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モラトリアム・プロトコル 第七章

 

第七章 選別

7-1 第二の取引

 四月の市議会は、荒れた。

 撤退エリアの指定に同意したのは誰か、という質問が三人から出た。答えは市長である。巽冴子は、そう答えた。答えたうえで、指定しなければ市は財政措置の対象から外れ、市道の橋梁点検も上水道の更新も止まっていたと説明した。

 説明は、正しかった。正しさは、この場では通貨にならなかった。

 夕方、彼女は市長室に戻り、農林水産課の高津が上げてきた報告書を読んだ。

 崩落現場周辺の状況と、市への通報の記録である。末尾に、こう書いてあった。

 市にパトロールを行う予算と人員はありません。

 巽は、その一行を二度読んだ。

 高津が書いたのは、これで四度目である。彼女は決裁の欄に判子を押しながら、この職員が同じ文をあと何度書くのだろうかと考えた。

 その夜、彼女は市長室に一人残った。

 午後七時を過ぎると、庁舎の暖房は切れる。彼女はコートを膝に掛け、机の上に県から来た文書を並べた。

 所有者不明土地管理制度に基づく管理人の選任について、裁判所への申立てを準備中である旨の通知。応急工事の国庫補助に関する協議の依頼。それから、国から職員が一名派遣される旨の連絡。名前は佐々木とあった。

 巽は、その三枚を順に見た。

 県は決めない。国も決めない。

 書類のどこにも、どの施設を止めるかは書かれていなかった。応急対策の話と、恒久対策の話と、費用負担の話しかない。誰がどの水路を止め、どのため池を落とし、どの道路を封鎖するのかは、「地域の実情に応じて」という一語に格納されている。

 彼女は、その一語を三十年見てきた。

 決めるのはあなたです、という意味である。そして決めた者だけが、恨まれる。

 八時に、桐島が来た。

 庁舎の裏口から入れた。守衛には、事前に別の用件で名前を通してある。応接室ではなく、市長室に入れた。応接室は使用記録が残る。

「暖房が切れている」

 桐島は、入ってくるなり言った。

「七時で止まるの。あなたのところと同じよ」

「うちは、そもそも点いていない」

 桐島は、勧められる前にパイプ椅子ではなく、来客用の椅子に浅く腰掛けた。

 巽は、机の向こうから彼を見た。

 四年前、市議の応接室で初めて会ったときと、この男はほとんど変わっていない。痩せて、姿勢がよく、声に熱がない。違うのは、コートが変わったことくらいである。あのときはまだ、東南アジアで仕立てたものを着ていた。

「用件を」

 桐島が言った。

「決めてほしいの」

 巽は、前置きを省いた。

「何を」

「撤退エリアの中で、どの施設の維持をやめるか。順番と、時期と、範囲を」

 桐島は、表情を変えなかった。

「それは、市が決めることだ」

「市は決めない」

 巽は言った。

「決めれば争点になる。争点になれば、次の選挙まで決まらない。次の選挙は来年の秋よ。それまでに、あと二回、雪が融ける」

 彼女は、県からの文書を一枚、机の上で滑らせた。

「県も決めない。国も決めない。この紙のどこにも、止めろとは書いていないの。書いてあるのは、金を出さない、それだけ」

 桐島は、その紙に目を落とした。

「私が決めたとして、市は何をする」

「何もしない」

 巽は答えた。

「市は、撤退エリア内の施設について、維持管理の実施主体を把握していない。いまも把握していないし、これからも把握しない。……そういう状態を、私が維持する」

「把握していない、というのは」

「文字どおりよ。台帳がばらばらで、農道は市、水路は土地改良区、ため池は所有者不明のものが多い。合計が出ないの。これは嘘じゃない。本当に出ないのよ」

 巽は、初めてわずかに口の端を動かした。笑ったのではない。

「出ないものを、市は決められない。決められないものについて、市は責任を負わない。……あなたが決めて、あなたが実行する。市は、それを知らないままでいる」

 桐島は、しばらく黙っていた。

「対価は」

「三つ出せる」

 巽は、指を折った。

「一つ。北の林道と、県道の分岐から先の立ち入り制限を、作業に必要な範囲で解く。これは市の権限でできる。二つ。旧市営の資材置き場を、無償で使わせる。三つ。委託料を上げる」

「シルバー人材センターと、地域ボランティアか」

「よく覚えているのね」

「あなたが四年前に作った費目だ」

 桐島は言った。

「あの二つ以外に、あの街で誰が草を刈っているかを書いた紙は、市のどこにもない」

「ええ。だから増やせる」

 巽は言った。

「増やしても、誰も中身を見ない。監査は費目と金額を見るだけ。……三倍までなら、説明がつくわ」

 部屋が、少し静かになった。

「ひとつ確認する」

 桐島が言った。

「あなたは、私に権限を渡していない」

「渡していないわ」

 巽は即答した。

「渡せるものが、私の手にないもの。私が渡しているのは、決定そのものよ。権限は市に残る。ただし市は、それを使わない」

「使わない権限は、権限ではない」

「そうね」

 巽は、机の上で指を組んだ。

「でも、決定は誰かがしないと、物が落ちてくるの」

 桐島は、その言葉を最後まで聞いた。

 彼が何を考えているのかを、巽は正確に読み取ったつもりだった。

 この男は、これを獲得だと受け取っている。四年前、彼が市の側に持ちかけたのは、インフラの維持と引き換えに自治を黙認させる取引だった。あれは防御だった。今度は、市の側から決定を差し出している。彼にとっては、前進に見えるだろう。

 実際には、逆である。

 巽は、自分が何を渡そうとしているのかを、この街で最も正確に理解していた。

 渡しているのは権力ではない。恨みである。どの谷を先に切ったのかと、いつか誰かが問う。問われる相手が、市長ではなくなる。ただそれだけの取引だった。

「引き受ける」

 桐島が言った。

「条件がある」

「聞くわ」

「実行は、うちの人間がやる。市の人間を現場に入れない。……入れると、あなたの言う『把握していない』が崩れる」

「そのとおりよ」

「もう一つ。市が把握していないのは、実施主体だけだ。……施設そのものの場所は、把握していてもらいたい」

 巽は、そこで初めて眉を動かした。

「どういう意味」

「どこに何があるかが分からなければ、止める順番は決められない」

 桐島は言った。

「農道は市。水路は土地改良区。ため池は所有者不明。……ばらばらでいい。ばらばらのまま、全部こちらに出してくれ」

 巽は、少し考えた。

 資料の提供である。決定ではない。台帳の写しを渡すことは、行政手続としても説明がつく。

「高津に用意させるわ」

 彼女は言った。

 桐島が帰ったあと、巽は明かりを消さずに窓辺へ行った。

 外は暗く、北の谷筋は見えなかった。四月に入って雪は消えたが、この時間になると、まだ息が白い。

 彼女は、四年前のことを思い出していた。

 あのとき、この男に街の草刈りをさせると決めたのは、政治的な計算だった。予算ゼロで街が綺麗になれば、市民は喜び、彼女の評価は上がる。実際、そのとおりになった。

 今度は、計算が立たない。

 誰かが谷を切る。切られた側は怒る。怒りの向かう先が市長でないなら、それはどこへ行くのか。

 行き先を、彼女はまだ知らなかった。


7-2 地図の上の線

 市から届いた台帳の写しは、段ボールで二箱あった。

 紙とデータが混在していた。農道台帳は市の様式、水路は土地改良区の古い図面、ため池は県の防災重点ため池の一覧。座標系が揃っておらず、同じ水路が二つの図面で別の名前で呼ばれていた。

 リクが、それを三日かけて一枚の地図に重ねた。

「終わった」

 四月の第三週、帳場のモニターに、その地図が出た。

 海崎市の北部。三つの谷筋と、その下の平野。線が幾重にも走っている。

「青が水路。茶色が農道。丸がため池。三角が、ユラが見てる斜面」

 リクは、順に指した。

「撤退エリアの中だけで、水路が六十四キロ。うち幹線が八キロ、あとは支線。農道が四十一キロ。ため池が九つ。橋が十四。斜面の要点検が四十七」

 桐島は、その数字を書き留めた。

「必要な人日を出せ」

「出した」

 リクは、表を横に並べた。

「水路の泥上げ。一人が一日に浚えるのが、条件がよくて三百メートル。年二回で、四百二十七人日」

「農道は」

「路肩の草刈り。一人一日五百メートル、年三回。二百四十六人日」

「斜面」

「四十七箇所を年二回。移動を入れて一箇所一日。九十四人日」

「ため池」

「月一回の点検が九箇所。半日ずつで、五十四人日」

 リクは、最後の行を出した。

「そして、獣害柵」

 部屋の何人かが、同時に息を吐いた。

「今の作付け面積で、柵の総延長が十九キロ。二週間に一度、下草を刈る。……年二千人日」

「合計」

「二千八百二十一。丸めて、二千八百人日」

 桐島は、その数字を見た。

 二千八百人日という数字が、何を指しているのかを、彼はこの数か月でようやく具体的に思い浮かべられるようになっていた。

 鋤簾で水路の底を掻く。一掻きで、両手に十キロ近い重さが乗る。それを一日中やって三百メートル。刈払機を一日回すと、翌朝、指が握った形のまま固まる。斜面に登って溝を掘り、掘った土を下へ落とし、また登る。

 どれも、終わったあとに何も残らない。

 水路は、浚う前と同じ形になるだけである。柵は、倒れていない状態が続くだけである。

「うちが、年に出せる人日は」

「実働できるのが百五十人前後。年間の稼働を百八十日として、二万七千人日」

 リクは、そこで首を振った。

「でも、余ってない。解体に二万一千、農地に千九百、整備と炊事と運転と事務に三千。……ほぼ全部使い切ってる」

「維持に回すなら」

「どこかから抜くしかない」

 リクは、電卓を叩いた。

「二千八百人日は、実働十五人が一年間、そればかりやってる計算になる。……解体から十五人を恒久的に抜くと、年間の受注が四百五十件から三百三十件に落ちる。金額で、三千万から四千万」

 健太が、腕を組んだまま言った。

「無理だ」

 誰も反論しなかった。

 その三千万から四千万は、燃料と部品と肥料と種籾を買っている金である。抜けば、来年の作付けが回らない。

「じゃあ、どこまでなら出せる」

 巳之吉が訊いた。

「収入を今の水準で保つなら、抜けるのは五人か六人が限界だ」

 リクが答えた。

「年に、八百人日から千人日」

 部屋が、静かになった。

 二千八百に対して、八百。

「三割に満たないな」

 辰造が、低く言った。

 桐島は、モニターの地図を見ていた。

「その八百で、何を守れる」

 彼は訊いた。

「ここからが本題だよ」

 リクは、地図の上に重ねる形で、色を変えた。

「柵が全部食う」

 彼は言った。

「今の十九キロを維持するだけで二千人日。八百しかないなら、柵の維持だけで破綻する」

「柵をやめると」

「作付けができない。芋も米も、囲わなきゃ全部食われる」

「柵を減らすには」

「作付け面積を減らすしかない」

 桐島は、そこで指を止めた。

 彼は、この六年で一度も、その言葉を口にしたことがなかった。

「面積を、いくつまで落とせば足りる」

「湾岸から四キロの帯だけに絞れば」

 リクは、地図の一部を明るくした。

 海に沿った、細長い形である。

「作付けが百二十ヘクタール。柵が十キロ。柵の維持で千五十人日。……八百じゃ足りない。九百まで抜けば、なんとか」

「今の面積は」

「二百四十ヘクタール」

 半分である。

 桐島は、その帯を見ていた。

 二年半かけて押さえた土地の半分を、来年から作らない。作らなければ、二年で薮になる。薮になれば獣が下りる。下りれば、残した百二十ヘクタールの柵にも圧がかかる。

「北の谷筋は」

 彼は訊いた。

「全部、線の外だ」

 リクは言った。

「上寒河も、大越も、神谷も。水路の六十四キロのうち五十一キロが、外に出る」

「五十一キロを、やめるということか」

「やめるというか」

 リクは、少し言葉を選んだ。

「もともと、誰もやってない。うちがやってないだけじゃなくて、市もやってない。土地改良区は組合員が減って、賦課金が集まらなくて、実質止まってる。……今回の話は、やめる話じゃない。やめてることを、やめてると認める話だ」

 その言い方に、辰造が反応した。

「それが、いちばん重いんじゃ」

 彼は言った。

「やっとらんのに、やっとることになっとるあいだは、誰も文句を言わん。やっとらんと認めた瞬間に、誰かが怒る」

 桐島は、地図の前に立った。

 二年半、彼は面積の数字を大きくすることだけを見てきた。四十から六十、六十から百二十、百二十から二百四十。伸び率が落ちれば手を打った。落としたことは、一度もない。

 いま、彼の目の前に出ている数字は、その逆をやれと言っている。

 二百四十を、百二十に。

 彼は、そのことを頭では理解した。理解したうえで、身体のどこかが受け付けていないのが、自分でも分かった。

「桐島さん」

 巳之吉が言った。

「線を引くって、こういうことだったんですね」

「そうだな」

 桐島は答えた。

「引いた線の外側に、何が残る」

「水路が五十一キロと、農道が三十キロと、ため池が七つと、斜面が三十いくつだ」

 リクが答えた。

「それから、人が」

 玲が、部屋の隅から言った。

 彼女は、その日ずっと何も言わずに座っていた。

「線の外側の谷に、まだ人が住んでる」

 彼女は続けた。

「上寒河に十一戸。大越に八戸。神谷に六戸。……合計二十五戸。名簿は市が持ってる」

 桐島は、玲のほうを見た。

「その人たちのことは、この計算のどこにも入っていない」

 玲は言った。

「柵の長さは入ってる。水路の延長も入ってる。……二十五戸ぶんの人間が、その線の外で暮らし続けるという事実だけ、どの表にも欄がない」

 部屋の誰も、それに答えなかった。

 桐島は、地図の帯を見た。

 線は、まだ引かれていない。画面の上で色が変わっているだけである。

 引けば、地図になる。


7-3 東信夫の水

 東信夫が市役所に来たのは、四月の最終週である。

 窓口ではなく、農林水産課の島まで直接上がってきた。高津が席を立つ前に、東は椅子を引いて座った。

「市役所さん。上寒河の水の話だ」

 彼は、前置きをしなかった。

「聞かせてください」

 高津は、手帳を開いた。

「うちの第二工区、百五十町歩ある。あの水は、どこから来とると思う」

「……ダムからではないんですか」

「半分はな。もう半分は、上寒河の谷から下りてきとる」

 東は、鞄から古い図面を出した。折り目が擦り切れている。

「これは、土地改良区の図面だ。昭和五十年代のもんだから、いま現地と合っとらんところもある。だが、水の道は変わっとらん」

 彼は、図面の上を指でなぞった。

 谷の中腹に、堰の記号がある。そこから一本の太い線が谷を下り、平野に出たところで枝分かれして、細い線が何十本も広がっていた。

「谷の水を、ここで取る。取水堰だ。そこから幹線が八キロ。平野に出てから、支線に分かれて、うちの田に入る」

「その幹線が」

「谷の中を通っとる」

 東は、指で線をなぞり直した。

「上寒河の集落の、すぐ横を通っとるんだ。……昔は、集落の者が総出で泥上げをしよった。年に二回、春と秋にな。谷の中の分は、谷の者がやる。平野の分は、平野の者がやる。それが取り決めだった」

「いまは」

「上寒河は十一戸だ。そのうち動けるのが四人」

 東は、図面から顔を上げた。

「四人で、谷の中の四キロを浚うことはできん。だから、この五、六年は、うちのほうから人を出しとった。うちの若いのを二人、春に三日、秋に三日」

「土地改良区としてですか」

「わしが理事長だ」

 東は言った。

「上寒河土地改良区。組合員は名簿の上で百八十人おるが、賦課金を払っとるのは五十人切っとる。総会も開けん。定足数が足りんからな」

 高津は、その数字を書き取った。

 土地改良区は、法律上、農業用水路と施設を管理する主体である。市ではない。県でもない。組合員が管理する。組合員がいなくなれば、管理する者がいなくなる。ただそれだけの話で、その空白を埋める規定は、どこにもなかった。

「本題だ」

 東が言った。

「上寒河の谷が畳まれるという話が、回ってきとる」

 高津は、顔を上げた。

「どこから」

「そういうことは、回るんだ」

 東は、それ以上言わなかった。

「わしはな、市役所さん。冬に、あんたに言うたはずだ。上寒河の三十枚は返す、と。……あれは、本気だった。遠すぎるし、人手が足らん。切るしかなかった」

 彼は、図面を叩いた。

「じゃが、返すというのは、切り離すことじゃなかったんだ」

「といいますと」

「うちが山の田を作らんようになったら、谷に人を出す理由がなくなる。うちの若いのを春三日、秋三日、他人の谷へ出すのは、うちの田がそこにあったからだ。……田を返したら、その理由もなくなる」

 東の声が、初めて低くなった。

「谷の水路が浚われんようになると、どうなる。落ち葉と土砂で詰まる。詰まった水は溢れて、幹線を削る。削れたところが崩れると、水が来んようになる」

「幹線が止まると」

「うちの百五十町歩に、水が入らん」

 高津は、ペンを止めた。

 彼は、それまでこの問題を、山の集落の問題として理解していた。六戸のため、十一戸のため、八戸のために、どれだけの施設を維持できるか。世論が割り算をしたのと、同じ形の理解である。

 東が言っているのは、逆だった。

 山の水路は、山の集落のためだけにあるのではない。平野の百五十ヘクタールが、その水路にぶら下がっている。

「上下流が、つながっているということですね」

「つながっとる」

 東は言った。

「水は、地図の色分けを知らん。上から下へ行くだけだ」

 高津は、その言葉を書いた。

「東さん。仮に、幹線だけを維持するという形にしたら」

「幹線だけは、無理だな」

 東は即答した。

「幹線は谷の底を通っとる。谷の斜面が崩れたら、幹線が埋まる。斜面を持たせるには、上の水を抜かんといかん。上の水を抜くには、支線の水路が生きとらんといかん。……全部つながっとるんだ。一本だけ生かすことはできん」

「では、山側を全部畳むと」

「わしの田が止まる」

 東は言った。

「山を切って平野を残す、という話が、そもそも成り立たんのだ。あの谷を捨てるということは、うちの百五十町歩も一緒に捨てるということになる」

 彼は、椅子の背にもたれた。

「わしは、それを言いに来た」

 高津は、しばらく何も書けなかった。

「対策は、あるんですか」

 彼は訊いた。

「ある」

 東は言った。

「谷の四キロを、誰かが年二回浚えばええ。それだけだ。……人日にして、六人で三日を二回。三十六人日だな」

「三十六人日」

「金にすりゃ、五十万か六十万だ」

 東は、指で机を叩いた。

「その五十万を出す先が、どこにもない」

 彼は、そこで初めて笑った。笑いというより、息を吐いただけの音だった。

「うちの土地改良区は金がない。市には費目がない。県は農地の話は市だと言う。国は地域の実情に応じてと言う。……五十万だ、市役所さん。うちが去年、県道に落ちた土砂の撤去でいくら使ったか知っとるか。あれは県の金だが、一億超えとるぞ」

 高津は、答えられなかった。

 東が帰ったあと、彼は報告書を作った。

 上寒河幹線用水路の維持管理体制について。土地改良区の実態、組合員数、賦課金の徴収率、総会の不成立、そして谷の四キロを維持しなければ平野部百五十ヘクタールの用水が確保できないこと。

 必要経費、年間およそ五十万円。

 彼は、その一行を書いてから、次の行で手を止めた。

 この経費を計上できる費目が、市の予算書に存在しない。農業用水路の維持は土地改良区の事務であり、市の事業ではない。土地改良区に対する補助という形なら可能だが、その補助金の交付要綱を新たに作る必要がある。要綱を作るには、財政課と協議し、議会に説明し、来年度の予算に載せなければならない。

 来年度の予算が動くのは、来年の四月である。

 その前に、二回、雪が融ける。

 高津は、末尾に一行を書いた。

 現時点において、市が当該施設の維持管理に要する経費を負担する制度上の根拠はありません。

 書いてから、彼はその文をしばらく見ていた。

 同じことを、彼は別の言い方で何度も書いている。書いた紙は、どれも決裁の欄が埋まって、書庫に入った。

 彼は、報告書を保存した。

 それから、席を立ち、四十七人の一覧を保管してある引き出しを開けた。

 鞄に入れたままだった封筒が、まだそこにある。開封して、返信欄に何も書けずに戻した文書である。

 高津は、それを取り出した。

 共有農地の管理に関するお願い、という表題の文書である。宛先は、彼自身になっている。

 下のほうに、意向を記入する欄がある。

 彼は、ペンを取った。

 冬に一度、ここで手が止まった。管理すると書けば、あの十八アールの薮を誰が刈るのかという話になる。しないと書いても、持分は消えない。放棄したいと書いても、受け皿はない。

 その状況は、何も変わっていない。

 変わったのは、彼自身のほうだった。

 高津は、欄の一行目に書いた。

 当該農地の管理を行う者は、現時点で存在しません。

 二行目に、こう書いた。

 私は共有者の一人であり、管理を行っていません。

 三行目に、日付を入れた。

 書き終えて、彼はその紙を封筒に戻した。出す先はない。この文書の返信先は、彼の課である。彼が受け取り、彼が処理する。

 処理の結果は、四十七名の一覧に一行が加わることだけである。

 それでも、彼は書いた。

 書かなければ、この一筆については、誰も何も答えなかったという記録すら残らない。


7-4 神谷

 五月の第一週、線が引けなくなった。

 桐島が地図を持って市長室に来たとき、巽はそれを見て、すぐに理由が分かった。

 湾岸から四キロの帯。作付け百二十ヘクタール。線の外に、上寒河、大越、神谷。

「これは、通らないわ」

 彼女は言った。

「理由を」

「上寒河を外すと、東さんの百五十町歩が止まる。……その報告書が、先週上がってきたの」

 巽は、高津の報告書を桐島の前に置いた。

 桐島は、それを黙って読んだ。

「上下流か」

「そう。だから上寒河は外せない。外せば、線の内側が死ぬ」

「では、上寒河の幹線だけを維持対象に入れる」

「谷の四キロね。三十六人日。……その分、どこかを削ることになるわ」

「大越か、神谷だ」

 桐島は言った。

「大越は八戸。神谷は六戸。人数だけなら神谷が少ない」

「それは、この街では通らない」

 巽は言った。

「大越には、市議が一人出ているの。三期目よ。彼の後援会が大越と、その下の三つの集落を押さえている。……神谷には、誰もいない」

「では、神谷になる」

「なるでしょうね」

 巽は、そう答えた。

「そして、そうやって決まったことが表に出た瞬間に、この線引き全体が終わるの」

 彼女は、地図の上に指を置いた。

「市議のいる集落が残って、いない集落が切られた。そう言われたら、誰も納得しない。納得しないものは、実行できない。……あなたが正しい計算をしても、選ばれ方が汚ければ、線は引けないのよ」

 桐島は、しばらく黙っていた。

「では、どうする」

「私が書くわ」

 巽は言った。

「何を」

「神谷を。私が、自分で、最初のリストに書く」

 桐島が、初めてわずかに目を上げた。

「あなたは、市は何も決めないと言った」

「決めないわ」

 巽は言った。

「これは決定じゃない。私が、自分の生まれた集落を差し出すというだけの話よ」

 部屋が、静かになった。

「神谷は、私の生まれたところなの」

 彼女は続けた。

「高校まで、あの谷から通った。当時は三十戸あった。いまは六戸。区長の岡崎さんは、私の遠い親類よ」

 桐島は、何も言わなかった。

「私が自分の生まれた場所を切ったという事実だけが、この線引きに払える唯一の代金なの」

 巽は言った。

「安いものよ。神谷には、もう六戸しか残っていない」

 彼女は、その言葉を、感情を抜いて言った。抜いたつもりだった。

 言い終えてから、自分の指が机の縁を強く押さえていることに気づいて、力を抜いた。

 その夜、巽は自宅の台所で、市が持っている集落別の名簿を広げた。

 持ち出しは規則に触れる。彼女はそれを承知で持ち帰った。

 上寒河、十一戸。世帯主の年齢は、六十八から八十七。うち二戸が空き家に近い状態にある。大越、八戸。最年少の世帯主が五十四歳で、市内に勤めている。神谷、六戸。田を作っているのは二戸。

 彼女は、三つの名簿を並べて、順番を入れ替えてみた。

 どの並べ方をしても、数字だけで見れば神谷が最初に来る。戸数が最も少なく、道の距離が最も長く、ため池の下に人家がある。合理的な順序である。

 合理的な順序が、彼女の生まれた集落を指している。

 彼女は、その偶然を三度確認した。三度目に、これは偶然ではないと気づいた。

 人が減った順に、条件が悪い場所から減っていく。彼女の家がその谷を出たのも、同じ理由である。条件の悪い場所から人が出て、出たぶんだけ条件が悪くなる。三十戸が六戸になったのは、その積み重ねだった。

 自分が生まれた場所が最初に切られるのは、自分がそこを出た理由と、同じ理由による。

 巽は、名簿を閉じた。

 五月の第二週、巽は神谷へ行った。

 公用車ではなく、自分の軽自動車で行った。運転は自分でした。同行者はいない。

 谷へ入る市道は、雪が消えて路面が出ていた。二つ目の橋の欄干は、片側だけが新しい。何年か前に車が当たって交換した部分である。

 公民館の前に、軽トラックが二台停まっていた。

 中には、四人いた。岡崎と、あと三人。全員が七十を超えている。石油ストーブは、五月に入ってもまだ出したままだった。

「市長さん、ご苦労さんです」

 岡崎が立ち上がって頭を下げた。

 巽は、その所作に一瞬だけ止まった。

 子供のころ、この人は彼女を「冴子」と呼んだ。柿を盗んだとき、叱り方が優しかったので、かえって長く覚えている。

「岡崎さん。座ってください」

 彼女は、長机の反対側に座った。

 書類は、鞄から出さなかった。出す種類の話ではなかった。

「用件だけ、言います」

 巽は言った。

「この谷の農業用水路と、ため池と、市道の維持を、来年度から止めます。……市が止めるんじゃない。誰も維持しなくなる、というのが正確です。市は、もともとやっていませんでした」

 部屋は、静かだった。

 誰も声を上げなかった。

「ため池は、堤を切って水を抜きます。工事の費用は、防災の枠から出ます。……あの池の下に、四戸ありますから。放っておくと、いつか抜けます」

「そりゃ、そうだ」

 岡崎が言った。

「五年前に県から言われた。改修より、廃止のほうが安いと」

「はい」

「市道は」

「除雪を止めます。冬のあいだ、車は入れません。……救急も、上がってこられなくなります」

 岡崎は、湯呑みを両手で包んだ。

「移転の話は」

「市営住宅を、六戸ぶん確保します。市街地の、駅の南のほうです。家賃は減免します。……引っ越しの費用も、市が出せる範囲で出します」

「いつまでだ」

「来年の三月末までに、と考えています」

 巽は、そこで言葉を切った。

「決めたのは、私です」

 彼女は言った。

「どの谷を先に外すか、いくつか案がありました。数字だけで比べたら、大越のほうが先になる案もありました。……私が、神谷にしました」

 岡崎は、湯呑みから顔を上げた。

 彼は、驚いていなかった。

「そうか」

 彼は言った。

「理由は、訊かんほうがええな」

「訊いてくださって、構いません」

「訊いたら、あんたが答えるだろう」

 岡崎は、少し笑った。

「答えを聞いたら、わしは、あんたを恨まんといかんようになる」

 巽は、答えなかった。

「冴子さん」

 岡崎が言った。

 名前で呼ばれたのは、三十年ぶりだった。

「わしは、あんたが市議に出た時に、投票した」

 彼は、それだけ言った。

「この谷から出て行った人間が、市の真ん中で何かを決める側に回るのは、ええことだと思うたんだ。……あんたが何を決めるかまでは、考えとらんかった」

 彼は、湯呑みを置いた。

「決めたのがあんたなら、それでええ」

 巽は、しばらく動けなかった。

 彼女は、恨まれることを見込んでここへ来た。恨まれる役を引き受けることが、この線引きに払える代金だと、自分でそう言った。

 その代金を、この老人は受け取らなかった。

 受け取らないまま、彼女に投票したという事実だけを置いた。

「岡崎さん」

 巽は言った。

「柿の木は、まだありますか」

「あるよ」

 岡崎は答えた。

「あんたが取った年から、四十何年か経っとる。今も生っとるが、誰も取らん」

 彼は、窓の外を見た。

「取っても、食う人間がおらんからな」

 帰りの車で、巽は谷を下りた。

 二つ目の橋を渡り、一つ目の橋を渡り、川沿いに出て、平野へ向かった。

 ミラーの中で、谷の入口が閉じていった。


7-5 内ゲバ

 五月の第三週、帳場に四十人が入った。

 いつもの会議ではない。桐島が全体に説明すると告げたので、班長格が全員来た。トアンの下から八人、健太の側から六人、その他の現場から十数人。立って聞く者が壁際に並んだ。

 リクが地図を出した。

「作付けを、来年から百二十ヘクタールにする」

 桐島が言った。

 前置きはなかった。

「今年の二百四十から、半分に落とす。落とした分の柵を撤去して、維持に人を回す。……北の三つの谷筋は、上寒河の幹線を除いて、維持の対象から外す」

 部屋が、数秒静かになった。

 それから、一斉に声が上がった。

「半分だと?」

 健太が、机に手をついて立った。

「桐島。それ、収穫が半分になるってことだぞ」

「そうだ」

「四十人分の飯が消える」

「消えない」

 桐島は言った。

「解体の受注は落とさない。作付けを減らすぶん、農地に張り付いていた人間を解体に回せる。……収入は、むしろ上がる」

「じゃあ、来年の米はどこから来るんだ」

「買う」

 桐島は答えた。

「米の値は上がっている。うちが売る側から買う側に回れば、その分だけ現金が要る。……解体の伸びで賄う計算だ」

「賄えなかったら」

「賄えなかったら、足りない」

 桐島は、そう言った。

 健太が黙った。黙ったのは、納得したからではない。この男がこういう言い方をするのを、初めて聞いたからだった。

「桐島」

 トアンが言った。

「四月に、俺は言ったな。決め方を先に決めろと」

「言った」

「あんた、決め方を出したか」

「出していない」

 桐島は認めた。

「数字を出した。数字から出てくる範囲を出した。……それが決め方だと、私は思っていた」

「思ってない」

 トアンは言った。

「数字は、あんたが選んだ数字だ。柵の長さを守るために作付けを半分にする、というのは、柵を守ると決めた人間がいるから出てくる答えだ。……柵を捨てて、作付けを二百四十のまま獣に食わせる案だってある」

「それは案にならない」

「なぜだ」

「収穫が三割落ちる」

「半分よりましだ」

 トアンは言った。

 桐島は、そこで答えに詰まった。

 詰まったのは、トアンの計算が正しいからではない。彼が検討していなかったからである。柵を維持することを、彼は前提として置いていた。置いた理由は、ユラと巳之吉がそう言ったからだった。

「親方はどう思う」

 健太が、辰造のほうを向いた。

 辰造は、壁際のドラム缶に腰掛けていた。

「面積を半分にするのは、正しい」

 彼は言った。

「ただし、理由が違う」

「違うって、なんだ」

「柵の話じゃない」

 辰造は、立ち上がった。

「土だ。四年目に入っとる圃場が、いま八十ヘクタールある。来年は百二十になる。……そっちを休ませんかぎり、面積を残しても収量が落ちる。落ちてから減らすんじゃ遅い」

 彼は、地図を指した。

「わしが言うとるのは、湾岸から四キロを残せという話じゃない。四年目の圃場を先に外して、二年目と三年目を残せという話だ。場所が全然違う」

 リクが、地図を切り替えた。

「作付け開始年で色を変えると……こうなる」

 帯の中に、赤い区画が散らばっていた。四年目の圃場は、湾岸の近くに集中している。最初に押さえた場所だからである。

「残す場所が、逆になる」

 リクが言った。

「維持の都合で決めると湾岸を残す。土の都合で決めると湾岸を外す」

 部屋が、また騒がしくなった。

「待てよ」

 巳之吉が言った。

「湾岸を外して山を残したら、柵が伸びる。維持の人日が足りなくなる」

「だから、両方は成り立たん」

 辰造が答えた。

「どっちを取るかだ」

「今年食う分を取るに決まってんだろうが」

 健太が言った。

「三年後に土が死ぬって話は、三年後にもう一回やればいい。俺たちは今年の冬を越さなきゃならねえんだ」

「三年後にやったら、戻すのに五年かかる」

 辰造が言い返した。

「五年待てるのか」

「待てねえよ! だから今食う話をしてるんだ!」

 声が重なった。

 トアンの下の若い衆が数人立ち上がり、それを見て健太の側の何人かが腰を浮かせた。

「全部おかしい」

 キエンの声が、その上から通った。

 彼は、部屋の中ほどに立っていた。

「柵で決めるのも、土で決めるのも、同じだ」

 彼は言った。

「どっちも、切られる場所を決める話だ。切られた場所にいた人間が、どこへ行くかを話してない」

「キエン」

 トアンが、低く言った。

「今度は俺が言う」

 キエンは引かなかった。

「桐島さん。半分にしたら、今年その百二十ヘクタールで働いてた人間は、来年どこに行く」

「解体に回す」

「全員か」

「全員は無理だ」

 桐島は、正直に答えた。

「解体は資格が要る現場が増えている。重機を動かせる人間か、それを覚えられる人間しか回せない。……回せないのは、たぶん三十人前後だ」

「三十人」

 キエンは、繰り返した。

「その三十人は、どうなる」

「炊事と、寮の管理と、資材の運搬に回す」

「それは、今も足りてる仕事だ」

 キエンは言った。

「増やせば、一人あたりの取り分が減る。減ったら、その三十人は自分から出て行く。……追い出したことにはならない。追い出さないまま、いなくなる」

 彼は、トアンのほうを一度見た。

「トアンさんが、この前そう言った」

 部屋が、静まった。

 桐島は、答えなかった。

 彼は、その場に立ったまま、地図を見ていた。

 誰も間違ったことを言っていない。健太は今年の飯を守れと言い、辰造は土を守れと言い、トアンは決め方を先に決めろと言い、キエンは切られる人間の行き先を示せと言っている。

 四つとも正しい。四つを同時に満たす案は、彼の頭の中に存在しなかった。

 この六年、彼はこういう場面に一度も遭遇していない。

 拡げているあいだ、選択肢は常に「やる」か「もっとやる」かだった。反対する者がいても、成果が出れば黙った。成果は、拡げれば必ず出た。

 いまは、どれを選んでも、誰かが減る。

 彼は、自分の中に「止まる」という手順が入っていないことを、そのとき初めて、はっきりと自覚した。

 部屋の隅で、玲がカメラを構えていた。

 回してはいない。構えたまま、レンズを下に向けている。

 桐島は、彼女と一度だけ目が合った。玲は、何も言わずにカメラを下ろした。

 この場面は撮れる、と彼は思った。四十人が割れて怒鳴り合っている。絵になる。三十秒どころか、五分は使える。

 撮って、何が伝わるのか。

 伝わるのは、この共同体が内輪で揉めているという事実だけである。何を巡って揉めているのかは、二千八百と八百という数字を理解しないと分からない。その数字を理解するには、水路の泥を一日掻いた人間が何メートル進むかを知らなければならない。

 誰も、それを三分では聞かない。

 佐々木という男が、去年、同じところで詰まったのだろうと桐島は思った。あの男の名前を、彼はまだ一度も口に出していない。

「今日は、決めない」

 桐島は言った。

「決め方を先に置く。……トアン、あなたの言うとおりだ。一週間くれ」

 彼は、それだけ言って、地図の前を離れた。

 人が出ていったあと、部屋には巳之吉と辰造だけが残った。

 辰造が、ワンカップの蓋を回した。

「あの人が、初めて『決めない』と言うたな」

「そうですね」

「進歩じゃ」

 辰造は、一口飲んだ。

「じゃが、一週間後に何か出てくると思うか」

 巳之吉は、答えなかった。


7-6 消せ

 県が管理人の選任を申し立てたのは、五月の下旬である。

 梶原がそれを知ったのは、公告からだった。裁判所の掲示と、県のホームページに載る。対象となる土地の所在と地番が並んでいた。

 崩落した斜面と、その上下の三筆。

 彼は、その地番を一つずつ確認した。三筆とも、四年前に彼が引き取ったものだった。

 名義は、十一の法人に分かれている。うち二つは国外。持分の最小単位は二百分の一。

 管理人が選任されれば、その全員を探索することになる。公告と、登記の追跡と、外国法人の場合は現地の代理人を通じた照会。数年かかる。数千万円かかる。

 だから、通常なら申立てそのものが起きない。

 起きたのは、人が怪我をして、報道が出て、国会で問われたからである。

 彼が四年前に設計したとおりの構造が、彼が四年前に想定したとおりの条件で、破られようとしていた。

 その夜、ユラが事務所に来た。

 梶原は、彼が来ることを予期していた。

「公告を見たか」

「見た」

 ユラは、扉を閉め、立ったまま言った。

「三筆だな」

「三筆だ。当面は」

 梶原は、机の上の書類を脇へ寄せた。

「座ってくれ。長くなる」

 ユラは、椅子を引いて座った。

「用件を言う」

 梶原は言った。

「台帳から、消してほしい行がある」

 ユラは、何も言わなかった。

「三月十五日の点検の記録だ」

 梶原は続けた。

「点検した。閉塞を確認した。対処しなかった。人員の割り当てなし。判断者、桐島。……あれと、その前後の、あの斜面に関する行を全部」

「理由は」

「あの行は、誰が維持を放棄したかを特定する」

 梶原は言った。

「管理人が選任されれば、費用の求償先を探す。土地の所有者が見つからなければ、次に探すのは、事実上その土地を管理していた者だ。……あの記録は、我々が管理していたことと、管理をやめたことの両方を証明する」

「証明するな」

 ユラが言った。

「するんだ」

 梶原は、初めて声をわずかに強めた。

「事実上の管理者と認定されれば、工作物責任の議論に入る。占有者としての責任だ。……六億から八億の求償が来る。払えない。払えなければ、我々が押さえている千二百ヘクタールが順に開けられていく」

「開けられたら、どうなる」

「あそこで働いている二十二人が、まず捕まる」

 梶原は言った。

「そのうち十四人は資格がない。次に、名義を貸している者が調べられる。彼らのうち何人かは、生活保護を受けながら報酬を得ている。……全員が、それぞれの罪状で処理される」

 ユラは、その説明を最後まで聞いた。

「あんたの言ってることは、正しい」

 彼は言った。

「だが、消さない」

「理由を」

「消したら、次に同じことが起きる」

 ユラは言った。

「三月十五日に、俺はあの斜面が詰まっていることを確認した。四日あった。人が出なかった。……その四日間に何があったかを書いた紙が、いま世界に一枚だけある。消したら、ゼロになる」

「ゼロでいい」

 梶原は言った。

「あの崩落は、我々が知っている。君も、私も、桐島も、巳之吉も知っている。……知っている人間が四人いれば、次は防げる」

「防げない」

 ユラは即答した。

「防げないと言い切る根拠は」

「俺が知ってるからだ」

 ユラは言った。

「俺は、老人が毎年四日かけて水路を浚っていたのを見てる。見ていた人間は、俺一人だ。……老人が死んで四年目に、集落へ下りる道が落ちた。県の報告書には、融雪水の浸透による法面の不安定化と書いてある。水路のことは一行もない」

 彼は、机の上に手を置いた。

「知ってる人間が一人いても、書いてなければ、何も起きなかったことになる。……あの集落は、何を失って死んだのかを、最後まで知らなかった」

 梶原は、しばらく黙っていた。

「君の老人は」

 彼は言った。

「記録がなくても、死ななかった」

 ユラの手が、止まった。

「集落が消えただけだ」

 梶原は続けた。

「もし記録があったら、どうなったと思う。県が調べ、市が調べ、誰が水路を放置したのかが特定される。特定された先には、七十を過ぎた老人が一人と、身分証を持たない少年が一人いる。……誰かが罰せられて、それで終わりだ。集落は、やはり消える」

 彼は、机の上で指を組んだ。

「記録は、責任者を作る。責任者を作れば、そこで話が終わる。……この国は、原因を潰すより、責任者を潰すほうが得意だ」

 ユラは、答えなかった。

 答えなかったのは、その指摘に反論できなかったからである。

 だが、彼は引かなかった。

「罰せられなかったから」

 ユラは言った。

「同じことが、次の谷でも起きた」

 彼は、顔を上げた。

「俺の集落が消えた三年後に、隣の谷でも道が落ちてる。同じ形で落ちた。誰も、二つを繋げなかった。繋げるための紙が、どっちにもなかったからだ」

 梶原は、その言葉を受け止めた。

「君の言うことも、正しい」

 彼は言った。

「私の言うことも、正しい」

「そうだ」

「だから、折衷はない」

 梶原は言った。

「書けば人が捕まる。書かなければ同じことが繰り返される。……どちらかを選ぶしかない」

 部屋が、静かになった。

 石油ストーブは、もう片付けられていた。窓の外は暗く、五月の夜の風が、雑居ビルの隙間で細く鳴っていた。

「では、選ぶ」

 梶原が言った。

「私は、消せと言う。君は消さないと言う。……鍵を持っているのは君だ。私には止める手段がない」

「ない」

「では、頼む形になる」

 梶原は、そう言った。

 彼が誰かに頼むのを、ユラは初めて見た。

「梶原さん」

 ユラは言った。

「あんたが本当に守りたいのは、二十二人か」

 梶原は、答えなかった。

「それとも、あの斜面の下に、もう誰も潰さないという約束か」

 ユラは続けた。

「あんたが十二年払ってるのは、二十二人のためじゃないだろう」

 梶原の指が、机の上で一度だけ動いた。

「その話は、していない」

 彼は言った。

「してる」

 ユラは、立ち上がった。

「消さない。少なくとも、今は」

 彼は、扉のほうへ歩いた。

「ユラ君」

 梶原が、背中に声をかけた。

「その台帳は、いつか誰かが君たちを裁くための証拠になる」

 ユラは、扉の前で止まった。

「知ってる」

 彼は言った。

「裁かれるほうが、消えるよりましだ」

 扉が閉まった。

 梶原は、机の上の公告の写しを、しばらく見ていた。

 それから、引き出しを開けた。

 十二年前の手紙が、いちばん下に入っている。字の乱れた、事務的な文面。最後の一行だけが、事務的でない。

 あの日は、雪解けの水が道に出ていたので、いつもより慎重に走っていました。

 梶原は、その紙に触れなかった。

 引き出しを、閉めた。


第八章


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