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『西関五千言』 第五部 権力
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第十三章 同じ恐怖
公孫烈への贈り物が、宮城の門を塞ぎかけていた。
布、酒、干し肉、革、馬具、穀物。東方大国との戦で名を上げた商人や豪族だけではない。負傷兵の家族、国都の職人、名もない農民までが、それぞれ手にできる物を持ってきた。高価な物より、粗末な布や小さな酒壺の方が多い。
「全部返せ」
烈が言った。
「もう置いて帰った者も」
「追え」
「酒だけ残しますか」
尹喜が聞く。
「もちろん」
「酒も戦死者の家へ」
「おい」
烈は本気で嫌そうな顔をした。
翌日、烈が受け取った物を負傷兵と戦死者の家族へ回したという話が国都じゅうに広がった。すると贈り物は減るどころか、さらに増えた。
自分のために受け取らない。
その行為が、かえって烈の名を高くした。
市場では子供が戦の歌を真似し、兵舎では「烈公」という呼び名を隠そうともしない者が増えていた。烈本人に君位の野心がないことと、人々が彼へ力を与えようとすることは、別の話だった。
*
公孫敖は兵籍(へいせき)を見ていた。
東境に残る兵、国都へ戻した兵、烈が直接指揮した部隊、戦車、弓兵、補給隊。戦勝後の再編で数字は絶えず動いていたが、見方を変えれば同じ事実が浮かぶ。
「烈の兵は何人だ」
「東境を含め約8,000」
「直属は」
「5,000ほど」
「戦車は」
「70乗近く」
正式な割当だけならそれより少ない。だが戦後に修理して使えるようにした戦車まで含めれば、動かせる数は70乗前後になる。弓兵も1,000人を大きく超え、その多くが烈とともに東方の戦場を経験していた。
敖は数字を指で追った。
「命令と烈の言葉が食い違ったとき、どちらを聞く」
軍務官は答えられない。
答えないこと自体が、答えだった。
*
「烈から兵を半分返させろ」
公孫敖が尹喜へ言った。
机の上には兵籍と東境の地図が広がっている。尹喜は数字を一度見てから、敖を見た。
「理由は」
「強すぎる」
「敵が?」
「烈がだ」
尹喜の眉が寄る。
「反意はありません」
「知ってる」
「君位も望まない」
「知ってる」
「なら」
「反意がなければ安全か?」
公孫敖は言った。
「お前にもなかった」
その一言で、尹喜の中に国都の夜が戻った。折れた竹簡。静かな声。洹公の視線。
――今、数えたな。
自分には反乱の意志がなかった。それでも、兵が従う可能性を洹公は恐れた。
「公孫殿」
「何だ」
「同じことをしています」
「違う」
「どこが」
「君上は何もしていないお前を殺そうとした」
「あなたは何もしていない烈から兵を奪おうとしている」
敖は返事をしなかった。
以前なら、その沈黙を尹喜は「考えている」と受け取っただろう。今は違って見えた。
恐れている。
その可能性が、初めてはっきり形を持った。
*
老聃は、尹喜が事情を話し終えるまで黙っていた。
「国君が将軍を疑ったとき、お前は何と言った」
「恐れている、と」
「今、大きな将軍は」
尹喜は答えなかった。
老聃も続きを言わなかった。
*
烈は兵返還の命令書を読んで笑った。
最初だけだった。
「半分返せ?」
「ああ」
「返さない」
「理由を言え」
烈は竹簡を卓へ置いた。笑みが消えている。
「返せば、父上が思う。怖がって正しかった」
「返さなければ」
「やっぱり危険だったと思う」
烈は言う。
「どっちを選んでも、恐れた方が正しくなる」
尹喜は反論できなかった。
命令に従えば、敖は「圧力をかけたから従った」と思う。
従わなければ「やはり危険だった」と思う。
一度生まれた恐怖が、相手のどんな行動からも自分の正しさを証明してしまう。
*
「反逆だ」
公孫敖が言う。
「まだ何もしていません」
「兵を返さない」
「命令拒否です」
「来る前に止めろ。補給を切れ」
「公孫殿」
「する前に止める」
その声は低かった。
尹喜は、かつて洹公が自分を見た目を思い出した。反乱したからではない。反乱できるから危険だ、と。
「洹公も、国を守ろうとしていました」
敖の顔から、わずかに表情が消えた。
その夜、国都の門を閉じる時刻が1刻早まった。
理由は治安維持だった。
商人は荷を急いで畳み、夕方に着いた旅人は門外で夜を越すことになった。まだ父子の軍は戦っていない。それでも戦の影は、まず門の時刻と宿代に現れていた。
布、酒、干し肉、革、馬具、穀物。東方大国との戦で名を上げた商人や豪族だけではない。負傷兵の家族、国都の職人、名もない農民までが、それぞれ手にできる物を持ってきた。高価な物より、粗末な布や小さな酒壺の方が多い。
「全部返せ」
烈が言った。
「もう置いて帰った者も」
「追え」
「酒だけ残しますか」
尹喜が聞く。
「もちろん」
「酒も戦死者の家へ」
「おい」
烈は本気で嫌そうな顔をした。
翌日、烈が受け取った物を負傷兵と戦死者の家族へ回したという話が国都じゅうに広がった。すると贈り物は減るどころか、さらに増えた。
自分のために受け取らない。
その行為が、かえって烈の名を高くした。
市場では子供が戦の歌を真似し、兵舎では「烈公」という呼び名を隠そうともしない者が増えていた。烈本人に君位の野心がないことと、人々が彼へ力を与えようとすることは、別の話だった。
*
公孫敖は兵籍(へいせき)を見ていた。
東境に残る兵、国都へ戻した兵、烈が直接指揮した部隊、戦車、弓兵、補給隊。戦勝後の再編で数字は絶えず動いていたが、見方を変えれば同じ事実が浮かぶ。
「烈の兵は何人だ」
「東境を含め約8,000」
「直属は」
「5,000ほど」
「戦車は」
「70乗近く」
正式な割当だけならそれより少ない。だが戦後に修理して使えるようにした戦車まで含めれば、動かせる数は70乗前後になる。弓兵も1,000人を大きく超え、その多くが烈とともに東方の戦場を経験していた。
敖は数字を指で追った。
「命令と烈の言葉が食い違ったとき、どちらを聞く」
軍務官は答えられない。
答えないこと自体が、答えだった。
*
「烈から兵を半分返させろ」
公孫敖が尹喜へ言った。
机の上には兵籍と東境の地図が広がっている。尹喜は数字を一度見てから、敖を見た。
「理由は」
「強すぎる」
「敵が?」
「烈がだ」
尹喜の眉が寄る。
「反意はありません」
「知ってる」
「君位も望まない」
「知ってる」
「なら」
「反意がなければ安全か?」
公孫敖は言った。
「お前にもなかった」
その一言で、尹喜の中に国都の夜が戻った。折れた竹簡。静かな声。洹公の視線。
――今、数えたな。
自分には反乱の意志がなかった。それでも、兵が従う可能性を洹公は恐れた。
「公孫殿」
「何だ」
「同じことをしています」
「違う」
「どこが」
「君上は何もしていないお前を殺そうとした」
「あなたは何もしていない烈から兵を奪おうとしている」
敖は返事をしなかった。
以前なら、その沈黙を尹喜は「考えている」と受け取っただろう。今は違って見えた。
恐れている。
その可能性が、初めてはっきり形を持った。
*
老聃は、尹喜が事情を話し終えるまで黙っていた。
「国君が将軍を疑ったとき、お前は何と言った」
「恐れている、と」
「今、大きな将軍は」
尹喜は答えなかった。
老聃も続きを言わなかった。
*
烈は兵返還の命令書を読んで笑った。
最初だけだった。
「半分返せ?」
「ああ」
「返さない」
「理由を言え」
烈は竹簡を卓へ置いた。笑みが消えている。
「返せば、父上が思う。怖がって正しかった」
「返さなければ」
「やっぱり危険だったと思う」
烈は言う。
「どっちを選んでも、恐れた方が正しくなる」
尹喜は反論できなかった。
命令に従えば、敖は「圧力をかけたから従った」と思う。
従わなければ「やはり危険だった」と思う。
一度生まれた恐怖が、相手のどんな行動からも自分の正しさを証明してしまう。
*
「反逆だ」
公孫敖が言う。
「まだ何もしていません」
「兵を返さない」
「命令拒否です」
「来る前に止めろ。補給を切れ」
「公孫殿」
「する前に止める」
その声は低かった。
尹喜は、かつて洹公が自分を見た目を思い出した。反乱したからではない。反乱できるから危険だ、と。
「洹公も、国を守ろうとしていました」
敖の顔から、わずかに表情が消えた。
その夜、国都の門を閉じる時刻が1刻早まった。
理由は治安維持だった。
商人は荷を急いで畳み、夕方に着いた旅人は門外で夜を越すことになった。まだ父子の軍は戦っていない。それでも戦の影は、まず門の時刻と宿代に現れていた。
第十四章 父と子
噂は、兵より速く国都へ入った。
「烈が国君になる」
「大将軍を殺す」
「尹将軍も加わる」
市場では同じ話が朝と昼で形を変え、夕方には「烈軍がもう城門を囲んだ」とまで言う者がいた。尹喜本人にも、何がどこから生まれた噂なのか分からなくなっていた。
実際に烈軍は東から国都へ向かっていた。
約3,000人。
烈本人が語る目的は一つだった。
「父と話をする」
本人はそう言う。
国都へ入れるのは500人だけにする、とも周囲へ伝えていた。それでも3,000人の兵が街道を西へ動けば、沿道の邑は緊張する。そこへ烈を支持する兵や若者が自発的に加わり、隊列は進むほど長くなった。
烈の部下の中には、父子の話し合いではなく政権転覆を期待する者もいた。
本人が望むかどうかとは別に、軍勢は自分自身の意味を持ち始めていた。
*
「私が退けば収まるでしょうか」
公子申が言った。
宮城の部屋には、国都周辺の兵の配置を示す木札が並べられている。彼は烈の名が書かれた札ではなく、その周囲の兵数を見ていた。
「駄目です」
尹喜が即答する。
「烈はあなたの退位を求めていない」
「でも兵が来る」
公子申の指は少し震えていた。
「私は兄上のようにはなりたくない」
「なら」
「疑って、捕らえて、殺して、それで自分を守りたくない」
公孫敖が言う。
「兵を持って国都へ来れば国君を退かせられる、という前例を作ります」
公子申は黙る。
「怖いですか」
「はい」
「烈が?」
「兵が」
尹喜はその答えを聞いて、公子申を責められなかった。
善良であろうとする国君の前にも、数千の兵は数千の兵として立つ。
*
尹喜は公孫敖の極秘書状を見つけた。
宛先は烈の副将、季由(きゆう)。
烈の軍から兵を引き離せば、土地と官位を与える。家族の安全を保証する。従った者には罪を問わない。交渉の対象は、季由自身だけではなかった。
尹喜は書状を卓へ置いた。
「買収ですか」
「説得だ」
「金と土地を与えて?」
「家族も守る」
「人を駒にするのをやめられないのですか」
「やめられん」
尹喜が止まる。
敖はいつものように笑わなかった。
「息子です」
「ああ」
「だからこそ」
「息子だからだ。戦場で殺したくない」
その言葉だけは、策略ではなかった。
だからこそ尹喜は、さらに腹が立った。
*
「お前は人を愛しているな」
老聃が敖へ言う。
「今日は褒めるな」
「褒めていない」
「人を愛してる。悪いか」
「悪くない」
「じゃあ何だ」
「だから何をしても許されると思っている」
公孫敖が初めて、本気で老人を睨んだ。
「俺は人が死ぬのを見てきた」
「そうだろうな」
「選ばなきゃ、もっと多く死ぬ」
「そうかもしれぬ」
「……爺さん、卑怯だな」
「お前ほどではない」
敖の拳が一度だけ固くなった。それでも老聃は目を逸らさなかった。
*
尹喜は烈の陣へ行った。
護衛30人だけを連れた。国都へ向かう大軍の中へ入るには少なすぎる数だったが、増やせば話をしに来たのか威圧しに来たのか分からなくなる。
陣では兵が夕食の粟を煮ていた。国都へ近づいたため物資はまだ足りているが、これ以上長く留まれば話は変わる。荷車、牛、炊事の煙。尹喜は無意識に補給日数を数えかけて、やめた。
烈は昔と同じように酒を出した。
「喜、お前が国君なら俺は剣を置く」
尹喜は凍った。
「なぜ」
「お前なら変なことしない」
「理由になっていない」
「正しい」
烈は笑う。
「お前が道を決めろ。俺が開ける」
雨の戦場で、同じ言葉を聞いたことがある。
あのときは、尹喜が敵の弱点を見つけ、烈がそこを突破するというだけの言葉だった。友人同士の信頼だった。
今、烈の背後には数千の兵がいる。
尹喜が道を決めれば、この男は本当に開く。
敵陣だけではない。
国君へ至る道さえ。
*
烈が次に口にしたのは、父の周囲にいるという奸臣(かんしん)のことだった。
「父上は殺さない」
烈が言った。
「でも周りの奸臣は除く」
「誰だ」
「俺を危険だと言った奴」
「事実か」
「推測もある」
「それで除く?」
「調べる」
「誰が」
「俺たちが」
尹喜は言った。
「それを、公孫殿も言った」
「何を」
「暴政を止める。周囲の悪い者を除く。国を正す」
「違う」
「お前も兵を連れて国都へ来ている」
烈は黙った。
火の向こうで兵たちが笑っている。彼らは烈を信じている。だからこそ、烈が一歩進めば同じ方向へ進む。
*
帰還後、尹喜は公孫敖へ言った。
「あなたと同じことを言っていました」
敖は長く黙ってから、ようやく口を開いた。
「そうか」
それだけだった。
その声には、勝った将軍の響きも、政変を成し遂げた男の自信もなかった。
「烈が国君になる」
「大将軍を殺す」
「尹将軍も加わる」
市場では同じ話が朝と昼で形を変え、夕方には「烈軍がもう城門を囲んだ」とまで言う者がいた。尹喜本人にも、何がどこから生まれた噂なのか分からなくなっていた。
実際に烈軍は東から国都へ向かっていた。
約3,000人。
烈本人が語る目的は一つだった。
「父と話をする」
本人はそう言う。
国都へ入れるのは500人だけにする、とも周囲へ伝えていた。それでも3,000人の兵が街道を西へ動けば、沿道の邑は緊張する。そこへ烈を支持する兵や若者が自発的に加わり、隊列は進むほど長くなった。
烈の部下の中には、父子の話し合いではなく政権転覆を期待する者もいた。
本人が望むかどうかとは別に、軍勢は自分自身の意味を持ち始めていた。
*
「私が退けば収まるでしょうか」
公子申が言った。
宮城の部屋には、国都周辺の兵の配置を示す木札が並べられている。彼は烈の名が書かれた札ではなく、その周囲の兵数を見ていた。
「駄目です」
尹喜が即答する。
「烈はあなたの退位を求めていない」
「でも兵が来る」
公子申の指は少し震えていた。
「私は兄上のようにはなりたくない」
「なら」
「疑って、捕らえて、殺して、それで自分を守りたくない」
公孫敖が言う。
「兵を持って国都へ来れば国君を退かせられる、という前例を作ります」
公子申は黙る。
「怖いですか」
「はい」
「烈が?」
「兵が」
尹喜はその答えを聞いて、公子申を責められなかった。
善良であろうとする国君の前にも、数千の兵は数千の兵として立つ。
*
尹喜は公孫敖の極秘書状を見つけた。
宛先は烈の副将、季由(きゆう)。
烈の軍から兵を引き離せば、土地と官位を与える。家族の安全を保証する。従った者には罪を問わない。交渉の対象は、季由自身だけではなかった。
尹喜は書状を卓へ置いた。
「買収ですか」
「説得だ」
「金と土地を与えて?」
「家族も守る」
「人を駒にするのをやめられないのですか」
「やめられん」
尹喜が止まる。
敖はいつものように笑わなかった。
「息子です」
「ああ」
「だからこそ」
「息子だからだ。戦場で殺したくない」
その言葉だけは、策略ではなかった。
だからこそ尹喜は、さらに腹が立った。
*
「お前は人を愛しているな」
老聃が敖へ言う。
「今日は褒めるな」
「褒めていない」
「人を愛してる。悪いか」
「悪くない」
「じゃあ何だ」
「だから何をしても許されると思っている」
公孫敖が初めて、本気で老人を睨んだ。
「俺は人が死ぬのを見てきた」
「そうだろうな」
「選ばなきゃ、もっと多く死ぬ」
「そうかもしれぬ」
「……爺さん、卑怯だな」
「お前ほどではない」
敖の拳が一度だけ固くなった。それでも老聃は目を逸らさなかった。
*
尹喜は烈の陣へ行った。
護衛30人だけを連れた。国都へ向かう大軍の中へ入るには少なすぎる数だったが、増やせば話をしに来たのか威圧しに来たのか分からなくなる。
陣では兵が夕食の粟を煮ていた。国都へ近づいたため物資はまだ足りているが、これ以上長く留まれば話は変わる。荷車、牛、炊事の煙。尹喜は無意識に補給日数を数えかけて、やめた。
烈は昔と同じように酒を出した。
「喜、お前が国君なら俺は剣を置く」
尹喜は凍った。
「なぜ」
「お前なら変なことしない」
「理由になっていない」
「正しい」
烈は笑う。
「お前が道を決めろ。俺が開ける」
雨の戦場で、同じ言葉を聞いたことがある。
あのときは、尹喜が敵の弱点を見つけ、烈がそこを突破するというだけの言葉だった。友人同士の信頼だった。
今、烈の背後には数千の兵がいる。
尹喜が道を決めれば、この男は本当に開く。
敵陣だけではない。
国君へ至る道さえ。
*
烈が次に口にしたのは、父の周囲にいるという奸臣(かんしん)のことだった。
「父上は殺さない」
烈が言った。
「でも周りの奸臣は除く」
「誰だ」
「俺を危険だと言った奴」
「事実か」
「推測もある」
「それで除く?」
「調べる」
「誰が」
「俺たちが」
尹喜は言った。
「それを、公孫殿も言った」
「何を」
「暴政を止める。周囲の悪い者を除く。国を正す」
「違う」
「お前も兵を連れて国都へ来ている」
烈は黙った。
火の向こうで兵たちが笑っている。彼らは烈を信じている。だからこそ、烈が一歩進めば同じ方向へ進む。
*
帰還後、尹喜は公孫敖へ言った。
「あなたと同じことを言っていました」
敖は長く黙ってから、ようやく口を開いた。
「そうか」
それだけだった。
その声には、勝った将軍の響きも、政変を成し遂げた男の自信もなかった。
第十五章 天下を取れる男
粟の値がまた上がった。
戦はまだ始まっていない。それでも10日ほどで値は目に見えて上がり、商人は倉の扉を開けなくなった。どちらが国都を押さえるか決まるまで、穀物を売らずに待つ者が増えたからだった。
敖につく者。烈につく者。公子申を守ろうとする者。旧君派。どちらが勝っても困らないよう口を閉ざす者。
宮城の中で派閥の名を付けなくても、市場の商人はそれを値段に変えていた。
史角ですら、誰が最後に記録を書く側になるのか分からないと言った。
*
若い将校が尹喜へ言った。
「尹将軍が立てば皆従います」
尹喜は顔を上げた。
「今の言葉を、もう一度言え」
「尹将軍が立てば、皆従います」
「出ていけ」
将校は青ざめて礼をし、退出した。
だが、田嬰は扉が閉じてから言った。
「同じことを言う者は他にもいます」
「どれくらい」
「私が聞いただけで10数人」
「全員本気か」
「はい」
尹喜は答えなかった。
彼らの中に反逆者がいるわけではない。国を壊したい者でもない。むしろ逆だった。
早く混乱を終わらせたい。
そのために、最も正しく決められる者へ任せたい。
それだけだった。
*
公孫敖まで同じ方向を向いた。
「お前が国を治めろ」
「私は国君にはなりません」
「ならなくていい。申は国君のまま」
「では」
「軍と政をお前がまとめる」
「それでは私が実質的な国君です」
「冠を被らん」
「冗談ではありません」
「半分冗談だ」
「残り半分は」
「本気」
敖は言った。
「もう、そうなってるんだよ」
尹喜は否定しようとした。
だが軍の主要な補給路、穀倉、橋、荷車の集積地を最も詳しく知るのは自分だった。公子申は判断を求め、将校は命令を待ち、敖と烈の双方にも自分の言葉を聞く者がいる。
敖の口ぶりには、自分が一歩退くことさえ含まれていた。
君位を取らずに国を動かす。
それは、尹喜が最も嫌っていた曖昧な権力の形のはずだった。
*
尹喜は制度案を書き始めた。
軍権。兵站(へいたん)。官吏。地方豪族。税。兵役。刑。市場。外交。
誰が兵を動かせるのか。穀倉を誰が開くのか。国境軍が何人を超えたら中央の承認を必要とするか。国君が独断で将を罷免できる範囲。大将軍が地方官へ命令できる範囲。
決めれば、今回のようなことは起きにくくなる。
そう考えるほど、竹簡は増えた。
机が埋まった。
「長い」
老聃が言った。
「読んでいませんね」
「見れば分かる」
「必要だからです」
「昔、私も書いた」
「何を」
「税。倉。地方の役人」
「実際よくなったのでしょう」
「なった」
「なら」
「だから困った」
尹喜は竹簡へ目を落とした。
それは老聃の失敗だ。
制度が悪かったのではない。使い方を誤った。
自分なら、もっと正しく使える。
そう思った。
そのあとで、右親指が左人差し指の節をなぞっていることに気づいた。
少し怖くなった。
*
宮城を歩けば、皆が尹喜へ聞く。
東門を閉めるか。兵糧をどこへ出すか。烈へ使者を送るか。敖の兵を動かすか。国都へ入る荷車を検めるか。
尹喜が答える。
すると動く。
以前なら、それを効率がよいと思った。
今は、答えを待つ人間の数が増えるほど、別のものが見えた。
国都で死刑を宣告された夜の声が戻る。
――お前は勝った。だから危険なのだ。
あのときは理不尽だと思った。
自分は反乱など考えていなかった。
だが危険なのは、勝ったことそのものではない。
人が、自分の判断を待つようになること。
自分が「これが正しい」と言えば、何千人もの人間がそれを実行できること。
それが危険なのだ。
*
「まだ国を救いたいか」
老聃が尋ねる。
「当然です」
「いつまで救う」
「国が安定するまで」
「いつ安定する」
尹喜は答えを探した。
父子が和解したとき。
軍権が整理されたとき。
市場の値が戻ったとき。
東方が再び攻めてこないと確信できたとき。
どれも、その先に別の条件があった。
問答が続く。
「天下は、お前に救ってくれと頼んだのか」
尹喜の顔から表情が消える。
「何もしなければいいのですか」
老聃は黙る。
「あなたの沈黙で死ぬ人間を、どうする」
今度は尹喜が待った。
街道で見た難民。塩を買えなかった村人。倉が開くまで腹を空かせた子供。戦場に残った死者。
誰かが決めなければ死ぬ人間はいる。
長い沈黙。
「あなたにも答えはない」
「ああ」
「なら」
「だから、私の答えで国を動かすな」
尹喜は何も言わなかった。
老聃も、勝った顔をしなかった。
*
決戦前夜。
国都周辺には3つの軍があった。
公孫敖の軍。
烈の軍。
そして尹喜の命令を待つ兵。
尹喜は地図を広げた。
敖の補給は中央の倉と北東の街道に依存している。烈は東から来たため、長い補給線を持つ。徴発を嫌う烈の性格まで含めれば、荷車と牛を先に押さえるだけで進軍を鈍らせられる。
橋。
倉。
街道。
荷車。
誰がどこを守るかまで、尹喜には見えていた。
地図へ3本目の線を引く。
「それは」
「両方だ」
「両方?」
「公孫殿と烈。どちらも倒す」
「できますか」
「できる」
最も短く、合理的で、損害を減らせる策だった。
公孫敖を止める。
烈を止める。
公子申を守る。
国都の戦を終わらせる。
そして、そのために必要な軍事力は、最後には尹喜一人の下へ集まる。
「尹将軍」
若い副将が言った。
「これなら国を取れます」
尹喜は怒らなかった。
地図を見たまま、その言葉が事実であることを確かめていた。
それが、自分で一番恐ろしかった。
戦はまだ始まっていない。それでも10日ほどで値は目に見えて上がり、商人は倉の扉を開けなくなった。どちらが国都を押さえるか決まるまで、穀物を売らずに待つ者が増えたからだった。
敖につく者。烈につく者。公子申を守ろうとする者。旧君派。どちらが勝っても困らないよう口を閉ざす者。
宮城の中で派閥の名を付けなくても、市場の商人はそれを値段に変えていた。
史角ですら、誰が最後に記録を書く側になるのか分からないと言った。
*
若い将校が尹喜へ言った。
「尹将軍が立てば皆従います」
尹喜は顔を上げた。
「今の言葉を、もう一度言え」
「尹将軍が立てば、皆従います」
「出ていけ」
将校は青ざめて礼をし、退出した。
だが、田嬰は扉が閉じてから言った。
「同じことを言う者は他にもいます」
「どれくらい」
「私が聞いただけで10数人」
「全員本気か」
「はい」
尹喜は答えなかった。
彼らの中に反逆者がいるわけではない。国を壊したい者でもない。むしろ逆だった。
早く混乱を終わらせたい。
そのために、最も正しく決められる者へ任せたい。
それだけだった。
*
公孫敖まで同じ方向を向いた。
「お前が国を治めろ」
「私は国君にはなりません」
「ならなくていい。申は国君のまま」
「では」
「軍と政をお前がまとめる」
「それでは私が実質的な国君です」
「冠を被らん」
「冗談ではありません」
「半分冗談だ」
「残り半分は」
「本気」
敖は言った。
「もう、そうなってるんだよ」
尹喜は否定しようとした。
だが軍の主要な補給路、穀倉、橋、荷車の集積地を最も詳しく知るのは自分だった。公子申は判断を求め、将校は命令を待ち、敖と烈の双方にも自分の言葉を聞く者がいる。
敖の口ぶりには、自分が一歩退くことさえ含まれていた。
君位を取らずに国を動かす。
それは、尹喜が最も嫌っていた曖昧な権力の形のはずだった。
*
尹喜は制度案を書き始めた。
軍権。兵站(へいたん)。官吏。地方豪族。税。兵役。刑。市場。外交。
誰が兵を動かせるのか。穀倉を誰が開くのか。国境軍が何人を超えたら中央の承認を必要とするか。国君が独断で将を罷免できる範囲。大将軍が地方官へ命令できる範囲。
決めれば、今回のようなことは起きにくくなる。
そう考えるほど、竹簡は増えた。
机が埋まった。
「長い」
老聃が言った。
「読んでいませんね」
「見れば分かる」
「必要だからです」
「昔、私も書いた」
「何を」
「税。倉。地方の役人」
「実際よくなったのでしょう」
「なった」
「なら」
「だから困った」
尹喜は竹簡へ目を落とした。
それは老聃の失敗だ。
制度が悪かったのではない。使い方を誤った。
自分なら、もっと正しく使える。
そう思った。
そのあとで、右親指が左人差し指の節をなぞっていることに気づいた。
少し怖くなった。
*
宮城を歩けば、皆が尹喜へ聞く。
東門を閉めるか。兵糧をどこへ出すか。烈へ使者を送るか。敖の兵を動かすか。国都へ入る荷車を検めるか。
尹喜が答える。
すると動く。
以前なら、それを効率がよいと思った。
今は、答えを待つ人間の数が増えるほど、別のものが見えた。
国都で死刑を宣告された夜の声が戻る。
――お前は勝った。だから危険なのだ。
あのときは理不尽だと思った。
自分は反乱など考えていなかった。
だが危険なのは、勝ったことそのものではない。
人が、自分の判断を待つようになること。
自分が「これが正しい」と言えば、何千人もの人間がそれを実行できること。
それが危険なのだ。
*
「まだ国を救いたいか」
老聃が尋ねる。
「当然です」
「いつまで救う」
「国が安定するまで」
「いつ安定する」
尹喜は答えを探した。
父子が和解したとき。
軍権が整理されたとき。
市場の値が戻ったとき。
東方が再び攻めてこないと確信できたとき。
どれも、その先に別の条件があった。
問答が続く。
「天下は、お前に救ってくれと頼んだのか」
尹喜の顔から表情が消える。
「何もしなければいいのですか」
老聃は黙る。
「あなたの沈黙で死ぬ人間を、どうする」
今度は尹喜が待った。
街道で見た難民。塩を買えなかった村人。倉が開くまで腹を空かせた子供。戦場に残った死者。
誰かが決めなければ死ぬ人間はいる。
長い沈黙。
「あなたにも答えはない」
「ああ」
「なら」
「だから、私の答えで国を動かすな」
尹喜は何も言わなかった。
老聃も、勝った顔をしなかった。
*
決戦前夜。
国都周辺には3つの軍があった。
公孫敖の軍。
烈の軍。
そして尹喜の命令を待つ兵。
尹喜は地図を広げた。
敖の補給は中央の倉と北東の街道に依存している。烈は東から来たため、長い補給線を持つ。徴発を嫌う烈の性格まで含めれば、荷車と牛を先に押さえるだけで進軍を鈍らせられる。
橋。
倉。
街道。
荷車。
誰がどこを守るかまで、尹喜には見えていた。
地図へ3本目の線を引く。
「それは」
「両方だ」
「両方?」
「公孫殿と烈。どちらも倒す」
「できますか」
「できる」
最も短く、合理的で、損害を減らせる策だった。
公孫敖を止める。
烈を止める。
公子申を守る。
国都の戦を終わらせる。
そして、そのために必要な軍事力は、最後には尹喜一人の下へ集まる。
「尹将軍」
若い副将が言った。
「これなら国を取れます」
尹喜は怒らなかった。
地図を見たまま、その言葉が事実であることを確かめていた。
それが、自分で一番恐ろしかった。
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