第1章:無菌室の残骸と、汚れた共同鍋
#第1節
海崎市の冬は、気象庁が発表する統計データ以上に冷酷である。
日本海側特有の湿った雪が、重く、ねっとりとアスファルトを覆い隠していく。かつて地方創生のモデルケースとして整備されたはずの駅前大通りは、今や除雪車の巡回ルートから完全に外されていた。財政破綻に伴う行政サービスの縮小――市役所が用いる「インフラの最適化」という無機質な言葉の正体は、要するに「見捨てられた」という物理的な現実である。
街灯の半分は電球が切れたまま放置され、シャッターの降りたアーケード街には、雪の重みで歪んだトタン屋根の軋む音だけが規則的に響いていた。
その白い廃墟のような街を、一人の男が歩いていた。
桐島である。
彼が身にまとっているのは、かつてシンガポールのテーラーで仕立てたカシミヤ混のオーダーメイド・コートだった。しかし、氷点下の海崎市においては、それは滑稽なほど無力だった。生地はすでに数カ所の引き裂き傷から裏地が覗き、雪と泥水を吸い込んで重く冷たい鉛のように彼の体温を奪っている。足元のイタリア製レザーシューズは、凍結した路面を歩くための機能など最初から持ち合わせておらず、靴底から染み込んだ雪水が足の指の感覚をとうの昔に奪い去っていた。
「上部構造の敗北」と、桐島は凍りついた頭の片隅で自嘲した。
わずか半年前まで、桐島はグローバル資本主義の最前線、その最も華やかな「上部構造」に君臨していた。外資系トップファンドのシニア・ディレクター。彼が取り扱うのは、常に数百億円単位のプロジェクトだった。最後に彼が手掛けたのは、東南アジアにおける「スマートアグリ(環境配慮型農業)とカーボンクレジット創出プロジェクト」である。
ドローンによる土壌分析、AIを用いた収穫量の最適化、そして何より「持続可能な開発目標(SDGs)」という、現代の投資家たちが最も好む無菌状態の免罪符。桐島はそれを完璧なポートフォリオに仕立て上げた。彼は現地の小規模農家から強引に土地を買い上げ(あるいは事実上奪い取り)、それを「環境に優しい大規模スマート農場」へと作り変えた。
数字上、プロジェクトは完璧だった。温室効果ガスの削減量は改ざんされ、美しいレポートとしてロンドンやニューヨークの投資家たちにばら撒かれた。桐島は次期パートナー候補として、世界の頂点に手をかけていた。
だが、崩壊は唐突に訪れた。
国際的な環境NGOと気候変動ジャーナリストの共同調査により、プロジェクトの実態が「脱炭素を偽装した新植民地主義的な土地収奪(グリーンウォッシュ)」であると大々的に告発されたのだ。
炎上は瞬く間にグローバル市場を駆け巡った。ESG(環境・社会・ガバナンス)投資という「クリーンな正義」を標榜するファンドにとって、スキャンダルは致命傷になる。彼らの動きは早かった。ファンドの役員たちは、一切の表情を変えることなく、すべての責任を「現地責任者である桐島個人の暴走と不正」として切り捨てたのだ。
見事なトカゲの尻尾切りだった。法的責任、現地政府からの賠償請求、そしてメディアによる社会的制裁。そのすべてが桐島一人に押し付けられた。銀行口座は凍結され、資産は差し押さえられ、業界からは永久追放。さらには「捜査対象」としてパスポートまで事実上無効化され、日本からの脱出ルートすら絶たれた。
気がつけば、彼はただの「無一文の男」として、日本の寒空の下に放り出されていた。
何百万ドルという仮想の富を動かしていた男が、今やコンビニで温かい肉まん一つ買う現金すら持っていない。冷え切った空きっ腹が、胃袋という「下部構造」が、いかに人間の尊厳を簡単に打ち砕くかを桐島に教えていた。金がなければ、どれほど高度な金融知識も、流暢な英語も、何の役にも立たない。
なぜ、かつて知的なエリートであったはずの桐島が、役所の窓口へ駆け込んで生活保護という「最低限のセーフティネット」に頼ることすらせず、この地で餓死寸前まで追い詰められていたのか。
理由は二つあった。
一つは、極めて現実的で法的な理由だ。
ファンドの巨額損失と違法スレスレの取引の全責任を「トカゲの尻尾」として押し付けられた彼には、警察の経済事犯としての捜査の手、あるいはかつての雇い主たちが差し向けた弁護士軍団からの天文学的な損害賠償請求が迫っていた。
現代の行政システムは、完全にネットワーク化されている。役所の窓口で住民票を移し、身元(マイナンバー)を明かして保護を求めた瞬間、彼は即座に「システム」に捕捉され、すべてを搾り取られた上で刑務所へ送られる運命にあった。彼にとって行政機関とは、救済の場ではなく、致命的なトラップに他ならなかった。
そしてもう一つは、より深刻な心理的理由——システムに対する絶対的なパラノイア(偏執病的な恐怖)である。
完璧な「無菌室」であると信じていた資本主義の中心(金融街)から、ある日突然、汚物として冷酷に切り捨てられた強烈なトラウマ。それは桐島の精神に、「綺麗な社会」に対する底知れぬ嫌悪感と不信感を植え付けていた。
国家の「生かす権力(慈悲)」にすがり、生活保護受給者として管理され、監視され、再びシステムの歯車として透明な檻に繋がれること。それは、あの洗練されたエリートたちに二度殺されるも同然の屈辱だった。
管理された清潔な檻の中で家畜として生き延びるくらいなら、野良犬として吹雪の中で凍え死んだ方がマシだ。
その絶対零度の絶望と拒絶感が、彼を社会の網目(セーフティネット)から意図的に転落させ、「いない人間」として海崎市の雪の中へといざなったのである。
なぜ、海崎市だったのか。
それは桐島自身にもよくわからなかった。ネットカフェを転々とし、日雇いの仕事すらはじかれ、行き場を失って乗り込んだ鈍行列車が、たまたまここで終点を迎えただけだ。
だが、この街の風景は、今の桐島の境遇と奇妙な符合を見せていた。
数年前、海崎市は「冷たい正義」を執行した。不法滞在者や治安の不安要素とされた外国人労働者を、法令という名のシステムによって徹底的に排除したのだ。その結果、街は「無菌室」のように清潔になった。
しかし、それは死の始まりだった。
底辺の労働力を失った地場産業は次々と倒産し、税収は激減。若者は都市部へ逃げ出し、残されたのは年金と医療費を喰いつぶす高齢者と、維持できなくなったインフラの残骸だけだった。正しさを追求した結果、自らの首を絞め、緩やかに凍死しつつある街。それが海崎市の現在だった。
「……クソが」
ひび割れた唇から、白い息とともに悪態が漏れた。
誰に向けた言葉なのかはわからない。自分を嵌めたファンドの連中にか、それとも、SDGsという美しいパッケージで世界を覆い尽くそうとする冷徹なシステムそのものにか。
膝が笑い、視界が明滅を始めた。
体温の低下が限界を超え、脳が生命維持のシャットダウンを始めている証拠だった。心臓の鼓動が耳の奥でひどく遅く響く。
猛烈な空腹感すら、もはや麻痺して消え失せていた。代わりに、奇妙な多幸感と温かさが全身を包み込み始める。凍死する直前の人間が陥るという、末期的な幻覚だ。
雪に覆われた旧国道沿い。かつてはパチンコ店か大型スーパーだったのだろう、広大な駐車場の跡地の片隅に放置された、コンクリートの残骸に桐島は背中を預けた。
もう、一歩も動けなかった。
(俺は、こんなところで終わるのか)
コンプライアンス、ガバナンス、サステナビリティ。
あいつらが会議室で弄んでいた、血の通っていないプラスチックのような言葉たちが、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。それにしがみつき、踊らされ、最後はババを引かされて捨てられた。
視界が真っ白な雪に塗りつぶされていく。
すべてが凍りつき、静止する世界。
意識が完全な暗闇に沈み込む直前。
雪を踏みしめる「ざくり、ざくり」という荒々しい足音が、桐島のすぐ耳元で止まった。
「おい。こんなとこで寝てると、死ぬぞ」
ぶっきらぼうで、ひどくしゃがれた日本語だった。
それが、桐島が海崎市の「泥臭い熱」と接触した、最初の瞬間だった。
#第2節
強烈な異臭が、桐島の意識を現実に引き戻した。
錆びた鉄と、カビの生えたコンクリート。それに、正体不明の獣の脂と、くず野菜を強引に煮込んだような濃密な匂い。それは、かつて彼が暮らしていた無臭のタワーマンションや、完璧に空調管理されたファンドのオフィスとは対極にある、圧倒的な「生の悪臭」だった。
重い瞼を開けると、視界の先でドラム缶の中で燃える炎が赤々と揺れていた。
パチパチと廃材が爆ぜる音に混じって、複数の言語が入り乱れた怒声が響いている。
桐島は、自分が硬いパイプベッドの上に寝かされており、泥だらけの毛布を被せられていることに気づいた。カシミヤのコートは剥ぎ取られ、代わりに石油ストーブの熱と、無数の人間から発せられる体臭が、冷え切った彼の身体に暴力的なまでの熱を送り込んでいる。
(ここは、どこだ……?)
ゆっくりと上体を起こし、周囲を見渡す。
そこは、巨大な屋内空間だった。見上げるほど高い天井には無骨な鉄骨が剥き出しになり、窓ガラスの多くは割れ、段ボールやブルーシートで乱暴に塞がれている。壁面にはかすかに「海崎市農業協同組合・第三集出荷場」という色褪せたペイントが残っていた。
かつては地元の農産物が集められ、整然と仕分けられていたであろうその巨大な廃墟は、今や巨大なスラム、あるいは不法占拠キャンプ(スクワット)と化していた。
コンクリートの床の上には、拾い集めてきたテントやベニヤ板で作られた粗末な居住スペースが無数にひしめき合っている。通路には得体の知れない自動車の部品や、解体された家電の残骸が山積みになっていた。
「ふざけんな! ここは俺が先に入った場所だぞ! 勝手に荷物置くんじゃねえ!」
突然、すぐ近くから日本語の怒鳴り声が上がった。
声の主は、薄汚れたドカジャンを着た初老の男だった。無精髭を生やし、落ち窪んだ目には血走った怒りが宿っている。
「ウルサイ、ニホンジン! アナタ、昨日、仕事サボッタ! ココ、トアンの場所! アナタ、文句アルナラ、出て行ケ!」
男に相対しているのは、東南アジア系の若い男だった。流暢とは言いがたいが、妙に凄みのある日本語で怒鳴り返し、手にしたバールでコンクリートの床をガンガンと叩きつけている。
「なんだとコラ! 調子に乗るなよ、数年前まではお前らみたいな不法滞在者は、俺たちがこの街から叩き出してたんだぞ!」
「昔ノ話、関係ナイ! 今、オマエ、金ナイ! 家ナイ! ゴミ同ジ!」
取っ組み合いの喧嘩が始まる。周囲にいる他の人間たち——その多くがアジア系の移民労働者や、行き場を失ったらしい中高年の日本人たち——は、止めるどころか、どちらが勝つかを賭けるように野次を飛ばしている。
桐島は、その異様な光景を呆然と見つめた。
貧困層のシェルターによくあるような、ボランティアによる「温かい支援」や「助け合いの精神」など、ここには微塵も存在しなかった。あるのは、互いの生存領域をミリ単位で奪い合う、剥き出しの摩擦だけだ。
そもそも、なぜ彼らがこの極寒の廃工場に身を寄せ合い、飢えに苦しまなければならなかったのか。労働力不足が叫ばれる現代日本において、五体満足な彼らが「普通の仕事(アルバイトや土木作業)」に就けないのには、社会構造的な明確な理由があった。
それは、現代社会を覆い尽くす「コンプライアンス」という名の、透明で冷酷な排除(フィルター)である。
ここの日本人労働者は、数年前にこの海崎市で起きた「自警団による外国人排斥暴動」の中心メンバーだった。彼らの名前や顔写真、逮捕歴は「デジタルタトゥー」としてインターネット上の海に永遠に刻み込まれている。企業がコンプライアンスに異常なほど過敏になった今の時代、簡単な反社チェックやネット検索ひとつで、彼らは「過去に暴動を起こした危険人物」として弾かれてしまう。面接に行っても門前払いされ、日雇いの派遣登録すら断られる日々だった。
一方の多国籍な移民グループも同様だ。彼らの多くは、技能実習生という名目で安価な労働力として連れてこられ、悪徳ブローカーやブラック企業に極限まで搾取された果てに逃げ出した「オーバーステイ(不法滞在者)」である。正規の労働市場(ルート)に乗ることは不可能であり、役所や警察に助けを求めれば、即座に入管の収容施設へ送られ、強制送還される。彼らもまた、社会の網目から完全にこぼれ落ちた存在だった。
美しい「多文化共生」や「クリーンな労働環境」を謳う表の社会は、一度でもエラーを起こした人間や、法的な規格から外れた存在を決して許容しない。
履歴書に書けない過去を持つ者たちは、合法的な手段でカロリー(金)を稼ぐ道を完全に断たれ、この社会の最底辺である廃工場へと吹き溜まるしかなかったのである。
システムから弾き出された「剥き出しの生(ホモ・サケル)」たちにとって、この泥にまみれた空間だけが、唯一息を潜めていられる最後の砦だった。
「……起きたか、インテリ崩れ」
不意に、横から声をかけられた。
振り返ると、先ほどまで東南アジア系の若者と取っ組み合っていたドカジャンの男が、口の端を切って血を流しながら立っていた。喧嘩は引き分けに終わったらしい。
男は「健太」と名乗った。
かつて海崎市で、自警団のリーダー格として外国人排斥運動の先頭に立っていた男だという。しかし、彼が信じた「冷たい正義」によって街の経済が完全に崩壊した後、皮肉にも彼自身が職と家を失った。
「あんた、あの雪の中で完全に死にかけてたぞ。トアンの若い衆が、産廃の不法投棄に行った帰りに、道端で転がってるあんたを拾ってきたんだ」
健太はそう言いながら、ドラム缶の上で煮立っていた巨大な寸胴鍋から、凹んだアルマイトの椀にドロドロの汁をすくい取った。
「ほら、食え。胃袋に熱入れねえと、またすぐ死ぬぞ」
差し出された椀からは、刺激的なスパイスと、廃棄直前の野菜が放つ独特の酸い匂いが立ち上っていた。具材の多くは、近隣の移民系スーパーで売れ残ったクズ肉や、規格外で捨てられた農化物だという。それを、人種も国籍も関係なく、ただ「腹を空かせている」という一点において一つの鍋で煮込んでいるのだ。
「……こんな不衛生なもの、食えるか」
エリートとしての最後のプライドが、桐島の口から反射的にそんな言葉を吐き出させていた。
健太は鼻で笑った。
「そうかよ。じゃあ、死ね。お前みたいな綺麗なツラした奴が、どんな御大層な理由でこの街に転がり落ちてきたかは知らねえ。だがな、ここではコンプライアンスだの、衛生管理だの、そんなもんを口にする奴から先に死んでいくんだ」
健太は桐島の目の前で、椀の汁をズズッと音を立ててすすった。
「数年前まで、俺はあいつら(移民)をこの街のガンだと思ってた。綺麗で正しい日本を取り戻すために、あいつらを追い出した。……その結果がこれだ」
健太は、廃工場を埋め尽くすテントの群れと、怒鳴り合う人々を自嘲気味に指差した。
「国も市も、俺たちを見捨てた。今、この街でカネと仕事を持ってるのは、独自のネットワークで空き家を買い叩き、産廃から農業まで何でもやるあいつら(移民)のボスの『トアン』だけだ。俺たち日本人は、かつて見下していたあいつらに使われて、その日の残飯を恵んでもらうしかねえんだよ」
健太の言葉には、深いルサンチマン(怨恨)と、どうしようもない自己嫌悪が混じっていた。かつての加害者が被害者に寄生し、罵倒し合いながらも、同じ廃墟で肩を寄せ合って生きている。
それは、SDGsや多様性といった「上部構造の綺麗な理念」が完全に破綻した後に残る、極めて歪で、しかし圧倒的にリアルな「下部構造の生態系」だった。
桐島の腹の底で、ギュルルルと、猛烈な音が鳴った。
理屈ではない。身体の細胞すべてが、その不衛生で泥臭い椀の中身を欲していた。
桐島は無言で健太から椀を奪い取ると、両手で包み込むようにして口をつけた。
塩辛く、脂っこく、舌が焼けるほど熱い。どんな高級レストランのスープよりも粗悪な味がした。だが、ドロドロの汁が食道を通り抜け、胃の腑に落ちた瞬間、桐島の全身に強烈な「生の熱」が広がった。
涙が出そうになるほどの、物理的な熱だった。
「……悪くないだろう」
健太がニヤリと笑った。
東京の洗練されたオフィスで、データと理念だけで世界を動かした気になっていた桐島は、すべてを失い、この海崎市の最底辺で、見ず知らずの移民と没落した日本人が共有する「汚れた鍋」によって命を救われた。
外の世界は、完璧な規則と冷たい正義によって完全に凍りついている。
しかし、この悪臭漂う吹き溜まりの中だけは、人間同士の醜い摩擦によって、確かに湯気を立てていた。
桐島は椀を空にすると、手の甲で口元を乱暴に拭い、廃工場の天井を見上げた。
彼の中で、何かが完全に切り替わる音がした。
#第3節
夜が明けても、廃工場の巨大な空間に差し込む光はわずかだった。すりガラスの多くは長年の雪と泥で汚れきり、あるいはベニヤ板で塞がれているため、薄暗い屋内には常に投光器と石油ストーブの濁ったオレンジ色の光が揺らめいている。
翌朝、桐島は鼓膜を劈くような金属音と、多言語が入り乱れる怒号によって目を覚ました。
「おい、起きろ。朝の配給(メシ)が終わったら、すぐに仕事だ」
パイプベッドのパイプを蹴り上げながら、健太が見下ろしていた。昨日と同じ、油と泥にまみれたドカジャン姿だ。
桐島が身を起こすと、工場の中心に設けられた広場——かつてはトラックの荷捌き場だった場所——に、数十人の男たちが群がっていた。ベトナム語、タガログ語、中国語、そして粗野な日本語。彼らは皆、目つきが鋭く、同時にひどく飢えていた。
「仕事、だと? 俺がここで働くというのか」
「当たり前だ。ここは慈善施設じゃねえ。あの配給のスープだって、タダじゃないんだぞ。お前が昨日食った分のツケは、俺が払ってやってるんだ。今日から体で返せ」
有無を言わさぬ健太の態度に、桐島は反論を飲み込んだ。
かつて一時間あたり数十万円のコンサルティング・フィーをクライアントに請求していた彼が、今は一杯の泥スープのために日雇い労働を強いられようとしている。だが、不思議と屈辱感はなかった。胃袋という絶対的な下部構造の支配下において、それは極めて論理的で、正しい等価交換に思えたからだ。
健太に連れられ、群衆の輪に加わる。
その中心で、パイプ椅子にふんぞり返り、分厚い札束と手帳を握りしめている男がいた。
トアンだった。
年齢は三十代半ばだろうか。浅黒い肌と、鋭く吊り上がった双眸。首元には派手な金のネックレスが光っているが、着ているのは実用的な作業着である。彼は海崎市に居座る移民グループの顔役であり、このコミューンにおける実質的な「支配者」だった。
「キョウは、産廃の解体が五人。国道沿いの雪かき(不法占拠した駐車場の整備)が十人。あと、隣町の農家のビニールハウス解体、力アル奴、八人」
トアンがたどたどしいが通る声で、今日の「仕事」を割り振っていく。
日本の公共職業安定所(ハローワーク)から完全に切り捨てられたこの場所において、トアンのネットワークがもたらすグレーな日雇い労働だけが、彼らの命綱だった。不法投棄された鉄クズの回収、廃屋の解体、あるいはヤクザ者が持ち込む出所の怪しい荷物の運搬。日本の行政や正規の企業が「コンプライアンス」を理由に手を汚したがらない最下層の泥仕事(シャドウ・ワーク)を、トアンのグループが独占的に請け負っているのだ。
「おい、トアン。俺たちにも解体の仕事を回せ。昨日は雪かきばかりで、実入りが少ねえんだよ」
健太が進み出て、トアンに凄んだ。その声には、かつて「この街の自警団」として彼らを排斥していた頃の威圧感の名残があった。
しかし、トアンは鼻で笑った。
「ケンタ、オマエラ日本人、すぐ文句イウ。スグ休ム。ベトナムの若いヤツ、文句イワナイでヨク働ク。ダカラ、解体ハ譲レナイ」
「ふざけるな! ここは元々、俺たちの街だぞ!」
「ムカシの話、イミナイ。今、オマエ、俺の金でメシ食ッテル。ワカルカ?」
トアンが札束で健太の胸をポンと叩く。
健太の顔が屈辱で朱に染まり、拳がギリリと鳴った。周囲にいた移民の若者たちが、一斉に健太を取り囲むように殺気立つ。一触即発の空気が場を支配した。
「……わかった。雪かきでも何でもいい。仕事をくれ」
数秒の沈黙の後、健太は深く頭を下げた。
かつての加害者が、被害者に完全に屈服した瞬間だった。それは道徳的な反省や贖罪などではない。ただ単に「食うため」の敗北である。トアンは満足げに頷き、健太の足元に丸められた千円札を数枚投げ捨てた。
桐島は、そのヒリヒリとするような権力構造の逆転劇を、静かに観察していた。
(見事なエコシステムだ)
と、桐島は内心で唸った。
日本というシステムから弾き出された移民たちが、強固な血縁と地縁のネットワーク(アサビーヤ)で裏の経済圏を確立し、そこに没落した日本人たちが寄生している。彼らは互いに憎悪し合い、隙あらば相手を出し抜こうとしているが、決して相手を完全に排除しようとはしない。なぜなら、日本人の名義や土地勘がなければトアンたちは仕事を拡大できず、トアンの仕事がなければ健太たちは餓死するからだ。
「多様性の尊重」といった綺麗事のパッケージを完全に剥ぎ取った後に残る、生存のための剥き出しの摩擦。この醜くも強靭な共犯関係こそが、凍りついた海崎市の中で唯一、熱を放っているエンジンの正体だった。
「ほら、お前も来い。新入りだからって手加減はしねえぞ」
健太が千円札を拾い集め、桐島を睨みつけた。
作業現場へ向かうため、重い足を引きずって工場の出口へ向かう途中、桐島は奇妙な男とすれ違った。
年齢は三十代後半だろうか。ひどく痩せこけており、焦点の合わない虚ろな目をしている。男は、怒号が飛び交い、喧嘩が絶えないこの混沌とした空間において、まるでそこだけ時間が止まっているかのように、ただ黙々と通路のゴミを拾い集め、分別していた。
「……あの男は?」
桐島が尋ねると、健太は忌々しそうに舌打ちをした。
「巳之吉(みのきち)だ。この街が『無菌室』になった原因を作った張本人だよ」
健太の口から語られた過去は、陰惨なものだった。
数年前、海崎市が徹底的な外国人排斥と治安維持(冷たい正義)に狂奔していた頃、巳之吉は自らの妻——「ユキ」と呼ばれていた不法滞在者の女——を、自らの保身と街のルールのために行政のシステムへと売り渡したのだという。
結果として街は「浄化」されたが、その代償として巳之吉は精神を完全に破壊され、感情と人間性を喪失した。今では一言も言葉を発することなく、機械のようにコミューンの雑用をこなすだけの抜け殻になっている。
「誰もあいつに話しかけねえし、あいつも何も感じてねえ。あの雪の降る日以来、あいつの時間は凍りついたままなんだ」
桐島は、ゴミ袋を引きずる巳之吉の後ろ姿を見つめた。
彼もまた、システムという「巨大な正義」に魂を喰い殺された犠牲者の一人だ。己の手で最も大切なものを切り捨て、手に入れたはずの「正しい社会」はとうに崩壊し、今はただ廃墟の底で残飯を漁っている。
「行くぞ、インテリ。泥水をすする覚悟はできたか?」
健太の粗野な声が、桐島を現実に引き戻した。
「……ああ。資本の論理は、泥の中でも変わらない」
桐島は、自分に割り当てられた錆びたスコップを握りしめた。
手袋すらない両手に、凍えるような鉄の冷たさが伝わってくる。だが、彼の胸の奥では、かつて東京のオフィスで感じていた虚無感とは全く異質の、泥臭く、ドス黒い野心の火種が静かに燃え上がり始めていた。
彼らは外の雪嵐の中へと足を踏み出した。
海崎市の絶対零度の底辺で、生き延びるための熱を生み出す、果てしない労働の1日が始まる。
#第4節
海崎市の鉛色の空から、粉雪が絶え間なく舞い落ちていた。
旧国道沿いに放置された巨大な廃パチンコ店の駐車場。そこが、今日の桐島たちに割り当てられた「現場」だった。作業内容は単純にして過酷だ。重機が入らない(あるいは、金がなくて入れられない)この広大なアスファルトの雪を人力で掻き分け、雪の下に埋もれた不法投棄の鉄クズや廃バッテリーを掘り起こし、トアンの手配したトラックに積み込むこと。
「手を止めるな、インテリ! 身体が冷えたら一瞬で凍傷になるぞ!」
健太の怒号が飛ぶ。桐島は無言で錆びた鉄スコップをアスファルトに突き立てた。
数時間前まで、彼の両手には万年筆のタコすらなかった。それが今や、粗悪な軍手の中で手のひらの皮がズル剥けになり、血と泥が混ざり合って柄にへばりついている。腰の筋肉は悲鳴を上げ、息を吸い込むたびに氷点下の冷気が肺を刺した。
「……こんな非効率な作業、重機をリースすれば一時間で終わる」
荒い息を吐きながら、桐島は呪詛のように呟いた。
「バカ言え。リース屋が俺たちみたいなホームレス上がりや、トアンのところの無国籍者にショベルカーを貸すわけがねえだろうが。それに、重機を使えば『目立つ』んだよ」
健太は手際よく廃バッテリーの端子をハンマーで叩き割りながら、周囲を油断なく見回した。
彼らがやっていることは、限りなくブラックに近いグレーな廃品回収だ。地主の許可など当然取っていない。もし地元警察のパトカーが巡回にくれば、ただちに「不法侵入」と「窃盗」で挙げられる。
だからこそ、トアンは現場の責任者として健太たち「日本人」を配置しているのだ。
万が一警察に踏み込まれても、健太という元自警団の地元民が「ちょっとゴミを拾っていただけだ」と矢面に立てば、行政の対応は途端に鈍くなる。日本の警察は、不法滞在者の集団犯罪には敏感だが、地元のホームレスまがいの日本人が行うセコい廃品回収には驚くほど及び腰になる。トアンはその日本社会の「システムのバグ(偏見と手続きの煩雑さ)」を熟知し、健太たちを肉の盾(バッファー)として利用しているのだ。
「オイ、ケンタ! ソッチの鉄クズ、早クこっちニ持ッテコイ! トラック、出ル時間ダ!」
荷台の上から、トアンのグループの若いベトナム人が顎でしゃくった。
健太の顔色が変わる。
「ふざけるな、クソガキ! こっちは雪かきまでやってやってんだ。積み込みくらいテメエらで降りてきてやりやがれ!」
「オマエラ、ノロマ! 使エナイ日本人、文句バッカ!」
「なんだとコラ、もういっぺん言ってみろ!」
健太がハンマーを握り直してトラックに詰め寄る。荷台の若者たちも鉄パイプを手に立ち上がり、多国籍の罵声が雪空に響き渡った。
桐島はスコップに寄りかかりながら、その一触即発の泥仕合を冷ややかに眺めていた。
エリート層が好んで使う「ダイバーシティ(多様性)」や「インクルージョン(包摂)」といった言葉は、ここでは何の役にも立たない。彼らは互いの文化を尊重する気など毛頭ないし、わかり合う気もない。かつて街の浄化を掲げて移民を追い出した健太の心根には、未だに彼らに対する見下したようなナショナリズムがこびりついている。一方の移民たちも、没落した健太たちを「システムから見捨てられた哀れな敗北者」として徹底的に侮蔑している。
ハンナ・アーレントが提唱した「複数性」——異なる背景を持つ人間が、互いに全く理解し合えないまま、それでも同じ空間に存在してしまうことの居心地の悪さ。それが、ここでは最悪の形で煮詰まっている。
だが、暴動には発展しない。
健太も、ベトナム人の若者たちも、互いに罵り合いながらも、最終的にはトラックへの積み込み作業を再開したのだ。
(これが、下部構造の絶対性か……)
桐島は荒い息を整えながら、彼らの行動原理を分析した。
どれほど憎み合っていようと、今日このトラック一杯の鉄クズを売り捌かなければ、彼ら全員の明日の飯がない。理念や道徳ではなく、「胃袋を満たす」という極めて唯物論的な目的だけが、彼らを無理やり繋ぎ止めている。シャンタル・ムフの言う「闘技的民主主義」の、最も泥臭く、最も機能的な形がここにあった。
「綺麗なコンセンサス(合意)」などなくても、摩擦と熱さえあれば経済は回るのだ。
作業が一段落し、冷え切ったアスファルトの上で短い休憩が取られた時だった。
雪を踏みしめる静かな足音が近づいてきた。
「……また、出たな」
健太が忌々しそうに舌打ちをした。
視線の先には、昨晩コミューンで見かけたあの虚ろな目をした男——巳之吉の姿があった。
彼は薄手のジャンパー一枚という凍死しかねない格好で、片手に大きな黒いゴミ袋を引きずっている。健太たちが掘り起こした雪の跡を辿り、彼らが「売り物にならない」として投げ捨てた細かなプラスチック片や、へし折れた釘などを、無言で拾い集めていた。
「あいつ、何をしているんだ?」
桐島が尋ねると、健太はポケットから潰れたタバコの箱を取り出しながら鼻で笑った。
「コミューンの掃除さ。あいつは毎日、俺たちが作業した後の現場をウロウロして、誰も見向きもしないゴミを拾い集めてる。トアンの連中も、あいつのことだけは不気味に思って手を出さねえ。完全に壊れちまってるんだよ」
健太の言う通り、巳之吉の動きには人間らしい目的意識が欠如していた。ただプログラムされた機械のように、延々と無価値なゴミを拾っては袋に入れている。
かつて、この海崎市に「冷たい正義」をもたらし、街を無菌室に変えた男。
妻という最も身近な他者をシステムに差し出すことで、自らの感情と人間性を代償に支払った男。
巳之吉が桐島たちのすぐ横を通り過ぎた。
その横顔には、怒りも、悲しみも、絶望すらもなかった。完全に絶対零度で凍りついた空虚。摩擦を恐れ、すべてを正しさに委ねた人間の、それがなれの果てだった。
「……凍え死にたくなければ、熱を持て、か」
桐島は、かつての惨劇の記憶として語り継がれているユキの「呪い」の言葉を、脳内で反芻した。
正しい社会(システム)のルールに従った巳之吉は抜け殻になり、ルールから外れ、泥にまみれていがみ合う健太やトアンたちは、醜くも確かに生きている。
(そうだ。綺麗事で飢え死にするくらいなら、悪臭を放つ泥沼で資本をすするべきだ)
桐島は、ズル剥けになった手のひらの血をズボンになすりつけると、再びスコップを握った。
この狂った生態系には、致命的なまでに「戦略」が欠けている。健太のマンパワーも、トアンの流通ネットワークも、今のままではその日暮らしの底辺労働から抜け出せない。だが、もしこれらをシステマティックに統合し、資本主義の急所を突くベクトルへと向け直すことができれば——。
エリート時代に培った冷酷なまでの計算式が、桐島の凍りついた脳内で再び火花を散らし始めていた。それは、この海崎市という辺境の地で、彼が新たな「怪物」として産声を上げようとしている兆しだった。
「おい新入り、休んでる暇はねえぞ。次のトラックが来る!」
健太の怒声に、桐島は口角をわずかに釣り上げた。
「ああ。わかっている。……死ぬまで稼ごうじゃないか」
雪は、まだ降り止まない。
だが、桐島の身体の奥底では、決して消えることのない泥臭い熱が、確実に胎動を始めていた。
#第5節
日が完全に落ちると、海崎市の廃墟はさらに深い絶対零度の闇に沈んだ。
だが、旧農業協同組合の巨大な廃工場の中だけは、不気味なほどの活気と熱気に満ちていた。
一日の過酷な肉体労働を終えた男たちが、吐く息を白くしながら次々と帰還してくる。凍え切った身体を引きずりながら、彼らが真っ先に向かうのは、工場の片隅に設けられた「帳場」だった。
薄暗い裸電球の下、会議用の長机に座って分厚い大学ノートと電卓を叩いている若者がいた。リクである。
年齢は二十代前半。色素の薄い髪を無造作に束ね、ダボついた分厚い古着のダウンジャケットを着込んでいるため、体つきからは性別を判別できない。顔立ちには中性的な端正さが残っているが、その目はひどく冷めきっていた。
「おいリク、今日の雪かきの分の上がりだ。計算しろ」
健太が、トアンから受け取った日当の千円札の束を、乱暴に机の上に放り投げた。
リクは無言で札束を手に取ると、驚くべき手際の良さで枚数を数え、その一部をピンハネして鉄のキャッシュボックスに放り込んだ。
「ピンハネ分、今日は一割五分ね。ストーブの灯油代が高騰してるから」
「はあ? ふざけんな、昨日までは一割だったじゃねえか! お前、男か女か知らねえが、トアンの野郎に取り入って上前をピンハネしやがって……!」
健太が凄むが、リクは全く動じず、冷たい視線を健太に射返した。
「私が男か女かなんて、あんたの胃袋には関係ないでしょ。文句があるならトアンに直接言いなよ。ただし、灯油が買えなくなって明日から全員で凍死することになるけどね。はい、これが残りの分。さっさと受け取って後ろつかえてるから退いて」
健太は忌々しそうに舌打ちをしたが、それ以上は反論せず、くしゃくしゃの札束をひったくって配給の鍋の方へと歩き去った。その後ろ姿を見送るリクの顔には、微かな嘲笑すら浮かんでいた。
桐島は列の後ろから、そのやり取りを興味深く観察していた。
リクはトアンのグループに属しているわけではないが、この混沌としたコミューンの「裏帳簿」と「資金管理」を実質的に一人で取り仕切っているようだった。計算が早く、複数の言語が飛び交うこの場所で、誰もが嫌がる泥臭い事務作業とピンハネの憎まれ役を淡々とこなしている。
リクの順番が来た桐島に目を留めると、その手がピタリと止まった。
「……あんた、見ない顔だね。新入り?」
「昨日拾われた。桐島だ」
桐島が短く答えると、リクは桐島の泥だらけの顔と、その下に着ているボロボロだが仕立ての良いシャツを一瞥した。
「ふうん。まあ、どうせ東京あたりでしくじって逃げてきたんでしょ。ここでは過去の肩書きなんて一円の足しにもならないからね」
「お前こそ、こんな場所に似つかわしくないな。その計算の速さと正確さなら、いくらでもマシな仕事があっただろうに」
桐島の言葉に、リクは電卓を叩く手を止め、自嘲気味に笑った。
「マシな仕事、ね。……私はトランスジェンダーなんだけどさ。東京の『マシな企業』で、SDGs推進室のパンフレットに載るための『多様性の象徴』として雇われてたんだよ」
リクの口から語られたのは、現代のグローバル資本主義が抱える「進歩的ネオリベラリズム」の最も醜悪な実態だった。
企業はリクを「理解ある職場のシンボル」として重用し、メディアの取材には笑顔で対応させた。だが、裏ではリクの専門的なスキルなど一切評価せず、ただの「便利なマイノリティのアイコン」として消費し尽くした。腫れ物のように扱われ、クリーンで美しい無菌室のショーケースの中に閉じ込められる日々。精神を病み、すべてを捨てて行き着いた先が、この海崎市の最底辺だった。
「東京の連中は、私のことを可哀想なマイノリティとして優しく扱ってくれたよ。でも、私の『胃袋』や『労働』なんてどうでもよかったんだ。ここは違う。健太みたいに偏見剥き出しの差別用語を平気で投げつけてくるクソみたいな連中ばかりだけど……私が帳簿の計算を間違えなければ、誰一人として私の『存在』を否定しない。労働力として対等に怒鳴りつけてくれる」
リクは桐島を真っ直ぐに見据えた。
「綺麗な言葉で消費されて餓死するくらいなら、偏見まみれのこの泥沼で、計算機叩いて生きてる方がよっぽどマシ。……あんただって、綺麗な正義の裏側に絶望して、ここに来たクチでしょ?」
図星を突かれ、桐島は口角をわずかに上げた。
「ああ。俺はかつて、お前のような人間をサステナビリティ・レポートの表紙に載せて、投資家から数十億を引っ張ってくる側の人間だった。……最悪のクズだ」
「知ってる。あんたからは、東京のあいつらと同じ、冷たい嘘の匂いがするから」
二人は、互いの正体(システムから弾き出された上部構造の難民)を瞬時に理解し合った。理解と共感ではない。同じ地獄を見た者同士の、乾いた共犯関係の始まりだった。
「話は終わりだ。俺の分の上がりを計算してくれ」
桐島が言うと、リクは素早く電卓を弾き、数枚の千円札と小銭を差し出した。
「歓迎するよ、クズの元エリートさん。せいぜい凍え死なないようにね」
桐島は現金を受け取り、広場の中央で湯気を立てている巨大な寸胴鍋へと向かった。
昨日は生きるために無我夢中で貪った泥スープの配給だが、今日は違った。桐島は鍋の列に並びながら、このコミューンの生態系をコンサルタントの冷徹な目で俯瞰していた。
鍋の周りでは、トアンたち移民グループと、健太たち日本人労働者が、些細な順番の割り込みで再び取っ組み合いの喧嘩を始めている。言葉の壁と過去の憎悪がぶつかり合い、怒号が飛び交う。だが、配給を取り仕切るリクが「暴れる奴にはメシは抜きだ!」と一喝すると、彼らは渋々ながらも列に戻り、同じ鍋からすくい取られたスープをそれぞれの椀に受け取っていく。
決して混ざり合うことのない水と油。しかし、同じ火にかけられた一つの鍋を囲むことで、彼らは「今日を生き延びる」という強烈な目的(アサビーヤ)を共有している。
ここには、日本社会が喪失した「野生の熱」があった。
(健太のマンパワー。トアンの裏の流通網。リクの冷徹な管理能力。そして……)
桐島の視線の先には、喧噪から離れた暗がりで、誰とも交わることなく一人黙々と椀の汁をすすっている巳之吉の姿があった。感情を失った男ですら、ここでは胃袋を満たすために共同体の輪の片隅に寄生している。
(この熱を束ねて、資本主義のシステムそのものに叩きつけることができれば……俺たちは、もう一度世界を喰い破れる)
桐島の順番が来た。健太が不愛想に、椀いっぱいのスープを注ぎ入れて渡してくる。
具材の原型すら留めていない、茶色く濁った泥のようなスープ。
桐島は椀を両手で持ち上げ、その熱を手のひらに深く刻み込むようにして、一気に喉の奥へと流し込んだ。
胃の腑が燃えるように熱い。
細胞の隅々にまで、泥まみれのカロリーと暴力的な活力が染み渡っていくのを感じる。
彼は空になった椀を見つめ、静かに、しかし確かな決意を持って呟いた。
「冷たい正義の中で凍え死ぬつもりはない。……俺が、この泥水で資本を作ってやる」
外では、海崎市を無菌室に閉じ込めようとするかのように、冷たい雪が降り続いている。
しかし、廃工場の奥底で燃えるドラム缶の炎と、互いを罵倒しながら生き延びる男たちの熱気は、その雪を内側から確実に融かし始めていた。
(第1章 了)
## 第2章:凍える胃袋と、清貧の限界
### 第1節
海崎市に、容赦のない厳冬が到来した。
日本海側特有の重く湿った雪雲が空を覆い尽くし、海から吹き付ける刃物のような北風が、街の体温を根こそぎ奪っていく。
旧農業協同組合の廃工場は、広大である分だけ絶望的に寒かった。トタン屋根と薄い鉄板の壁は外気をほぼ素通りさせ、割れた窓ガラスやすき間からは粉雪がひっきりなしに舞い込んでくる。それはもはや「風雨を凌ぐ場所」ではなく、数十人の人間を閉じ込めた巨大な冷凍庫(フリーザー)だった。
「……クソッ、芯まで冷えやがる」
息を白く吐きながら、健太は薄汚れた毛布にくるまり、小刻みに震えていた。
広場の中央に置かれた巨大な寸胴鍋の下で、わずかな廃材が弱々しい炎を上げている。だが、その熱は広すぎる空間と冷え切ったコンクリートの床に吸い込まれ、数十人の男たちが暖をとるにはあまりにも貧弱だった。
工場内に響き渡るのは、絶え間ない「咳」の音だ。
過酷な肉体労働、慢性的な栄養失調、そしてこの異常な低温。悪条件が重なり、トアンのグループに属する若いベトナム人の数名と、日本人労働者の中でも特に高齢の者たちが、次々と重い風邪に倒れていた。
「おい、トアン。あいつら、熱が全然下がってねえぞ。息も荒い」
健太が、床に敷いた段ボールの上で丸くなっている若者たちを見下ろして言った。
「ワカッテル。ダガ、ドウシヨウモナイ」
トアンは、寒さで唇を紫色に腫らしながら、吐き捨てるように答えた。
「病院ニ行ク金ナンテナイ。保険証モナイ。……暖カイ布団モ、薬モナイ。駅前ノ薬局ノ棚ニハ山ホド風邪薬ガ並ンデルノニ、俺タチハ一粒モ手ニ入レラレナイ」
トアンの言葉には、どうしようもない無力感と、分厚いガラス越しに自分たちを見殺しにする「社会のシステム」への強烈な憎悪が滲んでいた。
「……仕方ねえ。みんな、ありったけの小銭を出してくれ! せめて灯油と、一番安い解熱剤くらいは買ってこねえと、マジで死人が出るぞ!」
健太は立ち上がり、自分が被っていたニット帽を脱ぐと、それを寄付箱代わりにして工場内を回り始めた。
かつて「善良な市民」として自警団の先頭に立ち、不法滞在者を街から追い出そうとしていた頃の彼なら、こんな惨めな真似は絶対に死んでもやらなかっただろう。だが、どん底に落ちた今、ちっぽけなプライドを気にしていては命が繋がらない。
日本人たちも、移民たちも、無言でポケットを探り、汚れた十円玉や百円玉、時には一円玉を健太の帽子の中に放り込んでいった。
そこにあるのは、システムから見捨てられた者同士の、確かに純粋で美しい「相互扶助(助け合い)」の精神だった。
「……これで全部だ。リク、計算してくれ」
健太は、集まった小銭を、帳場代わりのドラム缶の上にジャラジャラとぶちまけた。
分厚いダウンジャケット(これも不法投棄のゴミの山から拾い出したものだ)を着込んだリクが、かじかむ手で硬貨を弾き、冷ややかな視線を健太に向けた。
「全部で、千三百四十円」
リクは、電卓を叩くまでもなく、瞬時に現実の残酷な数字を口にした。
「ポリタンク一つの灯油(18リットル)が、今の相場で二千円強。一番安い総合感冒薬の瓶が、千円。……健太、あんたのその美しい『絆』とやらじゃ、薬一つ買ったら、ストーブの燃料すら買えないよ」
「……ッ、嘘だろ。こんだけ人数がいて、たったそれだけかよ」
健太は、信じられないものを見るように小銭の山を見つめた。
「これが現実だよ」
リクは、硬貨を冷たく指で弾いた。
「私たちはシステムの外側にいる。税金も払わず、ルールにも縛られない自由な無法者(アウトロー)だ。でもね、資本主義という絶対的な物理法則は、システムの外側だろうが容赦なく適用される。カネ(資本)がなければ、熱は生み出せない。命は買えないんだ」
リクの突きつけた正論は、凍りついた廃工場に重くのしかかった。
どれほど互いを思いやり、なけなしの小銭を出し合ったところで、絶対的な「資本の総量」が足りなければ、人はただ静かに凍え、病に侵されて死んでいく。
清貧のロマンティシズムなど、零下の現実の前では何の役にも立たない無力な寝言だった。
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その一部始終を、工場の隅の薄暗い柱の陰から、じっと観察している男がいた。
桐島である。
彼もまた、ボロボロのコートを重ね着し、寒さに身を震わせていた。だが、その瞳の奥には、海崎市に行き倒れた直後のような「死んだ魚」の色はなかった。
状況を俯瞰し、解剖するような、氷のように冷徹な光が宿り始めていた。
(……見事なまでの、下部構造の敗北だ)
桐島は、丸まった背中で激しく咳き込む労働者たちと、たった千円札一枚分にも満たない小銭を前に絶望する健太たちを見て、静かに思考を巡らせていた。
マルクス主義における「下部構造(経済的土台)」**と**「上部構造(精神・文化・道徳)」。
東京のクリーンなオフィスで、エリートたちはSDGsやコンプライアンスといった「美しい上部構造」を語る。しかしそれは、彼らが暖かい暖房と、豊かな食事という「完璧に保障された下部構造」の上に立っているからこその余裕に過ぎない。
ここには、その土台がない。
胃袋が空っぽで、凍える肉体を温める燃料すらない世界では、道徳や相互扶助といった精神論(上部構造)は、いとも簡単に機能不全に陥る。
(助け合いでは救われない。……資本を持たざる者は、ただシステムにすり潰されるだけだ)
桐島は、自分の凍えきった両手を見つめた。
東京のファンドで、数字の羅列だけで数百億円を動かし、途上国の農地を買い叩いていたあの頃の自分。システムの中で「奪う側」にいた時は、寒さの痛みなど知る由もなかった。
しかし、システムから弾き出され、泥水をすすり、彼は初めて「奪われる側」の絶対零度を知ったのだ。
(この絶望的な寒さから抜け出すためには、「綺麗な正義」を憎んでいるだけでは足りない。俺たち自身が熱を生み出すための、確かな『土台』が必要だ)
凍てつく海崎市の廃工場で、一度は完全に死に絶えたはずの男の頭脳が、冷酷な現実を前にして静かに熱を帯び始めていた。
### 第2節
健太たちがなけなしの小銭を出し合ってから三日後。海崎市の冷え込みはさらに厳しさを増し、廃工場は文字通りの「死の淵」へと追いやられていた。
買ってきた風邪薬は、熱を出した数名に飲ませただけですぐに底をついた。解熱剤のわずかな効果も、灯油の切れた工場内の絶対零度の前では無力であり、労働者たちの咳は日増しにひどくなっている。
そして何より深刻だったのは、圧倒的な「カロリーの不足」だった。
トアンのグループが裏ルートで調達してきていた廃棄寸前のクズ野菜すらも、大雪による物流網の麻痺で完全に手に入らなくなってしまった。巨大な寸胴鍋の底には、泥水のように濁った塩水がわずかに残っているだけだ。
胃袋が空っぽになり、凍える肉体を温める燃料すらない極限状態。
貧困(下部構造の欠如)が臨界点を超えた時、人間から最も早く失われるのは「理性」と「他者への寛容さ」である。
「……おい! 誰だ! 俺が隠しておいた乾パンを盗みやがったのは!」
早朝の薄暗い工場内に、ヒステリックな怒声が響き渡った。
声の主は、健太と同じ日本人グループにいる大石という中年の男だった。かつて健太と共に自警団に所属し、拡声器を持って街をパトロールしていた男の一人だ。
大石は血走った目で周囲を睨みつけ、近くで毛布にくるまって身を寄せ合っていたベトナム人の若者たちの一人——チュンという少年の胸ぐらを、突然乱暴に掴み上げた。
「お前らだろう! さっきからコソコソと外人同士で話しやがって! 日本人のメシをくすねて生きてて恥ずかしくねえのか、この泥棒野郎!」
「ヤメロ! 何モ盗ンデナイ!」
チュンが恐怖で顔を引きつらせながら、必死に首を振る。
「嘘つけ! お前らが昨日から俺の荷物をジロジロ見てたのは分かってんだよ!」
大石がチュンの頬を平手で殴りつけた。乾いた音が響き、少年の口の端から一筋の血が流れる。
「何ヲスルッ!!」
その光景を見たトアンが、猛獣のような唸り声を上げて飛び出してきた。彼は大石の胸倉を掴み返し、コンクリートの床へと力任せに突き飛ばした。
「やったなこの野郎! 外国人の分際で日本人様を殴りやがったぞ!」
大石の叫び声を合図に、周囲で凍えていた日本人労働者たちが一斉に立ち上がった。彼らの手には、護身用や廃材解体用に拾い集めていた錆びた鉄パイプや角材が握られている。
「オイ! 俺ノ仲間ニ手ヲ出スナ!」
対するトアンたち移民グループも即座に応戦の構えを見せた。彼らもまた、バールや大型のスパナを構え、剥き出しの敵意を日本人たちに向ける。
一触即発。
つい数日前まで、互いになけなしの小銭を帽子に入れ合った「助け合いの絆」など、微塵も残っていなかった。飢餓状態においては、他者は「痛みを分かち合う仲間」ではなく、自分の限られたカロリーと熱を奪い合う「生存の競争相手(敵)」へと容易に反転するのだ。
「やめろ! 両方とも武器を下ろせ!」
健太が慌てて両者の間に割って入り、両腕を広げた。
「落ち着け! パンの切れ端一つで殺し合いをする気か! 俺たちは同じこのクソ寒い工場で生き延びようとしてる仲間じゃないか!」
「仲間だぁ?」
大石が、鉄パイプを健太に突きつけ、顔を真っ赤にして唾を吐き捨てた。
「ふざけんな健太! 元々はテメエが『街のゴミを掃除する』って言って、俺たちを自警団に誘ったんだろうが! それがなんだ、今じゃこの外人どもと一緒に泥水すすって、俺たちにまで仲良くしろだと? 冗談じゃねえ!」
「そうだ!」別の日本人の男が同調して叫ぶ。「こいつらが不法滞在して俺たちの仕事を安く奪ったから、俺たちはこんなゴミ溜めに落ちたんだ! こいつらを叩き出せば、俺たちの食い分が増えるんだよ!」
「オマエラコソ、俺タチノ労働力ニ寄生シテ生キテルダケノ無能ダロウガ!」
トアンも負けじと吠え返す。
「自分タチデ仕事モ見ツケラレナイクセニ、スグニ外国人ノセイニスル! コノ工場ヲ見ツケテ、寒サヲ凌ゲルヨウニシタノハ俺タチダゾ!」
健太は絶句した。
極限の飢えと寒さが、彼らの間に薄皮一枚で成り立っていた「相互扶助の幻想」を容赦なく引き剥がし、かつての排外主義と憎悪の記憶を再びフラッシュバックさせていた。
「パイ(資源)」が縮小し、明日の命すら保証されない状況下では、人は本能的に「異質な他者」をスケープゴート(生贄)にしようとする。言葉の壁、文化の違い、肌の色。平時なら「多様性」という美しい言葉で覆い隠せるわずかな摩擦も、氷点下の底辺においては、殺し合いの正当な理由として機能してしまうのだ。
「テメエらみたいなゴミがいるから、この国はダメになるんだよ! 出て行け!」
「オマエラコソ、俺タチノ国ニ帰レト言ウナラ、帰ル飛行機代ヲ出セ!」
罵声と怒号が交差する。
もはや、どちらが先にパンを盗んだかなどという真実はどうでもよくなっていた。彼らに必要なのは、自分たちの惨めな現状、どうしようもない空腹と寒さに対する怒りを叩きつけるための「敵」だった。
鬱憤と暴力衝動が頂点に達し、ついに大石が鉄パイプを振り上げ、トアンの頭に向かって一歩を踏み出した。
「死ねえッ!」
その時だった。
「……醜いな」
凍りついた狂騒の空気を切り裂くように、ひときわ冷徹で、感情の欠落した声が響いた。
工場の薄暗い柱の陰から、ゆっくりとした足取りで歩み出てきたのは、桐島だった。
彼は、一触即発の群衆の輪の外側から、冷ややかな視線で男たちの内ゲバを見下ろしていた。
「健太、大石とやら。お前たちは、そんな鉄クズで殴り合って、どれだけの『利益(リターン)』を得られると計算している?」
桐島の声は大きくはなかったが、その絶対零度の響きは、怒り狂う男たちの動きを一瞬だけ止めるだけの異様な威圧感を持っていた。
「……なんだと?」
大石が、訝しげに桐島を睨む。
「相手を殺して奪えるのは、カビの生えた乾パン一つだ。そのために自分の体力(カロリー)を消費し、怪我を負い、最悪の場合は致命傷を負って凍死するリスクを負う。……経済的合理性が完全に欠如している」
「理屈こねてんじゃねえよ! 俺は俺の権利を守ろうと……」
「権利?」
桐島は鼻で笑った。
「システムから弾き出され、税金も払えず、社会的な保障の一切を失ったお前たちに、守るべき権利など最初から存在しない。お前たちはただの『ホッブズ的状態(万人の万人に対する闘争)』に陥った、野蛮な獣だ」
桐島は、手元の冷え切った缶コーヒーの空き缶を、コンクリートの床に放り投げた。
カラン、という虚ろな音が響き渡る。
「お前たちが底辺同士でパンの切れ端を奪い合い、殺し合って数を減らすこと。それこそが、安全な無菌室(オフィス)からお前たちを見下ろしている『エリートども』にとって、最も都合の良いシナリオだ。……お前たちは、システムに殺される前に、自分たちで都合よく自滅してやろうとしているんだよ」
桐島の言葉は、鋭いメスのように、彼らの安っぽい怒りと排外主義の皮を剥ぎ取った。
自分たちの飢えの原因は、目の前にいる外国人でも、無能な日本人でもない。
もっと巨大な、自分たちをこの工場へと追いやった「資本主義のシステム」そのものにあるのだという事実。
だが、大石は引くに引けず、怒りに震える声で怒鳴り返した。
「じゃあどうしろって言うんだよ! このまま仲良く手をつないで餓死しろって言うのか! カネもねえ、仕事もねえ、助けてくれる国もねえんだよ!」
「そうだ」とトアンも同意するように睨む。
「綺麗事ヲ言ウナ、キリシマ。俺タチニハ、もう奪イ合ウシカ残サレテナイ」
桐島は、全員の血走った視線を真っ向から受け止め、ゆっくりと首を振った。
「綺麗事を言っているのはお前らの方だ。……奪うなら、同じ泥水に浸かっている底辺からではなく、システムから直接奪い取れ」
桐島の目が、暗闇の中で猛禽類のようにギラリと光った。
「この絶望的なマイナスを覆すには、互いを食い潰すのではなく、俺たち自身の手でゼロから『資本』を生産し、システムに反逆するしかない」
### 第3節
「ゼロから『資本』を生産するだと……?」
桐島の放った冷徹な言葉に、鉄パイプを握りしめていた大石が、呆れたように鼻で笑った。
「寝言は休み休みにしろ、エリート崩れが。俺たちには元手になる金はおろか、まともな身分証すらないんだぞ。こんなゴミ溜めで、どうやって資本を生み出すって言うんだ! 空き缶でも拾って売れってか!」
「ソウダ」トアンも大石の言葉に珍しく同調した。「俺タチハ不法滞在ダ。表ノ仕事ハデキナイ。ヤレルコトナンテ、警察ニ怯エナガラ泥棒ヲスルカ、ヤクザノ下働キ位シカナイゾ」
飢えと寒さに苛立つ労働者たちは、桐島を囲むようにジリジリと距離を詰めた。彼らにとって、小難しい経済の理屈などはどうでもいい。今すぐ胃袋を満たす「具体的な何か」を提示できなければ、この得体の知れない男もまた、苛立ちをぶつけるためのスケープゴートになるだけだった。
だが、桐島は全く怯むことなく、むしろ獲物を前にした肉食獣のように口角を歪めた。
「お前たちは、自分たちが今持っている『資産(アセット)』の価値を、正しく計算したことがあるか?」
桐島は、周囲を取り囲む薄汚れた男たちを指差した。
「まず、トアン。お前たち移民グループには、日本の労働基準法も、コンプライアンスも一切適用されない『法外のマンパワー』がある。過酷な環境でも生き抜くバイタリティと、地下ネットワークを通じた非正規の流通ルートだ。これは、クリーンな企業には絶対に持てない強力な武器だ」
トアンが、怪訝な顔で眉をひそめる。
桐島は次に、大石や健太たち日本人グループに向き直った。
「そして大石、健太。お前たちには、トアンたちが持っていないものがある。この海崎市における『日本国籍』と『地元民としての顔(信用)』だ。お前たちが表に立てば、行政や地主は警戒心を解く。……お前たちはお互いを『仕事を奪う敵』『無能な寄生虫』と見下しているが、経済合理性の観点から見れば、これほど完璧に補完し合えるピースはない」
「待てよ、桐島」
健太が、困惑したように間に入った。
「俺たちが手を組んだところで、何をするんだ? まともな仕事なんてどこにも……」
「まともな仕事(ルール)をやろうとするから、飢えるんだ」
桐島の言葉が、凍てつく工場内に鋭く響き渡った。
「システムが用意した『綺麗なルール』は、システムの内側にいる人間を保護するために作られている。そこから弾き出された俺たちがルールを守れば、一方的に搾取され、静かに凍え死ぬだけだ。……俺たちが狙うのは、ルールの外側、いや、ルールの『バグ(隙間)』だ」
桐島は、帳場として使われているドラム缶の上に広げられていた、海崎市の観光用マップを指差した。そこには、海岸線から山間部にかけて広大な緑色が塗られている。
「この街の周辺を見てみろ。見渡す限りの広大な農地がある。だが、その大半は高齢化と後継者不足で手入れされず、荒れ果てた『休耕地』として放置されている。地主や農協は、その雑草だらけの土地を持て余し、管理コストと固定資産税に頭を抱えているはずだ」
桐島の目は、かつて東京のファンドで数百億円のM&A(企業の合併・買収)を仕掛けていた頃の、あの「悪魔のコンサルタント」の輝きを完全に取り戻していた。
ターゲットの弱点を見極め、そこから莫大な富を搾り取るための、冷酷で洗練された知性。
「健太、お前ら日本人が『農業をやりたい若者』として表に立ち、地主からタダ同然で休耕地を借り受ける。そして、トアンたちの『法外の労働力』を使って、一気に開墾し、作物を大量生産する。規格外の農薬や肥料を使い、効率だけを極限まで追求するんだ。できた作物は、トアンの裏ルートで、東京の底辺(ディスカウントスーパーや弁当工場)へ安く大量に流す」
「……小作農ビジネスか」
健太が息を呑んだ。「だが、そんな勝手な真似、農協(JA)が許すわけがない! 農業委員会にバレたら、一発で農地を取り上げられるぞ!」
「バレなければいい。あるいは、バレても手出しできない『グレーゾーン』を構築するんだ」
桐島は冷ややかに言い放った。
「農地法という古いシステムは、俺たちのような『法の外側から来た化け物』を想定して作られていない。書類上の辻褄さえ合わせれば、実態がどうであれ行政は動けない。奴らの建前(コンプライアンス)を逆手に取って、システムを内側から喰い破る」
工場内に、異様な沈黙が降りた。
健太も、大石も、トアンも、桐島の描いた途方もない、しかし極めて現実的で凶悪なビジネスモデルの全貌に圧倒されていた。
それは、ただのその日暮らしの犯罪ではない。泥水の中から立ち上がり、国家の食料インフラの裏側を乗っ取ろうとする、壮大な「反逆のスキーム」だった。
「キリシマ……オマエ、正気カ?」
トアンが、震える声で呟いた。「ソレハ、ヤクザヨリモタチガ悪イ『泥棒』ダゾ」
「泥棒で結構だ。俺たちからすべてを奪った社会から、利子をつけて取り返すだけのことだ」
桐島は、ドラム缶の上に散らばっていた、先ほどの「千三百四十円」の小銭の山を乱暴に払い落とした。
チャリン、という音とともに、硬貨が冷たいコンクリートの床に散らばる。
「いいか、よく聞け」
桐島の声が、絶対零度の工場内に熱を帯びて響き渡った。
「同情や相互扶助の『清貧』を気取るのはもうやめろ。お前たちがいくら綺麗な心で小銭を出し合っても、胃袋は満たされないし、ストーブに火はつかない。この冷酷な世界で生き延びるために必要なのは、他者への愛でも道徳でもない。……『資本』だ」
桐島は、自らの胸を強く叩いた。
「資本を持て! 泥をすすってでも、法を犯してでも、圧倒的な資本(チカラ)を手に入れろ! システムにすり潰されたくなければ、自分自身が資本という怪物になって、システムを喰らい尽くすしかないんだ!」
その絶叫は、飢えと寒さで凍りついていた労働者たちの胸の奥底に、強烈な「熱」を撃ち込んだ。
大石が握りしめていた鉄パイプの力が抜け、カランと音を立てて床に落ちた。
トアンもまた、構えていたバールをゆっくりと下ろし、桐島という得体の知れない怪物を、畏怖と熱狂の入り混じった瞳で見つめていた。
道徳(上部構造)の敗北を突きつけられ、獣のように殺し合う寸前だった彼らは、桐島の「冷酷な資本の論理」によって、初めて一つの巨大な意志の元に統合されようとしていた。
「……本気なのか、桐島」
健太が、震える声で尋ねた。
「俺は常に、利益(リターン)が確実な投資しかしない」
桐島は、コンサルタント特有の、氷のように冷たく、しかし絶対的な自信に満ちた笑みを浮かべた。
「まずは、最初の『種銭』と『土地』を手に入れる。健太、お前が動け。お前のその安いプライドを捨てて、俺の言う通りに動く覚悟はあるか?」
健太は、周囲の日本人たち、そしてトアンたち移民の顔を見回した。
全員の目が、健太の決断に飢えた光を宿して注がれている。
かつては「正しい市民」であろうとしてすべてを失った健太。だが、もう後戻りはできない。この泥沼から這い上がるためには、悪魔の手を取るしかなかった。
「……やってやるよ」
健太は、床に散らばった十円玉を一つ拾い上げ、強く握りしめた。
「俺たちの泥臭い資本で、あいつらの綺麗な世界をぶっ壊してやる」
凍てつく海崎市の廃工場で、反逆の火種が、ついに静かに、しかし確実に着火した瞬間だった。
### 第4節
桐島が「資本を持て」と叫んだその日の午後。
海崎市の空は相変わらず鉛色に沈み、廃工場のトタン屋根を叩く粉雪の音だけが、不気味なほど静かに響き続けていた。
内ゲバによる殺し合いは回避されたものの、工場内の空気は依然として重く、張り詰めている。
桐島の提示した「小作農ビジネス」という凶悪な錬金術の全貌は、飢えた男たちに確かに強烈な熱(希望)を与えた。だが、それはあくまで机上の空論(スキーム)に過ぎない。
その歯車を現実に回すためには、絶対に乗り越えなければならない最初のハードルがあった。
「……行くのか、健太」
床にへたり込んでいた大石が、恨みがましい声で言った。
健太は無言で頷き、工場の一番奥、トアンたちベトナム人労働者が陣取っているエリアへと歩みを進めた。
(俺は、何をやろうとしているんだ……)
健太の足取りは、鉛のように重かった。
数年前、彼は「海崎市・自警団」のリーダーとして拡声器を握り、トアンたち不法滞在者を「街を汚すゴミ」と罵り、安アパートから容赦なく追い出していた。彼にとってそれは、善良な市民としての「正しい正義」だった。
だが、その「正義」は自分を救ってはくれなかった。
会社をリストラされ、家賃を払えなくなり、システムから弾き出された健太を待っていたのは、かつて自分が追い出した外国人たちと同じ、この極寒の廃工場での泥水のような生活だった。
正義やプライド(上部構造)など、胃袋が空っぽになれば何の意味も持たない。桐島の冷酷なロジックは、健太の心にこびりついていた安っぽいメッキを完全に剥ぎ取っていた。
トアンの陣地に足を踏み入れた瞬間、数人の若いベトナム人たちが一斉に殺気立ち、バールやレンチを握り直した。つい数時間前まで殺し合おうとしていた相手が、のこのこと一人でやって来たのだから当然だ。
「何の用だ、ケンタ」
ドラム缶に腰掛け、タバコの吸い殻を弄っていたトアンが、鋭い視線を突き刺してきた。その瞳には、侮蔑と警戒が入り混じっている。
「……取引だ、トアン」
健太は、乾燥してひび割れた唇を舐め、震える声を必死に押し殺した。
「桐島が言った通り、俺たちには資本が必要だ。このままじゃ数日以内に全員死ぬ。だから、俺が表に立って、地主から休耕地をタダ同然で借り受けてくる。……でも、俺たち日本人のグループは高齢の連中ばかりだ。雪に埋もれた荒れ地を、一気に開墾して種を撒く力がない」
「ダカラ、俺タチノ若い力(マンパワー)ヲ使イタイト?」
トアンが、鼻で笑った。
「そうだ。お前たちの労働力と、裏ルートの流通網が必要だ。俺たちの『日本人の顔』と、お前たちの『法外の力』。それを合わせれば、桐島の言う通り、システムから資本を奪い取ることができる」
健太は一気に言い切った。
だが、トアンの表情は冷たいままだった。彼はゆっくりと立ち上がり、健太の目の前まで歩み寄った。
「冗談ジャナイ」
トアンの低い声が、健太の胸ぐらを掴むように響いた。
「オマエハ数年前、俺タチヲ『犯罪者』ト呼ンデ、警察ト一緒ニ街カラ追イ出シタ。俺タチノ仲間ハ何人モ捕マリ、帰国サセラレタ。ソノオマエガ、今度ハ腹ガ減ッタカラ、俺タチニ泥マミレニナッテ働ケト言ウノカ?」
トアンの背後にいる若者たちが、怒りに満ちた声で同調する。
「オマエラ日本人ハ、イツモソウダ! 自分タチガ綺麗ナ部屋ニイル時ハ俺タチヲ見下シ、自分タチガ困ッタ時ダケ、都合ヨク俺タチヲ利用スルトスル! ソンナ都合ノイイ話ガ、通ルワケナイダロウ!」
トアンの言葉は、完璧な正論だった。
かつて奪う側にいた人間が、今度は助けを求めている。そんな虫のいい話を、彼らが受け入れる義理などどこにもない。
背後からは、大石たち日本人労働者の刺さるような視線を感じる。
「ほら見ろ、やっぱり外人なんかに頭を下げる必要はなかったんだ」という、安っぽいプライドにしがみつく声が聞こえてくるようだった。
健太の顔が、屈辱でカッと熱くなった。
踵を返して、自分の陣地に戻りたいという衝動が全身を駆け巡る。ここで引き返せば、少なくとも「誇り高き日本人」というちっぽけな自己像だけは守れる。そして、数日後に誇り高いまま凍え死ぬのだ。
(清貧を気取るな、資本を持て)
桐島の、あの氷のような声が脳裏に蘇る。
プライドで腹は膨れない。システムを憎むなら、まず生き延びて、システムを喰い破る「力」を手に入れなければならない。
健太は、ギュッと両手で拳を握りしめた。
そして、冷え切ったコンクリートの床に、両膝を突いた。
「……ケンタ?」
トアンが、予想外の行動に目を見開く。
健太は、泥と油で汚れた床に両手を突き、深く、深く頭を下げた。土下座だった。
かつて自警団のリーダーとして街を闊歩していた男が、自分が「ゴミ」と呼んで迫害した相手に対し、額を床に擦り付けている。
「過去のことは……謝って許される問題じゃない。俺がクソ野郎だった。お前たちを見下して、自分は安全な場所にいると勘違いしていた」
健太の額から、屈辱の汗が滴り落ち、氷のような床に染み込んでいく。
「でも、間違ってたとか正しいとか、もうどうでもいいんだ。俺は、生きたい。……腹一杯、温かいメシを食って、俺たちからすべてを奪った連中を見返してやりたい」
健太は、床に額を擦り付けたまま、血を吐くような声で叫んだ。
「だから……頼む! 俺たちのために、お前らの力を貸してくれ! 俺のこの惨めなプライド(顔)を、お前らの労働力で『資本』に変えてくれ!!」
廃工場が、水を打ったように静まり返った。
大石たち日本人グループは、自らの代表が土下座する姿に呆然とし、声も出せない。ベトナム人の若者たちも、あまりの気迫にバールを下ろしていた。
トアンは、足元で平伏する健太の姿を、無言で見下ろしていた。
それは、美しい和解でも、涙ぐましい友情の芽生えでもない。互いの凄惨な過去と憎悪を、極限の生存本能(カロリーへの渇望)で強引に押しつぶす、醜くも圧倒的な「摩擦」の瞬間だった。
長い沈黙の後。
トアンが、ポケットからシケたタバコを取り出し、火をつけた。
「……顔ヲ上ゲロ、ケンタ」
健太がゆっくりと顔を上げると、トアンの口元には、獰猛で、どこか楽しげな笑みが浮かんでいた。
「勘違イスルナ。俺ハ、オマエラ日本人ヲ許シタワケジャナイ。ダガ……キリシマノ言ウコトハ正シイ。腹ヲ空カセテ死ヌノハ、モウ御免ダ。俺タチニハ、互イノ『手札』ガ必要ダ」
トアンは、吸いかけのタバコを床に落とし、靴の底で踏み躙った。
「利益(アガリ)ハ、完全ニ折半(フィフティ・フィフティ)ダ。ソレガ条件ダ。文句ハ言ワセナイ」
「……ああ、わかってる」
健太は立ち上がり、泥だらけの手をズボンで拭うと、トアンに向かって真っ直ぐに右手を差し出した。
「よろしく頼む、相棒(ビジネス・パートナー)」
トアンは一瞬その手を見て、力強く握り返した。
「……死ヌ気デ働ケヨ、元・自警団サマ」
かつての加害者と被害者が、お互いのドロドロとした怨念を抱え込んだまま、システムを喰い破るための「共犯関係」を結んだ瞬間だった。
そこにあるのは、互いの欠落を補い合い、ただ資本(メシ)をもぎ取るためだけに機能する、最も野蛮で強靭な「闘技的連帯(アゴニズム)」である。
その一部始終を。
工場の薄暗い二階のキャットウォークから、桐島は冷ややかに見下ろしていた。
「……最初の取引(トランザクション)は完了したな」
桐島は、誰に言うともなく低く呟いた。
最も困難だった「感情とプライド」という無駄なコストを、健太は見事に「ゼロ」へと損切りし、トアンの圧倒的なマンパワーという資産を獲得したのだ。
「さあ、下部構造(胃袋)を満たすための、泥仕合を始めようか」
悪魔のコンサルタントが描いた凶悪な設計図(スキーム)が、ついに現実の歯車として、重く、鈍い音を立てて回り始めた。
### 第5節
「……感動的な握手のところ悪いんだけど、一つ致命的な欠陥があるよ」
健太とトアンが手を結んだ直後、分厚いダウンジャケットに身を包んだリクが、無機質な声で冷や水を浴びせた。
「米の収穫は秋だ。今は真冬。種を撒く春までですら数ヶ月ある。土地と労働力を確保したところで、秋までどうやって生き延びるの? トラクターの燃料代は? 肥料代は? ……何より、明日の朝のメシ代はどこから出るのさ」
リクの指摘に、健太はハッとして言葉に詰まった。
確かにそうだ。農業は、結果(キャッシュ)が出るまでに絶望的なほどのタイムラグがある。明日の命すら危うい彼らにとって、秋の収穫を待つことなど物理的に不可能だった。
「だから、俺がいる」
桐島が、薄暗い工場の奥から歩み出てきた。
その顔には、かつて東京の金融街で数百億のディールを動かしていた頃と同じ、冷徹で合理的な笑みが張り付いている。
「秋まで待つ必要はない。俺たちが売るのは『米』ではなく、『秋に米を納品するという確約(プロミス)』だ。……金融の世界では、これを『先物取引(フューチャーズ)』と呼ぶ」
「先物……?」
「そうだ。トアン、お前の裏ルートの先に、東京で生活保護受給者向けの激安弁当を作っている地下工場があると言っていたな。そこに連絡しろ。『今年の秋、市場価格の半値で未検査米を数十トン卸す。その代わり、今すぐ前金(キャッシュ)を振り込め』と交渉するんだ」
「無茶苦茶ダゾ、キリシマ」
トアンが目を丸くする。「マダ種スラ撒イテナイ。土地モナイ。ソレデ前金ヲ要求シテモ、信用サレルワケガナイ」
「そこで、健太の『顔』と『システム』を使う」
桐島は、健太に視線を移した。
「健太。お前は明日、市役所の農業委員会と地主のところへ行け。『改心して、地元の休耕地を再生したい若者』を演じるんだ。市には『耕作放棄地再生利用交付金』や『新規就農者支援』という名目の補助金制度がある。高齢の地主たちは、固定資産税と草刈りの負担から逃れられるなら、喜んでお前に土地を貸し、役所にハンコをつく」
桐島のスキームは、完璧な両建て(ヘッジ)だった。
表向きは、健太をダミーとして日本の行政から「補助金」という名の初期投資を合法的にハッキングする。
裏では、その行政の公的書類を『信用担保』として東京のアンダーグラウンドに見せつけ、トアンのルートから非合法な「前金」を引き出す。
表のシステム(国)と裏のシステム(ヤクザ)。両方の資金を同時に食い物にすることで、彼らは「ゼロ」から最初の運転資金(生命維持装置)を錬成しようというのだ。
「……悪魔のやり方だ」
健太は震える声で言ったが、その目には生き延びるための狂熱が宿っていた。
「やってやる。俺の顔が役に立つなら、市役所の連中だろうが地主だろうが、いくらでも騙してやるよ!」
数日後。
桐島の描いた凶悪な設計図は、見事に現実の資本へと変換された。
健太が地主からタダ同然で借り受けた休耕地の契約書を盾に、トアンの裏ルートから百万円単位の前金が振り込まれた。さらに、行政の口座からは「休耕地再生の初期補助金」が振り込まれた。
彼らはその金で、大量の灯油と、米、肉、そして使い捨てのカイロを買い込んだ。
廃工場の巨大な温風ヒーターに火が入り、寸胴鍋では大量の豚肉とクズ野菜が煮込まれる。凍え死ぬ寸前だった労働者たちは、久しぶりの暴力的なカロリーと熱に涙を流し、獣のようにスープを貪り食った。
死の淵にあったコミューンは、桐島の「資本の錬金術」によって、辛うじて最初の冬を生き延びたのである。
そして、凍てつく冬が終わり、冷たい泥が顔を出す早春。
海崎市の外れにある広大な休耕地に、健太やトアンたち数十人の労働者の姿があった。
見渡す限りの荒れ地。背丈ほどある枯れ草が密生し、不法投棄されたタイヤや冷蔵庫が転がる、文字通りのゴミ溜めである。
「オラァッ! 足止めてんじゃねえぞ! 今日中にこの区画のゴミを全部掻き出すんだ!」
健太が、泥だらけの長靴を履き、スコップを振り回しながら怒鳴る。
「ウルサイ! オマエモ口ヨリ手ヲ動カセ!」
トアンが、錆びた軽トラックの荷台に廃タイヤを放り投げながら言い返す。
厳しい寒風の中、日本人と移民たちが入り乱れ、泥にまみれて荒れ地を切り拓いていく。
トラクターを買う金はない。すべては彼らの肉体(マンパワー)による人海戦術だ。手のひらのマメは潰れ、腰は悲鳴を上げ、顔には黒い泥がこびりついている。
だが、彼らの顔に悲壮感はなかった。むしろ、自分たちの手で「生きるための土台」を物理的にこじ開けているという、生々しい熱気と充実に満ちていた。
その泥まみれの労働の最中。
切り拓いた農地の土を握りしめながら、日本人グループの一人、辰造がぽつりと呟いた。
「……なあ、健太。こんだけ広い土地を耕すのはいいが、農協(JA)に卸すなら、品種は『コシヒカリ』じゃねえと高く売れねえぞ。でも、この痩せた泥土じゃ、まともな等級の米は育たねえ。良くて二等か、三等だ。検査で弾かれたら、二束三文で買い叩かれる」
かつて真面目に農業をやっていた辰造の、常識的な懸念だった。
日本の農業システムでは、農協の厳しい「検査」を通り、粒の揃った美味しいブランド米を作らなければ、利益(カネ)にはならないのだ。
その言葉を横で聞いていた桐島が、不敵な笑みを浮かべた。
「誰が、農協の検査に出すと言った?」
「……は?」
辰造が目を丸くする。
桐島は、タブレット端末を取り出し、ある品種のデータを表示させた。
「俺たちが植えるのはコシヒカリじゃない。『タカナリ』や『モミロマン』といった、多収穫米(飼料用米)の品種だ」
「馬鹿野郎!」辰造が怒鳴った。「そんなもん、家畜のエサにする米だぞ! パサパサで味もそっけもねえ! 人間が食うもんじゃねえ!」
「味がなんだと言うんだ」
桐島は冷酷に切り捨てた。
「俺たちの顧客は、美食を求めるエリートではない。東京の底辺で、とにかく『安くて腹にたまるカロリー』を求めている日雇い労働者や貧困層だ。農協の検査など関係ない。奴らは、米の形をしていて腹が膨れれば、それが飼料用だろうが未検査だろうが絶対に買う」
健太とトアンは、泥だらけの手を止めて桐島の話に聞き入った。
「『飼料用米』として国から補助金をもらいながら、それを裏ルートで『主食用』として東京の底辺へ横流しする。……農協の検査ルート(表のシステム)を完全に無視すれば、農薬の使用制限も、品質基準も、一切のコンプライアンスが適用されない。俺たちはただ、この泥水から『カロリーという名の資本』を無限に抽出すればいいんだ」
それは、日本の農政システムが抱える致命的な「バグ」の発見だった。
国家は、表向きの「綺麗な食」を管理することには固執するが、システムの底辺で蠢くアンダーグラウンドの「胃袋」の質までは監視しきれない。
「……狂ってやがる。だが、完璧な泥棒(ビジネス)だ」
健太は、黒い泥の塊を強く握りしめ、獰猛に笑った。
「ヤッテヤロウジャナイカ。俺タチノ泥ノ米デ、東京ノ連中ヲ飼イ慣ラシテヤル」
トアンもまた、バールを肩に担いでニヤリと笑う。
冷たい春の風が吹き抜ける休耕地。
「正しい社会」から弾き出されたアウトローたちは、ついに自分たちの牙を研ぎ澄まし、システムの脆弱性(バグ)という名の柔らかな腹に、その牙を深く突き立てた。
凍えるような清貧の季節は終わった。
泥と暴力、そして冷徹な資本の論理が交差する「地下の錬金術」が、今、海崎市から産声を上げようとしていた。
## 第3章:地下の錬金術と、泥仕合のコモンズ
### 第1節
廃工場のプレハブで作られた「帳場」。
分厚いダウンジャケットを脱ぎ捨て、薄手のシャツ一枚になったリクの目の前には、無造作に積み上げられた百万円の札束がいくつか転がっていた。
「……マジかよ。これ、全部俺たちの取り分なのか?」
泥だらけの作業着姿の健太が、信じられないものを見るような目でその札束の山を見つめていた。その隣では、トアンが息を呑み、震える手で電卓を何度も叩き直している。
彼らが1年目に開始した、周囲の休耕地を標的としたグレーな小作農ビジネス。
それは、地主からタダ同然で借り受けた(あるいは勝手に開墾した)農地に、日本人と外国人のマンパワーを力任せに投入するというものだった。秋を迎え、収穫した米を独自のルートで現金化した結果が、この机の上の山である。
「驚くことじゃない。これが『資本のサイクル』だ」
桐島は、パイプ椅子に深く腰掛け、ブラックコーヒーをすすりながら淡々と告げた。
「お前たちは今まで、その日暮らしの『日雇い』のメンタリティで生きてきた。自分の時間を切り売りし、その日の夕飯代(小銭)を稼ぐだけで満足していた。だが、資本主義のゲームは違う。労働力と時間を『投資』し、数ヶ月先の収穫(リターン)で莫大なキャッシュを手にする。……お前たちは今、底辺の労働者から、いっぱしの『ベンチャー企業』になったんだよ」
その言葉に、健太とトアンが顔を見合わせた。
今まで、5000円のピンハネを巡って殴り合い、明日の米にも困っていた薄汚れたアウトローたち。彼らの目に、かつてない強烈な「野心」と「興奮」の火が灯った瞬間だった。底辺を這いずり回るだけの泥仕合から、明確な計画性を持った【資本経済活動】への覚醒である。
「ダガ、キリシマ」
トアンが、興奮を抑えきれない様子で身を乗り出した。
「今年ハ運ガ良カッタダケカモシレナイ。来年モ同ジオ金ヲ稼グニハ、モット広イ土地ト、モット効率ノイイ作リ方ガ必要ダ」
「その通りだ。だから2年目は、戦略を根本から変える」
桐島は立ち上がり、ホワイトボードにマーカーで乱暴に図を描き始めた。
「日本の米市場を支配している『思い込み』がある。それは、農家も卸売業者も一般消費者も、誰もが『美味しいブランド米』を作って高く売ろうと血眼になっていることだ。コシヒカリだの、ゆめぴりかだの、少しでも食味(おいしさ)の数値を上げるために、手間暇をかけてブランド価値を高めようとする。農協(JA)の組合員たちはもちろん、大規模な法人農家でさえ、小売市場で勝つために『質』の競争に巻き込まれている」
桐島は、ホワイトボードの「質(ブランド)」という文字に、大きくバツ印をつけた。
「俺たちは、その綺麗なレッドオーシャン(激戦区)からは完全に降りる。俺たちがターゲットにするのは、味なんてどうでもいい、とにかく安くて大量の米(カロリー)を求めている中食・外食産業の底辺ルート、そして……トアンたちの地下ネットワークだ。連中はブランドなんて求めていない。腹が膨れればそれでいい」
「つまり、質より『量』に全振りするってことか」
腕を組んで聞いていた健太が、ニヤリと笑った。「なら、作り方も変えなきゃなんねえな」
「その通りだ、健太。そこは俺の出番だな」
部屋の隅でワンカップ焼酎をあおっていた辰造が、ドカッと机の上に分厚い農業専門誌を放り投げた。この1年で農作業の現場監督として完全に勘を取り戻した「はぐれ農家」の親方は、獰猛な笑みを浮かべていた。
「コシヒカリみたいな、ひ弱で気取った品種は全部捨てろ。今年から植えるのは、家畜の飼料や加工用に使われる『多収穫品種』だ。茎が太くて短えから、台風が来ても簡単には倒れねえ」
辰造は、日焼けした指で机をガンガンと叩いた。
「いいか、一般の農家は米の味(食味)を良くするために、タンパク質の含有量を下げようとする。だから、穂が出る一番大事な時期に、肥料(窒素)を与えるのをビビって出し渋るんだ。だが、俺たちは味なんてクソ食らえだ! 倒伏(苗が倒れること)ギリギリのラインを見極めて、安い化学肥料を致死量までぶち込んでやる!」
それは、日本の美しい米作りの伝統に対する、完全な冒涜だった。
「土壌のサステナビリティ(持続可能性)? 知ったことか! トラクターで限界まで深く土を耕し、根を張らせて、栄養を一滴残らず吸い上げさせろ! 炊き上がった米が段ボールみたいな味になろうが関係ねえ。秋に収穫して秤に乗せた時の、その『絶対的な重量』だけが、俺たちの正義だ!」
辰造の狂気じみた、しかし農業の理にかなった圧倒的な「カロリー至上主義」のプレゼンに、帳場は異様な熱狂に包まれた。
「ハハハッ! イイネ、ソレ! 俺タチノ国ノヤリ方ニ似テルヨ!」
トアンが手を叩いて大笑いし、健太も「やってやろうじゃねえか。泥から札束を絞り出す錬金術ってわけだ!」と拳を握りしめた。
日雇いの小銭に群がっていた野良犬たちは、桐島という冷徹な頭脳と、辰造という泥臭い技術(スキル)を得て、完全に一つの「狂ったベンチャー企業」として機能し始めていた。
「美味しいお米」という上部構造のイリュージョンを叩き割り、「純粋なカロリーと質量」という下部構造の力学で、日本の農業システムをハッキングする。
海崎市の旧農協廃工場から始まる、常識外れの『泥のプランテーション』の2年目が、今、凄まじい熱量とともに幕を開けたのである。
### 第2節
2年目の秋。
海崎市の休耕地を暴力的に蹂躙し、規格外の化学肥料と農薬を致死量スレスレまで投入して育て上げられた「多収穫米」の山は、彼らの予想を遥かに超える莫大なカロリー(質量)となって実を結んだ。
農協(JA)の厳しい検査をすり抜け、産廃ダンプで直接東京のアンダーグラウンドへと流し込まれた数千トンの三等米。それは瞬く間に、東京の貧困層を支える激安弁当や配給ネットワークに飲み込まれ、数千万、いや億単位の「裏金(キャッシュ)」となって海崎市の廃工場へと還流してきた。
「……さあ、お待ちかねの配当(ボーナス)の時間だ」
廃工場の中央広場。
ドラム缶をいくつも並べて作った即席の長机の上に、リクがボストンバッグから無造作に一万円札の束を放り出した。
ドサッ、ドサッという重い音が響くたびに、周囲を取り囲む数十人の労働者たち——日本人と多国籍の移民たち——の喉がゴクリと鳴る。彼らの顔は泥と機械油で汚れ、過酷な労働で頬はこけていたが、その瞳にはギラギラとした飢えた野獣の光が宿っていた。
「全員、自分の名前が呼ばれたら前に出ろ。今月の『労働ポイント』に応じた分配金だ」
リクがタブレット端末をスワイプしながら、無機質な声で名前を読み上げていく。
順調に配当が進むかに見えた、その時だった。
「おい、ふざけんな! なんで俺の取り分が、この外人のガキより少ないんだよ!」
激しい怒号が広場に響き渡った。
札束を握りしめて顔を真っ赤にしているのは、日本人の大石だった。彼は、隣で自分よりも分厚い札束を受け取ったベトナム人の若者(チュン)を指差し、リクに向かって噛み付いた。
「俺は地主を回って、草刈りの手伝いまでして農地を確保したんだぞ! なのに、ただ泥の中でトラクターを転がしてただけのガキの方が金が多いなんて、どういう計算式だ!」
「計算式は絶対だよ、大石さん」
リクは冷たい視線を向け、タブレットの画面をタップした。
「あんたの『農地確保』の交渉ポイントは確かに高い。でも、後半の1ヶ月、腰が痛いと言って現場のシフトを週に3日もサボったよね? チュンは毎日14時間、泥の中で苗箱を運び続けた。純粋な『出力(アウトプット)』の差だよ」
「そんな理屈が通るか! そもそも俺たち日本人が表に立たなきゃ、こいつら不法滞在者は一歩も外に出れねえだろうが!」
大石がチュンの胸ぐらを掴みかかろうとした瞬間、横からトアンが割り込み、大石の手を乱暴に払いのけた。
「オイ! 負ケ犬ノクセニ、俺タチノ仲間ニ手ヲ出スナ!」
トアンが獰猛に牙を剥く。
「オマエラ日本人ハ、スグニ『俺タチノ顔ノオカゲダ』ト偉ソウニ言ウ! ダガ、実際ニ泥水ヲ飲ンデ、深夜マデ産廃ダンプヲ運転シテ東京ニ米ヲ運ンデルノハ俺タチダ! 命ガケノ労働ヲシテイル俺タチガ多ク貰ウノハ、アタリマエダロウガ!」
「なんだとテメエ! 俺たちの地元でデカい顔すんじゃねえ!」
健太も黙っていられず、大石を庇うようにトアンの前に立ち塞がった。
「トアン、言い過ぎだ! トラクターの修理や、補助金の複雑な書類仕事は全部こっちの日本人がやってんだぞ! 泥にまみれるだけが労働じゃねえ!」
「ウルサイ! 口バカリノ日本人ハ引ッコンデロ!」
「やんのかコラ!!」
ドスッ! ガシャン!
ついに怒鳴り合いは物理的な衝突へと発展した。札束の山を前にして、日本人グループと移民グループが入り乱れ、胸ぐらを掴み合い、怒号と罵声が廃工場にこだまする。
「……また始まったよ。本当に野蛮な連中だ」
リクがため息をつき、札束をボストンバッグにしまい直そうとした時だった。
「やめろ!!」
2階のキャットウォークから、桐島の凍てつくような一喝が落ちてきた。
その圧倒的な絶対零度の声に、殴り合おうとしていた男たちの動きがピタリと止まる。
桐島はゆっくりと階段を降り、札束が散乱する長机の前に立った。
そして、大石とトアンを冷ややかに見据えた。
「お前ら、自分が何のためにここで泥をすすっているのか忘れたのか。……俺たちは、システムに雇われた『奴隷』じゃない」
桐島は、長机の上にタブレット端末を置き、全員に見えるように画面をプロジェクターで工場の壁に投影した。
そこに映し出されたのは、複雑な数式と、全員の顔写真、そして労働時間や貢献度がグラフ化されたダッシュボードだった。
「今日から、この組織を『ワーカーズ・コープ(労働者協同組合)』として再定義する」
桐島の言葉に、健太が眉をひそめた。
「ワーカーズ・コープ……? なんだそりゃ」
「資本家が労働者を搾取する『会社』ではない。俺たち全員が出資者であり、労働者であり、経営者だ。固定給などという生ぬるい概念は存在しない。国籍、年齢、過去の経歴……そんなものは一切評価しない」
桐島は、壁に映し出されたグラフをペンで叩いた。
「評価基準はただ一つ。この泥水から、どれだけの資本(カロリー)を掠め取ったかだ。
トラクターを1時間運転すれば何ポイント。深夜の裏ルート輸送に成功すれば何ポイント。新しい休耕地を地主から騙し取れば何ポイント。……すべての労働とリスクを数値化し、その月の総利益から、稼いだポイントの割合で『完璧に平等に』分配する」
桐島の提示したルールは、社会主義的な「平等」ではない。
能力と貢献度だけで人間の価値を冷酷に切り刻む、極限まで純化された「実力主義(むきだしの資本主義)」だった。
「不満があるなら、隣の奴より1秒でも長く泥を掘れ。気に食わない奴がいるなら、そいつより多く書類を偽造してポイントを稼げ」
桐島は、大石の胸ぐらに一万円札の束をねじ込んだ。
「恨み言で腹は膨れない。奪い合え。競い合え。……その汚い欲望と怒りこそが、このコモンズを駆動させる最大の燃料(エンジン)だ」
工場内は、不気味なほどの静寂に包まれた。
大石は握りしめられた札束を見つめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。そして、隣にいるベトナム人のチュンを強烈な目つきで睨みつけた。
「……ふざけやがって。来月は、絶対に俺の方が稼いでやる。テメエら外人なんかに、デカい顔はさせねえ」
大石はそう吐き捨てると、自分の取り分の札束を懐にねじ込み、踵を返してトラクターの整備へと向かっていった。
「言ッたナ、ジジイ。明日カラ俺タチノ班ハ、睡眠時間ヲ削ッテ倍ノ面積ヲ耕シテヤル!」
トアンもまた、負けじと吼え、自分の部下たちを怒鳴りつけて明日のシフトを組み直し始めた。
健太は、その光景を呆然と見つめていた。
そこには、一般的な会社にあるような「和気あいあいとしたチームワーク」や「思いやりのある連帯」など微塵もない。
「……すげえな。憎しみ合ってるのに、作業の効率は先月より上がってる」
健太が呟く。
「これが『闘技的連帯(アゴニズム)』だよ」
横に並んだリクが、皮肉めいた笑みを浮かべて言った。
「敵対心や摩擦を無理に消そうとせず、ルールというリングの上で殴り合わせる。相手を出し抜きたい、見返してやりたいという『怒り』が、そのまま組織の生産性に直結している。……桐島の奴、人間の醜い感情を、完璧に資本の推進力へと変換しやがった」
日本人と移民。
若者と老人。
かつての加害者と被害者。
彼らは互いに罵声を浴びせ、舌打ちをし、相手の取り分を睨みつけながら、それでも「共通の富(利益)」を増やすために、同じ泥の海へと飛び込んでいく。
美しい相互理解などなくとも、強烈な摩擦とエゴイズムの衝突が、この冷たい廃工場に凄まじい「熱」を生み出していた。
泥仕合のコモンズは、人間の剥き出しの欲望を喰らいながら、さらに凶暴な怪物へと成長していく。
### 第3節
海崎市の秋が深まるにつれ、旧農協の廃工場(コミューン)周辺では、異常な光景が日常化しつつあった。
深夜零時を回ると、ナンバープレートの泥を意図的に汚した大型の産廃ダンプが何台も列をなし、轟音を立てて国道へと合流していく。ダンプの荷台に積まれているのは産業廃棄物ではなく、東京のアンダーグラウンドへと直送される未検査の「多収穫米」だ。
広大な休耕地では、昼夜を問わず複数のトラクターが稼働し、多国籍な言語の怒号が飛び交っている。
「……ねえ、最近あの廃工場のあたり、気味が悪くない?」
「ああ。夜中に怪しい外国人がたくさん出入りしてるし、得体の知れないトラックがバンバン走ってる。また数年前みたいに、犯罪の温床になってるんじゃないか?」
地元のスーパーや井戸端会議で、一般市民たちの間にヒソヒソとした噂と不安が急速に広がり始めていた。
無理もない。彼らから見れば、健太たちのアウトロー集団は「法の外側で勝手に蠢く、気味の悪い化け物」にしか見えないのだ。市民からの苦情や通報は日増しに増加し、市役所の農業委員会や地元警察も、いよいよ重い腰を上げざるを得ない状況に追い込まれていた。
「桐島、マズいぞ! 市の連中が、来週抜き打ちで農地の使用実態と、廃工場の立ち入り調査に来るって噂だ!」
帳場に飛び込んできた健太が、血相を変えて叫んだ。
「農業委員会の視察だけなら適当に誤魔化せるが、警察の生活安全課まで一緒となると話は別だ。トアンの部下たちの中には、オーバーステイの連中が山ほどいる。工場の中を見られでもしたら、一発で強制送還(ゲームオーバー)だ!」
健太の焦燥をよそに、桐島はタブレット端末の画面から目を離さず、冷めたコーヒーを一口飲んだ。
「騒ぐな、健太。……むしろ、いいタイミングだ。市民の『不安』が高まった今こそ、行政の首根っこを掴む最大のチャンスだ」
「チャンスだと? お前、頭イカレてんのか!」
「俺たちの規模が大きくなれば、いずれ既存のシステムと摩擦を起こすことは織り込み済みだ。システムを避けてコソコソ隠れるフェーズは終わった。これからは、システムそのものに『寄生』し、俺たちを排除できない構造を作る」
桐島は立ち上がり、ハンガーにかけてあった仕立ての良いジャケット(東京時代に特注で作らせたものだ)を羽織った。
「市議会に行くぞ。この街で一番『野心』と『予算不足』に飢えている政治家に、最高のディール(取引)を持ちかける」
***
海崎市役所、特別応接室。
分厚い革張りのソファに深く腰を掛けていたのは、次期市長の座を狙う有力市議・巽冴子(たつみ・さえこ)だった。高級なシルクのブラウスに身を包み、鋭い三白眼を持つ五十代の彼女は、目の前に座る桐島と健太を、値踏みするように冷ややかに見つめていた。
「……廃工場の不良集団の元締めが、私に直接何の用かしら? 最近、あなたたちのせいで市民からのクレーム対応に追われているのよ。不法滞在者を匿い、農地法に違反してヤミ米を流している……。警察に電話一本入れれば、あなたたち、明日には全員刑務所行きよ?」
巽の言葉には、圧倒的な「システム側の権力」の余裕があった。
健太は隣で息を呑み、拳を固く握りしめた。だが、桐島は顔色一つ変えず、薄く笑った。
「ええ、おっしゃる通りです。ですが巽先生、あなたはこの死にゆく海崎市を立て直すために、あとどれくらいの『予算』が必要か、正確に把握されていますか?」
「……何が言いたいの?」
「海崎市の財政は事実上の破綻状態にある。高齢化で税収は激減し、市の周辺部では道路はひび割れ、側溝は泥で詰まり、休耕地や空き家の雑草は背丈を超えている。市民からは『インフラを整備しろ』と苦情が殺到しているが、市には土建屋に発注する予算がない。違いますか?」
桐島は、痛いところを突かれた巽の表情の微かな変化を見逃さなかった。
地方都市の崩壊は、下部構造(インフラ)の腐朽から始まる。行政の予算不足という現実こそが、彼女にとっての最大の「アキレス腱」だった。
「そこで、私たちが『解決策(ソリューション)』を提供します」
桐島は、一枚の企画書をテーブルの上に滑らせた。
「私たちが抱えている『ワーカーズ・コープ』——つまり数十人の多国籍な労働者たちを、海崎市の公共インフラ整備の『非公式な下請け』として提供します。道路の補修、側溝の泥浚い、河川敷の草刈り。市が本来なら数千万円かけて業者に発注する作業を、我々が『タダ同然』で請け負いましょう」
「……タダ同然で?」
巽が、信じられないというように眉をひそめた。
「ええ。我々には、有り余るマンパワー(肉体労働力)と、トラクターなどの重機がある。農業の空き時間を使えば、市のインフラ維持など容易いことです。予算ゼロで街が綺麗になれば、市民は喜び、それを推進した巽先生の政治的評価は飛躍的に高まるでしょう」
桐島の冷徹なロジックが、巽の野心を確実に刺激し始めていた。
「……あなたたちの狙いは何? ボランティア精神で街を綺麗にするようなタマじゃないでしょう?」
「取引(ディール)ですよ、先生」
桐島は、ソファに深く背を預け、氷のような眼差しで巽を見据えた。
「私たちが市のインフラをタダで維持する代わりに、行政と警察は、我々の廃工場(コミューン)への立ち入りと、農地の使用について一切の干渉をやめる。……つまり、我々の『完全な自治(アジール)』を黙認していただきたい」
「馬鹿な!」巽が声を荒げた。「行政が犯罪組織の治外法権を認めるなんて、あり得ないわ!」
「犯罪組織ではありません。我々は、この街のインフラを支える『不可欠なシステムの一部』になるのです」
桐島は一歩も引かず、決定的な一撃を放った。
「綺麗事で街は維持できません。先生がこの提案を蹴って我々を警察に売り渡せば、海崎市のインフラは数年以内に完全に崩壊する。ですが、我々と手を組めば、あなたは『無能な行政』から脱却し、次期市長の座を確実なものにできる。……選択の余地はないはずだ」
応接室に、重苦しい沈黙が降りた。
巽は、桐島の突きつけた「究極の選択」の前で、唇を噛み締めていた。
彼女はエリート政治家としてのコンプライアンス(上部構造)と、政治的野心・街の延命(下部構造)の狭間で揺れ動き……そして、ゆっくりと息を吐き出した。
「……行政の書類上は、地元のシルバー人材センターやボランティア団体が作業を行ったことにして偽装するわ。もし何かトラブルが起きたら、私は一切関知しない。あなたたちを容赦なく切り捨てる。それでいいわね?」
「十分です。賢明なご判断に感謝します」
桐島が立ち上がり、一礼した。
健太は、信じられないものを見るような目で桐島を見つめていた。ただの泥まみれのアウトローたちが、国家権力の末端である行政システムと「対等の共犯関係」を結んだのだ。
***
その週末から、海崎市の風景に奇妙な変化が起きた。
早朝、市民が目を覚ますと、放置されて荒れ放題だった公園の草が見事に刈り取られ、泥で詰まっていた市道の側溝が綺麗に浚渫(しゅんせつ)されていた。
作業をしているのは、市の作業着を羽織ったトアンたち外国人労働者と、大石ら日本人のアウトローたちだった。
「オラッ! その土嚢はあっちに運べ! 時間がねえんだよ!」
「ウルサイ、ジジイ! 指図スルナ!」
相変わらず彼らは怒鳴り合い、ガラが悪く、市民から見れば得体の知れない恐怖の対象だった。
だが、市民たちは警察に通報しなくなった。いや、できなくなったのだ。なぜなら、彼ら「不気味な犯罪者たち」こそが、自分たちの街の道路を直し、清潔な生活環境(インフラ)をタダで維持してくれているという、都合の良い現実に気づいてしまったからだ。
『見ざる、言わざる、聞かざる』。
一般市民たちは、自分たちの生活を守るために、アウトローたちの存在を「必要な悪」として黙認し始めたのである。
「……すげえな。誰も俺たちを不審者扱いしなくなった」
泥だらけのスコップを肩に担ぎながら、健太が不気味なほど静かになった住宅街を見回して呟いた。
「当然ダ。俺タチハ今、コノ街ノ『掃除屋』ダカラナ」
トアンが、汗を拭いながらニヤリと笑った。
行政の庇護と、市民の見て見ぬふりという「沈黙の承認」。
桐島の冷酷な錬金術によって、泥の中から生まれたコモンズは、ついに海崎市という街のシステムそのものに深く、そして毒のようにその根を張り巡らせたのである。
### 第4節
3年目の春。
海崎市の旧農協廃工場に設置されたプレハブの「帳場」は、もはやスラムの掘っ立て小屋ではなく、ウォール街のトレーディングルームのような異様な熱気を帯びていた。
何台ものマルチモニターが並び、東京のアンダーグラウンドから送金されてくる暗号資産のチャートと、複雑な資金洗浄(マネーロンダリング)の経路を示すフローチャートが明滅している。
その中央で、リクは山積みになった法務局の登記書類に次々と実印を押し続けていた。
「合同会社サステナ・ファーム海崎、株式会社アグリ・イノベーション、NPO法人海崎コモンズ……。どれも実態のないペーパーカンパニー(ダミー法人)だ。代表取締役には、大石や健太の親戚、トアンのグループで辛うじて正規の在留資格を持っている連中の名前を借りている」
リクは、捺印を終えた書類を桐島に手渡しながら、ため息まじりに言った。
「ヤミ米で稼いだ莫大なブラックマネーを、これらの法人を通じて綺麗に洗浄し、一つの巨大な持ち株会社の下にぶら下げる。……桐島、あんたの頭の中は完全にイカれてるよ。泥水すすってたアウトローの集団を、たった3年で合法的な『企業カルテル』に作り替えようって言うんだから」
書類を受け取った桐島は、一切の感情を交えずに答えた。
「システムに寄生するだけでは、いずれ駆除される。システムそのものに擬態し、法の網の目を潜り抜ける『装甲』が必要なんだ。……そのための最大の隠れ蓑が、いよいよ国から降りてくる」
***
その数週間後。
海崎市議会において、次期市長の座を確実視されている巽冴子市議が、一つの画期的な議案を満場一致で可決させた。
それは、国が推進する地方創生プログラムの枠組みを利用した『海崎市・多様性協働スマート農業特区』の申請である。
「SDGs」「インクルーシブ」「持続可能な地域モデル」。
東京の霞が関やコンサルタントが好んで使う、中身のない美しいバズワード(上部構造)が企画書には散りばめられていた。その実態は、健太たち日本人アウトローと、トアンたち不法滞在の移民グループによる「ヤミ米のカルテル」でしかない。
だが、書類上は「地元住民と外国人技能実習生が手を取り合い、AIやドローンを活用して耕作放棄地を再生する画期的なベンチャー」として完璧にロンダリングされていた。
巽の強力な政治的ロビー活動と、東京の政治家へばら撒かれた桐島の「裏金」により、この特区申請はあっさりと国の認可を勝ち取った。
特区認定の最大のメリット。
それは「農地法などの煩雑な規制が大幅に緩和され、民間企業による農地の買収が極めて容易になること」だった。
「これで、行政の介入を完全にブロックする『合法的な防壁』が完成した。……健太、トアン。狩りの時間だ。周辺の農地を、片っ端から買い叩け」
桐島の号令とともに、暴力的なまでの「農地の爆買い」が始まった。
***
「……本当に、この荒れ地を現金一千万で買ってくれるのかね?」
海崎市の郊外。雑草が人間の背丈ほどまで生い茂り、完全に山林と同化しかけている広大な耕作放棄地を前に、地主の老人が震える手でアタッシュケースの中身を見つめていた。
「ええ、一括でお支払いします。登記の移転手続きや、残置された錆びた農機具の処分もすべてこちらで引き受けますよ」
リクが、上品な笑顔で契約書を差し出した。
「ただし、条件があります。明日中にハンコを押すこと。そして今後、この土地で『誰が、何を育てているか』について、一切の詮索をしないことです」
傍らに立つ桐島が、冷徹な声で付け加える。
老人は一瞬ためらったが、札束の魔力には抗えず、逃げるように契約書にサインをした。
車に戻ると、運転席の健太が呆れたように言った。
「おい桐島、いくらなんでも一千万は高すぎねえか? あんな荒れ地、相場で言えば坪数百円、全部合わせてもせいぜい三百万の価値しかねえぞ。しかも整備に莫大な手間がかかるんだ」
「その『手間』と『時間』を金で買っているんだ」
桐島は、助手席で冷めたコーヒーを口にした。
「老人が処分に困っている負の遺産(荒れ地)を、相場の三倍の現金で即座に買い叩く。これは単なる土地代じゃない。『余計な詮索をしない』『行政にチクらない』ための口止め料であり、周囲の地主たちに『あそこに売れば高く買ってくれる』という噂を広めるための撒き餌(プレミアム)だ」
事実、この強気な爆買いスキームにより、桐島たちは海崎市周辺の耕作放棄地を次々と飲み込んでいった。
彼らが利用したのは、巽市議を脅して手に入れた「SDGsスマート農業特区」の隠れ蓑と、日本の法制度の決定的な「穴」である。
「名義は私が作ったペーパーカンパニーだけど、実際の購入資金の半分以上は、トアンたちの地下ネットワークから出ている」
リクが、タブレットに複雑な資金経路のフローチャートを映し出しながら解説した。
「ニュースでよく、『外国資本による日本の水源地や農地の買い占め』が問題になっているだろう? でも、現場の現実は少し違う。外資は投機目的や資産逃避で日本の土地を爆買いしたはいいものの、実は今、その大半を『持て余して』いるんだよ」
健太が不思議そうに首を傾げた。
「持て余すって……なんでだ?」
「農地は、都心のタワーマンションとは違うからさ。放っておけばあっという間にジャングルに戻るし、用水路の泥上げや草刈りも必要だ。少しでも放置すれば近隣の農家から猛烈な苦情が来るし、農業委員会からも厳しい指導が入る。農業のノウハウも、泥まみれになって働くマンパワーも持たない外国の投資家が、遠隔で維持管理できるような甘い代物じゃないんだよ。結果として、買ったはいいがどうにもならない『外国資本持ちの荒れ地(ゾンビ土地)』が、日本の地方には大量発生している」
そこでリクは、ニヤリと悪戯っぽく笑った。
「そこに、私が作った『SDGsスマート農業特区』の認定法人がアプローチするんだ。『我々が代わりに農地を適正に管理し、確実なリターン(米)を生み出しますよ』とね。固定資産税と近隣トラブルに頭を抱えていた外資のオーナーたちは、喜んでタダ同然で土地を貸し出すか、あるいは底値で権利を手放す」
桐島が冷めたコーヒーをすすりながら、その言葉を冷徹に引き継いだ。
「さらに、トアンがSNSの裏アカウントを使って、日本に潜伏している不法滞在者や地下組織から『現物(カロリー)配当が保証される投資先』として裏金をかき集めている。俺たちはその地下資金を使って、行き詰まった外資から農地を次々とハッキングしているんだ。……日本の緩い外資規制と、機能不全に陥った地方行政の隙間を縫って、俺たちは事実上の『アンダーグラウンドの領土(プランテーション)』を、凄まじいスピードで拡大し続けているわけだ」
しかし、莫大な農地を手に入れても、それを耕す人間がいなければ意味がない。
そこで火を噴いたのが、再びトアンの持つアンダーグラウンドの動員力だった。
「オイ! 新入リノ連中ガ二十人、バスデ着イタゾ!」
数日後、廃工場に大型バスが横付けされ、トアンに呼ばれた多国籍な若者たちが次々と降りてきた。彼らの多くは、悪徳ブローカーから逃げ出した技能実習生や、ビザの切れたオーバーステイの外国人たちだった。
「……おいおい、言葉も通じねえ素人ばっかり集めて、どうやってあの広大な土地で米を作らせるんだよ?」
健太が頭を抱える。農業は、水管理や天候の予測など、長年の勘と繊細な技術が必要なはずだ。
「綺麗な日本の農家ならそうだろうな。だが、俺たちのやり方は違う」
桐島は、新しく印刷された数枚の紙を健太に手渡した。
「美味しいブランド米を作る必要はない。俺たちが育てるのは、病気に強く、どんな荒れ地でも育つ家畜飼料用の『多収穫米』だ。そしてこれは、俺が考案した極限まで単純化されたマニュアルだ」
健太がその紙を見ると、そこには日本語の文章はほとんどなく、ただ「赤色」「青色」に色分けされた肥料の袋のイラストと、「1」「2」「3」という作業手順の数字だけが大きく印刷されていた。
「繊細な味など捨てろ。徹底的に『工業的』にカロリーを生産するんだ。言葉が通じなくても、色のついた袋を、決められた日に、決められた量だけ土にぶち込めば育つシステムを作った。……お前は現場監督として、ジェスチャーと怒号で奴らを管理しろ。トラクターの運転は巳之吉に教え込ませる」
かくして、海崎市の荒野に、前代未聞の「泥の軍隊」が誕生した。
「違う! 赤の肥料はまだ早い! 青の袋を持ってこい、青だ!」
「ウルサイ! モット早ク指示ヲ出セ!」
泥まみれの農地で、健太の怒号とトアンの母国語の罵声が飛び交う。
スマート農業という美しい看板の裏側で展開されていたのは、AIやドローンではなく、社会から弾き出された最底辺の人間たちが、スマホの翻訳アプリと色分けされたマニュアルを片手に、泥水にまみれてトラクターを乗り回す、極めて野蛮で泥臭い「人海戦術」だった。
互いに言葉も通じず、文化も違い、隙あらばサボろうとする多国籍な労働者たち。
しかし、彼らは「ここで米を作らなければ飢え死にする(あるいは入管に捕まる)」という絶対的な生存の危機感を共有していた。その極限の摩擦と緊張感が、皮肉にも彼らを一つの強固な「生産システム(共同体)」として機能させていく。
日本の社会システムが放棄した荒れ地が、システムの規格外に弾き出された外国人たちの手によって、圧倒的な熱量(カロリー)を生み出す巨大なプランテーションへと変貌を遂げていく。
桐島の描いた地下の錬金術は、誰にも気付かれることなく、着実に日本社会の土台を侵食し始めていた。
### 第5節
深夜の海崎市。
冷たい星空の下、旧農協の巨大な廃工場から、地鳴りのような重低音が響き渡っていた。
「第4車列、積み込み完了! シート掛けろ! 荷崩れ起こすなよ!」
「オウ! 次ハ大阪ルートダ! 関西ノ同胞タチガ、首ヲ長クシテ待ッテルゾ!」
V8ディーゼルエンジンのけたたましい咆哮。排気ガスの濃密な匂い。
闇夜を切り裂くヘッドライトの列は、10トンの大型ダンプカー数十台からなる巨大な車列だった。泥と埃にまみれたその無骨な車体には「産業廃棄物収集運搬車」のステッカーが貼られている。
だが、荷台に満載されているのはコンクリート片でも鉄クズでもない。彼らが広大な特区の泥水から暴力的に搾り取った、数千トンに及ぶ未検査の「多収穫米(カロリー)」である。
「……たまんねえな。おい、見ろよトアン。この景色を」
防寒着のポケットに両手を突っ込んだ健太が、次々と国道へ合流していくダンプの車列を見送りながら、武者震いするように笑った。その瞳には、かつて凍える廃工場で小銭を数えて絶望していた頃の面影はない。
自らの手で巨大な物理的質量(モノ)を動かし、日本社会の根幹を揺さぶっているという、麻薬のような全能感と興奮が全身から立ち上っていた。
「アア、最高ノ眺メダ」
隣に立つトアンも、葉巻の煙を深く吸い込み、夜空に向けて紫煙を吐き出した。
「俺タチノ仲間ガ運転スルダンプガ、今夜モ日本中ノ高速道路ヲ走ッテル。警察モ、農協モ、誰モ俺タチノ米(メシ)ヲ止メラレナイ」
彼らが構築した「並行物流網(パラレル・ロジスティクス)」は、日本の流通システムの盲点を突いた極めて凶悪で洗練されたスキームだった。
通常、米の流通は農協(JA)や大手卸売業者の巨大なトラッキングシステムによって厳格に管理されている。だが、彼らはその「綺麗な表通り」を一切使わない。
目をつけたのは、トアンたち移民ネットワークと親和性の高い「産廃・土建ルート」だった。
ダンプカーの荷台に積まれた米袋の上から、カモフラージュ用のブルーシートを被せ、行政に提出するマニフェスト(産業廃棄物管理票)には「建設発生土」や「木くず」と記載する。
警察や陸運局の検問があっても、深夜に走る泥だらけの産廃ダンプの荷台をわざわざ開けて、米の品種検査をする役人など日本中どこにもいない。
こうして、海崎市で錬成された莫大なカロリーは、既存の法の網の目(ファイアウォール)を完全にすり抜け、血液のように全国のアンダーグラウンドへとポンプで送り出されていった。
行き先は、東京の山谷、大阪の西成、横浜の寿町。さらには、全国に点在する生活保護受給者向けの安アパート群や、外国人技能実習生のタコ部屋、日雇い労働者のための激安弁当工場である。
「信じられない規模だ。……今夜だけで、動いたキャッシュは数千万円を下らない」
二階のキャットウォークからその光景を見下ろしていたリクが、タブレット端末の数字を見つめながら震える声で言った。恐怖ではない。数字の暴力的なまでの増殖に対する、純粋な畏怖と熱狂だった。
「ただのヤミ米の転売じゃない。私たちは今、日本という国家の『もう一つの心臓』になろうとしている」
リクの言葉は、決して大げさな比喩ではなかった。
社会学的な観点から見れば、近代国家の定義とは「正当な物理的暴力の独占」(マックス・ヴェーバー)であると同時に、国民の生を管理し生かしておく「生権力(フーコー)」の独占である。
国家は、スーパーマーケットに並ぶ安全で清潔な食料インフラを通じて、国民の胃袋(命)を管理し、統治している。
だが、桐島が設計し、健太とトアンが実行したこの泥仕合のコモンズは、国家が切り捨てた「下部構造(アンダークラス)」の胃袋を直接掌握してしまった。
正規のインフラからこぼれ落ちた、法の保護外にある剥き出しの生(ホモ・サケル)たち。彼らを日々生かしているのは、もはや日本政府ではなく、海崎市の廃工場から産廃ダンプで届けられる、この泥臭い「多収穫米」なのだ。
国家の生権力をハッキングし、底辺のインフラを完全に代替する巨大な「カルテル」。
それは、もはや単なる犯罪組織の域を超え、国家システムそのものと競合する『擬似国家(リヴァイアサン)』の誕生を意味していた。
「……綺麗事(コンプライアンス)の届かない暗闇で、俺たちの資本が脈打っている」
桐島は、キャットウォークの手すりに両腕を乗せ、満足げに目を細めた。
「東京のエリートどもは、SDGsだの持続可能性だのと美しい上部構造を語りながら、自分たちの足元でどれだけの人間が、この『エサのような米』にすがって生き延びているかを知らない。奴らが気づいた時には、手遅れだ。日本の底辺は、すでに完全に俺たちの胃袋(システム)に依存している」
桐島の胸の奥底で、かつて彼を追放した「クリーンな資本主義」に対する、冷酷で巨大な復讐の炎が静かに燃え盛っていた。
泥水の中から這い上がった彼らは、もはや惨めな被害者ではない。国家という巨大な巨象の足元を密かに喰い荒らし、その体重を支える土台そのものへと成り代わった、最凶の捕食者である。
「オイ! リク! 明日ノ大阪ルート、追加デもう10トン出セルカ!」
下からトアンが、野太い声で怒鳴り上げてくる。
「出せるよ! 辰造の親方が、第5区画の刈り取りを前倒しで終わらせた! ダンプの手配さえつけば、いくらでも東京や大阪にカロリーを流し込んでやる!」
リクもまた、普段の冷静さを忘れ、手すりから身を乗り出して叫び返した。
ウォォォォッ!!
廃工場に、多国籍の労働者たちの歓声と、ダンプの排気音が交じり合った、凄まじい狂騒の渦が巻き起こる。
彼らは笑い、怒鳴り、泥と汗にまみれながら、札束の束を放り投げ合っていた。
そこにあるのは、知性や理性といった上部構造を完全にかなぐり捨てた、圧倒的な「生存の熱狂」だ。
かつて助け合いの清貧の中で凍え死にそうになっていた者たちが、今や資本という名の劇薬を致死量まで飲み込み、狂おしいほどの生命力を爆発させている。
「行けえええッ!! 日本中の底辺(ゴミ溜め)を、俺たちのメシで腹一杯にしてやれ!!」
健太が拡声器を握りしめ、夜の闇に向かって絶叫した。
その声に応えるように、ダンプの車列は重厚なクラクションを鳴らし、海崎市の国道を次々と埋め尽くしていく。
3年目の秋。
泥仕合のコモンズは、ついに局地的な無法地帯の枠を越え、日本全土のアンダーグラウンドを支配する「巨大カルテル」としての完全体へと羽化を遂げたのである。
しかし、彼らはまだ気づいていなかった。
これほどまでに巨大化した「熱」と「摩擦」を、表のシステム(国家)がいつまでも放置しておくはずがないということに。
圧倒的な豊作の裏側で、彼らを完全に包摂し、あるいは駆除しようとする「国家と巨大資本」の冷たい足音が、すぐそこまで迫っていた。
## 第4章:「包摂」という名の暴力
### 第1節
海崎市のヤミ米カルテルが「完全体」へと羽化を遂げた翌年。すなわち、桐島がこの街に行き倒れてから4年目の夏。
日本社会全体を、未曾有の危機が襲った。
発端は、記録的な異常気象だった。
春先からの深刻な水不足に始まり、夏には「地球沸騰化」と呼ぶにふさわしい致死的な猛暑が日本列島を覆い尽くした。さらに、収穫期を目前に控えた秋口、複数の大型台風が連続して米どころを直撃した。
結果として、全国の米の作況指数は絶望的な数値を記録。農協(JA)が推奨してきた「食味(おいしさ)」を重視する繊細なブランド米は、この暴力的な気候変動に耐えきれず、次々と立ち枯れ、あるいは高温障害で白濁し、商品価値を完全に失った。
高齢化と後継者不足でギリギリの綱渡りを続けていた日本の農業システムは、この自然の猛威を前に為す術もなく崩壊した。
そして、その下部構造(生産現場)の崩壊は、タイムラグを経て、都市部の「無菌室」に生きる一般市民の日常を容赦なく破壊し始めたのである。
「……信じられない。オープン前から並んだのに、もう棚が空っぽじゃないか!」
東京・世田谷区にある、清潔で洗練された大型スーパーマーケット。
いつもなら、オーガニック野菜や高級な輸入食材が整然と並んでいるはずの食品フロアに、怒号と悲鳴が飛び交っていた。
米売り場の棚は、文字通り「すっからかん」だった。
入荷したわずかな米に群がったのは、普段はSDGsやエシカル消費といった「美しい上部構造」を語る、仕立ての良い服を着た中産階級の市民たちだった。彼らは血走った目でカートをぶつけ合い、最後の5キロ袋を巡って、見ず知らずの他人に罵声を浴びせ、掴み合いの喧嘩を演じている。
これが世にいう『第二次・令和の米騒動』の勃発である。
第一次・令和の米騒動から数年。この国における「米」をめぐる問題は決して改善しておらず、前回以上の混乱を齎した。
コンビニの棚からおにぎりが消え、牛丼チェーンは営業休止に追い込まれ、ネット通販の米の価格は平時の三倍、四倍へと異常な高騰を見せた。
カネ(貨幣)があっても、物理的なカロリー(実体)が買えない。
その絶対的な恐怖は、都市生活者たちが信じて疑わなかった「いつでも安くて安全な食料が手に入る」という、高度資本主義の虚弱な前提(イリュージョン)を、またしても一瞬にして打ち砕いた。
「見ろよ、これ。東京のエリートどもが、スーパーの床を這いつくばって米粒を探してるぜ」
海崎市の廃工場。
巨大なマルチモニターに映し出されるニュース映像を見上げながら、健太が口いっぱいに白米を頬張りながら笑った。
彼の目の前には、湯気を立てる山盛りのどんぶり飯と、トアンの仲間たちが持ち込んだスパイスの効いた豚肉の炒め物が並んでいる。
「滑稽ダナ。普段ハ俺タチノコトヲ『野蛮ダ』ト見下シテイル連中ガ、5キロノ米ノタメニ獣ミタイニ牙ヲ剥イテ争ッテル」
トアンもまた、ニュースキャスターの悲痛な声を聞きながら、冷ややかに鼻で笑った。
世間が前代未聞の米不足によるパニックと飢餓感に喘ぐ中、ここ海崎市のコミューンだけは、全く別の物理法則が働いているかのような異様な「豊穣」に包まれていた。
「当然の結果だ。農協の言う通りに、ひ弱な温室育ちのブランド米なんか作ってるから全滅するんだよ」
ワンカップ焼酎を煽りながら、辰造がモニターに向かって吐き捨てた。
「その点、俺たちの『バケモノ』は最強だぜ。味なんかクソ食らえの多収穫米を、致死量スレスレの農薬と化学肥料でガンガンにドーピングしてやった。高温だろうが水不足だろうが、あの泥の中からしぶとく生き残りやがった」
辰造の言葉通りだった。
海崎市の特区で彼らが栽培していたのは、環境の激変に強い飼料用の多収穫米。しかも、コンプライアンスを完全に無視した暴力的なドーピング栽培によって、猛暑や台風の被害を最小限に抑え込み、むしろ前年比1.5倍という異常な大豊作を叩き出していたのだ。
「……皮肉なものだね」
リクが、タブレット端末でアンダーグラウンドの取引価格を確認しながら呟いた。
「社会の表側(システム)は完全に干上がってパニックになってるのに、法の外側にいる私たちのアウトローなカルテルだけが、莫大なカロリーを溜め込んでいる。……東京の地下ルートからの注文が、鳴り止まないよ」
事実、彼らの元には、全国のアンダーグラウンドから「いくらでも払うから米を回してくれ」という悲鳴のようなオファーが殺到していた。
激安弁当工場だけでなく、中堅のスーパーや外食チェーンまでが、背に腹は代えられず、非正規ルートである彼らの「産廃ダンプ」を頼り始めていた。
下部構造の逆転現象。
日本の食料インフラの主導権は、今や完全に、この泥にまみれた海崎市の廃工場へと移行しつつあった。
「大勝利じゃねえか! 今年の秋は、去年の倍以上のキャッシュが入ってくるぞ!」
健太が拳を突き上げ、工場内にいた労働者たちが歓声を上げた。
だが。
その狂騒の輪から一人離れ、2階のキャットウォークから沈黙したままモニターを見つめている男がいた。
桐島である。
(……浮かれている場合ではない)
桐島は、モニターに映る「空っぽのスーパーマーケット」と、連日テレビで頭を下げている「農水省の役人」の映像を、氷のような目で見つめていた。
資本主義のシステムとは、極めて冷酷な「捕食者」である。
システムが潤沢に機能している時は、健太たちのようなアンダーグラウンドの存在を「不法なエラー」として見下し、無視し、排除しようとする。
しかし、システム自身が飢え、下部構造を失い、自らの生存(レジーム)が脅かされた時——彼らは掌を返し、その「エラー」が蓄積した莫大な資本(カロリー)を、合法的かつ強制的に奪いに来るのだ。
「桐島。どうした、浮かない顔して。日本の胃袋の首根っこを掴んだんだぜ?」
階段を上がってきた健太が、不思議そうに声をかけた。
「……健太。お前は、国家という暴力装置の本当の恐ろしさを分かっていない」
桐島の低い声に、健太の笑顔がわずかに引きつった。
「システムは、自分たちが飢え死にしそうな時に『お前たちは不法だから米を買わない』などという悠長なコンプライアンスは守らない。ルールの方を勝手に書き換え、俺たちの富を『社会のために』という美しい大義名分のもとに強奪しに来る」
桐島は、タブレットを操作し、今朝の日本経済新聞の電子版を空中に投影した。
そこには、見出しとしてこう書かれていた。
『政府、食料安全保障の抜本的見直しへ。遊休農地を活用した大規模スマート農業法人への支援拡充と、生産物の【国による一括管理】を検討』
「……国による、一括管理?」
健太が、嫌な汗を流しながらその文字を読んだ。
「そうだ。奴らはもう、俺たちの存在を嗅ぎつけている。海崎市の特区で、規格外の米が数千トン単位で生産されているという異常な『バグ』に気づいたんだ」
桐島の眼差しに、かつて東京のエリート社会から理不尽に追放された時の、深いトラウマと、底知れぬ殺意が暗い炎となって宿り始めていた。
「……来るぞ。巨大資本と国家が。SDGsや食料安保という『美しい正義の仮面』を被って、俺たちが泥水すすって作り上げたこの胃袋(コモンズ)を、合法的に丸呑みにしにな」
冷たい風が、廃工場の隙間から吹き込んだ。
全国的な米騒動のパニックの裏側で、国家という最強のシステムが、ついにその巨大な顎(あぎと)を開き、海崎市へと迫ろうとしていた。
### 第2節
秋の深まりとともに、海崎市の旧農協廃工場は、かつてないほどの物理的な「質量」に押し潰されそうになっていた。
見渡す限りの広大な休耕地から暴力的に収穫された「多収穫米」は、数千トンという常軌を逸したスケールに膨れ上がっていた。工場内の広場には、天井に届くほどの米袋の山がいくつもそびえ立ち、その間を多国籍な労働者たちがアリの群れのように行き交っている。
全国的な飢餓パニックをよそに、この泥仕合のコモンズだけが、圧倒的なカロリーの現物を独占する「ブラックホール」と化していたのである。
だが、資本主義という生態系において、異常なまでに肥え太った獲物を、上位の捕食者が見逃すはずがない。
「……桐島、マズいことになった。巽市議から至急の呼び出しだ」
帳場に駆け込んできた健太の顔は、かつてないほど青ざめていた。
「市役所じゃない。駅前の高級ホテルの会議室を指定してきた。……国(霞が関)の連中と、東京のデカい会社の人間が来てるらしい」
桐島は、パソコンのモニターからゆっくりと視線を外した。その瞳の奥には、氷のような冷たさと、微かな警戒の色が走った。
***
海崎駅前にそびえる、外資系の高級ホテル。
その最上階にあるVIP用カンファレンスルームは、廃工場の泥と機械油の匂いとは無縁の、完璧に空調管理された「無菌室」だった。
重厚な扉を開けて入室した桐島と健太を待っていたのは、青ざめた表情で俯く巽市議と、仕立ての良いスリーピーススーツに身を包んだ二人の男だった。
一人は、農林水産省のキャリア官僚。もう一人は、日本の食料流通を牛耳る巨大総合商社「帝都アグリホールディングス」の執行役員、沢渡(さわたり)と名乗る男だった。
「お噂はかねがね伺っておりますよ、桐島さん」
沢渡は、洗練された、しかし一切の温度を感じさせない営業スマイルを浮かべて名刺を差し出した。
「海崎市の『SDGsスマート農業特区』。素晴らしい取り組みですね。耕作放棄地を再生し、多様な国籍の労働力を活用して、これほどの収穫量を実現するとは。我が社としても、大変感銘を受けております」
「……お褒めに預かり光栄です。で、本題は?」
桐島は名刺を受け取ることもせず、冷ややかに切り返した。
沢渡は全く気を悪くした様子もなく、手元のタブレットを優雅に操作し、会議室のモニターに一枚の資料を映し出した。
『国家食料安全保障に基づく、海崎みらいアグリ(特区法人)の包括的業務提携及び買収提案』
「結論から申し上げましょう」
沢渡の笑顔が、捕食者のそれに変わった。
「現在、日本は未曾有の食料危機にあります。政府は先日、『食料供給困難事態対策法』——つまり、有事における食料の国家管理権限を事実上発動しました。これに伴い、海崎市の特区で生産された数千トンの米も、国家の管理下に置かれることになります」
「な……勝手なことを言うな!」
健太が身を乗り出して怒鳴った。「あの米は、俺たちが泥水すすって、自力で開墾して育てた俺たちの財産だ! 国に指図される筋合いはねえ!」
「お気持ちは分かりますが、これは『法律』ですよ」
横に座っていた農水省の官僚が、事務的な冷たい声で口を挟んだ。
「あなた方が周辺の農地を爆買いできたのは、この海崎市が『特区』として規制緩和されたからです。しかし特区の法律には、『有事の際は、国が指定する大企業などの管理機構に、その生産・流通プロセスを統合(ロールアップ)できる』という条項が組み込まれている。……あなた方がシステムをハッキングしたように見えて、実はシステムの手のひらの上で踊っていたに過ぎないのです」
それは、資本主義が持つ最も残酷で洗練された暴力——「包摂(Subsumption)」のメカニズムだった。
かつてマルクス主義の哲学者たちが指摘したように、資本主義は外部の「異物(アウトロー)」を武力で排除するだけではない。その異物が利益を生むと分かれば、法律と資本の力を使って合法的に飲み込み、自らのシステムの一部として内面化(サニタイズ)してしまうのだ。
「もちろん、タダで奪うなどという野蛮な真似はしませんよ」
沢渡が、再び洗練された笑みを浮かべる。
「我が社が、あなた方のダミー法人群を『百億円』で一括買収(M&A)します。莫大な創業者利益(キャピタルゲイン)です。あなた方は大金持ちになり、米は我が社の正規ルートを通じて全国のスーパーへ適正価格で供給される。そして、労働者たちも……ええ、我が社の厳格なコンプライアンスの元で『再雇用』の審査を行いましょう」
「審査だと?」
桐島が、地を這うような低い声で尋ねた。
「ええ。オーバーステイの外国人や、反社会的な経歴を持つ者は当然排除されます。クリーンで持続可能な、誰もが安心できる『SDGs』な労働環境を整えなければなりませんからね。これが、現代社会のルールというものです」
沢渡の言葉は、完璧な「美しい正義(上部構造)」でコーティングされていた。
だが、その実態は、彼らが泥と摩擦の中で築き上げた闘技的連帯(コモンズ)を解体し、有用な物理的カロリーだけを巨大資本が合法的に掠め取るという、極めて悪辣な強奪宣言だった。
「……巽先生。あんた、俺たちを売ったのか?」
健太が、震える声で巽市議を睨みつけた。
「……仕方ないじゃない!」
巽は顔を上げ、ヒステリックに叫んだ。
「国に目をつけられたのよ! 食料安保の緊急事態に、ヤミ米のカルテルを庇い立てなんてできるわけがない! 警察の公安や入管まで動く準備をしているって言われたのよ! 私の政治生命を守るためには、この『綺麗で合法的な提携』を受け入れるしかなかったの!」
巨大資本によるM&Aと、国家権力による有事の強制力。
「SDGs」や「食料安保」という誰も反対できない美しい大義名分を掲げた、絶対的な暴力。
「桐島さん」
沢渡が、勝利を確信したエリート特有の、傲慢で同情的な目を向けた。
「抗っても無駄です。あなたがかつて東京の金融街にいたなら、この『資本の論理』の圧倒的な力は理解できるはずだ。……泥遊びは終わりです。あなた方の汚れた胃袋は、我々が責任を持って『クリーンに』管理してあげますよ」
会議室に、凍りつくような沈黙が降りた。
健太は、百億円という天文学的な数字と、国家という逆らえない巨大なシステムの前に、完全に言葉を失い、絶望に打ちひしがれていた。
「綺麗で合法的なシステム」が、再び自分たちのすべてを奪いに来たのだ。
だが。
桐島だけは、違った。
彼の瞳は、絶望するどころか、過去の深いトラウマの底から這い出してきたような、黒く、淀んだ、絶対的な殺意の炎に包まれていた。
### 第3節
「……クリーンに管理する、か」
完璧に空調が効いたVIP用カンファレンスルームに、桐島の低く、乾いた笑い声が響いた。
最初は微かな息漏れのようだったそれは、次第に肩を震わせる嘲笑へと変わり、やがて狂気を孕んだ冷たい哄笑となって部屋の空気を凍らせた。
「……何か、おかしいですか?」
沢渡が、完璧な営業スマイルの奥に微かな不快感を滲ませて尋ねる。
「ああ、おかしいとも」
桐島は笑いを収め、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、先ほどまでの冷徹なコンサルタントの光はない。あるのは、過去の深い暗淵から這い出してきたような、黒く、ねっとりとした絶対的な殺意だった。
「SDGs、食料安全保障、コンプライアンス、持続可能な社会……。いつの時代も、お前たち『綺麗なシステム』の住人が好んで使う漂白剤(言葉)だ。その美名の裏で、常にお前たちは泥にまみれた下部構造から搾取し、都合が悪くなればトカゲの尻尾として切り捨ててきた」
桐島の脳裏に、かつて東京の金融街で数百億のファンドを動かしていた頃の記憶がフラッシュバックしていた。
当時、彼はシステムの中枢で「奪う側」のエリートとして君臨していた。しかし、ファンドが違法スレスレの取引で致命的な損失を出した時、上層部は「企業の社会的責任(CSR)」という美しい建前を掲げ、すべての責任を桐島一人に押し付けた。
彼をシステムから弾き出し、社会的な死を与えたのは、悪の組織でも暴力団でもない。完璧に合法で、世間から「クリーンで優良な企業」と称賛される、巨大な資本のシステムそのものだった。
そして今、目の前にいる沢渡も全く同じ論理で、彼らが泥水から立ち上げたコモンズを奪おうとしている。
「百億円のキャッシュを与え、不法滞在者や前科者を『再雇用の審査』で排除し、クリーンな農場に作り替えるだと?」
桐島は、テーブルの上に置かれた『買収提案書』を手に取り、沢渡の目の前で真っ二つに引き裂いた。
「おい、桐島……!」
健太が慌てて止めようとするが、桐島はそれを手で制した。
「お前たちは何も分かっていない。俺たちがこの数年間、あの凍てつく廃工場で何を分け合ってきたかを。……あそこには、お前たちが大好きな『綺麗な相互理解』なんてものは一切ない。言葉の壁に苛立ち、パンの切れ端を巡って殴り合い、互いのエゴをぶつけ合いながら、それでも共に泥をすすって熱(カロリー)を生み出してきた」
桐島は、引き裂いた提案書をテーブルに放り投げた。
「あの泥仕合のコモンズは、お前たちシステムから弾き出された『ホモ・サケル(剥き出しの生)』たちが、お互いを削り合いながら作り上げた、生存のための最後の砦(アジール)だ。……それを、百億円という端金(はしたがね)と、SDGsという安っぽい漂白剤で、無菌室の奴隷に引き渡すと思うか?」
沢渡の顔から、ついに余裕の笑みが消えた。
彼はネクタイをわずかに緩め、冷酷な目で桐島を睨み返した。
「……正気ですか、桐島さん。あなたはかつて金融の世界にいた人間だ。この百億円という数字の重みと、国家というシステムの絶対的な力が理解できないわけではないでしょう。感情論で拒絶すれば、あなた方はすべてを失うことになる」
「俺は極めて正気で、合理的な判断を下している」
桐島は、一歩前に踏み出し、沢渡を見下ろした。
「俺たちが握っているのは、ただの紙幣(カネ)じゃない。お前たちのシステムを根底から支えている『物理的な胃袋(インフラ)』そのものだ。……東京の地下で俺たちの米を喰っている何十万人という底辺の人間は、お前たちのコンプライアンス(綺麗事)では生きていけないんだよ」
桐島の言葉は、かつてのトラウマを完全に反転させた、システムに対する宣戦布告だった。
「よく聞け、沢渡。そしてそこの農水省の役人もだ。俺たちの泥のコモンズは、一ミリグラムたりともお前たちには渡さない。審査も、買収も、一切拒否する。……俺たちの胃袋を奪いに来るというなら、血の最後の一滴まで泥仕合をしてやる」
「……後悔しますよ」
沢渡が、地を這うような声で言った。
「あなたが交渉のテーブルを蹴るというなら、我々にも考えがある。海崎市の特区認定を取り消し、農地法違反と不法就労で警察の公安と入管を動かす。行政代執行で農地を強制収用することも可能だ。そして何より……」
沢渡は、手元のスマートフォンを指先でタップした。
「国民は今、飢餓感でパニックに陥っている。そこに『得体の知れない外国人犯罪集団が、日本の農地と食料を不法に独占している』という事実をメディアにリークすれば、世論はどう動くか。……あなた方は、日本中から『国賊』として袋叩きにされる。社会的な居場所など、一瞬で消え去りますよ」
「好きにしろ」
桐島は踵を返し、ドアのノブに手をかけた。
「システムがその牙を剥くなら、俺たちも腹を括るだけだ。……行くぞ、健太」
健太は、青ざめた巽市議と、冷酷な目をした沢渡たちを交互に見つめた後、覚悟を決めたように力強く頷き、桐島の後に続いた。
高級ホテルの重厚な扉が閉まる音が、静かな廊下に響き渡る。
それは、法の外側で肥え太った「地下のカルテル」と、それを包摂し駆除しようとする「国家と巨大資本」との、血で血を洗う全面戦争の開戦を告げる合図だった。
### 第4節
沢渡の警告は、単なる脅しではなかった。
交渉決裂からわずか三日後。巨大資本と国家が結託した「システム」は、その圧倒的な情報統制力とメディア・ネットワークを行使し、海崎市のコモンズに対する容赦ない総攻撃を開始したのである。
発端は、全国ネットのゴールデンタイムに放送された、報道番組の「独占スクープ」だった。
『異常気象による米不足の裏で、暗躍する外国人犯罪集団! 日本の農地と食料が奪われている!』
画面には、ヘリコプターから空撮された海崎市の広大な「多収穫米プランテーション」と、深夜に蠢く産廃ダンプの車列、そしてモザイク処理されたトアンたち外国人労働者の姿が、不気味なBGMとともに映し出されていた。
「彼らはダミー法人を隠れ蓑にし、特区制度の抜け穴を悪用して日本の農地を爆買いしています。そして、そこで生産された数千トンもの米を不法に溜め込み、高値で闇取引を行っているのです」
スタジオのコメンテーターが、眉間に皺を寄せて深刻そうに語る。
「これは単なる法律違反ではありません。飢餓に苦しむ日本国民を横目に、外国人マフィアが我々の食料インフラを不当に独占しているという、国家の安全保障に関わる重大な危機です」
事実の巧妙な切り取りと、悪意に満ちた印象操作。
「農業委員会の検査を受けていない」「産廃ダンプで運んでいる」という法的なイレギュラーだけがクローズアップされ、彼らが耕作放棄地を自力で切り拓いたことや、東京の底辺層の胃袋を支えているという下部構造の真実は、完全に隠蔽されていた。
この報道が投下された瞬間、飢餓感とパニックで沸点に達していた一般世論は、凄まじい勢いで爆発した。
都市部の「無菌室」に生きる市民たちは、スーパーの空の棚を見るたびに蓄積させていた不安と恐怖を、一気に海崎市のアウトローたちへと向けた。
SNSには、剥き出しの憎悪が滝のように流れ続ける。
『外国人を叩き出せ!』
『私たちが飢えているのに、なんで犯罪者が米を溜め込んでるんだ!』
『国は早く自衛隊を出して、あいつらから米を没収しろ!』
社会学的な観点から見れば、これは極めて古典的で暴力的な「スケープゴート(生贄)」のメカニズムだった。
システムが機能不全に陥り、パイ(資源)が縮小した時、大衆は自らの不安を解消するために「外部の敵」を必要とする。平時は「多様性」や「インクルージョン」といった美しい言葉(上部構造)を消費していた善良な市民たちが、空腹という下部構造の脅威に晒された途端、最も野蛮な排外主義の牙を剥き出しにしたのだ。
「……ひでえ言われようだな」
廃工場の帳場で、スマートフォンに流れる罵詈雑言のタイムラインを眺めながら、健太が顔をしかめた。
工場の外からは、朝からひっきりなしに上空を旋回するメディアのヘリコプターの爆音と、どこから湧いてきたのか「不法滞在者を追放せよ」とがなり立てる右翼団体の街宣車のサイレンが鳴り響いている。
「市民からの通報」と「世論の怒り」という、民主主義においてこれ以上ない大義名分(カード)を手に入れた国家は、即座に物理的な行動に出た。
「桐島、さっき県警にいる知り合いから連絡があった」
リクが、血の気の引いた顔でモニターから顔を上げた。
「明日の早朝、県警の機動隊と入管の合同部隊が、この工場に強制捜査(ガサ入れ)に入る。さらに農林水産省は、食料安保法に基づく『行政代執行』を宣言した。……問答無用でトラクターとダンプを差し押さえ、倉庫にある数千トンの米をすべて国が『強制収用』する気だ」
行政代執行。
それは、システムがその暴力装置を合法的に発動し、ルールの外側にいる異物を物理的にすり潰すための最終兵器だった。
沢渡の言った通りだ。百億円の買収を拒否した彼らに対し、国は「世論の支持」を背景にして、一円も払わずにすべてを奪い取ろうとしている。
「……オイ、キリシマ」
バンッ、と帳場のドアが乱暴に開けられ、バールを握りしめたトアンが怒りの形相で飛び込んできた。その後ろには、大石や辰造たち、日本人と多国籍の労働者たちが、武器を手にして殺気立っている。
「外ノ騒ギハ何ダ! 警察ガ来ルッテーノハ本当カ! 俺タチノ米ヲ、国ガ泥棒シニ来ルッテノカ!」
トアンの怒鳴り声に、労働者たちが「ふざけんな!」「絶対に渡さねえぞ!」と同調して吠えた。
かつては互いにいがみ合っていた日本人と移民たちが、今、「国家」という巨大な外部の敵を前にして、一つの強固な群れ(コモンズ)として完全に結束していた。自分たちの血と汗の結晶である「カロリー」を奪われることへの、純粋で動物的な怒り。
「落ち着け、お前ら」
桐島は、騒然とする帳場の中で、一人だけ異常なほど静かな声を発した。
彼はゆっくりと立ち上がり、窓の外で赤色灯を回している警察の偵察車両を冷ややかに見下ろした。
「システムは、自分たちが『正しい正義』の側にいると信じて疑わない。だからこそ、群衆を扇動し、法を盾にして俺たちを潰しに来る」
桐島は振り返り、不安と怒りに燃える労働者たち、そして健太の顔を見据えた。
「だが、奴らは最大の計算違いをしている。……俺たちが、ただ黙って狩られるだけの、大人しい羊だと思っていることだ」
ヘリの爆音が響く中、桐島の眼差しには、日本という国家そのものを道連れにするような、底知れぬ狂気と殺意が静かに渦巻いていた。
綺麗事で武装した巨大な権力による「包摂」という名の暴力。それに対する、泥仕合のコモンズの反逆が、今、幕を開けようとしていた。
### 第5章:寄生と摩擦の生存戦略
#### 第1節
警察と入管の合同部隊による強制捜査(ガサ入れ)、そして国による「行政代執行」が明朝に迫る中、廃工場の帳場は、処刑前夜のような重苦しい沈黙と焦燥に包まれていた。
壁のマルチモニターには、相変わらず全国のニュース番組が映し出されている。
『第二次・令和の米騒動、ついに死者も』
テロップとともに流れてきたのは、猛暑の中で米を求めてスーパーの行列に並んでいた高齢者が、熱中症で倒れて亡くなったという痛ましいニュースだった。画面の中では、赤ん坊を抱えた若い母親が「子供に食べさせるお粥すらない」とカメラに向かって泣き崩れている。
その映像を食い入るように見つめていた健太は、ギリッと奥歯を噛み締め、手元のマグカップをテーブルに叩きつけた。
「……なあ、桐島」
健太の声は、ひどく掠れていた。
「倉庫には、まだ出荷待ちの米が二千トン以上ある。……明日の朝、警察が来る前に、その半分だけでも『表の市場』に放出しねえか。適正な価格で、一般のスーパーに並ぶように手配するんだ」
その提案に、帳場で防衛の準備を進めていたトアンや辰造たちが、一斉に健太へ怪訝な視線を向けた。
「何を言ってんだ、健太」
リクが目を丸くする。「表ルートに流すって、それは自分から『違法に米を隠し持っていました』って証拠を世間にばら撒くようなものだよ?」
「分かってる! だが、このままじゃ俺たちは本当に『国民を飢えさせる非道なテロリスト』だ! 少しでも米を回して誠意を見せれば、極限まで高まってる『世論の憎悪』も和らぐかもしれない。……そうすれば、警察も強引な突入は躊躇するはずだ!」
健太の言葉には、かつて「善良な市民」であろうとした男の、捨てきれない甘さが滲んでいた。飢える他者を見殺しにすることに、彼の人間としての皮膚が抵抗していたのだ。
だが、桐島は、健太のその葛藤を絶対零度の声で一刀両断した。
「……くだらないな。まだそんな『上部構造(モラル)』の幻影にしがみついているのか」
桐島は立ち上がり、健太の目の前まで歩み寄った。
「誠意を見せれば、世論の憎悪が和らぐだと? 勘違いするな。画面の向こうで泣き叫んでいる連中が憎んでいるのは、飢餓そのものじゃない。自分たちが見下してきた『底辺のゴミども』が、自分たちの命綱(カロリー)を握っているという【下克上の事実】を許せないだけだ。……お前が善意で米を配ったところで、奴らは『やっぱりあの外国人犯罪者が不法に隠し持っていた! 残りも全部没収しろ!』と、正義の面を被ってさらに石を投げてくるだけだぞ」
「ケンタ。キリシマノ言ウ通リダ」
トアンが、横から健太の肩を力強く掴んだ。
「俺タチハ、もうアッチ側(綺麗ナ社会)ニハ戻レナイ。コノ泥ノ中デ手ニ入レタ米(チカラ)ダケガ、俺タチガ此処ニ生キテイルトイウ唯一ノ証明ナンダ」
健太は、トアンの顔を見た。そして、泥にまみれた労働者たちの顔を見た。中途半端な同情は、彼らの戦いを無に帰す最大の欺瞞だ。
「……分かった」健太は深く息を吐き、覚悟を決めた。「俺たちは俺たちのやり方で、最後まで泥仕合を貫く」
「その意気だ」
桐島は薄く笑うと、再びモニターに向き直り、信じがたい命令を下した。
「全車両のエンジンを切るように伝えろ。……今日から、表ルートどころか、アンダーグラウンドへの『裏ルート』の出荷もすべて止める。一粒の米もこの工場から外には出さない」
その言葉に、今度はトアンが血相を変えた。
「出サナイッテ……裏ノ出荷モ全テ止メルノカ!? 冗談ダロウ! 俺タチノ米ガナイト、東京ヤ大阪ノドヤ街ノ同胞タチハ、明日カラ本当ニ飢エ死ニスルゾ!」
これは、国家というシステムに対する究極の兵糧攻め(ストライキ)の宣言だった。
「なんでそこまで……」と絶句する健太に対し、今まで黙っていたリクが、タブレットを操作しながら冷静な声で割って入った。
「桐島の言う通り、これは国に対する最強のカードになる。……そもそも、私たちがこの工場に溜め込んでいる数千トンの米なんて、日本の年間消費量(約700万トン)から見れば、0.1%にも満たない誤差(ノイズ)でしかない。私たちが米を出し渋ったところで、日本全体が物理的に餓死するわけじゃないんだ」
リクの客観的な指摘に、健太が眉をひそめた。
「なら、なんで国は警察まで動かして、俺たちの『はした米』を目の敵にして潰しに来るんだ?」
「数年前の『第一次・令和の米騒動』を思い出してごらん」
リクは、過去のニュース記事のアーカイブをモニターに投影した。
「あの時、世間とメディアは誰を叩いた? 『農協(JA)』や『大手米卸売業者』だ。彼らが不当に米を溜め込んでいる、価格を吊り上げているとスケープゴート(生贄)にされた。……いつの時代も、農業政策の失敗や気候変動という『構造的な無能』を隠すために、国は分かりやすい悪役を必要とするんだよ」
リクは冷ややかに続けた。
「今回は『第二次』の米騒動だ。国からすれば、農協や大手企業よりも、私たちのような『不法滞在者とアウトローのカルテル』の方が、叩き潰す悪役として遥かに都合がいい。さらに言えば、国が本当に恐れているのは米の量じゃない。私たちが、国の管理(ルール)から完全に逸脱し、自力でカロリーを生み出して底辺を養っているという『システムからの自立(バグの成功)』そのものを恐れているんだ」
「その通りだ」
桐島が、低い声で引き取った。
「表の日本社会から見れば俺たちの米は誤差だ。だが、国が切り捨ててきたアンダークラス(下層階級)にとっては、俺たちの米が『100%のインフラ』になっている。……俺たちが出荷を完全に止めれば、底辺は数日で干上がる。飢えた連中は必ず暴徒化し、無菌室の都市を喰い破る。国が隠蔽してきた『下部構造の爆弾』が、全国で連鎖爆発するんだ」
自分たちを排除しようとする国家に対し、日本社会の治安そのものを人質に取るという、悪魔のような戦術。
「桐島……お前、本気か。日本中を火の海にする気かよ!」
健太が、戦慄に震える声で叫んだ。
「いくらなんでもやりすぎだ! 国への当てつけのために、関係ない奴らまで巻き込んで……」
「日本がどうなろうと知ったことかッ!!」
突如、桐島の激しい怒声が帳場に響き渡った。
普段の氷のように冷徹なコンサルタントの仮面は完全に剥がれ落ちていた。顔を歪め、首に青筋を立てて吠えるその姿は、痛々しいほどに剥き出しの「人間」だった。
「俺が海崎市で行き倒れ、雪の中で死にかけていた時、あの『綺麗な日本社会』は俺に何をした!? 誰も見向きもしなかった! コンプライアンスだのSDGsだのと口先で語るエリートどもは、俺をシステムから弾き出し、見殺しにしたんだ!」
桐島は、健太の胸ぐらを両手で強く掴み、顔を近づけた。その瞳には、血の涙のような、どす黒く強烈な熱が宿っていた。
「俺の胃袋を満たし、俺の命を繋いだのは、国家でも法律でもない! 泥水にまみれたお前であり、トアンたちだ! 俺にとっての『国』は、俺にとっての『守るべき社会』は……この工場(コモンズ)だけなんだよ!!」
それは、社会の底辺へと転落した男が、最後に辿り着いた「野生化した共同体主義(アサビーヤ)」の強烈な発露だった。
抽象的な「日本国民」への帰属意識など、とうの昔に凍りついて死んだ。彼の中にあるのは、パンの切れ端を巡って殴り合い、共に泥をすすって熱を生み出してきた、この薄汚れた労働者たちに対する、血を吐くような愛情と連帯感だけだった。
「……お前たちから奪わせない。このコモンズを奪おうとするなら、俺は日本国ごと道連れにしてやる」
健太の胸ぐらを掴んでいた手をゆっくりと離し、桐島は荒い息を吐いた。
帳場は静まり返っていた。しかし、それは恐怖による沈黙ではない。桐島の言葉が、ここにいる全ての者——システムから「いないもの」として扱われてきた者たちの心の一番深い場所に、消えない火を点けたのだ。
「……フッ、全ク狂ッテルナ、オマエハ」
トアンが、目元を乱暴に拭いながら、獰猛に笑った。
「ダガ、悪クナイ。俺タチヲ『害悪』ト呼ブ国ニ、本当ノ害悪ノ恐ロシサヲ教エテヤロウジャナイカ」
「ああ、やってやろうぜ」
大石や辰造、そして工場の隅で黙っていた巳之吉も、静かに立ち上がり、深く皺の刻まれた拳を強く握りしめた。
「国家権力だろうが巨大資本だろうが、ここは俺たちの国(アジール)だ。一歩たりとも入れさせねえ」
健太もまた、迷いを完全に振り払い、拡声器を手に取った。
「全員聞け! 倉庫の扉を完全に封鎖しろ! トラクターと重機を工場の入り口に並べてバリケードを作るんだ! 機動隊の装甲車ごと跳ね返してやる!」
うおおおおっ!!
移民と日本人が入り乱れ、廃工場を揺るがすような怒号と歓声が上がった。
狂気とも呼べる経済的脅迫の決断。
そして、彼らのすべてであるコモンズを死守するための、国家権力に対する徹底抗戦の火蓋が、今まさに切って落とされたのである。
### 第3節
明朝、すなわち強制捜査と行政代執行の当日。
海崎市の旧農協廃工場を包囲した県警の機動隊と入管の合同部隊は、完全に足を止めざるを得なかった。
彼らの目の前にそびえ立っていたのは、ただの不良集団の立てこもりではない。大型トラクターと産廃ダンプが幾重にも連結され、何百もの土嚢と廃材で補強された、文字通りの「要塞」だった。
そのバリケードの上に立ち並んでいるのは、鉄パイプやバール、そして農具を握りしめた数十人の日本人と多国籍の移民たちだ。彼らの眼差しには、一歩でも踏み込めば死兵となって襲いかかってくるような、強烈な殺気がみなぎっていた。
「……本件は食料供給困難事態対策法に基づく、合法的な行政代執行である! 直ちにバリケードを撤去し、立ち入り検査に応じなさい!」
装甲車のルーフから拡声器で警告を発する警察の指揮官に対し、健太は工場の屋根から泥の塊を投げつけ、自らの拡声器で怒鳴り返した。
「ふざけんな! ここは俺たちの土地だ! 俺たちの米だ! 欲しけりゃ力尽くで奪いに来い、権力の犬ども!」
大石たち日本人が口笛を吹き、トアンの部下たちがバリケードをガンガンと鉄パイプで叩き鳴らす。圧倒的な威圧感。
ここで下手に強行突入すれば、必ず双方に多数の死傷者が出る。現代の「クリーンな警察権力」にとって、メディアのカメラが回っている前で血みどろの市街戦を展開することは、政治的に極めてリスクが高かった。
結果として、現場の警察指揮官は即座の突入をためらい、包囲したまま相手の疲弊を待つ「兵糧攻め」へと作戦を切り替えたのである。
だが、それは桐島の計算通りの「致命的な遅延」だった。
警察が工場を包囲してから三日目。先に悲鳴を上げたのは、立てこもっているコミューン側ではなく、皮肉にも日本社会(システム)の側だった。
「……始まったぞ、桐島。アンダーグラウンドの連鎖爆発だ」
工場の帳場で、バリケードの隙間から漏れる警察の強烈なサーチライトの光を背に受けながら、リクがマルチモニターを指差した。
画面に映し出されているのは、東京の山谷、大阪の西成、そして全国に点在する貧困ビジネスの拠点からリアルタイムでアップロードされる、暴動とパニックの映像だった。
コミューンからの「ヤミ米の供給」が完全にストップして三日。激安弁当工場は稼働を停止し、NPOの炊き出しも底をついた。
スーパーの棚が空になったことでパニックを起こしていた「一般市民」の背後で、日々のカロリーを完全に絶たれた「底辺の人間」たちが、ついに極限の飢餓に耐えかねて街へと溢れ出したのである。
『食わせろ!』『俺たちを見殺しにする気か!』
暴徒化した群衆が、役所の窓ガラスを割り、シャッターの閉まったスーパーの倉庫を破壊してなだれ込んでいく。暴動はまたたく間に都市部のクリーンな「無菌室」へと波及し、治安は急速に崩壊しつつあった。
「国の連中も、いよいよ事態の深刻さに気づいたはずだ」
桐島は、モニターの凄惨な光景を冷ややかに見つめながら言った。
「海崎市のバグを一つ潰そうとした結果、自分たちが隠蔽してきた『下部構造の爆弾』が全国で爆発した。……このまま治安崩壊が続けば、内閣が吹っ飛ぶ。奴らは焦り狂っているはずだ」
その推測を裏付けるように、三日目の夜明け前、ついに外の空気が決定的に変わった。
「警告はこれまでとする! これより、行政代執行および強制捜査を実力で執行する!」
警察の指揮官の悲痛な声とともに、数十台の装甲車のエンジンが一斉に轟音を上げた。
国家の側には、もう待つ余裕はなかった。一刻も早くこの海崎市の米を強奪し、「国民に食料を確保した」という絵(プロパガンダ)を作らなければ、体制そのものが揺らぎかねないのだ。
「来るぞ!! 放水用意!」
バリケードの最前線で、健太が絶叫した。
バシュウウウウッ!!
警察の放水車から発射された高圧水流が、バリケードを容赦なく打ち据えた。同時に、催涙ガスの白煙が工場の敷地内に放たれ、視界を真っ白に染め上げる。
「ゲホッ、負ケルナ! 押し返セェ!」
トアンが、ガスマスク代わりに濡れたタオルを口に巻き、農機具洗浄用の高圧洗浄機のノズルを構えて機動隊に向けて反撃の水を放った。
「クソッ、ふざけんな! 俺たちの居場所を奪わせるか!」
大石たち日本人の労働者も、泥だらけの土嚢を背中で支え、機動隊のジュラルミンの盾と激しく押し合う。
言葉の壁も、人種の違いも、過去の怨念も、そこにはもう存在しなかった。
催涙ガスで涙と鼻水を流し、放水でずぶ濡れになりながら、日本人と移民が互いの腕を掴み、肩を組み、巨大な国家権力の暴力に対して必死に肉の壁を形成している。
それは、システムから弾き出された「剥き出しの生」たちが、自らの尊厳と熱(カロリー)を守るために見せた、あまりにも泥臭く、そして美しい『闘技的連帯』の究極の姿だった。
「押し込め! バリケードを崩せ!」
機動隊の容赦ない圧力が、少しずつ、だが確実に重機の隙間をこじ開けていく。圧倒的な人数の差と、装備の差。国家の物理的暴力の前に、アウトローたちの防衛線は限界を迎えつつあった。
その乱戦の最中。
工場の内側のシャッターの前で、一本の鉄パイプを杖のようにして、無言で立ち尽くしている男がいた。
巳之吉(みのきち)だ。
彼は、かつて自らの保身のために、共に暮らした外国人妻であるユキをシステム(警察)に売り渡した過去を持つ男だった。自分がマジョリティの側に残るために、最も身近な弱者を切り捨てたのだ。
『これであなたは、安全な市民ね。……よかったわね、巳之吉』
すべてを一人で背負い、慈愛に満ちた静かな微笑みを浮かべて去っていった彼女の最期の言葉。それは、どんな呪詛よりも深く巳之吉の魂を切り裂き、彼の感情を「絶対零度」に凍り付かせる呪いとなっていた。
以来、彼は喜怒哀楽を完全に喪失し、システムから弾き出されてこのコミューンに流れ着いてからも、周囲の喧嘩にも関与せず、ただ黙々と雑用をこなすだけの「生ける屍」として生きてきた。
「……」
巳之吉は、機動隊の盾によって弾き飛ばされ、泥水の中に倒れ込む大石やチュンたちの姿を、震える瞳で見つめていた。
かつて彼は、マジョリティという「安全な市民」の側にしがみつくために魂を売った。しかし、その結果がどうだ。システムから与えられた免罪符など何の意味もなく、結局はすべてを失い、この泥水(底辺)に沈んだのだ。
そして今、逆らえない巨大なシステムは、再び「食料安保」という美しい大義名分を掲げ、泥の中で必死に生み出した熱(カロリー)と、ようやく見つけた名もなき者たちの居場所を、泥靴で容赦なく踏みにじろうとしている。あの日のユキを連れ去ったのと同じ、冷徹で無機質な暴力のメカニズムによって。
「ミノキチ! 逃ゲロ! ココハもう突破サレル!」
口から血を流したトアンが、機動隊の警棒をその身で受け止めながら、巳之吉に向かって叫んだ。
かつて巳之吉が「犯罪者」として見下し、裏切った外国人たち。彼らが今、自分と同じ泥にまみれ、自分の居場所を守るために必死に血を流している。
その光景を見た瞬間。
巳之吉の胸の奥底で、数年間ずっと彼を縛り付けていた「絶対零度の呪い」が、激しい音を立てて砕け散った。
保身のために凍らせていたはずの感情が、決壊したダムのように溢れ出す。
後悔、絶望、そしてシステムという名の冷酷な怪物に対する、凄まじい怒りと憎悪。それらの感情は、激しい「熱」となって巳之吉の全身の血を沸騰させた。
「……うおおおおおおおおっ!!」
生ける屍だった巳之吉の口から、獣のような咆哮が迸った。
彼の目からは、長年流すことのなかった大粒の涙(熱)が溢れ出していた。
「なめるな……もう、二度と奪わせてたまるか!!」
巳之吉は、握りしめていた鉄パイプを両手で高く振りかざし、工場のシャッターを破ろうとしていた機動隊の盾の壁に向かって、一直線に突っ込んでいった。
冷徹なシステムを前に、かつての「臆病な市民」は死んだ。彼は今、自らの人間としての怒りと尊厳を取り戻し、泥仕合のコモンズの真の住人として、その命を燃やし尽くそうとしていた。
### 第4節
ガァァンッ!!
硬質な衝撃音が、早朝の廃工場に響き渡った。
巳之吉が振り下ろした錆びた鉄パイプは、機動隊員の構えるジュラルミンの大盾に激突し、火花を散らした。
「……退けえええっ!!」
老体のどこにそんな力が残っていたのか。巳之吉は盾に弾き返され、泥水の中に膝をつきながらも、再び立ち上がり、獣のような咆哮とともに二撃目、三撃目を叩き込む。
機動隊員たちが一瞬、その狂気じみた気迫に怯んだ。次の瞬間、背後から数人の隊員が飛びかかり、巳之吉を泥濘(ぬかるみ)の中へ力任せに押さえつけた。
「放せ! 俺たちの居場所を、俺たちの熱を……これ以上奪うなあっ!」
警棒で殴られ、泥に顔を押し付けられながらも、巳之吉は血走った目で叫び続けた。
かつて妻をシステムに売り渡し、自己保身の絶対零度の中で「生ける屍」となっていた男が、今、人間としての強烈な怒りと涙(熱)を爆発させ、巨大な権力に牙を剥いている。
その壮絶な姿は、限界を迎えかけていたコモンズの労働者たちの心に、決定的な発火をもたらした。
「ミノキチニ、何スンダッ!!」
トアンが血を吐きながら突進し、隊員の列に体当たりを食らわせる。
「ふざけんな! 俺たちの仲間から手を離せ!」
健太も、大石も、チュンも。日本人と移民が入り乱れ、もはや恐怖も打算もなく、ただ「自分たちの群れ(コモンズ)」を守るためだけに、圧倒的な暴力の壁へと肉弾戦を挑んでいく。
催涙ガスと放水が飛び交い、怒号と悲鳴が入り混じる。
それは、近代国家が覆い隠してきた「剥き出しの生」たちが、システムの暴力に対して起こした、最も泥臭く、最も純粋な物理的抵抗だった。
だが、どれほど熱を燃やそうとも、国家の暴力装置の前では多勢に無勢である。機動隊の防衛線がジリジリと工場の深部へと押し入り、完全制圧まであと数メートルに迫った、その時だった。
「……全隊、待機! 攻撃を直ちに停止せよ!」
突然、前線指揮官のトランシーバーがけたたましく鳴り響き、制止の号令が下された。
放水車のエンジンが止まり、盾を構えていた機動隊員たちが、困惑したように動きを止める。
泥だらけになって組み合っていた健太やトアンたちも、突然の静寂に荒い息を吐きながら、何が起きたのかと顔を見合わせた。
その静寂の理由を、工場の2階、帳場の中から見下ろしている男がいた。
桐島である。
彼の手元にあるスマートフォンのスピーカーからは、数日前の高級ホテルで完璧な余裕を気取っていた巨大総合商社・帝都アグリの沢渡の、焦燥に満ちた声が響いていた。
『……狂っている。あなた方は、本当に狂っている』
沢渡の声は、ひどく掠れ、震えていた。
『たった今、大阪府警から官邸に緊急報告が入りました。西成で起きた暴動が周辺の区へ延焼し、スーパーやコンビニ数十店舗が略奪に遭っている。東京でも山谷を中心に数千人規模の暴徒が機動隊と衝突し、ついに死者が出た……』
「予想通りのリアクションだ」
桐島は、冷めきったコーヒーを一口すすり、感情の消え失せた声で答えた。
「アンダーグラウンドの底辺たちは、綺麗なコンプライアンス(上部構造)では腹を満たせない。俺たちの米という『泥のインフラ』を絶たれれば、奴らは生き延びるために都市を喰い破る。……システムが隠蔽してきた時限爆弾が、いよいよ連鎖爆発を始めたわけだ」
『……要求は、何ですか』
ついに、沢渡が——いや、彼を背後で操る国家という巨大なシステムが、白旗を揚げた瞬間だった。
彼らは計算したのだ。海崎市のヤミ米カルテルを強行突破して「正義」を貫くコストよりも、全国規模の都市暴動による政権崩壊のコストの方が、遥かに高くつくという冷徹な事実を。
「要求は最初から変わらない。警察と入管を今すぐ撤退させろ。そして、俺たちの自治(アジール)に対する一切の干渉を永久に放棄しろ」
桐島は、窓ガラス越しに、泥まみれで立ち尽くす健太やトアン、そして血だらけの巳之吉の姿を見下ろしながら言った。
「百億円の買収も、クリーンな再雇用も必要ない。俺たちはこれからも、日本のルール(法)の外側で勝手に泥をすすり、勝手にカロリーを生み出す。……お前たちは、その『特例(バグ)』を見て見ぬふりをするだけでいい」
電話の向こうで、沢渡が重い沈黙を守っていた。
それは、近代国家が自らの法治の限界を認め、アウトローの治外法権を黙認するという、究極の「妥協」を強いられた屈辱の沈黙だった。
『……国家安全保障会議の極秘決定として、海崎市の特区を「緊急時における特別指定・戦略的食料備蓄拠点」として【事実上の治外法権】とみなすことが了承されました。表向きは国の管理下にあるという体裁(ペーパー)だけは整えますが、実態への介入は行わない』
沢渡が、血を吐くような声で条件を提示した。
『その代わり……今夜中に、産廃ダンプを動かしてください。一刻も早く、アンダーグラウンドにカロリーを流し込み、暴動を鎮静化させろ。……これが、我々が飲めるギリギリのラインです』
「取引(ディール)成立だ」
桐島は、短く応じ、通話を切った。
国家と巨大資本のサプライチェーンの首根っこを掴み、日本社会全体を人質に取った「経済的脅迫」が、見事に完了した瞬間だった。
数分後。
工場の敷地を包囲していた機動隊と入管の車両が、まるで潮が引くように、音もなく撤退を開始した。
赤色灯の光が遠ざかり、朝焼けの冷たい光が、泥だらけの廃工場を照らし出す。
「……引いていくぞ。サツの連中が、帰っていく……」
大石が、信じられないというように呟き、その場にへたり込んだ。
「勝ッ……タノカ? 俺タチハ、国ニ勝ッタノカ……!?」
トアンが、血塗れの顔を歪めながら、空に向かって吠えた。
「ああ。俺たちの居場所は、俺たちで守り抜いたんだ!」
健太は、泥水の中から巳之吉を抱き起こし、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら笑った。巳之吉もまた、血に染まった口元に、長年忘れていた「人間らしい不器用な笑み」を浮かべていた。
歓喜の咆哮が、朝の海崎市に響き渡る。
だが、2階の帳場からその光景を見下ろしていた桐島の瞳は、決して「完全勝利」の美酒に酔ってはいなかった。
(勝ったわけではない。……システムが、俺たちを『都合の良い外部』として利用することを決めただけだ)
桐島は知っていた。
資本主義というシステムは、決して死なない。彼らは一時的に痛手を負い、妥協したように見せかけて、いずれ別の形でこのコモンズを包摂しようと試みるだろう。
彼らが手に入れたのは、永遠の自由ではなく、血みどろの摩擦の中で勝ち取った「一時的な執行猶予(アジール)」に過ぎないのだ。
それでも。
「……悪くない熱だ」
桐島は、窓ガラスに額を押し当て、泥の中で抱き合い、笑い合う労働者たちを見つめながら、静かに呟いた。
絶対零度の世界から始まった彼らの反逆は、冷徹なシステムに確かな「バグ」を穿ち、泥仕合のコモンズを、この世界に確固たる物理的質量として打ち立てたのである。
## 第6章:融解の季節
### 第1節
警察と入管の合同部隊が撤退した日の深夜。
海崎市の旧農協廃工場からは、再びV8ディーゼルエンジンの重厚な咆哮が鳴り響いていた。
「オラッ! モタモタすんな! 関西ルートの第3陣、さっさと出せ! 向こうの連中が飢えて暴れてんだ、少しでも早くカロリーを叩き込んでやれ!」
健太の怒号が飛び交う中、泥だらけの産廃ダンプが次々と国道へ合流していく。
国との極秘のディール(取引)により、彼らには一刻も早いアンダーグラウンドへの「兵糧」の再供給が義務付けられていた。
東京や大阪の貧困街で暴徒化していた群衆は、ダンプが運んできた安価な多収穫米——すなわち彼らにとっての絶対的な命綱——が配給所に届き始めると、まるで魔法にかけられたようにスッと刃を収め、再び大人しい「透明な底辺」へと戻っていった。
暴動は、わずか数日で鎮静化した。
それは、国家が「正規のインフラ」ではとうてい管理しきれないアンダークラス(下層階級)の胃袋を、海崎市のアウトローたちが完全にコントロールしているという、恐るべき事実の証明だった。
「……見事な手打ちだよ。お前も、そして国の連中もな」
数日後。帳場で法務局に提出する書類を整理しながら、リクが呆れたような、それでいて感心したようなため息をついた。
「表向きの書類上、海崎市のこの特区は『帝都アグリホールディングスが管理する、国家指定の緊急食料備蓄拠点』ということになった。つまり、私たちは巨大資本の末端の『委託業者』という名目で合法化されたわけだ。警察も入管も、もう二度とこの工場には立ち入れない。完全な治外法権(アジール)だよ」
「だが、それは完全勝利ではない」
パイプ椅子に深く腰掛けた桐島は、窓の外でトラクターを整備している労働者たちを眺めながら、静かに答えた。
社会学的に俯瞰すれば、この結末は決して「底辺の反逆がシステムを打ち倒した」というロマンチックな革命ではない。
むしろ、資本主義という怪物の果てしない狡猾さと、包摂力の恐ろしさを示していた。
国家と巨大資本は、海崎市の「バグ」を物理的にすり潰すことが不可能だと悟った瞬間、すぐさまそのバグを「仕様」としてシステムに組み込む決断を下したのだ。
自分たちの手を汚すことなく、厄介な底辺層の胃袋をアウトローたちに安上がりに管理させる。表向きは「SDGs特区」という美しい看板でコーティングし、社会の不満を逸らす安全弁として彼らを飼い殺す。
「奴らは俺たちを殺せなかった代わりに、『必要悪』として共犯関係に引きずり込んだんだ」
桐島は冷めたコーヒーを飲み干し、氷のような笑みを浮かべた。
「俺たちがどれだけ泥水をすすって独立を叫ぼうが、結局はシステムの手のひらの上で踊っているに過ぎない。……それが、この世界の冷徹なルールだ」
「それでも」
リクは、手元の分厚い札束の山——暴動鎮圧の対価として、そして今後の供給の「手付金」として、帝都アグリから非公式に振り込まれた莫大なキャッシュ——をポンと叩いた。
「私たちは生き残った。不法滞在の移民も、社会から弾き出されたジジイたちも、誰一人欠けることなく、この工場(居場所)と、圧倒的な経済基盤を守り抜いた。……システムに寄生するダニだと言われようが、これ以上の勝利はないんじゃないか?」
桐島の視線の先では、健太とトアンが、新しく買い入れたトラクターの仕様を巡って、またしても取っ組み合いの喧嘩を始めていた。その周りで、辰造が焼酎を片手に野次を飛ばし、巳之吉が呆れたようにスパナを握っている。
決して美しい勝利ではない。
権力との歪な妥協であり、泥にまみれた敗北スレスレの引き分けだ。
「……ああ、そうだな」
桐島は、目を細め、胸の奥底に確かな「熱」を感じながら呟いた。
「俺たちの『泥仕合』は、これからも続く」
かくして、国家のコンプライアンスが一切届かない、歪で強靭な「無法のコモンズ」は、日本社会の深層に、決して抜けない太い楔(くさび)として打ち込まれたのである。
### 第2節
海崎市役所、最上階の市長応接室。
次期市長の座を事実上確約された巽冴子は、高級なブラウスの袖をまくり上げ、ブラインド越しに眼下の街並みを見下ろしていた。
数年前まで、この街の風景は「死」の匂いに満ちていた。
ひび割れたアスファルト、雑草が生い茂る公園、高齢化で放置された空き家の群れ。地方自治体というシステムが血液(予算)を失い、ゆっくりと壊死していく過程を、彼女はただ手をこまねいて見ているしかなかった。
だが今、眼下に広がる街のインフラは、不気味なほどの清潔さを保っている。
道路の側溝からは泥が消え、公園の草は綺麗に刈り取られている。それを「タダ同然」で請け負い、行政の代わりに街の機能を維持しているのは、国の『特区・指定業者』という最強の隠れ蓑を手に入れた、あの旧農協廃工場のアウトローたちだ。
「……皮肉なものね」
巽は、淹れたての紅茶を口に運びながら、誰に言うともなく独り言ちた。
「東京の霞が関や、リベラルな知識人たちは、いつだって『多文化共生』や『多様性の尊重』という美しい言葉(お題目)を並べ立てる。……でも、そんな無菌室の理想論で、この国の移民問題が解決したことなんて一度でもあったかしら?」
巽の脳裏には、数年前の海崎市の光景が焼き付いていた。
技能実習生という名目で安価な労働力として連れてこられ、使い捨てにされる外国人たち。そして、彼らを「自分たちの仕事を奪う犯罪者」として憎み、自警団を作って迫害していた健太たちのような、底辺の日本人労働者たち。
綺麗なシステムが用意した「共生」という上部構造は、実際の底辺の現場では、ただの搾取と憎悪(ヘイト)の温床でしかなかったのだ。
異文化を理解し合い、互いを思いやりましょう。そんな綺麗事で、空腹は満たされない。
「だけど、あの桐島という男がこの死にゆく街に打ち込んだ『劇薬』は違った」
巽は、窓ガラスに映る自分自身の冷徹な顔を見つめた。
「彼らは、互いを理解しようとなんてしていない。愛し合ってもいない。相変わらずいがみ合い、言葉の壁に苛立ち、相手を出し抜こうとしている。……だけど彼らは、お互いの『欠落』を補い合い、ただ『資本(カロリー)を稼いで胃袋を満たす』という一点においてのみ、完璧な共犯関係を結んだ」
それは、社会学が長年追い求めてきた「移民とマジョリティの融和」に対する、最も野蛮で、最も実効性のある回答だった。
道徳(モラル)や人権意識で縛り付けるのではなく、剥き出しの資本の論理と、極限の生存本能によって両者を強制的に接着する。互いのエゴをぶつけ合う「摩擦」を許容し、それをエネルギーへと変換する『闘技的連帯』。
それは決して、表の社会で褒められたり、道徳の教科書に載ったりするような美しい解決策ではない。泥にまみれ、法を犯し、暴動すら引き起こすような凶悪なスキームだ。
「……でも、それが現実(リアル)なのよ」
巽は、カップをソーサーに置き、鋭い三白眼を細めた。
「美しい理想を抱いたまま凍え死ぬよりも、泥水をすすってでも生き延びる強靭な『胃袋』のほうが、この世界では正しい。彼らが作り上げたあの野蛮な共同体(コモンズ)こそが、破綻しつつあるこの国の労働力問題に対する、唯一の実現可能な処方箋(モデルケース)なのかもしれないわね」
彼女は、自身の政治生命を賭けて、その「劇薬」を海崎市という身体の奥深くまで飲み込んだのだ。
もはや、行政権力を持つ彼女自身も、あの泥仕合のコモンズを構成するシステムの一部(共犯者)に過ぎない。
窓の外では、秋の冷たい風が吹き抜けている。
だが、あの薄汚れた廃工場の周辺だけは、システムから弾き出された者たちが放つ、膨大な「熱」に包まれていることを、巽は誰よりも正確に感知していた。
### 第3節
ガシャァァンッ!!
国家権力との全面衝突から数週間が過ぎた、海崎市の旧農協廃工場。
その薄暗い空間に、金属が激しくぶつかり合う音と、鼓膜を劈(つんざ)くような怒声が響き渡った。
「テメエ、トアン! このトラクターのクラッチ、また無理やり繋ぎやがったな!? 修理代がいくらかかると思ってんだ、このクソ野郎!」
健太が、油まみれのスパナを振り回しながら、血相を変えてトアンの胸ぐらに掴みかかった。
「ウルサイ、ケンタ! オマエラ日本人ノ機械ガ、ヤワナンダヨ! 俺ハ指定サレタ区画ノ泥土ヲ、時間通リニ全部掻キ出シタゾ! 文句ヲ言ワレル筋合イハナイ!」
トアンも一歩も引かず、健太の作業着を乱暴に掴み返す。
「アホか! 機械を壊したら明日の作業が止まんだろが! お前らベトナム人は、いつも目先の力任せなんだよ!」
「何ダト!? 口バカリデ泥ニ入ロウトシナイ日本人ヨリ、俺タチノ方ガ百倍マシダ!」
二人の周囲では、日本人グループと移民グループが「やっちまえ!」「ボコボコにしてやれ!」と、それぞれの母国語で下品な野次を飛ばし合っている。
一触即発。今にも殴り合いの乱闘が始まりそうな空気を切り裂いたのは、2階の帳場から降りてきたリクの、氷のように冷たい声だった。
「はい、そこまで。……トラクターの修理代と稼働停止のペナルティで、今月のトアンの班と健太の班から、それぞれ『五万ポイント』ずつ減点するよ」
その宣告を聞いた瞬間、健太とトアンはピタリと動きを止め、同時にリクを指差して叫んだ。
「はあ!? なんで俺まで減点されんだよ!」
「フザケルナ、リク! ケンタノ班ノ整備不良ダロウガ!」
「現場のトラブルは連帯責任。それがこのコモンズのルールだろ? 文句があるなら、減点分を埋め合わせるために、今夜の深夜シフトにでも入るんだね」
リクは、手元のタブレットを冷淡にスワイプし、さっさと背を向けてしまった。
「……クソッ! テメエのせいで五万飛びやがった!」
健太はトアンを突き飛ばし、忌々しそうに舌打ちをした。
「明日カラノ夜間ルート、俺ノ班ガ全部モラウカラナ! オマエラハ指クワエテ見テロ!」
トアンもまた、悪態をつきながら、自分の部下たちを怒鳴りつけて明日のスケジュールを組み直し始めた。
つい先日の機動隊との衝突で、命がけで肩を組み、共に血を流した「固い絆」など、そこには微塵も存在しない。
国家権力という巨大な外部の敵が去った途端、彼らは再び元の「いがみ合うアウトロー」へと戻っていた。言葉の壁に苛立ち、互いの文化の違いを罵倒し、少しでも多くの利益(取り分)を掠め取ろうと、剥き出しのエゴをぶつけ合っている。
リベラルな知識人が見れば「なんという野蛮で、相互理解のない後進的な空間か」と顔をしかめるだろう。
だが、この廃工場に充満しているのは、冷え切った絶望ではない。
「オラッ! そこで突っ立ってねえで、このキャブレターの洗浄を手伝え! 減点された分、明日で取り返すぞ!」
健太が怒鳴ると、大石やチュンたちが文句を言いながらも慌ただしく工具を手に取る。
「ミノキチ! コッチノ部品モ直シテクレ! 急ギダ!」
トアンが叫ぶと、油にまみれた巳之吉が「うるせえ、順番にやるからそこに置いとけ」と、かつての生ける屍だった頃からは想像もつかないような、力強いだみ声で応じる。
そして、その横では辰造がワンカップ焼酎を煽りながら、「お前ら、もっと腰を入れて働け!」と機嫌よく野次を飛ばしているのだ。
相変わらずの、果てしない泥仕合。
しかし、その激しい摩擦と衝突こそが、彼らが生きているという何よりの証明だった。
互いに同化することも、無理に好きになることも求めない。ただ、ルールというリングの上で、同じ泥水に浸かりながら資本を奪い合う。その純粋な「欲望のベクトル」が交差する時、そこには確実に、凄まじい熱量(エネルギー)が生まれる。
「……五万ポイントの減点。いいカンフル剤になったな」
二階のキャットウォークからその狂騒を見下ろしていた桐島が、隣に戻ってきたリクに向かって、薄く笑いながら言った。
「桐島の指示通りだよ。彼らには、常に飢餓感と『隣の奴を出し抜きたい』という適度な怒りを与え続けないと、すぐに生産性が落ちるからね」
リクもまた、呆れたように肩をすくめながら、どこか楽しげな表情を浮かべていた。
「同情や哀れみで繋がった組織は、いずれ腐敗する。……互いを削り合いながら、それでも共にメシを喰う。これこそが、俺たちの生存戦略だ」
国家というシステムから弾き出され、社会の底辺で凍え死にかけていた者たち。
彼らは、美しい「多文化共生」や「SDGs」といった綺麗事(上部構造)を一切拒絶し、この泥と油にまみれた廃工場の中で、最も醜く、そして最も力強い『命の燃やし方』を確立したのである。
冬の足音が再び近づく海崎市の冷たい空気の中で、彼らのコモンズだけは、まるで巨大な溶鉱炉のように、むせ返るような熱と活気を放ち続けていた。
### 第4節
海崎市の長く、そして殺伐とした冬が終わりを告げようとしていた。
灰色の空から差し込む微かな春の陽光が、広大な特区の平野を覆っていた雪をゆっくりと溶かしていく。
かつて、東京から追放された桐島を凍死寸前まで追い込んだ、白く、冷たく、そして「無菌室の社会」のように無機質だった雪。それが溶け去った後には、黒く粘り気のある、生々しい「泥」が見渡す限り地平線まで姿を現していた。
ズズズズズズッ……!!
雪解けの泥濘(ぬかるみ)をキャタピラで力強く踏み躙りながら、数台の大型トラクターが轟音を立てて進んでいく。
春の作付けに向けた、果てしない土の掘り起こし作業だ。
その泥の海のど真ん中で、泥まみれの長靴を履いた男たちが、今日も相変わらず怒声と罵声を響かせていた。
「オラッ! チュン! そこの水路の泥上げが甘えぞ! 今年の作付け面積は去年の二割増しなんだ、モタモタしてると親方に殺されんぞ!」
健太が、スコップを振り回しながらベトナム人の若者を怒鳴りつける。
「ウルサイ、ケンタ! 人ニ文句言ウ前ニ、自分ノ足元ノゴミヲ拾エ! トラクターノ爪ニ絡マルダロウガ!」
トアンが、泥の中から錆びた空き缶を引き抜きながら、健太に向かって投げつける。
「ふざけんな! ぶつけんじゃねえよ!」
怒鳴り合い、泥を跳ね上げ、汗を拭いながら、日本人と移民たちは次々と広大な荒れ地を「資本の生産ライン」へと作り替えていく。
辰造は軽トラックの荷台からワンカップ片手に指示を飛ばし、巳之吉は泥にまみれた重機のエンジンルームに首を突っ込んで、黙々とボルトを締め上げている。
誰一人として、綺麗な服を着ている者はいない。
彼らの顔には黒い泥がこびりつき、爪の先には油が入り込み、その手には硬いマメがいくつも潰れた痕がある。社会の表通りを歩くエリートたちが見れば、顔をしかめて避けて通るような、薄汚れた底辺の労働者たちだ。
だが、雪解けの冷たい風が吹き抜ける中、彼らの体からは、むせ返るような強烈な「熱気(エネルギー)」が立ち昇っていた。
農道の傍らに停めた黒塗りのSUV。
そのボンネットに腰掛け、桐島は冷めたコーヒーをすすりながら、泥まみれになって蠢く労働者たちの姿を静かに見つめていた。
「……綺麗な景色だと思わないか、リク」
桐島の問いかけに、隣でタブレット端末を操作していたリクが、怪訝そうに顔を上げた。
「綺麗? この泥仕合が? あんた、本当に目がイカれたんじゃないのか」
「いいや。これ以上なく美しい」
桐島は、視線を泥の海に向けたまま、微かに口角を上げた。
「東京の無菌室にいた頃、俺たちは『雪』のように白く、清潔で、完璧なシステムの中で生きていると思い込んでいた。……だが、あの白い世界は少しでもイレギュラー(エラー)を起こした者を容赦なく凍死させる、冷酷な地獄だった」
桐島の脳裏に、かつてすべてを失い、この海崎市の雪の中で倒れた夜の記憶が蘇る。あの時、彼を救い、彼の胃袋に暴力的なまでの熱(カロリー)を叩き込んでくれたのは、法も道徳も届かない、この泥臭い人間たちだった。
「雪は溶ければ、ただの冷たい水になる。……だが、泥は違う」
桐島は、ボンネットから降り、足元の黒い土を革靴のつま先で強く踏みしめた。
「泥は汚れ、悪臭を放ち、摩擦を生む。しかし、そこには俺たちを拒絶したシステムを根底から喰い破るだけの、圧倒的なカロリー(資本)が眠っている。……俺たちは、この泥水をすすりながら、世界の首根っこに喰らいついて生き延びるんだ」
日本という国家が彼らを『必要悪』として包摂したところで、この戦いが終わったわけではない。
システムは常に狡猾であり、いずれまた形を変えて彼らのコモンズを解体し、奪いに来るだろう。それに抗うためには、彼らはどこまでも貪欲に、どこまでも凶暴に、この泥の中で力を増殖させ続けなければならない。
「オイ! キリシマ!」
遠くから、健太とトアンが泥だらけの手を振りながら、こちらに向かって叫んだ。
「第4区画の整地が終わったぞ! 明日には特区の新しい土地の契約が三件ある! 準備しとけよ、悪徳コンサルタント!」
その乱暴な呼びかけに、桐島はコーヒーの紙コップを軽く掲げて応えた。
『多文化共生』や『相互理解』といった、美しいが腹の膨れない上部構造(イリュージョン)は、ここには一切存在しない。
あるのは、剥き出しの欲望と、ヒエラルキーの底辺から這い上がろうとする強烈な生存本能。そして、互いを削り合いながらも、同じ泥水の中で確かな熱を分け合う「闘技的連帯」だけだ。
「……行こうか。今日も、世界から資本を掠め取る時間だ」
桐島は、踵を返し、帳場へと向かって歩き出した。
その背筋は氷のように冷徹に伸び、しかしその眼差しは、前方の泥濘をまっすぐに、そして揺るぎない確信を持って見据えていた。
春を告げる冷たい風が、海崎市の空を吹き抜けていく。
システムから弾き出された名もなきアウトローたちの、泥と暴力、そして冷徹な資本の論理が交差する「地下の錬金術」は、今日もこの泥仕合のコモンズで、脈々と、そして貪欲に生み出され続けている。
### エピローグ:ガラス越しのユートピア
完璧に空調が管理され、微かな埃一つ、不快な匂い一つ存在しない清潔な空間。眩しいほどのLED照明に照らされた東京・キー局のニューススタジオは、海崎市の泥と油にまみれた薄暗い廃工場とは対極にある、完全なる「無菌室」だった。
「——続いての特集です」
透き通るような発声で原稿を読み上げるのは、有名私立大学出身の洗練された女性キャスターだ。彼女の背後にある巨大な液晶モニターには、『検証・第二次令和の米騒動と、海崎市特区の深層』というテロップとともに、泥だらけで産廃ダンプを運転する健太やトアンたちのモザイク映像が流れている。
「今年の秋、日本中をパニックに陥れた深刻な米不足。その裏で、海崎市の農業特区を舞台に、一部の日本人と外国人労働者グループによる不法な米の流通、さらには警察の行政代執行に対する物理的な抵抗など、前代未聞の騒乱が起きました。……かつては互いに激しく憎み合い、排斥し合っていた彼らが、今回は一転して強固な『カルテル』を結成し、国家権力に牙を剥いた。この歪な現象をどう見るべきか。本日は、三人の専門家にお話を伺います」
カメラが滑らかにスライドし、アクリル板で仕切られたゲスト席に座る三人の論客を映し出した。
「まずは、現代社会学がご専門の白河(しらかわ)教授。今回の一連の事件、どのようにご覧になりますか?」
「ええ。非常に遺憾であり、同時に現代社会の病理を象徴する痛ましい事件だと言わざるを得ません」
上品な銀縁メガネをかけた白河教授は、眉根を寄せて滑らかな口調で語り始めた。メディアで頻繁に「SDGs」や「ダイバーシティ(多様性)」の重要性を説く、リベラル派を代表する知識人である。
「数年前に同じ海崎市で起きた外国人排斥事件は、対話の欠如が招いた悲劇でした。そして今回、彼らは『ヤミ米の生産』という違法行為を通じて結託しましたが、それは決して私たちが目指すべき『多文化共生』の姿ではありません。法の支配とコンプライアンスを完全に無視し、大量の化学肥料を投下する環境破壊的な農業。そして何より、警察権力に対する野蛮な暴力……。彼らのやり方には、ドイツの哲学者ハーバーマスが提唱したような『コミュニケーション的理性』——すなわち、対話と相互理解を通じた合意形成のプロセスが完全に欠如しています。私たちは、異なる文化を持つ人々と、互いの人権を尊重し合いながら、対話を通じてクリーンでインクルーシブ(包摂的)な持続可能社会を築いていかなければならないはずです」
完璧なコンプライアンスに配慮した、教科書通りの「上部構造」からの模範解答だった。キャスターが「おっしゃる通りですね」と深く頷いた、その直後である。
「白河先生、あなたのその『対話』だの『共生』だのというお花畑のような言葉で、この国家の危機が解決するとでもお思いですか?」
もう一人のゲスト、保守系ジャーナリストの郷田(ごうだ)氏が、忌々しそうにテーブルを叩いた。
「これは単なる違法行為や環境問題などという生ぬるい話ではない。不法滞在の外国人犯罪者と、それに加担する反社会的な日本人が結託した、国家主権に対する明らかなテロリズムであり、静かなる侵略です! ドイツの法学者カール・シュミットが喝破したように、政治の基本は『友と敵』の峻別にある。法の支配を無視し、日本の領土内に勝手に治外法権(アジール)を作り上げるような連中は、国家にとって明確な『敵』以外の何者でもない!」
郷田の血走った目が、カメラを鋭く睨みつける。
「ホッブズは『リヴァイアサン』の中で、強大な国家権力こそが『万人の万人に対する闘争』を防ぐ唯一の手段だと説きました。国家の法(ルール)に従わない者を甘やかせば、社会はたちまち野蛮なジャングルに逆戻りする。彼ら不法滞在者は直ちに強制送還し、共犯の日本人は厳罰に処すべきです。国家は、圧倒的な暴力をもって彼らを排除し、この美しい日本の法治と秩序を取り戻さなければならない!」
「郷田さん、あなたのその排外主義的なレトリックこそが、社会に分断とヘイトを生むのですよ!」
白河教授が顔を紅潮させ、色をなして反論する。
「不法滞在というステータスであっても、彼らには基本的人権があります! 国家の暴力による一方的な排除ではなく、彼らを正規のシステムにどうやって包摂(インクルージョン)していくかという福祉的アプローチこそが……」
「人権? 法律を破っている犯罪者にそんなものを適用するから、日本の治安が崩壊するんだ! 彼らは我が国の富をかすめ取る寄生虫だ!」
「寄生虫とは聞き捨てならない! それは明らかなヘイトスピーチです!」
「……ふ、ははははっ」
スタジオの空気が険悪なピークに達しようとしたその時。
三人目のゲストである気鋭の社会学者、黒須(くろす)准教授が、ノーネクタイの襟元を緩めながら、あからさまな嘲笑を漏らした。
「く、黒須先生……?」
キャスターが戸惑ったように声をかける。
「いや、失礼。あまりにも見事な『無菌室の寝言』の応酬なもので、つい笑ってしまいました」
黒須は、呆れ返ったような視線を、白河と郷田の双方に交互に向けた。
「白河先生、郷田さん。あなた方が今、声高に振りかざしている『対話』だの『人権』だの『美しい国家の主権』だのという高尚なイデオロギーは、マルクスに言わせればすべて、空虚な『上部構造』に過ぎない。要するに、クーラーの効いた部屋で安全に胃袋を満たしている人間たちだけが楽しめる、高尚な娯楽(ファンタジー)ですよ」
「娯楽だと……? 私は国家の存亡を懸けた安全保障の話をしているんだぞ!」
郷田が激昂して身を乗り出すが、黒須は冷たい目でそれを制した。
「人間の社会の土台(下部構造)は、何よりもまず『今日のカロリーをどうやって摂取し、生き延びるか』という物質的基盤にあるんです。白河先生、対話で腹は膨れますか? 郷田さん、愛国心で飢えは凌げますか?」
黒須の鋭い問いかけに、二人の論客が一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「海崎市の彼らは、あなた方が顔をしかめて見下すあの泥水の中で、自力で数千トンという圧倒的なカロリーを生み出した。国家のルールに従うことも、リベラルな道徳に従うことも拒絶し、イデオロギーではなく『生存』そのものをハッキングしたんです。……それがどれほど強烈な現実(リアル)か、あなた方には分かっていない」
黒須は、アクリル板を指先でコツコツと叩きながら、さらに深く、決定的な思想の刃を二人に突きつけた。
「そもそも、白河先生の言う『クリーンな社会』も、郷田さんの言う『美しい日本』も、一体誰の犠牲の上に成り立っているんです? 現代社会はコンプライアンスという名の見えないフィルターで、少しでもエラーを起こした人間を次々と排除している。イタリアの哲学者アガンベンは、法の保護から見捨てられ、いつでも殺され得る状態に置かれた命を『ホモ・サケル(剥き出しの生)』と呼びました」
黒須は、背後のモニターで泥まみれになっている健太やトアンたちを指差した。
「彼らこそが、現代のホモ・サケルです。あなた方が守ろうとしているこの清潔なスタジオも、安価なコンビニ弁当も、コンプライアンスの網の目から排除され、法的保護を持たない彼らのような名もなき底辺労働者たちが、あなた方のやりたくない泥仕事を低賃金で請け負ってきたからこそ維持できているんじゃないですか。……その『透明な奴隷』たちが、自分たちで資本(米)という生産手段を握り、下部構造から反逆の牙を剥いた。だからこそ、システム(国家)はパニックに陥り、あなた方もこうして慌てふためいている。違いますか?」
反論を許さない、鋭利で冷徹な事実の突きつけ。
リベラルと保守、一見水と油に見える二つの「美しい理想論」が、実はどちらも同じ「底辺からの搾取」という下部構造の上に胡座をかいていたという欺瞞が、全国ネットの電波に乗って白日の下に晒された瞬間だった。
「……詭弁だ! 違法なカルテルを不当に美化するのはやめなさい!」
白河教授が、ついに温和な仮面をかなぐり捨ててテーブルを叩いた。額には青筋が浮かび、リベラルな知識人らしからぬ怒気を孕んだ声がスタジオに響き渡る。
「彼らの間に、一体どんな『共同体』があると言うんですか!? 映像を見たでしょう。彼らは互いの文化を理解しようともせず、言葉の壁に苛立ち、ただ自己の利益のために怒号を飛ばし合っているだけだ。あんなものは共同体でも連帯でもない、ただのエゴイズムの野合です! 互いを思いやる『共感』も『倫理』もない空間を、社会と呼ぶことは断じて許されない!」
「白河先生、あなたは本当に『無菌室』の住人だ」
黒須准教授は、肩をすくめて冷ややかに笑った。
「『共感』や『相互理解』がなければ連帯できないというのは、安全な場所にいる人間の驕りです。ベルギーの政治学者シャンタル・ムフは、合意や調和を前提とするリベラルな民主主義を批判し、対立と摩擦を排除しない『闘技民主主義(アゴニズム)』を提唱しました。海崎市の彼らが実践しているのは、まさにそれです」
黒須は、アクリル板越しに白河を真っ直ぐに見据えた。
「彼らは互いを嫌いなままでいい。理解し合わなくてもいい。ただ、同じ泥水に浸かり、国家という共通の絶対的な外部(敵)から『生存』を勝ち取るためだけに、剥き出しのエゴとエゴをぶつけ合っている。その激しい摩擦こそが、彼らの共同体にすさまじい熱量(カロリー)を生み出しているんです。表面的な『いいね』で繋がるあなた方の薄っぺらなSNS社会よりも、あの泥仕合のコモンズの方が、よほど強靭で、よほど人間的(リアル)な結びつきだ」
「ふざけるなッ! そんな無法地帯を容認する国家がどこにある!」
横から、郷田が顔を真っ赤にして怒鳴り込んできた。
「法治国家において、暴力と摩擦で利益を貪る集団などただのマフィアだ! 警察が手ぬるいなら、自衛隊を出動させてでもあの特区を物理的に制圧すべきなんだ! 国家の主権(リヴァイアサン)を舐めるな!」
「ですが郷田さん、その絶対的なはずの国家が、すでに彼らに白旗を揚げたじゃないですか」
黒須が、郷田のナショナリズムを冷酷にへし折る。
「自衛隊を出動させる? 笑わせないでいただきたい。国が彼らを潰せないのは、武力が足りないからじゃない。彼らの生み出す泥まみれの米がなければ、アンダーグラウンドの底辺層が暴動を起こし、あなた方の『美しい日本』の治安が保てないからです。国家自身が、すでに彼らの下部構造(カロリー)に依存し、寄生しているんですよ」
黒須の容赦ない言葉に、郷田は言葉を詰まらせ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
しかし、黒須は決して、海崎市のコミューンを手放しで「理想郷」として礼賛しているわけではなかった。彼の声のトーンが、ふっと低く、そして重くなる。
「……誤解しないでいただきたいが、私は彼らの世界が『素晴らしいパラダイスだ』と言っているわけではありません」
黒須は、モニターの向こうで重機を操る労働者たちを見つめながら言った。
「彼らのコモンズは、極めて過酷で野蛮です。常に隣の人間を出し抜こうとする緊張を強いられ、少しでも気を抜けば蹴落とされる、まさにホッブズ的な『万人の万人に対する闘争』が工場の中で日常的に繰り広げられている。法も福祉もない空間では、弱者は無惨に脱落していくしかない。それは決して、人間が安らかに生きられるユートピアではない。圧倒的なディストピアです」
黒須はゆっくりと視線を戻し、白河と郷田、そしてカメラの向こうの視聴者へと、決定的な真実を突きつけた。
「ですが、現実を見てください。この秋、スーパーの棚から米が消え、人々がパニックに陥り、餓死者まで出た時……あなた方の語る『美しい国家の主権』や『クリーンで持続可能な理想論』は、一体何人の胃袋を満たしてくれましたか?」
スタジオに、重く冷たい静寂が落ちた。
「何もできなかったはずだ。あなた方の綺麗な言葉は、1キロカロリーの熱も生み出さなかった。……しかし、海崎市のアウトローたちが、違法な手段で、泥水にまみれ、大量の化学肥料を使って育て上げたあの『野蛮で不味い米』は、現実に数万人の底辺の人間たちの命を繋いだんです」
黒須の声が、無菌室の空気を震わせる。
「綺麗事で餓死するか。泥を啜って生き延びるか。……彼らが突きつけているのは、そういう極限の選択なんですよ」
「結果が良ければ過程の暴力は許されるとでも言うのか! それは民主主義の完全な自己否定だ!」
白河教授が、半ば立ち上がりながら絶叫した。
「そんな獣のような論理がまかり通れば、人類が築き上げてきた理性は……!」
「理性で腹が膨れるなら、誰も暴動なんて起こさん! だからこそ国家が力で彼らを統制し、正しい道徳を……!」
郷田も身を乗り出し、机を叩いて怒鳴る。
「道徳を語る前に、まずは彼らと同じ泥の中に入ってみたらどうですか! あなた方は安全なガラスの向こう側から、自分たちの手を汚さずに……!」
黒須もまた、声を荒げて応戦する。
リベラルな理想主義、排外的な国家主義、そして泥臭い生存の哲学。
三つの思想が完全に決裂し、交わることのない怒号となってスタジオを飛び交う。知的な対話などとうの昔に崩壊し、皮肉にも、そこには白河が最も忌み嫌った「相互理解なき摩擦(アゴニズム)」が、テレビカメラの前でむき出しになって展開されていた。
「あ……あ、あのっ! 先生方、落ち着いてください! 放送中ですよ!」
女性キャスターが、パニックを起こして裏返った声で制止に入る。
カメラの裏側では、ディレクターが青ざめた顔で「巻け! 強制的に切れ!」と腕を激しく回していた。
「ま、誠に申し訳ありませんが、お、お時間が来てしまいました……! この問題については、引き続き番組でも注視してまいりたいと思います!」
キャスターが、引きつった笑顔をカメラに向け、半ば叫ぶように番組を締めくくる。
「……それでは、次はお天気です!」
プツン、と。
画面が強制的に切り替わった。
そこに映し出されたのは、何事もなかったかのようにパステルカラーのスーツを着た気象予報士と、日本列島をすっぽりと覆う「清潔な冬の気圧配置」の図だった。
「明日は全国的に晴れ間が広がり、過ごしやすい一日になるでしょう——」
耳障りの良いBGMに乗せて、朗らかな声が響く。
争いも、泥の臭いも、底辺の飢えも存在しない、完璧にコントロールされた『ガラス越しのユートピア』。
テレビという安全な箱の中で語られる美しい言葉たちは、決して現実の泥水には触れることなく、ただ空虚に消費されていくだけだ。
だが、無菌室の電波が空を飛び交う、その遥か下で。
厳しい冬の足音が近づく海崎市の荒野では、今日もV8ディーゼルエンジンの重厚な咆哮が鳴り響いている。
「オラッ! そこで突っ立ってねえで、早く泥を掻き出せ!」
「ウルサイ、ケンタ! オマエガ先ニ動ケ!」
罵倒し合い、いがみ合いながらも、同じトラクターに乗って広大な泥の海を開墾していく健太やトアンたち。
その狂騒を帳場の窓から見下ろしながら、桐島は冷めたコーヒーをすすり、氷のように冷たく、そして確かな熱を帯びた瞳で笑っていた。
世界の美しいイリュージョン(上部構造)など、知ったことではない。
彼らはこれからも、この泥仕合のコモンズの中で、社会の首根っこに喰らいつき、図太く、貪欲に、圧倒的なカロリーを生み出し続けていく。
透明なガラスの向こう側で、剥き出しの命(熱)が、今日も激しく燃え盛っていた。
(完)
### エピローグ:ガラス越しのユートピア
完璧に空調が管理され、微かな埃一つ、不快な匂い一つ存在しない清潔な空間。眩しいほどのLED照明に照らされた東京・キー局のニューススタジオは、完全なる「無菌室」である。
メインキャスターを務める神崎玲(かんざき・れい)は、カメラのレンズの奥にあるプロンプターを見つめながら、完璧なアーチを描く眉一つ動かさず、透き通るような声で原稿を読み上げていた。
年齢は32歳。地方の国立大学からキー局に入社し、報道一筋でキャリアを積んできた。知的で洗練されたルックスと、どんな論客を相手にしても冷静に番組を仕切るファシリテーション能力が高く評価されている。
だが、その完璧な「中立的メディア人」の仮面の下には、テレビでは決して語ることのない鬱屈した思想信条が隠されていた。
玲は、海崎市と同じように、ゆっくりと壊死していく地方都市の出身だった。
彼女が心の底で抱いているのは、強い経済ナショナリズムと、新自由主義的な「選択と集中」への強烈な怒りである。東京の一極集中を礼賛し、切り捨てられた地方に「安価な外国人労働者」という劇薬を無責任に流し込む現在の国策に、彼女は強い懐疑心を抱いていた。
都合のいい時だけ移民を安い労働力(歯車)として使い潰し、トラブルが起きれば自己責任として地方に押し付ける。そんな場当たり的な政策で、日本経済の屋台骨が支えられるはずがない。地方創生という名の下に行われる空疎な交付金頼みの事業ではなく、地方の泥臭い現場から立ち上がるボトムアップ型の熱量にこそ、この国の経済を再生させる鍵があるのではないか——それが、玲の個人的な、しかし確固たる信念だった。
だからこそ、玲は今夜の特集テーマである「海崎市の事件」に、報道の枠を超えた異常な関心を抱いていたのだ。
「——今年の秋、日本中をパニックに陥れた『第二次・令和の米騒動』。その震源地とも言えるのが、海崎市の農業特区で起きた前代未聞の騒乱でした」
玲の背後にある巨大な液晶モニターに、泥だらけで産廃ダンプを運転し、機動隊の盾と激しく衝突する日本人と外国人労働者たちの映像が映し出される。
「数年前に自警団による外国人排斥暴動が起きたこの街で、かつて激しく憎み合っていた日本人労働者と不法滞在の外国人たちが、一転して強固な『ヤミ米カルテル』を結成。国家の行政代執行に対し、物理的なバリケードを築いて抵抗しました。……本日は、この歪な共同体が現代日本に突きつけた問題を紐解くべく、三人の専門家にお越しいただいています」
カメラが滑らかにスライドし、アクリル板で仕切られた円卓に座る三人の論客を映し出した。
「まずは、現代社会学がご専門の白河(しらかわ)教授。今回の一連の事件、どのようにご覧になりますか?」
玲の問いかけに、上品な銀縁メガネをかけた白河教授が、眉根を寄せて滑らかな口調で語り始めた。メディアで頻繁に「SDGs」や「ダイバーシティ(多様性)」を説く、リベラル派を代表する知識人である。
「非常に遺憾であり、同時に現代社会のコミュニケーション不全を象徴する事件です。数年前の排斥事件もそうでしたが、彼らの間には決定的に『対話』が欠けている。ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスが提唱した『コミュニケーション的理性』——すなわち、互いの背景を理解し、議論を通じて合意形成を図るプロセスを完全に放棄しています。さらに言えば、彼らがヤミ米を大量生産するために行った、大量の化学肥料の投下や不法投棄同然の農地開墾は、持続可能な開発目標(SDGs)に真っ向から反する野蛮な環境破壊です。異なる文化を持つ人々とは、正しい法制度の下で、人権を尊重し合いながら『多文化共生』を築くべきであり、今回のような暴力的なカルテルは断じて認められません」
「白河先生、あなたのその『多文化共生』というお花畑のような言葉が、現実の国家をどれほど危機に陥れているか、まだお分かりにならないのですか?」
白河の言葉を遮るように、保守系ジャーナリストの郷田(ごうだ)氏が、忌々しそうにテーブルを叩いた。
「これは単なる違法行為や環境問題ではない。国家主権に対する明らかなテロリズムであり、静かなる侵略です! 埼玉県川口市のクルド人問題や、北海道における中国資本の不透明な水源地買収など、日本の法(ルール)を無視して我が国の領土内に『治外法権(アジール)』を作り上げる動きは全国で後を絶たない。カール・シュミットが喝破したように、政治の基本は『友と敵』の峻別にある。法を犯す不法滞在者と、それに加担して国に牙を剥く反社会的な日本人は、国家にとって明確な『敵』だ!」
郷田は血走った目でカメラを睨みつける。
「ホッブズは『リヴァイアサン』の中で、強大な国家権力こそが社会の無秩序を防ぐ唯一の手段だと説きました。マックス・ヴェーバーが定義したように、国家とは『正当な物理的暴力の独占体』でなければならない。彼らのような無法者を甘やかせば、国家のタガは外れ、社会はたちまち野蛮なジャングルに逆戻りする。機動隊を撤退させた政府の弱腰は万死に値します。直ちに自衛隊を出動させてでも、特区を物理的に制圧すべきだった!」
白河と郷田。リベラルな理想主義と、排外的な国家主義が真っ向から激突する。
玲は、心の中で冷ややかに状況を分析していた。郷田の過激な排外主義には賛同できないが、急激な外国人流入に対する「地元住民のリアルな恐怖と軋轢」を無視して、上からの綺麗なポリコレで蓋をしようとする白河の態度も、地方の現実を知らないエリートの傲慢に思えた。
「お二人のご意見、それぞれに現代日本の抱える根深い不安を代弁していると感じます」
玲は、絶妙なトーンでファシリテーションに介入した。
「郷田さんが指摘されるように、既存のルールや治安が脅かされることへの地域住民の不安は、決して無視できるものではありません。しかし一方で、白河先生。現実問題として、日本の生産年齢人口は急減しており、農業や物流といったインフラの維持は、外国人労働者に依存せざるを得ない構造があります。彼らをただ排除するのではなく、どうすれば『摩擦』を減らし、社会の担い手として正規のシステムに組み込めるのでしょうか?」
玲は、自身の「地方の産業をどう維持するか」という問題意識を忍ばせつつ、中立的なパスを白河へ出した。
「おっしゃる通りです、神崎さん」白河は我が意を得たりと頷いた。「だからこそ、制度の透明化と、人権教育の徹底が必要です。悪徳な技能実習制度を廃止し、正規の労働ビザを与え、日本人と同等のセーフティネットで彼らを『包摂(インクルージョン)』する。そうした適正な法的手続きを踏んでこそ……」
「——くっ、ははははっ」
突如、スタジオの張り詰めた空気を、身も蓋もない嘲笑が切り裂いた。
三人目のゲストである気鋭の社会学者、黒須(くろす)准教授が、ノーネクタイの襟元を緩めながら、肩を揺らして笑っていたのだ。
「し、失礼。あまりにも見事な『無菌室の寝言』の応酬なもので、つい吹き出してしまいました」
黒須は、呆れ返ったような視線を、白河と郷田の双方に交互に向けた。主人公たち——海崎市のコモンズの在り方を、学術的に高く評価している異端の学者である。
「白河先生、郷田さん。あなた方が今、声高に振りかざしている『対話』だの『人権』だの『国家の主権』だのという高尚なイデオロギーは、マルクス主義の言葉を借りればすべて、空虚な『上部構造』に過ぎない。要するに、クーラーの効いた安全な部屋で、明日の食事の心配がない人間たちだけが楽しめる、高尚な娯楽(ファンタジー)なんですよ」
「娯楽だと……? 私は国家の存亡を懸けた安全保障の話をしているんだぞ!」郷田が激昂する。
「人間の社会の土台(下部構造)は、何よりもまず『今日のカロリーをどうやって摂取し、生き延びるか』という物質的基盤にあるんです。白河先生、対話で腹は膨れますか? 郷田さん、愛国心で飢えは凌げますか?」
黒須の鋭い問いかけに、二人の論客が一瞬だけ言葉を詰まらせた。
玲は、手元の進行用フリップを握る手に、無意識に力が入るのを感じていた。
「海崎市の彼らは、あなた方が顔をしかめて見下すあの泥水の中で、自力で数千トンという圧倒的なカロリーを生み出した」
黒須は、アクリル板を指先でコツコツと叩きながら、決定的な思想の刃を突きつける。
「そもそも、白河先生の言う『クリーンな包摂』も、郷田さんの言う『美しい日本』も、一体誰の犠牲の上に成り立っているんです? 現代のコンプライアンス社会は、少しでもエラーを起こした日本人や、法的な規格から外れた不法滞在者を次々と排除している。イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンは、法の保護から見捨てられ、いつでも殺され得る状態に置かれた命を『ホモ・サケル(剥き出しの生)』と呼びました。……彼らこそが、現代のホモ・サケルです。彼らはすでに、あなた方の語る『正規のシステム』から意図的に弾き出されているんですよ」
黒須は、背後のモニターで泥まみれになっている主人公たちを指差した。
「あなた方が守ろうとしているこの清潔なスタジオも、安価なインフラも、法的保護を持たない彼らのような名もなき底辺労働者たちが、あなた方のやりたくない泥仕事を低賃金で請け負ってきたからこそ維持できている。……その『透明な奴隷』たちが、自分たちで資本(米)という生産手段を握り、下部構造から反逆の牙を剥いた。だからこそ、システムはパニックに陥り、あなた方もこうして慌てふためいている。違いますか?」
反論を許さない、鋭利で冷徹な事実の突きつけ。
玲は、心の中で小さく息を呑んだ。黒須の言葉は、玲が日頃から感じていた「東京一極集中と、地方への矛盾の押し付け」という日本の欺瞞構造の、さらに深い根源(底辺の不可視化)を正確に抉り出していたからだ。
「……詭弁だ! 違法なカルテルを不当に美化するのはやめなさい!」
白河教授が、ついに温和な仮面をかなぐり捨ててテーブルを叩いた。額には青筋が浮かび、リベラルな知識人らしからぬ怒気を孕んだ声がスタジオに響き渡る。
「彼らの間に、一体どんな『共同体』があると言うんですか!? 映像を見たでしょう。彼らは互いの文化を理解しようともせず、言葉の壁に苛立ち、ただ自己の利益のために怒号を飛ばし合っているだけだ。あんなものは共同体でも連帯でもない、ただのエゴイズムの野合です! 互いを思いやる『共感』も『倫理』もない空間を、社会と呼ぶことは断じて許されない!」
「白河先生、あなたは本当に『無菌室』の住人だ」
黒須准教授は、肩をすくめて冷ややかに笑った。
「『共感』や『相互理解』がなければ連帯できないというのは、安全な場所にいる人間の驕りです。ベルギーの政治学者シャンタル・ムフは、合意や調和を前提とするリベラルな民主主義を批判し、対立と摩擦を排除しない『闘技民主主義(アゴニズム)』を提唱しました。海崎市の彼らが実践しているのは、まさにそれです」
黒須は、アクリル板越しに白河を真っ直ぐに見据えた。
「彼らは互いを嫌いなままでいい。理解し合わなくてもいい。ただ、同じ泥水に浸かり、国家という共通の絶対的な外部(敵)から『生存』を勝ち取るためだけに、剥き出しのエゴとエゴをぶつけ合っている。その激しい摩擦こそが、彼らの共同体にすさまじい熱量(カロリー)を生み出しているんです。表面的な『いいね』や『ポリコレ』で繋がるあなた方の薄っぺらなSNS社会よりも、あの泥仕合のコモンズの方が、よほど強靭で、よほど人間的(リアル)な結びつきだ」
「ふざけるなッ! そんな無法地帯を容認する国家がどこにある!」
横から、郷田が顔を真っ赤にして怒鳴り込んできた。
「法治国家において、暴力と摩擦で利益を貪る集団などただのマフィアだ! 警察が手ぬるいなら、自衛隊を出動させてでもあの特区を物理的に制圧すべきなんだ! 国家の主権(リヴァイアサン)を舐めるな!」
「ですが郷田さん、その絶対的なはずの国家が、すでに彼らに白旗を揚げたじゃないですか」
黒須が、郷田のナショナリズムを冷酷にへし折る。
「自衛隊を出動させる? 笑わせないでいただきたい。国が彼らを潰せないのは、武力が足りないからじゃない。彼らの生み出す泥まみれの米がなければ、アンダーグラウンドの底辺層が暴動を起こし、あなた方の『美しい日本』の治安が保てないからです。国家自身が、すでに彼らの下部構造(カロリー)に依存し、寄生しているんですよ」
黒須の容赦ない事実の突きつけに、二人の論客は言葉を失った。
玲は、息を呑んでその応酬を聞いていた。
黒須の指摘は極めて鋭利だ。東京という「上部構造」が、地方という「下部構造」から富と労働力を吸い上げているという現実。そして今、底辺に追いやられた者たちが、自らの手で「食料(資本)」という究極の物理的カードを握ったことで、国家という巨大なシステムを逆に脅迫している。
しかし、玲は一人のジャーナリストとして、そして「地方の再生」を真剣に願う者として、黒須の論理にすべて頷くわけにはいかなかった。
彼らのやり方は、あまりにも劇薬すぎるのだ。
「お待ちください、黒須先生」
白熱する男たちの議論を切り裂くように、玲は鋭い声を放った。手元の進行用フリップを机に置き、彼女は「中立的なキャスター」から一歩踏み出し、テレビの前の一般市民の倫理観を代弁する盾となった。
「先生のおっしゃる『泥の中の現実』や、社会の矛盾については理解しました。ですが、一視聴者としての、ごく一般的な庶民の感覚から言わせていただきます。先生は先ほどから、まるで海崎市のアウトローたちが日本社会を底辺で支えている、極めて優秀な互助組織であるかのように高く評価されています。しかし、彼らがやっていることは明確な法律違反です。不法滞在者を雇用し、ヤミのルートで米を転売し、莫大な不当利益を得ている疑いが極めて高い。……もし、生存のためならそうした不法行為すら正当化されるというのなら、そもそもこの国は『法治国家』として成り立たなくなるのではありませんか?」
玲の反論は、極めて真っ当な「社会のルール」の防衛線だった。
これに郷田が我が意を得たりと身を乗り出し、机をバンと叩いた。
「キャスターの言う通りだ! 黒須先生、あなたはルソーやマルクスを気取って弱者を擁護しているようだが、現実の国際社会を見てみたまえ。国家の法と統制が及ばず、アウトローがインフラや食料供給を牛耳った結果どうなるか。メキシコの麻薬カルテルや、ハイチのギャング支配による無政府状態(フェイルド・ステート)だ! 暴力と不当な利益で肥え太った武装集団が、最終的に一般市民をどれほど搾取し、国家の秩序を破壊しているか。法治を否定することは、社会全体の絶対的な破滅を意味するんだ!」
近代国家における「暴力と法の独占」という大原則に則れば、郷田と玲の主張は完璧な正しさを誇っていた。
しかし、二人の集中砲火を浴びても、黒須は全く動じることなく、むしろ底知れぬ冷ややかな笑みを浮かべた。
「法治国家……。無政府状態……。郷田さん、神崎さん。あなた方が信じている『日本』という国は、随分と平和で美しい幻影のようですね。では、その素晴らしい『法治国家』が、現実の地方の農業や労働市場で一体何をしてきたか、具体例を挙げてお答えしましょう」
黒須はタブレットを操作し、冷徹な声でデータを突きつけた。
「現在、この国の農業従事者の平均年齢は約69歳です。耕作放棄地は年々、九州の面積に匹敵する勢いで拡大している。誰もやりたがらないその泥仕事を補うために、国が『法治』の名の下に導入したのが、技能実習制度や特定技能という名目の、事実上の『外国人奴隷労働システム』です。最低賃金以下で働かせ、パスポートを取り上げ、暴力やハラスメントが横行している。国際社会や国連からも『人権侵害だ』と再三の勧告を受けているにもかかわらず、です。……あなた方の愛する『クリーンな法治国家』は、法律という合法的なシステムを使って、彼らから正当な利益を搾取し、使い捨ててきたんです」
黒須の鋭い視線が、玲を真っ直ぐに射抜いた。玲は一瞬、心臓を掴まれたような衝撃を覚えた。自分の故郷でも、工場や農家を支えているのは、安価で雇われた外国人実習生たちだったからだ。
「神崎キャスター、あなたは彼らの利益を『不当』と言った。では聞きますが、彼らが海崎市で稼ぎ出した莫大な金は、本当に不当ですか? 誰も見向きもしなかった荒れ地を自力で開墾し、泥にまみれ、社会から弾き出された人間たちを組織してメシを食わせ、結果としてアンダーグラウンドの暴動を未然に防いでいる。彼らが手にした利益は、国家が本来負担すべきだった『社会保障費』や『インフラ維持費』を、彼らが自力で泥水から回収しただけの、極めて『正当な生存コスト』です」
黒須は、アクリル板越しに郷田を指差した。
「法治国家のシステムそのものが機能不全を起こしているからこそ、彼らがバグとしてその機能を代行しているんですよ。ハイチのギャング? 笑わせないでいただきたい。海崎市の彼らの方が、よほど日本の行政よりも正確に、弱者たちの胃袋を管理していますよ」
玲は言葉に詰まった。彼女の構えていた「庶民感覚」という盾は、黒須の突きつける残酷な現実と冷徹な論理の前に、あっさりと粉砕されたのだ。
法律が常に正しいとは限らない。時には法律そのものが、弱者を搾取し、排除するための透明な暴力として機能している。その事実を、玲自身も心の奥底では知っていた。
「……た、確かに、現在の制度に矛盾があることは否定しません」
玲は、湧き上がる個人的な感情を必死に抑え込み、進行役としての冷静さを取り戻そうと話題の舵を切る。
「しかし、だからといって法律を破るカルテルを未来永劫黙認するわけにはいかない。現在のシステムが限界を迎えている中で、私たちは今後、人間社会のあり方をどう構築していくべきなのでしょうか。白河先生、現実的な解決策についてはどうお考えですか?」
白河教授が、待っていましたとばかりに居住まいを正した。
「黒須先生の指摘する外国人労働問題の闇は、私も社会学者として常に批判してきたところです。しかし、だからといって無法地帯(アノミー)を肯定してはならない。これからの人間社会の道標となるのは、制度の透明化と、テクノロジーによる『スマート農業』の完全な社会実装です」
白河は、カメラに向かって雄弁に語り始めた。
「ドローンやAIを活用し、環境負荷の少ないSDGsに配慮した農業を、国家とクリーンな企業が主導して展開する。そして消費者自身も『エシカル消費(倫理的消費)』を心がけ、フェアトレードで生産された、少し高価でも環境と人権に配慮された正しい食料を選ぶ。ベーシックインカムなどの議論も進め、すべての人を『合法的な網の目』で優しく包摂する。そうした『啓蒙』と『技術』の両輪こそが、野蛮な摩擦を乗り越えた先にある、これからの人間社会のあるべき姿です」
「エシカル消費。スマート農業。……本当に、吐き気がするほど美しい言葉の羅列ですね」
黒須は、心底うんざりしたように首を振り、深い溜め息をついた。
「白河先生、あなたは現実の国際ニュースを見ていないんですか? 数年前、スリランカという国が、まさにあなたが提唱する『環境に配慮したSDGs農業』を国家主導で強行しました。化学肥料を全面禁止し、完全な有機農業への移行を目指したんです。結果はどうなりました? 収穫量は激減し、食料価格は暴騰、経済は完全に崩壊して大統領は国外逃亡する羽目になった。腹を空かせた市民にとって、無農薬の美しいイデオロギーなど、何の腹の足しにもならなかったんです」
「それは極端な例だ! スリランカの政策転換が急進的すぎただけで……!」
「極端な例ではありません。先進国であるヨーロッパ全体でも起きている現実です」
黒須は間髪入れずに畳み掛けた。
「EUが掲げた『グリーン・ディール』政策。環境保護のために農薬や肥料の使用を厳しく制限し、農家に莫大なコストとコンプライアンスを押し付けた。その結果、フランスやドイツ、オランダで何が起きました? 怒り狂った農民たちが何千台もの大型トラクターで首都の道路を封鎖し、泥や糞尿を政府機関に撒き散らす大規模な暴動が起きたじゃないですか! 上部構造にいるエリートたちが『クリーンで持続可能な地球』を語る時、その皺寄せは常に、下部構造で泥にまみれている人間たちの『今日の胃袋』を直撃するんです!」
黒須の言葉は、スタジオの空気を圧倒的な熱量と質量で支配していった。
「これからの人間社会の未来のあり方? そんなものは、海崎市の彼らがすでに証明しているじゃありませんか。テクノロジーがどれだけ進化しようが、美しい法整備を進めようが、結局、人間の命を繋ぐのは物理的な『カロリー(熱)』です。コンプライアンスでガチガチに固められた脆弱なサプライチェーンが、気候変動や経済危機、あるいはパンデミックで崩壊した時、最後に生き残るのは誰か。海崎市のアウトローたちのように、倫理や法律をかなぐり捨ててでも、多収穫の不味い米を泥水から錬成できる『野蛮な強靭さ(レジリエンス)』を持った共同体なんですよ。彼らは決して病理なんかじゃない。過度に清潔になりすぎ、エラーを許容できなくなったこの国が生み出した、生存のための『抗体』なんです」
「抗体だと!? ウイルスそのものじゃないか!」
郷田が再び顔を真っ赤にして吠える。
「そんな無法者どもが日本の中枢を侵食すれば、いずれ国体が滅びる! この国に必要なのは、そんな野蛮な共同体ではない。政治が強力なリーダーシップを発揮し、彼らのような害悪を力で排除し、正しい国家の形を再構築することだ!」
「政治(システム)のスピードでは、もう飢餓(現実)には追いつけないんですよ、郷田さん」
黒須は、憐れむような目で保守の論客を見た。
「国家が会議室で『誰を排除するか』『誰を救うか』を議論している間に、底辺の人間は飢えて死ぬんです。だから彼らは、国家の慈悲を待たずに、自分たちで『資本』という名の暴力を握った。……あなた方は、海崎市の彼らを恐れている。彼らが犯罪者だからじゃない。彼らが、国家の庇護や美しい道徳などなくても、自分たちの力だけで力強く生き延びてみせたという【自立】の事実そのものが、あなた方エリートの存在意義を根底から破壊しているからです」
「詭弁だ! 結果が良ければ過程の暴力は許されるとでも言うのか! それは民主主義の完全な自己否定だ!」
白河教授が、半ば立ち上がりながら絶叫した。
「そんな獣のような論理がまかり通れば、人類が築き上げてきた理性は……!」
「理性で腹が膨れるなら、誰も暴動なんて起こさん! だからこそ国家が力で彼らを統制し、正しい道徳を……!」
郷田も身を乗り出し、机を叩いて怒鳴る。
「道徳を語る前に、まずは彼らと同じ泥の中に入ってみたらどうですか! あなた方は安全なガラスの向こう側から、自分たちの手を汚さずに……!」
黒須もまた、声を荒げて応戦する。
リベラルな理想主義、排外的な国家主義、そして泥臭い生存の哲学。
三つの思想が完全に決裂し、交わることのない怒号となってスタジオを飛び交う。知的な対話などとうの昔に崩壊し、皮肉にも、そこには白河が最も忌み嫌った「相互理解なき摩擦(アゴニズム)」が、テレビカメラの前でむき出しになって展開されていた。
「あ……あ、あのっ! 先生方、落ち着いてください! 放送中ですよ!」
玲は、イヤモニから聞こえるディレクターの「巻け! 強制的に切れ!」という悲鳴のような指示を受け、毅然とした声で制止に入った。
彼女の胸の奥では、黒須の言葉が激しい共鳴を起こしていたが、表向きはあくまで「中立なキャスター」を演じ切らねばならない。
「ま、誠に申し訳ありませんが、議論は尽きませんが、お時間が来てしまいました……! この問題については、日本の未来を左右する重大な試金石として、引き続き番組でも注視してまいりたいと思います。先生方、本日はありがとうございました!」
玲がカメラに向かって深く頭を下げる。
「……それでは、次はお天気です!」
プツン、と。
画面が強制的に切り替わった。
そこに映し出されたのは、何事もなかったかのようにパステルカラーのスーツを着た気象予報士と、日本列島をすっぽりと覆う「清潔な冬の気圧配置」の図だった。
「明日は全国的に晴れ間が広がり、過ごしやすい一日になるでしょう——」
耳障りの良いBGMに乗せて、朗らかな声が響く。
争いも、泥の臭いも、底辺の飢えも存在しない、完璧にコントロールされた『ガラス越しのユートピア』への帰還である。
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「はい、カット! OKです、お疲れ様でした!」
フロアディレクターの声が響き、スタジオを照らしていた強烈なLED照明が一段階落とされた。
先ほどまで激しく怒号を飛ばし合っていた三人の論客は、放送終了の合図とともに不機嫌そうに立ち上がり、互いに目を合わせることもなくそそくさと荷物をまとめ始めた。
「……全く。テレビ局も視聴率のためとはいえ、あんな過激派の学者を呼ぶとは見識を疑うよ」
白河教授が吐き捨てるように呟き、足早にスタジオを後にする。郷田もまた、鼻を鳴らして反対側の出口へと消えていった。
玲は、台本を丁寧に揃えながら、一人残ってジャケットを羽織っている黒須の背中を見つめていた。
彼女の頭の中では、先ほどのディベートが熱を帯びてリフレインしている。
(彼らが、国家の庇護がなくても自立して生き延びてみせたという事実……)
玲の故郷のシャッター商店街。補助金頼みで作られ、誰も寄り付かない立派なハコモノ施設。東京の顔色を伺い、「選択と集中」という名の下に切り捨てられていく地方経済。
中央集権的なトップダウンのアプローチが完全に限界を迎えている今、あの海崎市の薄汚れたコモンズが放っている「泥臭い熱量」こそが、衰退する日本経済をボトムアップで蘇らせる、唯一の劇薬(ヒント)になるのではないか。
玲は、キャスター席のピンマイクを取り外すと、足早にアクリル板の向こう側へと歩み寄った。
「黒須先生」
帰り支度を終え、スタジオを出ようとしていた黒須が、怪訝そうに振り返った。
「お疲れ様でした、神崎さん。見事な仕切りでしたよ。……私の暴走のせいで、番組にクレームが入らなければいいですが」
黒須は皮肉っぽく肩をすくめた。
「クレームなら日常茶飯事です。それよりも、先生」
玲は、カメラの前で見せていた「中立的で柔和なキャスター」の仮面を完全に外し、鋭く、そして熱を帯びた本来の瞳で黒須を真っ直ぐに見据えた。
「先ほどの先生の主張……『コンプライアンスで固められた脆弱なシステムへの抗体』という言葉。非常に興味深く拝聴しました」
「おや」黒須は少し驚いたように眉を上げた。「テレビ局のエリート様から、そんな言葉が出るとは思いませんでしたね。あなたも白河先生と同類だと思っていましたが」
「私は、地方の出身です」
玲は、きっぱりと答えた。
「東京の人間が机上の空論で語る『地方創生』や『綺麗な移民政策』の欺瞞には、とうの昔にうんざりしています。都合のいい時だけ地方と外国人を使い潰し、利益は中央(システム)が吸い上げる。そんな脆い上部構造はいずれ崩壊する。……私は、日本経済の屋台骨を本当に支えているのは、先生が仰ったような、名もなき底辺の『泥仕合』の現場なのだと確信しています」
黒須の目に、初めて純粋な好奇心の色が浮かんだ。
「神崎さん。あなたは、自分が何を言っているのか分かっていますか? 私が評価しているのは、法律を犯し、暴力を辞さず、ただ生存の欲望だけで結びついた凶悪なマフィアまがいの共同体ですよ」
「ええ。だからこそ、その『熱』の正体を知りたいんです」
玲は、一歩前に踏み出した。
「綺麗事(ユートピア)では、もうこの国は救えない。私はジャーナリストとして、彼らが作り上げたあの『泥のコモンズ』の実態を、そして彼らを率いているというコンサルタントの男の思考を、徹底的に取材したい。彼らのやり方が、本当にこの死にゆく日本の地方をボトムアップで再生させるモデルになり得るのかどうかを」
スタジオの薄暗い影の中で、玲の瞳はかつてないほどの強い光を放っていた。それは、無菌室の中からついに外の世界の「泥」へと手を伸ばそうとする、強烈な意思の表れだった。
黒須は、しばらく玲の顔を無言で見つめていたが、やがて口元に獰猛な笑みを浮かべた。
「……いいでしょう。ただし、あそこはあなたの想像を絶する『ジャングル』だ。薄っぺらな正義感やモラルを持ち込めば、一瞬で喰い殺されますよ」
「望むところです」
玲は微かに微笑み、二人は静かに視線を交わした。
ガラス越しのユートピアは、今、確実にひび割れようとしている。
冷え切ったシステムに穿たれた海崎市のアウトローたちの「熱」は、ついに東京の無菌室の中枢にまで、その黒い延焼を始めようとしていた。
(本編 完結・続編へ続く)
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