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『西関五千言』 第三部 帰還

第七章 老人を連れて

 国都まで10里ほどのところで、街道脇に焼け落ちた倉があった。屋根は潰れ、黒く炭化した梁の間からまだ煙の匂いが残っている。その灰の中を、村の女が膝をついて掘っていた。
「何を探している」
 尹喜が尋ねた。
「鍋です」
 女の横では、子供が灰にまみれた指で黒く焦げた粟粒を拾っていた。食べられるものが残っているか確かめているらしい。老聃は足を止め、その小さな手を見て言った。
「粟が焼けた」
 尹喜は老人を見る。
「見れば分かります」
「そうだな」
「何です」
「国が変わるときも、腹は減る」
     *
 国都郊外の検問所へ着くと、尹喜の旗を認めた兵たちが一斉に道を開けた。疲労で泥だらけの兵まで背筋を伸ばし、その顔には援軍を迎えるというより、勝敗そのものが到着したかのような安堵が浮かんでいた。
「尹将軍!」
「左将だ」
「これで勝てます!」
 兵は屈託なく笑った。尹喜は返事をしなかった。自分はまだ、どちらの勝利のためにここへ来たのかを決めた覚えがない。だが兵たちの目には、そんな迷いは存在しないらしい。周囲はもう、尹喜がこちら側の将であることを決めていた。
     *
「遅いぞ!」
 公孫烈は尹喜を見るなり駆け寄ってきて、そのまま肩を抱いた。鎧同士がぶつかって鈍い音がした。
「重い」
「生きてたな」
「お前も」
「これで全部終わる」
 烈が笑った。そのすぐ横には、旅の埃をかぶった老聃が何事もない顔で立っている。
「誰だ、この爺さん」
「西関で捕まえた」
「捕虜?」
「本人に聞け」
 烈が老聃を見る。
「捕虜なのか」
「私もよく分からん」
「面白い爺さんだな」
「お前が強い息子か」
「誰の?」
 老聃は公孫敖の方角を見る。
「大きな将軍の」
「父上を知ってるのか」
「見れば分かる」
「何が」
「お前の顔が大きい」
「関係あるか?」
 烈が笑った。
     *
 都城の市場は、半ば軍営へ変わっていた。軒先には槍や盾が立て掛けられ、薪と兵糧(ひょうろう)の山の間を負傷兵が運ばれていく。それでも商人は店を畳まず、兵の隙間で粟や布を売っていた。公孫敖は略奪を禁じ、軍が物資を取る場合にも代価を払わせていたため、市場そのものは辛うじて息をしていた。
「南倉は」
 尹喜が尋ねる。
「一部開けた」
 公孫敖が答える。
「東壁が薄い」
「知ってる」
「今夜攻めれば落とせます」
「攻めん」
「なぜ」
「君上を生け捕りにする」
「逃げられます」
「それでもだ」
「庭園側から火を入れれば」
「やめろ」
 敖の声が変わった。
「庭は焼くな」
 尹喜が見る。
「理由は」
「昔の話だ」
     *
「このために私を西へ?」
 その夜、軍営の一角で2人きりになると、尹喜は公孫敖へ尋ねた。昼の戦況より、こちらの問いの方が長く胸に残っていた。
「半分はな」
「残り半分は」
 敖は酒を注ぐ。
「死なせたくなかった」
「どちらです」
「両方だ」
「私は救われたのですか。利用されたのですか」
「両方だ」
「一つにしてください」
「人間は一つの理由で動くほど単純じゃない」
 尹喜は黙った。
「喜」
「はい」
「怒ってるか」
「かなり」
「声が静かだな」
「怒っているので」
 敖が笑う。
     *
 公孫敖は卓上へ処刑者の一覧を広げた。政変前の3年間だけで、高官は124人。地方官やその縁者まで含めれば、数はさらに増える。竹簡には罪名が並んでいたが、それだけでは本当に国を害した者と、洹公に恐れられただけの者を見分けることはできなかった。
「全部無実ですか」
「違う」
「なら」
「本当に反逆した奴もいる。横領した奴も。人を殺した奴もいる」
「では何が問題です」
「混じった」
「何と」
「国君が怖い奴と、国に危険な奴が」
 敖は言った。
「俺たちは反逆した」
「……」
「勝てば義兵(ぎへい)と呼ばれるかもしれん」
「公孫殿」
「でも反逆は反逆だ」
     *
 老聃と公孫敖は、初対面とは思えないほど早く言い合いを始めた。互いに相手の肩書へほとんど敬意を払わず、それでいて何を見ているかだけはすぐに理解しているらしかった。
「大きな将軍」
「俺か?」
「お前だ」
「名前くらい覚えろ」
「嫌だ」
「何で」
「大きい方が分かりやすい」
 老聃は卓上の宮城周辺図へ目を落とした。兵の数より、門の位置と城内から届く報告の印に目を留めている。
「兵を動かしたのではないな」
「何を」
「人を動かした」
 敖の笑みが少し変わる。
「どこで分かった」
「門がまだ閉じているのに、中で味方が増えている」
「爺さん」
「何だ」
「お前は人をよく見てるな」
「お前もだ」
 老聃は言った。
「だから危ない」
     *
 夜更け、宮城東側の小門が内側から開いた。公孫敖は2年前から宮中の人間へ手を伸ばし、門番の家族まで事前に逃がしていた。合図を受けても兵は雪崩れ込まず、隊ごとに間を置いて門をくぐる。騒ぎを広げず、守備側が崩れる速度だけを速めるためだった。尹喜は入城する兵へ命じた。
「武器を捨てた者は斬るな。民家へ入るな。火を出すな」
 烈が先へ行く。
「喜!」
「何だ」
「今度こそ終わるな!」
 尹喜は答えなかった。「終わる」という言葉を、今は口にしたくなかった。老聃は兵の列に加わらず、城外へ残った。
「来ないのですか」
 尹喜が尋ねる。
「国が変わる瞬間だぞ」
「門が開いただけだ」

第八章 戦の道

 門が開くと、抵抗は急速に崩れた。命令系統を失った近衛は次々に武器を捨て、役人たちは文書や印を抱えたまま廊下を逃げる。公孫烈はなお斬りかかってくる兵だけを押し返しながら、周囲へ声を張った。
「武器を捨てろ! 捨てた奴は斬るな!」
 一人の兵だけが最後まで槍を構えた。烈は突きを剣で受け流し、柄元を打って槍を落とす。兵は勢いのまま膝をついた。烈の剣先は、その喉元で止まった。
「もう武器ないだろ」
 兵は震えていた。
「行け」
     *
 洹公はいなかった。
「秘密路です」
 役人が言う。公孫敖が顔をしかめる。
「全部探せ。北、南、東。西もだ」
「西へ?」
「可能性を消すな」
 捜索の途中、尹喜たちは庭へ出た。そこに植えられた楡(にれ)の若木から、枝が一本だけ切り取られている。切り口はまだ白く、昨夜か今朝のものに見えた。
「これ」
 尹喜が言う。敖は長く見た。
「昔な」
「はい」
「君上と植えた」
「木を?」
「違う」
 敖は笑わなかった。
「国をだ」
 20年以上前、まだ洹公も公孫敖も若かったころ、2人は国を変えると語りながらこの木を植えたのだという。今では、その一方が兵を入れて宮城を奪い、もう一方は枝だけを持って逃げていた。
「国君の印も、祖廟(そびょう)も、倉も、軍も置いて」
 尹喜が言う。
「枝だけ持って逃げた?」
「そうみたいだな」
     *
 宮城がほぼ制圧されても、老聃は姿を見せなかった。
「どこへ」
「市場へ行ったと」
 尹喜が探しに行くと、老聃は市場にいた。店は半分ほどしか開いておらず、塩は値上がりし、粟は政変前の倍近い値を付けている。宮城の旗が変わったその日に、老人は商人と値段の話をしていた。
「何をしているのです」
「値段を見ている」
「宮城が落ちました」
「そうか」
「国君は逃げた」
 横で商人が聞く。
「じゃあ戦は終わってない?」
「宮城は押さえました」
「塩はいつ安くなる」
「……」
 商人は肩をすくめる。
「偉い人は皆、国の話はする。俺は塩の話をしてる」
 老聃が少し笑った。
     *
 宮城地下の牢には、帳簿上82人の囚人がいることになっていた。だが扉を開けて数えると、実際には100人を超えていた。国君の直命で入れられ、名簿にすら載らない者もいる。8か月も裁きを受けていない者がいた。公孫敖の宴に出た、公子申を訪ねた、税の軽減を願った、軍制を批判した――理由はばらばらで、告発だけがあり、証拠のない者も少なくなかった。
「全部開けよう」
 烈が言った。
「待て」
 尹喜が止める。
「中には殺人犯もいる」
「でも無実もいる」
「分ける」
「また待たせるのか」
「正しく裁くためだ」
 烈が尹喜を見る。
「間違って捕まった奴を、正しく調べるためにもう少し牢へ置く?」
 尹喜は答えに詰まった。そのとき、牢の入口に公子申が現れた。35歳ほどで、戦勝側の中心人物とは思えないほど質素な衣を着ていた。臭気に眉をひそめながらも、口元を布で覆おうとはしなかった。
「全員、一度上へ出してください」
「公子」
 尹喜が言う。
「危険な者も」
「牢の外へ出すことと、自由にすることは違います」
「しかし」
「新しい者が同じ牢で同じように調べるなら」
 公子申は地下を見た。
「何が変わったのでしょう」
     *
 翌朝、恩赦(おんしゃ)が出た。政治的な発言や告発だけで拘束された者、軽微な政変関係者は解放する。一方、殺人、横領、外国との通謀(つうぼう)が疑われる者は改めて調べ直すことになった。尹喜が条件を細かく整理して布告文を書き、公子申がそれを読んだ。
「長いですね」
 尹喜が顔を上げる。
「老聃殿のようなことを言わないでください」
「必要なのは分かります」
「なら」
「でも長いです」
 公子申は少し笑った。
「皆が納得する政治をしたい」
「制度を整えればできます」
 尹喜は即答した。後でその話を聞いた老聃が尋ねた。
「皆とは誰だ」
「民です」
「少ない者は」
「何です」
「皆に入るか」
     *
 3日後、公子申が新たな国君となった。公孫敖は儀式の場で国君の印を両手に持ったまま、一呼吸、さらにもう一呼吸だけ動かなかった。それから公子申へ差し出し、臣下として跪(ひざまず)いた。
「臣、公孫敖。新たな国君に忠を尽くします」
 尹喜はその姿を見ていた。敖は君位を取らなかった。その瞬間だけは、自分がこの男を信じてきたことは正しかったのだと思えた。老聃は即位の儀に姿を見せなかった。後で聞くと、やはり市場にいた。
     *
 最初の大きな命令は穀倉開放だった。
「基準が必要です」
 尹喜が言う。
「先に配れ」
 公孫敖が返す。
「対象を決めずに開けば混乱します」
「腹を減らしてる奴に基準を待たせるのか」
 公子申が間へ入る。
「3日だけ広く配りましょう。その間に尹喜殿が次の仕組みを作る」
 尹喜には、対象と量を先に定めず倉を開くことへの不安が残った。それでも公子申の決定に従った。倉の前には難民や貧しい家の者、子供を連れた母親が列を作り、役人たちが粟を量って渡していく。老聃は人の列から少し離れ、その様子を見てわずかに笑った。
「良いことですか」
 尹喜が尋ねる。
「腹を減らした者が食った」
「それだけ?」
「今は十分だ」
「私は、あなたは何もしない方がよいと言う人だと思っていました」
「何もしないことと」
 老聃は子供を見る。
「余計なことをしないことは違う」
     *
 政変が成功すると、今度は旧君派を一掃せよという声が出た。若い軍人の中には、宮城で抵抗した者をまとめて処刑すべきだと主張する者もいる。烈も最初は、その考えに近かった。
「戦った奴は責任を取るべきだ」
「何の罪で」
 尹喜が聞く。
「俺たちと戦った」
「そのとき誰が反逆者だった」
 烈が止まる。公孫敖が笑った。
「俺たちだ」
「父上」
「俺たちは反逆した。勝ったから、ここに座ってる」
 尹喜は言った。
「罪は具体的に裁く。誰の側だったかだけで裁かない」
 尹喜の脳裏に、国都へ向かう街道で見た木札が浮かんだ。反逆者。その2字を、勝った側が死体へ掛けていた。勝者は札を書く。だが今回は、自分たちがその札を書かずに済むかもしれない。
     *
 夜、尹喜と老聃は城壁の上にいた。昼間まで兵と荷車で詰まっていた道には灯が戻り、倉の前にはまだ粟を受け取る人の列が残っている。
「新しい国か」
 老聃が言った。
「そうです」
「城壁は同じだ」
 尹喜は城下を見下ろした。市場には灯が戻り、開いた倉の前では人が動いている。兵は少しずつ持ち場へ戻り、宮城には新しい国君がいる。目に見えるものは確かに変わっていた。
「人が変わりました」
「そうか」
「制度も変えます」
「そうか」
「良くできます」
「うむ」
「今度は、間違えません」
 老聃は何も言わなかった。
「新しい国か」
「そうです」
「城壁は同じだ」

第九章 新しい国

 最初に変わったのは税だった。政変から20日。国都の朝は以前と同じように太鼓で始まり、城門が開けば商人と牛車が入ってくる。市場には粟と豆が並び、塩商人は昨日と同じように客と値段を巡って喧嘩していた。国君が替わっても、朝の匂いや車輪の軋みまで変わるわけではない。それでも、帳簿の数字と人々の暮らしの間には、少しずつ新しい差が生まれ始めていた。
     *
「高すぎます」
 尹喜が言った。
「何がです」
 公子申が尋ねる。
「東部3邑(ゆう)の今年の徴収予定です」
「旧来の額でしょう」
「だから高い」
 東部では旱魃(かんばつ)が続き、邑によって収穫は2割から4割減っていた。前年と同じ額を取れば、帳簿上は変化がなくても、家々に残る穀物は確実に減る。
「減らしましょう」
 公子申が言った。
「待て」
 公孫敖が止める。
「収穫が減っているのに同額を取る方がおかしい」
「それはそうだ」
「では」
「一度減らすと戻すのが難しい」
 尹喜の顔が硬くなる。
「民が苦しんでいるのに、将来戻しにくいという理由で取るのですか」
「そういう言い方をすると、俺が悪人に聞こえるな」
「違いますか」
 公子申が2人を見比べて苦笑した。議論の末、被害の大きい地域は減税し、収穫のよい地域は従来どおり、余力のある豪族には臨時の負担を求めることになった。どちらか一方の理屈を通すのではなく、地域ごとに違う答えを置く形だった。
「尹喜殿が制度を整える」
 公子申が言う。
「大将軍が制度では動かない人を動かす」
「俺は人担当か」
「得意でしょう」
「まあな」
「最後に私が決めます」
「国君が?」
「私が国君なのでしょう」
 公子申自身が言ってから笑った。
「まだ慣れませんが」
 公孫敖が杯を上げる。
「そのくらいでいい。最初から慣れてる国君は怖い」
     *
 減税が帳簿の上だけの話ではないことを、尹喜は東部の村で知った。ある家では、徴収を終えた後にも前年より粟袋が2つ多く残っていた。土壁の家の隅に置かれた、たった2袋だった。
「今年は娘を売らなくて済む」
 主人が言った。
「売る?」
「去年、隣の家が冬を越すため、11歳の娘を大きな家へ奉公に出しました」
 尹喜は壁際の2袋を見た。役所の竹簡なら、減税によって残った穀物量を示す小さな数字にすぎない。だがこの家では、それが11歳の娘を家に残せるかどうかの差になっていた。
     *
 地方視察から国都へ戻ると、公孫烈が兵舎の木陰で昼寝をしていた。剣を枕元へ置き、兵と同じ粗末な敷物に転がっている。戦が終わってから、烈にはこうした時間が増えていた。
「烈」
「……うるさい」
「起きろ」
「敵か」
「私だ」
「じゃあ寝る」
「昼だ」
「知ってる」
 田嬰が言った。
「平和ですね」
 烈は空を見る。
「平和って暇だな」
「将軍が暇なら兵が死なない」
「でも暇だ」
「書類を手伝え」
「戦より嫌だ」
「兵法書を」
「読むと眠くなる」
「お前は――」
「喜」
「何だ」
「何か戦ないのか」
 尹喜の顔が固まる。烈は笑った。
「冗談だよ」
     *
 公孫敖は政変後も、旧君派と見なされていた官僚の一部を職に残した。尹喜には、それが最も理解しにくい人事の一つだった。
「反対です」
「だろうな」
「密告制度を支持した人物です」
「税には詳しい」
「信用できますか」
「できん」
「ではなぜ」
「仕事ができるから」
 尹喜が睨む。
「敵を全部消したらどうなると思う」
「安全になります」
「最初はな」
 敖は言った。
「全部消すと、次は味方の中から敵を探す」
     *
 政変の記録を任された若い史官(しかん)に、史角(しかく)という男がいた。まだ20代で、墨の染みた指のまま竹簡を抱えて歩き、出来事には必ず理由を書き添えたがった。ある日、その竹簡に史角はこう記していた。
「大将軍は民を救うため兵を挙げた」
 老聃が竹簡を覗く。
「本人に聞いたのか」
「まだです」
「なら、なぜ書く」
「布告に」
「本人に聞け」
 史角は困る。
「歴史は理由がなければ読めません」
「なら短くするために嘘をつくのか」
 そのやり取りの後も、史角は老聃を避けなかった。むしろ気になったらしく、今度は自分から記録と史書について尋ねた。
「勝者が記録を書き換えることはありましたか」
「あった」
「老聃殿も?」
「ああ」
「反対しなかった?」
「しなかった」
「なぜ」
「死ぬのが怖かった」
「あなたも臆病だったんですね」
「ああ」
「今なら」
「今もだ」
 史角は少し笑いそうになった。
「文字は書いた者より長く生きる」
 老聃が言う。
「良いことでは」
「時にはな」
「悪いときは」
「間違いも長生きする」
     *
 新しい政権が始まって2か月ほど経ったころ、ようやく旧君の消息が届いた。知らせを持ってきた使者は、東方の情勢を記した竹簡を公孫敖の前へ置いた。
「東の大国へ?」
 尹喜が聞く。
「ああ」
 公孫敖は笑っていなかった。洹公は東方大国で賓客(ひんきゃく)として厚遇され、なお洹国の正統な国君として扱われているという。それは単なる亡命者の保護とは違った。
「保護ではない」
 尹喜が言った。
「使うつもりだ」
 公子申は尋ねた。
「兄上は無事なのですか」
 公孫敖が見る。
「そこを最初に聞くか」
「兄ですから」
「生きてる」
     *
 夕方、尹喜が老聃を探すと、老人はまた市場にいた。北から連れてこられた若い馬の口を開け、商人に嫌がられながら歯を見ている。
「旧君が見つかりました」
「そうか」
「東の大国です」
「そうか」
「攻めてくると思いますか」
 老聃は馬から手を離した。
「お前たちが強くなればな」
「逆でしょう」
「何が」
「強くなれば攻めにくい」
「そうか?」
「当然です」
「では、なぜお前たちは強くなろうとしている」
「攻められないためです」
「向こうもそう思う」
「なぜ」
「怖いからだ」
 尹喜は黙った。すぐそばでは馬商人が声を張り上げ、北から来た若い馬へ以前より高い値を付けている。国境の向こうでまだ始まってもいない出来事が、宮城の報告より早く、馬の値段となって市場へ現れていた。大きな出来事そのものは遠い。だが、その影だけはもう国都へ届いていた。

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