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「日本人」という居直り
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これまでに,なかでも特に昨年後半部で書いてきた記事群を読み返してみて,それらで私が何を言いたかったのか反芻してみたところ,このタイトルのようなものになりました.
これは,昨今取り沙汰される「日本が今,右傾化している」とか,「外国人からの評価を扱ったネット記事がウケやすい」といった話に触発されて書いてきたものでもあります.
ようするに,「日本」とか「日本人」ということを過度に強調して取り扱われる話題が多い,それってちょっと気持ち悪いよね,ということについてです.
いや,別に日本人であることや日本のことをテーマにすることが「おかしい」ということではありません.
ちょっと簡単過ぎやしないか,おめでた過ぎやしないか,ということです.
もともとは「日本人という病」というタイトルにしようかと思っていましたが,すでに同名の書籍が出版されているようなので避けました.
なんだか整理できていない文章になるかもしれませんが,感覚的なところをここで述べてみたいと思います.
「自分自身が日本人であることについて」という話題があります.
ちょっと恥ずかしい感じのする話です.
かくいう私は,自分自身を「日本人」だと(真剣にシリアスな意味で)認識する機会は全くないし,そう思うつもりもありません.
ですから,「我々日本人は・・!」などと気合いの入った言動に遭遇すると違和感を覚えます.
これは「日本人」であることを嫌がっているわけでも,不満に思っているわけでもありません.気にしていない,ということです.
これは幸せなことだと思います.日本人であることを意識しなければいけない状況なんて,不幸な状況でしょう.
これはつまり,「わざわざ自分自身が日本人であることを意識したい人」というのは,幸せな生活を送っているわけではないのかもしれません.
常識的に考えてみてください.自分のことを「私は日本人だ」と念じなければならないなんて,ちょっと尋常ではないですよ.
どうしたんですか? まずはお茶でも飲んで落ち着いてください,って言ってあげたくなります.
私は自分のことを日本人であるとは思いたくありません.思わないようにしています.
これは,私が在日だとか反日だとか世界市民だとかって話ではありません.
「日本人たるもの,日本人だと思ったら負けだと思っている」
という話です.
え? 過去記事とどんな関係があるのかって?
これまでにこんな記事書いてきましたね.
■鳥なき島の蝙蝠たち(1)古代四国人
■じゃあ,どのラーメンが一番旨いのか?
■新年への準備,お宮とか田の神とか
この手の記事ですが,何の意図もなく書いてきたわけではありません.私なりの「日本人観」を散りばめてきました.
つまりですね,私は日本よりも西国に愛着があるし,日本人である前に「四国人」であると思いたいし,四国人である前に「高知県民」でありたいし,高知県民のなかでも「波多国人」であるし,波多国の山間部が私の祖国になるんです.
これが私の国の姿です↓
自分自身が日本人であることを意識しようとするのは,すなわち,自分自身が日本人であることへの不信感からきています.
この「不信感」は,自分が日本人らしく振る舞えているかどうか? とか,今ここにある日本は「本当の日本」ではないのではないか? といった感覚から惹起されます.
そんな熱り立った言動が,「右」の人達からよく聞こえてきます.微笑ましいですね.
真なる日本人であるならば,そうした不信感を抱く必要はありません.
今そこにある生活が日本だからです.
こうした不信感に苛まれてしまったのが「ネトウヨ」であり,「東京人」なのです.
※なお,ここでいう「東京人」とは東京在住の人を指すのではなく・・以下略)
東京人は,自分自身を「日本人」であろうとします.
なぜなら,彼らは日本人ではない,もしくは日本人になりきれてないからです.
彼らは「日本人であること」についても,質より量を大事にします.目に見えるもの,測定可能なもの,他の人に問いかけ納得してもらえるものを信じるのです.
■じゃあ,どれが一番良いのか?
日本人であることを捨て去り,日本人ではないことにより生きながらえてきた己への不安感から,再び日本人であることを渇望している人.それが「東京人」の本質です.
私は今関東に出てきていますが,まるで海外滞在感覚です.海外に行った時の感覚を,この東京でも味わえます.
だからこんな記事も書きました.自分で読み返しても勉強になります.
■東京人と中国人はよく似ている
よく,沖縄県民が「我々は琉球人だ」という主張をした時,これに対し「日本人である認識が低いのでは?」という話が右翼系の人達からあがりますが,私からすれば琉球人だと思うほうが健全な日本人です.
あと,関西人が東京に出てもなかなか方言が抜けないのは,その方言に「日本」があるからです.別に自己主張したいわけでも,標準語を見下しているわけでもない.
関西人には「関西弁をしゃべらなくなったら負けだと思っている」というのがありますが,これは言い得て妙です.
関西人が関西弁をしゃべらなくなった時が,日本人が消滅する時です.
これは,昨今取り沙汰される「日本が今,右傾化している」とか,「外国人からの評価を扱ったネット記事がウケやすい」といった話に触発されて書いてきたものでもあります.
ようするに,「日本」とか「日本人」ということを過度に強調して取り扱われる話題が多い,それってちょっと気持ち悪いよね,ということについてです.
いや,別に日本人であることや日本のことをテーマにすることが「おかしい」ということではありません.
ちょっと簡単過ぎやしないか,おめでた過ぎやしないか,ということです.
もともとは「日本人という病」というタイトルにしようかと思っていましたが,すでに同名の書籍が出版されているようなので避けました.
なんだか整理できていない文章になるかもしれませんが,感覚的なところをここで述べてみたいと思います.
「自分自身が日本人であることについて」という話題があります.
ちょっと恥ずかしい感じのする話です.
かくいう私は,自分自身を「日本人」だと(真剣にシリアスな意味で)認識する機会は全くないし,そう思うつもりもありません.
ですから,「我々日本人は・・!」などと気合いの入った言動に遭遇すると違和感を覚えます.
これは「日本人」であることを嫌がっているわけでも,不満に思っているわけでもありません.気にしていない,ということです.
これは幸せなことだと思います.日本人であることを意識しなければいけない状況なんて,不幸な状況でしょう.
これはつまり,「わざわざ自分自身が日本人であることを意識したい人」というのは,幸せな生活を送っているわけではないのかもしれません.
常識的に考えてみてください.自分のことを「私は日本人だ」と念じなければならないなんて,ちょっと尋常ではないですよ.
どうしたんですか? まずはお茶でも飲んで落ち着いてください,って言ってあげたくなります.
私は自分のことを日本人であるとは思いたくありません.思わないようにしています.
これは,私が在日だとか反日だとか世界市民だとかって話ではありません.
「日本人たるもの,日本人だと思ったら負けだと思っている」
という話です.
え? 過去記事とどんな関係があるのかって?
これまでにこんな記事書いてきましたね.
■鳥なき島の蝙蝠たち(1)古代四国人
■じゃあ,どのラーメンが一番旨いのか?
■新年への準備,お宮とか田の神とか
この手の記事ですが,何の意図もなく書いてきたわけではありません.私なりの「日本人観」を散りばめてきました.
つまりですね,私は日本よりも西国に愛着があるし,日本人である前に「四国人」であると思いたいし,四国人である前に「高知県民」でありたいし,高知県民のなかでも「波多国人」であるし,波多国の山間部が私の祖国になるんです.
これが私の国の姿です↓
自分自身が日本人であることを意識しようとするのは,すなわち,自分自身が日本人であることへの不信感からきています.
この「不信感」は,自分が日本人らしく振る舞えているかどうか? とか,今ここにある日本は「本当の日本」ではないのではないか? といった感覚から惹起されます.
そんな熱り立った言動が,「右」の人達からよく聞こえてきます.微笑ましいですね.
真なる日本人であるならば,そうした不信感を抱く必要はありません.
今そこにある生活が日本だからです.
こうした不信感に苛まれてしまったのが「ネトウヨ」であり,「東京人」なのです.
※なお,ここでいう「東京人」とは東京在住の人を指すのではなく・・以下略)
東京人は,自分自身を「日本人」であろうとします.
なぜなら,彼らは日本人ではない,もしくは日本人になりきれてないからです.
彼らは「日本人であること」についても,質より量を大事にします.目に見えるもの,測定可能なもの,他の人に問いかけ納得してもらえるものを信じるのです.
■じゃあ,どれが一番良いのか?
日本人であることを捨て去り,日本人ではないことにより生きながらえてきた己への不安感から,再び日本人であることを渇望している人.それが「東京人」の本質です.
私は今関東に出てきていますが,まるで海外滞在感覚です.海外に行った時の感覚を,この東京でも味わえます.
だからこんな記事も書きました.自分で読み返しても勉強になります.
■東京人と中国人はよく似ている
よく,沖縄県民が「我々は琉球人だ」という主張をした時,これに対し「日本人である認識が低いのでは?」という話が右翼系の人達からあがりますが,私からすれば琉球人だと思うほうが健全な日本人です.
あと,関西人が東京に出てもなかなか方言が抜けないのは,その方言に「日本」があるからです.別に自己主張したいわけでも,標準語を見下しているわけでもない.
関西人には「関西弁をしゃべらなくなったら負けだと思っている」というのがありますが,これは言い得て妙です.
関西人が関西弁をしゃべらなくなった時が,日本人が消滅する時です.