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『西関五千言』 第一部 有為

第一章 若き将

 雨は3日前から降り続いていた。洹国(かんこく)の軍陣は、もう半分が泥だった。兵の足は沈み、荷車の車輪は取られ、馬は何度も鼻を鳴らして立ち止まる。それでも尹喜(いんき)は川を見ていた。
 朝から、何度目かになる。泥の中に木片を一本立てる。少し離れたところには、半刻(はんこく)前に立てた木片があった。水は、もうそこまで来ている。
「また上がっています」
 副官の田嬰(でんえい)が言った。
「どれくらいだ」
「半刻で、指2本分ほど」
「上流は」
「見えません」
「雨雲は」
「切れていません」
 尹喜は川上を見る。低い雲が黒い山肌へ垂れ込み、その奥から濁った水が絶え間なく流れ込んでくる。
「まだ上がる」
「でしょうね」
 田嬰は嫌そうに空を見た。
「問題は、こちらの陣地も持たないことです」
「分かっている」
「敵は高地です」
「分かっている」
「兵数も向こうが上です」
「それも分かっている」
 田嬰が黙った。尹喜は対岸を見る。敵は丘の上に本陣を置いている。こちらが動けば、すぐに分かる。
 だが、尹喜が見ているのは敵兵ではなかった。その後ろにある橋と、そこを渡っていく荷車だった。積まれているのは粟(あわ)、矢、馬の飼料、干し肉。戦う兵を支えるものばかりだった。戦場には兵がいる。だが兵は飯を食い、矢は減り、馬にも飼料が要る。尹喜は、敵の兵数ではなく、それを支えている道を見ていた。
「校尉(こうい)」
 伝令が走ってきた。泥に足を取られ、一度転ぶ。それでも竹簡(ちくかん)を胸に抱えたまま立ち上がった。
「国都より、君命(くんめい)です」
 田嬰の顔が変わった。尹喜は受け取った。竹簡を開く。陣地を死守せよ。
 増援が到着するまで、一歩も退くな。短い命令だった。尹喜は読み終えると、竹簡を折った。ぱきり、と音がした。
 田嬰が目を見開く。
「何をしているんです」
「退く」
「君命です」
「知っている」
「知っていて折ったんですか」
「ああ」
「尹殿」
 田嬰の声が低くなる。
「これは笑えません」
「笑っていない」
「君上は陣地死守と」
「君上はここにいない」
 尹喜は言った。
「川を見ていない。泥も踏んでいない。敵の橋も見ていない」
「それでも君命です」
「ここで守れば負ける」
「退けば命令違反です」
「負けるよりいい」
 田嬰は何も言わなかった。怒っているわけではない。困っている。尹喜は分かっていた。
「全軍を2里(り)退かせる」
「敵が追ってきます」
「追わせる」
 田嬰が川を見た。次に橋を見る。
「……橋ですか」
「まだ落とさない」
「いつ」
「敵が渡ってから」
「どれくらい」
「補給隊が半分」
 尹喜はしゃがみ込んだ。泥の上に指で線を引く。川、橋、丘、街道。指先で位置を結ぶと、泥の上に簡単な戦場図ができた。
「本隊をここまで下げる」
「はい」
「旗を乱せ」
「敗走に見せる?」
「そうだ」
「荷車は」
「空のものを2台捨てろ。穀物袋も少し置いていけ」
「もったいない」
「敵にそう思わせるためだ」
 田嬰が息を吐いた。
「囮(おとり)は」
 尹喜の指が止まる。
「120」
 田嬰が顔を上げた。
「120人?」
「ああ」
「多すぎます」
「少なければ食いつかない」
「戻れますか」
 尹喜は泥の地図を見た。
「戻れる道は作る」
「全員?」
 尹喜は答えなかった。雨が、地図の線を少しずつ消した。
     *
 囮部隊を率いる韓余(かんよ)は、命令を聞いてからしばらく黙っていた。
「120ですか」
「ああ」
「敵は1,000以上来ますよ」
「分かっている」
「何刻持たせます」
「合図を3度出す。それまでは退くな」
「3度目で?」
「西の谷へ下がれ。そこから本隊へ戻れる」
 韓余が笑った。
「戻れれば、ですね」
「戻れ」
「簡単に言いますね」
「難しく言っても変わらない」
 韓余は雨を拭った。韓余は30代半ばで、妻と2人の息子がいる。上の子が去年から畑仕事を手伝っていることまで、尹喜は知っていた。
「校尉」
「何だ」
「前にもやったことがあるんでしょう」
「何を」
「囮です」
 尹喜の右親指が、左人差し指の節をなぞった。
「ある」
「何人」
「300」
「戻ったのは」
「17」
 韓余が嫌そうな顔をした。
「聞かなきゃよかった」
「聞いたのはお前だ」
「そうですね」
 韓余は自分の兵の方へ戻りかけた。数歩で止まる。
「校尉」
「何だ」
「もし戻れなかったら」
 尹喜は待った。
「俺たちの名前だけは、覚えておいてください」
「全員覚えている」
 韓余は一瞬、驚いた顔をした。それから笑った。
「なら、いいです」
     *
 洹軍は退いた。最初は整然と退き、敵の物見からよく見えるところまで下がってから、わざと隊列を乱した。荷車を倒し、袋を落とし、旗を傾け、兵士には走らせる。
「本当に逃げてるみたいだぞ!」
 誰かが叫ぶ。
「黙って走れ!」
「敵が来る!」
「分かってる!」
 尹喜は止めなかった。もっとも、すべてが演技というわけではない。追ってくる敵の姿を見れば、兵たちは本当に怖い。その恐怖まで含めて、尹喜の狙いどおりだった。敵が動いた。まず物見が出て、次に歩兵が続き、韓余の隊へ攻めかかる。韓余たちは丘を一つ下がって止まり、矢を放つと、また次の斜面へ下がった。敵から見れば、敗走する本隊を守るため、必死で時間を稼いでいるようにしか見えない。
「食いつきました」
 田嬰が言った。
「まだ浅い」
「十分です」
「敵将は慎重だ」
「だから?」
「補給が動くまで待つ」
 敵の先頭が丘を越えた。まだ。さらに来る。まだ。
 田嬰が何度も後ろを見る。
「韓余隊が持ちません」
「分かっている」
「合図を」
「まだだ」
「尹殿」
「まだだ」
 やがて、橋の向こうで荷車が動いた。追撃部隊へ補給を送るためだ。1台、2台と増え、やがて10台ほどの荷車が橋の上へ並んだ。川はさらに増えている。
 橋脚へ流木が当たる。
「今です」
「まだ」
「中央まで来ています」
「もう少し」
 田嬰が歯を食いしばった。荷車の列が橋の中央へ詰まる。尹喜が旗を上げた。角笛が鳴り、南から別の響きが返ってきた。次いで兵の声が上がる。
「公孫烈(こうそんれつ)だ!」
「烈将軍!」
 公孫烈が現れた。数乗の戦車を先頭に、選抜した歩兵を率いて敵の側面へ突っ込んでくる。その先頭に立つのは、いつものように烈自身だった。
「喜!」
 遠くから声が飛んだ。
「お前が道を決めろ! 俺が開ける!」
 尹喜は旗を振った。
「行け!」
「おう!」
 烈が笑った。戦車隊と歩兵が敵の横腹へ食い込み、敵の隊列がそちらへ向きを変える。その瞬間、上流側で待機していた兵が橋へ動いた。兵たちは補修材を外し、杭を抜いた。増水した川はすでに橋脚の根元を削っている。そこへ荷車の重みと流木の衝撃が重なり、橋が1度、2度と大きく軋んだ。中央部が沈み、馬が落ち、荷車がひっくり返った。濁流へ兵が流され、敵の前衛と後衛が物理的に断ち切られる。
「反転!」
 尹喜が叫んだ。さっきまで逃げていた洹軍が振り向き、槍を揃えた。そこで敵はようやく気づいた。自分たちは追っていたのではない。追わされていたのだ。
     *
 戦は、そこで決まった。烈が敵陣へ穴を開け、尹喜がそこへ兵を流し込む。
「右、300!」
「はい!」
「弓兵は丘へ!」
「はい!」
「追いすぎるな!」
 烈が戻ってきた。顔に泥と血がついている。
「喜!」
「何だ」
「追うぞ!」
「駄目だ」
「何で!」
「橋がない」
「敵もない!」
「こっちも戻れなくなる」
「今なら全滅させられる!」
「必要ない」
「勝てるぞ!」
「もう勝った」
 烈が不満そうな顔をする。
「お前、勝った後が一番つまらんな」
「お前が追いすぎるだけだ」
「敵は逃げてるんだぞ」
「逃げる敵を追って兵を失う必要はない」
「分かったよ」
 烈は笑った。
「でも俺なら追う」
「だから止めている」
     *
 夕方、死者が並べられた。尹喜は一人ずつ顔を見て、名を確認し、所属と傷を確かめていった。戻った韓余隊は31人。そのうち、自分の足で歩けるのは19人だった。
「韓余は」
 田嬰が黙った。尹喜はそれだけで分かった。
「どこだ」
 案内された。韓余は仰向けに寝かされ、目を閉じていた。いつの間にか雨は止んでいた。尹喜はしばらくそこに立った。尹喜は名簿を取り出し、韓余の名に線を引いた。その下へ、戻らなかった者たちの名を一つずつ書き足していく。
 田嬰が横で見ていた。
「尹殿」
「何だ」
「5,000人は助かりました」
「分かっている」
「120人の犠牲で」
「分かっている」
「なら」
「何だ」
 田嬰は言葉を止めた。尹喜は名簿を閉じる。
「合理的だったと言いたいのか」
「……はい」
「そうだ」
 田嬰が少し安心した顔をする。
「だから」
 尹喜は続けた。
「名前を覚えなくていい理由にはならない」
     *
 国都からの使者が来たのは、その夜だった。祝辞ではなかった。
「中軍校尉、尹喜」
「はい」
「君命です」
 使者は竹簡を差し出した。尹喜は開く。直ちに国都へ帰還せよ。それだけ。
 烈が横から覗く。
「褒美の話は?」
「ない」
「昇進は?」
「ない」
「何だそれ」
 尹喜は竹簡を閉じた。
「帰れということだ」
「分かってる。そうじゃなくて」
 烈が使者を見る。
「俺たち勝ったんだけど」
 使者は何も言わない。尹喜は国都の方角を見た。雨雲の切れた夜空に、星が少し見えていた。嫌な命令ほど短い。
 そう思った。

第二章 君上の怒り

 凱旋(がいせん)ではなかった。尹喜たちが国都へ入ったのは、正門ではなく裏門だった。
「勝った将が裏門ですか」
 田嬰が言った。
「静かでいい」
「そういう問題ですか」
 だが、知らせは広がっていた。城内へ入ると、道の左右に人が立っている。兵。商人。
 子供。花を投げる者もいた。
「尹将軍!」
 声が飛ぶ。尹喜が止まる。
「私は将軍ではない」
 田嬰が横で笑う。
「もう何度言っても無駄です」
「兵に任命権はない」
「民にもありません」
「ならやめさせろ」
「どうやって」
 また声。
「尹将軍!」
 子供まで叫んでいた。尹喜は顔をしかめた。
     *
 公孫敖(こうそんごう)は、自邸で待っていた。
「遅い」
 第一声がそれだった。
「7日です」
「遅い」
「急いできました」
「じゃあもっと急げ」
 尹喜は少し笑った。
「烈と同じことを言いますね」
「俺の息子だからな」
 敖は酒を注いだ。
「飲め」
「これから宮城(きゅうじょう)です」
「だから飲め」
「酔って君上に会えと?」
「1杯くらいで酔うな」
 尹喜は杯を受け取る。敖はもう1杯注ごうとした。途中で止めた。
「いや」
「何です」
「今夜は飲むな」
 尹喜が敖を見る。
「さっき飲めと」
「気が変わった」
「何かありますか」
 敖は答えない。代わりに、唐突に言った。
「西は静かだ」
「西?」
「そうだ」
「西関(せいかん)ですか」
「まあな」
「なぜ今、その話を」
 敖は笑った。
「別に」
「あなたが別にと言うときは、大抵別にではありません」
「賢くなったな」
「前からです」
「可愛くない」
 敖は尹喜の肩を叩いた。
「喜」
「はい」
「君上の前で、正しいことを全部言うな」
「なぜ」
「全部正しい奴は嫌われる」
「間違ったことを言えと?」
「黙れって言ってる」
     *
 宮城では、洹公(かんこう)が一人で待っていた。背後に人を立たせないのは、いつものことだった。
 卓の上に、折れた竹簡が置かれていた。尹喜はすぐ分かった。自分が折った君命。
「尹喜」
「はい」
「勝ったそうだな」
「はい」
「余の命に背いて」
「はい」
「何人死んだ」
「本隊含め、確認済みで186。行方不明23」
「敵は」
「1,000を超えます」
「それで勝ちか」
「軍事的には」
 洹公が竹簡を見る。
「余は死守を命じた」
「はい」
「なぜ退いた」
「守れば負けたからです」
「余が間違ったと?」
「現地の状況と合っていませんでした」
「同じことだ」
 尹喜は黙った。
「余は国君だ」
「はい」
「お前は校尉だ」
「はい」
「ならば、なぜ自分の判断を余の上に置いた」
「君上が現場にいなかったからです」
 洹公の目が動いた。
「……もう一度言え」
「君上は現場にいませんでした」
「だから自分で決めた?」
「はい」
「では」
 洹公は少し身を乗り出した。
「お前は、自分を国君としたのではないか」
 尹喜は答えなかった。
「兵はお前を何と呼んでいる」
「校尉です」
「嘘を言うな」
「正式には」
「民は」
 尹喜は黙る。
「尹将軍、と呼んでいるそうだな」
「私が命じたことではありません」
「知っている」
 洹公は即答した。
「だから怖いのだ」
 尹喜の眉がわずかに動く。
「何がです」
「お前がだ」
「私に反意はありません」
「そうだろうな」
「なら」
「お前が国都へ兵を向けたら、何人従う」
 尹喜は考えた。考えてから、気づいた。洹公が見ている。
「今」
 洹公が言った。
「数えたな」
 尹喜は何も言えなかった。
「それだ」
 洹公の声は静かだった。
「お前は反乱したくない」
「はい」
「だが、できる」
「……」
「反乱する意志がないことと、反乱できないことは別だ」
「私は」
「尹喜」
 洹公は遮った。
「お前は勝った」
 一度、間を置く。
「だから危険なのだ」
     *
 死刑。言葉そのものは、驚くほど簡単だった。尹喜は聞き返さなかった。
「弁明は」
「ありません」
「命乞いも」
「しません」
 洹公は尹喜を見た。一瞬だけ、目を逸らした。
「下がれ」
「はい」
 尹喜は礼をして出た。
     *
「死刑?」
 公孫烈が怒鳴った。
「声が大きい」
「死刑だぞ!」
「聞こえている」
「父上は!」
「今、宮城です」
「止めるだろ」
「たぶん」
「たぶんじゃ困る!」
 烈は立ったり座ったりしている。
「俺が君上に会う」
「やめろ」
「何で」
「余計悪くなる」
「でも」
「烈」
 尹喜が言った。
「私のことで兵を動かすな」
 烈が止まる。
「動かさねえよ」
「本当に?」
「……今は」
「それが危険だと言われた」
「君上が?」
「ああ」
「正しいじゃん」
「お前は黙れ」
     *
 公孫敖が洹公と話したのは、その日の夜だった。
「殺せば英雄になります」
 敖は言った。
「すでに英雄だ」
「だからです」
「ではどうする」
「西へ送る」
 洹公が目を細くした。
「西?」
「西関です」
「なぜ」
「遠い。国都から離れる。兵も少ない」
「忘れられると?」
「殺せば英雄。西へ送れば忘れられる」
 洹公は黙る。
「敖」
「はい」
「お前は尹喜を庇っているのか」
「使えるからです」
「それだけか」
「半分くらいは」
「残りは」
「可愛いから」
 洹公が鼻で笑った。
「お前は人を可愛がりすぎる」
「君上は疑いすぎます」
 空気が変わった。洹公が敖を見る。
「敖」
「はい」
「お前まで私を疑うのか」
 公孫敖は、すぐには答えなかった。窓の外では庭園の若木が風に揺れている。若い頃、2人で植えた木だった。
「疑っていません」
「なら」
「心配しているだけです」
「同じだ」
「違います」
 敖は笑った。
「西は国の喉です」
「何の話だ」
「尹喜を置くなら、無駄にはなりません」
 洹公はしばらく敖を見た。
「好きにしろ」
     *
 翌朝、尹喜の処分は死刑から左遷へ変わった。行き先は西関。国都から遠く離れた辺境だった。
「助かりましたね」
 田嬰が言った。
「そうだな」
「嬉しくない?」
「嬉しい」
「顔に出ません」
「苦手だ」
 公孫敖が地図を持ってきた。
「これを持っていけ」
 大きな西方地図には、街道、村、軍倉(ぐんそう)、井戸、宿駅(しゅくえき)まで書き込まれ、西関周辺だけが妙に詳しかった。
「詳しいですね」
「昔調べた」
「何のために」
「軍人だからな」
「いつ」
「昔」
「答えになっていません」
「喜」
「はい」
「人間はな」
 敖が尹喜の肩を叩く。
「一つの理由で何かをするほど単純じゃない」
「何の話です」
「さあな」
 尹喜は地図を見た。地図の西端、国境に置かれた関。その向こうにも、細い道はさらに続いていた。
     *
 国都を出る日。烈が見送りに来た。
「すぐ戻ってこい」
「無理だ」
「何で」
「左遷だからだ」
「じゃあ俺が君上に言う」
「やめろ」
「父上に」
「もっとやめろ」
「何だよ」
「お前はここにいろ」
「喜」
 烈が真面目な顔をする。
「死ぬなよ」
「お前に言われたくない」
「俺は死なない」
「皆そう言う」
「爺さんみたいな言い方すんな」
「誰だ、それは」
「知らん」
 2人は笑った。公孫敖は少し離れたところにいた。何も言わない。
「公孫殿」
「何だ」
「行ってきます」
「ああ」
「それだけ?」
「西は静かだ」
 また同じ言葉だった。尹喜は不思議に思ったが、その意味を知るのは、もう少し先になる。

第三章 西関

 国都から西関まで、7日かかった。平地を抜け、河を渡り、丘陵を越えて山へ入るにつれて道は細くなり、代わりに商隊の姿が増えていった。馬、塩、布、薬草、銅。西へ運ばれる物と東へ運ばれる物が行き交い、その間を旅人、商人、兵、難民までが絶えず行き来している。
「ここが西関です」
 田嬰が言った。目の前には古びた大きな木の門が立ち、土塁(どるい)と石垣、その上の見張り台が街道を見下ろしていた。門の手前には市場、宿、鍛冶場(かじば)、馬屋が集まり、国境の軍事拠点というより小さな町に近い。
「思っていたより人が多いな」
「国の喉ですから」
 尹喜が田嬰を見る。
「誰から聞いた」
「公孫大将軍です」
 尹喜は何も言わなかった。
     *
 石庚(せきこう)は、腹の出た男だった。45歳。西関の現地隊長。尹喜を見るなり言った。
「若いな」
「30です」
「若い」
「石庚殿は」
「45」
「15しか違いません」
「15は大きいぞ」
 石庚は笑った。
「国都から来た将軍様か」
「将軍ではありません」
「じゃあ何だ」
「左遷された校尉です」
「正直だな」
「嘘をつく理由がない」
「ここでは、その考え方だと苦労するぞ」
 尹喜は眉を寄せた。
「どういう意味です」
「そのうち分かる」
     *
 3日で一つ分かった。帳簿が合わない。
「これは何です」
 尹喜が聞いた。石庚が覗く。
「どれ」
「塩の通行量」
「ああ」
「市場で売られている量の方が多い」
「そうだな」
「そうだな、ではありません」
「何が」
「許可証のある量と合っていない」
「じゃあ、許可証のない塩があるんだろ」
「密輸ですね」
「そうとも言う」
「取り締まっていない?」
「少しは」
「全部では?」
「全部取り締まったら、この辺の村は冬を越せんぞ」
 尹喜は石庚を見る。
「法は」
「知ってる」
「なら」
「ここじゃ法より冬の方が人を殺す」
 石庚は平然としていた。尹喜は帳簿を閉じる。
「明日から検査を増やします」
「好きにしろ」
「止めない?」
「お前が責任者だ」
「反対なのでは」
「やってみろ」
 石庚は笑った。
「国都の正しさが、どこまで西へ来られるか見てみたい」
     *
 検査を増やした。塩の密輸を止めた。許可証のない荷を没収した。賄賂(わいろ)を取っていた役人を外した。
 帳簿が合うようになった。3日後には市場の塩が減り、5日後には値段が上がった。そして7日目、村人が関所へ押しかけてきた。
「塩を戻してくれ」
 老婆だった。
「没収した塩は違法なものです」
「違法でも塩だ」
「許可を取れば買えます」
「その値段で買えると思うか」
「正式な価格です」
 老婆が笑った。
「法を煮て食えってのか」
 周囲の村人も笑った。尹喜は笑わない。
「塩は食べ物ではありません」
「そういう意味じゃない」
 石庚が横から言う。
「分かっています」
「分かってない顔だぞ」
 老婆が言った。
「正しい値段じゃ冬は越せん」
「密輸を認めろと?」
「知らん。塩を買えるようにしろ」
 尹喜は黙った。要求は矛盾しているように見えた。密輸を認めるわけにはいかない。だが高い塩では冬を越せない。正規の商人は税を払い、密輸商人は払わない。すべてを規則どおりに正せば、その分だけ価格は上がる。村人には、その正しさを食べることはできない。
     *
「どうします」
 夜、田嬰が尋ねた。
「検査を変える」
「緩める?」
「全部ではない」
 尹喜は帳簿を広げる。
「塩、薬、少量の食糧は量を決めて通す」
「違法ですよ」
「ああ」
「国都で同じことしたら処罰されます」
「ここは国都ではない」
 田嬰が少し笑った。
「君上が現場にいない、と?」
 尹喜が見る。
「その言い方はやめろ」
「はい」
「武器、銅、大量の馬は止める」
「塩は」
「生活量なら通す」
「どこまでが生活量です」
 尹喜が止まった。
「明日決める」
 翌朝、石庚に話した。
「へえ」
「何です」
「少し西関の顔になったな」
「褒めていますか」
「半分」
「残りは」
「まだ面倒くさい」
 尹喜は石庚を見る。
「石庚殿なら、どこまで見逃します」
「知らん」
「知らない?」
「毎日決める」
「基準が必要です」
「あるぞ」
「何です」
「今日、人が死ぬかどうか」
 尹喜は黙った。
     *
 少年が粟を盗んだ。13歳、名は杜生(とせい)。市場の穀物袋から粟を2升(しょう)盗み、その場で捕まった。
「理由は」
 尹喜が聞いた。
「腹が減った」
「お前が?」
「妹」
「何人」
「2人」
「親は」
「父はいない。母は病気」
 尹喜は役人を見る。
「確認したか」
「はい。事実です」
 少年は尹喜を睨んでいた。
「軍律ではないですが、関所法なら鞭(むち)20回です」
 役人が言う。
「20」
 尹喜が繰り返す。
「はい」
 19歳の頃、尹喜は食糧を盗んだ兵を処刑したことがある。病気の母に食わせるための盗みだったが、処刑後に盗難は減り、軍の規律は守られた。正しい判断だった。少なくとも、ずっとそう思っていた。
「10」
 尹喜が言った。役人が聞き返す。
「何と?」
「鞭10回」
「半分?」
「その後、関所で働かせる。盗んだ2升分を返すまで」
 少年が顔を上げる。
「妹は」
「粟を出す」
 少年が目を見開いた。石庚が横から笑った。
「随分中途半端だな」
「何がです」
「罰するのか、助けるのか」
「両方です」
「何で10だ」
「20は重い」
「じゃあ9では」
「……」
「11は」
「石庚殿」
「5でもいい」
「何が言いたい」
「お前、まだ数字に答えがあると思ってるな」
 尹喜は少年を見る。答えなかった。
     *
 夜、尹喜は剣を研いでいた。しゃっ、しゃっ、と砥石の上を刃が滑る。眠れない夜の癖だった。そこへ田嬰が入ってくる。
「またですか」
「何が」
「剣」
「刃が鈍っている」
「昨日も研いでました」
「まだ鈍い」
「考え事ですか」
「違う」
「では何です」
 尹喜は答えない。昼の少年が頭から離れない。鞭10回。なぜ10なのか。20では重い。だが0では法そのものが揺らぐ。10という数字は正しいようでいて、何一つ証明してはいなかった。剣だけは違う。研げば刃が立つか、立たないか。それだけで答えが出る。
     *
 西関の古い木扉には無数の傷が刻まれていた。旅人の荷車や兵の装具が擦った跡、風雨が削った跡。その一つ一つに長い年月が染み込んでいる。石庚が言った。
「この門から西へ出た奴は、戻らないことが多い」
「なぜ」
「西は広いからな」
「答えになっていません」
「答えなんか知らん」
 尹喜は門の向こうを見る。細い道。山の間へ消えていく。
「ここから先は」
「洹じゃない」
「どの国です」
「いくつもある」
「管理は」
「だから関所がある」
 石庚が笑った。
「お前みたいなのを置くためにな」
     *
 国都から手紙が2通来た。1通は烈からで、ひどく短かった。
――暇だ。
――早く帰ってこい。
――父上が何かしている。
 最後の一文で尹喜の手が止まった。もう1通は公孫敖からで、こちらは対照的に形式ばっている。西関の兵数、食糧、馬、通行量を報告せよ、とある。
 封印には軍需組織の印があった。尹喜は敖から渡された西方地図を広げ、軍倉、宿駅、井戸、街道を目で追った。なぜ、これほど詳しい。
「何かありますか」
 田嬰が聞く。
「分からない」
「珍しいですね」
「何が」
「尹殿が分からないと言うの」
「分からないものは分からない」
 尹喜は地図を畳んだ。
     *
 その日の夕暮れ、一人の老人が西関へ来た。白髪に粗末な服、小さな荷だけを背負い、馬も連れずに一人で歩いてきた。門番が声をかける。
「止まれ」
 老人が止まる。
「出国証は」
 老人は答えた。
「ない」
 石庚が遠くから見ていた。尹喜もその隣で足を止める。日が沈みかけていた。西の道は、老人の背後ではなく、その先へ続いている。
 尹喜は立ち上がった。
 

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