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マナーは守るものではありません

「記録は破るためにある」などと言われますが,これはマナーにも同じことが言えます.
場合によっては法律もそうかもしれませんが,誤解されると困るのでホドホドにしときます.

先週から立て続けに書いてきた「マナー」に関する記事ですが,ここらへんでまとめておきたいと思います.

ようするに何が言いたいのかというと,ちょっと刺激的な言い方をすれば,
「マナーは守るものではありません」
ということです.


前回と前々回に取り上げたウェブサイトが,ちょうどそれを考える上で便利です.
TOKYO GOOD MUSEUM(Tokyo Good Manner Projects)
「東京グッド・マナー」を世の中に発信するという,極めていかがわしいプロジェクトにそれを見ることができます.

サイトのトップページに,新しくこんな項目が追加されているようです.
「マナーに正解なんてない。だから、みんなで考えよう。『TOKYO GOOD会議』」

いえ,私はこれを否定しません.むしろ,マナーのことをよく分かっているじゃないかと思って感心しているのです.
でも,これは「TOKYO GOOD MUSEUM」の趣旨である,
東京をかたちのない美術館に見立て、東京のグッドマナーやそれを構成するヒト・モノ・コトを「作品」と定義して収蔵することで可視化させ、世の中に発信する
に反しているのではないかと心配してしまいます.
もしくは,改心したのでしょうか.そのうちサイトの趣旨替えをするかもしれませんね.

上記のページに入ってみると,以下のような質問を見ることができます.
そこには,

・飲み会の席。唐揚げについてきたレモンは搾る?
・風邪でマスクをしている。人と話す時は外す?
・タクシーに乗車。上司の席はどこ?

などと,アラフォー世代がドヤ顔で語りたがり,社会人1年生が過度に気を遣うんだけど,実際のところはどうでもいい話題がアンケート形式で展開されています.

たぶん,当初は勢いとかノリにまかせて「東京のグッドマナーを「作品」として可視化させ、発信する」ことを考えていたんだけど,あとになって「実は『マナー』ってそういうものじゃないんだよね・・・」ということに気がついて始めたのかもしれません.

でも,誤りを正すのは良いことです.


結局のところ,マナーとは「人々が暮らしやすくするために社会生活をする上での事前申し合わせ事項」でしかありません.
法律や条例といったルール(掟)ではない,柔軟性の高いもの.

トートロジーみたいになってしまいますが,マナーとは法律になっていないからこそマナーなのです.


むしろ問題なのは,マナーをルールと同一視しようとする奴や,マナーを守ることを「人間性」とか「民度」の現れと捉える人です.

所詮は「事前申し合わせ」なのですから,その都度いろいろ変更すればいいこと.
明日は海水浴場で遊ぼうと思って水着や浮き輪を用意していたとしても,朝起きたら雨だったということはよくあります.
だったら自宅で映画鑑賞や焼肉パーティーに変更すればいいわけで,昨日決めたことだからと寒さに震えながら海水浴したり,水着で映画鑑賞してたらただのバカですよね.


でも,マナーを「ルール」と思い込みたい人や,これを「民度」の問題だと考える人は,寒さに震える海水浴と同じことをしています.

そういえば,新幹線のホームで4〜5人しか待っていないのに,指定席車両のところで何分も前から一列に並んでいる人がいます.これも水着で映画鑑賞しているようなものですね.
まあ,あれはマナーというよりクセでしょうけど.


最近は,なんでもかんでも法律とか条例にしたがる人が散見されます.
むしろ,守らなければいけない法律が廃止になったりする.

今回はそんな話をしたいのではありませんから割愛させていただきますけど.
でも,ここで何が言いたいのかというと,マナーをマナーとして使うためのノウハウが軽んじられているのではないかということです.


現に今「マナー」として存在するのであれば,より暮らしやすくするためにも,誰もが文句を言えない「法律」にしてしまおう,という動きは,否定するつもりはありませんが「良い」動きとは思えません.

マナーはマナーとして存在すればいいんです.
なんとなく「そうした方がいいよね」っていう,ゆるい感じで.
でもそれは,「守られるべきもの」として存在してはいけません.

敢えて言うなら,マナーの本領が発揮されるのは,これを破る時にある.


例えば,上述したTOKYO GOOD MUSEUMの「タクシーに乗車。上司の席はどこ?」についてもそうです.

こんなもの,上司と普段どのように付き合っているかで回答は変わります.
ご案内の通り,マナーとしては運転手の後ろが上座ですが,私であれば上司がよく知った人なら「◯◯さん,どうぞ.助手席にいっちゃってくださいよ」とオススメします.
実際はそこが最も楽だったりするので.

私も上司的な立場の時は,「じゃあ皆後ろに座って」と指示して助手席に座ります.
代金を支払ったり領収書をとるのも楽ですから.


ビジネスマナーというのも,マナーなのかルールなのか不明瞭な場合が多いですね.
守らなければいけないのであれば,マナーじゃなくてルールにしておけばいいのだし,守らなくてもいいのであればマナーとして放っとけばいい.


こういうこと言うと,
「君は教育業界しか知らないからだ.社会人のこと分かってないんだな」
と不満を持つ人がいるかもしれませんけど,自分自身がこの世界のどこまでの領域の人と一緒に仕事をしているのか考えてみてほしいんです.

社会人=サラリーマンのような図式がありますが,そもそもサラリーマンなんて全職業における一部の人たちで,「サラリーマン(ビジネスマン)」と一括してメディアで取り上げられやすいことによる錯覚です.

日本の15歳以上人口は,約1億1000万人.
そのうち労働力人口は約6700万人で,サラリーマンとして見られる「正規の職員・従業員」は,その半数の約3400万人です.

しかもそのサラリーマンだって「典型的なサラリーマン」は少なくなるわけだし,業種も細分化されています.

サラリーマンの多くは,我々教育・研究業界を知らないし,医療,農家,職人,漁業,ラーメン屋や主婦のことも知らない.
世の中の圧倒的多数は,「いわゆるサラリーマン」以外の業種です.


そんなサラリーマンに求められるとされるビジネスマナーは,多分ですけど「一流企業」と呼ばれるところで発生したマナーが,その他の企業や業種でも広まっているんじゃないかと思うんです.

それが「オラんとこでも一流企業のマナーを取り入れよう」という俗物根性とあいまって,まるで「社会人」としてのルールの如く君臨している.

でも,そこでマナーと言われていることは,大規模な企業や限られた業務でしか意味をなさないものですし,マナーとして成り立っていない,すなわち「人々が暮らしやすくする(仕事しやすくする)ための事前申し合わせ事項」になっていない場合もあります.

時折ニュース等で見聞きする,そんな「面倒くさいビジネスマナー」を無視して独自の指示を出す企業や上司というのは,本来のビジネスマナーを再提起したい欲求の発露だと思うんです.


誤解を恐れずに言えば,
マナーとは「目の前にした相手や従属する集団への配慮不足,およびコミュニケーション能力の不足を補うための滑り止め」とも言えます.

言い換えるならば,「相手の様子をうかがいながら,最適なものを提供するコミュニケーションが(不本意ながら)とれなくとも,とりあえず「これ」を実行しておけば罪悪感に苛まれなくても済む行為」それがマナーです.


先ほど私は「マナーをマナーとして使うためのノウハウが軽んじられているのではないか」という話をしましたが,マナーをより強固なものとして扱おうとするこの風潮は,それこそこの社会においてコミュニケーション能力が不足してきていることの象徴ではないかと思うのです.

すなわち,面倒なコミュニケーションを取りたくないことの裏返しとして,マナーをルールの如く運用し,その「コミュニケーション能力が求められる場」を乗り切ろうとすることです.


その典型が,昨今の就職活動において重視されている「コミュニケーション能力」です.

学生は,企業就職にしても教員採用試験にしても,とにかくコミュニケーション能力をアピールしようと必死です.
なかには,提出を求められた作文に「私にはコミュニケーション能力があります」とダイレクトに明記する者もいます.

どうして猫も杓子もコミュニケーション能力のアピールに注力するのかと言うと,もちろん企業側が就活生に求めているからです.
2017年現在,いまだ「コミュニケーション能力」が求められています.
求められる能力とは?就活を成功させる秘訣(キャリアパーク2017.7.20)


でも,企業や公務員の人事担当が求めているのは,学生が考えているようなコミュニケーション能力ではありません.
不幸なのは,それについて人事担当と学生の両者ともが勘違いしている可能性が高いこと.実は,企業の人事担当も「コミュニケーション能力」とは何を指すのかよく分かっていないのではないでしょうか.

細かい話はだいぶ前に記事にしたことがあるので,そちらも御一読ください.
子供のコミュニケーション能力は社会の鏡
(我ながら,今読み返してみても勉強になります)

では,勘違いされている「コミュニケーション能力」とはなんでしょうか.
この記事から引用すれば,
(今,この現代社会では)人と人との交流,世に出す芸術作品,公的な発言・発信などなど,こうしたものには総じて “誰も傷つかない適切な加減”というものがあって,人は,それを正確に選択できるか否かが問われている.それがコミュニケーション能力だ.
そんなような社会に新規参入していく若者からすると,その社会で認められるためには,当然のことながらマニュアルにそった模範解答のようなコミュニケーション能力を理想とし,鍛えるでしょう.
だって,クレームに追われ,失言で揚げ足を取られ,それに適切な対応をしたかではなく,事前に予期できなかったのかが問われる「大人」を見ていたら,子供のコミュニケーション能力もそちらにシフトするというものです.
それが若者のコミュニケーション能力が低下していると評されることの正体ではないでしょうか.
記事中にも書きましたが,コミュニケーション能力の低下は「若者」に起きていることではありません.社会全体の傾向ではないかと考えています.

今思えば,安倍政権のモリカケ問題で今年の流行語大賞候補となった「忖度」も,まさにこのマナー問題の行き着く果てと見れなくもない.


つまり, “誰も傷つかない適切な加減”を事前に予期し,それを正確に選択できるか否かが問われている社会にあって,「忖度」こそが最良のコミュニケーション能力として重視されるのは当然の帰結でしょう.

しかし,コミュニケーション能力とはそのようなものではありません.
今回の記事のテーマに沿えば,自分が事前に知っていたマナーで対処できなくなった際に,そのマナーを破る能力のことと言えます.

私が知っているマナーで事態が悪化していくのは,相手がマナー違反をしているからだ.私はマナーを守っているのだから,相手が悪いんだ.

それに対し,「いや,あなたの知っているマナーは最近は通用しない」とか「その場合,こうするのが本来のマナー」などと反論される場合もある.

マナーに関する議論で散見されるのが,こういうやつです.
どっちのマナーが正しいのかの論じ合い.

でも,これは典型的なコミュニケーション能力の不足です.
どっちのマナーが正しいのかなんて無意味です.
マナーとはそういうものではありません.


私は「マナーなんて不要」と言いたいわけではありません.マナーは必要です.
しかし,マナーは守らなければいけないものではなく,あくまでコミュニケーション能力を発揮しなくても社会を円滑に進めるための装置として捉え,今その場で本当に必要とされていることが何なのか考える姿勢を失ってはいけません.


少し前に「飲み会の席でポテトフライを注文する」についてネットで話題になっていましたが,これは私の中ではマナー違反だと思います.
松本人志「飲み会でフライドポテト注文は腹立つ」(キャリコネニュース2017.8.7)


本音を言わせてもらえば,飲み屋でポテトフライが注文されないような法律を作ってほしいし,ポテトフライを注文するような奴は民度が低い.

だけど,ポテトフライをどうしても食べたい人がいて,それでなければお酒が飲めないというのであれば,私はそれを認めます.
お酒もワインやウイスキーは頼まずに,安めのビールにすればいいんです.
それで楽しく飲めるんならいいじゃないですか.

飲み会において必要とされていることとは,皆で楽しくコミュニケーションを図ることなのですから.


もちろん,一緒に飲むのが学生だったら教育的指導をします.
「じゃあ,ポテトフライ2つ」
とか言おうもんなら,店員に優しく「あ,それキャンセルで」と断り,だし巻き玉子かホッケの塩焼きに変えさせます.


え? マナーは破るためにあるんじゃなかったのかって?
日本の社会がそんなことだから,今治に加計学園なんかの獣医学部が認められちゃうし,尖閣諸島も中国に乗っ取られるんですよ.

居酒屋でポテトフライを頼んでるような国は,そう遠くない将来崩壊します.



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