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第一部 8,400円の秋


序章 立野目江

1612年 → 2026年/庄内平野・立野目地区
──(立野目江という一本の用水路の年代記)

 立野目江(たてのめえ)という水路がある。

 延長2.4キロ。幅は広いところで2メートル、狭いところで80センチ。深さは1メートルに満たない。庄内平野の北のはずれを、南へまっすぐ流れている。

 この水路は、自然にできたものではない。

 誰かが掘った。


 庄内平野は、もともと海だった。

 正確に言えば、砂丘が海を仕切ってできた潟湖(せきこ)である。日本海から吹く風が砂を積み上げ、その内側に水が残った。そこへ最上川が土砂を運び込み、何千年もかけて埋めていった。

 埋まってできた土地は、平らだが、低い。

 低いところは水がはけない。雨が降れば水が溜まり、溜まった水がなかなか引かない。葦(あし)が生え、湿地になった。

 稲を作るには、水が要る。

 その水が、多すぎた。

 多すぎる水を排き、必要なときだけ必要な量を入れる。それができるまで、この平野で米は作れなかった。


 1612年、狩川(かりかわ)城主の北楯利長(きただて としなが)が、立谷沢川(たちやざわがわ)から水を引く工事を始めた。

 月山の雪解け水が流れる川である。そこに堰を築き、平野の北側へ水路を通した。総延長は32キロに及んだ。

 この工事によって、およそ5,000ヘクタールの新田が開かれ、88の村が生まれたと伝えられている。

 立野目も、そのうちの一つだった。

 開村したとき、この地区にいたのは14戸である。

 村の名は、この一帯が野を立てて拓(ひら)いた土地であることに由来すると言われているが、確かなことは分からない。庄内には「興屋(こうや)」「新田」と名のつく集落が多く、いずれも江戸初期の開発で生まれている。


 水を引くというのは、堀を掘ることではない。

 傾斜を測ることである。

 水は高いところから低いところへしか流れない。だから水路は、水源から目的地まで、途切れない下り坂として設計されなければならない。ところが平野は平らである。2.4キロで、下げられる高さはわずかしかない。

 傾斜が急すぎれば水が土手を削る。緩すぎれば土砂が溜まって流れなくなる。

 当時、測量に使われたのは水盛(みずもり)という道具だった。長い樋に水を張り、その水面を基準にして高低を出す。これを何百回も繰り返して、水路の勾配を決めた。

 立野目江の勾配は、2.4キロで約2メートル。千分の一より緩い。

 この勾配を、400年前の人間が測って掘った。

 そして、この勾配のおかげで、水はいまも、電気を一切使わずに流れている。


 できあがった水路は、放っておけば埋まる。

 水は土砂を運ぶ。運ばれた土砂は、流れの緩いところに沈む。沈んだ土砂で断面が浅くなれば、同じ量を流すのに水位が上がり、上がった水位は土手を越える。

 だから、毎年、浚(さら)う。

 冬のあいだに溜まった泥を、春の通水前に掻き出す。江浚え(えざらえ)と呼ばれる作業である。

 この作業を、江戸期の立野目では14戸でやっていた。

 村の記録によれば、2日で終わっている。


 誰が何を維持するか、という線引きは、この時代にすでにできていた。

 堰と、そこから村々へ分かれるまでの太い水路は、藩が普請した。御普請(ごふしん)という。

 村のなかを流れる細い水路は、村が自分たちで直した。自普請(じぶしん)という。

 太いところは公が、細いところは地元が。

 この線引きが、戦後、土地改良法という別の名前の制度に置き換わったときも、そのまま残った。国営事業で造る幹線には国と県の予算がつき、そこから先の末端水路には予算がつかない。

 400年、変わっていない。

 変わらなかったのは、うまくできていたからである。

 太い水路は大勢が使うので、公が持つのが理にかなっている。細い水路は使う人が限られるので、その人たちが自分で見るのが早い。

 この仕組みが成り立つ条件が、一つだけあった。

 細い水路を使う人が、十分な人数いることである。


 水は、争いの種でもあった。

 立野目江は上流から下流へ一本しかない。全員の田に同時に水を入れることはできない。田植えの時期には、順番を決める。番水(ばんすい)という。

 順番は上から下へ決まる。上流が先に取り、下流が待つ。

 これは公平ではない。上流のほうが有利である。

 それでも、この決め方が400年続いたのは、順番を守らせる仕組みがあったからだった。水番(みずばん)を置き、堰板の上げ下げを記録し、破った者を村で咎(とが)める。

 庄内町に残る史料には、水をめぐる争いの記録が何度か出てくる。夜のうちに堰板が抜かれた。番水の時刻を過ぎても水を止めなかった。上流の村と下流の村で訴えになった。

 揉めたということは、みんなが水を欲しがっていたということである。


 明治になって、制度が変わった。

 1899年に耕地整理法ができ、水路の付け替えと農地の区画整理が制度として位置づけられた。水利組合が法人として扱われるようになり、賦課金という形で維持費を集める仕組みが整った。

 このころ、立野目の戸数は30戸ほどになっている。

 江浚えの人数も、それに応じて増えた。


 昭和23年、北楯頭首工が改築された。

 翌24年、土地改良法が公布される。全国の水利組合は土地改良区に再編され、いまの形になった。

 昭和40年前後、国営事業によって最上川からの取水口と幹線水路が整備された。庄内平野の水路網が、ほぼ現在の形に完成する。

 このとき、立野目江も改修されている。素掘りの土水路の一部が、コンクリートになった。

 昭和45年から、圃場整備が始まった。

 曲がりくねった小さな田を、四角く区切り直す事業である。庄内では30アール区画が標準になった。機械が入りやすくなり、作業時間は大幅に短くなった。

 このとき、立野目では、下流の低いところが真っ先に整備された。

 低いところは、もともと水はけが悪くて作りにくかった。作りにくいところほど、整備すれば効果が大きい。技術的にも財政的にも、理にかなった順序だった。

 上流は、後回しになった。

 地形が入り組んでいて、大きな区画にできなかったからである。整備の予定はあったが、順番が回ってくる前に、事業が終わった。

 結果として、この地区にはねじれが残った。

 いちばん良い田が、いちばん水の遠いところにできた。


 昭和46年、生産調整が本格的に始まった。

 作る量を減らすための制度である。それまで、この国の農政は米を増やすために動いていた。400年、水路を掘り、湿地を干し、区画を整え、機械を入れてきたのは、米を多く作るためだった。

 その方向が、逆になった。

 立野目でも、田の一部が転作になった。大豆や麦が入り、やがて戻り、また転作になった。

 水路の受益面積は、このころから、少しずつ減りはじめた。


 昭和40年代の水利台帳に、立野目江の受益者が31戸、記載されている。

 これが、記録に残るかぎりでいちばん多い数字である。

 平成に入って、戸数は減りはじめた。

 理由は一つではない。息子が勤めに出た。機械を買い替える金がなかった。体を悪くした。相続で分かれた。田を人に貸した。

 貸した先は、たいてい、同じ集落の少し大きい家だった。

 田は減らない。作る人が減る。

 平成の終わりごろ、この集落の農家が集まって、農事組合法人をつくった。何軒かの田をまとめて、一つの経営で作る。機械を共同で持ち、作業を分担する。効率は、たしかに上がった。

 法人はやがて株式会社に近い形になり、集落の外からも田を預かるようになった。

 令和のはじめには、100ヘクタールを超えていた。


 令和8年の水利台帳には、立野目江の受益者が、10戸と1法人と記載されている。

 31戸が、11になった。

 受益面積は、59ヘクタールで、ほとんど変わっていない。

 水路の長さも、2.4キロで、変わっていない。


 立野目江には、400年、水が流れてきた。

 いや、正確ではない。

 流れていたのではない。

 毎年、春が来る前に、誰かが泥を上げていた。上げなければ流れなかった。上げた人がいたから、流れているように見えていただけである。

 その作業に、対価が支払われたことは一度もない。

 村の帳面には、金額ではなく、名前が書かれてきた。

 来た人に丸を、来なかった人にバツを。

 これから語るのは、その名前が減っていく4年間の話である。

 数えるのは、面積ではない。

 人数である。


第一章 八四〇〇

2026年9月20日/山形県東田川郡庄内町・立野目地区
佐久間稔(農事組合法人立野目ファーム代表・48歳)/土田涼太(同 社員・入社3年目・23歳)/佐久間弘美(同 経理・稔の妻)/五十嵐源治(立野目の農家・76歳)

 9月20日の朝、佐久間稔(さくま みのる)は圃場(ほじょう)の端に立って、籾(もみ)を一粒、親指の腹で潰していた。

 白い粉が指紋の溝に入り込む。硬い。水分は落ちている。夜のうちに霧が出たから午前中は無理かと思ったが、風が抜けていた。庄内平野の秋は、風の日と霧の日が交互に来る。刈れる日は多くない。

 「今日、行けますか?」

 背中から声がした。土田涼太(つちだ りょうた)だった。まだ作業着の襟が立ったままで、ヘルメットを腕に抱えている。入社して3年目になるのに、この男は毎朝、行けるかどうかを訊く。

 「行ける」

 佐久間は指の粉を払った。

 「9時から西の37番。終わったら22番に回る。フレコン、足りるか?」

 「昨日、200枚入れました」

 「足りん。もう200、頼め」

 土田が走っていく。若い者の走り方だ、と佐久間は思った。自分にもあった。20年前、五町歩(ごちょうぶ)の親の田を継いだころは、圃場のあいだをいちいち走っていた。今は歩く。歩いても間に合うだけの人数と機械が、この法人にはある。

 農事組合法人・立野目(たてのめ)ファーム。作付面積180ヘクタール。うち主食用米が150ヘクタール。従業員6名、役員2名。庄内でも指折りの規模で、年に何度か県外から視察が来る。

 視察者はたいてい同じことを訊く。何ヘクタールまでなら一人で見られますか。どうやってここまで集めましたか。

 佐久間はそのたび、同じように答えてきた。集めたんじゃない、預かったんです、と。

 それは謙遜ではなかった。160ヘクタールが借地だった。この土地の持ち主は、ほとんどが立野目とその周りに住む人たちで、その大半が70を過ぎている。誰かに任せなければ荒れる、と考えて、佐久間に預けた。預けるほうにも、預かるほうにも、選択肢が多くあったわけではない。

 8条刈りのコンバインが2台、朝露の残る道を出ていった。1日で3ヘクタール半。それを10日から12日、天気を睨みながら続ける。刈った籾はそのまま自社の乾燥調製施設(かんそうちょうせいしせつ)に入り、水分15パーセントまで落とされて、玄米になる。

 その施設を、去年、建て替えた。


 2億4,000万円だった。

 補助が6,000万円ついて、借入が1億4,400万円、残り3,600万円が自己資金。返済は10年。銀行の担当者は「今の収支なら十分に回ります」と言い、佐久間もそう思った。

 思ったのには理由がある。令和6年産と令和7年産の2年間、米の値段が高かったからだ。

 高いというのは、慣れた者にとっては奇妙な言葉だった。長いあいだ、米の値段は下がるものだった。それが2年だけ、上がった。令和7年産の概算金は、玄米30キロの袋一つあたり14,000円。その前の年が11,500円。さらにその前、令和5年産は6,750円だったから、2年で2倍を超えた計算になる。

 法人の決算は、その2年で見違えた。従業員に賞与を出した。地主に払う地代を、10アールあたり15,000円から22,000円に上げた。上げなければ、他所(よそ)に持っていかれる空気があった。実際、この2年で近隣の借地料はどこも上がっていた。

 そして施設を建てた。古い乾燥機は容量が足りず、刈り取りの終盤にはいつも順番待ちが出ていた。待っているあいだに籾が傷む。胴割れ(どうわれ)が出る。等級が落ちる。だから建てた。

 どの判断も、あのときは正しかった。

 佐久間は今でもそう思っている。


 昼前、事務所に戻ったとき、机の上に1枚、印刷された紙が置いてあった。

 妻の弘美(ひろみ)が経理を見ている。彼女は何も言わずに台所へ行き、湯を沸かしはじめた。何も言わないというのが、この家では合図だった。

 佐久間は紙を取り上げた。

 全農県本部が示した、令和8年産の概算金の内示だった。銘柄ごとに数字が並んでいる。

 はえぬき、8,400円。

 目が、その4桁から動かなかった。

 三度読んで、それから電卓を引き寄せた。引き寄せてから、要らないな、と思った。暗算でできる数字だった。

 去年が14,000円。今年が8,400円。差は、ちょうど5,600円。

 うちの出荷袋数は、およそ27,000袋。

 27,000に5,600を掛けると、1億5,120万円になる。

 佐久間は電卓を押さなかった。押しても同じ数字が出るのが分かっていたし、出た数字を見たくもなかった。

 台所で、やかんが鳴りはじめた。

 「聞いたよ」と弘美が言った。「昼のニュースでも言ってた」

 「そうか」

 「全国的に、って」

 「そうだろうな」

 佐久間は紙を裏返して置いた。裏返したところで数字が消えるわけではないのに、そうしてしまう自分がおかしかった。


 概算金というのは、正式な売値ではない。

 農協に米を出したとき、その場で受け取る前払い金のことだ。仮渡金(かりわたしきん)とも言う。最終的にいくらで売れたかは、その年の米が市場でさばけてから決まるので、後日、差額が精算される。足りなければ追加払いが来るし、多すぎれば返すこともある。

 だから8,400円は最終値ではない。

 ないのだが、この20年、佐久間はこの数字を「今年の値段」として扱ってきたし、庄内の誰もがそうしてきた。精算がいくら来るかは分からない。分からないものは経営計画に入れられない。手元に入る金だけが、その年の現実だった。

 紙を裏返したまま、佐久間は圃場の見取り図を眺めた。

 今日刈る37番も、明日の22番も、種を蒔いたのは4月だ。育苗のハウスは3月から動かしていた。肥料は去年の秋に発注している。燃料も農薬も、機械の整備代も、この1年のあいだにほとんど払い終えている。従業員の給料は毎月出ていく。

 つまり、費用は先に全部出ている。

 値段だけが、後から来る。

 これが米という作物の順序だった。工場なら、材料が高くなれば作る量を減らせる。売れないと分かっていれば、ラインを止められる。田んぼは止まらない。4月に決めたことが、9月に値段をつけられる。その間の5か月、値段は誰にも分からない。

 そして今、値段が来た。

 刈らないという選択肢は、ない。刈らなければ収入はゼロだ。刈れば8,400円になる。だから刈る。刈るたびに、確定した損が積み上がっていく。

 佐久間は立ち上がった。

 「午後、22番だ」

 「お茶は?」

 「いい」


 夕方まで、誰にも言わなかった。

 言えば、コンバインのオペレーターの手元が変わる。刈り取りは天気との勝負で、集中を切らすとロスが出る。数字は逃げないが、天気は逃げる。

 それでも、5時前に土田が寄ってきた。

 「社長、今年の概算金、もう出たんですか?」

 佐久間は少し黙った。

 「誰から聞いた?」

 「JAの佐藤さんが、さっき肥料の伝票持ってきたときに。……相当、下がったって」

 「8,400円だ」

 土田の口が半分開いて、そのまま止まった。

 「……去年、いくらでしたっけ」

 「14,000円」

 「5,600円?」

 「そうだ」

 土田は指を折りかけて、やめた。

 「うちって、何袋くらい出すんですか」

 「2万7,000」

 しばらく、乾燥機の唸る音だけが二人のあいだにあった。新しい施設は静かだと業者は言っていたが、佐久間には十分にうるさく聞こえた。1億4,400万円を借りて建てた機械が、いま、8,400円の米を乾かしている。

 「……計算、合わなくないですか」

 「合わんな」

 「合わないのに、刈るんですか?」

 いい質問だ、と佐久間は思った。この男はときどき、こちらが答えを持っていない質問をする。

 「刈らんかったらゼロだ」と佐久間は言った。「刈ったら8,400だ。どっちがましだ?」

 土田は答えなかった。答えは分かっていたのだろう。


 帰り道、佐久間は遠回りをした。

 立野目江(たてのめえ)という細い水路が、集落の北側から南へ流れている。その1番上のあたりに、五十嵐源治(いがらし げんじ)の田がある。一町(いっちょう)とすこし。この地区でいちばん小さい部類で、いちばん早く水が入る田だ。

 源治は畦(あぜ)に立って、刈り終わった田を見ていた。76歳。腰は曲がっていない。

 軽トラを停めて、窓を下ろした。

 「源治さん、終わったんですか」

 「んだ。昨日でな」

 「早いですね」

 「一町だもの。早ぐねば困る」

 源治は笑って、それから田のほうへ顎をしゃくった。

 「今年ぁ、ええ米だ」

 佐久間は、思わず源治の顔を見た。

 「そうですか」

 「んだ。粒(つぶ)ぁ張ってる。夏の風がええがったからな」

 佐久間は返す言葉を探して、見つけられなかった。

 出来はいい。それは自分の田を見ていても分かっていた。今年の庄内の米は、去年よりいい。粒は張っているし、色も乗っている。刈っていて手応えがある。

 出来はいいのだ。

 値段だけが、壊れている。

 「そうですね」と佐久間は言った。「ええ米ですね」

 源治は満足そうに頷いて、また田のほうを向いた。

 軽トラを出して、しばらく走ってから、佐久間はバックミラーを見た。老人はまだ畦に立っていた。刈り終わった田を、日が暮れるまで見ているつもりらしかった。

 水路には、まだ水が少し流れていた。落水(らくすい)はとっくに済んでいるはずなのに、上のほうから細く来ている。どこかの田がまだ水を落としきっていないのだろう、と佐久間は思った。

 その程度のことだった。

 そのときは。


第二章 三十の名前

2026年9月20日/立野目・齋藤家
齋藤チカ(庄内町役場農林課 会計年度任用職員・兼業農家・52歳)/齋藤克彦(夫・酒田の工場勤務)

 齋藤チカ(さいとう ちか)が役場を出たのは、6時を少し回ったころだった。

 庄内町の農林課は、9月から10月にかけてがいちばん静かになる。用がある人はみんな田んぼにいるからだ。窓口に来るのは、稲刈りを終えた人か、まだ始めていない人か、どちらかに限られる。

 自転車を押して坂を下りると、西の空がまだ明るかった。稲を刈ったあとの田は、刈り株の列が斜めに光って見える。この時期のこの色を、チカは子どものころから知っている。父が刈った田も、同じ色をしていた。

 うちの田は、先週の土曜と日曜で終わっていた。

 2.8ヘクタール。4条刈りのコンバインで2日。父が22年前に買った機械で、今年も止まらずに動いた。刈った籾(もみ)は軽トラックに積んで、そのつど農協のライスセンターへ運ぶ。乾燥も籾摺(もみす)りも、そこでやってもらう。夫の克彦(かつひこ)が酒田の工場を1日休んで、運搬をぜんぶ引き受けた。毎年、そういう段取りになっている。

 自分の家に乾燥機はない。持っている家もあるが、うちの規模では合わない。2.8ヘクタールから出る生籾は19トンほどある。家庭用の乾燥機だと八回も10回も回さなければならず、それだけで10日近くかかる。土日で刈り終える者が、平日に10日、火の番をするわけにはいかない。

 だから、乾燥と調製の料金を払う。年に40万円ほどになる。

 高いと思ったことは、あまりない。


 家に着くと、納屋の前に30キロの紙袋が積んであった。

 ライスセンターから戻ってきた、自家用と縁故米(えんこまい)のぶんだ。出荷する米はそのまま農協に預けるから、うちに来るのは50袋だけになる。

 チカは袋の口の折り返しを一つ、指で開けた。

 白い。よく入っている。

 今年の米は、いい。


 克彦は7時過ぎに帰ってきた。作業着のまま台所の椅子に座って、テレビをつけた。ニュースが天気の話をしていた。

 「米、下がったんだってな」と克彦が言った。

 「うん」

 「工場の休憩のとき、みんな言ってたよ。8,000いくらだって」

 「8,400」

 「そんなに違うもんなんだな」

 「去年が1万4,000だから」

 克彦は箸を持ったまま、少しのあいだ黙った。それから、味噌汁を一口すすった。

 「5,600か」

 「うん」

 「うちは、いくら減るんだ?」

 チカは頭のなかで数を並べた。

 うちの反収は、10アールあたり560キロある。2.8ヘクタールで、玄米にしておよそ15トンと少し。30キロの袋にして522袋になる。そのうち30袋は縁故米に回す。20袋は自分たちで食べる。残りの472袋を農協に出す。

 472に5,600を掛ける。

 「260万ぐらい」

 「へえ」と克彦は言った。「へえ」

 それだけだった。彼はテレビのほうを向いて、天気図を見ていた。明日は晴れらしかった。


 260万円というのは、大きい額だった。

 少なくとも、齋藤の家の家計にとっては大きい。去年、米で手元に残ったのが520万円ほど。今年はそれが、半分を切る。

 それでも、齋藤の家はそれで終わる。

 克彦の給料が400万円あり、チカの役場の給料が350万円ある。世帯の収入は去年が1,270万円で、今年は1,000万円ほどになる。減るのは21パーセントほどだ。旅行を一つやめて、車の買い替えを1年延ばせば、それで足りる。

 なぜ足りるのか。チカは自分でもときどき不思議になる。

 田は父から継いだもので、全部が自分の土地だった。だから地代がない。他人の田を借りていれば、10アールあたり2万2,000円を、米が売れようが売れまいが払わなければならない。

 コンバインは父が買ったもので、支払いはもう何年も前に終わっている。帳簿の上ではとっくに価値がゼロの機械が、毎年ちゃんと動く。

 借金がない。

 だから、米の値段が下がっても、減るのは入ってくる金だけで、出ていく金は変わらない。

 その出ていく金は、年に175万円ほどだった。肥料、農薬、種苗、燃料、共済の掛金、土地改良区に納める賦課金、そして農協に払う乾燥調製の料金。それだけだ。

 役場の統計の上では、チカのような2.8ヘクタールの経営は「規模が小さく、コストが高い」ということになっている。玄米60キロを作るのにかかる費用は、1万7,000円を超える。大きな法人なら1万2,000円で済む、という数字が並んでいる。それだけを見れば、彼女の田は非効率そのものだった。

 ただしその1万7,000円のなかには、自分と克彦が働いた分の労賃と、機械の減価償却と、自分の土地に払うことになっている地代が、全部入っている。

 自分に払わない給料は、出ていかない。

 値打ちがゼロになった機械の償却も、出ていかない。

 自分の土地に払う地代も、出ていかない。

 実際に通帳から出ていくのは、60キロあたりにすると6,700円ほどだった。その米が、1万6,800円で売れる。

 チカはそのことを、人に説明したことがない。説明すると、言い訳のように聞こえるからだった。


 もう一つ、統計に出てこないことがある。

 うちの反収は560キロで、立野目ファームは540キロだ。あそこは1枚が1ヘクタールもある大区画で、機械も新しい。それでも、反収はうちのほうが上だった。

 理由は分かっている。田が小さいからだ。

 小さい田は、水の入りも抜けも早い。1枚ずつ見て回れる。水口(みなくち)を少し絞る、板を1枚足す、朝と夕方で高さを変える——そういうことを、チカは6月から8月まで毎日やっている。

 毎日、というのは言葉のあやではなかった。

 役場に出る前、6時半に長靴を履いて田を回る。帰ってきて、暗くなる前にもう一度回る。中干し(なかぼし)の時期と、穂が出るころは、特に外せない。

 稲作の1年は、時間にすればおよそ700時間になる。そのうち春の耕起と田植えが220時間、秋の刈り取りが110時間で、この二つは土日に有給を足せば片づく。

 残りの250時間が、夏だ。

 水管理と、畦(あぜ)の草刈りと、防除。これは土日にまとめられない。まとめようとすると稲が待ってくれない。

 だからチカは、兼業農家が面積を増やせない理由を知っている。刈り取りではない。刈るだけなら、あと2ヘクタールくらいはどうにでもなる。

 増やせないのは、毎日、水を見に行けなくなるからだった。


 夕食のあと、チカは玄関に新聞紙を敷いて、袋詰めを始めた。

 縁故米だ。

 毎年、新米が出るとすぐに、決まった相手に送る。精米して、10キロずつ、三つに分けて。送料はこちら持ち。値段は袋一つ、つまり玄米30キロぶんで13,000円をもらう。

 この13,000円という数字を、チカは10年以上変えていない。

 変えなかった理由は、特にない。最初に決めたのが父で、父が決めた額をそのまま引き継いだだけだ。米の値段が6,750円まで下がった年も、14,000円まで上がった年も、彼女は13,000円で送り続けた。

 去年、米が高くなったとき、送り先の一人が電話をかけてきた。

 「チカちゃん、うち、悪いんでないの? スーパーで買ったら、もっとするよ」

 「いいの、いいの」とチカは言った。「うちは、こういうものだから」

 値段を上げなかったのは、上げたら次に下げなければならないからだった。市場に出す米は、毎年どこかの誰かが決めた数字で買われていく。彼女には決められない。けれどこの30袋だけは、彼女が決めていた。

 油性ペンで、宛名を書いていく。

 仙台の直人(なおと)。姉の家。役場を辞めた前の課長。大学のときの同級生が二人。克彦の会社の同僚。父の代からの、隣の集落の遠縁。

 書きながら、チカは自分が名簿を作っているような気持ちになる。実際、台所の引き出しに古い一覧が入っていて、毎年それを見ながら書いている。上のほうには、もう消してある名前がいくつもあった。亡くなった人。施設に入った人。子どもが独立して、そんなに要らなくなった家。

 今年、その一覧から、もう一つ消えた。

 3年前まで送っていた、克彦の会社の先輩だった。夏に電話が来て、こう言われた。

 「悪いんだけど、今年からいいわ。二人になったら、そんなに食べなくてな」

 悪いことは何もなかった。米が悪いわけでも、値段が高いわけでもない。ただ、食べる量が減っただけだ。

 去年まで32袋だった。今年は30袋になった。

 2袋。60キロ。金額にすれば26,000円。

 どうということはない、とチカは思った。思ったのに、ペンを持つ手が少し止まった。

 減ったぶんは、農協に出す米に回る。回った先で、8,400円になる。


 袋を三つ並べて、チカは腰を伸ばした。

 台所の壁に、来年度の任用の通知が貼ってある。会計年度任用職員。4月から翌年3月まで。フルタイム。更新は、また来年の話になる。

 役場に14年いて、いまだに一年ごとだった。農林課の窓口に座って、交付金の説明をして、要綱の改正を追いかけている。仕事は好きだ。ただ、3月になるたび、来年もここにいるのかどうかを確かめる。

 米も、勤めも、一年ごと。

 どちらも、そういうものだと思ってきた。


 先週の日曜、水路の草刈りがあった。秋の作業で、集落の受益者が出ることになっている。

 行ってみたら、いつもより人が少なかった。数えたわけではないが、去年より二人か三人、顔がなかった。加賀谷(かがや)さん——土地改良区の技師の人が来ていて、汗を拭きながら「今年は、ちょっと薄いですね」と言っていた。

 薄い、という言い方をこの人はする。

 立野目ファームからは、若い人が一人来ていた。土田くんという、まだ20代の社員だ。刈払機の使い方が危なっかしくて、チカは途中で持ち方を教えた。

 「うちの社長、来られなくてすみません」と土田は言った。

 「いいのよ。忙しいでしょう、あそこは」

 言ってから、あまりよくない言い方だったかもしれない、と思った。

 佐久間さんの顔が浮かんだ。同じ集落で、同じ日に、同じ8,400円の通知を受け取った人。うちの260万に対して、あの人の家はいくら減るのだろう。

 1億は超えるだろう、とチカは見当をつけた。

 それから、その見当を打ち消した。人の家の勘定をするものではない。

 玄関の袋を数える。30。

 明日の朝、郵便局に持っていく。直人には、電話をしておいたほうがいいかもしれない。あの子はもう2年も帰ってきていない。

 外はもう暗くなっていた。乾いた風が来ていて、明日も晴れそうだった。刈り遅れている田が、まだいくらか残っている。


第三章 五千円の内訳

2026年10月上旬/立野目江〜最上川土地改良区事務所
加賀谷忠(最上川土地改良区 技師・44歳)/五十嵐源治

【図1 立野目地区 水系図】



 10月の初め、加賀谷忠(かがや ただし)は軽自動車を路肩に停めて、野帳(やちょう)を持って降りた。

 水は落ちていた。8月の終わりから9月にかけて田から抜かれ、先週、幹線の水門が閉められている。これから春までのあいだ、この平野の水路はほとんど空になる。空になった水路を歩くのが、加賀谷の秋の仕事だった。

 最上川土地改良区の技師である。44歳。庄内町の事務所に勤めて19年になる。

 立っているのは、立野目分水工(たてのめぶんすいこう)の脇だった。コンクリートの箱に、上から来た水を三方に分ける仕切りがついている。角は欠けていて、去年、補修の見積もりを取ったまま先送りにしていた。

 ここまでが、加賀谷の職場の管轄だった。


 水の来かたを、順に言うとこうなる。

 源は立谷沢川(たちやざわがわ)だ。月山(がっさん)の雪解け水が流れてくる川で、水温は年間を通して15度前後と低い。それを北楯頭首工(きただてとうしゅこう)で堰き止めて、平野へ引く。頭首工は国が造ったもので、いまは県が管理している。

 そこから幹線水路が延びる。北楯大堰(きただておおぜき)と呼ばれる水路で、開削されたのは1612年。400年以上、庄内平野の北側を潤してきた。この幹線と、そこから分かれる支線水路までを、土地改良区が維持している。

 支線の末に、分水工がある。

 そして分水工から先が、末端水路(まったんすいろ)だ。

 立野目地区の末端水路は「立野目江(たてのめえ)」という。延長2.4キロ。受益面積は59ヘクタール。ここは土地改良区の管轄ではない。地元の水利組合が、自分たちで維持することになっている。

 国が造るのは幹線までで、末端は地元が守る。

 この線引きを、加賀谷は年に何度も人に説明する。説明するたび、相手はたいてい怪訝な顔をする。同じ一本の水路なのに、途中から誰が面倒を見るのかが変わるというのが、外から見ると分かりにくいらしい。

 加賀谷にも、なぜそうなっているのかを一言で説明することはできない。戦後の土地改良法がそういう建てつけになっていて、国営事業で造った幹線には国と県の予算がつき、そこから先の毛細血管には予算がつかない。理屈としてはそれだけだ。

 だから彼は、管轄外の2.4キロを歩く。

 義務ではなかった。ただ、末端が詰まれば支線の水も溢れる。溢れれば、彼の管轄になる。


 水路を上流から下っていくと、いちばん最初に水が入るのが五十嵐源治(いがらし げんじ)の田だった。

 その源治が、いた。

 長靴で水路のなかに立って、鍬(くわ)で泥を掬(すく)っては土手に上げている。76歳。ひとりだった。

 「源治さん、もう始めてるんですか」

 源治は顔を上げて、加賀谷を認めると、鍬を止めた。

 「んだ。少しずつやっとかねば、春さ間に合わねぇもの」

 「春に、みんなでやるでしょう」

 「みんなが来ればな」

 源治は笑った。悪意のない笑い方だった。加賀谷はどう返していいか分からず、野帳を開いて、水路の断面を測るふりをした。

 「先月の草刈り、何人でした?」

 「七人だ」

 「去年は?」

 「九人。おととしは10人だ」

 源治は数字をすぐに出した。加賀谷が驚いた顔をすると、彼は上着の内ポケットを叩いてみせた。

 「帳面さ、つけでっがら」

 「ずっとですか」

 「ずっとだ」

 源治はまた泥を掬いはじめた。加賀谷は少しのあいだ見ていて、それから下流へ歩いた。


 水路は、上流から中流、下流へと下る。

 上流ブロックは4戸で、5ヘクタール。区画は小さいままだ。圃場整備のとき、この一帯は地形の関係で大区画にできなかった。

 中流ブロックは6戸で、12ヘクタール。30アール区画。齋藤チカの田はここにある。

 そして下流ブロックは42ヘクタール。1ヘクタール区画の大区画で、水はけがよく、機械が入りやすい。この地区でいちばん良い田だ。

 そこを作っているのは、農事組合法人・立野目ファーム一つだけだった。

 加賀谷はいつもこの構造を、少し不思議に思う。

 いちばん良い田が、いちばん水の遠いところにある。

 理由はある。この平野はもともと潟湖(せきこ)で、最上川の土砂が埋めた土地だ。低いところほど水はけが悪く、昔は作りにくかった。だから昭和40年代の圃場整備で、真っ先に手を入れて大区画にしたのが、その低いところだった。整備しなかった上流の小さな田が、そのまま残った。

 整備した田は良くなり、良くなった田を集めたのが佐久間だった。

 その田に水が来るのは、2.4キロの、いちばん最後だ。


 事務所に戻ったのは4時を回ってからだった。

 秋の点検が終わると、加賀谷の仕事は紙の上に移る。年明けの総代会に出す来年度の予算は、この時期から数字を集めはじめる。机には、その下書きが広げてあった。

 土地改良区の収入は、ほとんどが組合員から集める賦課金(ふかきん)だ。

 最上川土地改良区の受益面積は約3,200ヘクタール。賦課金は10アールあたり5,000円で、年に1億6,000万円ほどになる。そこから、ポンプの電気代、水門の点検、幹線水路の補修、事務所の維持費、そして職員七人の給料が出る。

 計算式は単純だった。

 必要な費用を、受益面積で割る。

 だから、面積が減れば単価が上がる。

 加賀谷は電卓を叩いた。今年、改良区全体で受益から抜けた面積は27ヘクタールだった。田をやめて宅地にした人。転作して水を使わなくなった人。相続で持ち主が分からなくなり、賦課金が徴収できなくなった土地。

 27ヘクタールぶんの賦課金は、135万円になる。

 135万円は、1億6,000万円のなかでは小さい。今年はまだ、単価を上げずに済む。

 済むが、来年もそうだとは限らなかった。


 もう一つ、机の隅に置いてある紙があった。

 立野目の水利組合が、先月の草刈りのあとに加賀谷へ持ってきたものだ。組合の会計は源治がやっている。

 出役(でやく)の記録だった。

 末端水路の維持は、金ではなく人で払う。春の江浚え(えざらえ)、夏の草刈り、秋の草刈り。年に三回、受益者が出る。出られない者は出不足金を払う。1回3,000円。

 紙を見ると、今年の秋、出不足金を払ったのは五人だった。

 そのうちの一つに、立野目ファームの名前があった。

 春も、夏も、秋も、同じ名前が並んでいた。年に三回、9,000円。

 加賀谷は責める気にはならなかった。

 立野目ファームは、受益者としては「1戸」だ。出役の割り当ても一人分になる。ところが実際に作っているのは42ヘクタールで、上流と中流を合わせた17ヘクタールの倍以上ある。

 賦課金は面積で決まる。出役は戸数で決まる。

 この二つの物差しが違っていることに、これまで誰も文句を言わなかった。金を多く払っているほうが人を出さないのだから、釣り合っている——という理屈が、なんとなく通ってきた。

 通ってきたのは、人が足りていたからだ。


 5時を過ぎて、窓の外が赤くなった。

 加賀谷は、立野目江の台帳を出した。

 受益者の一覧である。上流に4戸、中流に6戸、下流に法人が一つ。合わせて10戸と1法人。出役の割り当ては、11。

 台帳は古い。いちばん上の頁は昭和40年代のもので、そこには31戸の名前が並んでいた。

 31が、11になっている。

 加賀谷はボールペンを持って、余白に数字を書いた。

 2.4キロの水路を、春に浚(さら)うのに必要な人数。土手の長さと、泥の量と、一人が1日でやれる範囲から出る数字だ。何年か前に、一度だけ計算したことがある。

 八人。

 先月の草刈りに来たのは、七人だった。

 春はもう少し集まる。江浚えは水を入れる前の作業だから、来なければ自分の田に水が入らない。だから春はまだ、なんとかなる。

 なんとかなる、と加賀谷は書きかけて、書かなかった。

 代わりに、その紙を二つに折って、引き出しに入れた。

 入れてから、来年度の賦課金の単価を、もう一度だけ確かめた。10アールあたり5,000円。据え置き。総代会には、そう出す。

 窓の外の赤が、みるみる薄くなっていく。10月の庄内は、日が落ちはじめると早い。

 明日は上流の水門の点検だった。あの分水工の角も、そろそろ直さないといけない。見積もりは、たしか38万円だったはずだ。


第四章 四つの判子

2026年10月/農協 調製施設・農産物検査場
本間弓(農産物検査員・31歳)/土田涼太/本間サキ(弓の母・地権者・74歳)

 検査場の朝は、暗いうちから始まる。

 本間弓(ほんま ゆみ)は7時前に農協の調製施設に入り、蛍光灯をつけ、作業台の上を布巾で拭いた。この台の上に米を広げるので、埃(ほこり)が一粒でもあると数え間違える。

 31歳。農産物検査員である。

 農協は登録検査機関になっていて、そこに勤める職員のうち、資格を持った者が検査をする。庄内のこの支店では四人。弓はいちばん若く、いちばん新しい。

 7時半に、最初のフォークリフトが入ってきた。


 検査の手順は、毎回まったく同じだ。

 まず、荷からサンプルを抜く。紙袋なら刺(さし)と呼ばれる細い金属の管を斜めに突き入れる。フレコンバッグ——1トン入る大きな袋には、専用のサンプラーを使う。同じ荷でも上と下で違うことがあるので、何か所かから抜く。

 抜いた玄米を、まず水分計にかける。

 15.0パーセント以下。これが一等の条件の一つだった。乾かしすぎると割れるし、乾かし足りないと保管中に傷む。今日の荷は14.6。問題ない。

 次に、ガラス板の上に玄米を広げる。

 弓はピンセットを持って、粒を分けていく。

 整粒(せいりゅう)。形が整っていて、充実している粒。

 乳白(にゅうはく)。腹の一部が白く濁った粒。

 死米(しにまい)。実の入りが悪く、薄く軽い粒。

 着色粒(ちゃくしょくりゅう)。カメムシに吸われて、褐色の点がついた粒。

 胴割れ(どうわれ)。中に横のひびが入った粒。

 一等の条件は、整粒が70パーセント以上あること。被害を受けた粒などの合計が15パーセント以内で、着色粒は0.1パーセントまで。0.1パーセントというのは、およそ1,000粒に一粒しか許されないということだ。

 二等になると整粒60パーセント以上、着色粒は0.3パーセントまで。三等は整粒45パーセント以上、着色粒0.7パーセント。

 それ以下は、規格外になる。

 機械もある。穀粒判別器という装置が台の隅に置いてあって、サンプルを入れれば整粒歩合を数字で出してくれる。弓はそれも使う。使うが、最後は自分の目で見る。

 なぜそうするのか、と入組したころに先輩に訊いたことがある。

 「機械は、粒を見る。人は、荷を見る」

 答えになっているようで、なっていなかった。ただ、9年やってみて、意味は分かるようになった。同じ整粒歩合でも、荷によって顔つきが違う。乾かし方が急だった荷は、割れてはいないが、なんとなく硬い。そういうものは数字に出ない。


 弓は顔を上げて、伝票を見た。

 判定は、一等。

 作業台の端に、判子が四つ並んでいる。

 木の柄の、古いゴム印だ。「1」「2」「3」「規格外」。この検査場に来たときからここにあって、たぶん弓が生まれる前からある。

 「1」の判子は、字の輪郭がもう丸くなっていた。何万回押されたか分からない。

 「2」は、まだ角が残っている。

 「3」と「規格外」は、朱肉が乾いていた。年に何度使うか、という頻度でしかない。

 弓は「1」を取って、朱肉に押しつけ、伝票に落とした。

 こつん、という音がする。

 この音で、いくらかの金が動く。

 等級が一つ落ちると、玄米60キロあたり1,000円下がる。30キロの袋にすれば500円だ。500円は小さく聞こえるが、1万袋出す経営なら500万円になる。

 弓が押すのは判子で、決めるのは基準で、金を払うのは農協で、作ったのは農家だ。誰も彼女を責めない。それでも、この音を聞くたび、弓は少しだけ息を止める癖がついていた。


 9時過ぎに、立野目ファームの荷が入ってきた。

 運んできたのは、若い社員だった。土田といったはずだ。

 「おはようございます。37番と、22番のぶんです」

 「ありがとうございます。少し待ってくださいね」

 弓はサンプラーを刺した。抜いた玄米を掌に受けて、指で広げる。

 いい。

 白い。粒が張っている。

 水分計は14.8。ガラス板の上でも、乳白がほとんど出ていない。今年の庄内の米は、いい年のそれだった。

 「一等です」

 土田が、少し笑った。

 「よかった」

 「今年は、どこもいいですよ」

 「そうなんですか」

 「うちの検査場、今のところ9割5分が一等です。こんな年、あんまりないです」

 土田は伝票を受け取って、それを見ていた。それから、遠慮がちに訊いた。

 「あの、すみません。一等と二等って、いくら違うんですか?」

 弓は少し驚いた。3年目の社員が、まだそれを知らないのか、と思った。思ってから、知らないほうが普通かもしれない、とも思った。会社に入って、機械を動かして、荷を運ぶ。等級は伝票の上の話で、金の計算をするのは社長だ。

 「60キロで1,000円です。袋なら500円」

 「うちだと、何袋くらい……」

 「2万7,000袋くらいでしょうか」

 土田が口のなかで数を言った。

 「1,350万」

 「一等と二等が全部入れ替わったら、そうなりますね」

 土田は伝票を折って、作業着の胸に入れた。それから、少し黙ってから言った。

 「今年、全部一等でも、去年の値段には全然届かないですよね」

 弓は答えなかった。

 答えなくても、二人とも同じ計算をしていた。

 去年の概算金は、袋一つで14,000円。二等ならそこから500円引かれて13,500円。三等ならさらに500円で13,000円になる。

 今年は、一等で8,400円だ。

 今年の一等は、去年の規格外より安い。

 等級というのは、その年に穫れた米のなかでの順位でしかなかった。順位が上がっても、その年の相場が低ければ、金額は下がる。弓は毎年その判子を押してきて、そのことを一度も口に出したことがない。

 「じゃあ、次の荷、持ってきます」と土田は言った。


 昼休みに、弓は実家に電話をした。

 母が出た。用件は、通帳のことだった。

 本間の家は農家ではない。祖父の代までは作っていたが、父の代でやめて、田は人に貸すようになった。3ヘクタール。いまは立野目ファームが借りている。

 地代は、去年から10アールあたり22,000円に上がっていた。その前は15,000円だった。

 3ヘクタールぶんで計算すると、年に66万円になる。前は45万円だったから、21万円増えた勘定だ。

 母はその増えたぶんで、去年、姉と二人で台湾に行った。

 「今年も、ちゃんと入ったよ」と母は言った。

 「うん」

 「佐久間さんは、ええ人だな。値段が下がっても、地代は下げねって言ってたって」

 弓は受話器を持ち替えた。

 地代というのは、田を借りている側が、その田で米が穫れようが穫れまいが、いくらで売れようが売れまいが、毎年払う金だ。天気にも相場にも関係がない。

 高いときに上げた地代は、安くなったからといって、すぐには下げられない。下げると言えば、地主は田を引き上げる。引き上げられたら、その面積が消える。だから下げられない。

 母は、そのことを知らない。知らないまま、佐久間はいい人だ、と言っている。

 実際、佐久間はいい人なのだろう、と弓は思った。

 いい人だから下げないのか、下げられないから下げないのか。その二つは、傍から見ると同じ形をしている。

 「弓ちゃん、今年の米、いいんだって?」

 「うん。いいよ」

 「そら、よかったな」

 「うん」

 電話を切って、弓は作業台に戻った。


 午後の荷が続いた。

 一等。一等。一等。

 「1」の判子を、この日だけで60回以上押した。

 夕方、片づけをしながら、弓は四つの判子を並べ直した。

 「1」は丸くなっている。「2」は角が残っている。「3」と「規格外」の朱肉は、今日も乾いたままだった。

 いい年だった。

 庄内の米は、この10年でいちばんいいかもしれない。粒が張って、白くて、割れていない。作った人たちは、みんなうまくやった。

 その米が、いちばん安い年に穫れた。

 弓は蛍光灯を落として、外へ出た。10月の庄内は、日が落ちるのが早い。刈り取りの終わった田の向こうに、鳥海山(ちょうかいさん)が薄く見えていた。

 来年もこの調子だといいですね、と誰かに言われた気がして、弓は返事をしなかった。


第五章 同じだけ穫れて

2027年2月14日/立野目公民館
佐久間稔/土田涼太/本間サキ/佐久間弘美

 2月14日、立野目公民館の大広間に、石油ストーブが3台入っていた。

 朝から雪だった。庄内の2月の雪は湿っていて重い。除雪車が朝のうちに一度入ったが、駐車場はもう白くなりかけている。

 佐久間稔(さくま みのる)は、9時前に来て、座布団を並べ直していた。

 農事組合法人・立野目ファームの通常総会である。午前が組合員の総会で、午後が地権者への決算報告会。合わせて、今日はこの部屋に60人近くが入ることになっていた。

 資料は昨日のうちに刷ってある。A4の紙が7枚、ホチキスで留めてある。

 その2枚めが、損益計算書だった。


 午後1時、地権者の席がほぼ埋まった。

 田を貸している人たちだ。40軒ほど。若い人はいない。いちばん多いのは70代で、80を越えた人が何人かと、亡くなった人の子どもが代わりに来ているのが数軒ある。

 佐久間は前に立って、頭を下げた。

 「本日は、足元の悪いなか、ありがとうございます」

 それから、資料の2枚めを開いてください、と言った。

 紙が一斉にめくれる音がした。


 配られた紙には、こう書いてあった。

令和8年産 損益計算書(単位:万円)

科目 令和8年産 令和7年産
米の売上 22,680 37,800
大豆・交付金 2,600 2,600
作業受託 1,500 1,500
売上高 計 26,780 41,900
肥料・農薬・種苗・燃料 8,700 8,200
人件費 4,800 4,800
地代 3,520 2,400
土地改良区賦課金 900 900
減価償却費 7,000 5,400
修繕費 1,300 1,300
支払利息 1,350 1,000
その他 1,600 1,600
費用 計 29,170 25,600
営業損益 ▲2,390 16,300

 佐久間は、数字を一つずつ読み上げた。

 読み上げているあいだ、部屋は静かだった。ストーブの上の薬缶(やかん)が鳴っていた。

 「以上のとおり、令和8年産は、2,390万円の赤字となりました」


 最初に手を挙げたのは、従業員の席からだった。

 土田涼太(つちだ りょうた)だった。組合員でも地権者でもないので、本来は質問する立場にない。それでも彼は手を挙げて、佐久間が頷くのを待ってから立った。

 「すみません。基本的なことなんですけど」

 「どうぞ」

 「去年と同じだけ作って、同じだけ穫れて、しかも米の出来は去年よりよくて、検査もほとんど一等でした。なのに、なんで赤字になるんですか?」

 地権者の何人かが、そうだそうだ、というふうに顔を上げた。

 訊きたかったのは彼らも同じだったのだろう、と佐久間は思った。ただ、彼らは訊かなかった。訊けば無知だと思われる、という感覚が、この年代の人たちにはある。

 「いい質問だ」と佐久間は言った。


 「まず、売上を見てください」

 佐久間は紙を持ち上げた。

 「去年が4億1,900万円。今年が2億6,780万円。1億5,120万円、減っています。率にすると、36パーセント」

 彼は指を紙の下のほうへ滑らせた。

 「では、費用はどうか。去年が2億5,600万円で、今年が2億9,170万円。増えています

 部屋の空気が、わずかに動いた。

 「売上が3割6分減って、費用が増えれば、赤字になります。これは算数です。問題は、なぜ売上がそれだけ減ったのに、費用が減らなかったのか、ということです」

 佐久間は白板にペンを取った。

 「費用には2種類あります。作った量に比例して増える費用と、作った量にも値段にも関係なく、毎年決まって出ていく費用です」

 彼は左に「肥料・農薬・種苗・燃料」と書いた。

 「これは、作れば出る費用です。8,700万円。田んぼの面積が変わらなければ、ほぼ変わりません」

 次に右へ、残りを並べた。

 人件費、4,800万円。

 地代、3,520万円。

 賦課金、900万円。

 減価償却費、7,000万円。

 支払利息、1,350万円。

 その他、1,600万円。

 修繕費、1,300万円。

 「合わせて、2億円ほどになります。費用全体の、およそ7割です」

 佐久間はペンを置いた。

 「この2億円は、米が8,400円でも、14,000円でも、まったく同じ額が出ていきます。米の値段が下がったからといって、1円も減りません

 彼は土田のほうを見た。

 「だから、売上が減ると、減った1億5,120万円が、そのまま利益から引かれる。去年の利益が1億6,300万円だったから、そこから1億5,120万円を引くと、1,100万円ほどしか残らない。実際には費用が3,570万円増えているので、2,390万円の赤字になった」

 「……売上は3割6分しか減ってないのに」

 「利益は、去年から1億8,690万円動いた」

 土田は座らずに立ったままだった。

 「じゃあ、規模が大きいほど――」

 「そうだ」と佐久間は言った。「大きいほど、動く」

 言ってから、少し言い過ぎたか、と思った。

 この10年、彼が地権者に説明してきたのは、その逆のことだった。まとめれば効率が上がる。機械の稼働率が上がる。10アールあたりの費用が下がる。だから任せてください、と。

 土田が、まだ立ったままだった。

 「じゃあ」と彼は言った。「大きくするのって、意味なかったんですか」

 地権者の席が、小さくどよめいた。

 部屋の後ろで、妻の弘美が湯呑みを持つ手を止めたのが見えた。

 「意味はある」と佐久間は言った。

 彼は白板の余白に、数字を二つ書いた。

 「うちは180ヘクタールを、八人で作っている。10アールあたりの労働時間は、11時間だ。庄内の平均は、20時間を超える」

 「半分ですね」

 「半分だ。同じ面積を、一町ずつの家が180軒でやっていたころとは、比べものにならない」

 佐久間はペンを置いた。

 「効率は、上がった」

 そこまで言って、彼は続きを言わなかった。

 言わなかったのは、続きが自分に不利だったからだ。


 効率は、上がった。

 上がったのに、生産費は下がっていない。

 うちの米は、いま、玄米60キロあたり1万9,000円かかっている。

 庄内の平均より、高い。

 佐久間は、その理由を三つ知っていた。

 一つめは、反収だ。うちは10アールあたり540キロしか穫れない。県の平均より20キロ少ない。1枚が1ヘクタールもある田を八人で回すと、どうしても手が薄くなる。水の見回りが1日一回になり、畦の草が伸び、水口の板をこまめに直す者がいなくなる。反収が1割低ければ、60キロあたりの費用は1割上がる。

 二つめは、地代だった。10アールあたり22,000円。統計に出ている庄内の平均の、倍を超えている。

 三つめが、去年建てた施設の償却だ。年に1,600万円、費用が増えている。

 三つのうち、二つは、この2年で自分が決めたことだった。

 高い年に、地代を上げた。高い年に、設備を更新した。

 どちらも、あのときは正しかった。

 正しかったことの合計が、いま、玄米60キロあたり4,000円になっている。

 10年かけて規模の力で下げたぶんを、2年で使い切った。

 まとめれば下がる、というのは嘘ではない。嘘ではないが、下がったぶんをどう使うかは、まとめた人間が決める。

 自分は、それを地代と設備に使った。

 使い方を間違えたとは、いまでも思っていない。

 思っていないのに、数字はこうなっている。

 効率と、丈夫さは、別のものだった。


 次に手が挙がったのは、地権者の席だった。

 本間サキ(ほんま さき)。74歳。3ヘクタールを預けている。娘が農協の検査員をしている家だ。

 「あの、佐久間さん」

 「はい」

 「難しいことは、私は分からんのだけども」

 「はい」

 「地代は、来年も同じですか?」

 部屋が、はっきりと静かになった。

 薬缶の音だけが残った。

 佐久間は、資料の5枚めをめくるように言った。そこには一行だけ、こう書いてある。

令和9年産 賃借料について 10アールあたり22,000円(据置)

 「据え置きます」と佐久間は言った。

 誰かが小さく息を吐いた。それから、まばらに拍手が起きた。拍手はすぐに広がって、部屋のあちこちで手が鳴った。

 佐久間は頭を下げた。

 下げながら、いま自分が何を確定させたのかを考えていた。

 160ヘクタールぶんの地代。10アールあたり22,000円で、3,520万円。これを来年も払う。米が8,400円だろうと、7,000円だろうと、払う。

 地代というのは、2年前まで10アールあたり15,000円だった。上げたのは去年だ。米が14,000円になり、周りの法人が借地料を上げ、上げなければ田を引き上げられる空気があった。だから上げた。2,400万円が3,520万円になった。1,120万円の増加。

 あのとき上げた1,120万円が、いま、毎年出ていく。

 下げると言えば、この部屋の何人かは田を引き上げる。引き上げられた田は、誰も作らない。作る人がいないからうちに来たのだから、戻したところで行き先はない。荒れる。荒れた田の隣は水が入りにくくなる。

 だから下げられない。

 拍手のなかで、佐久間は本間サキの顔を見た。安心した顔をしていた。悪いことは何もしていない。彼女はただ、来年も同じかどうかを訊いただけだ。


 会が終わったのは4時前だった。

 外はまだ降っていた。地権者たちが長靴を履いて、一人ずつ帰っていく。何人かが佐久間の肩を叩いて、大変だなあ、と言った。大変だなあ、というのは庄内の挨拶に近い。

 最後まで残っていた妻の弘美(ひろみ)が、湯呑みを集めながら言った。

 「言わなくてもよかったんでないの」

 「何を」

 「赤字だって」

 「言うしかないだろう」

 弘美は湯呑みを重ねて、それきり何も言わなかった。

 佐久間は資料の残りを揃えて、鞄に入れた。

 いちばん最後の7枚めは、来年度の事業計画だった。

令和9年産 作付計画 180ヘクタール(前年同)

 総会で、この一行に質問は出なかった。

 減らせ、と言う人はいなかった。当たり前だ、と佐久間は思う。減らせば、その面積ぶんの地代が消える。この部屋にいた40軒のうち、どこかの何軒かが、その分の収入を失う。

 規模を保つことが、いつのまにか、預けてくれた人たちへの義務になっていた。

 赤字であることと、規模を保つことは、両立しない。両立しないのに、どちらもやめられない。

 公民館の窓から、雪の向こうに水路が見えた。冬のあいだ、立野目江には水が入っていない。真っ白な帯が、田んぼのあいだをまっすぐ北へ延びている。

 佐久間はストーブの火を落として、電気を消した。


第六章 水を分ける順番

2027年4月8日/立野目江(江浚え)
五十嵐源治(77歳・水利組合会計)/土田涼太

 4月8日、朝の6時に、五十嵐源治(いがらし げんじ)は水路の脇に立っていた。

 雪はもう消えている。土手の枯草のあいだから、ふきのとうが伸びきって、白い綿になっていた。

 江浚え(えざらえ)の日である。

 水を入れる前に、水路の泥を上げる。冬のあいだに崩れた土手を直し、詰まったところを掻き出し、水が通る道をつくる。これをやらないと、4月の下旬に幹線の水門が開いても、水は2.4キロを流れきらない。

 源治は76になる。この作業に出るのは、52回めだった。


 6時半に、人が集まりはじめた。

 源治は長靴のまま、頭のなかで数えた。

 上流から4軒。中流から5軒。下流の立野目ファームから一人。

 合わせて10人。

 悪くない、と思った。秋の草刈りは七人だった。春はいつも多い。江浚えに出なければ、自分の田に水が入らないからだ。夏や秋の草刈りをさぼっても、その年の米はできる。春はできない。

 人が集まる理由が、義理ではなく利害だというのを、源治は昔から知っていた。知っているから、責める気にならない。

 「んだば、上から行くぞ」

 誰かが返事をして、みんなが水路に降りた。


 作業は単純だった。

 鍬(くわ)とジョレンで泥を掬い、土手に上げる。上げた泥は、あとで乾いてから均(なら)す。石が出れば拾う。草の根が張っているところは、根ごと起こす。

 半分は機械が入る。バックホウを持っている家が1軒あって、幅の広いところはそれで浚う。狭いところと、コンクリートの継ぎ目のあたりは、人の手でやるしかない。

 立野目ファームから来たのは、若い男だった。

 土田涼太(つちだ りょうた)。3年目だという。

 「社長は?」と誰かが訊いた。

 「今日、農協で会議で……すみません」

 「まあ、いいや」

 誰も文句を言わなかった。文句を言うほど、佐久間が出てこないことに慣れている。年に三回、出不足金の3,000円が組合の会計に入る。会計をやっているのは源治だから、入金は源治が記帳する。

 金は入る。人は来ない。

 それでも今年は、土田が来た。


 9時ごろ、源治は土田の手つきを見ていた。

 ジョレンの角度が浅い。泥をすくうたびに水が跳ねて、自分の長靴に入っている。

 「兄(あん)ちゃん」

 「はい」

 「そごさ立つな。流れの内側に立て」

 「内側……こっちですか」

 「んだ。外さ立つと、掻いだ泥がまた戻る」

 土田は場所を変えて、もう一度やってみた。今度は跳ねなかった。

 「あ、ほんとだ」

 「んだべ」

 源治は笑った。若い者に教えるのは、久しぶりだった。


 昼は、土手に座って弁当を食った。

 源治は上着の内ポケットから、輪ゴムで束ねたノートを出した。

 大学ノートが6冊。いちばん下の1冊は、表紙が茶色く変色して、角が丸くなっている。

 「なんですか、それ」

 土田が覗き込んだ。

 「帳面だ」

 源治はいちばん上の1冊を開いた。

 罫線の入った頁に、鉛筆で細かく書き込みがある。日付。天気。水を入れた時刻。止めた時刻。誰の田に、どれだけ入れたか。

 そして、出役の名前と、来た人に丸、来なかった人にバツ。

 「これ、全部、源治さんが?」

 「んだ」

 「いつから?」

 源治は少し考えた。

 「26の年からだ」

 土田が指を折った。

 「50年……」

 「51年だ」


 水番(みずばん)というのは、水を見て回る役のことだ。

 源治は、なぜ水番が要るのかを説明した。土田は箸を止めて聞いていた。

 水路は一本しかない。上流から下流へ、順に流れる。全員の田に同時に水を入れることはできない。ふだんは足りるが、5月の代掻き(しろかき)の時期だけは、みんなが一度に水を欲しがる。田を耕して、水を張って、土を練る。あの10日ほどは、水路の水を59ヘクタール分が同時に取り合うことになる。

 だから、順番を決める。

 どの田が何時から何時まで取るか。上から順に、時間で割っていく。これが番水(ばんすい)だ。

 「上から順って、上の人が得じゃないですか」

 土田がそう言うと、源治は頷いた。

 「んだ。上が得だ」

 「それ、揉めないんですか?」

 「揉めだ」

 源治は帳面のいちばん下、古いほうの1冊を取って、めくった。

 昭和54年、と表紙に書いてある。

 その年の6月の頁に、鉛筆の字で、こう書いてあった。

 ——夜、堰板抜かれる。二度目。

 「これは?」

 「誰かが夜中に、上の堰板ば抜いだんだ。自分の田さ水入れるためにな」

 「……犯人は」

 「分がってら。んだども、言わね」

 源治はページをめくった。同じような書き込みが、その年だけで四回あった。

 「昔ぁ、水は取り合うもんだった」

 源治はノートを閉じた。

 「今は、押し付げ合うもんになった」


 源治は、いちばん古いノートの最初の頁を開いて、土田に見せた。

 番水表だった。手書きの表に、名前がずらりと並んでいる。

 土田は数えた。

 「31……人?」

 「31戸だ」

 「今は?」

 源治は今年の表を出した。同じ形式の、はるかに短い表だった。

 上流に四つ、中流に六つ、そしていちばん下に「立野目ファーム」。

 11。

 土田はしばらく、二つの表を見比べていた。

 「減った人の田って、どこ行ったんですか」

 「おめさんとこだ」

 土田が顔を上げた。

 「うちの社長が……」

 「んだ。20戸ぶんぐらいは、佐久間さんが預がってる」

 源治は帳面を膝に置いたまま、水路の下流のほうを見た。

 「田はな、減ってねぇんだ。作る人だげ減った」

 「じゃあ、水路は……」

 「水路も減ってねぇ」

 源治は指で、土手の先を指した。2.4キロの、まだ半分も浚っていない水路。

 「昔ぁ、31人でここ浚った。今日、10人だ」


 午後、土田が源治のところへ来て、こう言った。

 「あの、来年も来ていいですか」

 源治は手を止めた。

 「来でいいも何も、おめさんとこは受益者だべ」

 「そうなんですけど、うち、いつも社長が出不足金払ってて」

 「んだな」

 「僕が来ます」

 源治はしばらく土田の顔を見ていた。

 それから、上着の内ポケットを叩いた。

 「んだば、これ、覚えろ」

 「これ?」

 「水番だ」

 源治は帳面を出して、今年の番水表の頁を開いた。

 「5月の頭に、上から順に水入れる。1枚目が終わったら板ば起こして、次さ回す。何時に起こして、何時に閉めるか、全部ここさ書く」

 「書くんですか」

 「書がねば、次の年に分がらねぐなる」

 源治は鉛筆を土田に渡した。

 「今日の出役、書げ。来た人に丸、来ねぇ人にバツだ」

 土田は鉛筆を受け取って、帳面を膝に乗せた。ずいぶん長いあいだ、書き出しを迷っていた。

 「あの、何年って書けばいいですか。西暦ですか、令和ですか」

 「どっちでもいい。俺は令和で書いでる」

 土田は令和9年4月8日、と書いた。字は、源治のよりずっと丁寧だった。

 丸を10個。バツを一つ。

 バツのところに書いたのは、自分の会社の名前ではなかった。中流の、今年から来なくなった家の名前だった。土田は立野目ファームのところに、丸を書いた。

 源治はそれを見て、何も言わなかった。


 4時に作業が終わった。

 浚えたのは、2.4キロのうち、上流から1.6キロほどだった。残りは中流の下から、下流のブロックに入るあたり。

 「残り、どうします?」と誰かが訊いた。

 「来週の日曜、やっぺ」

 「俺、来週いねぇんだ。孫の入学式で」

 「んだが」

 「俺も、ちょっと」

 結局、来週来られると言ったのは、源治を入れて六人だった。

 「まあ、なんとがなるべ」

 源治はそう言って、鍬を肩に担いだ。

 実際、なんとかなってきた。51年、毎年なんとかなってきた。

 帰り道、源治は自分の田の水口(みなくち)を見た。板は去年のまま入っている。少し反っていたので、来週、削り直そうと思った。

 息子は東京にいる。今年の正月も帰ってこなかった。

 この田をどうするかという話は、まだしていない。しなくても、たぶん向こうは分かっている。

 水路には、まだ水が来ていない。乾いたコンクリートの底に、浚い残した泥が、上流から下流へ、細く尾を引いていた。


第七章 帳簿と通帳

2027年4月22日/庄内中央銀行 余目支店
佐久間稔/沼田(同行 法人融資担当・35歳)

 庄内中央銀行の余目支店は、駅前の通りから一本入ったところにある。

 4月22日の午後、佐久間稔(さくま みのる)は二階の応接室に通された。ソファは合皮で、座ると少し沈む。壁に掛かった額のなかで、鳥海山が春の色をしていた。

 3分ほどで、沼田(ぬまた)が入ってきた。

 法人融資の担当で、35歳。2年前に山形市の本店から来た。転勤族で、実家は仙台だという。米のことは何も知らずに来て、この2年、必死に勉強しているのが分かる男だった。

 「お待たせしました。決算、まとまりましたか」

 「これです」

 佐久間は封筒から書類を出した。2月の総会で配ったのと同じものに、貸借対照表を足してある。

 沼田は受け取って、最初の頁を見た。

 それから、こう言った。

 「思ったより、悪くないですね」

 佐久間は、思わず沼田の顔を見た。


 「2,390万円の赤字ですが」

 「はい。損益は赤字です」

 沼田はボールペンの尻で、費用の欄を指した。

 「ただ、ここです。減価償却費、7,000万円」

 「はい」

 「佐久間さん、この7,000万円は、去年、通帳から出ていきましたか?」

 佐久間は少し黙った。

 「……出ていってはいない」

 「そうです。出ていってません」

 沼田はメモ用紙を引き寄せて、線を引いた。

 「減価償却というのは、機械や建物の値段を、使う年数で割って、毎年少しずつ費用に落としていく手続きです。去年、乾燥調製施設を2億4,000万円で建てましたよね。あれは去年2億4,000万円の費用になるわけじゃない。20年使うなら、20年に分けて費用にしていく」

 「そう聞いた」

 「つまり、費用ではあるけれど、現金は出ていかない。だから利益から引かれてはいるけれど、通帳は減っていない」

 沼田は数字を書いた。

  営業損益       ▲2,390

  減価償却費      +7,000

  差引         +4,610

 「帳簿では2,390万円の赤字ですが、現金の出入りだけで見ると、4,610万円のプラスです。これが簡易キャッシュフローと呼ばれるものです。だから、悪くないと言いました」

 佐久間は数字を見た。見て、少しだけ楽になった。

 なった、と思った瞬間、沼田がペンを動かした。


 「ただし」

 沼田は、その3,215の下に、もう一行書いた。

  簡易キャッシュフロー +4,610

  借入元金返済     ▲6,600

  差引         ▲1,990

 「元金の返済です。年に6,600万円」

 佐久間は頷いた。

 「これは、逆なんです」と沼田は言った。「減価償却は費用だけど現金が出ない。元金の返済は、現金は出るけど費用にならない

 「……費用にならない?」

 「借りた金を返しているだけですから。損益計算書には出てきません。出てくるのは利息の1,350万円だけです」

 沼田はペンを置いた。

 「だから、こういうことが起きます。帳簿の上では2,390万円の赤字。実際に通帳から減ったのは1,990万円。この二つは、違う数字です」

 佐久間は、その二つの数字を見比べた。

 2,390と、1,990。

 「農家の方とお話ししていて、いちばん噛み合わないのがここなんです」と沼田は言った。「赤字なのに金がある、と言う人がいる。黒字なのに金がない、と言う人もいる。どっちも間違ってません。利益と現金は、別のものです


 沼田は次に、貸借対照表を開いた。

 「現預金が、期末で6,000万円ですね」

 「ああ」

 「去年の期末はいくらでした?」

 「8,000。……8,000万だ」

 「2,000万円減っています」

 沼田は電卓を打たなかった。打つまでもない、という顔だった。

 「同じことがもう1年続けば、4,000万円。2年続けば2,000万円になります」

 部屋が静かになった。

 佐久間は初めて、その計算を自分でやった。

 6,000万円。年に2,000万円ずつ減る。

 3年。

 3年で、ゼロになる。

 声には出さなかった。出さなかったのに、沼田が続けた。

 「もちろん、米価が戻れば話は変わります。ただ、自己資本比率が18.1パーセントまで落ちています」

 「18パーセントというのは」

 「資産3億9,700万円のうち、借金でないぶんが7,200万円ということです。農業法人としては、ぎりぎり許容の範囲です。ただ——」

 沼田は言葉を選んでいた。

 「純資産が7,200万円で、去年の赤字が2,390万円です。これが3年続くと、なくなります」

 3年、という数字が、また出た。


 お茶が運ばれてきて、少し間が空いた。

 沼田が湯呑みを両手で持って、こう言った。

 「あの、素人みたいな質問をしていいですか」

 「どうぞ」

 「米って、どうしてこんなに値段が動くんですか」

 佐久間は湯呑みを置いた。

 「本部から、レポートは来るだろう」

 「来ます。読んでも、腑に落ちないんです。2年で2倍になって、1年で4割落ちる。こんな商品、他にないですよ」

 佐久間は少し考えてから、指を折った。

 「六つある」

 「六つ」

 「一つめ。米は、在庫でしか調整できない」

 沼田がメモを取りはじめた。

 「年に一回しか穫れない。足りなくなっても、次に穫れるのは1年後だ。輸入で埋めることも、制度上、ほとんどできない。それに、日本人が1年に食う米の量は、値段が上がっても下がっても、そんなに変わらない」

 「需要が動かない」

 「動かない。だから、需給のわずかなズレが、そのまま値段に出る。国全体の在庫の適正水準が、だいたい180万トンから200万トンだと言われている。そこから20万トンずれると、値段は数割動く」

 「20万トンって、全体の1割ですよね」

 「1割で、数割だ」

 沼田がペンを止めた。


 「二つめ。概算金というやつだ」

 佐久間は続けた。

 「農協に米を出すと、その場で仮の金をもらう。あれが概算金だ。あくまで前払いで、正式な値段じゃない。ところが、その仮の金が、みんなの頭のなかでは『今年の値段』になる」

 「なりますね」

 「そして、あれが決まるのは秋だ。種を蒔いたあとだ」

 沼田が顔を上げた。

 「……作ったあとに、値段が決まる」

 「そうだ。そして、その値段を見て、翌年に何をどれだけ作るかを決める」

 佐久間はメモ用紙を借りて、丸を二つ書いた。矢印で結んだ。

 「本来なら、需給があって、その結果として値段が決まる。米はそれが逆になっている。値段が先にあって、それが翌年の需給を決める。しかも1年遅れる。だから、必ず行き過ぎるんだ」

 「振り子みたいですね」

 「振り子だ。三つめは、その振り子の話になる」

 佐久間は、この3年のことを話した。

 2024年、米が足りなくなった。店から米が消えた。値段が上がった。上がったのを見て、全国の産地が作付けを増やした。増やせば、翌年は余る。余ったから、今年の値段が8,400円になった。

 「その、足りなくなったときに、備蓄米を出したんですよね。ニュースでやってました」

 「出した。四つめは、それがなぜ効かなかったかだ」

 佐久間は指を四本立てた。

 「出す時期が遅かった。量が読めなかった。出したあとに買い戻すという話になって、卸が動きを止めた。それに、放出した米が末端の店に並ぶまでに、何か月もかかった。遅れて効く安定装置は、振れ幅を減らさない。むしろ増やすことがある」

 沼田はメモを取りながら、うん、と小さく言った。

 「五つめは、卸と小売だ。あの人たちは、上がると思えば買い急ぐし、下がると思えば買い控える。上がるときは在庫を厚くして、下がるときは薄くする。これが値動きを増幅させる」

 「それは、金融と同じですね」

 「同じだと思う」

 「六つめは」

 佐久間は湯呑みを取って、冷めた茶を飲んだ。

 「消費者だ。人は、値段を覚える」

 「覚える」

 「一昨年、5キロで4,000円を超えた。あのとき、パンや麺に替えた人がいる。替えた人の何割かは、値段が戻っても、米に戻ってこない」

 沼田は書き終えて、ペンを置いた。

 「……つまり、上がるときには一気に上がって、下がるときには需要ごと減っていると」

 「そうだ」

 「それ、下がりきったところで、元には戻らないってことになりませんか」

 佐久間は答えなかった。

 答えなかったので、沼田もそれ以上は訊かなかった。


 運転資金の話は、10分ほどで終わった。

 春は金が出ていく季節だった。肥料、農薬、育苗の資材、燃料。田植えが終わるまでに、3,000万円ほどが動く。それを短期の借入で回して、秋の概算金で返す。毎年、そういう回し方をしている。

 枠は6,000万円のままで据え置きになった。

 「制度資金のほうは、経営者保証はついていません」と沼田は言った。「ただ、この短期の6,000万円は、当行のプロパーですので、佐久間さんの個人保証が入っています。ご承知のとおりですが」

 「承知してる」

 「形式的な確認です。すみません」

 沼田は書類を揃えた。それから、思い出したように訊いた。

 「今年の作付けは、どうされますか」

 「180だ」

 「据え置き、ですか」

 「据え置きだ」

 沼田は少しのあいだ、佐久間の顔を見ていた。

 「……減らすお考えは」

 「ない」

 「差し支えなければ、理由を」

 「地代だ」

 佐久間は言った。

 「減らせば、そのぶんの田を地主に返すことになる。返された田は、誰も作らない。作る人がいないからうちに来たんだ。返したら荒れる」

 「はい」

 「荒れた田の隣は、水が入りにくくなる。畦が崩れて、水が漏れる。そうなると、うちの田も作れなくなる」

 沼田はメモに何か書いた。

 佐久間の側からは逆さに見えたが、たぶん「作付減少なし」と書いたのだと思う。

 銀行の紙の上では、それは、危ない状態が続くという意味になるのだろう。

 佐久間の側では、それは、やめられないという意味だった。


 外に出ると、風が生ぬるかった。

 4月の下旬で、田はもう水を張りはじめている。あと10日ほどで田植えになる。

 軽トラックに乗って、エンジンをかけて、佐久間はしばらく動かなかった。

 6,000万を、2,000万で割る。

 3年だ。

 もう一度、割った。何度割っても3だった。

 沼田は米のことを知らない。自分は帳簿のことを知らない。今日、二人はそれぞれ知らないことを教え合って、同じ数字にたどり着いた。

 佐久間はギアを入れた。

 水路には、水が来ていた。冬のあいだ空だったコンクリートの底を、濁った水が流れている。上流から順に、田へ入っていくところだった。

 まだ、下流までは届いていない。


間章一 集荷場

2027年6月下旬/農協 米穀課・低温倉庫・カントリーエレベーター
土田涼太/佐藤(農協 米穀担当・58歳)/佐久間稔

 6月の終わり、土田涼太(つちだ りょうた)は農協の米穀課の窓口に立っていた。

 田植えは5月半ばに終わっている。田はもう青くなって、これから中干しに入る。年のうちで、いちばん手が空く時期だった。

 「精算、いくら来るか聞いてこい」

 佐久間にそう言われて、車で15分の支店まで来た。

 精算、という言葉の意味を、土田はよく分かっていなかった。


 応対したのは佐藤(さとう)という職員だった。58歳。米穀一筋で、去年の秋には肥料の伝票を持って立野目まで来ていた人だ。

 「ああ、立野目さんの。まだ出てねぇんだわ、それが」

 「まだ出てない、というのは」

 「精算金な。9月ごろにならねぇと決まらねぇ」

 土田は少し混乱した。

 「あの、去年の秋にもらったお金って、あれで終わりじゃないんですか」

 佐藤は椅子を回して、土田のほうを向いた。

 「兄ちゃん、あれ、概算金だべ」

 「はい」

 「概算金ってのはな、仮渡金(かりわたしきん)っていうんだ。仮に渡す金だ」


 佐藤は紙を1枚引き寄せて、線を引いた。

 「農協は、みんなから米を集める。集めて、卸に売る。卸が問屋や小売に流して、最後に店に並ぶ。ここまで、早くて3か月、遅ければ次の年の夏までかかる」

 「はい」

 「じゃあ、売れるまで農家に金を払わねぇでいいか? いいわけねぇべ。秋には肥料の払いがあるし、機械の月賦もある」

 「そうですね」

 「だから、秋の時点で、だいたいこれくらいで売れるだろうという金を先に渡す。それが概算金だ」

 佐藤は線の下に、もう一本線を引いた。

 「で、次の年の夏までかけて、全部売る。売れた金から、保管料だの運賃だの、農協の手数料だのを引く。そこで、先に渡した概算金より多かったら、差額を後から払う。これが精算金、追加払いともいう」

 「じゃあ、少なかったら」

 佐藤は少し間を置いた。

 「返してもらう」

 土田は聞き返した。

 「……返す、んですか」

 「戻しっていう。めったにねぇけどな。概算金を高く出しすぎた年に、たまにある」

 土田は手帳に「戻し」と書いた。書いてから、その2文字を見た。

 秋にもらった金が、翌年の夏に減ることがある。そんな売り方をしている商品を、彼はほかに知らなかった。


 「去年の分は、どうだったんですか」

 「令和7年産か? あれは袋で500円ついた」

 「500円」

 「概算金が1万4,000で、精算が500。合わせて1万4,500だな」

 土田は暗算した。立野目ファームは2万7,000袋。500円なら1,350万円になる。

 「じゃあ、それって……」

 「兄ちゃんとこの去年の決算に入ってるはずだ。前年産精算金ってな」

 土田は思い出した。2月の総会で見た紙に、そういう科目があったような気がする。あのときは意味が分からずに読み飛ばしていた。

 「令和8年産は、どうなりそうですか」

 佐藤はしばらく黙っていた。

 「たぶん、出ねぇ」

 「ゼロ、ってことですか」

 「ゼロか、それに近いか」

 佐藤は窓の外を見た。

 「売れてねぇんだわ、まだ」


 佐藤は立ち上がって、こっち来い、と手を振った。

 事務所の裏から出て、渡り廊下を歩くと、低温倉庫の入口があった。分厚い扉を開けると、冷えた空気が押し出してくる。15度に保たれている。

 なかに、フレコンバッグが積んであった。

 1トン入る白い袋が、床から天井近くまで、何列も。

 「これ、去年の米だ」

 土田は言葉に詰まった。

 「6月の終わりですよね」

 「んだ。もうすぐ新しいのが穫れる」

 「なのに、まだ」

 「まだある」

 佐藤は袋の一つを平手で叩いた。ぱん、と乾いた音がした。

 「去年、全国で作りすぎた。一昨年に米が足りなくなって、値段が上がって、じゃあ作ろうってなって、みんな作った。作ったら余った」

 「それで8,400円に」

 「そういうことだな」

 土田は倉庫のなかを見回した。

 白い袋の山を、頭のなかで数字に直そうとした。ここに何トンあるのか。それが何袋で、いくらになるのか。

 やめた。数えたところで、売れなければ同じだった。


 帰り道、土田は集荷場の前で車を停めた。

 カントリーエレベーターという施設だ。農協が持っていて、地区の農家から生籾を受け入れて、乾燥から籾摺りまでを一括でやる。齋藤チカのような、自分の乾燥機を持たない家は、ここに出す。

 いまは動いていない。秋になると、24時間、あの太い煙突から湯気が出る。

 荷受けの流れを、佐藤に教わったばかりだった。

 軽トラが計量台に乗る。籾を投入口に落とす。サンプルが抜かれて、水分が測られる。水分によって乾燥の時間が変わる。乾燥が終わると貯留ビンに入り、注文に応じて籾摺りされ、玄米になって出ていく。

 そこで初めて、検査員が等級をつける。

 等級がついて、値段の枠が決まって、それでもまだ、いくらで売れたかは分からない。

 分かるのは、翌年の夏だ。

 土田は運転席で、指を折って数えた。

 種を蒔くのが4月。値段の目安が出るのが9月。ほんとうの値段が分かるのが、次の年の8月か9月。

 1年4か月。

 その間ずっと、金は先に出ていく。


 夕方、事務所に戻って、佐久間に報告した。

 「精算、9月まで決まらないそうです。それと、たぶん出ないだろうと」

 佐久間は書類から顔を上げなかった。

 「そうか」

 「あの、社長」

 「なんだ」

 「去年の米、まだ倉庫にありました」

 佐久間は手を止めた。

 「見たか」

 「はい。天井まで」

 佐久間はしばらく何も言わずに、それから小さく笑った。笑い方が、あまり笑っているように見えなかった。

 「今年も、あと3か月で穫れる」

 「はい」

 「あの上に、積むんだ」

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