2015年7月24日金曜日

英語教育は国をあげて取り組むことか?

今日は以下の書籍をご紹介します.
施光恒 著『英語化は愚民化』
内容には隅々まで賛同します.

私も2年ほど前にこのブログで,
英語教育について
続・英語教育について
のような記事を書いておりましたので,興味深く読ませてもらいました.
私が上記の記事で直感混じりで雑に書き殴っていることを,施氏が丁寧に論じてくれているというものです.
ご一読をオススメします.

この際,私も一大学教員としてあらためて訴えたいのは,
日本人が母国語ではない言語で仕事や教育をしてしまうと,日本人や日本という国が持っている能力を最大限に発揮できなくなる.
ということです.
その理由は,施氏の著書や私の過去記事でも述べているように,日本語以外の言語教育(英語教育)に時間をとられてしまうと,他のすべき事に時間が割けなくなるからです.
そしてこれは,日本がそもそも英語を勉強しなくても日本語で仕事や勉強が完結できる環境にあるという,世界屈指のアドバンテージを捨てることを意味します.

他の国々が英語教育に時間を割いているのは,海外に職を求めなければならないほど国内が不安定であり,さらには自国の言語では教育コンテンツが乏しいからです.
特にその国の礎となる産業である,農業,工業といったものを発展させるための科学技術については,英語以外の言語でそれを学べる国というのは限られています.

日本はこれに対し明治初期において,「翻訳」という作業に勤しむことで日本語の語彙を増やし,高等教育に耐える言語にしました.
その後も,新しい言葉が輸入されれば新しい日本語を作って対応し,外国語を学ばなくとも高度な学術的活動を営めるようにしていったのです.

昨今の英語教育を推進する動きというのは,その先人たちの努力を踏みにじるものと言ってもよいでしょう.
残念ですが,おおよそ真っ当な人間の考えではありません.

私の後輩に,発展途上国に出張しながら研究をしている人がいるのですが,その人がこんなことを言っていました.
「そこでは学校や大学は全部英語なんです.日本人もあれくらいやらないと,そのうち負けてしまいます」
と.

海外の教育事情に触れてきた少なくない人が,この人と同じような感想を持つのかもしれません.
しかし,残念ながら発展途上国は英語で教育している限り発展途上国のままです.

「高い教育を受けるためには,英語が使えなければならない」
そして,
「英語による高い教育を受けていなければ,仕事の生産性を高めたり,社会的地位を高められない」
という状況は,その国の力を削ぎます.
英語が使える人と,そうでない人,という図式ができてしまい,国力が分散してしまうからです.

こうした話をすると,
「英語による教育を続けていれば,そのうちその国民全体が英語を操れるようになるわけだから,長期的には良いことではないか? 日本が目指している英語教育もそれではないか?」
という反論が出てきそうですが,これも残念ながら現実にはそうはなりません.

英語による教育を受けた人にしても,日常会話は自国の言語を使います.
関西人の家族が関東に移り住んでも,家庭内では関西弁になることと一緒です.
これは仕方がないことです.家族や友人との親密な会話や,仕事や政治に関わる重大な意思疎通では,使い慣れた言語を使うのが当然というものです.
そこでは英語はあくまで教育を受けるための媒体でしかないわけで,自国の言語を捨てるという選択をしない限り,その国全体の底上げには寄与しません.

現に,英語による教育しかできない国々では,富める者とそうでない者とに二分され,その溝は埋まりません.
富める者がそうでない者に手を差し伸べようとしても,そこには英語による知識というハードルが待ち構えています.これを突破するのは容易では無いのです.

逆に,自国の言語で高度な教育を受けることができれば,その教育された者を媒介した波及効果は大きくなるでしょう.かつての日本がそうであったように.

「英語で勉強しなければ,そのうち負けてしまいます・・・」という認識についても,それとは逆の状況があります.
海外滞在されている大学教員の方が言われていたのですが,フィリピンやシンガポール,マレーシアといった英語教育が盛んなところからの留学生と,日本人留学生とを比較すると,やっぱり日本人の方が優れているというのです(ちなみに学問分野としては複合領域です).

どういうことかと言うと,日本の学生は英語は不得手なのですが,知識や論理がしっかりしているから,とのこと.
そこはやはり基礎的な教育の質や,専門的知識についても予め日本語で勉強できているということが強く現れるようです.
どれだけ英語が使えても,中身が間違っていたら意味がありません.
逆に言えば,知識や論理がしっかりしていないと,「英語ができる」というアドバテージはそれほど働かないということです.

こうしたことを説明するにはちょっと極端な例かもしれませんが,
例えば,ある2人の学生に [ 2 × 3 + 1 = ?] という問題を出したとします.

これに対し一人は流暢な言葉で,
「2×3というのは2を3回分足し合わせるということを意味するので,2+2+2ということですから,それにさらに1が加わった場合の答えが何かを意味するのですから,そうですねぇ,この答えは8です」
と答えたとします

もう一人は片言で,
「7です」
とだけ答えたとします.

どちらが優秀で,どちらがイノベーティブで,どちらが社会貢献できる人材でしょうか.
極端な例ですが,つまりはそういうことなのです.
そして,これはかなり本質的なところで「超えられない壁」として前者である学生の前に立ちはだかってしまいます.

それ故,前者のような学生を,今後の日本でもたくさん輩出する可能性があるから「英語化は愚民化」だと施氏は断じるのです.

日本人の研究者が英語論文を読むのに苦労しないのも(ある程度苦労するでしょうけど),それは,英語論文にとりかかる以前に,日本語による専門的な勉強ができてしまえるので,専門的な単語であってもそれが何を意味するのか,この学問領域ではどういう捉え方をされているのか,といったことを勉強する下地がたくさんあるからです.

私も学生の頃には何気なくやっていたことですが,これはかなり大きなことだと思います.
そうでなければ,よほど英語に対する適正が高い人間でなければ,研究活動や学術的活動に取り組むことはできない,深い思索を巡らすことはできない,ということになります.

日本は今,国民全体が英語を使えなければ立ち行かない状態でしょうか?
現在の高い教育レベルをわざわざ下げてまで対応しなければいけないことでしょうか?

そのあたりを一瞥してみますと,「英語化は愚民化だ」という危惧は,もっと強く持たれてもおかしくないはずです.



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