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『異国警固異状なし』 第二部 敵のいない戦争

主な登場人物

少弐景資(しょうに・かげすけ)
蒙古が去った後も九州防衛の現場に残る少弐家の武将。敵のいない海を見張りながら、次の襲来への備えを続ける。

少弐経資(しょうに・つねすけ)
景資の兄。長期化する警固や築地工事を政務として処理する。混乱した現実を、幕府が読める報告書へ変える人物。

少弐資能(しょうに・すけよし)
少弐家の老父。長年の経験から九州と大陸の動きを見る。宋の滅亡が日本にも影響することを静かに見抜いている。

葛木頼成(かつらぎ・よりなり)
幕府の実務官。警固、非御家人の動員、築地工事など次々に増える仕事を、規定と文書で何とか整理し続ける。

城戸新三郎(きど・しんざぶろう)
筑前の在地武士。御家人ではないことを理由に幕府の命令へ疑問を呈するが、異国警固の網は次第に彼にも広がっていく。

潮見弥六(しおみ・やろく)
船と海を知る沿岸武士。幕府が高麗への逆侵攻を考え始めると、船、水主、補給という現実的な問題を突きつける。

綱屋宗吉(つなや・そうきち)
博多の商人。警固兵や築地工事で膨らむ需要を冷静に商売へ変える。「蒙古が来そうで来ない」状態を最も好む男。

慶円(けいえん)
寺社の実務を預かる僧。異国退散を祈る一方、寺領、宿泊、救護にも対応する。宗教と現実の双方を見ている。

杜世忠(と・せいちゅう)
元から日本へ派遣された使節。皇帝の国書を携え服属を求めるが、日本側との外交は思いもよらぬ結末へ向かう。

崔允(チェ・ユン)
高麗軍の軍官。再び進められる日本遠征を見ながら、かつての慎重論を思い出す。元軍側では珍しい冷静な観察者。

ボロク(ボロク)
元軍の敵情分析官。七年前の経験をもとに日本側の変化を研究する。だが相手は以前より組織的で、以前同様に分かりにくい。

陳子明(ちん・しめい)
滅亡した南宋の出身で、元の支配下で船舶や輸送に携わる男。征服された側から、日本遠征を見る視点を担う。



第七章 異国警固番役について



蒙古が去ったあと、博多では警戒が続いた。

敵はいない。

だからといって、帰ってよいとはならなかった。

一度来た者は、もう一度来るかもしれない。

幕府の判断は単純だった。

来るかもしれないので、待つ。

いつまで待つのかは、決まっていなかった。

少弐景資「海上に異状は。」

少弐家書記「ありません。」

少弐景資「対馬からは。」

少弐家書記「ありません。」

少弐景資「壱岐。」

少弐家書記「ありません。」

少弐景資「博多湾。」

少弐家書記「ありません。」

少弐景資「では異状なし。」

少弐家書記「はい。」

翌日も同じ確認が行われた。

異状はなかった。

その翌日もなかった。

異国警固とは、異国が来ていない日に最も多く行う仕事だった。

戦があれば忙しい。

戦がなくても忙しい。

違いは、報告書の最後が毎日同じになることだった。

異状なし。


文永十二年以降、幕府は九州や長門の沿岸警備を恒常的なものにしていった。

異国警固番役である。

番役というからには、番をする。

海を見る。

船を見る。

見慣れない帆がないか見る。

浜を巡る。

夜も警戒する。

何も来なければ、その日の任務は成功だった。

少弐家書記「本日の警固、異状なし。」

少弐景資「よし。」

少弐家書記「昨日も異状なし。」

少弐景資「よし。」

少弐家書記「一昨日も。」

少弐景資「それは聞いた。」

少弐家書記「三日続けて成果がありません。」

少弐景資「成果は出ている。」

少弐家書記「何が。」

少弐景資「蒙古が来ていない。」

警固の成果は、敵が来ない限り証明しにくい。

敵が来れば、警固が必要だったことは証明できる。

ただし、できれば来てほしくない。

制度としては少し評価が難しかった。

武士の側にも事情があった。

戦闘なら、先駆けがある。

討取りがある。

負傷がある。

証人がいる。

番役には、そのすべてがない。

海を一日見ていた。

翌日も見た。

何もなかった。

軍功としては非常に弱かった。


さらに幕府は、動員する相手を広げた。

御家人だけでは足りなかった。

文永の役で分かったことはいくつもある。

蒙古軍は実際に来る。

九州だけの小勢で待つには数が少ない。

沿岸警備は一日で終わらない。

そして、西国には武器を持った者が、御家人以外にも多数いる。

そこで幕府は朝廷の承認を得て、本所領家一円地の住人、つまり非御家人まで異国防禦へ動員する方向へ踏み込んだ。

城戸新三郎のところにも、新しい文書が来た。

城戸は読んだ。

もう一度読んだ。

城戸新三郎「前と違う。」

幕府使者「はい。」

城戸新三郎「これは御家人宛ではない。」

幕府使者「はい。」

城戸新三郎「本所領の住人も出ろと。」

幕府使者「はい。」

城戸新三郎「私は御家人ではない。」

幕府使者「承知しております。」

城戸新三郎「では。」

幕府使者「今回は対象です。」

城戸新三郎は文書を見た。

文書も城戸を見ているようだった。

城戸新三郎「前は対象ではなかった。」

幕府使者「前回、足りませんでしたので。」

城戸新三郎「私が。」

幕府使者「人数が。」

城戸新三郎「なら御家人を増やせばよい。」

幕府使者「御家人にするという意味ですか。」

城戸新三郎「そこまでは言っていない。」

幕府使者「ですので、御家人でないまま来てください。」

城戸は黙った。

幕府は問題を解決していた。

城戸が期待していた方向ではなかった。


この拡張には意味があった。

日本側の防衛力を増やすためである。

同時に、幕府の命令が届く範囲そのものを広げる意味もあった。

異国から国を守る。

そのために、これまで直接の家人ではなかった者へも軍役を命じる。

蒙古は海の向こうにいた。

幕府の権限は、陸の上で少しずつ広がった。

葛木頼成「城戸殿、騎馬十一。」

城戸新三郎「十です。」

葛木頼成「前は十一でした。」

城戸新三郎「一頭が仔を産みました。」

葛木頼成「増えたのでは。」

城戸新三郎「母馬はしばらく出せません。」

葛木頼成「仔は。」

城戸新三郎「戦に出すつもりですか。」

葛木頼成「聞いただけです。」

城戸新三郎「では十です。」

葛木は十と書いた。

馬の数は増えた。

軍馬の数は減った。

制度は対象を広げた。

馬は制度に合わせなかった。

城戸新三郎「番は何日です。」

葛木頼成「交替です。」

城戸新三郎「何日。」

葛木頼成「割当によります。」

城戸新三郎「終われば帰れる。」

葛木頼成「次の番までは。」

城戸新三郎「次があるのですか。」

葛木頼成「番役ですので。」

城戸新三郎は、蒙古より長く付き合う相手が別にできたことを知った。


人を集めれば、人は食う。

馬も食う。

警固が恒常化すると、博多周辺では別の変化が始まった。

米。

麦。

味噌。

塩。

魚。

酒。

草鞋。

薪。

馬草。

宿。

舟。

縄。

矢。

修理。

人間が長期間滞在するために必要なものが、まとめて必要になった。

綱屋宗吉は博多の商人だった。

異国に強い関心があった。

文化的な意味ではなかった。

綱屋宗吉「何人残ります。」

少弐家書記「分からん。」

綱屋宗吉「千人ですか。」

少弐家書記「分からん。」

綱屋宗吉「二千。」

少弐家書記「なぜ増やす。」

綱屋宗吉「仕入れがありますので。」

少弐家書記「軍勢の数は商人へ教えるものではない。」

綱屋宗吉「では、米を何俵仕入れればよいです。」

少弐家書記「それも分からん。」

綱屋宗吉「兵は何日います。」

少弐家書記「蒙古次第だ。」

綱屋宗吉「蒙古はいつ来ます。」

少弐家書記「知るか。」

宗吉は困った。

軍事機密より、需要予測の方が難しかった。

翌日、米を多めに仕入れた。

外れた。

兵が増えた。

さらに仕入れた。

今度は雨で道が悪くなった。

値が上がった。

宗吉は儲けた。

蒙古は何もしていなかった。


宿も足りなくなった。

すべての武士が旅籠へ泊まるわけではない。

寺社。

民家。

知人宅。

仮小屋。

様々な場所が使われた。

慶円の寺にも、武士が来た。

慶円「何人です。」

幕府使者「二十ほど。」

慶円「ほど。」

幕府使者「二十二かもしれません。」

慶円「寝る場所は二十人分です。」

幕府使者「詰めれば。」

慶円「仏もおります。」

幕府使者「仏は寝ません。」

慶円「場所は取ります。」

結局、二十二人が泊まった。

仏は移動しなかった。

人間の方が詰めた。

翌朝、慶円は帳面を出した。

幕府使者「何です。」

慶円「米、薪、灯明油、寝具の損耗です。」

幕府使者「軍役への協力では。」

慶円「協力しています。」

幕府使者「では無償で。」

慶円「祈祷も無償にしますか。」

幕府使者「それは別でしょう。」

慶円「こちらも別です。」

寺社には寺社の理屈があった。

幕府が異国防禦のために権限を広げても、既存の権利関係が消えるわけではない。

蒙古との戦争は、国内の古い制度の上へ新しい仕事を載せた。

下の制度はそのままだった。


警固する武士たちは、次第に日常を作り始めた。

朝、海を見る。

昼も見る。

夕方も見る。

夜は火を警戒する。

船が見えれば確認する。

漁船だった。

別の船が見える。

商船だった。

さらに見える。

地元の舟だった。

伊予勢兵士「蒙古船です!」

少弐家書記「どこだ!」

伊予勢兵士「沖!」

見張りが集まった。

しばらく見た。

博多漁師「うちのです。」

伊予勢兵士「蒙古船に似ている。」

博多漁師「どこが。」

伊予勢兵士「船です。」

博多漁師「全部そうでしょう。」

最初のうちは、船が見えるたび騒ぎになった。

そのうち、帆の形を見るようになった。

船体を見る。

進む方向を見る。

漁師へ聞く。

漁師の意見が重くなった。

少弐景資「沖の船は。」

少弐家書記「漁船です。」

少弐景資「確認したか。」

少弐家書記「漁師三人が。」

少弐景資「ならよい。」

武士より漁師の方が、海の船には詳しかった。

軍事組織は、必要な知識があれば民間人も使った。

元軍側が後にこれを組織的な沿岸監視網と判断しても、不思議ではない。

日本側は、近所の漁師へ聞いていただけだった。


異国警固番役が続くと、武士の意識も変わった。

最初は、蒙古が来るまで待つ仕事だった。

やがて、蒙古が来ないことを確認する仕事になった。

さらに、番役そのものが予定に入るようになった。

田植え。

収穫。

年貢。

祭礼。

婚礼。

異国警固。

城戸新三郎「来月は困る。」

葛木頼成「なぜです。」

城戸新三郎「刈入れです。」

葛木頼成「蒙古へ伝えますか。」

城戸新三郎「伝わるなら頼みたい。」

葛木頼成「番を替えられる者は。」

城戸新三郎「弟を出します。」

葛木頼成「騎馬は。」

城戸新三郎「十。」

葛木頼成「前も十でした。」

城戸新三郎「同じ馬です。」

葛木頼成「母馬は。」

城戸新三郎「戻しました。」

葛木頼成「仔は。」

城戸新三郎「まだ小さい。」

葛木頼成は、仔馬について聞くのをやめた。

この頃になると、城戸も番役そのものにはあまり文句を言わなくなっていた。

幕府に従うことへ納得したわけではない。

蒙古が一度本当に来たからである。

城戸の土地は博多から遠くない。

前なら、

蒙古が博多へ来れば博多の者が戦う、

と言えた。

一度上陸した敵が、そこから先へ来ない保証はなかった。

城戸新三郎「うちの方へ来る可能性はありますな。」

葛木頼成「最初から申しております。」

城戸新三郎「前は来ていませんでした。」

葛木頼成「今も来ていません。」

城戸新三郎「一度来たでしょう。」

葛木頼成「はい。」

城戸新三郎「それが違う。」

幕府の理屈が城戸を説得したのではない。

蒙古が説得した。

本人たちは不在だった。


鎌倉では、次の襲来に備えるための命令が続いた。

西国では警固が続いた。

寺社では祈祷が続いた。

博多では人が増えた。

商人は仕入れを増やした。

宿は狭くなった。

馬草の値も上がった。

綱屋宗吉は、店先で帳面を見ていた。

綱屋宗吉「蒙古は来ていないな。」

店の手代「来ておりません。」

綱屋宗吉「兵は。」

店の手代「まだおります。」

綱屋宗吉「米は。」

店の手代「売れています。」

綱屋宗吉「酒は。」

店の手代「昨日より。」

綱屋宗吉「よし。」

手代は少し考えた。

店の手代「蒙古が来た方が、もっと売れますか。」

宗吉は顔を上げた。

綱屋宗吉「来たら駄目だ。」

店の手代「なぜです。」

綱屋宗吉「戦になる。」

店の手代「今も戦の準備では。」

綱屋宗吉「準備だからよい。」

宗吉は帳面を閉じた。

綱屋宗吉「一番よいのは、蒙古が来ると言われ続けて、来ないことだ。」

経済上は、かなり正しかった。

軍事上も、その方がよかった。

幕府も武士も寺社も商人も、珍しく同じ結論に達していた。

蒙古には、まだ確認していなかった。

その日の警固記録には、短く記された。

異国警固、異状なし。

異状がなかったため、翌日も警固することになった。


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第八章 元使杜世忠について



建治元年四月、長門国室津へ外国船が入った。

蒙古の船だった。

今度も兵船ではなかった。

使節だった。

前年、日本へ兵を送り込んだ国が、その翌年には使者を送ってきた。

外交として不自然ではない。

戦争をした相手とも、話はする。

むしろ戦争をしたからこそ、話す必要が生じることもある。

正使は杜世忠。

大元の礼部侍郎だった。

三十四歳。

副使の何文著らを伴っている。

持参した文書の趣旨は、以前より単純だった。

日本は大元へ服属すべきである。

前年に一度戦ったことで、双方の立場が分かりやすくなった。

友好という言葉を長く説明する必要が減った。

杜世忠「日本国王へ書状を渡したい。」

長門役人「大宰府へお回りください。」

杜世忠「国王は大宰府にいるのか。」

長門役人「いません。」

杜世忠「では、どこに。」

長門役人「それを説明すると長くなります。」

杜世忠は黙った。

日本側には経験があった。

この質問は、長くなる。


使節一行は拘束され、大宰府へ送られた。

前年までなら、外国使節をどう扱うかという問題だった。

今は違う。

一年前、その外国は実際に兵を送っている。

文永の戦場を経験した者にとって、「蒙古使」は単なる外交上の客ではなかった。

少弐景資の前へ、報告が届いた。

少弐家書記「元使です。」

少弐景資「何人。」

少弐家書記「五名。」

少弐景資「兵は。」

少弐家書記「おりません。」

少弐景資「船は。」

少弐家書記「使節船です。」

少弐景資「武器は。」

少弐家書記「通常の携行品程度。」

少弐景資「では使者だな。」

少弐家書記「はい。」

少弐景資「何をしに来た。」

少弐家書記「服属せよ、と。」

少弐景資「やはり敵だな。」

分類は難しかった。

使者は兵士ではない。

ただし、持ってきた内容は敵国の要求である。

殺しに来たわけではない。

従えと言いに来た。

武器を持っていないから安全なのか。

軍を伴っていないから外交なのか。

前年までは、その境界を文章で考えることができた。

今年は、博多の焼け跡が残っていた。


杜世忠は、自分の役目を理解していた。

書状を渡す。

相手の返答を受ける。

本国へ持ち帰る。

成功すれば、日本が服属する。

拒否されれば、拒否されたことを報告する。

外交使節の仕事として、筋は通っている。

問題は、日本側が返答を渡す相手として杜世忠を扱うかどうかだった。

大宰府役人「国書は預かります。」

杜世忠「返答は。」

大宰府役人「鎌倉の判断になります。」

杜世忠「鎌倉に日本国王がいるのか。」

大宰府役人「いません。」

杜世忠「では、なぜ鎌倉が判断する。」

大宰府役人「軍事と武家政務を扱います。」

杜世忠「国王は。」

大宰府役人「京都です。」

杜世忠「返答を決めるのは。」

大宰府役人「鎌倉です。」

杜世忠「京都ではない。」

大宰府役人「朝廷の判断も関わります。」

杜世忠「では京都だ。」

大宰府役人「ですが鎌倉へ送ります。」

杜世忠はしばらく相手を見た。

大宰府役人も見返した。

杜世忠「日本語では、これは普通なのか。」

高麗通事「私に聞かないでください。」

通訳の役目は、言葉を訳すことだった。

制度まで訳す契約にはなっていなかった。


鎌倉では、杜世忠らをどう扱うかが問題になった。

使節を追い返す。

書状だけ受け取る。

返書を持たせて帰す。

拘留する。

選択肢はいくつもある。

そのうち一つには、前年までなかった事情が加わっていた。

また攻めてくるかもしれない。

幕府奉行人「使者を帰せば、我が国の様子も持ち帰る。」

葛木頼成「見たものは報告するでしょう。」

幕府奉行人「兵の配置も。」

葛木頼成「見ていれば。」

幕府奉行人「道も。」

葛木頼成「通っていますので。」

幕府奉行人「港も。」

葛木頼成「そこから来ました。」

幕府奉行人「つまり偵察にもなる。」

葛木頼成「使者であれば、普通に周囲を見るとは思います。」

幕府奉行人「それが困る。」

葛木頼成「目を閉じてもらいますか。」

幕府奉行人「そういう話ではない。」

外国使節が入国すれば、外国使節は国内を見る。

これは避けにくい。

見たことを本国へ報告すれば、情報になる。

情報を集める者をすべて間者と呼ぶなら、外交使節のかなりの割合が間者になる。

だからといって、安全とも限らなかった。

前年、本当に戦争があった。

幕府が慎重になる理由は十分にあった。

慎重になった結果、選択肢は狭くなった。


杜世忠らは鎌倉へ送られた。

長門から大宰府。

大宰府から鎌倉。

日本国王へ渡すために来た使者は、日本国王のいる京都へは行かなかった。

杜世忠「京都へは行かないのか。」

護送役「鎌倉へ向かいます。」

杜世忠「国王は京都だと聞いた。」

護送役「そうです。」

杜世忠「鎌倉には。」

護送役「執権がおります。」

杜世忠「執権は国王か。」

護送役「違います。」

杜世忠「では将軍か。」

護送役「将軍もおります。」

杜世忠「その者が国王か。」

護送役「違います。」

杜世忠「では私は誰に会いに行く。」

護送役「鎌倉へ行きます。」

答えにはなっていなかった。

道は合っていた。

一行は東へ進んだ。

各地を通る。

宿を使う。

役人が警護する。

見物人が集まる場所もあった。

前年に戦った国から来た使者である。

珍しくないはずがなかった。

杜世忠は、その間も使節だった。

捕虜ではない。

自由でもない。

客でもない。

敵兵でもない。

日本側は、この状態に適切な名前を用意していなかった。

名前がなくても、護送はできた。


鎌倉での評議は続いた。

北条時宗は、前年の襲来を偶発的な出来事とは考えていなかった。

元が再び来る可能性を前提に、西国の警固はすでに強化されている。

そこへ服属を求める使節が来た。

返事をすれば、交渉になる。

返事をしなければ、これまでと同じである。

使者を帰せば、元は日本側の拒絶を確認する。

帰さなければ、確認できない。

どちらを選んでも、元が再征を断念する保証はなかった。

葛木頼成「拒絶の返書を持たせる方法もあります。」

幕府奉行人「その必要はないとの判断だ。」

葛木頼成「では帰すだけ。」

幕府奉行人「それもない。」

葛木は少し黙った。

葛木頼成「拘留を続ける。」

幕府奉行人「それもない。」

選択肢が一つずつ消えていた。

葛木頼成「では。」

幕府奉行人「処刑する。」

葛木は返事をしなかった。

これまで文書の扱いで何度も議論してきた。

返すか。

返さないか。

誰の名で返すか。

どの形式で返すか。

今回は、文書ではなく、それを持ってきた人間の処置が決められた。


建治元年九月七日。

杜世忠ら使節一行は、鎌倉の龍ノ口で処刑された。

幕府がこの判断に至った理由を、一つだけに決めることは難しい。

前年の軍事侵攻。

再度の服属要求。

再襲への警戒。

使節が持ち帰る情報への懸念。

元との外交関係をどのように位置づけるか。

複数の事情が重なっていたと考える方が自然だった。

少なくとも、日本側が元の要求を受け入れる意思を持っていなかったことだけは明確だった。

杜世忠自身が戦場で日本人を殺したわけではない。

この使節団も軍隊ではなかった。

彼らの仕事は、大元の意思を伝えることだった。

その仕事を遂行した結果、彼らは殺された。

処刑の直前まで、杜世忠が何を考えていたかは分からない。

『鎌倉年代記裏書』には、家を出る時に妻子から寒衣を渡されたことを詠んだ杜世忠の詩が伝わる。

日本側には元使だった。

大元では礼部侍郎だった。

家には帰国を待つ者がいる、三十四歳の男でもあった。

英雄的な最期を付け加えなくても、事実は重い。

使節が死んだ。

幕府側にも勝利感があったわけではない。

一つの外交問題を処理しただけである。

処理という言葉は便利だった。

人が死んだことまで、二文字にできた。


問題は、そのあとだった。

外交使節には、本国へ戻る仕事がある。

書状を渡した。

日本側の態度を見た。

返答を受けたなら持ち帰る。

返答がなければ、なかったことを報告する。

しかし杜世忠は帰らなかった。

何文著も帰らなかった。

一行の主要な者は帰らなかった。

元側から見れば、また日本から返答が届かない。

今度は使者まで戻らない。

元側官人「日本からの返書は。」

元側官人補佐「ありません。」

元側官人「杜世忠は。」

元側官人補佐「戻っておりません。」

元側官人「いつ着いた。」

元側官人補佐「春には。」

元側官人「今は。」

元側官人補佐「秋です。」

元側官人「半年近い。」

元側官人補佐「はい。」

元側官人「交渉が続いているのか。」

元側官人補佐「分かりません。」

元側官人「拘留されたか。」

元側官人補佐「分かりません。」

元側官人「死んだか。」

元側官人補佐「分かりません。」

元側官人「何が分かる。」

元側官人補佐「戻っていないことです。」

日本側では処分が終わっていた。

元側では、まだ結果が分からなかった。

外交上の決定は、相手へ伝わって初めて外交上の情報になる。

日本側は、最も強い拒絶の一つを選んだ。

その拒絶を説明する者も同時にいなくなった。


西国では異国警固が続いていた。

杜世忠らの処刑によって、警備を緩める理由はなかった。

むしろ逆だった。

元から見れば、使者を送った。

戻らない。

日本から見れば、元が服属を要求した。

使者を斬った。

次に何が起きるかは、かなり想像しやすい。

少弐景資「警固を強めろ。」

少弐家書記「元使を斬ったからですか。」

少弐景資「それもある。」

少弐家書記「斬らなければ。」

少弐景資「それでも強める。」

少弐家書記「では結果は同じですか。」

少弐景資「元は一度来た。」

少弐家書記「はい。」

少弐景資「理由はそれで足りる。」

少弐家書記は記した。

異国警固、継続。

文書は短かった。

そのために海を見る者は減らなかった。

城戸新三郎の番も来た。

伊予勢も残った。

博多の商人は米を仕入れた。

寺社では祈祷が行われた。

元使を処刑したことで、国内の仕事は一つも減らなかった。

外交問題を一つ処理すると、警備上の問題が増えた。


綱屋宗吉は、元使が斬られたと聞いた。

詳しい事情は知らなかった。

商人に幕府の評議内容は届かない。

ただし、次の戦が近づいたかもしれないことは分かった。

綱屋宗吉「米を増やせ。」

店の手代「蒙古が来ますか。」

綱屋宗吉「分からん。」

店の手代「では、なぜ。」

綱屋宗吉「使者を斬った。」

店の手代「来るでしょうか。」

綱屋宗吉「来るかもしれん。」

店の手代「来なければ。」

綱屋宗吉「兵は残る。」

店の手代「では売れます。」

綱屋宗吉「そういうことだ。」

手代は納得した。

店の手代「使者が来るのも蒙古景気ですか。」

綱屋宗吉「その言い方はやめろ。」

宗吉には、まだ一線があった。

一方、慶円の寺では異国降伏の祈りが続いていた。

慶円「元使が斬られたそうです。」

寺僧「では、祈祷は。」

慶円「続ける。」

寺僧「交渉は終わったのでは。」

慶円「だから続ける。」

寺僧は理解した。

戦が始まりそうなら祈る。

戦が終わっても再襲が怖ければ祈る。

使者が来ても祈る。

使者を斬っても祈る。

祈祷には、外交状況による休業日がなかった。

十一

杜世忠の使命は失敗した。

日本は服属しなかった。

返書も持ち帰れなかった。

本人も帰れなかった。

しかし、元の対日外交そのものが終わったわけではない。

元側が杜世忠らの死をいつ、どの経路で確実に把握したかには注意が必要だった。

使者が戻らないだけなら、拘留されている可能性もある。

事故の可能性もある。

交渉が長引いている可能性もある。

そして大元には、日本以外にも大きな戦争があった。

南宋である。

日本側が海の向こうだけを見ている間にも、大陸の戦況は動いていた。

日本は元の世界の中心ではなかった。

元は日本の世界のかなり大きな部分になり始めていた。

この非対称は、しばらく続く。

外交使節の役目は、自国の意思を相手国へ伝え、その返答を本国へ持ち帰ることである。

日本側が服属を拒絶するなら、その旨を書いて杜世忠へ持たせる方法もあった。

幕府は別の方法を採用した。

杜世忠らを斬った。

このため、杜世忠は日本側の返答を本国へ伝えることができなかった。

日本側の意思は、これ以上なく強かった。

伝達方法だけが外交向きではなかった。


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第九章 異国征伐について



建治元年十二月、鎌倉から新しい命令が出た。

蒙古の再襲に備える。

ここまでは、すでに行っている。

異国警固番役。

沿岸の監視。

兵の動員。

船の確認。

武具の整備。

これらを続ける。

さらに一つ加わった。

こちらから高麗へ攻める。

少弐景資は文書を読んだ。

もう一度読んだ。

少弐景資「高麗へ。」

少弐家書記「はい。」

少弐景資「こちらから。」

少弐家書記「はい。」

少弐景資「蒙古が来る前に。」

少弐家書記「そのようです。」

少弐景資「船で。」

少弐家書記「海がありますので。」

景資は黙った。

文書に間違いはなかった。

幕府は、本気で検討していた。

前年、日本へ海を渡って来た敵に対し、今度は日本側が海を渡る。

理屈としては分かりやすい。

実行するには、少し準備が必要だった。

少し、という言葉の範囲については、まだ誰も確認していなかった。


幕府は、参加可能な兵員、武具、船舶、水主などを報告するよう命じた。

戦をするには人が要る。

海を渡るなら船も要る。

船を動かすなら水主が要る。

馬を連れていくなら、その馬を船へ載せる必要もある。

葛木頼成は、新しい帳面を作った。

項目は多かった。

兵員。

騎馬。

弓。

矢。

甲冑。

兵糧。

船。

水主。

予備の櫂。

縄。

帆。

修理用材。

葛木頼成「増えましたね。」

少弐家書記「海を渡りますので。」

葛木頼成「前は、敵がこちらへ来るのを待つだけでした。」

少弐家書記「はい。」

葛木頼成「待つ方が簡単ですね。」

少弐家書記「待つだけなら。」

葛木頼成「なぜ今まで気づかなかったのでしょう。」

少弐家書記「敵が来たからでは。」

防衛戦は受け身である。

敵が来る場所を予想し、そこで待つ。

遠征は違った。

自分たちが動く。

そのため、これまで敵側だけが負担していた問題を、日本側も一つずつ引き受けることになった。

最初に現れたのは、船だった。


潮見弥六のところへも、船の調査が来た。

少弐家書記「船を何艘出せますか。」

潮見弥六「何に。」

少弐家書記「高麗征伐です。」

潮見弥六「高麗へ。」

少弐家書記「はい。」

潮見弥六「海を渡る。」

少弐家書記「はい。」

潮見弥六「この船で。」

少弐家書記「そうです。」

潮見弥六は浜を見た。

漁船が並んでいた。

文永の役では、人を運んだ。

弓も楯も載せた。

沿岸を動くには十分使えた。

高麗まで行く話になると、意味が変わる。

潮見弥六「三艘あります。」

少弐家書記「三艘。」

潮見弥六「一艘は漏ります。」

少弐家書記「では二艘。」

潮見弥六「もう一艘は沖へ出ると舵が重い。」

少弐家書記「では一艘。」

潮見弥六「最後の一艘は漁に使います。」

少弐家書記「では零艘では。」

潮見弥六「船は三艘あります。」

少弐家書記「出せる船を聞いております。」

潮見弥六「だから三艘あります。」

少弐家書記は筆を置いた。

このやり取りには覚えがあった。

船が存在することと、軍用に供出できることは同じではない。

船が軍用に使えることと、高麗まで行けることも同じではない。

さらに、行けることと帰って来られることも同じではなかった。


船だけでは動かない。

水主が必要だった。

水主は海を知っている。

潮を読む。

風を見る。

帆を扱う。

櫂を使う。

浅瀬を避ける。

夜でも方角を失わない。

武士が太刀を持って船へ乗れば、その瞬間から船が動くわけではない。

博多漁師「高麗までですか。」

葛木頼成「行けますか。」

博多漁師「行ったことはありません。」

葛木頼成「海はつながっています。」

博多漁師「そうでしょうな。」

葛木頼成「では。」

博多漁師「道もつながっていますが、鎌倉まで歩いたことはありません。」

葛木頼成「船の場合は違うのでは。」

博多漁師「もっと違います。」

葛木は納得した。

海には道標がない。

元や高麗の船が日本まで来たからといって、日本の漁師が高麗まで行けることにはならない。

それでも、海を渡れる者は必要だった。

綱屋宗吉は商人仲間へ聞いた。

綱屋宗吉「高麗へ行ったことのある水主は。」

博多商人「いる。」

綱屋宗吉「何人。」

博多商人「軍に教えるのか。」

綱屋宗吉「聞かれた。」

博多商人「教えると船まで取られるぞ。」

綱屋宗吉「そうだな。」

二人は黙った。

情報提供には協力したい。

財産供出には慎重になりたい。

商人として矛盾はなかった。


さらに馬があった。

日本側の武士にとって、馬は重要だった。

高麗へ攻めるなら、騎馬武者も送りたい。

すると、馬も海を渡る必要がある。

文永の戦場では、元軍の馬が船から降りてきた。

今度は日本側が同じことをする。

少弐景資「馬を船へ載せたことは。」

潮見弥六「あります。」

少弐景資「何頭。」

潮見弥六「一頭。」

少弐景資「どうだった。」

潮見弥六「嫌がりました。」

少弐景資「二頭なら。」

潮見弥六「もっと嫌がるでしょう。」

少弐景資「人の話ではなく馬の話だ。」

潮見弥六「馬の話です。」

景資は少し考えた。

高麗へ渡るためには、騎馬武者を一度、徒歩の人間にする必要がある。

馬も一度、軍馬ではなく船荷になる。

元軍が前年すでにやったことだった。

敵ができたから、こちらにもできる。

その理屈は成立しなかった。

敵は、海を越える軍事行動のために大規模な造船と輸送を準備していた。

日本側は、今から数えるところだった。


武士たちの反応は分かれた。

海辺の武士には、積極的な者がいた。

敵地へ行く。

敵の船を奪う。

物資を得る。

場合によっては土地も得る。

防衛戦より、遠征の方が分かりやすい利益がある。

潮見弥六「行くなら早い方がよい。」

少弐景資「さっき船を出さないと言っただろう。」

潮見弥六「軍が船を用意するなら行きます。」

少弐景資「自分の船は。」

潮見弥六「帰りにも使いますので。」

少弐景資「軍の船も帰りに使う。」

潮見弥六「なら、それでよいでしょう。」

船を出したくないのではない。

自分の船を失いたくないだけだった。

内陸の武士には別の反応があった。

筑前武士「高麗へ馬を連れていくのですか。」

少弐家書記「その予定です。」

筑前武士「船で。」

少弐家書記「はい。」

筑前武士「馬を。」

少弐家書記「はい。」

筑前武士「誰が載せるのです。」

少弐家書記「あなた方で。」

筑前武士「私は馬には乗れます。」

少弐家書記「でしょうね。」

筑前武士「船へ載せたことはありません。」

少弐家書記「皆そうだと思います。」

筑前武士「皆。」

少弐家書記「はい。」

筑前武士は少し安心した。

全員が未経験なら、自分だけの問題ではない。

軍事上は何も改善していなかった。


城戸新三郎にも、異国征伐への参加可能人数を報告するよう話が来た。

城戸新三郎「これは御家人宛ですか。」

葛木頼成「広く調べています。」

城戸新三郎「私は御家人ではありません。」

葛木頼成「その話はもう終わりました。」

城戸新三郎「警固では終わりました。」

葛木頼成「今回は征伐です。」

城戸新三郎「なら始めからです。」

葛木は文書を見た。

城戸も見た。

城戸新三郎「蒙古がこちらへ来るなら戦います。」

葛木頼成「聞きました。」

城戸新三郎「高麗へ行くのは。」

葛木頼成「どうです。」

城戸新三郎「私の土地から遠くなっています。」

葛木頼成「敵を遠くで止めるためです。」

城戸新三郎「高麗を取れば、そこは私の土地になりますか。」

葛木頼成「私に聞かないでください。」

城戸新三郎「では行く理由がありません。」

葛木頼成「国難です。」

城戸新三郎「国難が海の向こうへ移動しましたな。」

城戸の理屈は、防衛戦では崩れ始めていた。

遠征になると、再び強くなった。

自分の土地を守るために戦う。

それは分かる。

自分の土地を守るため、海を渡って他人の土地へ行く。

途中から説明が必要だった。


幕府は、異国征伐の準備を進めようとした。

兵数を調べる。

船を調べる。

水主を調べる。

武具を調べる。

実際に調べると、数字は少しずつ減った。

船はある。

軍用に出せる船は減る。

軍用に出せる。

外洋へ出られる船はさらに減る。

外洋へ出られる。

兵と馬を載せられる船はまた減る。

兵と馬を載せられる。

高麗まで行って帰れると持ち主が認める船は、かなり減る。

葛木頼成「最初より減っています。」

少弐家書記「調べたからです。」

葛木頼成「調査は数字を増やすものではないのですか。」

少弐家書記「現実に近づけるものです。」

葛木頼成「現実は少ない。」

少弐家書記「今回は。」

正確な調査には、計画を弱く見せる作用があった。

しかし調べずに出れば、海上で現実を知ることになる。

その方が困る。

異国征伐は、準備すればするほど難しさが分かった。


慶円の寺にも、征伐祈祷について問い合わせが来た。

幕府使者「異国征伐の祈祷を。」

慶円「異国降伏ではなく。」

幕府使者「今回は征伐です。」

慶円「こちらから行く。」

幕府使者「はい。」

慶円「祈る方向は変わりますか。」

幕府使者「何が。」

慶円「敵が海の向こうですので。」

幕府使者「祈祷に方向がありますか。」

慶円「ありません。」

幕府使者「では同じで。」

慶円「名目は。」

幕府使者「異国征伐。」

慶円「料は。」

幕府使者「同じで。」

慶円「そこは変わらないのですね。」

祈祷については、準備が整った。

船より早かった。

綱屋宗吉のところでも、話は進んだ。

綱屋宗吉「遠征なら、干飯が売れる。」

店の手代「縄も。」

綱屋宗吉「酒は。」

店の手代「船で飲みますか。」

綱屋宗吉「飲む者は飲む。」

店の手代「馬の餌も。」

綱屋宗吉「売れる。」

店の手代「本当に行きますか。」

綱屋宗吉「分からん。」

店の手代「では仕入れは。」

綱屋宗吉「少しだけ増やせ。」

宗吉は、蒙古景気から一つ学んでいた。

軍事計画は、実施される前から需要を生む。

実施されなくても、仕入れだけは残る。


異国征伐は、結局実行されなかった。

理由を一つだけにする必要はない。

船。

水主。

兵糧。

馬。

費用。

国内の防衛。

再襲への警戒。

遠征軍を海の向こうへ送り出すことは、博多で敵を待つよりはるかに複雑だった。

そして幕府には、国内でまだやることがあった。

翌年には、博多湾沿岸で大規模な防御施設の築造が始まる。

人も石も必要になる。

高麗へ送るはずだった労力には、別の使い道ができた。

少弐景資「征伐の話は。」

少弐家書記「進んでおりません。」

少弐景資「中止か。」

少弐家書記「中止との文書はまだ。」

少弐景資「では。」

少弐家書記「進んでいない、という状態です。」

少弐景資「一番困る状態だな。」

少弐家書記「船の調査は続けますか。」

少弐景資「続けろ。」

少弐家書記「水主は。」

少弐景資「続けろ。」

少弐家書記「兵員は。」

少弐景資「それもだ。」

実施しない計画でも、調査した情報は残る。

どこに船があるか。

誰が海を知っているか。

何人動かせるか。

何が足りないか。

異国征伐は実現しなかった。

そのため、日本軍は高麗へ渡らなかった。

ただし、渡ろうとして調べた結果、日本側は自分たちが海を渡る軍隊ではないことをかなり詳しく知った。

蒙古軍は海を渡って来た。

幕府も海を渡ろうとした。

計画は立った。

兵も調べた。

船も調べた。

水主も調べた。

馬も数えた。

そして、調べれば調べるほど、博多で待った方がよいことが分かった。


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第十章 石築地役について



建治二年、幕府は博多湾沿岸に石築地を築くよう命じた。

石の壁である。

西は今津。

東は香椎。

海岸沿い、およそ二十キロ。

前年まで、日本側の防衛は人を置くことが中心だった。

武士を集める。

番をさせる。

船を見張る。

蒙古が来れば戦う。

今度は、その前に壁を置く。

人間より命令を聞くものが必要になった。

石だった。

少弐景資「海岸に石築地を築く。」

少弐家書記「どの程度。」

少弐景資「敵を防げる程度だ。」

少弐家書記「高さは。」

少弐景資「高く。」

少弐家書記「幅は。」

少弐景資「厚く。」

少弐家書記「長さは。」

少弐景資「海岸一帯。」

少弐家書記「仕様は。」

少弐景資「石築地だ。」

少弐家書記は筆を止めた。

命令として意味は分かる。

工事としては、まだ少し足りなかった。

幕府は九州各国の御家人へ、所領に応じて築造区間を割り当てた。

中央から見れば、一つの防塁だった。

現場から見れば、自分たちの担当区間だった。


今津の海岸では、石を積み始めた。

砂丘の上に石を運ぶ。

大きな石。

小さな石。

隙間へ入れる石。

近くで採れるものを使う。

遠くから運ぶより早い。

伊予勢兵士「この石でよいですか。」

築造奉行「大きすぎる。」

伊予勢兵士「大きい方が丈夫では。」

築造奉行「運べない。」

伊予勢兵士「運んできました。」

築造奉行「六人で。」

伊予勢兵士「はい。」

築造奉行「その六人で、あと何個運ぶ。」

伊予勢兵士は海岸を見た。

先は長かった。

伊予勢兵士「小さい石にします。」

工事は合理性を教えた。

敵を倒す時には、大きな武器が頼もしく見える。

壁を二十キロ築く時には、持てる石の方が役に立つ。

人夫が石を運んだ。

武士も運んだ。

馬も使った。

城戸新三郎は荷駄馬を連れて来た。

葛木頼成「軍馬十。」

城戸新三郎「荷駄馬です。」

葛木頼成「今日は乗らないのですか。」

城戸新三郎「石を運びます。」

葛木頼成「では荷駄馬。」

城戸新三郎「そうです。」

葛木頼成「前は軍馬でした。」

城戸新三郎「今日は壁を作っています。」

馬の用途は、敵より工事によって決まった。


石築地は、一枚の長い壁として一斉に作られたわけではない。

担当する国が違う。

担当する武士も違う。

近くで採れる石も違う。

砂の状態も違う。

工事経験も違う。

したがって、完成したものにも違いが出た。

築造奉行「隣と積み方が違う。」

肥後勢武士「国が違います。」

築造奉行「壁は同じだ。」

肥後勢武士「石が違います。」

築造奉行「高さも違う。」

肥後勢武士「地面が違います。」

築造奉行「幅も違う。」

肥後勢武士「丈夫です。」

築造奉行「規格を合わせろ。」

肥後勢武士「規格はどこに。」

築造奉行は文書を見た。

石築地を築け、とある。

高さ何尺。

幅何尺。

石材は何。

積み方は何。

そこまで細かくは書いていなかった。

築造奉行「壁にはなっているな。」

肥後勢武士「なっております。」

築造奉行「……そうだな。」

中央の命令は統一されていた。

現場の完成品は統一されなかった。

それでも、全部壁だった。

葛木頼成「せめて高さと幅は合わせたい。」

潮見弥六「蒙古は仕様書を見るのか。」

葛木頼成「見ません。」

潮見弥六「なら越えにくければよい。」

葛木頼成「記録する側は見ます。」

潮見弥六「蒙古より先に。」

葛木頼成「工事ですので。」

防塁は敵を止めるために作られた。

仕様は味方同士で確認するために必要だった。


石を積めば、石が減る。

近くに石がなければ、別の場所から持ってくる。

別の場所には、持ち主がいることがある。

山。

浜。

寺社領。

荘園。

村の共有地。

石は土地の一部だった。

持ち運べる土地でもあった。

筑前百姓「その石は、こちらの山のです。」

築造人夫「幕府の御用です。」

筑前百姓「山ごと。」

築造人夫「石だけです。」

筑前百姓「どれだけ。」

築造人夫「必要なだけ。」

筑前百姓「それはどれだけ。」

築造人夫「壁ができるまで。」

百姓は海岸を見た。

二十キロあるとは知らなかった。

知っていたら、もっと強く止めた可能性がある。

慶円の寺にも話が来た。

寺僧「裏山の石を持って行っています。」

慶円「誰が。」

寺僧「石築地の人夫です。」

慶円「許可は。」

寺僧「蒙古を防ぐためだと。」

慶円「それは許可ではない。」

慶円は現場へ行った。

慶円「その石は寺領です。」

築造奉行「異国防禦の御用です。」

慶円「寺も異国降伏を祈っております。」

築造奉行「存じています。」

慶円「祈祷料は。」

築造奉行「工事と何の関係が。」

慶円「では石も別です。」

築造奉行は困った。

寺は蒙古を防ぐ側だった。

石築地も蒙古を防ぐ側だった。

同じ側同士で、石の所有権について争った。

蒙古は関係していた。

現場にはいなかった。


工事には人が必要だった。

大量に必要だった。

石を割る。

運ぶ。

積む。

土を固める。

道を作る。

荷車を引く。

縄を結ぶ。

飯を炊く。

工具を直す。

武士だけでは足りない。

人夫が集められた。

職人も必要になった。

綱屋宗吉は、再び帳面を開いた。

綱屋宗吉「何人です。」

築造役人「工事人夫か。」

綱屋宗吉「全部です。」

築造役人「分からん。」

綱屋宗吉「何日。」

築造役人「夏までには。」

綱屋宗吉「米は。」

築造役人「必要だ。」

綱屋宗吉「酒は。」

築造役人「必要ない。」

綱屋宗吉「人夫に聞きますか。」

築造役人「聞くな。」

宗吉は米を仕入れた。

味噌も。

塩も。

草鞋も。

縄も。

工具を直す鍛冶の仕事も増えた。

宿を使う者もいた。

馬草も要った。

前年まで、蒙古が来るかもしれないことで商売が動いた。

今年は、蒙古が来ない間に壁を作ることで、さらに動いた。

綱屋宗吉「蒙古は来ていないな。」

店の手代「来ておりません。」

綱屋宗吉「工事は。」

店の手代「増えています。」

綱屋宗吉「よし。」

店の手代「前にも聞きました。」

綱屋宗吉「何を。」

店の手代「蒙古が来ない方がよい、と。」

綱屋宗吉「今もそうだ。」

店の手代「でも、来ないと壁はいらないのでは。」

綱屋宗吉「来るかもしれないから要る。」

店の手代「来たら。」

綱屋宗吉「困る。」

店の手代は、蒙古景気の仕組みを少し理解した。

需要には、敵の現物を必要としなかった。


工事が進むにつれ、新しい問題が出た。

壁は海側に作る。

敵が海から来るためである。

では、味方はどこを通るのか。

少弐景資は出来上がった区間を見た。

石築地は高かった。

海側から越えるには苦労する。

良い壁だった。

少弐景資「馬はどこを通す。」

築造奉行「門を作ります。」

少弐景資「何か所。」

築造奉行「必要なところに。」

少弐景資「必要なのはどこだ。」

築造奉行「軍勢が通るところです。」

少弐景資「軍勢はどこを通る。」

築造奉行「門のあるところです。」

少弐景資「順番が逆だ。」

築造奉行は地図を出した。

道。

集落。

浜。

舟着き場。

警固所。

それぞれを考えれば、開口部は必要になる。

開けすぎれば壁の意味が減る。

閉じすぎれば味方が困る。

潮見弥六も壁を見た。

潮見弥六「海へ出にくくなりました。」

少弐景資「蒙古を上げないための壁だ。」

潮見弥六「こちらも下りにくい。」

少弐景資「門を使え。」

潮見弥六「船の近くに門がありません。」

少弐景資「船を門の近くへ。」

潮見弥六「潮があります。」

少弐景資「では門を船の近くへ。」

潮見弥六「干潮なら船が遠くなります。」

景資は海を見た。

石は動かない。

海は動く。

固定式の防御施設には、固定されていない相手が多かった。


防塁の上へ武士を立たせてみる。

見晴らしはよい。

海が見える。

弓も射やすい。

敵が上陸するなら、壁越しに迎え撃つことができる。

これは文永の役にはなかった利点だった。

伊予勢兵士「高いですね。」

潮見弥六「壁だからな。」

伊予勢兵士「敵は越えられますか。」

潮見弥六「越えられないように作った。」

伊予勢兵士「では安心です。」

潮見弥六「壁のないところから来るかもしれん。」

伊予勢兵士「二十キロあるのでは。」

潮見弥六「海岸は二十キロより長い。」

兵士は左右を見た。

壁には端がある。

当然だった。

防御施設は、作った場所を強くする。

そのため、敵は作っていない場所を探す。

石築地を築けば、すべて解決するわけではない。

ただし、敵が上陸しやすい場所を減らすことはできる。

軍事上、それで十分意味がある。

城戸新三郎「全部海岸を壁にしないのですか。」

葛木頼成「どこまで。」

城戸新三郎「敵が来るところまで。」

葛木頼成「それが分かれば苦労しません。」

城戸新三郎「では全部。」

葛木頼成「日本中を。」

城戸新三郎「それは無理ですな。」

葛木頼成「今、そこに到達しました。」

工事計画には、終点が必要だった。

海岸にはなかった。


各国の担当区間は、少しずつ形になっていった。

石の種類が変わる。

積み方が変わる。

幅が変わる。

高さも多少違う。

現場ごとの材料と技術で作る以上、完全に同じにはならない。

葛木頼成は各区間の報告を並べた。

葛木頼成「今津、進捗あり。」

少弐家書記「はい。」

葛木頼成「長垂、進捗あり。」

少弐家書記「はい。」

葛木頼成「生の松原。」

少弐家書記「進捗あり。」

葛木頼成「西新、百道。」

少弐家書記「進んでいます。」

葛木頼成「全部、石築地。」

少弐家書記「そうです。」

葛木頼成「構造が違います。」

少弐家書記「土地が違います。」

葛木頼成「材料も。」

少弐家書記「山が違います。」

葛木頼成「担当国も。」

少弐家書記「違います。」

葛木頼成「同じものを作っているのですよね。」

少弐家書記「蒙古を止めるものを作っています。」

葛木は報告書を書いた。

「博多湾沿岸、石築地築造。」

一行だった。

現場では半年近くかかった。

歴史は、大工事を短く書くことができる。

石を運んだ者にはできなかった。


夏になる頃には、長い防塁が海岸線に姿を現していた。

完全に切れ目のない一枚壁ではない。

だが文永の役の時には存在しなかった障害が、博多湾岸に長く連なった。

幕府は、実際に大規模な防衛工事をやった。

命令を出した。

人を集めた。

石を集めた。

担当を割り振った。

完成させた。

西国の武士たちが命令通り動かないことに悩んでいた景資にとって、石築地は少し扱いやすかった。

少弐景資「この区間は、ここにあるな。」

少弐家書記「はい。」

少弐景資「勝手に浜へ移らない。」

少弐家書記「石ですので。」

少弐景資「軍功申請もしない。」

少弐家書記「石ですので。」

少弐景資「隣と揉めない。」

少弐家書記「積み方では揉めています。」

少弐景資「そこまで望んでいない。」

石は人間より命令を聞いた。

石を積む人間は、従来通りだった。


完成した防塁の前で、景資は海を見た。

蒙古は見えなかった。

前年も、その前年も、海を見ていた。

違うのは、海と自分たちの間に石があることだった。

少弐経資「これなら、前のようには上がれまい。」

少弐景資「上がる場所を変えるでしょう。」

少弐経資「なら、その場所へ兵を置く。」

少弐景資「兵は命令を聞きますか。」

少弐経資「壁よりは聞かんだろうな。」

少弐景資「でしょうね。」

少弐経資「だから壁を作った。」

それは冗談ではなかった。

防塁は、日本側の戦い方を変える可能性があった。

すべての武士を一列に並べる必要はない。

すべての馬を同じ間隔にする必要もない。

海岸に障害を置く。

敵が越えようとする場所を限定する。

そこへ各家の小集団を集める。

完全に統制できない軍勢でも、戦場の形そのものを変えれば使いやすくなる。

景資は、まだそこまで言葉にはしていなかった。

ただ、一つは分かった。

人を命令通りに動かせないなら、敵が動ける場所の方を減らせばよい。

石築地は、そのための壁だった。

各区間で高さが違った。

幅も違った。

石材も違った。

積み方も違った。

担当した国も違った。

一つの規格ではなかった。

それでも、西の今津から東の香椎まで、海岸には長い防御線ができた。

統一されていない者たちが、統一されていない方法で、一つの壁を作った。

蒙古はまだ来ていなかった。

今度は、来てもよいようにしていた。


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第十一章 異国警固異状なし



異国警固が長く続くと、人は海を見ることに慣れた。

最初の頃は、沖に帆が見えるだけで騒ぎになった。

蒙古かもしれない。

異国船かもしれない。

敵の斥候かもしれない。

しばらくすると、漁船だった。

その次も漁船だった。

その次は商船だった。

さらに次は、隣村の舟だった。

異国警固は、敵を見つける仕事である。

敵が来ない場合、見つかるのは主に知っている船だった。

少弐家書記「本日、異状なし。」

少弐景資「よし。」

少弐家書記「昨日も。」

少弐景資「よし。」

少弐家書記「一昨日も。」

少弐景資「分かった。」

少弐家書記「三十日続いております。」

少弐景資「よいことだ。」

少弐家書記「仕事をしている実感がありません。」

少弐景資「蒙古が来てから実感しても遅い。」

書記は納得した。

翌日も異状はなかった。


異状がない日が続くと、異状らしいものの価値が上がった。

沖に見慣れない船影があった。

それだけで、人が集まる。

博多漁師甲「蒙古です。」

伊予勢兵士「本当か。」

博多漁師甲「たぶん。」

伊予勢兵士「たぶん。」

博多漁師甲「見慣れない船です。」

伊予勢兵士「どれだ。」

博多漁師甲「あれです。」

伊予勢兵士は見た。

遠い。

小さい。

帆らしきものがある。

伊予勢兵士「蒙古船に見える。」

博多漁師「でしょう。」

別の漁師が来た。

博多漁師乙「違います。」

伊予勢兵士「なぜ。」

博多漁師乙「うちの親類です。」

博多漁師「昨日は見なかった。」

博多漁師乙「昨日帰ってきた。」

蒙古ではなかった。

報告は訂正された。

少弐家書記「異国船の疑いあり。のち地元船と判明。」

少弐景資「異状なしでよい。」

少弐家書記「途中は異状でした。」

少弐景資「最後がなしなら、なしだ。」

行政上、途中経過はかなり整理できた。


そのうち、誰の目撃かで信頼度を測るようになった。

子どもが見た。

低い。

旅人が見た。

少し上がる。

寺僧が見た。

さらに上がる。

漁師が見た。

かなり上がる。

酒を飲んでいない漁師が見た。

警戒する。

この分類は、正式な制度ではなかった。

現場で勝手にできた。

少弐家書記「蒙古船との報告です。」

少弐景資「誰が見た。」

少弐家書記「百姓二人。」

少弐景資「海に詳しいか。」

少弐家書記「一人は川漁を。」

少弐景資「沖は。」

少弐家書記「分かりません。」

少弐景資「ほかには。」

少弐家書記「寺僧一人。」

少弐景資「漁師は。」

少弐家書記「まだ。」

少弐景資「漁師を呼べ。」

少弐家書記「飲んでいる者しかいません。」

少弐景資「何人。」

少弐家書記「四人。」

少弐景資「一番ましなのを。」

一番ましな者が呼ばれた。

博多漁師「蒙古ではありません。」

少弐景資「何だ。」

博多漁師「木です。」

少弐景資「木。」

博多漁師「大きい流木です。」

少弐景資「帆があると。」

博多漁師「鳥です。」

少弐景資は海を見た。

鳥が飛んだ。

帆はなくなった。

少弐景資「異状なし。」

少弐家書記「はい。」


噂には、別の用途も生まれた。

蒙古が来るかもしれない。

そう言えば、人が集まる。

人が集まれば、物が売れる。

祈祷も増える。

寄進も増える。

警固の名目で修理したいものも増える。

綱屋宗吉のところへ、町の者が相談に来た。

博多町人「来月、異国退散の市を開きたい。」

綱屋宗吉「蒙古が来るのか。」

博多町人「来るかもしれません。」

綱屋宗吉「いつ。」

博多町人「市の日の前後がよいです。」

綱屋宗吉「蒙古に日程を合わせるのか。」

博多町人「来なくても市は開きます。」

綱屋宗吉「では蒙古は関係ないだろう。」

博多町人「異国退散の市です。」

綱屋宗吉「退散する異国がいない。」

博多町人「いない方が縁起がよい。」

宗吉は少し考えた。

商売としては筋が通っていた。

綱屋宗吉「場所は。」

博多町人「寺の前を。」

綱屋宗吉「慶円殿に聞け。」

慶円も話を聞いた。

慶円「祈祷はします。」

博多町人「では市も。」

慶円「寺の前ではやめてください。」

博多町人「なぜ。」

慶円「祈祷の妨げです。」

博多町人「異国退散の市です。」

慶円「こちらは本当に祈っています。」

同じ名目でも、用途が違った。


さらに、修理にも蒙古が使われた。

村の橋が壊れた。

以前から壊れていた。

直す費用が足りない。

そこで、橋を直さないと異国警固に支障が出る、と申し出た。

筑前百姓「警固の兵が通れません。」

幕府役人「普段も通れないのか。」

筑前百姓「普段は困ります。」

幕府役人「蒙古と関係が。」

筑前百姓「蒙古が来れば、もっと困ります。」

役人は橋を見た。

確かに壊れている。

警固兵が通る可能性もある。

幕府役人「いつ壊れた。」

筑前百姓「一昨年です。」

幕府役人「蒙古より前では。」

筑前百姓「蒙古が来る前から備えていた、とも言えます。」

幕府役人「言えない。」

申請は一度退けられた。

翌月、別の文面で出された。

今度は「異国防禦用通路」と書いてあった。

少し通りやすくなった。

蒙古は、海を渡る前から橋の修理理由になった。


見張り台の増設でも同じことが起きた。

高い場所から海を見る。

必要な施設である。

ただし、高い場所ならどこでもよいわけではない。

見張り台予定地の一つが、村の祭りで使う場所だった。

村役人「ここなら海も見えます。」

少弐家書記「見えるな。」

村役人「人も集まれます。」

少弐家書記「見張りに人は多くいらん。」

村役人「非常時には。」

少弐家書記「祭りもするのか。」

村役人「平時には。」

少弐家書記「警固施設だぞ。」

村役人「ですから平時は空いております。」

少弐家書記「祭りをするのだろう。」

村役人「年に一度です。」

少弐家書記「それは空いていると言わない。」

最終的に見張り台は建った。

祭りも続いた。

蒙古を見張る台から、祭りの行列もよく見えた。

施設は有効活用された。


こうした話が増えると、「蒙古」という言葉そのものが軽くなっていった。

本来は、実際に一度上陸し、人を殺し、町を焼いた相手である。

恐怖が消えたわけではない。

ただし毎日の暮らしの中で、同じ言葉が別の用途に使われ始めた。

蒙古が来るから値が上がる。

蒙古が来るから橋を直す。

蒙古が来るから祈祷する。

蒙古が来るから人を集める。

蒙古が来るから酒を仕入れる。

蒙古が来るから祭りをする。

蒙古は便利だった。

実物がいなければ、さらに便利だった。

綱屋宗吉「蒙古が来るそうです。」

店の手代「本当ですか。」

綱屋宗吉「西の村で見たと。」

店の手代「誰が。」

綱屋宗吉「老婆。」

店の手代「低いですね。」

綱屋宗吉「何が。」

店の手代「信用です。」

綱屋宗吉「最近は格付けまであるのか。」

店の手代「漁師三人なら高いです。」

綱屋宗吉「寺僧は。」

店の手代「中の上。」

綱屋宗吉「武士は。」

店の手代「船を知りません。」

宗吉は納得した。

軍事社会で、武士の証言が低く評価される分野もあった。


少弐景資は、誤報の増加に困っていた。

すべて確認しなければならない。

無視して本物なら困る。

確認して偽物なら時間を使う。

少弐景資「昨日の蒙古は。」

少弐家書記「商船でした。」

少弐景資「一昨日。」

少弐家書記「漁船。」

少弐景資「その前。」

少弐家書記「霧。」

少弐景資「霧を蒙古と。」

少弐家書記「船影に見えたそうです。」

少弐景資「誰が。」

少弐家書記「酔った漁師です。」

少弐景資「格付けは。」

少弐家書記「下です。」

景資は格付けの存在を受け入れていた。

制度にはしていない。

便利だったから使っているだけである。

少弐景資「今後、報告には目撃者を書け。」

少弐家書記「正式に。」

少弐景資「正式にはするな。」

少弐家書記「では。」

少弐景資「欄だけ作れ。」

少弐家書記は帳面に欄を増やした。

目撃者。

人数。

職業。

飲酒の有無。

異国警固は、少しずつ精密になっていた。

理由は、蒙古が来ないからだった。


ある日、三人の漁師が同じ船を見た。

全員、酒を飲んでいなかった。

警戒度は高かった。

報告はすぐに少弐家へ届いた。

少弐家書記「蒙古船の可能性。」

少弐景資「目撃者は。」

少弐家書記「漁師三名。」

少弐景資「酒は。」

少弐家書記「なし。」

少弐景資「方角。」

少弐家書記「西。」

少弐景資「兵を出せ。」

武士が集まった。

見張り台にも人が上がった。

浜へ弓が運ばれた。

船も準備された。

しばらくして、船影が近づいた。

高麗から来た商船だった。

少弐家書記「異状なし。」

少弐景資「異状はあった。」

少弐家書記「敵ではありませんでした。」

少弐景資「だが兵を出した。」

少弐家書記「では何と。」

少弐景資「異国船一艘。確認の上、敵性なし。」

少弐家書記「長いですね。」

少弐景資「正確だ。」

報告は長くなった。

警固制度は進歩していた。

蒙古はまだ来ていなかった。


その夜、博多の酒場では、昼の騒ぎがもう話になっていた。

博多町人「蒙古だったそうだ。」

博多漁師「違う。」

博多町人「兵が出た。」

博多漁師「商船だ。」

博多町人「なら、なぜ兵が。」

博多漁師「蒙古だと思ったからだ。」

博多町人「では蒙古では。」

博多漁師「違う。」

話はうまく整理されなかった。

翌日には、「蒙古船が博多沖まで来た」という噂になった。

その次の日には、「蒙古の斥候船を追い返した」ことになった。

さらに数日後には、酒屋の主人が「先日の蒙古退散記念」と書いた札を出した。

綱屋宗吉「何を退散させた。」

酒屋主人「蒙古です。」

綱屋宗吉「商船だった。」

酒屋主人「結果的にいなくなりました。」

綱屋宗吉「出航しただけだ。」

酒屋主人「退散とも言えます。」

宗吉は札を見た。

客は入っていた。

綱屋宗吉「どれだけ売れた。」

酒屋主人「昨日の倍です。」

宗吉は黙った。

商売上の反論は難しかった。

十一

異国警固は続いた。

誤報も続いた。

本物を一度経験した社会は、次の本物を恐れる。

同時に、恐怖へ慣れる。

さらに、恐怖を利用する方法も覚える。

これらは矛盾しなかった。

少弐家書記「本日、異状なし。」

少弐景資「目撃報告は。」

少弐家書記「五件。」

少弐景資「全部なしで。」

少弐家書記「はい。」

少弐景資「何だった。」

少弐家書記「漁船二、商船一、流木一、鳥一。」

少弐景資「鳥。」

少弐家書記「帆に見えたそうです。」

少弐景資「誰が。」

少弐家書記「子どもです。」

少弐景資「格付けは。」

少弐家書記「最下位です。」

景資はうなずいた。

報告書には、異国警固異状なし、と書かれた。

町では、その日も蒙古の話が出た。

橋は直った。

見張り台が建った。

市が開かれた。

祈祷が行われた。

米が売れた。

酒も売れた。

蒙古は一人もいなかった。

異国警固には、異状がなかった。

社会の方には、少しずつ異状が出始めていた。


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第十二章 警固経済について



博多は、蒙古が来る前から栄えていた。

宋との交易がある。

高麗との往来もある。

唐物を扱う商人がいる。

陶磁器。

絹。

薬。

書物。

銭。

人も物も海を越えて来る。

蒙古襲来によって初めて町ができたわけではない。

むしろ、すでに町があったから困った。

焼かれた。

壊れた。

人が逃げた。

船の往来も乱れた。

そして戦が終わると、人が戻った。

さらに別の人間も来た。

警固の武士。

その郎党。

人夫。

石工。

船大工。

役人。

寺僧。

馬。

馬は人間ではなかったが、食費だけはかかった。

綱屋宗吉は帳面を見ていた。

綱屋宗吉「去年より米が出ている。」

店の手代「兵がいますので。」

綱屋宗吉「酒も。」

店の手代「兵がいますので。」

綱屋宗吉「草鞋も。」

店の手代「兵がいますので。」

綱屋宗吉「縄も。」

店の手代「石築地です。」

綱屋宗吉「馬草。」

店の手代「馬がいます。」

綱屋宗吉「何でも売れるな。」

店の手代「蒙古のおかげでしょうか。」

宗吉は顔を上げた。

綱屋宗吉「それは人前で言うな。」

商売上は正しかった。

社会上は、少し言い方が悪かった。


人が集まると、宿が要る。

宿が足りなくなると、値段が上がる。

値段が上がると、宿を始める者が出る。

昨日まで倉だった場所に、人が寝るようになった。

昨日まで人が寝ていた場所には、二人寝るようになった。

三人になった。

四人になったところで、宿側は「相部屋」と呼んだ。

警固兵「狭い。」

宿主人「異国警固特別料金です。」

警固兵「料金が特別なのか。」

宿主人「部屋も特別です。」

警固兵「狭いだけでは。」

宿主人「四人で寝られます。」

警固兵「一人用では。」

宿主人「四人寝ています。」

事実だった。

宿主人は間違っていなかった。

警固兵は寝た。

翌朝、腰が痛かった。

これは蒙古による直接被害には数えられなかった。

慶円の寺にも宿泊希望が増えた。

慶円「またですか。」

少弐家書記「十五人ほど。」

慶円「前は二十二でした。」

少弐家書記「今回は少ないです。」

慶円「減ったことを喜べという意味ですか。」

少弐家書記「そういうつもりでは。」

慶円「米は持参しますか。」

少弐家書記「相談します。」

慶円「相談では炊けません。」

寺も経済活動へ組み込まれていた。

祈る。

泊める。

食わせる。

帳面をつける。

仏事と宿屋業の境界は、夜になると少し曖昧になった。


馬も町の経済を動かした。

軍馬。

荷駄馬。

乗用馬。

用途は日によって変わる。

食うものは変わらない。

草。

大量の草。

遠賀河原で争いになったものと同じだった。

今度は、争うより売った方が儲かることに気づく者が出た。

筑前百姓「馬草です。」

伊予勢兵士「高い。」

筑前百姓「前より需要があります。」

伊予勢兵士「先月の倍だ。」

筑前百姓「蒙古が来ますので。」

伊予勢兵士「まだ来ていない。」

筑前百姓「だから馬が残っています。」

伊予勢兵士は反論できなかった。

馬が死ねば草は売れない。

蒙古が来なければ馬は食う。

百姓の理屈は、綱屋宗吉の理屈と似ていた。

ただし双方とも、相手の商売は少し悪質に見えた。

城戸新三郎も馬草を買った。

城戸新三郎「高いな。」

筑前百姓「警固ですので。」

城戸新三郎「私は土地を持っている。」

筑前百姓「では自分の草を。」

城戸新三郎「刈入れがある。」

筑前百姓「こちらもです。」

城戸新三郎は払った。

国難は、値引きの理由にはならなかった。


石築地の工事が始まると、別の商売が増えた。

石を運ぶための縄。

荷車。

木材。

鉄の道具。

槌。

鑿。

修理。

飯。

水。

酒。

人夫は働けば腹が減る。

働かなくても腹は減る。

工事が長引くほど、町には金が落ちた。

綱屋宗吉「縄を増やせ。」

店の手代「昨日増やしました。」

綱屋宗吉「足りない。」

店の手代「どれだけ。」

綱屋宗吉「石築地が完成するまで。」

店の手代「何本です。」

綱屋宗吉「知らん。」

店の手代「何尺です。」

綱屋宗吉「二十キロだ。」

店の手代「縄で全部結ぶのですか。」

綱屋宗吉「そういう意味ではない。」

手代は帳面を見た。

蒙古が来る。

兵が来る。

兵が来るから米が売れる。

警固が続く。

馬草が売れる。

防塁を作る。

縄が売れる。

人夫が泊まる。

酒が売れる。

戦争は、一つの需要を生むのではなかった。

需要が別の需要を呼んだ。

蒙古軍は一人も上陸していない。

それでも町では、蒙古に関係する銭が毎日動いた。


祈祷も増えた。

寺社は異国降伏を祈る。

幕府も朝廷も、祈祷を重視した。

宗教的な意味がある。

政治的な意味もある。

祈る者が増えれば、必要なものも増える。

灯明油。

紙。

墨。

米。

酒。

供物。

人。

慶円「祈祷料が届きました。」

寺僧「増えています。」

慶円「祈る回数も増えています。」

寺僧「蒙古が来た方が。」

慶円「続きを言うな。」

寺僧は黙った。

慶円は金を数えた。

寺が利益だけを考えているわけではない。

実際に祈っている。

戦で死ぬ者を減らしたい。

寺領も守りたい。

町も守りたい。

だから祈る。

祈るには人が要る。

人が生きるには米が要る。

米には金が要る。

宗教活動にも経費があった。

慶円「灯明油を買い足せ。」

寺僧「値が上がっています。」

慶円「なぜ。」

寺僧「異国祈祷が増えていますので。」

慶円「どこも同じことをしているのか。」

寺僧「はい。」

慶円は少し困った。

異国降伏を祈る寺が増えた結果、異国降伏に必要な灯明油が値上がりした。

蒙古は、まだ何もしていなかった。


船大工も忙しかった。

異国警固には舟が要る。

連絡。

見回り。

輸送。

漁船も使う。

壊れれば直す。

異国征伐の計画が出た時には、さらに船の話が増えた。

高麗へ行く船。

兵を乗せる船。

馬を乗せる船。

結局、征伐は実現しなかった。

船大工の仕事は残った。

潮見弥六「この船を直したい。」

船大工「いつまでに。」

潮見弥六「早く。」

船大工「皆そう言います。」

潮見弥六「蒙古が来る。」

船大工「皆そう言います。」

潮見弥六「警固に必要だ。」

船大工「皆そう言います。」

潮見弥六「私は本当に必要だ。」

船大工「皆そう言います。」

潮見弥六「いつできる。」

船大工「順番です。」

潮見弥六は黙った。

軍事上の緊急事態にも、職人の人数には限りがある。

潮見弥六「高くてもよい。」

船大工「明後日から入れます。」

順番には、多少の柔軟性があった。


博多の酒屋では、警固兵向けの看板まで出始めた。

「異国警固御用」

正式に指定されたわけではない。

警固兵がよく来るだけだった。

別の店は、

「鎮西武士御休処」

と書いた。

こちらも、誰にも認められていない。

よく休むので、事実ではあった。

綱屋宗吉「何でも御用になるな。」

酒屋主人「御用の者が来ますので。」

綱屋宗吉「幕府から許しは。」

酒屋主人「酒を売るのに。」

綱屋宗吉「異国警固御用と書いてある。」

酒屋主人「警固の方しか飲んではいけないとは書いていません。」

店には町人もいた。

商人もいた。

寺僧もいた。

警固兵は三人だった。

看板の効果は十分だった。

さらに別の店が、

「蒙古退散饅頭」

を売り始めた。

綱屋宗吉「そんなものがあるのか。」

店の手代「普通の饅頭です。」

綱屋宗吉「何が蒙古退散だ。」

店の手代「紙に書いてあります。」

宗吉は一つ食べた。

普通だった。

綱屋宗吉「売れているのか。」

店の手代「よく。」

宗吉は二つ買った。

商人として調査するためだった。


経済が動くと、働く場所も増えた。

荷を運ぶ者。

炊事をする者。

馬の世話をする者。

石を割る者。

縄をなう者。

矢を作る者。

宿を手伝う者。

物を売る者。

祈る者。

警固そのものへ参加しなくても、警固で仕事を得る者が出た。

筑前百姓「息子を博多へ出しました。」

城戸新三郎「警固に。」

筑前百姓「宿屋です。」

城戸新三郎「武士ではないのか。」

筑前百姓「武士ではありません。」

城戸新三郎「ならよい。」

筑前百姓「娘も。」

城戸新三郎「何を。」

筑前百姓「飯炊きを。」

城戸新三郎「家の田は。」

筑前百姓「私が。」

城戸新三郎「人が減っているではないか。」

筑前百姓「博多の方が銭になりますので。」

城戸は困った。

蒙古から土地を守るため人を集めた結果、土地から人が減っている。

城戸新三郎「蒙古が来たらどうする。」

筑前百姓「帰します。」

城戸新三郎「いつ来る。」

筑前百姓「分かりません。」

城戸新三郎「ならいつ帰す。」

筑前百姓「来たら。」

城戸はそれ以上聞かなかった。

軍事計画と家計には、時間の流れ方が違った。


綱屋宗吉の商売は大きくなった。

米だけではない。

縄。

酒。

乾物。

馬草。

草鞋。

薪。

油。

一つの品を大量に持つより、警固で要るものを広く持つ方がよかった。

店の手代「倉を増やしますか。」

綱屋宗吉「増やす。」

店の手代「蒙古が来なかったら。」

綱屋宗吉「警固は続く。」

店の手代「警固が終わったら。」

綱屋宗吉「石築地がある。」

店の手代「石築地も終わったら。」

綱屋宗吉「次の蒙古がある。」

店の手代「来なかったら。」

綱屋宗吉「それが一番よい。」

手代は理解できなかった。

来るから商売になる。

来ない方がよい。

来ないまま来ると言われ続けるともっとよい。

経済には、戦争とも平和とも言い切れない状態があった。

綱屋宗吉「一番よいのは、蒙古が来ると言われ続けて、来ないことだ。」

店の手代「前にも聞きました。」

綱屋宗吉「大事なことは何度でも言う。」

店の手代「本当に来たら。」

綱屋宗吉「来たら駄目でしょう。」

手代はようやく理解した。

蒙古景気は、蒙古がいない時に最も安定していた。


その頃、町では「蒙古」という言葉がますます便利になっていた。

蒙古が来るので値上げ。

蒙古が来るので在庫不足。

蒙古が来るので予約優先。

蒙古が来るので臨時料金。

蒙古が来るので祈祷料。

蒙古が来るので工事。

蒙古が来るので人夫募集。

実際に蒙古と関係があるものも多かった。

関係が薄いものもあった。

綱屋宗吉「これは何だ。」

店の手代「蒙古備え桶です。」

綱屋宗吉「普通の桶では。」

店の手代「水を貯めます。」

綱屋宗吉「普通の桶だ。」

店の手代「火攻めに備えます。」

綱屋宗吉「蒙古が火を付けなければ。」

店の手代「普段も使えます。」

綱屋宗吉「なら普通の桶だ。」

店の手代「蒙古備えと書いた方が売れます。」

宗吉は黙った。

自分の店でも縄に「警固用」と札を付けていたことを思い出した。

綱屋宗吉「桶も置け。」

店の手代「何個。」

綱屋宗吉「十。」

店の手代「蒙古備えで。」

綱屋宗吉「小さく書け。」

宗吉にも一線は残っていた。

文字の大きさ程度には。

十一

もちろん、全員が儲かったわけではない。

米が値上がりすれば、買う側は困る。

馬草が上がれば、馬を持つ者が困る。

宿代が上がる。

人夫が取られる。

船が軍用に借りられる。

工事の負担もある。

警固へ出れば、自分の仕事ができない。

戦時需要とは、銭が増えることではない。

銭が動くことである。

誰かの収入は、誰かの支出だった。

城戸新三郎「景気がよいそうですね。」

綱屋宗吉「誰が言いました。」

城戸新三郎「町で。」

綱屋宗吉「町は動いています。」

城戸新三郎「私の支出も動いています。」

綱屋宗吉「それで町が動きます。」

城戸新三郎「私から出た銭で。」

綱屋宗吉「そういうこともあります。」

城戸新三郎「返してもらえますか。」

綱屋宗吉「経済はそういう仕組みではありません。」

城戸は経済という言葉を嫌いになった。

宗吉は好きだった。

同じ現象を見ていた。

十二

少弐景資は、町の変化を軍事の側から見ていた。

人が増えた。

物資が集まる。

職人がいる。

船を直せる。

米を買える。

馬草もある。

警固を続けるには有利だった。

一方で、値段が上がる。

人夫の奪い合いが起きる。

宿が足りない。

道が混む。

軍事拠点として便利になるほど、町として忙しくなった。

少弐景資「兵糧の値が上がっている。」

少弐家書記「需要がありますので。」

少弐景資「誰が需要を増やした。」

少弐家書記「我々です。」

少弐景資「蒙古ではないのか。」

少弐家書記「蒙古が来るので我々が増えました。」

少弐景資「蒙古は今いない。」

少弐家書記「はい。」

少弐景資「では誰が値を上げている。」

少弐家書記「我々です。」

景資はしばらく黙った。

敵に備えて軍勢を集める。

軍勢を集めると物価が上がる。

物価が上がると軍勢を維持する費用が増える。

警固を強くすると、警固が高くなる。

軍事上の成功は、会計上の敵になることがあった。

その日の海には、蒙古船は見えなかった。

博多の町では、米が売れた。

酒が売れた。

馬草が売れた。

縄が売れた。

桶まで売れた。

異国警固、異状なし。

商売の方は、異状があるほどよかった。


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第十三章 宋国滅亡について



弘安二年。

海の向こうで、一つの国がなくなった。

南宋である。

日本では、宋と呼ぶ方が馴染みが深かった。

博多には宋人が住んだ。

宋の船が来た。

宋銭が使われた。

陶磁器が来た。

薬が来た。

書物が来た。

僧も来た。

日本側から見れば、海の向こうにある大きな国の一つだった。

その国が、元に滅ぼされた。

知らせは、戦場の急報のようには届かなかった。

対馬から馬を飛ばして、

「宋、滅亡」

と一枚の紙が届いたわけではない。

商船。

僧。

海商。

使者。

さまざまな経路から、少しずつ話が入ってきた。

綱屋宗吉「宋がなくなったそうだ。」

店の手代「なくなるものですか。」

綱屋宗吉「国だからな。」

店の手代「店なら閉めればなくなります。」

綱屋宗吉「そういうなくなり方ではない。」

南宋は百五十年以上、中国南部を治めてきた。

その政権が終わった。

博多の店は、その日も開いた。

大国が滅びても、翌朝の米は必要だった。


宗吉が最初に気にしたのは、政治ではなかった。

船だった。

綱屋宗吉「今まで宋から来ていた船は、これから何船になる。」

博多商人「元船では。」

綱屋宗吉「船が変わるのか。」

博多商人「船は同じかもしれん。」

綱屋宗吉「人は。」

博多商人「同じ者もいるだろう。」

綱屋宗吉「荷は。」

博多商人「同じ物も来る。」

綱屋宗吉「では何が変わる。」

博多商人「旗では。」

宗吉は考えた。

商人にとって、国が変わることと、商品が変わることは同じではない。

昨日まで宋の港だった場所が、今日から元の支配下に入る。

港は残る。

船大工も残る。

水主も残る。

倉も残る。

海も残る。

変わるのは、それらを命じる側だった。

宗吉には、それが一番気になった。

綱屋宗吉「船は残るのだな。」

博多商人「壊されなければ。」

綱屋宗吉「水主も。」

博多商人「生きていれば。」

綱屋宗吉「元が使える。」

博多商人「そうなる。」

宗吉は、それ以上聞かなかった。

商売の話として始めた。

途中から軍事の話になっていた。


鎌倉にも知らせは届いた。

南宋が滅びた。

それ自体、日本へ直ちに軍勢が来るという意味ではない。

元には広大な領土がある。

戦う場所も多い。

日本だけを見ているわけではない。

ただし、文永の役以来、日本側が期待できた事情の一つが消えた。

元は南宋と大きな戦争を続けていた。

その戦争が終わった。

葛木頼成「宋が滅びました。」

幕府奉行人「聞いた。」

葛木頼成「元の兵が空きます。」

幕府奉行人「全部が日本へ来るわけではない。」

葛木頼成「はい。」

幕府奉行人「船も全部ではない。」

葛木頼成「はい。」

幕府奉行人「水主も。」

葛木頼成「はい。」

幕府奉行人「では。」

葛木頼成「全部でなくても、前より使えるものが増えます。」

幕府奉行人は黙った。

それで十分だった。

日本側が恐れる必要があるのは、元の全兵力ではない。

日本へ送れる兵力である。

その上限が、少し広がった可能性があった。


少弐景資のもとへも報告が来た。

少弐家書記「宋が滅びたそうです。」

少弐景資「完全に。」

少弐家書記「そのようです。」

少弐資能も報告を聞いた。

少弐資能「国が滅びたか。」

少弐景資「はい。」

少弐資能「王朝が替わる話なら、前にもあった。」

少弐景資「今度は、その港も船も水主も元の支配下です。」

少弐資能「それは初めてだな。」

老人の経験は多かった。

経験の外側も、まだ残っていた。

少弐景資「元は。」

少弐家書記「中国全土を支配することになります。」

少弐景資「船は。」

少弐家書記「分かりません。」

少弐景資「兵は。」

少弐家書記「分かりません。」

少弐景資「水主は。」

少弐家書記「分かりません。」

少弐景資「何が分かる。」

少弐家書記「宋が滅びたことです。」

以前にも似た会話があった。

今回は、分からない部分そのものが警戒材料だった。

文永の役で来た元軍は、元の持つ力のすべてではない。

南宋との戦争を抱えたまま、日本へ送った軍勢だった。

その南宋がなくなった。

少弐景資「警固を緩める理由は減ったな。」

少弐家書記「はい。」

少弐景資「人を増やせるか。」

少弐家書記「こちらのですか。」

少弐景資「こちら以外に誰がいる。」

少弐家書記「元の兵が増える話でしたので。」

景資は海を見た。

敵国の国力が増えた。

こちらの人数が、それに合わせて自動的に増えるわけではない。

国際情勢には、相手側だけ動くことがあった。


江南では、敗れた側の人間が残った。

政権がなくなっても、人間まで消えるわけではない。

兵士。

水主。

船大工。

職人。

農民。

役人。

商人。

彼らは、元の支配下で生きていくことになる。

陳子明も、その一人だった。

名は子明。

江南の港と船に関わる仕事をしてきた。

宋が勝つとも、元が勝つとも、本人が決めたわけではない。

勝った側が決めた。

元側役人「船の数を調べる。」

陳子明「何のためです。」

元側役人「命令だ。」

陳子明「用途を聞いています。」

元側役人「軍用。」

陳子明「どこへ。」

元側役人「まだよい。」

陳子明「外洋ですか。河川ですか。」

元側役人「なぜ必要だ。」

陳子明「船が違います。」

元側役人は少し考えた。

征服した土地を利用するには、その土地の専門家を使う必要がある。

征服したからといって、船の構造まで元の命令に従うわけではない。

元側役人「外洋だ。」

陳子明「兵を載せますか。」

元側役人「載せる。」

陳子明「馬は。」

元側役人「可能性がある。」

陳子明「行き先は遠いですね。」

元側役人「なぜ分かる。」

陳子明「近ければ、ここまで聞きません。」

陳子明は帳面を開いた。

国家は変わった。

船の浮力は変わらなかった。


元にとって、南宋の征服は巨大な成功だった。

長年の戦争が終わった。

中国南部の人口。

港。

造船能力。

船舶。

水上輸送の経験。

それらを元の支配下へ組み込めるようになる。

ただし、「手に入れた」と「すぐ自由に使える」は同じではない。

戦争で疲弊した地域もある。

旧宋の人々が元のため喜んで働くとも限らない。

船は修理が必要になる。

兵には食料が要る。

水主にも意思がある。

陳子明「この船は使えません。」

元側役人「あるではないか。」

陳子明「船体が傷んでいます。」

元側役人「直せ。」

陳子明「木が要ります。」

元側役人「用意する。」

陳子明「職人も。」

元側役人「用意する。」

陳子明「時間も。」

元側役人「それは減らせ。」

陳子明「どうやって。」

元側役人「工夫しろ。」

陳子明は黙った。

国が変わっても、この種類の命令は変わらないらしかった。


博多では、宋人の商人たちの立場も微妙になった。

故郷はある。

国がない。

正確には、その土地を元が治めている。

昨日まで「宋人」と呼ばれていた者が、翌日から別人になるわけではない。

博多宋商「私は宋人です。」

綱屋宗吉「宋はなくなったそうだ。」

博多宋商「だから何です。」

綱屋宗吉「呼び方をどうする。」

博多宋商「今まで通りで。」

綱屋宗吉「元人では。」

博多宋商「やめてください。」

宗吉はすぐに謝った。

呼び名は、支配者が変わった日に自動で変わるものではなかった。

博多宋商「港は残っています。」

綱屋宗吉「商売は。」

博多宋商「続けます。」

綱屋宗吉「船は来る。」

博多宋商「来るでしょう。」

綱屋宗吉「元の船として。」

博多宋商「それもあるでしょう。」

宗吉は帳面を見た。

交易が完全に止まるわけではない。

だが海の向こうから来る船について、商船と軍船を以前より慎重に見なければならなくなる。

同じ港。

同じ水主。

同じような船。

その背後の国だけが変わった。

異国警固の見張りには、さらに仕事が増えた。


慶円の寺では、南宋滅亡の知らせを別の角度から受け止めた。

宋から日本へ渡った僧は多い。

書物も仏具も来た。

寺院同士の交流もある。

慶円「宋がなくなりました。」

寺僧「仏法は。」

慶円「なくならん。」

寺僧「寺は。」

慶円「残る。」

寺僧「では、何がなくなったのです。」

慶円「朝廷だ。」

寺僧「大きなものですね。」

慶円「大きい。」

寺僧「寺より。」

慶円「比較するな。」

政治体制が滅びても、文化や人の往来は残る。

そのことは希望でもあった。

同時に、元がそれらを取り込めるという意味でもあった。

寺僧「異国降伏の祈祷は増やしますか。」

慶円「増やす。」

寺僧「宋のために。」

慶円「日本のためだ。」

寺僧「宋は。」

慶円「もう祈っても戻らん。」

慶円の言葉は冷たく聞こえた。

実際には、その逆だった。


南宋が滅びたことで、日本側の恐れていた未来は一つ具体的になった。

元が再び日本へ来る。

しかも、前回より大きな規模で。

まだ決まったわけではない。

だが可能性は増した。

鎌倉では警戒が続いた。

西国では番役が続いた。

石築地は補修された。

船も調べられた。

人も数えられた。

綱屋宗吉は倉を増やした。

城戸新三郎は番の順番を確認した。

潮見弥六は船底を見た。

景資は海岸の防塁を見た。

それぞれ別の理由で、同じ海を見ていた。

海の向こうでは、陳子明が船を数えていた。

元側役人「使える船は。」

陳子明「修理すれば、かなり。」

元側役人「人は。」

陳子明「集めれば。」

元側役人「兵を載せられる。」

陳子明「載せるだけなら。」

元側役人「海を渡れる。」

陳子明「行き先によります。」

元側役人「東だ。」

陳子明は顔を上げた。

陳子明「高麗ですか。」

元側役人「その先だ。」

陳子明は、それ以上聞かなかった。

聞く必要がなかった。


日本では、宋国滅亡について報告書が作られた。

大陸の大事件だった。

しかし、日本の役人ができることは限られている。

宋を復活させることはできない。

元の政策を変えることもできない。

できるのは、自分たちの警固を続けることだった。

少弐家書記「宋、滅亡。」

少弐景資「書いたか。」

少弐家書記「はい。」

少弐景資「次は。」

少弐家書記「異国警固番役の割当です。」

少弐景資「続けろ。」

少弐家書記「はい。」

一つの王朝が滅びた。

帳面では一行だった。

次の行には、来月の警固当番が書かれた。

日本にとって南宋の滅亡は、遠い国の終わりではなかった。

元の南側にあった大きな戦争が終わった、という知らせでもあった。

元から見れば、中国統一が完成した。

日本から見れば、元の手が一つ空いたように見えた。

本当に日本へ伸びてくるかは、まだ分からない。

ただし、その手には兵だけでなく、旧宋の港と船と水主もあった。

日本側は石の壁を作った。

元側は海の向こうで、船を数え始めた。


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第十四章 第二次元使ならびに再征の風聞について



弘安二年六月。

また元使が来た。

周福。

欒忠。

日本僧と通事を伴っていた。

前年までなら、驚くところだった。

今は違った。

少弐家書記「元使です。」

少弐景資「何人。」

少弐家書記「数名。」

少弐景資「書状は。」

少弐家書記「あります。」

少弐景資「服属せよ、と。」

少弐家書記「おおむね。」

少弐景資「鎌倉へ送るか。」

少弐家書記「前例では。」

景資は顔を上げた。

前例。

杜世忠の時にはなかった言葉だった。

あの時は、どう処置するかを鎌倉で長く考えた。

今回は、一度考えたことがある。

少弐景資「前例ができると早いな。」

少弐家書記「よいことでしょうか。」

少弐景資「内容による。」

内容は、よくなかった。

元側は再び日本へ服属を求めていた。

日本側は、前回と同じく受け入れる意思がなかった。

違ったのは、使者を鎌倉まで送る必要すらないと判断されたことである。

周福らは博多で処刑された。

外交問題が、地方で処理できる案件になっていた。


元側では、別の予定が立てられていた。

使者を送り、日本側の返答を待つ。

翌年四月まで。

返答があれば、その内容を見る。

従うならよい。

従わなければ、兵を進める。

使者を送った側としては、合理的な段取りだった。

元側官人「周福らの帰還は。」

元側官人補佐「まだです。」

元側官人「期限は来年四月だ。」

元側官人補佐「はい。」

元側官人「それまでは待つ。」

元側官人補佐「兵船の準備は。」

元側官人「進める。」

元側官人補佐「兵の徴集は。」

元側官人「進める。」

元側官人補佐「返答を待つのでは。」

元側官人「待ちながら準備する。」

元側官人補佐「従った場合は。」

元側官人「使わない。」

準備することと、実行することは別だった。

日本側にも覚えのある考え方である。

違うのは規模だった。

日本側は高麗征伐のため船を調べた。

元側は日本征伐のため船を造った。

どちらも調査と準備から始まった。

一方は調べるほど難しさが分かった。

もう一方は、調べながら必要な数を増やした。


周福らが帰らない間にも、海の向こうでは数字が動いた。

兵。

船。

水主。

馬。

食料。

南宋が滅びたことで、江南の人員と船舶を遠征に組み込む話が現実になっていく。

四万。

十万。

さらにそれを合わせる。

数字は、日本へ伝わるころには少しずつ形を変えた。

少弐家書記「元が四万を集めるとの風聞です。」

少弐景資「前より多いな。」

少弐家書記「別に十万とも。」

少弐景資「合わせるのか。」

少弐家書記「分かりません。」

少弐景資「合わせると十四万だな。」

少弐家書記「はい。」

少弐景資「誰が数えた。」

少弐家書記「元側の計画では。」

少弐景資「実際に船へ乗る人数か。」

少弐家書記「分かりません。」

少弐景資「戦う兵か。」

少弐家書記「分かりません。」

少弐景資「では十四万とは。」

少弐家書記「足すとそうなります。」

算術としては正しかった。

軍事情報としては、まだ途中だった。


敵の数が増えると、味方の数も気になった。

幕府は、西国の兵力を把握しようとした。

何騎出せるか。

何人動員できるか。

番役経験者は何人か。

非御家人は。

船を扱える者は。

石築地の人夫は。

緊急時に武器を持てる者は。

数え方によって、人数は変わった。

葛木頼成「実戦に出られる騎馬は。」

少弐家書記「この程度です。」

葛木頼成「郎党を入れると。」

少弐家書記「増えます。」

葛木頼成「歩兵。」

少弐家書記「さらに。」

葛木頼成「水主。」

少弐家書記「増えます。」

葛木頼成「石築地役の人夫。」

少弐家書記「兵に数えますか。」

葛木頼成「緊急時に武器を持てるなら。」

少弐家書記「持てる者もおります。」

葛木頼成「では入れる。」

少弐家書記「馬丁は。」

葛木頼成「戦いますか。」

少弐家書記「場合によっては。」

葛木頼成「入れておけ。」

数字は順調に増えた。

軍勢が増えたわけではない。

定義が広がった。


京都にも、西国の兵力について報告が届いた。

朝廷が知りたいのは当然だった。

相手が十万を超えるという。

では、こちらはどれだけいるのか。

朝廷実務官「鎮西の兵は何万。」

幕府使者「数え方によります。」

朝廷実務官「戦う者を聞いている。」

幕府使者「どこまでを戦う者とするかで。」

朝廷実務官「武士だ。」

幕府使者「郎党は。」

朝廷実務官「入れよ。」

幕府使者「水主は。」

朝廷実務官「戦うのか。」

幕府使者「船では必要です。」

朝廷実務官「なら入れよ。」

幕府使者「人夫は。」

朝廷実務官「戦うなら。」

幕府使者「場合によります。」

朝廷実務官「では入れよ。」

幕府使者「かなり増えます。」

朝廷実務官「よいではないか。」

幕府使者「兵力が増えたわけでは。」

朝廷実務官「数字は増えたのであろう。」

幕府使者は黙った。

政治上、数字が大きいことには意味がある。

敵が十万を超えると聞かされて、

こちらは数千です、

と答えるより安心できる。

実際の戦場で安心できるかは別だった。


後世には、日本側の兵力について非常に大きな数字が語られることになる。

十万。

二十万。

二十五万騎。

騎である。

文字通りなら、馬も同じ程度必要になる。

当時の九州の馬にも、かなりの協力が求められる数字だった。

少弐家書記「二十五万騎という話があります。」

少弐景資「どこに。」

少弐家書記「こちらの兵力です。」

少弐景資「どこにいる。」

少弐家書記「ですから、話です。」

少弐景資「実際は。」

少弐家書記「警固経験者、人夫、水主、動員可能者まで広く数えれば増えます。」

少弐景資「二十五万まで。」

少弐家書記「かなり努力が必要です。」

少弐景資「何の努力だ。」

少弐家書記「数える側の。」

景資は帳面を閉じた。

敵を威圧するための数字。

朝廷を安心させる数字。

幕府の動員力を示す数字。

後世の軍記が好む数字。

戦場にいる人数。

すべてが同じである必要はなかった。

ただし、同じ「兵力」と呼ばれることはあった。


元側でも、日本兵の数は大きく見えた。

文永の役の報告。

商人の話。

高麗側の情報。

沿岸の人口。

武装した者。

武士。

漁師。

寺僧。

船を出す者。

情報を伝える者。

元軍から見れば、敵対行動を取る者は戦力である。

ボロクは、日本側の兵数についての報告を読んでいた。

ボロク「倭兵十万。」

崔允「多いですね。」

ボロク「実戦兵が十万いるとは思えない。」

崔允「では。」

ボロク「我々に敵対する人口を広く数えている可能性がある。」

崔允「武士以外も。」

ボロク「船を出す漁師。物資を運ぶ者。道を教える者。情報を送る僧。武器を取る住民。」

崔允「それなら十万というのは。」

ボロク「我々を嫌っている者の数だ。」

崔允「それなら、もっといるでしょう。」

ボロクは崔允を見た。

崔允「失礼しました。」

分析としては、冗談ではなかった。

軍隊を何人と数えるかは、戦い方によって変わる。

元軍は大きな部隊を制度的に編成する。

日本側では、小さな武士団の外側にも、戦争を支える多数の人間がいる。

元側から見れば、それらを敵性人口として見る合理性はあった。

日本側自身は、その全員を日本軍だとは思っていなかった。


風聞はさらに増えた。

元が船を六百造る。

いや、もっとだ。

高麗でも船を直している。

江南でも造っている。

兵は四万。

十万。

十五万。

船は千。

二千。

四千。

伝わるたび、数字が変わった。

綱屋宗吉「四千艘だそうです。」

店の手代「蒙古船が。」

綱屋宗吉「そういう話だ。」

店の手代「博多湾に入りますか。」

綱屋宗吉「全部同時には困る。」

店の手代「商売になりますか。」

綱屋宗吉「来たら駄目だと言っているだろう。」

店の手代「でも兵は増えます。」

綱屋宗吉「来る前ならな。」

店の手代「どこまでが前です。」

綱屋宗吉「水平線に見えるまでだ。」

宗吉の蒙古景気には、明確な終点があった。

見えたら終わり。

それまでは仕入れる。

倉には米が増えた。

縄も増えた。

桶もまだあった。


弘安三年になると、再征の情報はさらに具体的になった。

高麗でも準備が進んでいる。

江南でも軍を集める。

元では日本遠征を扱う機構が整えられる。

来る時期についての風聞まで出た。

来春。

四月。

五月。

具体的になるほど、不安は増した。

少弐景資「来年四月との報告がある。」

少弐家書記「使者の返答期限も、その頃だったそうです。」

少弐景資「使者は帰らない。」

少弐家書記「はい。」

少弐景資「元は知っているか。」

少弐家書記「処刑の情報は伝わったとみられます。」

少弐景資「なら来るな。」

少弐家書記「はい。」

少弐景資「警固を強めろ。」

少弐家書記「強めています。」

少弐景資「さらに。」

少弐家書記「人が。」

少弐景資「集めろ。」

少弐家書記「集めています。」

少弐景資「もっと。」

少弐家書記「どこまで。」

少弐景資は答えなかった。

敵の数が分からない以上、十分な人数も分からない。

準備とは、足りないと分かっているものを増やす仕事でもあった。


城戸新三郎にも、再度の動員確認が来た。

城戸新三郎「またですか。」

葛木頼成「またです。」

城戸新三郎「前に人数を出しました。」

葛木頼成「変わっているかもしれません。」

城戸新三郎「人間が。」

葛木頼成「馬も。」

城戸新三郎「仔馬はまだ戦えません。」

葛木頼成「覚えています。」

城戸新三郎「なら聞かないでください。」

葛木頼成「郎党は。」

城戸新三郎「増えました。」

葛木頼成「何人。」

城戸新三郎「二人。」

葛木頼成「理由は。」

城戸新三郎「娘婿と、その弟です。」

葛木頼成「兵力二名増。」

城戸新三郎「娘が嫁に行っただけです。」

葛木頼成「戦えますか。」

城戸新三郎「弓は引けます。」

葛木頼成「では二名。」

城戸は少し考えた。

城戸新三郎「婿入りで国防力が増えるのですか。」

葛木頼成「帳面上は。」

人口動態まで軍事力へ組み込まれ始めていた。

蒙古が大軍を集めているという話は、西国の婚姻まで兵数に変えた。

十一

慶円の寺では、祈祷の予定が増えた。

異国降伏。

敵国退散。

国家安泰。

祈る内容は似ている。

回数が増えた。

寺僧「来年は本当に来るのでしょうか。」

慶円「分からん。」

寺僧「来ない可能性も。」

慶円「ある。」

寺僧「では祈祷は。」

慶円「する。」

寺僧「来なかったら。」

慶円「祈祷が効いた。」

寺僧「来たら。」

慶円「もっと祈る。」

寺僧は黙った。

宗教的には破綻していなかった。

軍事的にも、祈祷の有無にかかわらず警固は続いた。

町では仕入れが増えた。

海岸では壁が補修された。

船は確認された。

馬は数えられた。

人も数えられた。

数える対象が増えるほど、日本側の兵力は大きく見えた。

海の向こうでも、兵と船が数えられていた。

こちらは、数えたものを実際に海へ送る準備だった。

十二

弘安三年の末。

少弐景資の前には、複数の報告書が並んでいた。

敵兵四万。

別働十万。

軍船多数。

来春襲来の風聞。

日本側の動員可能人数。

警固番役の配置。

石築地の補修箇所。

船。

水主。

馬。

米。

景資は一つずつ見た。

数字は多かった。

人は、それほど多くなかった。

少弐景資「こちらは何人いる。」

少弐家書記「どこまで数えますか。」

少弐景資「戦う者だ。」

少弐家書記「実際にその場へ出る者。」

少弐景資「そうだ。」

少弐家書記「まだ分かりません。」

少弐景資「敵は。」

少弐家書記「四万と十万。」

少弐景資「それは分かるのか。」

少弐家書記「計画上は。」

少弐景資「こちらは分からず、敵は分かる。」

少弐家書記「敵の方が大きな数字を残しますので。」

景資は笑わなかった。

大きな帝国は、大きな数字を動かす。

西国の武士は、小さな家ごとに人を出す。

数字の上では、最初から勝負にならない。

だから石築地を作った。

だから警固を続けた。

だから御家人でない者まで動員した。

だから船を調べた。

だから海を見ている。

兵力表で勝てないなら、兵力表の通りに戦わなければよい。

景資は報告書を閉じた。

少弐景資「来たら、海岸で止める。」

少弐家書記「はい。」

少弐景資「壁を越えさせるな。」

少弐家書記「はい。」

少弐景資「各勢には、自分の持ち場を守らせろ。」

少弐家書記「下知に従いますか。」

少弐景資「従わなくても、敵の方へ行けばよい。」

少弐家書記は顔を上げた。

景資の命令は、以前より少し曖昧になっていた。

その分、現実的になっていた。

元使はもう来なかった。

次に来るのは、返事を求める者ではないと考えられていた。

日本側は数年かけて、返書を出さない方法を完成させた。

元側も数年かけて、返書を待たない方法を準備していた。


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