。
動いた。
床が板張りなので、滑る。厨房から暖簾を抜けて、囲炉裏の間へ入る。14歩の距離を、私は20回ほどに分けて引いた。一回引くごとに、廊下のほうを見た。
途中で、姿見のことを思い出した。
思い出さなければよかった。廊下の突き当たりに、姿見がある。暗いので、そこに何が映っているかは分からない。分からないのに、私は見た。
見えた。
莚の端を握って腰を落としている男と、莚に載っている男が、鏡の中にいた。
私は手を離した。
離してから、その場にしゃがみ込んだ。しゃがんで、両手で頭を抱えた。何秒そうしていたかは分からない。腕時計を見る余裕がなかった。
立ち上がって、厨房へ戻って、布巾を一枚取ってきた。姿見のところまで行って、上の枠に布巾を掛けた。鏡の面が隠れるように、二度、位置を直した。
工作ではない。あれを見ながら作業を続けることが、できなかっただけである。
囲炉裏の間へ戻った。
莚を引いて、あと3歩というところまで来たときだった。
廊下の奥で、音がした。
板が鳴った。一度だけ、短く。
私は動きを止めた。
莚の端を握ったまま、囲炉裏の間の真ん中で、中腰で止まっていた。膝が震えはじめても、動かせなかった。歯が鳴りそうになったので、奥歯を噛んだ。
音は続かなかった。
だが、続かないということは、その人間が立ち止まっているということでもある。私と同じように、暗い廊下のどこかで、動かずにいるということでもある。
昨日の朝、串に何かを入れた人間が、この家にいる。
妻はそれがこの男だと言った。だが、粉が何かは分からないと言った。
分からないのだ。
4分間、私は中腰でいた。腕時計を確かめたので、4分だと分かる。2時19分から、2時23分までだった。
それから、廊下の奥で、また板が鳴った。今度は遠ざかる音だった。
私は莚を引いた。残り3歩を引いた。
囲炉裏のそばに男を下ろして、莚を抜いた。
そして、床に目を落とした。
莚を引いた跡が、厨房の暖簾から囲炉裏まで、うっすらと残っていた。埃と、湿ったものが混じった跡だった。
私は雑巾を取りに行った。拭いた。3分ほど拭いて、腕が上がらなくなった。板の目に沿って染みているので、拭いても薄くなるだけで、消えない。
私は途中でやめた。
囲炉裏の側の、半分ほどが残った。
4
男を仰向けにした。
囲炉裏の南側――昨日の朝、この男が座っていた辺である。私は男の頭を、石の縁のほうへ向けた。
後頭部の、耳の少し上。そこが陥没している。そこが縁の角に当たっていれば、この男は倒れて頭を打ったことになる。
私は男の頭を両手で持ち上げて、縁に載せた。
石は冷たかった。
手を離した。
頭が、ころりと横へ転がって、板の間に落ちた。
私はもう一度持ち上げて、載せ直した。角度をつけた。手を離した。
また落ちた。
三度目に、私は男の首の下に自分の左手を入れたまま、右手で頭の向きを合わせた。傷のところを、石の角に当てた。合った。
左手を抜いた。
落ちた。
囲炉裏の石の縁は、角が丸い。何十年も人が触ってきた石なので、角が取れて、なめらかになっている。載せたものは、そこに留まらない。
私は膝をついて、両手を膝の上に置いた。
それから、四度目をやった。
今度は、押しつけた。
音がした。
短く、鈍い音だった。私は自分の手を離して、後ろへ下がった。下がって、板の間に尻をついた。
男の頭は、石の縁に載っていた。留まっていた。
私はそれを見ていた。しばらく見て、それから顔をそむけた。
腕時計は2時49分だった。
次は、粉だった。
上着のポケットから薬包紙を出した。白い粉が、窪みの縁にわずかに残っている。指で摘まめる量ではない。私は紙を折って、粉を一箇所に集めた。
集めてから、その粉を口に入れなければならないことに気づいた。
男の顎に手をかけて、口を開けた。開いた。私は紙の端を口の中へ入れて、傾けた。
粉が落ちた。
口の中に落ちて、そこに留まった。留まっただけだった。
人間は、口の中に何か入ると飲み込む。この男は飲み込まなかった。
顎を持ち上げて口を閉じさせ、喉のあたりを撫でてみた。動物にはこれで薬を飲ませると聞いたことがある。何も起こらなかった。
口を開けると、粉は舌の上に載ったままだった。そして、口を開けた拍子に、半分ほどが下唇の上へこぼれた。
私はそれを指で拭った。拭った指を、自分の浴衣で拭いた。
もう一度やった。同じことが起きた。
三度目にやったときには、粉は口の中と、唇と、顎と、その下の首のあたりに、まんべんなく付いていた。
私は手を止めた。
男の顔の下半分が、白くなっていた。
指先が、ぴりぴりしていた。私は厨房へ行って、手を洗った。石鹸で二度洗った。口をゆすいだ。ゆすいでから、なぜ口をゆすいでいるのか分からなくなって、もう一度ゆすいだ。
囲炉裏の間へ戻った。
串を刺さなければならない。
何を食べて当たったのか、それが分かるようにしておかなければ、話が繋がらない。串は、囲炉裏の間の隅にまとめてあった。昨日の朝の残りである。
私は一本取って、男の手に握らせようとした。
指が閉じなかった。親指と人差し指の間に挟んで、外側から押さえてみた。手を離すと、串が落ちた。三度落ちた。三度目に、私は串を床に叩きつけそうになって、その手を止めた。
止めて、深く息をした。
私は諦めて、串を灰に刺した。
男の頭の側の灰に、まっすぐ刺した。それから、男の右手を持ち上げて、串の根元の近くの灰の上に置いた。手を伸ばした格好になった。
刺した串を見た。
昨日の朝、山際さんは「節を手前に」と言っていた。私はそれを覚えていた。覚えていたが、手前というのは誰から見て手前なのか、そこで分からなくなった。
食べる人から見て手前なのか。刺す人から見て手前なのか。
私は男の側に回って、そちらから見て手前になるように刺し直した。それから立ち上がって、囲炉裏の反対側から見た。節は、向こう側を向いていた。
もう一度回って刺し直そうかと考えた。考えて、やめた。時間がなかった。
そして、そこで気づいた。
串が、一本も食べられていない。
昨日の朝の残りである。焼いてあるが、誰も口をつけていない。当たったのなら、食べていなければおかしい。食べていないものに当たる人間はいない。
私は男の顔を見た。
噛ませることはできない。口を開けて、閉じさせて、それだけである。歯形はつかない。つけようとすれば、顎をどうにかしなければならない。
私は串を一本、灰から抜いた。
冷えていた。茸と、鶏と、銀杏が刺してある。
指でつまんで、上から順に外した。串の先のほうの三つを外して、串は持ったままにした。串を口に入れるわけにはいかない。歯の跡や、唾のようなものが残る。それくらいのことは、私にも分かった。
外したものを、手のひらに載せた。
置いていく場所がなかった。灰に埋めれば出てくる。ポケットに入れれば残る。窓の外は暗くて、どこへ落ちるか分からない。
食べた。
冷えた鶏は固く、銀杏は粉のようだった。噛みながら、私は自分が何をしているのかを考えないようにした。
半分になった串を、灰に刺し直した。男の目の前の、さっき刺したものの隣である。それから、男の右手の指先を持ち上げて、串の軸に押しつけた。指紋というのは、そういうふうに付くものだと思った。
飲み込んでから、私は動きを止めた。
昨日の朝、この串のどれかに毒が入っていた。
入っていたのは柏木さんの前の一本で、それはもう無い。抜かれて、警察が持っていくために取ってある。それは知っている。知っているが、そのことを思い出すのと、いま自分が飲み込んだものが胃の中にあることとは、別だった。
私は口の中に指を入れかけて、やめた。
やめて、その場にしゃがんだ。
最後に、口を閉じさせた。
開いたままでは、いかにも不自然だった。私は顎の下に手を当てて、上へ押した。
閉じた。
閉じたが、口の両端が上がった。
私は指を離した。上がったままだった。もう一度押さえた。押さえている間は普通に見えた。離すと、また上がった。
体が固くなりはじめていた。
3分間、押さえていた。腕が痺れてきた。押さえながら、この男の顔をこんなに近くで見ているという事実に、途中で耐えられなくなった。
離した。
灰と粉で白くなった顔が、笑っていた。
5
3時20分に、私は古賀さんの部屋へ行った。
理由は一つだった。
昨日の夜、この男は妻を見ていた。廊下で見ていた。何か書き残していないかどうかを、確かめなければならなかった。
障子を開けた。
畳の六畳で、布団が敷いてあった。掛け布団がめくれている。枕元に眼鏡と、腕時計と、薬の袋がひとつ。座卓の上に湯呑が二つ。押し入れの前に、旅行鞄が開いたまま置いてあった。
私は座卓の上から見た。何もなかった。
鞄の中を見た。着替えと、下着と、書類の束と、名刺入れ。書類は伝票の綴りで、日付と、数量と、判子が並んでいた。私には読めなかった。
上着が衣紋掛(えもんか)けに掛かっていた。
内ポケットを探った。手帳があった。
黒い表紙に、輪ゴムが掛かっている。私は輪ゴムを外して、開いた。
細かい字が並んでいた。日付と、店の名前と、数字。ほとんどが仕事のことだった。ところどころ、意味の分からない略語があった。
私は後ろから前へめくった。指が滑って、二度、同じ頁を戻した。
妻の名前はなかった。「雀部」もなかった。「奥さん」もなかった。
11月1日のところに、宿の名前と、時刻と、人の名前がいくつか書いてあった。「柏」という字があった。丸で囲んであった。
11月2日のところは、白紙だった。
いや、白紙ではなかった。2日の頁の前に、切り取られた跡があった。綴じ目のところに、細い紙の縁が残っている。一枚だけ、抜かれていた。
私は手帳を閉じて、輪ゴムを掛けて、内ポケットに戻した。
戻してから、部屋を見回した。
布団がめくれている。掛け布団の端が畳の上に垂れている。座卓の湯呑が二つとも、縁の欠けたほうを手前にして置いてある。押し入れの襖が3センチほど開いている。鞄が口を開けたままになっている。
私は布団を畳んだ。
畳んでから、自分が何をしたのか分からなくなった。だが畳んでしまったものを敷き直すのも変だった。私は掛け布団も畳んで、二つ重ねて、押し入れの前に寄せた。襖を閉めた。
湯呑を盆に載せた。座卓を布巾で拭いた。
鞄の中身を戻して、蓋を閉めた。留め具が固かったので、両手で押した。
スリッパが二つ、部屋の隅にばらばらに転がっていたので、揃えた。
そのとき、廊下で音がした。
板が鳴った。今度は近かった。廊下の、この部屋の前あたりだった。
私は座ったまま動かなかった。
障子は閉めてあった。障子の紙の向こうは暗い。誰かが立っていれば、影が映るはずだった。
映らなかった。
音も、それきりしなかった。
私は待った。1分待って、まだ動けなかった。5分待った。心臓の音が耳の中で鳴っていて、それが収まるまで待った。
4時になっていた。
障子を細く開けた。
廊下には誰もいなかった。突き当たりの姿見に、布巾が掛かったままだった。
私は部屋を出て、障子を閉めた。閉めるときに、桟のところに指の跡が付いた。私は袖で拭いた。
拭いてから、もう一度閉め直そうとして、手を離した。障子は5センチほど開いたままになった。私は廊下の暗さのほうに気を取られていて、それに気づかなかった。
拭いてから、廊下の柱に手をついたことを思い出した。
その柱を拭いた。
拭くと、拭いたところだけが違って見えた。私はその柱を上から下まで拭いた。次の柱も拭いた。鴨居に手をかけた覚えがあったので、鴨居も拭いた。厨房の暖簾を掛ける棒も拭いた。電話の受話器を拭いた。玄関の框も拭いた。
囲炉裏の間は、通るだけにした。あちらは見ないようにしていた。
途中で、自分が何本目の柱を拭いているのか分からなくなった。分からなくなったので、最初から数え直した。
数え直しているうちに、自分が泣いていることに気づいた。
4時40分に、私は戸締まりの前に立っていた。
雑巾をゆすいだ水を捨てるために、勝手口を開けていた。桟を上げて、外へ出て、水を捨てた。外は暗く、息が白かった。外の空気を吸ったとき、私は初めて、自分がずっと浅い息をしていたことに気づいた。
渡り廊下の戸も、一度開けていた。離れの、湯の手前の部屋には柏木さんが寝かされている。そこへ運ぶという考えが一瞬だけ浮かんで、30歩の渡り廊下を見て、消えた。閂を上げたまま、私はそれを2時間近く放っておいた。冷たい風が廊下に入っているのに、閉めに戻ることを思いつかなかった。
蔵も見た。柱の釘から鍵を取って、開けて、中を覗いた。中は暗くて、甕が並んでいるのが見えた。私はすぐに閉めた。
戻さなければならなかった。
だが、どういう順で戻せばいいのかを、私は一つしか知らなかった。
勝手口の桟。渡り廊下の閂。玄関の閂。蔵の鍵。
惣一さんは毎晩その順で回る。蛍さんが言っていた。3年になるが一度も変わったことがない、と。
私はその順で回った。
勝手口の桟を落とした。廊下を通って、渡り廊下の戸に閂を落とした。土間へ降りて、玄関の閂を確かめた。玄関は開けていなかったので、落ちたままだった。それでも一度、手をかけて確かめた。
最後に、蔵の鍵を掛けて、柱の釘に戻した。
戻してから、釘の位置が少しずれている気がして、直した。
腕時計は4時52分だった。
私は部屋へ戻った。布団に入って、目を閉じた。
閉じて、5分もしないうちに起き上がった。
串の向きが気になっていた。
もう一度だけ見て、それから寝ようと思った。私は廊下へ出て、囲炉裏の間へ入った。
男は仰向けに倒れていた。
後頭部が石の縁に載っていて、顔の下半分が白く、口の端が上がっていた。目の前の灰に、串が二本刺さっていた。一本は向こう向きで、一本は半分食べてある。
そこまでは、私が置いたとおりだった。
自在鉤に、鉄瓶がなかった。
私は立ったまま、鉤を見た。
竹の鉤が、天井から下がっている。その先の輪に、何も掛かっていない。
私は膝をついて、囲炉裏の周りを見た。灰の上にも、板の間にも、土間にも、鉄瓶はなかった。厨房へ行った。流しを見た。棚を見た。無かった。
私は自分の記憶を疑った。
疑ったが、疑いようがなかった。私は3時間前に、あれを洗って、布巾で拭いて、自在鉤に掛けている。高さを1段下げてもいる。若女将がそうしていたからである。
無くなれば全員が気づく。この宿に鉄瓶は一つしかない。だから戻したのだ。
その鉄瓶が無い。
私は囲炉裏の間の真ん中に立って、廊下のほうを見た。
暗かった。
妻は、あの男が柏木さんを殺したのだろうと言った。私はそれを信じたかった。信じられれば、この5時間は、少なくとも意味の分かるものになる。
だが、鉄瓶が無い。
私が離れていたあいだに、この部屋へ来た人間がいる。来て、鉄瓶を持っていった人間がいる。その人間は、ここに倒れているこの男を見ている。石に載った頭も、白い顔も、串も、見ている。
そして、誰にも何も言っていない。
そんなことをする人間が、この家に、私のほかにもう一人いる。
私は動けなかった。
外が白みはじめていた。厨房の窓の向こうが、藍色になっていた。誰かが起きる。もうすぐ起きる。
私は部屋へ戻った。
布団に入って、天井を見た。小春は寝ていた。呼吸が規則正しかった。
私は目を閉じた。閉じても、瞼の裏が明るかった。胃のあたりが、重かった。
6時50分に、悲鳴が聞こえた。
第六章 戸締まり
1
悲鳴で全員が起きた。
私は廊下へ出るとき、自分がどういう顔をしていればいいのかを考えていた。考えている自分に気づいて、考えるのをやめた。
囲炉裏の間には、すでに何人か立っていた。
蛍さんが土間の框のところに座り込んでいた。両手で口を押さえている。その横に千鶴さんが立っていた。山際さんは板の間の端で足を止めていた。戸倉さんが後ろから入ってきて、私の肩に一度手を置いてから前へ出た。
古賀さんは、仰向けに倒れていた。
囲炉裏の南側、昨日の朝、この人が座っていた辺である。後頭部が石の縁に載っていて、体は板の間に伸びていた。右手が灰の上に置かれている。
顔の下半分が、白かった。
そして、口の端が上がっていた。
目の前の灰に、串が二本刺さっていた。一本は向こう向きに刺さっている。もう一本は、半分ほど食べてあった。
誰も何も言わなかった。
「……何ですか、これは」
最初に声を出したのは山際さんだった。
「動かさないでください」
戸倉さんが言った。
「触らないほうがいい。写真を撮って、警察に伝えます」
結城さんが廊下から入ってきた。彼は入口で立ち止まって、30秒ほど動かなかった。それから、部屋の中を歩き出した。囲炉裏の周りを一周して、板の間の端を見て、厨房の暖簾のところまで行って、戻ってきた。
「面白い」
彼は言った。
蛍さんが顔を上げた。
「先生」
「失礼。適切な言葉ではありませんでした」
千鶴さんが厨房へ入って、電話のところへ行った。私は土間から、彼女の背中を見ていた。
彼女は落ち着いていた。
昨日、柏木さんが死んだときのほうが、彼女は動揺していた。今朝の彼女は、番号を押し間違えなかった。
警察は午後に入るという返事だった。開通は昼過ぎ、そこから車で40分。それまで現場を保存すること。写真を撮ること。触れたものと時刻を記録すること。昨日と同じ指示だった。
結城さんが手を挙げた。
「記録は私がやります。昨日もやりました」
「お願いします」
千鶴さんが言った。
戸倉さんは、囲炉裏から離れたところに立って、部屋の中を見ていた。
「若女将さん。この部屋は、昨夜どうなっていましたか?」
「火は落としました。灰はならしました。11時前です」
「その後、こちらへ来られた方は?」
千鶴さんが答えなかった。答えるまでに、1秒か2秒あった。
「……存じません」
「戸締まりは」
「祖父が11時に回りました」
惣一さんが、土間の隅に立っていた。長靴を履いていた。彼は誰とも目を合わせずに、勝手口を見て、それから廊下のほうを見た。
「全部、閉まっとる」
老人が言った。
「四つとも、閉まっとります」
蛍さんが立ち上がって、廊下のほうへ2歩進んで、そこで止まった。
「あの」
「はい」
「姿見に、布巾が掛かってます」
全員が廊下のほうを見た。
突き当たりの姿見の上枠に、白い布巾が掛かって、鏡の面を隠していた。
「誰が掛けたんですか?」
蛍さんが訊いた。誰も答えなかった。
山際さんが厨房へ入った。すぐに出てきた。
「土瓶が洗って伏せてあります。昨日の夜、私が出しといたやつです」
「洗った覚えは?」
「ないです」
そして、千鶴さんが自在鉤を見上げた。
「鉄瓶がありません」
結城さんが手帳を開いた。
「7時12分。若女将さんの発言。鉄瓶が無い」
彼は書きながら、囲炉裏の周りをもう一周した。
「皆さん。この部屋には、説明のつかないものが六つあります。頭の位置、顔の白いもの、灰に刺さった串、半分食べられた串、伏せられた土瓶、そして無い鉄瓶。廊下の鏡を入れれば七つです」
彼は顔を上げた。
「私は今日、たいへんな一日になると思います」
蛍さんが、廊下のほうを見たまま言った。
「あの、古賀さんのお部屋、障子が開いてます」
「開いている?」
「少しだけ。それで、通るときに見えたんですけど……お布団が畳んであって、お茶碗も下げてあります。わたし、まだお部屋には入ってません」
結城さんが手帳に何か書いた。それから、その頁を長く見ていた。
2
朝食は出なかった。
正確には、千鶴さんが出そうとして、誰も食べなかった。小春だけが握り飯を二つ食べた。彼女は厨房の上がり框に腰かけて食べていた。
私は食べなかった。食べられなかった。胃のあたりが重く、指先はまだ痺れていた。
囲炉裏の間には入れないので、皆は廊下と土間に散っていた。結城さんだけが、囲炉裏の間の入口に座り込んで、中を見ていた。
9時前に、彼が立ち上がった。
「山際さん。ひとつ伺ってよろしいですか」
「はい」
「昨日の朝、串を刺されたのはあなたですね」
「そうです」
「向きは」
「節を手前です。全部そうします」
「例外は」
「ありません」
「盆から取って、刺すまでの間に、向きを変えることは?」
「ないです。刺すときの手つきで決まりますから、変えようがないです」
結城さんは頷いて、手帳をめくった。前のほうへ、かなりめくった。
「昨日の朝、7時47分」
彼は読み上げた。
「雀部夫人の発言。『この二本、向きが違うわ』」
蛍さんが「あ」と言った。
「私はこれを、書いてはいましたが、聞いてはいませんでした。書くというのはそういうことです。理解していなくても残ります」
彼は囲炉裏を指した。
「今朝、灰に串が刺さっています。あれも、向こうを向いている。それで思い出しました」
「先生」
戸倉さんが言った。
「あれは、昨日の残りの串でしょう」
「そうです。だから、あれ自体は関係ありません。関係あるのは、私の手帳のほうです」
彼は座り直した。
「昨日の朝、八本の串が、全部同じ向きに刺してあった。そのうち二本だけが、逆を向いていた。二本です。一本ではない。──これは何を意味しますか」
誰も答えなかった。
「一本だけなら、誰かが回しただけかもしれない。二本というのは、入れ替えたということです」
蛍さんが口を開けた。
「その二本は、どこの二本でしたか。雀部さん、覚えておられますか?」
私は答えたくなかった。だが、覚えていた。
「古賀さんの前と、柏木さんの前です」
「隣同士ですね」
「はい」
「そして、あの朝、席を立った方は?」
「……古賀さんです」
「どこへ行かれました?」
「電話をかけて、玄関から外を見ていました」
「戻ってこられたとき、何かされましたか」
私は黙っていた。
「雀部さん」
「座る前に、灰の上に手を伸ばしていました」
「何をしていると思われましたか」
「焼けすぎているのを直しているのだと」
「そう見えますね。私もそう見たと思います」
結城さんは、囲炉裏の灰を見た。
「では、順に置きます。串は八本、全部同じ向きで刺された。これは山際さんが証言された。古賀さんが席を立ち、戻ってきて、灰の上に手を伸ばした。これは雀部さんが見ておられる。その直後、二本だけが逆を向いていた。これは雀部夫人が言われ、私の手帳に残っている。逆を向いていたのは、古賀さんの前と柏木さんの前です」
彼は指を三本立てて、一本ずつ折った。
「古賀さんが、自分の串と柏木さんの串を入れ替えた」
千鶴さんが、廊下の柱に手をついた。
「先生」
戸倉さんが言った。
「入れ替えたとして、なぜそれが毒になるんですか。毒の入った串を、自分の前に置いていたことになりますが」
「そうです。自分の前に置いていたんです」
「なぜ」
「自分の串になら、いくら触っても誰も気にしないからですよ」
結城さんは、自分の上着の内ポケットを叩いた。
「古賀さんは、朝、ここから小さな筒を出して、自分の串に何かを振りました。皆さんの前で。堂々と。そして柏木さんに『あんたもどうだ』と勧めた。柏木さんは断られた」
「……断られました」
蛍さんが言った。
「断られることを見込んでおられたのでしょう。断られれば、柏木さんは古賀さんの手から何も受け取っていないことになる。全員がそれを覚えます」
山際さんが厨房の柱に寄りかかった。
「そのあと、席を立ち、戻り、二本を入れ替えた。毒の入った串は柏木さんの前へ行き、柏木さんはそれを自分の手で取って、自分で回して、自分で食べた」
「先生」
千鶴さんが言った。声が掠れていた。
「はい」
「うちの茸では、なかったんですね」
「違います」
結城さんは、彼女のほうを見なかった。
「昨日、私が申し上げたことは、全部間違いでした」
千鶴さんは柱から手を離した。離して、その手を前掛けの上に置いた。何も掴んでいなかった。
そして結城さんは、手帳をめくって、次の頁を開いた。
「さて。では古賀さんは、誰に殺されたのか」
3
結城さんは、囲炉裏の間の入口に立った。
中には入らなかった。敷居の手前で、板の間を指した。
「三つ、動かせない事実を置きます」
彼は手帳を読んだ。
「一つ。0時15分。廊下にて古賀氏を見る。右手を壁につき、壁づたいに歩行。上着なし。声かけず。──私は厠へ立ったところでした」
私は自分の膝を見た。
「雀部さんも、お会いになったのでは?」
「……0時10分ごろに、すれ違いました」
「様子は」
「壁に手をついていました。酒の匂いはしませんでした」
「二つ。厨房の暖簾から囲炉裏まで、床に跡が残っています。何かを引きずった跡です。ただし、途切れている」
彼は板の間の中央を指した。
「三つ。柱にも、鴨居にも、敷居にも、手をついた跡が一つもない」
彼は一同を見回した。
「では、消していきます」
一つ目。殴られて死んだのではない。
「頭の傷を見れば、誰でもそう思います。私も最初はそう思いました。しかし、殴られて死んだのなら、その場で死にます。厨房で。倒れたところで」
彼は手帳を掲げた。
「ところが彼は、0時15分に歩いていた。私が見ています。雀部さんも見ておられる。あの時点で、彼はすでに殴られていて、そして生きていた」
戸倉さんが頷いた。
「頭を打った人間が、しばらくしてから立って歩くことは、あります」
「ありがとうございます。──では、二度目に殴った者がいるのか」
彼は少し間を置いた。
「いたとしましょう。厨房で、もう一度殴った。それは構いません。しかし、その者は、なぜ彼を囲炉裏まで連れてきたのですか」
蛍さんが「あ」と言った。
「殺した相手を、14歩運ぶ理由が、私にはひとつも思いつかない。運べば跡が残る。時間もかかる。危険も増える。──それでも運ぶとしたら、そこに置きたい理由があったということです。何ですか、それは」
誰も答えなかった。
二つ目。偽装ではない。
「次に、こう考える方がおられるでしょう。誰かが殴り殺して、病死や中毒に見せかけようとしたのだ、と。口に粉が付いているのは、そのためだ、と」
彼は膝をついて、板の間の高さから囲炉裏を見た。
「私も、それを30分ほど考えました。──成立しません」
「なぜです」
山際さんが訊いた。
「偽装するなら、まず頭の傷を隠すはずだからです」
結城さんは立ち上がった。
「口に粉を入れるのは、手間です。時間もかかる。それだけの手間をかけられる人間が、いちばん目立つものを、そのままにしておくでしょうか。しておきません。布をかぶせるなり、傷が見えない向きに寝かせるなり、何かする。
ところが、この方の傷は、いちばんよく見えるところに載っています。石の縁の上です。隠すどころか、こちらへ差し出してある。
偽装をする人間は、こういう置き方をしません。ゆえに、これは偽装ではない」
私は柱に手をついた。ついてから、離した。
三つ目。誰も運んでいない。
「では、跡は何なのか。──誰かが運んだ跡でしょうか」
彼は柱に手をついた。
「人ひとり抱えて14歩、一度も体を支えずに歩ける人間はいません。私でも無理です。まして──失礼ながら、この家の方々は、みな私より小柄でいらっしゃる。抱えれば、必ずどこかに手をつく。柱、鴨居、敷居。手の跡が残ります」
彼は柱を上から下まで見た。
「跡がありません」
「拭いたのでは」
戸倉さんが言った。
「拭けば、そこだけ艶が違います。先生、触ってみてください」
戸倉さんが柱を撫でた。
「この家は、どこもかしこも、同じように光っている。一箇所だけ拭いた跡が、どこにもないんです」
戸倉さんは、柱に顔を近づけて、それから何も言わなかった。
「そして、跡の途切れ方です」
結城さんは板の間の中央にしゃがんだ。
「引きずられた荷物は、途中で休みません。引く人間は休みますが、そのとき荷物は床についたままです。跡は連続する。──ところがこの跡は、二度、途切れている」
「では、何ですか」
山際さんが訊いた。
「這った跡です。這う人間は休みます。休むときは、体を持ち上げるのではなく、その場に伏せる。伏せているところは、こすれない」
彼は立ち上がった。
「彼は、自分で来たのです」
囲炉裏の間が静かになった。蛍さんが千鶴さんの袖を掴んでいた。
「先生」
小春が言った。
私は自分の心臓が止まるのを感じた。
彼女は厨房の上がり框に腰かけたまま、両手を膝の上に置いていた。
「でも、お台所で倒れていらしたときは、頭が調理台のほうを向いていましたよ」
全員が彼女を見た。
「小春」
私は言った。何を言おうとしたのかは、自分でも分からない。
「それは違いますよ、奥様!」
結城さんが、遮った。
彼は片手を挙げて、囲炉裏の間から廊下のほうへ大股で2歩出てきた。
「今のは、たいへん重要な誤りです。皆さんも、ぜひ聞いてください」
蛍さんが「はあ」と言った。
「奥様は、床の跡をご覧になった。そうですね?」
「見ました」
「跡は、厨房から囲炉裏へ向かっている。そして囲炉裏の側で終わっている。──つまり、頭は囲炉裏のほうを向いていた。這う人間は、頭から進みますから」
「そうですね」
「ということは、厨房にいたとき、彼の頭は暖簾のほうを向いていたはずです。調理台ではありません。逆です」
小春は首をわずかに傾げた。
「そうかしら」
「そうです。奥様は、跡をご覧になって、それから頭の中で厨房の絵を作られた。作った絵のほうが、記憶より強くなったんです」
彼は手帳を掲げた。
「私が毎晩これを書いているのは、そのためですよ。人間の記憶は、放っておくと物語になります。奥様のは、まだ半日です。半日でこうなる」
「そう」
「はい」
「勉強になりました」
「恐縮です」
小春は握り飯の最後のひとかけを口に入れた。
蛍さんが「奥様、すごいですね」と言った。何がすごいのかは分からなかった。
私は自分の呼吸を数えていた。数えていないと、息の仕方が分からなくなりそうだった。
四つ目。では、なぜ死んだのか。
「ここからが本題です」
結城さんは囲炉裏の間へ戻った。
「彼は自分で這ってきて、自分の席に着いた。粉を含み、串を刺し、一本食べた。──なぜ、そんなことをしたのか」
彼は一同を見回した。
「殴られたからですよ」
「殴られたから、死ぬんですか」
蛍さんが訊いた。
「考えてみてください、蛍さん。柏木さんを殺した男が、その夜、誰かに背後から殴られた。目を覚ましても、誰にやられたのか分からない。顔も見ていない」
彼は指を一本立てた。
「その男が考えることは、ひとつしかありません。知られた、と」
千鶴さんが、動かなくなった。
「この家に、自分が殺したことを知っている人間がいる。誰かは分からない。話しかけてくる者もいない。逃げる道は落石で塞がっている。──そして、朝には警察が来る」
彼は部屋の外を指した。
「古賀さんのお部屋です。障子が5センチほど開いていました。中は、布団が畳んである。湯呑が下げてある。鞄が閉じている。──蛍さん、あなたは入っていませんね?」
「入ってません」
「では、彼が自分で畳んだ。人は、また寝る部屋の布団を畳みません。もう戻らないと決めた人間の部屋です」
蛍さんが両手で口を押さえた。
「彼は自室で身の回りを片付け、それから、ここへ来た。──柏木さんを殺した席へ」
結城さんは、灰に刺さった二本の串を指した。
「串を刺し、粉を口に含み、そして一本、食べている。あの朝、彼が柏木さんにしたことを、もう一度、自分に向けてやってみせたのです」
戸倉さんが手を挙げた。
「先生。粉を口に含んだのなら、飲み下した形跡がないのは妙ですが」
「飲み下せなかったのですよ。だから顔に残った」
「……いや、そういうことでは」
「先生。人は死ぬ間際に、いちばん重いものへ帰ります。切られた菌糸が、それでも中心へ向かうように」
戸倉さんは、しばらく口を開けていた。それから、閉じた。
蛍さんが小さく「はあ……」と言った。山際さんが腕を組んだ。千鶴さんは囲炉裏を見たままだった。
誰も、反論しなかった。
私も、しなかった。
「これは、自白です」
結城さんが言った。
「言葉ではない自白ですが、自白です。──彼は、自分で自分を裁いた」
そこで彼は、少し首を傾げた。
「……しかし、妙ですね」
「何がですか」
戸倉さんが訊いた。
「串があって、粉があって、席に着いている。──まるで、誰かに食べさせてもらったように見える」
戸倉さんは、囲炉裏を見た。
「そう見えますな」
二人とも、それ以上は言わなかった。
4
昼前に、外で音がした。
重機の音だった。谷を上がってくる音が、少しずつ大きくなった。惣一さんが土間に降りて、長靴を履いた。
「あと2時間くらいですね」
蛍さんが言った。誰も答えなかった。
結城さんは、まだ囲炉裏の間にいた。彼は廊下と土間を行ったり来たりして、四つの戸を順に見ていた。
「若女将さん」
「はい」
「昨夜、戸締まりをされたのは惣一さんですね」
「はい。11時です」
「その後、どなたか外へ出られましたか」
「存じません」
「では、今朝の状態を確認します。勝手口の桟は落ちていた。渡り廊下の戸は閂が落ちていた。玄関の閂も落ちていた。蔵は施錠され、鍵は柱の釘に掛かっていた。これでよろしいですね」
「はい」
「四つとも、内側から閉まっていた」
結城さんは廊下の突き当たりまで歩いて、姿見の前に立った。
布巾はまだ掛かっていた。
「そして、これです」
彼は布巾に触れずに、指で示した。
「鏡が伏せてある。──死者の出た家で鏡を覆うのは、古い作法です。外から来た者は、鏡を伏せません。伏せるのは、その家の者です」
蛍さんが「うち、そんなことしませんけど」と言った。
「蛍さんはされないでしょう。若い方はご存じない。しかしこの家には、ご存じの方がおられる」
彼は土間の惣一さんのほうを見た。惣一さんは長靴の紐を結んでいた。
「戻ります」
結城さんは廊下を歩いて、囲炉裏の間へ戻った。
「四つの戸が内から閉まっていて、外から来た者がいないのなら、この件に関わった人間は、この家の中にいます。これはよろしいですね」
誰も反対しなかった。
「では、その人物は、どういう人物か。──戸を閉めて回った人物です」
彼は指を四本立てた。
「蛍さん。惣一さんの戸締まりの順番は、決まっていますか?」
「決まってます。勝手口、渡り廊下、玄関、蔵です」
「変わったことは」
「一度もないです。わたし、最初の頃に玄関から先に締めちゃって、あとで全部やり直されました」
「やり直された」
「何も言われずに」
結城さんは頷いた。
「今朝、四つとも、その順番どおりに閉まっていました。桟が落ち、閂が落ち、閂が落ち、鍵が釘に戻っている。──これは、たいへんなことですよ」
「たいへん、ですか」
山際さんが言った。
「あの夜、この家で人が死んでいるあいだに、戸締まりをして回った人間がいるということです。外から来た者は、戸を閉めて帰りません。閉めて帰るのは、明日もここで暮らす人間だけです。戸締まりというのは、住む者の作法です」
千鶴さんが囲炉裏を見ていた。
「そして、もう一つ」
結城さんは自在鉤を指した。
「鉄瓶が無い」
彼は鉤の先の輪に、指を差し入れた。
「殴った物でしょう。囲炉裏端で、頭を殴れて、手に取れる重さがあるものは、これしかない。──では、なぜ持ち去ったのか」
「捨てるためでしょう」
蛍さんが言った。
「そう。しかし、ここが問題です。捨てれば、無くなったことが分かってしまう。この宿には鉄瓶が一つしかない。無ければ、朝、必ず誰かが気づく。現に、今朝いちばんに気づかれたのは若女将さんです」
千鶴さんが顔を上げた。
「それでも持ち去ったということは、持ち去った人間は、気づかれることより、それが手元にあることのほうが怖かったということです。そして」
彼は一度、言葉を切った。
「この宿に鉄瓶が一つしかないことを知っている人間だけが、あれを持ち出す意味を分かっているんですよ。客は知りません。私は今朝まで知りませんでした」
囲炉裏の間は、静かだった。
外で、重機の音がしていた。
蛍さんが千鶴さんを見た。山際さんが千鶴さんを見た。戸倉さんは下を向いた。惣一さんは土間に立って、長靴のまま、動かなかった。
千鶴さんは、囲炉裏を見ていた。
そして、前掛けの紐の端を、指で折り直していた。折る必要は、なかった。
第七章 拓本
1
「わたくしです」
千鶴さんが言った。
重機の音は、まだ谷の下のほうで続いていた。囲炉裏の間には、誰も座っていなかった。全員が立っているか、廊下にいるか、土間にいた。
蛍さんが「え」と言った。
「若女将」
山際さんが1歩出た。
「山際さん、いいの」
千鶴さんは前掛けの紐から手を離した。
「昨夜、11時半に、お台所で古賀さんを殴りました。鉄瓶で。一度です」
私は、意味が取れなかった。
この人は、いま何を言っているのか。妻が殴ったのは0時40分である。私はそれを妻の口から聞いている。11時半に、この人が殴ったというのは、どういうことなのか。
庇っているのだと思った。
誰を庇っているのかは分からない。祖父か、山際さんか、蛍さんか。とにかく、誰かのために、この人は嘘をついている。私は最初にそう思った。
「若女将、待ってください」
「待ちません」
彼女は板の間の縁に膝をついた。囲炉裏のほうを向いて、そこに倒れている男を見た。
「もう待たないことにしました」
戸倉さんが、蛍さんの背中に手を置いた。結城さんは手帳を開いていたが、書いていなかった。
「11時に、祖父が戸締まりに回りました。そのあと、わたくしは自分の部屋に戻って、11時20分ごろに出ました。お台所に、古賀さんがいらっしゃいました」
「なぜ厨房に?」
結城さんが訊いた。
「昨日の夕方、あの方が言われたんです。今日死んだのは、あんたが呼んだ人だ、と」
千鶴さんは、囲炉裏の灰を見ていた。
「そのとおりでした。柏木さんを呼んだのは、わたくしです。日にちを決めて、手紙を出しました。古賀さんにも同じ日に来ていただくよう、仕入れの話だと言って、お願いしました」
「なぜ、そんなことを」
「確かめたかったからです」
彼女は一度、息を吸った。
「7年前、うちで二人のお客様が当たられて、お一人が亡くなりました。仕入れは古賀商会さんです。ですが伝票では、柏木が独りで山採りのものを持ち込んだことになっていました。柏木はそれを認めて、出ていきました」
「若女将さん、それは」
「わたくしは、7年間、柏木を憎んでいました」
蛍さんが顔を上げた。
「あの人が持ち込んだせいで、母が死んだと思っていました。母は、亡くなったお客様のお宅へ、1年通いました。3月に、谷で見つかりました」
囲炉裏の間は静かだった。
「けれど、この7年で、伝票の書き方というものが分かってきました。分かってくると、7年前のあれは、うちに来る前に作られたものだと思うようになりました。それで、二人を同じ日に呼んだんです。並んで座っていただければ、どちらかの顔が変わると思って」
「その席で、柏木さんが亡くなった」
「はい」
千鶴さんは、そこで初めて声が乱れた。乱れたのは1秒だけだった。
「昨日の夜、古賀さんに伺いました。7年前のことを、はっきり教えてくださいと」
「何と言われましたか?」
「笑われました」
彼女は膝の上で手を組んだ。
「あんたの母親は、運が悪かったんだ、と。──それだけなら、まだよかったんです」
「まだ、とは」
「母が、あの方のところへ行っていたと言われました」
蛍さんが口を押さえた。
「2月に、母が古賀さんの事務所へ行ったそうです。伝票のことを言いに行った。古賀さんは、笑って追い返したと言われました。あんたの母親も、あんたと同じ顔をしてた、と」
「……それで」
「そのあと、あの方が笑って、わたくしに背中を向けられました」
千鶴さんは、自在鉤を見上げた。鉄瓶は無かった。
「自在鉤に、鉄瓶が掛かっていました。わたくしは外して、後ろから殴りました」
彼女は自分の右手を見た。
「一度です。倒れて、動かれませんでした。死んだと思いました」
「そのあと、どうされました?」
「血を拭こうとしました。雑巾を絞ったところまでは覚えています。手が震えて、持てませんでした」
「鉄瓶は」
「流しに置いて、部屋へ戻りました」
千鶴さんは顔を上げた。
「それが、11時40分ごろです」
私は柱に手をついた。
嘘ではなかった。
嘘をつく人間は、雑巾を絞ったところまでは覚えていますとは言わない。手が震えて持てませんでしたとは言わない。この人は、本当にあの厨房にいた。
そして、床にあった血。あの引き伸ばされた、途中でやめた跡。
私は妻が拭いたのだろうかと考えて、そんなはずはないと考えて、他に誰がいると考えた。
いたのだ。
「3時半に、もう一度、下へ降りました」
千鶴さんが続けた。
「眠れませんでした。拭き残した血のことと、鉄瓶のことを考えていました。あのままにしておけないと思って、降りました」
「そのとき、何を見られましたか?」
結城さんが訊いた。
「古賀さんが、囲炉裏のところに倒れておられました」
蛍さんが声を出した。声にならない声だった。
「わたくしは、しばらく動けませんでした。お台所で倒れていらしたはずの方が、囲炉裏のところに、ああして」
「驚かれたでしょう」
「驚きました。でも」
彼女は言葉を選んだ。
「一度、目を覚まされたのだと思いました。目を覚まして、立って、そこまで歩いて、それで力尽きられたのだと。──殴った人間がそう思うのは、たぶん、都合がいいからです」
戸倉さんが下を向いた。
「お顔のことは」
「白くなっておられました。囲炉裏に突っ込まれたのだろうと思いました」
「串は」
「気づきませんでした」
「頭が、石の縁に載っていたことは」
「……そこも、見ていません」
千鶴さんは、囲炉裏の男を見た。
「わたくしが見ていたのは、鉄瓶だけです」
「鉄瓶」
「お台所の流しに置いたはずの鉄瓶が、自在鉤に掛かっていました」
私は柱から手を離した。
「掛かっていたのですね」
結城さんが確かめた。
「掛かっていました。高さも、いつもの位置に下げてありました」
「それを、どうされました?」
「持って出て、渡り廊下から谷へ捨てました」
「渡り廊下の戸は」
「開いていました」
「開いていた?」
「閂が上がっていました。開けた覚えはありません。──わたくしはそのまま出て、そのまま戻りました」
彼女は言った。
「あれが自在鉤に戻っていたので、わたくしは、自分が戻したのだと思いました。覚えていないだけで、自分でやったのだと。──それが怖くなって、捨てました」
囲炉裏の間には、誰も口を開く者がいなかった。
「戻ったのは、4時前だと思います。そのあとは、部屋で座っていました」
「戸締まりは」
「触っていません」
2
結城さんは、手帳を閉じた。
閉じてから、しばらく何も言わなかった。彼が黙っているのを、私は初めて見た。
「若女将さん」
「はい」
「あなたは、殴りました」
「はい」
「しかし、あなたは殺していません」
蛍さんが顔を上げた。
千鶴さんは、動かなかった。
「三つ、申し上げます」
結城さんは指を立てた。
「一つ。あなたが殴られたのは11時半です。その45分後、0時15分に、私は古賀さんが廊下を歩いておられるのを見ています。雀部さんも、その5分前に会っておられる。──あなたの一撃で、あの方は死んでいない」
「でも、それは」
「二つ。あの方は、そのあと自室へ戻り、布団を畳み、鞄を閉じて、また出ておられる。倒れたまま息を引き取った人間の動線ではありません」
千鶴さんが、口を開けた。
「三つ。あの方の口には、粉が付いています。頭を殴られた人間が、粉で死ぬことはない。粉を含んだのは、あの方が自分で含んだからです」
「先生」
「あなたが殴ったことは、あなたのおっしゃるとおりです。それは動きません。──しかし、あの方が死んだのは、それから5時間近くあとのことです」
千鶴さんの肩が動いた。
「でも」
彼女は言った。
「わたくしが殴らなければ」
「それは因果であって、罪状ではありません」
結城さんは、それだけ言った。
それ以上のことは言わなかった。法律の話も、罪の重さの話もしなかった。彼は手帳を上着にしまって、1歩下がった。
千鶴さんは、両手で顔を覆った。
蛍さんが駆け寄って、その背中に手を置いた。山際さんは厨房の柱に寄りかかったまま、天井を見ていた。
そのとき、土間で音がした。
惣一さんが、框に腰を下ろした音だった。
老人は長靴を脱いでいた。脱いだ長靴を、揃えて置いた。それから、囲炉裏の間のほうを向いた。
「千鶴」
千鶴さんが顔を上げた。
「7年前のことを、言うとります」
「おじいちゃん」
「わしは、見とりました」
惣一さんは膝の上に両手を置いた。
「柏木が、女将に言うたのを、わしは見とります。私がやったことにします、と。あれが自分で言うたんです」
蛍さんが「え」と言った。
「女将は止めました。二度止めました。三度目に、柏木が言いました。女将さんが潰れたら、この子はどうなるんですか、と」
千鶴さんが、動かなくなった。
「この子いうのは、お前のことです」
老人は、膝を見ていた。
「女将は、わしに、千鶴には言わんでくれと言いました。母親が他人に被せて宿を残したと知れば、あの子は宿をやらんようになる、と。──わしは、言いませんでした」
「……7年」
「7年です」
惣一さんは、初めて顔を上げた。
「お前は、7年、柏木を憎んどりました。わしは黙って見とりました。──あれを、お前に呼ばせたのは、わしです」
千鶴さんは、何も言わなかった。
言わずに、土間のほうを見ていた。長い時間そうしていた。
そのとき、玄関の外で車の音がした。
蛍さんが立ち上がって、土間へ降りた。惣一さんが閂を上げた。
制服の警官が二人と、私服の男が三人、入ってきた。
3
警察が来てからの2時間は、長かった。
囲炉裏の間には入れてもらえなくなった。私たちは順番に廊下の奥の部屋へ呼ばれて、いつ何をしていたかを聞かれた。私は、昨夜すれ違ったこと、時刻、古賀さんの様子について答えた。それ以外は聞かれなかった。
聞かれなかったので、答えなかった。
千鶴さんは、最初に呼ばれて、しばらく出てこなかった。
3時ごろ、山際さんが厨房で声を上げた。
「これ、うちのじゃないですね」
私は土間にいた。
山際さんは乾物の棚の前に立っていた。手に、茶色の紙袋を持っている。棚には同じような袋が並んでいる。彼はその一つを引き抜いて、口を開いて、中を見ていた。
「どうしました?」
私服の男が来た。
「うちの棚に、うちのじゃない袋が入ってます」
「どこが違うんですか」
「うちは口を二回折って、輪ゴムをかけます。これは一回しか折ってません。それと、袋の紙が違う。うちのは業者さんの箱に入ってくるやつで、こういう小分けの袋は使いません」
「いつからここに?」
「昨日の朝はありませんでした。私は毎朝、この棚から出しますから」
男が袋を受け取って、中を見た。それから、戸倉さんを呼んだ。
戸倉さんは少し見て、それから顔を上げた。
「これは、干して砕いたものです」
「何を、ですか」
戸倉さんは、茸の名前を言った。
私は聞いたことのない名前だった。頭に入らなかった。
「食べると死にます」
彼は言った。
「量にもよりますが、これだけあれば、何人分にもなります」
私はそれを見ていた。
見ていることしかできなかった。私は昨夜、調理台の上に出ていたものを片付けた。袋は口を折って、棚に戻した。並びの間に入れた。そうすることが、あの場では正しいことだと思っていた。
4時前に、駐車場のほうで動きがあった。古賀さんの車が開けられて、トランクから蓋のついた透明な容器と、小さな秤が出てきたという。それを私は、あとから蛍さんに聞いた。
そして結城さんが、囲炉裏の間の隅で、鉛筆を動かしていた。
「先生、何をされてるんですか?」
蛍さんが訊いた。
「拓本(たくほん)です」
「たくほん」
「手帳の頁に、鉛筆を寝かせて擦るんですよ。前の頁に書いた字の筆圧が、下の紙に残っている。それが白く浮きます」
彼は古賀さんの手帳を、私服の男の横で借りて開いていた。
「ここ、一枚破ってあるでしょう。破った次の頁が、これです」
彼は擦った紙を持ち上げた。
私服の男が覗き込んだ。
「読めますか」
「読めますよ。──11月2日。朝食。柏。入替。その下に、たぶん量です。数字が二つ」
蛍さんが息を吸った。
「書いてあるんです」
結城さんが言った。
「あの人は、忘れるから書くと言っておられた。予定も書く。予定を書く人間は、実行する前に一度、それを文字にしてしまうんですよ」
私服の男が、手帳を袋に入れた。
「──では、次です」
結城さんが立ち上がった。
「蛍さん。ひとつ、確かめさせてください」
「はい」
「昨夜、雀部の奥様のお部屋の前に、土瓶を置かれましたね」
「置きました。うちは朝、火を落としてますから、夜のうちに沸かして、お部屋の前に」
「中身は入っていましたか」
「入れて置きました。いっぱいに」
「何時ごろ」
「10時半くらいです」
結城さんは頷いた。
「──今朝、その土瓶は、厨房で、洗って伏せてありました」
蛍さんが「あ」と言った。
「私は洗っていません」
「わたしも洗ってません」
「山際さんも、洗った覚えはないとおっしゃった」
結城さんは、土間のほうを見た。
「つまり、誰かが、部屋の前から厨房へ持っていって、中身を捨てて、洗ったのです。夜のうちに」
「なんでそんなこと」
「中身に何か入れた人間だけが、それを洗います」
私は、その場に立っていた。
立っていたが、足の裏の感覚がなかった。
「先生」
戸倉さんが言った。
「なぜ、雀部の奥様なのですか」
「私の手帳です」
結城さんは上着から手帳を出して、めくった。
「11月2日、7時47分。雀部夫人の発言。『この二本、向きが違うわ』」
彼は顔を上げた。
「──あの朝、あの場で、あれを聞いていたのは、古賀さんだけでした」
蛍さんが口を押さえた。
「蛍さんは、お茶を注いでおられた。手元を見ておられましたね」
「……見てました」
「私は書いてはいたが、聞いていなかった。戸倉さんと私は、山の輸送網の話をしていた。若女将さんは厨房のほうを見ておられた。雀部さんは──」
「串を見ていました」
私は言った。
「そのあと、どうされましたか」
「……何も」
「誰も反応しなかった。そうですね」
「はい」
「ただ一人、顔を上げた方がおられた」
結城さんは、囲炉裏の間のほうを見た。
「古賀さんです。私の手帳に、そう書いてあります。7時47分。古賀氏、顔を上げる。私は、なぜ書いたのか自分でも分からずに書いていました」
彼は手帳を閉じた。
「古賀さんにとって、奥様は、自分を絞首台に載せられる、たった一人の人間だったんです」
囲炉裏の間は静かだった。
「あの方は、昨日一日、奥様を見ておられた。何人かはお気づきでしょう」
私は答えなかった。
私は気づいていた。気づいて、まったく別の意味に取っていた。
「そして夜、蛍さんが白湯のことを話された。囲炉裏の間でしたね」
「……しました。灰をならしながら」
蛍さんの声が小さくなった。
「そのとき、廊下の奥で戸が閉まる音がしませんでしたか」
「しました。風だと思って」
「古賀さんのお部屋は、廊下の手前から二つ目です」
蛍さんが、その場に座り込んだ。
「先生」
千鶴さんが言った。廊下の奥の部屋から出てきていた。目が赤かった。
「はい」
「では、あの方は」
「仕掛けました。土瓶に。そして──」
結城さんは、そこで一度、言葉を切った。
「やめたのです」
私は柱に手をついた。今度は、離さなかった。
「洗ってあるからです。仕掛けたものを、自分で流している。捨てて、洗って、伏せた。これは、やめた人間の手つきです」
「なぜ、やめたんですか」
蛍さんが訊いた。
「殴られたからでしょう」
結城さんは廊下のほうを指した。
「あの方は、粉を入れたあと、あるいは入れる前後に、殴られた。誰にやられたか分からないまま目を覚ました。──そこで、終わったんですよ。
もう一人殺しても意味がない。すでに知られている。誰かは分からないが、この家の誰かが知っている。
だから、洗った。そして部屋へ戻って、布団を畳み、鞄を閉じ、湯呑を下げた。それから、ここへ来た」
彼は囲炉裏を指した。
「人を殺すのをやめて、自分が死ぬことにしたんです。その順番で、その夜のうちに」
誰も何も言わなかった。
私は柱を握っていた。握っていないと、立っていられなかった。
妻は、今朝、死ぬはずだった。
蛍さんが沸かして、部屋の前に置いた土瓶を、妻は朝いちばんに飲むはずだった。妻は毎朝そうする。昨日もそうした。今朝もそうするはずだった。
その土瓶を、私は洗った。
理由は、縁に白いものが付いていたからである。それだけである。私はそれが何かを知らなかった。知らないまま、洗って、伏せて、水を切った。あの3分ほどのことを、私はよく覚えていない。手が勝手に動いていた。
私は、いまも、なぜ洗ったのか分からない。
「雀部さん」
結城さんが言った。
「大丈夫ですか。顔色が」
「……大丈夫です」
「そうですか」
彼は私を3秒ほど見て、それから別のほうを向いた。
厨房の上がり框で、小春が茶を飲んでいた。
彼女は、湯呑を両手で持って、囲炉裏のほうを見ていた。何も言わなかった。
4
千鶴さんが廊下の奥から出てきたのは、5時前だった。
彼女は作務衣の上に上着を着ていた。前掛けは外していた。両側に私服の男が立っていた。
土間で、蛍さんが泣いていた。山際さんは厨房の入口に立って、動かなかった。
千鶴さんは、惣一さんの前で足を止めた。
老人は框に座ったままだった。彼は何も言わなかった。千鶴さんも何も言わなかった。
「少しよろしいですか」
結城さんが言った。
私服の男が振り向いた。
「3分だけです。時計を見ていてくださって結構です」
男は少し迷って、それから頷いた。
結城さんは、千鶴さんの正面に立った。
「若女将さん。私はこの3日間、間違ったことばかり申し上げました」
千鶴さんが顔を上げた。
「一昨日、私はこの宿の落ち度だと申し上げた。あれは完全に間違いでした。あなたの前で、あなたの母上の話まで持ち出して、間違ったことを申し上げた。それについては、謝ります」
彼は頭を下げた。深く下げた。
「その上で、二つだけ申し上げます」
顔を上げたときの結城さんは、これまでの3日間で、いちばん静かだった。
「一つ。あなたは昨夜、30秒のあいだに手を上げられた。あの男が母上のことを言ってから、あなたが鉄瓶を取るまで、おそらく30秒もない。──しかし、あなたが背負っておられたのは7年です」
囲炉裏の間で、写真を撮る音がしていた。
「7年前、あの男は伝票を作り替えて、一人の男に被せました。被せられた男は、あなたの母上を守るために被った。母上はそれを背負って、通って、亡くなられた。あなたは何も知らされないまま、7年間、間違った相手を憎むよう仕向けられていた。
そして一昨日、あの男は、あなたが呼んだ席で、あなたが憎んでいた男を殺した。あなたに、7年前をもう一度見せるためです。あの男は、あなたが壊れるところを見に来ていたんですよ」
千鶴さんの肩が、わずかに動いた。
「昨夜のあなたの30秒は、あの7年から出てきたものです。30秒だけを取り出して量ることは、誰にもできません」
「先生」
「二つ目です」
結城さんは、囲炉裏のほうを見た。
「あなたは今朝、鉄瓶が無いことを、いちばん先に口にされた。──捨てた本人が、真っ先にそれを言うんです。
あなたは隠すのが下手だ。下手な人は、隠しごとを長く持てません。持てないほうがいい。私はそう思います」
彼は1歩下がった。
「以上です。2分40秒でした」
私服の男が、腕時計から目を上げた。
千鶴さんは、頭を下げた。深く、長く下げた。
それから、惣一さんのほうへ向き直った。
「おじいちゃん」
老人が顔を上げた。
「宿は、閉めないでください」
彼女は土間を出ていった。
車の音が遠ざかってから、しばらく誰も動かなかった。
蛍さんが、囲炉裏の間の入口の前に立った。中では、まだ写真を撮っていた。
「あの人、まだあそこにいるんですね」
彼女が言った。
「そうですね」
「なんで、あんな倒れ方してたんでしょう」
私は答えなかった。
答えなかったが、答えは知っていた。石の縁は角が丸くて、三度載せて、三度落ちた。四度目に押しつけたのだ。あのときの音を、私はまだ覚えている。
厨房のほうから、小春が出てきた。
彼女は握り飯の皿を持っていた。誰も食べなかった分である。
「山際さん」
「はい」
「これ、置いておきますね。夜になったら、みなさん食べますから」
「……はい」
「お腹が空くのは、あとから来ますので」
小春は皿を框に置いて、部屋へ戻っていった。
山際さんが、その皿を見ていた。しばらく見てから、彼は厨房へ入って、鍋に火をつけた。
終章
1
その夜、私たちは広間で食事をした。
囲炉裏の間は、まだ使えなかった。検分は夕方に終わったが、誰もあの部屋に入ろうとしなかった。蛍さんが襖を閉めて、その前を通るときは少し急ぎ足になった。
広間には座卓が二つ並べられた。山際さんが作ったのは、粥と、焼いた魚と、大根の煮たものだった。
「茸はありません」
彼はそう言って、盆を置いた。
「今日は、どうしてもね」
「充分です」
戸倉さんが言った。
惣一さんは、床の間を背にして座った。老人は箸を取り、粥をひと口食べて、そのまま長く止まっていた。蛍さんが茶を注ぎに来て、注ぎながら泣いた。泣きながら注いだので、少しこぼれた。
「すみません」
「いいですよ」
戸倉さんが布巾を出した。
道は昼過ぎに開いた。だが、夜の山道を下るのは無理だという話になって、私たちは全員、もう一晩泊まることになった。誰もそれに反対しなかった。
私は粥を食べた。
食べられるかどうか、自分でも分からなかった。昨夜、あの串を食べている。胃のあたりの重さは、朝より軽くなっていた。指先の痺れも引いていた。
たぶん、大丈夫だったのだと思う。
たぶんとしか言えないのが、いちばん厄介だった。誰にも訊けない。
結城さんは、座卓の端で、手帳を三冊並べていた。
「先生、それ、全部今回のですか?」
蛍さんが訊いた。
「二冊が今回です。もう一冊は前の分ですが、参照しますので」
「参照」
「今回、私は自分の未熟さを二度、確認しました。一度目は一昨日です。二度目は今朝でした」
「今朝も、ですか?」
「ええ」
彼は魚を一口食べて、箸を置いた。
「私は、この宿の菌床から出たと申し上げました。あれは、粒度の話に逃げたんです。戸倉先生は、殺菌のこと、匂いのこと、具体的なことを二度おっしゃった。私は具体を全部よけて、抽象で押し返した。──あれは、負けている人間の喋り方です」
戸倉さんが顔を上げた。
「先生」
「はい」
「私も、今朝、言いかけてやめました」
「何をですか?」
「粉のことです。口に含んだのなら、飲み下した形跡がないのはおかしい、と申し上げて、あなたに『飲み下せなかったのだ』と言われて、それで引きました」
「引かれましたね」
「引きました。──ただ、あれは、まだ引っかかっています」
私は箸を止めた。
「口の中に落ちたものは、飲み下せなくても、どこかへは行きます。舌の上に載ったまま、というのは、あまり見ないんです」
「先生。それはつまり、どういうことですか?」
「分かりません」
戸倉さんは首を横に振った。
「分からないから、言いかけてやめたんです。分からないことを言うと、話が長くなります」
「なるほど」
結城さんは頷いた。それだけだった。彼は手帳に何かを書いた。
蛍さんが空いた皿を下げに立った。
立って、2歩歩いて、それから振り返った。
「あ」
「どうしました?」
「思い出しちゃった」
彼女は皿を持ったまま、少し困った顔をした。
「あの晩、お台所の豆電球が点いてたんです。わたし、消したはずなんですけど」
戸倉さんが「ほう」と言った。
「それと、朝に雀部の奥様が──」
「蛍さん」
結城さんが、手帳から顔を上げた。
「豆電球というのは、いいところに気づかれた」
「え」
「消したはずのものが点いていた。これは重要ですよ。人は、自分がやった行為は覚えていても、やらなかった行為は覚えていないんです。あなたは『消した』と記憶している。ではなぜ点いていたか」
彼は手帳をめくった。
「古賀氏は、0時半ごろに厨房へ戻っています。彼が点けた。そして、消せなかった。──あの豆電球は、彼が生きて厨房にいたことの証拠です。若女将さんの供述とも、時刻がぴたりと合う」
「はあ」
「蛍さん、これは大事です。警察の方に言われましたか?」
「言ってません。今、思い出したので」
「明日、必ず言ってください。忘れないうちに」
「はい」
「そういうことです」
蛍さんは「はい」と言って、皿を持って出ていった。
戻ってきたときには、別の話をしていた。
私は粥を食べた。粥は熱かった。
結城さんが、湯呑を両手で持った。
「しかし、惜しいことをしました」
「何がですか?」
戸倉さんが訊いた。
「今日の、若女将さんへの3分間です」
「ああ」
「あれは、私の生涯でいちばんまとまった3分間でした。構成も、間の取り方も、着地も、我ながら完璧だった。──録音しておくべきでした」
戸倉さんが、茶をゆっくり飲んだ。
「先生」
「はい」
「ご本人は、たぶん覚えておられますよ」
「そうでしょうか」
「そういうものは、言われたほうが覚えているものです」
「なるほど。それは、いい観点ですね」
結城さんは手帳を開いて、それも書いた。
惣一さんが、初めて顔を上げた。
老人は誰にともなく、こう言った。
「明日から、開けます」
蛍さんが振り向いた。
「開けるって、宿を、ですか?」
「予約が入っとります。来月の分から」
「でも」
「あの子が、閉めるなと言うたので」
老人は箸を置いて、両手を膝に載せた。
「わしは、7年、黙っとりました。もう、黙るのはやめます」
2
翌朝は、よく晴れていた。
8時に宿を出た。玄関の前に、惣一さんと蛍さんと山際さんが並んだ。
「お世話になりました」
私は頭を下げた。
「こんなことになって、申し訳ありません」
蛍さんが言った。彼女は目が腫れていた。
「また来てください」
山際さんが言った。それだけ言って、彼は厨房へ戻っていった。
惣一さんは何も言わなかった。ただ、車が動き出すまで、そこに立っていた。
戸倉さんは、もう一泊するという。裏の林道をもう一度見ておきたいそうだ。
結城さんは、私たちより先に出ていった。出がけに、彼は私の肩を叩いた。
「雀部さん。またお会いしますね」
「……たぶん」
「たぶんではありません。三度目ですよ。三度あることは、統計的にはもう傾向です」
「傾向」
「観測を続けましょう」
そう言って、彼は自分の車に乗り込んだ。
谷を下る道は、来たときより明るく見えた。木の色が、3日でまた変わっていた。
落石のあった場所を通った。片側に、砕いた岩が寄せてある。作業服の男が二人、まだ何かを片付けていた。私は徐行した。
橋を渡って、道が二車線になった。
「よく晴れましたね」
小春が言った。
「そうだね」
「山際さんの大根、おいしかったわ」
「うん」
「あれ、前の日から炊いてありましたね。一度冷ましてありました」
「そうなんだ」
「そうよ」
彼女はしばらく窓の外を見ていた。待避所を三つ過ぎた。
「そういえば」
「うん」
「あの朝の白湯ね」
私はハンドルを持ち直した。
「昨日の朝?」
「そう。土瓶が、洗って伏せてあったの」
「……そう」
「わたくし、前の晩に置いていただいたのを、朝いただくつもりだったんですけど。伏せてありましたから、汲み直しましたのよ」
「そうか」
「どなたか、洗ってくださったのね」
私は前を見ていた。
道の先で、対向車が来ていた。私は待避所に寄せて、停まった。軽トラックが一台、通り過ぎていった。運転していた男が、片手を上げた。私も上げた。
「誰だろうね」
私は言った。
「さあ」
小春は窓の外を見ていた。
「蛍さんかしら。あの方、よく気がつくもの」
「そうかもしれない」
「今度お礼を言わなくちゃ」
「そうだね」
私は車を出した。
昨日、結城さんが全員の前で説明したことを、妻は同じ部屋で聞いている。上がり框に腰かけて、茶を飲みながら聞いていた。
だから彼女は、あの土瓶に何が入っていたかを知っている。知っていて、いま、洗ってくださったのねと言っている。
彼女にとって、あれは、洗ってあった土瓶なのだ。
谷が終わって、視界が開けた。川幅が広くなって、水の色が変わった。田んぼが見えた。刈り取りの終わった田が、光っていた。
小春が、座席を少し倒した。
「次は、海がいいわ」
「海」
「お魚が食べたいので」
「考えておくよ」
彼女は目を閉じた。
私は運転を続けた。ラジオはつけなかった。
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