2015年8月15日土曜日

中立的な政治教育について

18歳からの選挙投票が始まること受けて,教育現場における「政治」が話題となっています.
特に学校現場における政治的中立や教員や生徒による政治的活動の制限についての意見が目立っているでしょうか.

たしかに,正しいとされるものを「教える場」であることを要求される学校においては,生徒をできるだけ政治的中立な環境に置くことが望まれ,その彼ら自身も政治的活動に勤しむことは控えるべきでしょう.
とは言え,どのような発言や観点であれ,なにかしらの政治的イデオロギーから影響を受けたものですので,一概に「中立」とか「これは政治的だ」と判別することは困難です.

ところで私たちが勤めている大学ではどうかといえば,はっきり言って政治的なものを中立に見たり扱ったり,その政治的活動を制限するということは事実上不可能に近いです.

なぜなら,学術的に物事を考えていくと,必ず物事を抽象化するようになるからです.どのような領域であれ,「世界はこのような法則性で成り立っている」という視座を使って考えることになりますから,それをどこからどこまでの領域に当てはめるのかを決めることは極めて難しい話です.

一見政治とは無関係な学問領域の分かりやすい例として,スポーツにおけるコーチング学を考えてみましょう.
そこでは,選手の能力をより多く引き出すためにはどうすれば良いか? より効率よく強化するためにはどうすれば良いか? といった着眼点から議論されますが,突き詰めていけばそれは「人はどのように扱われたら能力を発揮するか」とか,「どのようなアプローチが効率よく人の能力を高めるか」といった抽象的な話にまで及ぶことになります.
つまり,「人(選手)や集団(チーム)はどのように扱われるべきか」という議論になっていくのですから,こうした論議は政治的な話にも容易に読み替えられることが分かるかと思います.
「いやいや,スポーツの研究はスポーツだけに言えることであって,政治には適用されないよ」と思われるかもしれませんが,スポーツと政治の線引というのは曖昧なものです.
もっと言えば,政治とは形を変えたスポーツ活動であるとも捉えられるわけで,これについては過去記事でまとめたこともありますので興味のある方はこちらをどうぞ.
人間はスポーツする存在である

そのようなわけで,これはスポーツ科学に限らず,社会学や経済学はもちろんのこと,生物学や工学,医学,文学といった領域での学問であっても,それを深めていけば必ず,政治的な論議(正しくは「いかなる領域の論議」)も可能なテーマが発生します
これは学術活動をやっていれば仕方がないことですし,それが学術活動の価値でもあります.

例えば生物学や生命科学の世界では「いつの日か生物は機械のように人の手で作成し,操ることができるようになる」という考え方を持って研究を進めている人がいます.
同様に,「いつの日か人間は・・・」とか,「いつの日かスポーツ選手は・・・」という考え方で研究に取り組む人は多ですし,逆に「いつの日か機械は生物のようになる」と考えながら取り組んでいる分野の人もいるでしょう.
こうした考え方,つまり「自然界のものはいつの日か我々人の手で操作できるようになるはずだ」という思想・哲学によって,少なくない分野の研究は進んでいるのです.

さて,「いつの日か人の手で操作できるはずだ」と考える思想・哲学を社会学や経済学に当てはめたのが,今となっては評判の悪いマルクス経済学です.当時は画期的な業績だということで持て囃されたのですが,現在は悪魔の書のような扱いを受けています.
なぜ評判が悪いのかと言えば,それは「結局,社会や経済は人の手で操作することなどできない.操作できると思い上がって取り組んだ結果,地獄を見たじゃないか」という反省があるからです.

ちょっと脱線が過ぎるので話を元に戻しますと,上記のような理由があるので大学などの高等教育機関では中立的な政治の話をすることはできません.
え? 結局何が言いたいのか分からなかった? たしかにそうかもしれません.

つまり,どのような学問領域であっても中立な政治の見方をすることはできないのです.
一見,政治とは無関係に思う学問領域であっても,その取り組み方には多分に政治的な色や匂いが染み付いています.
そこには各教員や研究者の思想・哲学が入っているのですから,政治的な話題についてもその思想・哲学で向き合うことになってしまいます.

もともと中立的な見方はできないのですから・・,ということでどこまでも偏ればいいのかと言われればそうではありません.
私たち大学教員が学生に身につけてほしいことは,「モノの考え方」です.
それは,目の前にしたモノを正しく捉え,適切に判断する力です.

そこには絶対的に正しい考え方や答えがあるわけではありません.
逆に言えば,いろいろな捉え方や判断があっていいのですが,その捉え方や判断に一定の質が求められます.それだけのことです.
このように口にするのは簡単ですが,このことを本当の意味で理解するのは案外難しいものでして.
例えば大学の授業でも,ちょっと高度なレポートでこの「質」を求めてしまうとかなり厳しい点数になることが多いですね.学生としては,一般的によく言われていることや図書館で調べてきたことをそのまま書いたのに,なぜ点数が低いんだ? と首を捻る場合がこれです.

テレビや新聞で常識的に語られていることであっても,学術的に捉えると大間違いというものは山ほどあります.
だけでなく,その捉え方も研究者によってマチマチというものもあったりしますし.
こういうことを言うと,「それは象牙の塔だけで通じる常識で,実社会では通用しない机上の論理だったりするんだろ」などと皮肉られるかもしれませんが,そのようなものは実際のところ多くありません.
単に,一般の人々の予備知識と思考方法ではついてこれない議論だからテレビや新聞では取り上げないというものです.逆に言えば,予備知識と思考方法が身につけば誰でも議論できることではあるのですが.

そこで重要になってくるのは,「なぜそう考えるに至ったか」という「手順」です.
この手順に信頼性や論理性があるか,その質を評価することになります.
そして,その手順の質が認められる水準にあるのであれば,たとえ自分の思想・哲学と合わないとしても,その考え方をまずは承諾する態度を涵養しているのが大学という教育機関だと私は考えています.

もちろん,その考え方を承諾したからといって即採用を意味するわけではありません.
どうしても納得できないなければ,その考え方を批判するための考え方を再度練ればいいのです.ただし,その批判も質の高い手順に沿う必要はありますが.
そうやって大学の研究も進んでいるのですし.

ダラダラ書いてきましたが,今日の記事で言いたかったのは以下のことです.
「政治的に中立な教育をするべき」ということを良く耳にしますが,私にはこれが胡散臭くて仕方ありません.
政治的に中立的な・・,と言うその実,自分自身の政治に対する考え方にとって都合の良いものを普及させ,都合が悪いものを排除しようという静的な教育観があるのではないか,そう疑っています.

日◯組と呼ばれる組織や,保◯派と呼ばれる人々が教育を語るときが典型です.
そこには,
その考え方に至った手順の質が一定水準にあるのであれば,たとえ自分の思想・哲学と合わないとしても,その考え方を承諾しようとする態度
が不足している,そう思うのです.

さらに言うなら,最近の教育議論に見られるのは,そうした態度を涵養する教育ではなく,何か前もって「正しい」とされているコンテンツを生徒や学生に受け入れさせようとする姿勢が強すぎやしないか,という点です.
もちろん学校教育においては,それも大事な観点だという認識は私にもあります.
しかし,より良い社会を築く国民を育てようとするのであれば,上述したような態度を養う方向性を持った教育が施される必要があるのではないでしょうか.

※その細かい話は以下の関連記事を読んでください.

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