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舌切雀 ―― 石鳴館連続署名殺人事件

第一章 石鳴館

1

海沿いの道から右へ折れると、すぐに上りになった。

道は二車線あることになっていたが、両側から夏蜜柑の枝が張り出していて、実際に走れる幅は一車線と変わらなかった。10分ほど上り、大きな角をひとつ曲がったところで、正面の山が見えた。

山の一面が白かった。

木が生えていないのではない。削ってあるのだった。斜面が上から順に段になって切り取られていて、段の一つ一つが水平になっている。その水平な面が午後の陽を受けて光っていた。棚田を作る人間が、土ではなく岩で同じことをやったらこうなるだろうと思った。

「あれは、何だろう」

「丁場(ちょうば)ですって」

助手席で小春が言った。

「ちょうば」

「石を切り出すところ。もう閉めているそうよ」

(閉めている場所に泊まるのか)

3月の半ばだった。結婚してから四度目の記念日である。妻がこの宿を見つけてきたとき、私は石の宿と聞いて、風呂が冷たいのではないかと言った。妻は「石で焼くんですって」と答えた。それで話は終わった。

雀部小春(ささべ こはる)という人と暮らして、私は物事の決まり方について考えを一つ改めている。理由は一つあれば足りるのである。二つ目を用意する必要はない。

看板は、上りきったところにあった。切り出した石の板に、彫った字が黒く塗ってある。

石鳴館

(読めない)

読み方が分からないまま予約していた。妻は「いしなりかん」と言った。

駐車場は、段の一つを均した平地だった。車が三台停まっている。私が枠に頭を入れていると、斜面の下のほうで金属の音がした。

木の台に鉄の車輪をつけたようなものが、坂をひとりでに下っていくところだった。荷は載っていない。若い男が追いかけていた。追いついて、前へ回り込んで、体で受け止めていた。

「すみません」

男は坂を上がってきて、頭を下げた。作業着の膝から下が白い。

「坂は、止まらんもんで」

(止まらないものを、坂に置かないでほしい)

玄関で、前掛けをした女性が待っていた。

「雀部(ささべ)さまですね? お待ちしておりました。今岡ふみ(いまおか ふみ)と申します」

雀部真悟(ささべ しんご)と、雀部小春。私たちは案内されるまま、土間へ入った。

土間が広かった。壁の下半分が石を積んだもので、上半分が漆喰である。隅に木の台車がもう一つ立てかけてあった。

上がり框を越えると、廊下も石だった。滑らないように表面を細かく叩いてある。足の裏が冷たかった。

「壁も床も石でございます」

今岡が振り返らずに言った。

「夜は冷えますので、湯たんぽをお持ちします」

(3月に湯たんぽか)

「お風呂も石でございます。こちらは温こうございますよ」

部屋は二階の端だった。畳が敷いてあることに、私は少しほっとした。

窓が大きい。開けると、そのまま丁場が見下ろせた。

段が、上から下へ六つか七つある。手前の段には切り出したままの石が転がっていて、四角い穴が一列に並んでいるのが見えた。奥のほうは削りかけで止まっていた。

いちばん底に、水が溜まっていた。

上から見ると、青とも緑ともつかない色をしていた。風がないので、面がまったく動かなかった。

2

昼食のあと、丁場の見学があった。

案内は、台車を追いかけていた男だった。

「柚野悟(ゆの さとる)です。石工(いしく)をやっとります」

段を下りる道は、斜面を斜めに切ってあった。幅は車が一台通れるくらいある。石を運び出すための道だったのだと柚野が言った。

二段目の縁に、切り出したままの石が置いてあった。人の胸くらいの高さがあり、上の面が平らである。その側面に、四角い穴が等間隔で並んでいた。深さは指の第二関節くらい。

「矢穴(やあな)といいます」

柚野が穴に指を入れた。

「石は、割りたい線に沿ってこれを開けます。ここへ矢と楔(くさび)を差して、端から順に叩いていくと、狙ったところで割れます」

「力ずくではないんですね」

「順番です。一つを強く叩いても割れません」

彼は石の反対側へ回って、割れ口を見せた。半分に切れた穴が、断面に並んでいる。

「割った石には、必ずこれが残ります。だから、どこで割ったかは後から分かります」

彼は少し間を置いて、付け加えた。

「割らんかった石にも、穴だけは残りますけど」

ドイツ人の団体が来たときはここで喜ばれるのだと、彼はそのあと関係のない話を始めた。

底まで下りると、水のそばに出た。

近くで見ると、水は濃い青だった。縁は石を切ったままで、垂直に立っている。手をかけるところがどこにもない。

「12メートルあります」

柚野が言った。

「掘るときはポンプで汲んどりました。止めたら、勝手に溜まりました」

「泳げそうですね」

「壁が立っとりますので、落ちたら上がれません」

(聞かなければよかった)

私は一歩下がった。小春は縁から下を覗き込んでいた。

「毎朝、上から下まで見て回ります」

柚野が続けた。

「段の際と、落ちてきそうな石と。閉めた丁場は、放っとくと崩れますので」

作業小屋は、いちばん下の段の隅にあった。板張りで、屋根はトタンである。中は暗く、油と石の粉の匂いがした。

道具が壁に掛かり、床に置かれ、木の箱に入っている。柚野が一つずつ名前を言った。鏨(たがね)、ビシャン、コヤスケ。私はどれも初めて聞いた。

奥に人がいた。

腰かけて、鏨を研いでいた。年配の男だった。背中が丸く、手が大きい。私たちが入っても顔を上げなかった。

「鎌田さんです」

柚野が言った。

「うちの、いちばん上の職人です」

男は研いでいた鏨を、足元の板の上に置いた。すでに置いてある五、六本と、頭の高さを揃えて置いた。それから初めてこちらを見て、頭を下げた。何も言わなかった。

(無口な人だ)

柚野が木の箱から金槌を出した。柄が短く、頭がひどく大きい。

「これで叩きます」

「重そうですね」

「重いです。ですが、振らんでええんです」

彼は頭を胸の高さまで持ち上げて、手を放す真似をした。

「落とすだけで足ります。振ると、狙いが逃げますので」

「玄能(げんのう)といいます」と柚野は言った。

「振らなくていいのね」

小春が言った。

「はい」

外で音がした。

低い、途切れない音である。全員で出ると、白いものが空にあった。丁場の底の上あたりを、ゆっくり横へ移動している。

「あ、すいません、入っちゃいましたか?」

段の上から声がした。男が二人立っている。片方が両手で送信機を持っていた。

「大丈夫です、あとで消すんで」

(消さないほうを問題にしてほしい)

男は送信機から目を離さずに続けた。

「いやあ、絵になりますねえ、ここ。もったいない。閉めちゃったんでしょ? もったいないなあ」

柚野は何も言わなかった。何も言わないまま、白いものが降りていくのを見ていた。

それは池の上まで来て、水面から2メートルほどのところで止まった。下降気流で、水の面が丸く波立った。

3

夕食は一階の食堂だった。

テーブルが石の一枚板で、椅子も石だった。座布団が二枚重ねて置いてある理由が、座った瞬間に分かった。

宿泊客は、私たちのほかに四人いた。同じ会社の人間ではないが、同じ事業をやっているのだという。今夜から三日、この宿で来期の会議をするらしい。

磯貝康(いそがい やすし)は石材の商社にいる人で、名刺を出すとすぐに数字の話を始めた。須永達郎(すなが たつろう)は財団の事務局長で、認証がどうという話をしていた。芦沢剛(あしざわ つよし)はこの宿の運営会社の社長だった。丸い顔をして、よく笑う人である。

四人目が、ドローンの男だった。

「黛敦志(まゆずみ あつし)です。クリエイティブディレクターやってます」

名刺に事業名が四つ刷ってあった。

料理はいりこの出汁から始まった。小春が椀を持って、少し長く匂いを嗅いだ。

三品目のあとで、厨房から人が出てきた。若い男で、板前の着物を着ている。

「惣領正(そうりょう ただし)と申します。次にお出しするものだけ、先にご説明させてください」

彼は片手に厚い布を持っていた。

「この谷の石を、窯で3時間温めております。この石は目が詰まっておりますので、温まるのに時間がかかります。そのかわり、なかなか冷めません」

「3時間」

小春が言った。

「はい。それより短いと、中心まで入りません」

石が運ばれてきた。厚さが5センチほどある黒い板で、木の枠に載っている。惣領が鰆(さわら)の切り身をその上に置くと、音がして、白い湯気が立った。菜の花が添えてある。

「お早めにどうぞ」

黛が立ち上がった。

「ちょっと待ってください、これ、撮りたいんで」

彼は椅子の背にかけていた鞄から、小さな三脚と、板のようなライトを出した。ライトを立てて、角度を変えて、また変えた。

「湯気って、暗いと飛ぶんですよ。光を横から当てないと」

惣領は厨房の入口に立ったまま、動かなかった。

「お召し上がりください」

「はいはい、すぐ」

黛は額に着けたカメラの位置を直し、胸のものを一度外して着け直した。それから三脚を反対側に立て直した。石の上で、鰆の縁が反り返っていった。

芦沢が笑いながら言った。

「黛さん、冷めるよ」

「あー、いいんですいいんです。湯気は最初だけなんで、もう諦めました」

(諦めるところが違う)

湯気が見えなくなり、音が聞こえなくなった。石の色が、少し薄くなった。

黛はそこから四枚撮った。

「はい、いいの撮れました」

彼は箸を取って、鰆を持ち上げ、皿の端に置いた。

「あー、僕、青魚あんまりなんですよ」

(鰆は青魚ではないと思うが、それを言う場ではなかった)

「ていうかこれ、サウナストーンって呼びません? そのほうが刺さるんで。ストーンサウナ、石鳴館。ほら、語感いいでしょ」

須永が愛想よく頷いた。磯貝は自分の皿を見ていた。

小春は、黛の皿を見ていた。

私は妻を見た。妻はまばたきをして、それから自分の石に向き直り、鰆をひと切れ取って口に入れた。

食後、今岡が皿を下げに回ってきた。黛の前で少し止まった。

「お下げしてよろしいですか?」

「あ、はい、どうぞどうぞ」

石は皿と一緒に下げられていった。もう湯気は出ていなかった。

厨房の入口で、惣領がそれを見ていた。

小春が席を立つとき、そちらへ寄って、一言だけ言った。

「おいしゅうございました」

惣領は頭を下げた。下げたまま、しばらく上げなかった。

4

風呂は本当に温かった。

石が熱を持つと、なかなか手放さないのだという話を、湯に浸かりながら思い出した。3時間かかるかわりに冷めない。理屈は同じらしい。

上がって談話室を通ると、四人がまだ話していた。

「ちょっと、雀部さんもどうですか?」

芦沢が手招きした。断る理由が思いつかなかったので、私は端の椅子に座った。小春は部屋に戻っていた。

テーブルに資料が広げてある。

「来期も認証は同じ形で回します」と須永が言った。「更新の書類だけ、四月に出していただければ」

「数字は去年の1.4倍で置いてます」と磯貝が言った。「卸のほうは、正直、もう名前で出てますから」

「そこですよ」

芦沢が言った。彼は資料の下から、一枚の紙を引き抜いて、私のほうへ滑らせた。

厚い和紙だった。上に「この谷の石 産地証明」とあり、下のほうに小さく、こう刷ってある。

監修 鎌田昭三

鎌田昭三(かまだ しょうぞう)。作業小屋で鏨を研いでいた、あの無口な男の名前だった。

「うちには鎌田がおりますから」

芦沢は満足そうだった。

「あの名前は強いんですよ。40年やっとる人間ですから。この一行があるのとないのとで、まるで違います」

「そんなに違うものですか?」

「違います。石なんてね、雀部さん、並べたら誰にも分かりません。分からんものを買ってもらうには、分かる人間の名前が要るんです」

(つまり、あの人はこの谷でいちばん偉いということか)

私は紙を返した。芦沢はそれを丁寧に資料の下へ戻した。

土間のほうで音がした。

見ると、鎌田が腰かけて、道具を布で拭いていた。拭いたものを一本ずつ、板の上に、頭を揃えて並べていた。こちらの話が聞こえる距離だったが、顔は上げなかった。

そのとき玄関の戸が開いた。

「遅くなりました。道が思ったより長くて」

今岡が出迎える声がした。それから、聞き覚えのある声が続いた。

「いえ、荷物はこれだけです。本ばかりですので、重いですが」

(まさか)

私は動けなかった。

背の高い男が、鞄を提げて土間に立っていた。眼鏡を外して、曇りを拭いている。かけ直して、談話室のほうを見て、そして止まった。

「──雀部さん?」

(うそだろう)

「ああ、雀部さん。やはりそうだ。これは驚いた」

結城蒼(ゆうき あおい)は、鞄を置きもせずに框を上がってきた。

「三度目ですね」

「四度目です」

「そうでしたか。四度目でしたか」

彼は嬉しそうに何度か頷いて、それから真顔になった。

「偶然というのは、観測の粒度が粗いときにだけ現れる概念でしてね。四回続けば、それはもう偶然と呼ぶべきではない。呼んでしまうと、考えることをやめてしまいますから」

「では、何と呼ぶんですか?」

「まだ名前のない何かです。私はそういうものが好きなんですよ」

芦沢が立ち上がって名刺を出した。結城も出した。四人はすぐに彼を輪の中に入れて、認証がどうという話を最初からやり直し始めた。結城は身を乗り出して聞いていた。

私は先に失礼した。

廊下は昼より冷えていた。窓のところで一度立ち止まって、下を見た。

丁場の段のどこかで、灯りが一つ動いていた。下の段から上の段へ、ゆっくりと移っていった。

第二章 矢穴

1

朝は、音で目が覚めた。

金属が石を叩く音だった。一定の間隔で四回続いて、少し休んで、また始まる。窓を開けると冷たい空気が入ってきた。下の段のどこかで誰かが作業しているらしいが、姿は見えない。音だけが谷の壁に当たって、少し遅れてもう一度聞こえた。

「起きてらしたの」

小春はもう着替えていた。

(この人はいつ寝ているのだろう)

朝食は8時からだった。食堂に降りると、四人はもう食べ終えていて、テーブルの端に資料が積んである。9時から会議だという。

「昨日はどうも」

芦沢が愛想よく言った。黛は片手で箸を持ち、片手でスマートフォンを見ていた。

結城の姿がなかった。今岡に聞くと、6時前に出ていったという。

「本をお持ちになって」

(あの人は何をしに来たんだ)

朝食のあと、私と小春は風呂に入り直した。石の湯船は、昨夜と同じ温度だった。

部屋に戻ったのが10時半ごろで、窓から下を見ると、磯貝が一人で坂を下りていくところだった。上着を着ていない。手ぶらである。二段目のあたりで立ち止まって、置いてある石に手をついて、しばらく谷の底のほうを見ていた。

(会議はいいのだろうか)

私は窓を閉めた。小春は畳に座って、宿の栞を読んでいた。

11時を少し過ぎたころ、下から声がした。

言葉ではなかった。人の声だとは分かるが、何を言っているのかは分からない。それが二度、三度と続いた。

廊下に出ると、今岡が階段を駆け上がってくるところだった。すれ違いざま、私の顔を見て、何か言おうとして、やめて、そのまま芦沢たちの部屋のほうへ行った。

私は下へ降りた。

土間の戸が開いたままになっていた。外へ出ると、坂の途中に惣領が立っていて、その先の段に柚野がいた。柚野は膝をついていた。両手を石の上に置いて、そこから動かずにいた。

私は坂を下りた。

昨日、柚野が指を入れてみせた石だった。矢穴が一列に並んだ、胸の高さのある石である。それが二段目の縁にはなく、一段下の、平らな石の上に載っていた。

その下から、靴が片方見えていた。

2

石は動かなかった。

男が四人で押しても、指を入れる隙間もできなかった。芦沢が「持ち上げよう」と言い、皆で下に手を入れようとして、そこで柚野が止めた。

「無理です。傾いてますんで、下手に入れると寄ってきます」

鎌田が坂を上がっていった。しばらくして戻ってきたとき、彼は鉄の枠のようなものを肩に担いでいた。柚野がもう一つ担いでくる。三本の脚と、その上に渡す横木でできていて、組むと門の形になるらしい。

「三脚(サンキャク)といいます」

柚野が言った。

「石を吊るときに使います」

組むのに手間がかかった。脚を一本ずつ立てて、根元を石に噛ませ、上で留める。芦沢と須永と私が押さえ役に回った。二度倒れた。私が押さえていた脚が、二度とも滑った。

(役に立っていない)

「そっちの脚、あと一つ穴を伸ばしてください」

鎌田が言った。彼が私に何か言ったのは、それが初めてだった。

「長さが揃わんと、倒れます」

言われたとおりに伸ばすと、三本目の脚が地面に着いた。門が立った。

横木の真ん中に、鉄の塊が下がっていた。上から鎖が二本垂れている。片方は輪になっていて、もう片方は先に鉤が付いていた。

「チェーンブロックです」

柚野が鉤を石の矢穴に掛け、輪のほうの鎖を引き始めた。

引くたびに、機械の中で歯が噛む音がした。一回引くと、鉤がわずかに上がる。放しても下がらない。また引く。また上がる。

石が動いた。

私は思わず声を出した。人が四人で押しても動かなかったものが、若い男が一人で鎖を引いているだけで、地面から離れていく。

「すごいな」

「上げるのは、誰でもできますんで」

柚野は早く上げようとして、両手で交互に引いた。鎖の音が速くなった。

「そんなに上げんでええ」

鎌田だった。

「上げるのは誰でもできる。下ろすのが仕事や」

柚野が手を止めた。石は下の面が離れたところで止まった。人が横になれるだけの隙間ができていた。

鎌田が下に入った。

そこから先を、私は見ないようにした。

引き出されたとき、磯貝はもう、人の形をしていなかった。頭と肩は無事だった。下の石が平らだったので、体は真横になっていた。

芦沢がその場に座り込んだ。須永は上を向いていた。黛はいなかった。

惣領が携帯を持って、少し離れたところで話していた。

「はい。事故です。石が、落ちて」

彼は一度言葉を切って、上を見上げた。

「電波は、あります。上まで車で来られます」

3

警察と救急が上がってきたのは、14時前だった。

思ったより人数が来た。制服が四人と、私服が二人と、白い服が三人である。谷の細い道を上がってきた車が四台、駐車場に入りきらずに、坂の入口まで列を作っていた。

私服の一人が、宿泊客から順に話を聞いた。私は10時半に磯貝が坂を下りていくのを見たと言った。

「そのとき、ほかに誰か下におりましたか?」

「見た範囲では、いませんでした」

「石のそばに行っていましたか?」

「石に手をついて、立っていました」

私服は手帳に書いた。何も追加で聞かなかった。

検証は長かった。

石はチェーンブロックで吊ったまま、しばらく置かれた。写真を何十枚も撮っていた。段の縁を測り、石の底を測り、傾きを測っていた。

そのうち、制服の一人が柚野を呼んだ。

「これは、なんですか?」

段の縁に、木の塊が二つ転がっていた。楔(くさび)だった。手のひらより少し大きい。ひどく古びていて、角が丸くなっている。

「止めです。段の縁に石を置くときは、これを三つ噛ませます」

「三つ?」

柚野は下を向いて、地面を探した。それから作業小屋のほうへ走っていって、戻ってきた。手に三つ目を持っていた。

「小屋にありました」

「小屋に」

「木片の箱に、入っとりました」

制服は楔を受け取って、三つ並べて写真を撮った。

「まあ、誰かが拾って戻したんでしょう」

彼はそう言って、それきりその話をやめた。

(拾って戻す人がいるものだろうか)

私はそう思ったが、思っただけで、口には出さなかった。誰も出さなかった。

私服のほうは、楔の木を指で押していた。

「乾いてますね」

「乾きます」と柚野が言った。「20年からありますんで」

「痩せますよね、こういうのは」

「痩せます」

私服は頷いて、手帳に何か書いた。

もう一つ、質問があった。

「この白い粉は」

段の上に、白い粉が薄く広がっているところがあった。踏むと足の裏に付く。

「石の粉です」

柚野が答えた。

「滑るときと、逆に滑らんようにするときと、両方に使います。小屋にいくらでもありますんで、そのへんに撒いてあります」

「いくらでも」

「袋で20くらいは」

私服はそれ以上聞かなかった。

夕方までに、全部が終わった。

労働災害として処理する、という言葉を私は聞いた。段の縁に置いた石の止めが一つ抜けていた、材が古くて痩せていた、被害者が石に触れた可能性がある、というのが要点だった。芦沢は何度も頭を下げていた。

車が下りていったのが16時半である。

丁場に人がいなくなってから、鎌田が一人で降りていった。私は二階の廊下の窓から見ていた。

彼はチェーンブロックの鎖を戻し、三脚を外し、脚を一本ずつ畳んで、二度に分けて小屋へ運んだ。それから楔を三つ拾って、箱に入れた。段に散った石の破片を集めて、隅に寄せた。

最後に、石が動いた跡を見た。しばらく見てから、上がってきた。

4

夕食のとき、テーブルの席が一つ減っていた。

料理は昨日と同じ順で出た。いりこの出汁、菜の花の和えもの、鰆の焼いたもの。石は出なかった。

「明日、どうしますか?」

須永が言った。

「予定どおりやりましょう」

芦沢が答えた。彼は昼間よりずっと落ち着いていた。

「磯貝さんの分は、私が持ちます。数字はもう出てますから、こちらで組み直せばいい。会議は明日の9時から、予定どおり」

「そうですね」

「止めたって、あの人は喜びません」

(そういうものだろうか)

黛が箸を置いた。

「あの、僕、思うんですけど」

全員が彼を見た。

「今日の、素材としてすごく強いと思うんですよ」

「素材」

「いや、不謹慎なのは分かってるんですけど。ここ、ちょっと悲劇っぽい歴史あったほうが刺さるんですよね。石って、そもそもそういうもんじゃないですか。墓とか。産業遺構って、明るい話だけだと薄いんですよ」

須永が咳をした。芦沢は何も言わなかった。

「もちろん今日の分は使いません。使いませんけど、こう、地層として」

(地層として)

結城が箸を止めた。

「石の場合、地層は比喩ではありませんね」

「あ、そうですそうです」

黛は嬉しそうに頷いた。結城はそれ以上何も言わず、鰆に戻った。

小春は最初から最後まで、ふつうに食べていた。今岡が皿を下げに来たとき、「お出汁がおいしゅうございました」と言った。

私はその夜、なかなか眠れなかった。

一階に降りて、土間の隅の椅子に座った。廊下の常夜灯だけがついている。

鎌田がいた。

土間の板の上で、道具を布で拭いていた。昼間、石を吊るのに使った鉤や、掛け金や、名前の分からない金物である。一つ拭くと、板の上に置いた。置くとき、先に置いたものと頭の位置を合わせていた。

「大変でしたね」

私が言うと、彼は少し顔を上げた。

「はあ」

「長く、ここに?」

「40年になります」

「石を、ずっと」

「ずっとです」

彼はまた手元に戻った。私は何を聞いていいのか分からなくなって、余計なことを言った。

「丁場は、もう閉めているんですよね。それでも残られたんですね」

鎌田は手を止めなかった。

「雇うてもろうて、ありがたいです」

それだけだった。

私は椅子から立って、階段のほうへ歩いた。踊り場の窓から下を見ると、丁場の段のどこかで、灯りが一つ動いていた。

昨夜と同じ速さで、下の段から上の段へ移っていった。

第三章 水

1

朝から雨だった。

強くはないが、止む気配もない。窓を開けると、丁場の段が上から順に濡れて色を変えていくのが見えた。乾いているときは白かった石が、濡れると青灰色になる。同じ石には見えなかった。

会議は9時から始まっていた。予定どおりである。

私と小春は玄関の脇にいた。そこに棚があって、石の器や文鎮が並べてある。売店といっても値札が置いてあるだけで、店番はいない。

柚野が布で棚を拭いていた。

「雨だと、外の仕事はできませんので」

彼は器を一つずつ持ち上げて、底を拭いて、また戻していた。

私は小鉢を手に取った。手のひらより少し大きい。厚みがあって、重い。底を返すと、何も書いていなかった。

「これは、どなたが作られたんですか?」

「柚野です」

「柚野さんですか。名前は、入れないんですか?」

「入れません」

「陶器だと、底に入っていたりしますよね」

「石は入れません」

彼は次の器を取った。

「うちだけやのうて、どこも入れません」

(そういうものか)

土間のほうから足音がした。鎌田が外の合羽を脱いでいるところだった。肩から下が濡れている。彼は棚のほうを見もせずに、通りすがりに言った。

「石工は名を刻まん」

私は振り返った。

「刻むのは、死んだ人の名前や」

彼はそのまま廊下の奥へ行ってしまった。

「お墓のことです」

柚野が言った。

「石屋の字っちゅうたら、そればっかりですけん。あの人は40年、字ばっかり彫っとった人ですので」

「鎌田さんが彫るんですか?」

「彫ります。今はもう、機械で彫りますけど。あの人は手でやります」

柚野は布を持ち替えた。使い終わったほうと、刷毛と、油の小瓶を、足元の木箱にまとめて落とした。蓋を閉めるとき、はみ出した布の端を、指で押し込んだ。

「おれは、ほんまは下の丁場に入るはずやったんです」

「下の」

「谷の口に、もう一つありました。鎌田さんの師匠がやっとった丁場です。8年前に潰れました」

「それで、こちらに」

「こっちは丁場やのうて、宿ですけど」

彼は少し笑った。笑い方が疲れていた。

「同い年で石やっとるのは、この谷におれ一人です。みんな出ました。大阪とか、名古屋とか」

「柚野さんは、出ないんですか?」

彼はしばらく答えなかった。器を三つ拭いて、それから言った。

「どうですかね」

談話室のほうで光が動いていた。覗くと、黛が板のライトを二枚立てて、石の壁を撮っていた。

「雨の日はね、室内の質感が撮れるんですよ」

彼は私に気づいて、勝手に説明を始めた。

「この壁、いいでしょう。触ってみてください。ザラっとしてるでしょ。これが伝わる画を撮るのが難しくてね」

(触ってみてくださいと言われて触った壁の話を、どうして初対面の人間にされるのだろう)

窓際で結城が本を読んでいた。彼は顔を上げずに言った。

「雀部さん。昨日の石ですが、何トンあったと思われますか?」

「見当もつきません」

「私もです。ただ、四人で押して動かなかったものが、青年一人が鎖を引くと動いた。あれは面白かった」

「そうですね」

「力の話ではないんですよ、あれは。時間の話です」

彼はそれきり本に戻った。

昼までに、雨は弱くなった。

窓から下を見ると、底の水の色が変わっていた。昨日は青かった。今日は白く濁って、段から流れ落ちた泥が、縁のあたりから広がっていた。

2

13時を過ぎて、雨が上がった。

昼食のあと、黛が立ち上がって言った。

「雨上がり、絶対いいんですよ。水が澄むんで」

(濁っていたが)

私は言わなかった。誰も言わなかった。

須永が付き合うことになった。彼は財団の写真も要るのだと言っていた。芦沢は電話があるからと残り、結城は本を持って談話室から動かなかった。

私と小春も降りた。部屋にいても仕方がなかったからである。

段は滑った。柚野が「縁には寄らんでください」と何度も言った。私たちは池の反対側の段を、上から二つ目のところまで歩いて、そこから底を見ていた。

黛はもっと上にいた。ドローンを飛ばして、送信機の画面を見ている。須永の姿は、途中から見えなくなった。底のほうへ下りていったのだと思った。

小春が池を見下ろしていた。

「濁っておりますね」

「そうだね」

「あれは、下から濁るのかしら。上から流れ込むのかしら?」

(どちらでもいい気がする)

私たちは30分ほどそこにいて、それから上がった。段を上がるのは、下りるより息が切れた。

16時を過ぎて、須永がいないことに気づいたのは芦沢である。

会議を再開しようとして、いなかった。電話をかけた。呼び出し音は鳴った。誰も出なかった。

全員で降りた。

呼びながら段を下りて、底に着いた。

池の縁に、木の足場があった。水面へ2メートルほど張り出した、板を三枚渡しただけのものである。ポンプを点検するために作ったものだと、あとで聞いた。

その足場の、真ん中の板がなかった。

隙間が空いていて、下は水である。

柚野が足場に手をついて、下を覗いた。それから、動かなくなった。

濁った水の、浅いところだった。水面から2メートルも下ではない。水中に石の段が残っていて、その平らな面の上に、須永がうつ伏せに乗っていた。上着が水に押されて、背中で膨らんでいた。

引き上げるのに時間がかかった。

壁が垂直で、手がかりがない。梯子は届かなかった。柚野がロープを腰に巻いて降り、須永に縄を掛けた。上で鎌田と惣領と私が引いた。石の縁でロープが擦れて、白い粉が出た。

須永を段の上に寝かせたとき、上で音がしていた。

見上げると、白い機体が浮いていた。丁場の底の、私たちの真上である。高さは10メートルもなかった。

「おい!」

芦沢が叫んだ。

「やめろ! 何をやってるんだ!」

「記録です」

段の上から黛の声がした。

「記録ですって。あとで要りますから」

(要らない)

芦沢が坂を上がっていった。ドローンは、しばらくしてから上がっていった。

板の話が出たのは、そのあとである。

制服も私服もいない。宿の人間と、宿泊客だけだった。柚野が足場の隙間を指して言った。

「昨日は、ありました」

「昨日?」

「三枚とも。おれは毎朝ここを見ますんで」

今岡が首を傾げた。

「あら、前から足りませんでしたよ。去年から一枚ないままだって、私、聞いておりましたけど」

柚野は口を開けて、そのまま閉じた。

「そうでしたか」

「そうですよ」

それで話は終わった。

(昨日はあったと言ったばかりではないか)

私はそう思ったが、須永が目の前に寝かされていて、それを言う場ではなかった。誰も言わなかった。

3

談話室に集まったのは、16時40分ごろだった。

芦沢は電話を三本かけて、三本目のあとで椅子に沈んだ。警察には連絡がついていた。今日中には上がってこられるという話だった。

「雀部さん」

結城が言った。

「私は少し、考えを整理しました。よろしければ聞いていただけますか?」

芦沢が顔を上げた。黛はカメラを膝に置いた。惣領と今岡は入口のところに立った。柚野は土間に近い椅子に座っていた。鎌田はいなかった。

「二つの出来事は、どちらも同じ性質を持っています」

結城は指を二本立てた。

「人が触れたときに初めて起きる、という性質です。石は、止めが一つ抜けていた。足場は、板が一枚欠けていた。どちらも、それ自体では何も起こさない。人が近づいて、初めて起きる」

「それは、そうですが」

「では、なぜ今まで起きなかったのか。答えは単純です。誰も近づかなかったからです」

彼は柚野のほうを見た。

「柚野さん。あの足場に人が乗ったのは、いつ以来ですか?」

柚野が少し考えた。

「……分かりません」

「ポンプは、いつ止めましたか?」

「おれが来る前です。15年になると聞いとります」

「15年」

結城は頷いた。

「15年、誰も乗らなかった板が、そこにある。誰も触らなかった石が、そこにある。閉じた丁場というのは、危険が減った場所ではないのです。危険が見えなくなった場所です」

芦沢が身を乗り出した。

「しかし先生、二日続けてというのは」

「そこです。私も最初、そこで引っかかりました」

結城は嬉しそうに言った。

「偶然だ、と言ってしまえば話は終わります。ですが終わらせたくない。ですから私はこう考えました。──皆さんは、今回初めて、この谷を隅まで歩いたのではありませんか?」

芦沢が黙った。

「会議は例年、どちらで」

「……市内のホテルです」

「現地でやるのは初めてだと」

「今年から、そうしようと」

「なるほど」

結城は手を組んだ。

「15年ぶんの不備が、三日のあいだに一度に触られた。私にはそれで足ります。二日続けて起きたのではなく、二日続けて触ったのです」

誰も何も言わなかった。惣領が今岡のほうを見て、今岡が柚野のほうを見た。柚野は床を見ていた。

「これは管理の問題です」

結城は静かに言った。

「誰かの悪意ではありません」

芦沢の顔から色が引いた。管理という言葉の意味を、その場でいちばん正確に理解したのは彼だったと思う。

「うちが、管理して……」

「制度上どうなるかは、私の分かる話ではありません」

黛が手を挙げた。

「あの、じゃあ、撮影は続けていいってことですよね」

(何を聞いているんだ)

「悪意がないんなら、事故ですよね。事故なら、続けていいですよね」

結城は少しのあいだ黛を見ていた。それから、否定も肯定もせずに視線を外した。

小春が私の隣で言った。

「今夜は、何が出るのかしら?」

4

音がしたのは、17時40分である。

はじめは雷かと思った。空は明るくなりかけていた。音は空からではなく、下から来た。低く、長く、二度に分かれて続いた。

全員で外へ出た。

坂を上がった先、私たちが車で入ってきた道のあたりが、変わっていた。

上の斜面が落ちていた。木ごと落ちていて、根が上を向いている。土と石が道の上に積み上がり、幅で15メートルほど、道が消えていた。積んだ高さは人の背より高い。上のほうから、まだ細かい石が転がり落ちてきていた。

「近寄らんでください」

柚野が両手を広げた。

「まだ来ます。雨のあとは、しばらく来ます」

芦沢が電話をかけた。相手はすぐ出た。彼が話しているあいだ、皆が黙って聞いていた。

電話を切って、芦沢が言った。

「重機は、向こう側です」

「向こう側」

「谷の口の車庫にあります。上がってこられません。ここまで通すのに、明日いっぱいと、あさっての午前中はかかると」

「あさって」

「業者は、一つしかないんです。この谷に」

惣領が別の電話をしていた。彼のほうは長かった。何度も同じことを繰り返していた。上がってこられない、車は無理だ、歩いても危ない、と。

切ってから、彼は皆のほうを向いた。

「警察は」

一度言葉を切って、続けた。

「明後日伺いますと」

(明後日)

私は自分の携帯を出した。電波は三本立っていた。かけようと思えば、どこへでもかけられる。誰も来られないというだけである。

(通じるのに、来られないというのは、通じないより悪い気がする)

今岡が今夜の食事の心配を始めた。通いの三人は16時に帰っていた。明日から上がってこられない。

「明日から、四人で回します」

彼女は数えるように言った。

「私と、惣領さんと、柚野さんと、鎌田さんで」

その夜、膳を運んできたのは柚野だった。

作業着ではなく、白い上っ張りを着ていた。丈が合っていない。彼は膳を両手で持って、置くときに向きを二度直した。

「すみません、慣れませんで」

「いえ」

「明日は、もう少し早う出します」

料理は品数が減っていた。鰆はなく、いりこの出汁と、乾物を戻したものと、大根が出た。

小春は全部食べて、それから言った。

「明日は、何かお手伝いすることがありまして?」

今岡が驚いた顔をして、それから笑った。

「お客さまに、そんなことは」

「そう」

私は部屋へ戻る前に、踊り場の窓から下を見た。

丁場に灯りはなかった。

かわりに、坂の入口のあたりに一つ止まっていた。誰かが立って、崩れた道のほうを見ているらしかった。その灯りは、私が見ているあいだ、一度も動かなかった。

第四章 銘

1

朝食の席で、芦沢が言った。

「会議は今日、やめます」

黛が顔を上げた。テーブルには三人しか座っていなかった。芦沢と黛と、離れたところに結城である。私と小春は少し遅れて入って、隅の席に着いたところだった。

「私が全部、見て回ります」

芦沢の声は落ち着いていた。昨日、色を失っていた人と同じには見えなかった。

「上から下まで、一つずつ。危ないところは全部、紙に書いて印を付けます。警察が上がってきたときに、何もしていませんでしたでは済まない」

「そんなの、業者呼べばいいじゃないですか?」

「業者は上がってこられません」

「あー」

黛はそれで興味をなくしたらしく、また自分の画面に戻った。

膳を運んでいたのは今岡と柚野だった。鎌田も土間から二度、皿を持って出てきた。作業着の上に前掛けを着けている。彼が食器を置くとき、椀と皿の縁が、こちらから見て一直線に並んだ。

(この人は膳まで揃えるのか)

芦沢は8時半に食べ終えて、部屋へ戻った。9時を少し過ぎたころ、廊下を歩いていく足音がして、玄関の戸が開く音がした。

私は部屋の窓から見た。

芦沢は上着を着て、手帳とペンを持っていた。坂の上のほうで一度立ち止まり、崩れた道のほうを見て、それから丁場へ下る道に入っていった。

段を一つ下りたところで見えなくなった。

音がしたのは、10時になる少し前である。

木が擦れる音が長く続いて、途中から速くなった。最後に、何かが石にぶつかる音が二度した。

私は窓を開けた。下は見えなかった。廊下に出ると、向かいの部屋から黛が顔を出していた。

「今の、なんですか?」

「分かりません」

外へ出た。惣領と今岡と柚野が、もう坂を下りていた。私も続いた。

道の途中に、それがあった。

木の橇である。長さが2メートル以上あって、太い角材を組んで作ってある。ふだんは道の脇に、石を載せたまま置いてあるものだった。

「修羅(しゅら)といいます」

柚野が言った。声が震えていた。

「石を引くもんです」

修羅は道の真ん中で横倒しになっていた。載っていた石が外れて、その先の段の縁まで転がっていた。道には、橇が擦った跡が長く残っている。

芦沢はいなかった。

柚野が縁から下を覗いて、そのまま座り込んだ。

一段下の、平らな石の上だった。上着が広がっていて、手帳が少し離れたところに落ちていた。ページが風で少しずつめくれていた。

道を下りて、そばまで行った。呼吸を確かめるまでもなかった。

上の道に戻ったとき、私は杭を見た。

修羅を止めておくための杭が、道の山側に一本打ってある。そこに綱が繋いであったはずだった。綱は切れていた。

切れた端が、輪にして束ねてあった。

きれいに三重に巻いて、杭の頭に掛けてある。ほどけないように、端を輪の中に通してあった。

(切れたのなら、垂れているのではないか)

私はそう思った。思ったが、下に人が横たわっていて、柚野は座り込んだままで、今岡は上のほうで泣いていた。

私は何も言わなかった。誰も言わなかった。

2

談話室に集まったのは、11時ごろだった。

芦沢はそのままにしてあった。動かすべきではないと惣領が言い、誰も反対しなかった。上からシートを掛けただけである。

結城が入ってきて、いちばん奥に立った。

「皆さん」

彼は両手を後ろに組んで、少し胸を張っていた。

「私は昨日、この二件は管理の不備による事故だと申し上げました。あれは撤回します」

黛が顔を上げた。

「え、じゃあ何なんですか?」

「殺人です」

部屋が静かになった。今岡が口に手を当てた。

「順を追います」

結城は指を一本立てた。

「昨日の私の説には、根拠がありました。石も足場も、人が触れて初めて壊れるものであった。だから触れた人が死んだ。ここまではよろしいですね」

誰も答えなかった。彼は答えを待たずに続けた。

「ところが今朝は違う。芦沢さんは、あの綱に触れていません。触れていないのに、修羅が走った」

「切れたんでしょ、古いから」

「切れたのかもしれません。私はそこを争いません」

彼は指を二本にした。

「争わなくてよいのです。もっと分かりやすいものが、三つの現場に共通してありますから」

彼は少し間を置いた。間の取り方が、明らかに慣れていた。

(この人は、こういうときのために生きているのだろうか)

「壊れたもののそばに、必ず、片付いた道具があります」

結城は指を折りながら数えた。

「一つ目。抜けていた楔は二つが現場に転がっていて、三つ目が小屋の木片の箱に入っていた。二つ目。足場から一枚欠けていた板は、私が今朝、板置き場で見ました。あの厚みの板は、あそこに七枚あって、六枚は同じ日焼けをしていて、一枚だけ色が薄い。三つ目。今朝、切れた綱の端が、輪にして杭に掛かっていました」

私は膝の上で手を握った。

「事故は、片付けません」

結城は言った。

「片付けるのは人です。三つの現場だけが、片付いている。これは、そうとうに不自然です」

柚野が立ち上がった。

「そんなわけないです」

「あなたが片付けたのですか?」

「違います」

「では、誰が?」

「知りません。けど、そんなわけないです」

柚野は座った。座ってから、両手で顔を擦った。

「一つ、先に潰しておきましょう」

結城が言った。

「見つけた人間が片付けたのではないか、という反論があり得ます。人は現場を整えてしまうものですから。ですが、見つけた人は毎回違います。一件目は柚野さん、二件目も柚野さん、三件目は──」

「私です」

惣領が言った。

「先生」

彼は落ち着いた声で続けた。

「今はやめてください」

「なぜです」

「まだ、上でシートを掛けているだけなんです」

結城は口を開けて、閉じた。それから小さく頷いた。

「失礼しました」

「警察には、私から言います」

惣領は電話を持って外へ出ていった。戻ってくるのに10分かかった。

「明後日伺いますと」

彼は同じ言葉を持って帰ってきた。

「三人目だと言ったのに」

「言いました。道が塞がっとりますのでと」

黛が笑った。笑ったというより、息が漏れた音だった。

「やば。じゃあ、明日いっぱい、犯人と一緒にいるってことですか?」

「黛さん」

「いや、事実でしょ」

誰も反論しなかった。

結城が私の隣に来て、腰を下ろした。それから、小さな声で言った。

「雀部さん。私が今回ここにいたのは、幸運でしたね」

「幸運、ですか?」

「ええ。あの三つの片付きに気づける人間は、そう多くはありません」

(この状況で言うことか)

「もっとも」

彼は眼鏡を直した。

「気づくというのは、能力ではなく習慣です。私は毎日、他人の書いたものの、書いていない部分を読んで暮らしていますから。習慣が違うだけです」

(それを能力と言うのでは)

「習慣の差というのは、能力の差より始末が悪い。追いつけませんから」

(言い方を変えただけだ)

3

昼は、握ったものが出た。

今岡が「申し訳ありません」と何度も言った。誰も文句を言わなかった。黛だけが、白い飯の上にのった梅を箸でどけていた。

食後、黛が談話室のテーブルに紙束を積み上げた。

「これ、僕が引き継ぐしかないんで」

芦沢の資料である。彼は封筒を開けて、中身を並べていった。

「須永さんとこの契約書と、磯貝さんとこの発注と、あと芦沢さんが持ってた原本と」

「今、やることですか?」

私は言った。

「今しかないんですよ。明後日、警察来たら全部持ってかれるでしょ」

(持っていってもらったほうがいいのでは)

「いや、僕が悪者みたいになってますけど。誰かがやらないと、この事業、明日で終わりますからね」

彼は紙を一枚ずつめくりながら、独り言のように喋り続けた。

「あー、これか。分配、これ揉めてたんですよ。商社が四割で、財団が二割で、運営が四割。僕、入ってないんですよね。企画やってんの僕なのに」

「入っていない」

「入ってないです。制作費は出ますよ。でも分配はゼロ」

彼は次の紙をめくった。

「まあ、こうなったら、僕が全部やるしかないですよね」

そして、少し黙ってから、言った。

「正直、やりやすくはなりますけど」

部屋が静かになった。

惣領が入口のところで足を止めていた。今岡は皿を持ったまま動かなかった。柚野が、初めて黛の顔をまっすぐ見た。

黛は気づいていなかった。

「あ、これですこれ。証明のやつ」

彼が一枚を抜いて、テーブルの真ん中に置いた。

使用許諾契約書と表題があった。私は横から覗き込んだ。

産地表示および証明制度に関する監修者契約、とある。甲が財団で、乙が個人だった。

乙 鎌田昭三

期間の欄に、10年と書いてあった。始まりは4年前である。残りは6年ということになる。

その下に、謝礼の欄があった。

年額3万円

(三万?)

私は二度見た。桁を間違えたのかと思った。

「安いですね」

思わず言うと、黛が顔を上げた。

「あー、そこは名誉職なんで。むしろ名前出してもらってるほうが、ね」

「そういうものですか?」

「そういうもんです。実際、あの人の名前で年に何千万も動いてますから。逆に言うと、それだけ信用されてるってことですよ」

(信用されている人が、三万円)

「あ、勘違いしないでくださいね。ケチってるわけじゃないんです。金額上げると、逆に胡散臭くなるんですよ。お金で名前貸してることになっちゃうんで。無償に近いほうが、本物っぽいんです」

(本物っぽい)

黛は満足そうに紙を封筒に戻した。

土間のほうで音がした。

見ると、鎌田が湯呑みの盆を持って立っていた。いつからいたのかは分からない。彼は談話室に入ってきて、テーブルの端に湯呑みを一つずつ置いていった。

置くとき、取っ手のない湯呑みの、模様の入った面を、全部こちらに向けて揃えた。

「ありがとうございます」

私が言うと、彼は頭を下げて出ていった。

黛は顔を上げなかった。

4

夕食に膳を運んできたのは、また柚野だった。

上っ張りは昨日と同じもので、丈が合っていないのも同じだった。ただ、置くときに向きを直す回数が、昨日より減っていた。

料理は品数がさらに減っていた。干した魚と、大根と、汁である。

「明日、撮影します」

黛が言った。

誰も返事をしなかった。

「明日しかないんですよ。あさって警察来たら、たぶん封鎖されるでしょ。今のうちにしか撮れないんで」

「撮って、どうするんですか?」

私は聞いた。

「どうもしません。今は。でも、素材がないと、あとで何もできないでしょ」

彼は箸を置いて、私のほうへ体を向けた。話し相手が見つかったという顔をしていた。

「雀部さん。僕、悪い人間じゃないと思うんですよ」

(自分で言う人は大体そうだ)

「ただ、止まると死ぬんです。この業界。この企画が飛んだら、僕、次がないんですよ。飛ばないようにするのが、僕の仕事なんです。三人亡くなってるのに撮るのかって言われますけど、逆ですよ。三人亡くなったからこそ、残さないと」

「残す」

「残すんです。それが供養でしょ」

彼はスマートフォンを出して、画面を私に向けた。

長い文章が表示されていた。行のあいだが広く取ってあって、途中に一行だけ空いているところが二か所ある。

「これ、追悼のやつです。まだ出してませんよ。出すタイミングは考えます」

「ご遺族には」

「まだです。連絡先、芦沢さんが持ってたんで」

(順番が)

彼は結城のほうへ画面を向けた。

「先生、文章の専門でしょ。言葉、これでいけますかね?」

結城はそれを受け取った。

眼鏡を直して、最初から最後まで読んだ。時間をかけて読んだ。それから、黛に返した。

何も言わなかった。

「あ、大丈夫ってことですね」

黛は画面を消した。

「よかった。じゃあ明日、朝から回します。あと、シェフ」

厨房の入口の惣領が振り返った。

「明日の夜、あれ出してもらえます? 石のやつ。今度こそ湯気撮るんで。今度は、絶対にすぐ撮ります」

惣領は少し黙ってから、答えた。

「かしこまりました」

小春が、そのとき初めて口を開いた。

「あの石は、何時から温めますの?」

惣領がこちらを向いた。

「5時から窯に入れます」

「そう」

小春はそれだけ言って、汁の椀を持った。

私は妻の横顔を見た。何も読み取れなかった。読み取れないのはいつものことである。

その夜、談話室を通ると、黛の機材が並べてあった。

板のライトが二枚、脚を畳んで壁に立てかけてある。三脚が三本。カメラが二台と、ドローンが箱に入って、蓋を開けたまま置いてあった。

部屋の電気は消えていた。

充電器の小さなランプだけが、五つか六つ、暗い石の床の上で光っていた。

第五章 玄能

1

夕食は20時になった。

人手が足りないので、この二日はずっと遅い。今岡が「申し訳ありません」と言い、誰も文句を言わなかった。文句を言う人間が、三人減っていた。

膳を運んできたのは柚野と鎌田だった。鎌田は皿を置くだけで、何も言わずに下がった。置いた皿の縁が、今夜も一直線に並んだ。

料理が並び終えたころ、惣領が出てきた。手に厚い布を持っている。

「お約束のものを、お出しします」

「きましたね」

黛がスマートフォンを構えた。

「夕方の5時から窯に入れております」

惣領が言った。

「3時間かかりますので、出せるのは一日に一度だけです。それと、魚は」

彼は一度言葉を切った。

「これで最後です。届かなくなりましたので」

石が運ばれてきた。黒い板が木の枠に載っている。惣領が最後の鰆を置くと、音がして、湯気が立った。

「お早めにどうぞ」

「はい、すぐ撮ります。今日はすぐ撮ります」

黛は本当にすぐ撮った。

ライトは昼のうちに立ててあった。カメラも据えてあった。彼は座ったまま二枚撮って、立ち上がって上から三枚撮って、それで終わった。時間にして1分もかからなかった。

(できるじゃないか)

私は少し安心した。安心したのが早かった。

黛は画面を見て、指で拡大して、それから顔をしかめた。

「んー」

「どうしました」

「屋内だと、弱いんですよね」

彼はカメラを下ろした。

「壁が石で、床も石で、テーブルも石でしょ。全部石だから、石が主役に見えないんですよ。埋もれるっていうか」

「そういうものですか?」

「そういうもんです。石を撮るなら、背景は暗くないと」

彼は少し考えて、それから顔を上げた。

「これ、借りていいですか?」

「借りる」

「この石です。外で撮りたいんですよ。夜の丁場に、この石があるっていう画が欲しいんで。あそこなら背景真っ暗だから、ライト当てれば石だけ浮きます」

惣領が厨房の入口から言った。

「冷めますが」

「冷めていいです」

黛は即答した。

「むしろ湯気ないほうが、石の存在感が出るんで。湯気って結局、料理の顔なんですよ。今回、僕が撮りたいのは石なんで」

「お召し上がりになってからでは」

「食べたら熱が抜けるじゃないですか。色が変わるでしょ、脂が落ちて。撮ってからでいいです。あとで食べます」

彼は自分の皿を引き寄せて、箸で鰆を持ち上げ、皿に移した。石の上が空になった。

そこへ結城が口を挟んだ。

「面白いですね」

「でしょ!」

黛が身を乗り出した。

「いえ、あなたの企画がではありません」

(この人も大概だ)

結城は湯呑みを置いた。

「石を運ぶという行為の話です。人類は長いあいだ、石を動かすことに異様な情熱を注いできました。ピラミッドもストーンヘンジも、要するに石をどこかへ持っていっただけの話です。にもかかわらず、我々はそれを文明と呼んでいる。──今、私はたいへん良いことを言いましたね」

「自分で言われますか?」

「言わないと、誰も言ってくれませんから」

(言ってもらう前提なのか)

「ちなみに雀部さん、今のは思いつきではありません。10年ほど前に一度、紀要に書きました。誰も読みませんでしたが」

(読まれなかったことまで自分から言うのか)

黛は厚い布で枠を持ち上げた。熱いらしく、二度持ち直した。

「じゃ、ちょっと行ってきます。30分で戻ります」

「暗いですよ」

柚野が言った。

「ライト持ってきます。あそこの下、電源ないんですよね?」

「ありません」

「まあ、バッテリーあるんで」

黛は片手で石の枠を持ち、もう片方の手にライトの入った鞄を提げて、土間から出ていった。戸が閉まる音がした。

テーブルの上に、鰆だけが残った。

惣領は厨房の入口に立ったまま、しばらくその皿を見ていた。それから中に入って、出てこなかった。

小春は、自分の膳を最後まで食べた。

2

私は風呂に入って、部屋で本を読んでいた。

21時半ごろ、小春が羽織を着た。

「少し、歩いてまいります」

「暗いよ」

「玄関の前だけですわ」

「気をつけて」

私はそう言って、また本に戻った。文字は目に入っていたが、頭には入らなかった。三人死んだ宿で本を読む方法を、私はまだ習得していない。

小春が戻ってきたのは、23時を10分ほど過ぎたころだった。

戸を開けて、羽織を脱いで、丁寧にたたんだ。それから正座して、両手を膝に置いた。

「片付けといたわ」

(あ)

「あとはお願いね。手が疲れちゃった」

私は本を落とした。

「──何を?」

「あの方ですわ」

「あの方」

「お石を持って出ていらした方」

私は立ち上がろうとして、膝が畳から離れなかった。

「冗談だろう」

「わたくし、冗談を申しませんでしょう」

事実だった。この人は四年間、冗談を一度も言っていない。

「下で、見ておりましたの」

小春は、天気の話をするときと同じ速さで話した。

「三脚を立てて、灯りを二つ点けて、お石を地面に置いて、周りを歩きながらお撮りになっていました。ずいぶん熱心でしたわ」

「それで」

「それから、撮り終わって、灯りを消して、機械をまとめて」

彼女は一度、そこで言葉を切った。

「お石を、置いてお帰りになろうとしたの」

「置いて」

「地面に。土の上に、そのまま」

私は何か言おうとした。言葉が出てこなかった。

「わたくし、声をおかけしましたのよ。お石をお持ちくださいませ、と」

「そうしたら」

「あとで誰か片付けるでしょ、とおっしゃいました」

小春は膝の上の手を、少しだけ動かした。

「あれは、夕方の5時から温めたものですわ。3時間、窯の中にいた石です。あの方は、それを地面に置いてお帰りになろうとしましたの」

(それで)

(それで、殺したのか)

「近くに、金槌がありました」

「玄能だ」

「そう。玄能というのね」

彼女は少し首を傾げた。

「あれ、振らなくていいんですって。柚野さんがそうおっしゃっていたでしょう。頭が重いから、落とすだけで足りると」

私は口の中が乾いていくのを感じた。

「一度で足りましたわ」

「じゃあ、一度で」

「いいえ」

小春は膝の上の手を裏返して、指を伸ばした。爪の先まで、いつもどおり整っていた。

「何度も打ちました」

「──何度」

「覚えておりません。数えるようなことでも、ございませんでしょう」

(手が疲れちゃった)

さっき聞いた言葉が、意味を変えて戻ってきた。私はその意味を、できれば受け取りたくなかった。

「小春」

「触ったのは、玄能の柄だけ。あとは何も触っておりません」

「その、玄能は」

「箱に入れておきました。道具箱のいちばん上に」

「なぜ?」

「なぜ?」

小春は、心底不思議そうな顔をした。この顔を、私は何度も見ている。

「道具ですもの。出しっぱなしはいけないでしょう」

私はそこで立ち上がった。立ち上がって、両手を握って、それから叫んだ。

「人を殺したんだぞ!」

自分の声の大きさに驚いて、私は自分の口を両手で押さえた。

廊下で足音がした。誰かが階段を上がってくる。私は息を止めた。足音は隣の部屋の前を通って、その先で止まって、戸が開いて、閉まった。

小春は、その間ずっと私を見ていた。

「大きな声を出されると、心臓に悪いですわ」

「どっちが」

「わたくしがですわ」

彼女は立ち上がって、押し入れから布団を出した。二組出して、私の分をきちんと並べた。

「小春。あの、どうするんだ、これは」

「ですから、あとはお願いね、と申し上げました」

「お願いされても」

「お肌に悪いので、もう寝ます」

彼女は横になって、掛け布団を顎まで引き上げた。

「あなた」

「なんだ」

「明日の朝は、何が出るのかしら?」

「知らないよ」

「魚は最後だとおっしゃっていましたものね」

3分もしないうちに、寝息が聞こえた。

私は畳の上に座ったまま、しばらく動けなかった。

3

23時半に、私は部屋を出た。

理由は一つしかない。確かめないことには、何も始まらないからである。始まってほしくはなかったが、始まらないという選択肢は、この四年で一度も存在したことがない。

廊下は冷えていた。石の床が足の裏から熱を吸っていく。私は靴下を二枚重ねたことを、少しだけ自分で褒めた。

土間で靴を履いた。戸を開けるとき、音が出ないように、下から持ち上げるようにして引いた。

外は真っ暗だった。月がない。宿の常夜灯が坂の上を照らしているだけで、その先は何も見えなかった。

私は携帯の灯りを点けて、下を向けた。足元から1メートルほどが白く見える。それだけを頼りに、坂を下りた。

段を二つ下りて、三つ目で作業小屋の屋根が見えた。

そこにいた。

黛は、小屋の入口の脇に横向きに倒れていた。片方の腕が体の下に入っている。

灯りを上へ動かして、私はそれを消した。

指が勝手に動いた。見てはいけないものを見たときに、頭より先に体が判断することがある。暗くなってから、私はもう一度点けた。

土の色が変わっていた。範囲が広かった。頭のあった位置から、小屋の板壁の下まで続いている。板にも付いていた。低いところではない。私の腰の高さまで、点になって散っていた。

一度ではない。

一度なら、こうはならない。同じところへ何度も落としたのだと、私にも分かった。分かってしまった。

膝が抜けた。

私は片手を地面についた。胃が持ち上がって喉まで来て、そこで止まった。止まったまま下りていかない。私は口を押さえ、そのまま四つん這いで小屋の反対側まで這って、板壁に背中をつけた。

(無理だ)

(これは、無理だ)

四度目である。

一度目も、二度目も、三度目も、私は震えた。だが震えながら手は動いた。動かせば動いたのである。

今夜は動かなかった。

私は自分の指を見た。地面についた指が、意思と関係なく細かく上下していた。止めようとして止まらず、止まらないことに気づいて、余計に止まらなくなった。

(あの人は、笑ってもいなかったし、泣いてもいなかった)

(いつもと同じ顔で、布団を敷いていた)

私は目を閉じた。閉じるとよけいに見えたので、開けた。

あとで時計を見たら、10分近く経っていた。

(落ち着け)

(落ち着け。順番だ。順番にやれば、だいたいのことは何とかなる)

灯りを動かした。

三脚が二本、畳んで地面に置いてある。ライトの鞄が閉じて、その横に立てかけてある。カメラは鞄の上だった。ドローンは持ってきていなかったらしい。

(機材まで運ぶのか)

(無理だ。三往復かかる)

(いや、待て。機材はここでいい。ここで撮っていたのは事実なんだから、機材がここにあるのはおかしくない)

私は自分の理屈にひとまず納得した。納得できることが一つあると、人は少し落ち着く。

石があった。

木の枠に載ったまま、地面に置いてあった。黒い板である。

私はしゃがんで、指の背をそっと当てた。

まだ、少しだけ温かかった。

(3時間温めると、こうなるのか)

私はその場にしゃがんだまま、しばらく動かなかった。

やがて立ち上がって、小屋の中を灯りで照らした。道具箱が奥にある。蓋が開いていた。

いちばん上に、頭の大きな金槌が一つ、載っていた。

(拭かなければならない)

(だが、それは後だ。順番がある)

私は小屋を出て、もう一度、倒れている男を見た。

そして、考えた。

まず、事故に見せられないかを考えた。いちばんいいのはそれである。段から落ちた、石が転がってきた、そういう形にできれば、誰も何も探さない。

(無理だ)

私は、さっき見たものを思い出した。思い出したくなかったが、思い出した。あれを落石で説明するには、同じ石が同じところへ何度も落ちなければならない。石はそんなことをしない。

(では、どうする)

私はしゃがんだまま、この三日を並べ直した。

一件目。石の下敷き。警察が上がってきて、労働災害として処理して帰った。

二件目。池。板が一枚欠けていた。今岡さんは、前から足りなかったと言った。

三件目。修羅。綱が切れた。古い綱だった。

(本当に、殺人なのか)

私は初めてそこを疑った。

殺人だと言い出したのは、結城蒼ひとりである。ほかの誰も言っていない。警察は二度とも事故として扱った。惣領さんは途中で止めた。柚野さんは「そんなわけない」と言った。

そして私は、あの人のことを、この四年でいやというほど知っている。

(あの人は、三度、堂々と間違えた)

一度目も、二度目も、三度目もである。結城蒼は完璧な論理を組み立てて、まったく違う場所に着地した。着地するたびに、周りが感心した。今回だけ正しいと考える理由が、私にはない。

(もし、三件が事故だったら)

その場合、警察はこう考えるはずである。この丁場では三日で三人死んだ。四人目が出た。またか、と。

(またか、で済むのではないか)

私は自分の思いつきに、少しだけ縋った。二度も事故として処理した相手が、三度目に急に厳しくなるとは限らない。三度あることは四度ある。

(いや、頭がある)

(頭の傷がある)

そこで縋るのをやめた。

事故には見えない。それだけは動かない。だとすれば、残っているのは一つだけである。

(三件が殺人なら、犯人がいる。犯人がいるなら、四人目も引き受けてくれる)

(三件が事故なら、四人目だけが浮く。だが少なくとも、この丁場で起きた四つ目にはなる)

どちらに転んでも、こちらへは来ない。

答えは一行だった。

先の三件と、同じ犯人の仕業に見せる。

そのためには、三つ揃えればいい。丁場で。石の上に。道具は片付けて。

(できるか)

(できる。運ぶだけだ)

私は坂を見上げた。

一つだけ、覚えていることがあった。到着した日、玄関の土間の隅に、木の台車がもう一つ立てかけてあった。荷物を運ぶのに使うのだろうと、そのとき私は思った。

私は坂を上がり始めた。

上がりながら、宿の窓を数えた。灯りが点いているのは一つだけだった。二階の、いちばん端でもいちばん手前でもない、真ん中あたりの部屋である。

誰の部屋かは、分からなかった。

第六章 三脚

1

台車は、玄関の土間の隅に立てかけてあった。

木の枠に鉄の車輪が四つ付いている。持ち上げてみると、思っていたより重かった。運ぶだけの道具が、運ばれる側に回ると、こんなに重いものかと思った。

床に置けば音が出る。石の床に鉄の輪である。私は台車を横抱きにして、爪先で歩いた。

戸を開けるのに1分かかった。下から持ち上げるようにして、少しずつ引いた。

外へ出て、台車を下ろした。

坂の途中までは、押して下りた。斜面に対して台車は横向きにしか置けない。真っ直ぐ向けると、手を離した瞬間に行ってしまう。私はそれを知っていた。到着した日に、若い石工が走っていくのを見ている。

(分かっている。分かっているから、押さえている)

底の手前まで下ろすのに20分かかった。

黛は、来たときと同じ形で倒れていた。

私は上着の裾を掴んで、引いた。動かなかった。両手で引いた。少し動いた。人間というのは、生きているあいだ、自分の重さの半分くらいを自分で持っているのだと思った。

(頭は持てない)

(持てないから、足からだ)

足首を持って、台車の縁まで引きずった。縁が高い。持ち上げて載せるのは無理だった。私は台車を横倒しにして、その上に転がして、それから台車ごと起こした。

起こしたときに、片方の腕が外へ垂れた。

(入れておかないと、車輪に)

私は腕を体の上に戻した。戻すときに手袋の外側が触れた。私は3秒ほど目を閉じた。

台車を押した。

道は坂である。前輪が下を向いた瞬間、私は両手で枠を掴んで、後ろへ体重をかけた。かけたつもりだった。

靴の裏が滑った。

雨のあとの土である。昼のうちに乾いたように見えていたが、乾いていたのは表だけだった。私の踵が10センチほど流れて、そのぶん台車が前へ出た。台車が前へ出ると、私の体は後ろへ残る。腕が伸びきった。

指が外れた。

台車は坂を下っていった。

最初はゆっくりだった。それから速くなった。私は追いかけた。二歩で追いつけると思った。追いつかなかった。台車は自分の重さを見つけて、そこから先は誰の許可も要らないという走り方をした。

二段目の縁に、矢穴の並んだ大きな石がある。到着した翌日、あの下から人が引き出された石ではない。もう一つ、その隣に残っていたほうである。

台車は、その角に当たった。

金属が石に当たる音が、谷に響いた。

一度目が壁に当たって、二度目が返ってきた。二度目のほうが大きく聞こえた。ここへ来た日の朝、私はこの谷が音を二度返すことを、寝床の中で知っていた。知っていたが、こういう形で確認したくはなかった。

台車は横倒しになり、黛はその先へ投げ出されて、底の平らなところまで転がっていった。

私は坂の途中で膝をついた。

音が消えたあと、5秒か6秒、何もなかった。

それから、上で灯りが点いた。

宿の二階である。窓が一つ、明るくなった。しばらくして、もう一つ点いた。

私は石の陰に入って、体を丸めた。丸めたところで隠れる大きさではない。それでも丸めた。

(見に来るな)

(頼むから、見に来るな)

窓に人影が映った。ガラスに顔を寄せているらしい輪郭が、こちらを向いていた。下は真っ暗である。灯りも点けていない。見えるはずがない。見えるはずがないと自分に言い聞かせながら、私は息を止めていた。

(息は、止めなくていい)

(止めても意味がない。ここからは見えない)

(意味はないが、止めてしまう)

影が動いた。窓から離れた。

灯りが一つ消えた。もう一つは、しばらく点いていた。

あとで数えると、私が石の陰から出るまでに4分かかっていた。

坂の下では、台車が横になったまま、車輪の一つが回り続けていた。回る速さがだんだん落ちて、最後に止まるまで、私はそれを見ていた。

2

底に着いたのが1時20分である。

黛は、思っていたより下まで来ていた。工程の一つ目が、私の手を離れたところで勝手に終わっていた。喜んでいい話ではないと分かっていたが、私は少しだけ助かったと思った。

(運ぶ手間が省けた、と考えてはいけない)

(考えてはいけないが、省けた)

上着の肩と背中が擦れて、土がついていた。転がったのだから当然である。私は手で払おうとして、途中でやめた。払っても、擦れた跡は消えない。

次は石の上である。

三人とも石の上にいた。一件目は下の石の上、二件目は水の中の石の段の上、三件目も下の段の平らな石の上だった。四人目も石の上に載っていなければ、揃わない。

私は灯りを持って、底を歩いた。

低い石はいくらでもあった。ただし、低い石というのは割った残りである。上の面が凸凹で、割れ口が尖っていて、人を寝かせられる形をしていない。

平らな石は、どれも高かった。

切り出したままのものは、胸の高さがある。上の面が水平で、広い。そこに載っていれば、たしかに三人と同じに見える。

(分かった。世の中はそういうふうにできている)

私は結局、いちばん手近な一つに決めた。台車が当たった、矢穴の並んだ石である。

台車を起こして、石の横につけた。

台車の床は、私の膝より少し上にある。そこへ黛を載せ直し、台車の上に自分も乗って、上半身を石のほうへ押し上げるという段取りである。順番を三度、頭の中で確認した。

一度目で、上半身は乗った。

肩から先が石の上に出た。私は台車の上で膝立ちになって、腰のあたりを両手で押した。押しながら、これは行けると思った。

行けると思った瞬間、上半身が横へずれた。

石の上の面は、平らではなかった。昼に見たときは平らに見えた。実際には、奥へ向かって傾いている。1度か2度である。人間の目には分からない。人間の目には分からないが、水と重さには分かる。雨の日の水がそちらへ流れていったから、そちらが低いのである。

そして、上の面は濡れていた。

黛は、石の上を静かに滑って、向こう側へ落ちた。

落ちた先は土だった。私は台車の上に膝立ちのまま、しばらく動かなかった。

(一回で決めるつもりだった)

(一回で決まった。決まり方が違っただけだ)

石を回り込んで、灯りを当てた。

上半身が下、足が石にもたれる形になっていた。さっきより、はるかに悪い姿勢だった。私は両手で足を引いて、まっすぐに直した。直したところで、石の上に載っていないことに変わりはない。

私は石を見上げた。

高さは、私の胸である。人一人分の重さを、胸の高さまで持ち上げる。台車を使っても、傾いた濡れた面に置いておくことはできない。

もう一度やっても、同じところを同じように滑る。

(別の方法が要る)

私は上を見た。

宿の窓が一つ、まだ点いていた。さっき消えなかったほうである。二階の、いちばん端でもいちばん手前でもない、真ん中あたりの部屋だった。

時計を見た。1時40分である。あの灯りは、0時50分から一度も消えていない。

(誰だ)

(誰でもいいから、寝てくれ)

灯りは点いたままだった。

3

作業小屋は、開いていた。

鍵はかかっていない。かける習慣がないのだと思う。閉めた丁場の道具を盗んでいく人間が、そもそもいない。

灯りで壁を舐めた。

鏨。ビシャン。名前の分からない金物。木の箱がいくつか。壁に立てかけた板。ロープ。荷を締める帯。石粉の袋が、奥に積んである。二十はあると柚野さんは言っていたが、見た感じではもっとあった。

そして、いちばん奥の壁に、鉄の脚が三本立てかけてあった。

(あった)

私は少しのあいだ、そこに立っていた。

二日前、私はこれを押さえる側にいた。人が四人で押しても動かなかった石が、若い男が鎖を引くだけで地面から離れた。あのとき私は「すごいな」と言った。

(あれができれば、胸の高さは何でもない)

脚を担いだ。一本が思ったより長い。小屋の戸から出すのに、斜めにして、二度やり直した。二本目、三本目と運んで、それから横木を運んだ。チェーンブロックは別に持った。鉄の塊で、片手では持てなかった。

三往復した。

組み始めたのが2時ごろである。

順番は覚えていた。脚を一本ずつ立てて、根元を石に噛ませて、上で留める。あの日、鎌田さんは私に一つだけ指示を出した。

(長さが揃わんと、倒れます)

私は三本の脚を、一つずつ確かめた。脚には穴が並んでいて、金具を差す位置で長さが変わる。上から数えて何番目か、三本とも同じにした。

同じにしてから、私は少しのあいだ、それを見ていた。

(揃った)

(揃うと、気持ちがいい)

(今、気持ちがよくなっている場合ではない)

門が立った。

一人でも立った。二日前に二度倒れたのは、私が押さえるのが下手だったからであって、道具のせいではなかったらしい。

そのとき、下のほうで犬が鳴いた。

谷の口の方向である。距離はある。一声ではなかった。長く、続けて鳴いた。

私は組み上がった門の脚を掴んだまま、動くのをやめた。

(犬に見られている)

(見られていない。犬は下にいる)

(では何に鳴いている)

犬は30秒ほど鳴いて、それからやんだ。やんだあとの静かさが、鳴いているあいだより長く感じられた。

風が向きを変えた。それまで谷を下っていた空気が、上へ動き始めた。私の顔に、宿のほうの匂いが来た。厨房の油の匂いである。夜のあいだも残っているものらしい。

私は横木にぶら下がっている鉄の塊を見上げた。

鎖が二本、垂れている。片方は輪になっていて、片方の先に鉤が付いている。

底の平らなところに、門だけが立っていた。何も吊っていない。真ん中の下には、まだ何もなかった。

4

荷を締める帯を、小屋から持ってきた。

幅が10センチほどある布の帯で、両端に金具が付いている。石を縛って運ぶためのものだと思う。私はそれを黛の胴に二重に回して、背中で締めた。

締めるときに、体が少し起きた。私は帯だけを見ることにした。帯は青かった。青いところだけを見ていれば、手は動いた。

鉤を金具に掛けた。

鎖を引いた。

歯が噛む音がした。一回引くと、鉤が指一本ぶん上がる。放しても下がらない。また引く。また上がる。

これは楽だった。恐ろしく楽だった。私の腕は、人ひとりを持ち上げる腕ではない。それでも上がる。上がるたびに、機械の中で歯が一つ進む音がする。

(すごいな)

(二日前と同じことを思っている)

体が地面から離れた。

膝が浮き、爪先が浮いた。私は引き続けた。石の上に載せるには、石の高さより上げなければならない。石は私の胸の高さである。胸より上まで上げて、そこから横へ動かす。それが段取りだった。

胸の高さを越えた。

私は念のため、もう少し引いた。ぶつけたくなかったからである。石の角に足を引っかけて、また落ちるのは避けたかった。

顔の高さを越えた。

(このへんでいい)

私は鎖から手を離した。

そして、門を押した。

動かなかった。

もう一度押した。脚の根元が石を噛んでいる。当たり前である。私が自分でそうした。倒れないように噛ませたのだから、動かないのが正しい。

(門は動かない)

(動かないなら、吊ったまま、横へ)

私は下がった帯を掴んで、石のほうへ引いた。50センチほど寄った。手を放すと、戻った。振り子である。私は二度、三度と引いた。引くたびに寄って、放すたびに戻った。

そこで、私はようやく理解した。

門は、石の横に立っている。石の上ではない。石の上に門を立てることはできない。脚を置く場所がないからである。

つまり、この道具でどれだけ上げても、石の上には載らない。

上げることはできる。上げてから、横へ動かすことができない。

(では、下ろす)

(下ろして、別の方法を考える)

私は輪になっているほうの鎖を掴んで、逆に引いた。

上がった。

もう一度引いた。また上がった。

(違う。こっちじゃない)

私はもう片方を引いた。何も起きなかった。強く引いた。何も起きなかった。

灯りを鉄の塊に当てた。

側面に小さな金具が付いている。爪のようなものが、歯車の歯に噛んでいるのが見えた。これを外せば下りる。理屈は分かった。

指を入れた。届かなかった。手袋のぶんだけ厚い。私は手袋を外した。外した手で触った。冷たかった。冷たいだけで、動かなかった。

私は爪を押した。滑った。もう一度押した。滑った。指の腹が切れた。

(力の向きが違う)

(向きを変えろ。押すんじゃない。起こすんだ)

私は下から起こすように押した。爪が少し動いた。動いた瞬間、上の重さが一気にかかって、鎖が10センチほど落ちて、そこで止まった。

止まった理由を、私は灯りで確かめた。

横木から垂れた鎖が、石の角に触れていた。落ちた勢いで、鎖の輪が石の角の縁に食い込み、その上に上の重さが乗っていた。

引いても動かない。押しても動かない。

私は爪をもう一度起こした。何も起きなかった。今度は、機械のほうが動かないのではなく、鎖のほうが動かなかった。

私は両手で鎖を掴んで、揺すった。石の角と鉄の輪が擦れる音がした。谷が、その音を二度返した。

私は手を離した。

音が消えたあと、私は上を見た。

黛は、地面から2メートルの高さで止まっていた。青い帯で胴を締められて、腕が両側に垂れている。門の真ん中である。左右どちらにも動かない。上へも下へも動かない。

私は座り込んだ。

時計を見た。4時40分だった。

灯りを消した。消しても、輪郭は見えた。空が、さっきより少しだけ薄くなっていた。

5

(順番だ)

(吊ったものは、後回しにする。ほかにやれることをやる)

私は立ち上がった。立ち上がるときに、膝が二度鳴った。

作業小屋へ行った。道具箱の蓋は開いたままだった。いちばん上に、頭の大きな金槌が載っている。

持ち上げた。重かった。柚野さんが「振らんでええんです」と言った意味が、持った瞬間に分かった。これは振るものではない。これは、持ち上げて、手を放すだけの道具である。

柄を布で拭いた。端から端まで、二度拭いた。それから握るところをもう一度拭いた。

頭のほうは、拭かなかった。

拭こうとして、布を近づけて、途中で手が止まった。理由は自分でもよく分からない。指紋は柄にしか付かない、と自分に言い聞かせた。言い聞かせて、私は箱に戻した。

戻すときに、私はほかの道具を見た。

鏨が五本、頭を揃えて並んでいる。その上に、金槌が斜めに載っていた。妻が置いたままである。

(斜めだ)

(斜めだと、蓋が閉まらない)

私は金槌を持ち直して、鏨と平行になるように置き直した。柄の向きを揃えて、頭の位置を揃えた。少し離れて見て、5ミリほど直した。

(これでいい)

蓋を閉めた。閉めてから、閉める必要があったのかを考えたが、開いていたものが閉まっているほうが自然だという結論になった。

次は足跡である。

底の土は柔らかい。私の靴跡が、あちこちに残っていた。台車を押した跡も、引きずった跡もある。

石粉の袋を担いだ。一袋が重い。二袋目を取りに戻り、三袋目を取りに戻った。三往復である。

撒いた。

袋の口を切って、腕を振って、扇のように撒いた。土の色が消えて、白くなった。白くなると気持ちがよかった。私は撒き続けた。

一袋では足りなかった。二袋目を開けた。二袋目の途中で、範囲を広げたほうがいいと気づいた。一部だけ白いのは不自然である。丁場の底なのだから、全体が白くてもおかしくない。

三袋目を開けた。

撒き終わったとき、底の平らなところは、一面が白かった。

(やりすぎたか)

(いや、ここは石を切っていた場所だ。白くて当たり前だ)

そして私は、その白い上を、道具を返しに三往復した。

厨房の窓に灯りが点いたのは、5時20分ごろである。

私は石の陰から見た。誰かが起きた。惣領さんだと思った。彼は毎朝5時に窯へ火を入れる人である。今日は焼き石を出さないはずだが、火は入れるのかもしれない。

(急げ)

坂を上がりかけて、私は戻った。地面に何か落ちている。

黛の携帯だった。台車が石に当たったあたりに落ちていた。画面が割れていた。

(落ちているのは、不自然か)

(落ちるだろうか。撮影に来た人間が、機材を置いて、携帯だけ落とすだろうか)

私は拾って、上着の内ポケットに入れた。彼のポケットである。ボタンを留めた。

それから、白いところを見た。

さっきと違っていた。

夜露が下りていた。石の粉は水を吸って、少し沈んで、表面が締まっていた。私が腕を振って撒いた跡が、細かい筋になって残り、それが一方向に揃っていた。刷毛で掃いたようになっていた。

その上に、私の靴跡が何本も往復していた。

(消せない)

(今から消すには、また撒くしかない。撒けば、また同じことになる)

空が薄くなっていた。段の縁が見えるようになっていた。

私は台車を見た。坂の途中に横倒しのままである。起こして戻すには、坂を上げなければならない。上げるには、時間がいる。

(置いていく)

私は坂を上がった。

上がりながら一度だけ振り返った。

碧い水を湛えた底に、白い地面が広がっていた。矢穴の並んだ石があり、その横に鉄の門が立ち、門の真ん中に、男が一人、地面から2メートルの高さで吊られていた。腕が両側に垂れて、風がないので動かなかった。

白い地面には、靴の跡が何度も往復していた。

(下ろし方が、分からなかっただけだ)

土間の戸を開けたのが、5時50分である。厨房の灯りは点いていたが、廊下には誰もいなかった。

部屋に戻って、上着を丸めて押し入れに入れた。手を二度洗った。布団に入ったのが6時ちょうどである。

小春は眠っていた。呼吸の間隔が一定だった。

私は天井を見た。石ではなく、木だった。木でよかったと思った。それだけを10分ほど思っていた。

第七章 作者の死

1

7時10分に、声で起こされた。

眠ったのは6時である。1時間しか経っていない。体が起き上がるより先に、私は自分の手を見た。両手とも、指の腹に赤黒いものが付いていた。落としたつもりだったが、爪のあいだに残っていた。

私は布団の上で、それを寝間着の裾で二度こすった。

小春はもう起きていた。窓は開けていなかった。

廊下に人が走る音がした。今岡の声で、惣領を呼んでいた。

外へ出ると、全員がもう坂の上にいた。

丁場の縁である。上から二段目の、道の広くなったところに、宿の人間と客が並んで立っていた。誰も喋らなかった。下を向いて、動かなかった。

私はいちばん端に立った。

底が、白かった。

昨夜、私が撒いたときは、ただの白い粉だった。夜露で締まって、朝の光が横から当たると、白ではなく灰色に見えた。表面に細かい筋が一方向に並んでいる。刷毛で掃いたようだった。丁場の底の平らな部分が、そこだけ別の場所のようになっていた。

その上に、靴の跡が何本も往復していた。

そして、矢穴の並んだ石の横に、鉄の門が立っていた。

門の真ん中に、男が一人、吊られていた。

地面から2メートル。青い帯で胴を締められて、腕が両側に垂れている。風がないので、動かなかった。

(見上げると、こうなるのか)

私は昨夜、下からしか見ていない。上から見ると、まったく違うものに見えた。

今岡が座り込んだ。惣領が彼女の肩を支えて、片手で電話をかけた。

「柚野くん」

惣領が言った。

「何時に降りた?」

「7時です」

柚野は縁に手をついて、そこから動かずに答えた。声が乾いていた。

「毎朝、7時に降ります」

「それで」

「……粉のほうが、先に気になって」

彼は下を指した。

「誰か、昨日ここを刷いたんかと思うたんです。おれは、刷いてません。刷く理由がありません。粉は滑らんように撒くもんで、あんなに全面には撒きません」

「それで」

「それで、変やなと思うて、三歩ほど歩いて」

彼はそこで言葉を切った。

「上を、見ました」

私は、自分の口の中が乾いていくのを感じた。

(気づかなかったのか)

(吊ってあるものに、気づかなかったのか)

「柚野さん」

私はつい聞いてしまった。

「最初、見えなかったんですか?」

柚野は私のほうを見た。目の焦点が合っていなかった。

「あそこは、吊るところですけん」

彼は言った。

「石を吊ります。毎日は吊りませんけど、吊ってあることは、あります。何か吊ってあるのは、おれには普通なんです」

(普通)

「粉のほうが、普通やないです」

惣領の電話が繋がった。彼は同じことを何度も言っていた。四人目です、と言った。今度は違います、と言った。それから相手の話を長く聞いて、切った。

「昼までに、道が開くそうです」

彼は言った。

「あちら側から掘り始めています。開いたらすぐ上がると」

そのとき、私の右手を誰かが取った。

結城だった。いつのまにか隣に来ていた。彼は私の手のひらを開かせて、光にかざした。

「その手は」

私は自分の手を見た。指の付け根から手首にかけて、赤茶色の筋が三本ついていた。鉄の錆である。落としたつもりだったが、皮膚の皺に入り込んでいた。

(終わった)

「壁に、手をつきまして」

私は言った。声が思ったより普通に出た。

「夜中に、廊下で。暗かったので」

「なるほど」

結城は私の手を離した。

「この宿は、壁も石でしたね」

彼は自分で頷いて、それきりその話をしなかった。

(助かった)

(助かったが、あの人はいつもこうだ)

(そして、いつも、まったく違うところへ行く)

結城は縁のいちばん前へ進み出て、そこに立った。

下を見ていた。長いあいだ見ていた。眼鏡を外して拭き、かけ直して、また見た。

その横顔が、少しずつ変わっていくのが分かった。

驚いている顔ではなかった。悼んでいる顔でもなかった。彼は、面白いものを見つけた人の顔をしていた。

2

10時半に、結城が全員を丁場の縁へ集めた。

「皆さん。少しお時間をいただけますか?」

惣領が最初に断った。

「先生。警察が来ます」

「来る前に申し上げたいのです。来てしまうと、彼らは彼らの手続きで進めます。手続きというのは、読むことをしません」

「読む」

「読みます、私は」

結城は両手を後ろに組んで、縁に立った。下からの風が彼の上着の裾を持ち上げた。

(この人は、なぜいつも風上に立つのだろう)

全員が集まった。私と小春。惣領と今岡と柚野。そして鎌田である。鎌田は輪の外側にいた。作業着の上に前掛けを着けたままだった。

「まず、結論を申し上げます」

結城が言った。

「四件は、同一の人物によるものです」

柚野が顔を上げた。

「四件」

「三件ではありません。四件です」

「けど先生、あれは──」

「順を追います」

結城は指を一本立てた。

「昨日、私は申し上げました。三つの現場だけが片付いている、と。壊れたもののそばに、必ず、揃えて置かれた道具がある。今朝、四つ目が出ました。私は先ほど、作業小屋を見てきました」

(見てきた)

私の指先が冷たくなった。

「道具箱の蓋が閉まっていました。開けました。中に鏨が五本、頭を揃えて並んでいます。そのいちばん上に、玄能が一つ、鏨と平行に置かれています。柄の向きが揃っています」

彼は指を二本にした。

「あれは、置いた人がいます。あの置き方は、落ちてああなるものではありません」

私は膝の裏に力を入れた。入れないと、そこから折れそうだった。

「凶器を、道具箱に、揃えて戻す。──三つの現場と同じです」

誰も何も言わなかった。

「ここまでで、四件が一つに繋がりました。ですが」

結城は少し間を取った。取り方が、昨日より長かった。

「ここからが、この事件の本題です」

(本題)

「四つ目は、明らかに違うのです」

彼は下を指した。

「三つまでは、事故に見えるように作られていました。石が落ちた。板が抜けていた。綱が切れた。どれも、放っておけば事故で処理されるものです。実際、二件は処理されました」

彼は指を折った。

「三つまでは、被害者は現場で死んでいます。四つ目は、運ばれている。坂に台車の跡があり、そこの石の上には、人ひとりぶんの幅で、土と血の擦れた跡が残っています。──一度、載せようとして、載せていない」

もう一本折った。

「三つまでは、地に伏せていました。四つ目だけが、宙にあります」

もう一本折った。

「そして、これがいちばん大きい」

彼は少し声を落とした。

「三つまで、彼は道具に殺させていました。石に、水に、綱に。自分の手は出していない。四つ目で、彼は初めて、自分の手で殺しています」

今岡が口を押さえた。

「しかも、一度ではありません。何度も打っている。一度で足りたはずのものを、何度もです」

「先生」

惣領が低い声で言った。結城は続けた。

「これを激情と呼ぶのは簡単です。ですが、私はそう読みません。──過剰です。過剰とは、必要を超えた部分のことです。そして人は、必要を超えた部分にしか現れません」

四本目を折って、彼は手を下ろした。

「──なぜでしょう?」

誰も答えなかった。

「同じ人間が作ったのに、四つ目だけが、それまでの文法を全部破っている。私はこれを、ずっと考えていました」

彼は上着の内ポケットから、小さな手帳を出した。開かなかった。手に持っただけだった。

「ロラン・バルトという批評家が、1968年に短い文章を書いています。『作者の死』といいます」

(始まった)

「主旨は単純です。作品の意味は、作者の意図に還元されない。書かれたものが何を意味するかを決めるのは、書いた本人ではなく、読む者である。──読者が生まれるためには、作者は死ななければならない」

彼は手帳を持ったまま、下を指した。

「これは、そういう現場です」

今岡が小さな声で「何のお話でしょう」と言った。結城は答えずに続けた。

「三つまで、彼は自分を消していました。事故に見せるというのは、作った人間がいないことにする、ということです。作者は最初からいなかったことにする。それが三つまでの文法でした」

彼は縁から半歩下がった。

「ところが四つ目で、彼は自分を消しませんでした。運びました。石の上に載せようとして、載せませんでした。吊りました。粉を撒いて、その上を歩きました。──全部、痕跡です。全部、残ります」

「じゃあ、失敗したんでしょ」

柚野が言った。

「それは違います」

結城は即答した。

「失敗ではありません。失敗であれば、三つまでも失敗しているはずです。三つ完璧にできた人間が、四つ目だけ全部失敗することはありません」

(あるんだ)

(ここに、その人間がいるんだ)

「これは、意志です」

結城は言った。

「彼は、自分の署名を消しにかかったのです。──いいですか。三つまでの現場には、彼の文法があった。事故に見せるという文法です。文法とは署名です。四つ目で、彼はその署名を、自分の手で破壊した」

彼は下の門を指した。

「三つまでは、地に伏せていた。四つ目だけが宙にある。彼は、見られることを選んだのです」

風が下から吹き上がってきた。

「作者は死ななければならない。彼は、自分の手で、自分を殺したのです」

誰も動かなかった。

私は下を見た。

台車が坂の途中に横倒しのまま残っていた。私が起こすのを諦めたものである。

「あれもです」

結城が言った。

「運搬の道具が、途中に放置されている。彼は帰り道を用意していない。作品が完成した瞬間に、作者は現場から消える。──たいへん徹底しています」

(違う)

(時間がなかっただけだ)

(空が白んだからだ)

「私は、こういうものを読むために20年ばかり訓練を受けてきましたが」

結城は言った。

「これほど教科書どおりの実演を見たのは初めてです。幸運でした」

(幸運と言ったな、今)

「もっとも、幸運というのは正確ではありません。読める者がいなければ、読まれないまま処理されて終わりました。そういう意味では、私がここにいたことは、この作品にとっての幸運です」

(作品にとっての幸運)

(誰の話をしているんだ)

結城は輪を見渡した。

「では、誰が?」

3

「私は昨日から、皆さんの手元を見ていました」

結城は言った。

「四つの現場に共通するのは、片付いていることです。片付けるというのは、性格ではありません。習慣です。習慣は、隠せません。人は、隠すべきことは隠せますが、いつもやっていることは隠せない」

彼は歩き始めた。輪の内側を、ゆっくり回った。

「今岡さん」

「はい」

「あなたは、皿を下げるとき、重ねてから持ちます。重ねるとき、絵柄の向きは見ていません」

「……はあ」

「惣領さん。あなたは、まな板を洗ったあと、立てて乾かします。立てる向きは、日によって違います」

惣領が眉を寄せた。

「柚野さん。あなたは、道具を戻すとき、箱に入れます。入れるだけです。向きは揃えません。昨日、私は見ています」

柚野が口を開けて、閉じた。

結城は歩くのをやめた。

輪の外側に立っている男の前だった。

「鎌田さん」

鎌田は顔を上げた。

「あなたは、鏨を研いだあと、五本の頭を揃えて置かれました。膳を運ばれるとき、皿の縁を一直線に揃えて置かれました。昨日、湯呑みをお持ちくださったとき、模様のある面を全部こちらへ向けて置かれました」

(見ていた)

私も見ていた。三度とも見ていた。見ていて、何とも思わなかった。

「私は、湯呑みでそれをやる人を、初めて見ました」

結城は言った。

「あなたです」

鎌田は動かなかった。

長いあいだ動かなかった。それから、首を横に振った。

「そんなつもりは、ありません」

「当然です」

結城は即座に返した。

「あなたに自覚があったなら、それは作品ではなく計算だ」

鎌田が口を開けた。

「わしはただ、あの紙を──」

「それは動機です」

結城は遮った。手のひらを立てて、はっきりと遮った。

「私は動機を語りません。動機は作品の外にあります。作品の外にあるものは、作品の意味を決めません。私が申し上げているのは、意味です。動機と意味は、別のものです」

鎌田は、開けた口を閉じた。

(今、この人は何を言おうとした)

(紙、と言った)

「片付けたのは」

鎌田がもう一度言った。声が小さくなっていた。

「片付けたのは、癖です」

「癖とは」

結城は言った。

「意図せずに現れる意志のことです」

鎌田は黙った。

私はそのとき、この人がもう反論の言葉を持っていないことに気づいた。喋れないのではない。喋る場所が、一つずつ塞がれていく。何を言っても、それは結城の理論の中で意味を与えられてしまう。

(これは、まずいのではないか)

(何がまずいのか分からないが、まずい)

「もう一つだけ、申し上げます」

結城は下を指した。

「矢穴です」

彼は縁のいちばん前に戻った。

「石を割るために、四角い穴を穿つ。矢と楔を差して、順に叩く。割った石には、その穴が半分ずつ残ります。──ですが、私が面白いと思ったのは、そこではありません」

彼は振り返った。

「割られなかった石にも、穴だけは残るのです」

柚野が息を吸う音がした。

「穿ったが、割らなかった。あるいは、割れなかった。そういう石が、この谷にはいくつも転がっている。穴だけが残っている。何のために穿ったのか、もう誰にも分からない穴です」

彼は門を指した。

「彼は、その石を選びました。矢穴が並んでいて、割られなかった石です。その下に、人を吊った」

(選んでいない)

(手近だっただけだ)

(台車がぶつかった石だ)

「割られなかったものの下に、人を吊る。──私はこれを見て、ようやく全体が分かりました」

結城は静かに言った。

「あれは、署名の話です」

鎌田が一歩、前に出た。

「先生」

「はい」

「あれは、わしやないです」

はっきりした声だった。この三日で、私が聞いた彼の声の中でいちばん大きかった。

「四人目は、わしやない」

結城は少しのあいだ、彼を見ていた。

「では」

彼は聞いた。

「どなたが、やったとおっしゃるのですか?」

鎌田は答えなかった。

答えられなかった。口が動いて、何も出てこなかった。彼はもう一度、下を見た。それから、私たちのほうを見た。誰の顔にも、彼を助けるものはなかった。

「否認もまた」

結城が言った。

「作品の一部です」

4

「あの」

小春の声だった。

私は心臓が一度、完全に止まったのを感じた。

(やめてくれ)

(頼むから、やめてくれ)

「なんでしょう、奥様」

結城が振り返った。

小春は羽織の襟に手をやって、直した。それから言った。

「あの玄能、道具箱に戻っておりましたでしょう」

「戻っておりました」

「戻した方は」

彼女は少し首を傾げた。

「片付けをなさる方ですわ」

「小春」

私は妻の名前を呼んだ。呼んでどうするつもりだったのかは、自分でも分からない。

その上に、結城の声が被さった。

「それは違いますよ、奥様!」

彼は縁から二歩、こちらへ来た。両手を広げていた。

「たいへん惜しい。しかし、そこが違うのです」

(助かった)

(また助かった)

(また、この人に助けられた)

「片付けをする者が、道具を戻すのではありません」

結城は言った。

「戻すことが仕事である者が、戻すのです」

彼は鎌田のほうを指した。

「石工は、道具を箱に戻します。それは片付けではない。明日も使うという意思表示です。使い終わったから仕舞うのではなく、明日また出すために仕舞う。だから向きが揃う。向きが揃っていれば、明日、手を伸ばすだけで取れるからです」

(そういうものなのか)

「一方、片付けをする人間は、揃えません。片付けというのは、視界から消すことですから。箱に入れば終わりです。柚野さんがそうでした」

柚野が下を向いた。

「奥様」

結城は小春のほうを向いた。

「あなたは今、犯人が石工であることを、逆から証明してくださいました」

(何が起きた)

(今、何が起きた)

小春は少し考えているようだった。それから言った。

「でも、意味なんてないんじゃありませんこと?」

結城の動きが止まった。

「──と、おっしゃいますと」

「あの方、お石を地面に置いてお帰りになろうとしましたのよ」

(小春)

「わたくし、それだけのことだと思っておりましたの。難しいお話ではなくて」

私は自分の呼吸の音が、周りに聞こえているのではないかと思った。誰もこちらを見ていなかった。全員が結城を見ていた。

結城は、両手を後ろに組み直した。

そして、笑った。

「それは違いますよ、奥様」

彼は、さっきより静かに言った。

「意味がない、という読みそのものが、すでに一つの意味です」

「あら」

「作者に意図がないことは、作品に意味がないことを、少しも保証しません。むしろ逆です。意図のない場所にこそ、意味は最も純粋に現れる。──なぜなら、意図とは、意味を一つに限定しようとする力ですから。意図がなければ、意味は限定されない。限定されない意味を読み取るのが、読み手の仕事です」

彼は胸を張った。

「それを、私は今、やっているのです」

(誰か止めてくれ)

小春はしばらく黙っていた。

それから、頷いた。

「そう」

「はい」

「勉強になりましたわ」

彼女は羽織の袖を直して、それきり何も言わなかった。

結城は満足そうだった。

「奥様は、いつも本質に触れられる。触れて、そのまま通り過ぎていかれる。惜しいことです。もう半歩踏み込まれれば、ご自分で答えに着かれるでしょうに」

(踏み込ませるな)

(この人は、もう着いている)

(着いたところから、喋っているんだ)

私は膝が笑い始めるのを感じて、片手を近くの石についた。

誰も、私を見ていなかった。

5

結城は、鎌田のほうへ向き直った。

「鎌田さん」

鎌田は、もう反論しなかった。輪の外側に立ったまま、両手を体の横に垂らしていた。大きな手だった。指が太くて、爪が短く切ってある。

「私は、動機を語らないと申し上げました」

結城は言った。

「ですから、これは動機の話ではありません。この四つの現場が、何を語っているかという話です」

彼は一歩、近づいた。

「四つとも、名前についての作品です」

鎌田が顔を上げた。

「一つ目。石の下敷きです。石には矢穴が残っていた。誰かが割ろうとして、割らなかった石です。二つ目。水。掘った人間が、掘ったあとで放置した穴に溜まった水です。三つ目。修羅。石を引くための橇で、引いた人間の名前はどこにも残りません」

彼は指を四本目に折った。

「四つ目。吊りました。吊って、そのままにした。──ここで、それまでの三つが全部、意味を変えたのです」

彼は縁のほうへ手を振った。

「三つまでは、作った人間がいないことになっていました。四つ目で、作った人間がいることが分かった。分かった瞬間に、三つが遡って作品になった。順番が逆なのです。作者は、最後に生まれた。そして生まれた瞬間に、死んだ」

(何を言っているんだ)

(本気で言っているのか、この人は)

「石工は名を刻まない、とあなたはおっしゃった」

結城は言った。

「刻むのは死んだ人の名前だ、と。私はあれを、廊下で聞きました」

鎌田の肩が、少し動いた。

「40年、あなたは石を割り、磨き、据えてこられた。そのどこにも、あなたの名前はない。刻んだのは、全部、他人の名前です。──そういう人が、四つの現場を作った。そして四つ目で、自分の署名を自分で消した」

彼は言葉を切った。

「これほど一貫した仕事を、私は見たことがありません」

そして、言った。

「鎌田さん。あなたは、ご自分が天才であることに気づいておられなかった。──ただ、それだけです」

丁場が静かになった。

鎌田は動かなかった。

私は彼の顔を見ていた。困っている顔だった。三日間ずっとそうだったように、彼は困っていた。何を言われているのか分からない人の顔である。

その顔が、崩れた。

崩れる、という言葉が正確かどうかは分からない。目の下から順に、線が下がっていった。彼は口を開けて、何か言おうとして、息だけが出た。

「先生」

声が掠れていた。

「はい」

「わしは、字を彫るだけの人間です」

彼は言った。

「誰の字でも彫ります。頼まれたら彫ります。彫ったら、うちの名前は消します。石屋の名前が入っとる墓は、ありませんけん。それが仕事ですけん、それでええと思うとりました」

「ええ」

「40年、そうしてきました」

彼の手が震え始めた。大きな手が、体の横で、細かく震えていた。

「誰も、見とりません」

「私は見ました」

結城は言った。

「40年ぶんを、三日で読みました」

(それは自慢なのか)

鎌田は、そこで泣いた。

声は出さなかった。ただ、目から水が出て、頬を伝って、顎から前掛けに落ちた。彼はそれを拭かなかった。拭くという発想が、その瞬間の彼にはなかったのだと思う。

そして、頭を下げた。

深く、長く下げた。腰から折って、そのまま止まった。

「ありがとうございます」

(今)

(今、何と言った)

「先生に、読んでいただけて」

(読んでいただけて)

(この人は今、殺人犯だと言われたんだぞ)

(言われて、礼を言っているのか)

今岡が泣き出した。彼女は前掛けで顔を覆って、しゃがみ込んだ。惣領が下を向いて、拳を握っていた。柚野が「嘘や」と言った。二度言った。三度目は言葉にならなかった。

丁場の縁で、七人が立っていた。

一人が泣き、一人が頭を下げ、一人が拳を握り、一人が嘘やと言い、一人が満足そうに頷いていた。

(感動している)

(この人たちは、感動している)

(人が四人死んで、犯人が名乗りかけていて、それで、感動している)

(誰か、おかしいと言ってくれ)

私は自分の妻を見た。

小春は、丁場の底を見ていた。門でも、吊られた男でもなく、そのもっと向こうの、碧い水のほうを見ていた。何を考えているのかは、いつもどおり分からなかった。

鎌田が頭を上げた。

顔を拭いた。前掛けの端で、二度拭いた。それから、背筋を伸ばした。

「わしが、やりました」

彼は言った。

「四人とも、わしです」

「順に伺いましょう」

結城が言った。

「一人目は」

「楔を、抜きました。前の晩に、一つだけ。あの石は、三つで止めとりました。二つでも、しばらくは持ちます。しばらくは」

「二人目は」

「板です。足場の、真ん中の一枚を上げました。あそこは、下を覗こう思うたら、真ん中に乗ります」

「三人目は」

「綱に、刃を入れました。全部は切りません。半分だけ入れて、あとは重さでいきます」

彼は淡々と答えた。喋り方は、道具の説明をしていたときと同じだった。

「四人目は」

鎌田が、そこで初めて詰まった。

口が動いた。目が一度、私のほうを向いた気がした。私は息を止めた。

「……玄能で」

彼は言った。

「そうです」

結城が引き取った。

「あなたは玄能を使い、そして、道具箱に戻された。頭を揃えて。三つまでと同じように」

鎌田は、しばらく結城を見ていた。

それから、頷いた。

「はい」

「よく分かりました」

結城は満足そうに言った。

坂の下のほうから、重機の音が聞こえてきた。

道が、開こうとしていた。

終章

1

道が開いたのは、13時前だった。

向こう側から掘ってきた重機が、最後の土を横へ押しのけて、そこで止まった。ならしただけの、車一台がやっと通る幅である。その上を、警察の車が四台、上がってきた。

二日前とは人数が違った。制服と私服を合わせて、十人以上いた。

先頭で降りた私服に、私は見覚えがあった。二日前、楔を指で押して「乾いてますね」と言った人である。彼は玄関の前で立ち止まって、丁場のほうを一度見て、それから何も言わずに中へ入っていった。

鎌田は、土間で待っていた。

前掛けを外して、たたんで、脇に置いていた。私服が入ってくると、彼は立ち上がって頭を下げた。

「わしがやりました」

私服の足が止まった。

「四人ともです」

そのあと少しのあいだ、誰も動かなかった。私服は口を半分開けたまま、鎌田を見ていた。自分が二度、事故として処理して帰った現場の人間が、自分から名乗り出ているという事態を、頭の中で組み立て直しているように見えた。

「あの」

彼はやっと言った。

「順番にお伺いします。まず、お名前から」

「鎌田昭三です」

「……はい」

そこへ結城が横から入ってきた。

「私が説明しましょうか」

(やめろ)

「四件は同一犯です。三件は事故に見えるように作られていて、四件目だけが、そうではない。この差が重要でして──」

「あの、先生」

私服が手を上げた。

「あとで、順番に伺いますので」

「今のほうが早いと思いますが」

「順番に伺いますので」

結城は少し不服そうだった。

「では、あとで。私が申し上げなければ、これは処理されて終わっていましたので、その点だけは頭に置いていただければ」

(言わないと気が済まないのか)

私服は返事をしなかった。

取り調べは、食堂と談話室に分かれて行われた。宿泊客も一人ずつ呼ばれた。

私の番が来たのは、14時を回ってからである。

食堂の石のテーブルの向かいに、若い制服が座っていた。

「昨夜は、何時にお休みになりましたか?」

「──23時ごろです」

「物音などは」

「聞こえませんでした」

「夜中に、外へ出られましたか?」

「いいえ」

「分かりました」

それで終わった。

3分もかからなかった。彼は手帳を閉じて、「ご協力ありがとうございました」と言って、次の人を呼んだ。

(終わった)

(終わった、のか)

廊下へ出て、私は壁に手をついた。石が冷たかった。冷たさで、自分がまだ立っていることが分かった。

犯人が自分から名乗っている。名乗った人間の手口が、三件については警察の記録と合っている。合っていれば、それ以上は誰も掘らない。掘る理由がない。

小春が呼ばれたのは、そのあとだった。

私は談話室の入口の外に立って、待っていた。膝の裏が汗をかいていた。

小春はすぐ出てきた。

「何を聞かれた」

「よく眠れましたか、と」

「それだけか」

「あとは、お食事はいかがでしたか、と」

「食事」

「ええ。お答えしました」

彼女は襟を直して、廊下を歩いていった。

外に出ると、柚野が坂の途中に座っていた。

膝を抱えて、丁場のほうを見ていた。下では、まだ人が動いている。門から男が下ろされたのは、13時半ごろだった。下ろすのに、消防が来て、30分かかっていた。

私は隣に立った。何を言えばいいのか分からなかったので、何も言わなかった。

「雀部さん」

彼のほうから言った。

「はい」

「おれ、3年、あの人の後ろにおりました」

「はい」

「毎日です。毎日、同じもん見とったんです。同じ道具で、同じ石を、同じように触るのを、真後ろで見とりました」

彼は膝から顔を上げなかった。

「何も、読めんかったです」

私は返事をしなかった。

「あの先生は、三日で読んだって言うんです」

(読んでいない)

(あの人は、読んでいない)

(読んでいないんだ、柚野さん)

私は口を開けて、閉じた。

言えるはずがなかった。言えば、なぜそれを知っているのかを説明しなければならない。

柚野はしばらくしてから、立ち上がった。作業着の尻をはたいて、丁場のほうを見て、それから宿へ戻っていった。

厨房には、惣領がいた。

彼は窯の前にしゃがんで、火を落としていた。灰を掻き出して、鉄の板を外して、中に手を入れて温度を確かめていた。

「お昼を、作ります」

彼は私に気づいて言った。

「皆さん、朝から何も召し上がっていませんので」

「そんな、こんなときに」

「こんなときですので」

出てきたのは、握ったものだった。中には何も入っていない。塩だけである。汁は、いりこの出汁に大根を落としたものだった。

私は一つも食べられなかった。

小春は全部食べた。食べ終わってから、器を重ねて、厨房の入口へ持っていった。

「惣領さん」

惣領が振り返った。

「わたくし、こちらでいただいたものを、全部いただきました」

彼女は言った。

「一つも、残しておりません」

惣領は器を受け取って、そのまま持っていた。

何か言おうとしたようだった。口が動いた。動いて、そのままだった。

小春はそれ以上何も言わずに、食堂へ戻ってきた。

厨房の入口で、惣領は器を持ったまま、しばらく立っていた。

2

鎌田が連れて行かれたのは、15時である。

逮捕状はまだ出ていないと聞いた。任意で同行するという形だった。手は縛られていなかった。

彼は宿の玄関で、私物の入った布の袋を一つ持って立っていた。着替えているかと思ったが、作業着のままだった。ただし、白い粉は落としてあった。

宿の人間と客が、玄関の前に並んだ。

今岡が泣いていた。惣領が頭を下げた。柚野は少し離れたところに立って、こちらを見ていなかった。

鎌田は一人ずつに頭を下げた。私にも下げた。私も下げ返した。何に対して下げているのか、自分でも分からなかった。

車のほうへ歩きかけて、彼は足を止めた。

そして、振り返った。

「先生」

結城が前に出た。

「はい」

鎌田は、袋を持ち直した。

「あれは、どういう意味だったんでしょうか?」

(やめろ)

(この人は、また始めるぞ)

結城は、待っていた質問を受け取った顔をした。

「よくぞ聞いてくださいました」

(ほら見ろ)

「順に申し上げます。まず、四つの現場は、四つの独立した作品ではありません。連作です。連作というのは、一つ一つが完成していながら、並べたときに別のものになる形式のことです。あなたのなさったことは、まさにそれでした」

私服が二人、車のドアに手をかけたまま止まった。

「一つ目から三つ目までは、作者の不在を主題としています。事故に見えるということは、作った者がいないということです。あなたはそこで、ご自分を消しておられた。ところが、消すという行為には、消した者がいる。──ここに矛盾があります」

(誰も聞いていないぞ、と言いたいが、聞いている)

聞いていた。

制服の若い警官が、手帳を閉じて聞いていた。今岡が涙を拭くのをやめて聞いていた。柚野が、こちらを向いていた。

「四つ目で、あなたはその矛盾を、外へ出されました。運び、吊り、粉を撒き、その上を歩いた。全部、痕跡です。──なぜか。消すことでは消えないからです。消えるためには、いったん、現れなければならない」

結城は一歩、前に出た。

「作者は、最後に生まれます。そして、生まれた瞬間に死ぬ。あなたは40年かけてご自分を消してこられて、最後の一日で、消すために現れた。私はこれを、たいへん美しいと思いました」

(美しい)

(この人は今、殺人現場を美しいと言った)

鎌田は、聞いていた。

袋を両手で持って、少し前かがみになって、一言も聞き逃すまいという顔をしていた。頷いていた。何度も頷いていた。

そして、目が潤んでいた。

「そうですか」

彼は言った。

「そういうことでしたか」

(違う)

(違うんだ、鎌田さん)

(あなたは、四人目を殺していない)

(そして三人については、あなたは紙を止めたかっただけだ)

(あなた自身が、そう言いかけたじゃないか)

私は自分の指先を見た。震えていた。三日ぶんの震えが、今ごろまとめて来ていた。

鎌田は、深く頭を下げた。

「ありがとうございました」

「いえ」

結城は言った。

「読まれるべきものが読まれただけです」

「あの」

私服が横から言った。

「そろそろ」

「はい」

鎌田は素直に頷いて、車のほうへ歩いた。

途中で一度だけ、丁場のほうを見た。見て、それだけだった。

車に乗るとき、彼は乗る前に振り返って、玄関の前に並んだ人間をもう一度見た。

そのとき、彼は笑っていた。

はっきりと笑ったわけではない。口の端が、少し上がっただけである。だが私には分かった。この三日間、この人がその顔をしたのを、私は一度も見ていない。

ドアが閉まった。

車が坂を下りていった。開いたばかりの道の上を、ゆっくりと通って、木の陰に入って、見えなくなった。

「立派な方でした」

今岡が言った。

(立派)

「四人殺したんですよ」

柚野が言った。声が硬かった。

「そうねえ」

今岡は前掛けで目を押さえた。

「そうなんですけどねえ」

(誰も、この人たちを責められない)

(責められないが、おかしい)

(何かが、決定的におかしい)

小春が私の袖を引いた。

「あなた」

「なんだ」

「そろそろ、お昼にしません?」

「もう3時だ」

「あなた、召し上がっていないでしょう」

(この状況で、私の昼を心配しているのか)

「あとで、どこかで」

「そうね」

私たちは荷物を車に積んだ。今岡が玄関まで出てきて、何度も頭を下げた。惣領が包みを一つ、小春に渡した。中身は聞かなかった。

結城も帰るところだった。彼の車は、私たちの隣に停まっていた。

「雀部さん」

彼は鞄を後部座席に置いて、こちらへ来た。

「四度目でしたね」

「四度目でした」

「次はもう、偶然とは申しません。私はあなた方に、何か引き寄せられているのかもしれない」

(それはこっちの台詞だ)

「先生」

小春が言った。

「はい、奥様」

「あの鎌田さんという方は、天才でいらしたのですね」

「そうです」

結城は即答した。

「ご本人が気づいておられないほどに」

小春は、少し首を傾げた。

「それが理解できたのは、結城先生も天才だからではないでしょうか?」

結城の動きが、そこで一度止まった。

彼は眼鏡に手をやって、位置を直した。それから、真面目な顔で答えた。

「はい。そうかもしれません。その可能性は、否定できません」

(いや、否定しろよ)

(そこは否定するところだろう)

「天才を読むには、読む側にも同じだけのものが要ります。これは傲慢ではなく、構造の話です。低いところから高いところは見えません。──もっとも、私はこういうことを、あまり自分から申しません」

(今、申したじゃないか)

「申しませんが、奥様に聞かれましたので」

(聞かれたら言うのか)

小春は「そうですの」と言って、それきり黙った。

結城は自分の車のドアを開けて、それから、思い出したように振り返った。

「そうだ。奥様」

(来た)

私は、この人のこの声を知っている。四度目である。何かを思いついて、何の悪気もなく、いちばん触ってはいけないところへ手を伸ばすときの声だった。

「初日に、おっしゃっていましたね」

「何をでしょう?」

「石は3時間温めるものだと。板前さんの説明を、あなたは復唱された。3時間、と」

「申しましたかしら?」

「申されました。私はあれを覚えております」

結城は、車のドアに手をかけたまま言った。

「実に慧眼でした。──この事件は、結局、温度の事件でしたね」

私の心臓が、一度止まった。

止まって、それから動き出した。

何も起こらなかった。

結城は自分の言葉に満足した顔をして、一人で頷いていた。

「石は温まりにくく、冷めにくい。人もまた同じです。ここの皆さんが、あの方に対して抱いておられた気持ちも、三日では冷めない。──いい比喩でしょう。今、思いつきました」

(比喩の話をしていたのか)

(この人は、比喩の話をしていたのか)

「それでは。またどこかで」

「いえ、もう」

「またどこかで」

彼は車に乗って、先に出ていった。ウィンカーを出して、坂を下りていった。

私と小春も車に乗った。

エンジンをかけて、私はしばらく動かなかった。ハンドルに手を置いたまま、両方の手のひらを見た。錆はもう落ちていた。皺の中に残っていたものも、今朝から何度も洗ったので、消えていた。

「あなた」

「なんだ」

「次は、どういたしましょう」

私はエンジンの音を聞いていた。

「次」

「ええ」

「──どこがいい」

「お魚でも、お茸でもないところがいいわ」

「じゃあ、何が?」

「お米」

小春は膝の上で手を組んだ。

「ちゃんと炊いてくださるところ」

「炊かない宿があるものか」

「ありますのよ」

私は車を出した。

坂を下って、崩れたところをならしただけの道を、徐行で通った。片側に土が積んである。まだ細かい石が落ちてくる。

谷の口まで下りて、そこで道が二車線になった。

バックミラーに、白い斜面が映っていた。

カーブを一つ曲がると、消えた。

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