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モラトリアム・プロトコル 第八章

 

第八章 名を呼ぶ

8-1 来訪

 その女が海崎の駅に降りたのは、去年の一月である。

 封筒を輪ゴムごと握って、湿った雪の匂いを吸い込み、それから改札を出た。駅前のロータリーには、タクシーが一台も停まっていなかった。

 最初の三日は、駅の待合室と、二十四時間営業の店で過ごした。四日目に、教会の炊き出しの列に並んだ。並んでいるあいだに、簡易宿泊所の場所を教わった。

 一泊千八百円。三か月いた。

 その間に、市の相談窓口へ二度行った。

 一度目は生活の相談で、二度目は医療の相談だった。窓口の職員は、どちらも丁寧だった。話を最後まで聞き、席を外し、上の人間と相談し、戻ってきて、対象になる制度がないことを説明した。

 在留資格がない場合、国民健康保険には入れない。生活保護の対象にもならない。無料低額診療をやっている医療機関の一覧を渡された。市内には、一軒もなかった。

 職員は、最後にこう言った。

 お力になれず、申し訳ありません。

 その言い方に、悪意はなかった。この十五年、彼女は同じ言い方を何十回も聞いている。日本語のこの部分だけは、どの窓口でも寸分違わなかった。

 月に一度、彼女は隣の県まで出頭する。

 朝の五時に宿を出て、鈍行を三本乗り継ぎ、昼前に着く。名前を読み上げられ、体調を訊かれ、住所に変更がないことを確認され、次の出頭日を告げられる。そこまで十五分ほどで終わる。帰りも三本乗り継いで、宿に戻るのは夜になる。

 交通費は、自分で払う。就労は禁じられている。

 どうやって払うのかを、彼女に訊いた職員はいなかった。

 六月に、彼女は旧農協の廃工場へ行った。

 噂は、簡易宿泊所で聞いた。あそこへ行けば飯が食える、と教えてくれたのは、同じ部屋にいた老人である。名前は知らない。

 門のところで、若い男に止められた。ベトナム語の訛りがあった。しばらくして、年上の男が出てきた。トアンという。

「何しに来た」

 トアンが訊いた。

 彼女は答えた。

 在留資格のない人間が、就労を禁じられたまま生きていられる場所が、この国に一箇所だけあると聞いた、と。

 トアンは、しばらく彼女を見ていた。

「名前は」

 彼女は答えなかった。

 答えなかった理由は、名乗る名前がなかったからではない。答えれば、次に何を訊かれるかを知っていたからである。どこから来たのか。何をしていたのか。なぜ資格がないのか。

 その三つに正直に答えられる人間は、ここにはあまりいない。

 トアンは、それ以上訊かなかった。

「飯は出る。寝る場所も出る。……仕事は、できるやつからやる」

 彼はそう言った。

 その日から、彼女は一年、そこにいる。

 最初は炊き出しの手伝いだった。三か月後に、寮になっている旧事務所棟の清掃に回された。

 仕事は、夜である。

 昼のあいだ、寮には人がいない。皆が現場に出ている。彼女が入るのは、全員が寝静まったあとの、午前一時から四時までだった。

 廊下の床を拭く。共同トイレの床と便器を洗う。風呂場のタイルの目地に生えた黒い黴を、古い歯ブラシで掻き落とす。排水口の毛を集める。洗濯機の裏に溜まった埃を掻き出す。窓の内側についた結露を、雑巾で拭き取る。

 毎日、同じ場所が、同じだけ汚れる。

 人が減れば汚れが減るということはない。人が増えれば、同じ面積が、より速く汚れる。ここへ来てから、寮の人数は四十人ほど増えた。彼女の作業時間は、三時間から四時間になった。

 誰かに礼を言われたことは、一度もない。

 言われないことに、彼女は不満を持っていなかった。床がきれいであるあいだ、そこを歩く人間は床のことを考えない。人が床に気づくのは、汚れているときだけである。

 それが、この仕事の性質だった。

 一階の奥に、洗濯場がある。

 工場の作業着を洗うための、業務用の機械が二台置いてある。油と鉄粉で汚れた服がそこへ持ち込まれ、朝までに洗われる。

 彼女は、その洗濯場の床も拭く。

 排水溝に、黒い油の膜が張る。放っておくと固まって流れが悪くなるので、二日に一度、へらで剥がす。

 持ち込まれる作業着の中に、いつも同じ匂いのするものが混じっていた。

 油と、金属を削った粉と、それから、手を洗ったあとに残る、消えない種類の匂いである。

 彼女は、その匂いを知っている。

 十五年前、彼女が毎晩拭いていた工場の床も、同じ匂いがした。フォークリフトのバッテリー液と、油圧の作動油と、冷凍庫の前の濡れたコンクリート。

 名札は、どの作業着にもついていない。

 ここでは、誰も名札をつけない。

 最初の数か月で、彼女は工場の中の人間の顔を、だいたい覚えた。

 その中に、一人いた。

 ガレージから出てこない男である。四十代の半ばを過ぎていて、痩せていて、背中が少し丸くなっていた。歩き方が変わっていた。昔は、もっと踵から着く歩き方をしていた。

 彼女は、その男が誰であるかを、最初の週に知った。

 向こうは、気づかなかった。

 三度、廊下ですれ違ったことがある。三度とも、彼は彼女の顔を見なかった。清掃の人間は、この工場では最も見られない人間だった。

 名乗る理由は、なかった。

 彼女は、許すために来たのでも、責めるために来たのでもない。生きていられる場所を探して、たまたまここへ流れ着いただけである。十二年ぶんの何かを、この男から取り立てるつもりは、彼女にはなかった。

 取り立てて、返ってくるものが何もないことを、彼女は知っていた。

 だから、一年、黙って床を拭いた。

 五月の終わりから、工場の空気が変わった。

 夜中に灯りのついている部屋が増えた。帳場から声が漏れる日が続いた。彼女が廊下を拭いていると、話し声の断片が聞こえた。

 面積を半分にする。

 北の三つの谷は、線の外だ。

 切られた場所にいた人間は、どこへ行く。

 ある夜、彼女は雑巾を持ったまま、帳場の扉の前で立ち止まった。

 中で、誰かが言っていた。

 追い出したことにはならない。追い出さないまま、いなくなる。

 彼女は、その言葉を知っていた。

 十二年前、この街でも、同じ順番で同じことが起きた。誰も追い出さなかった。誰も殺さなかった。それでも、街は空になった。

 そして街は、何が起きたのかを、最後まで理解しなかった。

 彼女は、そのことを、この街で初めて学んだわけではない。

 彼女が生まれた国でも、同じ順番で同じことが起きた。作物の値が落ち、仕事が減り、貧しい者同士が奪い合うようになった。奪い合いが行き詰まると、誰かが線を引いた。信じているものが違う者、言葉の訛りが違う者、後から来た者。

 線の内側の人間は、線を引いたことを、正義と呼んだ。

 彼女の家族は、線の外にいた。外にいて、抗った。抗ったので、潰された。

 潰されたあと、その村がどうなったかを、彼女は知っている。

 良くならなかった。

 線を引いた側の人間も、その翌年から、少しずつ食えなくなった。誰も、それを線と繋げなかった。作物の値が落ちたからだ、天気が悪かったからだ、政府が悪いからだ。そう言われた。

 彼女がこの国へ来たのは、その先の話である。

 彼女は、雑巾を絞って、バケツに戻した。

 それから、廊下の残りを最後まで拭いて、道具を片付けた。

 翌日の夜、彼女は帳場へ歩いた。


8-2 再会

 その夜、巳之吉は帳場に一人で残っていた。

 部品の伝票の裏に、書き溜めたものを整理していた。上寒河、十八枚。神谷の下、十二枚。大越、九枚。それぞれの面積と、去年まで作っていた人間の名前。名前は、市から来た台帳の写しから拾った。半分は空欄のままである。

 扉が開いた。

 巳之吉は、顔を上げた。

 女が立っていた。

 作業用の前掛けをつけている。手にバケツは持っていない。持たずに来たのだと、彼はあとで気づいた。

 巳之吉は、その顔を見た。

 見て、しばらく、何も起こらなかった。

 目の前にあるものが何であるかを、頭が受け取らなかった。彼は、伝票を持ったまま、椅子から動かずにいた。

 十二年である。

 彼女は痩せていた。髪が短くなっていた。目の下に、以前はなかった影がある。頬の肉が落ちて、輪郭が変わっていた。

 それでも、間違えようがなかった。

 彼女は、こちらを見ていた。

 その見方が、変わっていなかった。

 巳之吉は、立ち上がろうとして、椅子の脚に膝を当てた。音がした。

 彼は、そのまま立った。

 何かを言わなければならない、と思った。思ったが、何を言えばいいのかが分からなかった。

 謝罪の言葉は、この十二年で何百通りも考えた。考えたものは、全部、彼のための言葉だった。言えば楽になる。楽になるために言う言葉を、この人の前で口に出すことはできない。

 彼の口から出てきたのは、一つだけだった。

「あんたの名前を」

 声が、掠れた。

「俺は、一度も呼ばなかった」

 ユキは、動かなかった。

 部屋の蛍光灯が、一本だけ切れかけていて、規則的に明滅していた。その光が、彼女の頬の上を、二度、通った。

「そうね」

 彼女は言った。

 訛りのない日本語だった。十二年前と、同じである。

「呼ばなくてよかったのよ」

 彼女は続けた。

「呼んでいたら、あなたも一緒に捕まっていた」

 巳之吉は、その言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。

 理解して、膝から力が抜けそうになった。

 あの日、警察に囲まれた駐車場で、彼は彼女の名前を呼ばなかった。呼べば、彼が彼女を知っていることになる。知っていて、三年間、偽装結婚の相手として住まわせていたことになる。

 だから呼ばなかった。

 それは保身だった。彼はこの十二年、そう理解してきた。

 彼女は、それを別の言い方で説明した。同じ事実を、彼を責めない形に置き換えて。

「そういうつもりじゃ、なかった」

 巳之吉は言った。

「知ってる」

 ユキは答えた。

「あなたは、いつもそうだった。……そういうつもりじゃなく、いろんなことをする人だった」

 巳之吉は、うつむいた。

「俺は」

「謝らないで」

 ユキは、遮った。

 声は大きくなかった。ただ、そこから先を通らせない言い方だった。

「謝られても、私は十二年を返してもらえない」

 彼女は言った。

「あなたは楽になる。私は何も変わらない。……その取引を、私はもうしないの」

 巳之吉は、口を閉じた。

 閉じてから、自分がまた同じことをしようとしていたことに気づいた。彼女に何かを差し出させようとしていた。今度は、許しを。

 部屋が、静かになった。

 外で、風がトタンを鳴らしていた。六月の夜だが、日本海から吹く風は、まだ冷たい。

「お母さんは」

 ユキが訊いた。

 巳之吉は、顔を上げた。

「……死んだ。あんたが連れて行かれた、半年後だ」

「特別養護老人ホーム?」

「ああ」

「そう」

 ユキは、それだけ言った。

 泣かなかった。表情も変えなかった。ただ、視線が一度だけ、床のほうへ落ちた。

 三年間、彼女はあの母を毎日介護した。下の世話も、風呂も、食事も、全部やった。巳之吉は、その三年で一度も、それを労働として数えたことがない。

 彼女がやっていることが労働だと分かったのは、彼女がいなくなってからである。いなくなった翌週から、彼は仕事を休んで母のそばにいなければならなくなり、休めば給料が減り、減れば施設に払えず、払えなければ順番待ちの列に並ぶしかなかった。

 列は、半年より長かった。

 母は、その途中で死んだ。

「あなたに会いに来たんじゃないの」

 ユキが言った。

 巳之吉は、彼女を見た。

「私は、去年の六月からここにいる」

 彼女は言った。

 巳之吉の顎が、動いた。

「一年」

「一年よ」

「どこに」

「寮の清掃」

 ユキは、前掛けの端を指で示した。

「夜の一時から、四時まで。廊下と、トイレと、風呂場と、洗濯場」

 巳之吉は、何も言えなかった。

「三回、廊下ですれ違ったわ」

 彼女は続けた。

「三回とも、あなたは私を見なかった」

 巳之吉は、その言葉を受け取った。

 受け取って、自分の中の何かが、音を立てずに崩れるのを感じた。

 この一年、彼はユラと山を歩き、水路の泥を上げ、記録を取り、維持労働が誰の目にも映らないという話を、何度も聞いてきた。玲がそれを撮ろうとして撮れないのを見てきた。自分でもそう思ってきた。誰も見ていない、と。

 その一年、彼の作業着を洗う場所の床を、この人が拭いていた。

 彼は、一度も見なかった。

「あの油の匂いは、あなたね」

 ユキが言った。

「洗濯場に、いつも同じ匂いのが混じってた。……昔の工場と、同じ匂い」

 巳之吉は、そこで初めて、目の奥が熱くなるのを感じた。

 彼は、それを外に出さなかった。出す資格がないと思った。

「なんで、名乗らなかった」

 彼は訊いた。

「名乗る理由がなかったから」

 ユキは答えた。

「私は、あなたに何かをしに来たんじゃない。生きていられる場所を探して、たまたまここに着いただけ。……あなたがここにいたのは、私にとっては、ただの偶然よ」

「じゃあ、なんで今日、来たんだ」

 ユキは、少し黙った。

「昨日の夜、扉の外で聞いたの」

 彼女は言った。

「谷を切る話」

 巳之吉は、机の上の伝票を見た。

 名前が、半分空欄のまま並んでいる。

「切るのは、いいのよ」

 ユキは言った。

「私が言いに来たのは、そのあとの話」

 彼女は、扉のほうを一度見た。

「明日、みんながいるときに話す。……あなたに、その場にいてほしい」

 巳之吉は、頷いた。

 頷いてから、それが十二年ぶりに彼女から受けた、最初の頼み事であることに気づいた。

 彼女が出て行ったあと、巳之吉は椅子に座らなかった。

 立ったまま、机の上の伝票を見ていた。名前の欄が、半分空欄のまま並んでいる。

 扉が、もう一度開いた。

 健太だった。

「今の、誰だ」

 彼は言った。

 巳之吉は、答えなかった。

「巳之吉」

 健太は、部屋に入ってきた。

「今の女、どこかで見た顔だ」

 巳之吉は、伝票を握った。

「十二年前だ」

 彼は言った。

 健太の足が、そこで止まった。

 彼は、しばらく動かなかった。それから、机の脇の椅子に、腰を落とすように座った。

 右腕を、無意識に押さえていた。十二年前に折れた腕である。冷えると痛むと、彼はときどき言う。

「……そうか」

 健太は、それだけ言った。

「なんで、ここにいる」

「一年、いたそうだ」

「一年」

「寮の掃除をしてた」

 健太は、天井を見上げた。

 それから、両手で顔をこすった。

「俺は」

 彼は言い、そこで止まった。

 言いかけたことを、彼は最後まで言わなかった。あの冬、駐車場でその女を囲んだ人間の中に、彼もいた。囲めと言ったのは彼である。

「巳之吉」

 健太は言った。

「あの女は、お前に何か言ったか」

「謝るなと言われた」

「そうか」

 健太は、頷いた。

「俺には、それも言ってくれねえだろうな」

 彼は立ち上がり、扉のほうへ歩いた。

「明日、俺も行く」

 彼はそう言って、出て行った。


8-3 二人の雪女

 玲がその話を聞いたのは、翌日の午前である。

 巳之吉が、ガレージの前で待っていた。彼が彼女を待っているのは、初めてだった。

「神崎さん。今夜、帳場に人が集まります」

「知ってる。桐島さんから聞いた」

「話すのは、寮の清掃をしてる人です」

 巳之吉は、そこで一度、言葉を切った。

「俺の、元の女房です」

 玲は、その場で二秒ほど動けなかった。

 彼女は、その名前を一度だけ聞いている。三年前、まだキー局にいたころ、この男が口を滑らせた。俺の元女房で、雪女と呼ばれてたユキ、と。

 彼女はそれを記事にしなかった。書けばこの男が壊れると分かっていたからである。

「……ここにいたの」

「一年、いたそうです」

 巳之吉は言った。

「俺は、気づかなかった」

 玲は、午後になってから、寮の一階へ行った。

 洗濯場の隣に、道具を置く小さな部屋がある。バケツと、モップと、洗剤の詰め替えが並んでいた。その隅のパイプ椅子に、女が座っていた。

 夜勤なので、昼は寝ているはずだった。眠れなかったのだろう、と玲は思った。

「神崎玲といいます」

 玲は、名乗った。

 女は、顔を上げた。

「知ってる」

 彼女は言った。

「あなたのニュースを、見たことがある」

「テレビを」

「収容所で」

 玲の指が、鞄の持ち手の上で止まった。

「談話室に一台あったの。夕方のニュースを流してた。……あなたが出てた。二年目か、三年目のころ」

 ユキは、そう言っただけだった。責める調子はなかった。天気の話をするような言い方である。

「何を、伝えていましたか」

 玲は訊いた。

 訊いてから、その質問が自分のためのものだと気づいた。

「憶えてない」

 ユキは答えた。

「内容は、憶えてないの。……あなたが着ていた服の色は、憶えてる」

 玲は、パイプ椅子をもう一つ引いて、座った。

「あなたを撮りたい」

 彼女は言った。

「顔は出さない。声も変える。……この一年、あなたがここで何をしていたかを、記録したい」

「断るわ」

 ユキは即答した。

「理由を聞かせてください」

「二つある」

 ユキは、指を一本立てた。

「一つ。私は仮放免よ。就労は禁止されてる。ここでやってることが仕事だと認定されたら、次の出頭で収容される。……あなたが顔を隠しても、私がここにいることが分かれば同じ」

 彼女は、二本目を立てた。

「二つ。あなたが撮りたいのは、私じゃない」

 玲は、その言葉を受け止めた。

「あなたが撮りたいのは、話よ。十二年前に切られた女が、切った街に戻ってきて、床を拭いていた。……いい話でしょう。三十秒どころか、三十分もつ」

「そうですね」

 玲は認めた。

「私は、その話の材料にはならない」

 ユキは言った。

「材料になったら、そのあと私はどうやって生きるの」

 玲は、答えなかった。

 部屋の中は、洗剤の匂いがした。塩素と、それに混ざった何かの香料の匂いである。

「あなた、雪女と呼ばれてるそうね」

 ユキが言った。

「呼ばれています」

「反逆の、って付くんだったかしら」

「付きます」

「誰がつけたの」

「私ではありません」

 玲は言った。

「最初に書いたのは、私が辞めた局の後輩です。……たぶん、他に見出しが思いつかなかったんでしょう」

 ユキは、少しだけ口の端を動かした。笑ったのではない。

「あなたは、私の役をやってるだけ」

 彼女は言った。

「似ているのは寒さだけよ」

 玲は、その言葉を、まっすぐ受けた。

「そうだと思います」

 彼女は言った。

「私は、帰る場所があります。東京に部屋がある。銀行口座がある。取材で断られても、明日また来られる。……あなたは、断ったら次がない」

 玲は、鞄を膝の上に置いた。

「それに、私は差し出された側じゃない。差し出す側の言葉を作ってきた側です」

「知ってる」

 ユキは言った。

「震災のとき、私の育った村の言葉を、私が作りました」

 玲は続けた。

「絆とか、復興とか。あの言葉があると、村の人が何を諦めさせられたかが、映らなくなる。……私はその技術を覚えて、それで食べてきました」

 ユキは、しばらく黙っていた。

「じゃあ、あなたは何をしに来たの」

 彼女は訊いた。

「ここへ」

「償いに来たわけではありません」

 玲は言った。

「償いだと言った瞬間に、私は自分の物語の主人公になります。……それが、いちばんやってはいけないことだと思っています」

「じゃあ、何」

「撮ります」

 玲は言った。

「撮るのが、私の仕事だからです。それ以上の理由はありません。……ただ、この一年、私は何も撮れていません」

「なぜ」

「維持している人間は、成功しているあいだ、映らないからです」

 玲は言った。

「草を刈っている映像は、草を刈っている人が映っているだけです。刈らなかった年に何が起きるかは、映らない。……起きなかったことを、私は撮れません」

 ユキは、彼女を見た。

 それから、初めて少しだけ姿勢を変えた。

「撮りなさい」

 彼女は言った。

「私以外を」

 玲は、顔を上げた。

「切られる谷を撮りなさい。切ったあとを撮りなさい。三年後にもう一度行って、同じ場所を撮りなさい。……三年経つと、道が落ちるから」

 ユキは、そう言った。

「起きなかったことは撮れなくても、起きたことは撮れるでしょう」

「それは、遅すぎます」

「遅いわよ」

 ユキは言った。

「でも、遅くても撮った人がいれば、次の谷のときに、誰かがそれを見る」

「私の村では、誰も撮らなかった」

 彼女は言った。

「だから、何が起きたのかを、誰も知らないままになった。……私が日本に来たのは、その先の話よ」

 玲は、しばらく黙っていた。

「私の村も、そうです」

 彼女は言った。

「無くなったあと、テレビは何年もあの土地を映しました。……ただ、映していたのは、瓦礫と、慰霊碑と、笑っている子供です。誰がどこへ移って、その先でどうなったかは、三年目から誰も追わなくなりました」

 彼女は、鞄の持ち手を握り直した。

「私の同級生が、いま何人生きているかを、私は知りません。……追う仕事をしていたのに、追いませんでした」

「なぜ」

「数字が取れないからです」

 玲は言った。

「無くなった直後は取れます。三年目からは取れません。……取れないものを企画に出すと、通らない。通らないものは、存在しなかったことになる」

 ユキは、頷いた。

「同じね」

 彼女は言った。

「どこでも、同じ」

 彼女は立ち上がった。前掛けを外して、壁の釘に掛けた。

 玲は、それ以上何も訊かなかった。

 部屋を出るとき、彼女は一度だけ振り返った。

 ユキは、モップの柄の先を、布で拭いていた。使ったあとに拭かないと、木が湿って腐る。そういう手つきだった。

 玲は、その手つきを、記憶に留めた。

 カメラは、鞄から出さなかった。


8-4 切っていないふり

 その夜、帳場に三十人ほどが入った。

 桐島が一週間の猶予を取ってから、二週目に入っていた。決め方は、まだ出ていない。

 女が入ってきたとき、部屋の何人かが顔を見合わせた。

 寮の清掃をしている人間である。名前を知っている者は、その場に一人もいなかった。

 彼女は、部屋の中ほどまで歩いて、そこで止まった。

「時間をもらったので、話します」

 彼女は言った。

 訛りのない日本語だった。それだけで、部屋の空気がわずかに変わった。ここにいる外国籍の人間の多くは、何年いても、どこかに訛りが残る。

「十二年前、この街で、私は切られました」

 彼女は言った。

「その話じゃないの。切られたことを、恨みに来たんじゃない」

 巳之吉は、壁際に立っていた。

「切ったこと自体は、間違ってなかったと思ってる」

 ユキは続けた。

「私は人を殺した。だから捕まった。それは、当たり前のことよ。……その前の話でもない。私みたいなのが何十人もいて、この街はそれを一度に片付けた。片付けないと回らなかった。だから片付けた。そこまでは、たぶん、正しかった」

 彼女は、部屋を見渡した。

「間違っていたのは、切ったことじゃない」

 彼女は言った。

「切ったのに、切っていないふりをしたこと」

 誰も、口を開かなかった。

「あのあと、この街は、治安が回復したと言った。正常に戻ったと言った。……実際には、工場が回らなくなったのよ。夜勤に入る人間がいなくなって、ラインが一本止まって、翌年にもう一本止まった。二年後に会社が潰れた」

 ユキは、指を折らなかった。数えるでもなく、順に並べただけだった。

「工場が潰れて、税収が落ちて、若い人が出て行って、店が閉まった。駅前の商店街が、五年で半分になったでしょう」

 彼女は、そこで一度、言葉を切った。

「そのどれも、私たちを切ったこととは、誰も繋げなかった」

 部屋の後ろのほうで、誰かが体を動かした。

「治安が良くなったのは事実だった。街が寂れたのも事実だった。二つは、別々のこととして語られた。……不況だから、少子化だから、地方だから。そういう言葉が使われた」

 ユキは言った。

「あの町は、私を消してから、私がいなかったことにした。だから、何を失ったのかを学べなかった」

 部屋が、静まりかえった。

「もし、あのとき」

 彼女は続けた。

「誰かが紙に書いていたら。夜勤の清掃を何人がやっていて、そのうち何人を切ったのか。切った結果、掃除に何時間かかるようになったのか。誰がその時間を埋めたのか。……そういうことを、一枚でも書いていたら」

 彼女は、首を横に振った。

「街は、自分が何をしたのかを、後から見られたはずよ」

 トアンが、腕を組んだまま口を開いた。

「あんたは、あのとき何をしてた」

「深夜の清掃です」

 ユキは答えた。

「冷凍の工場の、床を拭いてました」

「何人でやってた」

「六人」

 トアンは、頷いた。

「そのあと、何人になった」

「二人と聞きました」

 ユキは言った。

「同じ面積を、二人で拭くことになった。……そこまでは、たぶん誰かが数えた。数えたあと、その二人がどうなったかを、誰も追わなかった」

 部屋の中で、キエンが立っていた。

 彼は、さっきから前のほうに出てきていた。

「あんたは」

 キエンが言った。

「切るなと言いに来たのか」

「違うわ」

 ユキは、彼のほうを向いた。

「切るなとは言わない」

「なんで」

「無理だから」

 彼女は言った。

「この人たちが計算した数字を、私も聞いたのよ。廊下を拭きながら。……二千八百に対して、八百でしょう。全部は無理よ。全部やろうとしたら、全部が壊れる」

 彼女は、桐島のほうを見た。

「畳みなさい」

 彼女は言った。

「全部は無理なんだから」

 桐島は、答えなかった。

「でも」

 ユキは続けた。

「畳んだものの名前を、書きなさい」

 部屋の空気が、そこで一度、止まった。

「どの谷を、いつ、誰が決めて、畳んだのか。その谷に何があって、誰が住んでいて、誰が最後にそこの水路を浚っていたのか。……全部書きなさい」

 彼女は言った。

「書けば、三年後に道が落ちたときに、なぜ落ちたかが分かる。分かれば、次の谷では順番を変えられる」

「書けば、責任者が特定される」

 桐島が、初めて口を開いた。

「特定されるでしょうね」

 ユキは言った。

「あなたが決めたなら、あなたが特定される。それは、当たり前のことよ」

「その責任は、この共同体の三百人に及ぶ」

「じゃあ、書かないで畳むの」

 ユキは訊いた。

「書かずに畳んだら、あなたたちは十二年前のこの街と同じになる。切ったのに、切っていないふりをする。……三年後に何かが起きても、それが自分たちのせいだと分からない。分からないから、もう一度同じことをする」

 彼女は、部屋の全体に向けて言った。

「私は、それを外から見た人間よ。切られた側から見ると、切った側が何を分かっていないかが、よく見えるの」

 彼女は、そこで初めて、少しだけ声の調子を落とした。

「この街は、私を切ったことで何を失ったかを、いまだに知らない。……知らないまま、また同じ順番で、次を切ろうとしてる」

 部屋は、静かだった。

 誰も反論しなかった。反論しなかったのは、納得したからではない。反論する言葉を、その場の誰も持っていなかったからである。

 ユキは、それだけ言って、扉のほうへ歩いた。

「待ってくれ」

 桐島が言った。

 彼女は、止まった。

「あなたの名前を、聞いていない」

 ユキは、振り返らなかった。

「聞いても、書けないでしょう」

 彼女は言った。

「私は、この場所にいてはいけないことになってるの。……名簿に載ったら、それだけで、ここが摘発される理由になる」

 彼女は、扉に手をかけた。

「だから、私の名前は書かなくていい」

 彼女は言った。

「私が拭いた床のことは、書いて」

 扉が閉まった。

 巳之吉は、壁際に立ったまま、動かなかった。

 彼の手の中で、部品の伝票が、汗で少し湿っていた。

 扉が閉まってから、しばらく誰も動かなかった。

 最初に口を開いたのは、キエンだった。

「桐島さん」

 彼は言った。

「俺は、切るなと言った。ずっとそう言ってた」

「言っていた」

「今の話を聞いて、変えたわけじゃない」

 キエンは、そう断った。

「切られる側は、やっぱり嫌だ。それは変わらない。……ただ、切るなら、書けというのは、分かる」

 彼は、部屋の後ろのほうを見た。

「俺の兄貴は、三年前に、ある場所からいなくなった。誰も追い出さなかった。飯が減って、自分から出て行った。……どこへ行ったかは、誰も知らない」

 彼は、机に手を置いた。

「あの場所には、何も書いてなかった。何人いたかも、何人減ったかも。……だから、俺は今でも、兄貴が何人目だったのかを知らない」

 トアンが、その隣に立った。

 彼は何も言わなかった。

「書いてくれ」

 キエンは言った。

「切るなら、書いてくれ。俺の名前も書いていい」

 桐島は、その言葉を受け取った。

 彼は、この二週間、決め方を作ろうとして作れずにいた。基準を立てようとするたびに、その基準で切られる側の顔が出てきて、止まった。

 いま、彼は自分が何を作れずにいたのかを理解した。

 彼が作ろうとしていたのは、切っても恨まれない基準である。そんなものは存在しない。

 存在するのは、切ったことを後から見られる形にしておく、という手続きだけだった。


8-5 同じ結論

 ユラは、その場にいた。

 部屋の隅の、モニターの脇である。彼は帳場の会議に呼ばれることが増えていたが、発言したことは一度もなかった。

 女が出て行ったあと、彼は端末を持って、外へ出た。

 六月の夜で、雲が低かった。工場の前庭に、外灯が一つだけ点いている。その光の外で、女が立ち止まっていた。

 煙草を吸うわけでもなく、どこかへ行くわけでもなく、ただ立っていた。

 ユラは、彼女の三メートルほど手前で足を止めた。

 声をかけるつもりはなかった。通り過ぎるつもりでもなかった。彼は、単にそこで止まった。

 女が、振り返った。

「あなた、さっき隅にいた人ね」

「そうだ」

「何か言いに来たの」

「いや」

 ユラは、それだけ答えた。

 女は、彼の手元を見た。

「それは、何」

 端末の画面が点いていた。黒い背景に、文字の行が並んでいる。

「台帳だ」

 ユラは言った。

「何の」

「壊れなかったことの」

 彼は、画面を彼女のほうへ向けた。

「日付と、場所と、何をしたか。溝を掘った、泥を上げた、草を刈った。……それを書いて、後から書き換えられないようにしてある」

 女は、しばらく画面を見ていた。

「どうして、そんなものを作ったの」

 ユラは、答えを持っていた。持っていたが、これまで誰にも言ったことがなかった。

「俺を育てた人が、毎年、水路を四日かけて浚ってた」

 彼は言った。

「その人が死んで、四年目に、集落へ下りる道が落ちた。県の報告書には、融雪水の浸透による法面の不安定化と書いてある。……水路のことは、一行も書いてない」

 彼は、端末を下ろした。

「あの人がやってたことは、どこにも書かれてない。だから、なくなったことにも誰も気づかなかった」

 女は、少し黙っていた。

「あなたも、書かれてないのね」

 彼女は言った。

 ユラは、彼女のほうを見た。

「出生届が出てない」

 彼は言った。

「戸籍がない。役所へ行ったことは、ある。四つの窓口で、四人の職員が、親切に対応してくれた。……誰も、俺を追い返さなかった。誰も、俺を受け入れなかった」

「処理する手順が、なかったのね」

「そうだ」

 ユラは頷いた。

「排除されたんじゃない。俺という入力に対して、処理が返ってこなかった」

 女は、その言葉を聞いて、初めて表情らしいものを動かした。

 笑ったのではない。眉が、ほんのわずかに動いただけである。

「私は、逆よ」

 彼女は言った。

「私には、書類がありすぎるの」

 彼女は、前掛けのポケットから、折り畳んだ紙を出した。仮放免の許可証である。角が丸くすり切れていた。

「番号がある。写真がある。指紋も取ってある。……出頭日も、住所も、全部登録されてる。それでも、私はどの制度にも入らない」

 彼女は、紙を戻した。

「書かれてないから処理されないんじゃないの。書かれてても、処理されないことはあるのよ」

 ユラは、その言い方を、しばらく考えた。

「入れられる」

 彼は言った。

「何を」

「あんたの名前を、この台帳に」

 彼は、端末を持ち上げた。

「人の欄がある。誰が、何をしたか。あんたが一年、寮の床を拭いたことを、書ける」

 女は、首を横に振った。

「書いたら、私は特定されるでしょう」

「される」

「じゃあ、入れないで」

 彼女は言った。

 ユラは、頷いた。

「でも」

 彼女は続けた。

「私が拭いた床は、書いて」

 ユラは、そこで止まった。

 彼は、その一文の構造を、頭の中で分解した。

 人の欄と、対象の欄を、分ける。

 誰がやったかは、本人が書くかどうかを選ぶ。書かなければ空欄になる。書かなくても、何が行われたかは残る。旧事務所棟一階、洗濯場、床面清掃、六月十四日、実施済み。実施者、空欄。

 空欄は、いなかったという意味ではない。

 書かないと決めた人間がいた、という意味になる。

 ユラは、端末を開いた。

 彼は、その場で新しい項目を作り始めた。指が速かった。

「何をしてるの」

「欄を作ってる」

 ユラは、顔を上げずに答えた。

「人の欄を、任意にする。空欄でも行が成立するようにする。……空欄には、空欄であることを書く」

「空欄であることを、書く」

「誰かがやったが、名前を残さなかった。そう書く」

 彼は言った。

「名前がないのと、名前を書かなかったのは、違う」

 女は、その言葉を聞いた。

 彼女は、何も言わなかった。ただ、外灯の光の外で、少しのあいだ動かなかった。

 ユラは、指を止めた。

 そして、もう一つのことに気づいた。

 彼は、これまでこの台帳を、維持したことを書くためのものだと考えてきた。壊れなかったことの証明である。

 だが、いま作った欄は、別のことにも使える。

 畳んだものを、同じ形式で書ける。

 どの集落の、どの施設を、いつ、誰が、止めると決めたか。その施設を最後に使っていたのは誰か。最後に維持していたのは誰か。名前は、任意で。

 維持の記録と、停止の記録は、同じ台帳に入る。

 壊れなかったことと、壊すと決めたことは、同じ形をしている。どちらも、何も起きない。どちらも、後から見ないと分からない。

 ユラは、端末の画面を見ていた。

「あんたが、さっき中で言ってたことだ」

 彼は言った。

「畳んだものの名前を書け、というやつ」

「ええ」

「作れる」

 ユラは言った。

「もう作った」

 女は、初めて彼のほうへ一歩近づいた。

 画面を覗き込んだ。

 黒い背景に、新しい項目が並んでいた。停止した施設。所在。種別。停止年月日。決定者。最後の維持実施者。備考。

 彼女は、それを上から下まで読んだ。

「これで、あの街は」

 彼女は言った。

「自分が何をしたのかを、後から見られるようになるの」

「見られる」

 ユラは言った。

「見るかどうかは、別だ」

 女は、頷いた。

「そうね」

 彼女は言った。

 それから、彼女は工場のほうへ歩いていった。

 ユラは、その背中を見ていなかった。彼は、まだ端末を打っていた。

 外灯の光の中を、細かい虫が回っていた。

 その夜、彼は事務所へ戻ってから、最後にもう一行を入力した。

 所在の欄に、山の集落の名前を入れた。もう地図から消えている集落である。

 施設の種別に、農業用水路と書いた。延長、およそ千二百メートル。

 停止年月日の欄には、日付が分からないので、年だけを入れた。彼が町へ出た年である。

 決定者の欄は、空欄にした。誰も決めていない。決めないまま、止まった。

 最後の維持実施者の欄で、彼は指を止めた。

 この欄は、任意である。書かなくてもいい。書かなければ、書かないと決めた人間がいたという意味になる。

 ユラは、書いた。

 佐吉。

 姓は知らない。呼んだことがなかった。二年一緒に暮らして、彼はその人を一度も名前で呼んでいない。爺さん、としか呼ばなかった。

 名前を知ったのは、葬式のときである。位牌に書いてあった。

 彼は、備考の欄にもう一行足した。

 春に四日、二人で泥を上げていた。一人になったあと、止まった。

 送信を押した。

 台帳の中で、その行が、他の行と同じ形で並んだ。日付があり、場所があり、種別があり、名前がある。溝を掘った記録も、床を拭いた記録も、止まった水路の記録も、同じ幅の行になっていた。

 ユラは、その画面をしばらく見ていた。

 それから、閉じた。


8-6 決裂と、譲歩

 梶原がそれを知ったのは、三日後である。

 ユラが実装した項目を、彼は自分の端末で見た。停止した施設。所在。種別。停止年月日。決定者。最後の維持実施者。

 彼は、その画面を十分ほど見ていた。

 それから、車を出した。

 廃工場の帳場に着いたのは、夕方だった。桐島がいた。リクがいた。巳之吉がいた。ユラは、いつもの隅にいた。

 梶原は、椅子を勧められる前に立ったまま切り出した。

「止めてくれ」

 彼は言った。

「何をだ」

 桐島が訊いた。

「その台帳の、新しい項目を」

 梶原は、机の上に一枚の紙を置いた。裁判所の公告の写しである。

「県が管理人の選任を申し立てた。対象は三筆。……これは始まりだ。管理人が選任されれば、費用の求償先が探される。土地の所有者が見つからなければ、次は事実上の管理者だ」

 彼は、ユラのほうを見た。

「その台帳は、事実上の管理者が誰であるかを、日付と場所と作業の内容つきで証明する。……これ以上に完璧な証拠を、私は見たことがない」

「知ってる」

 ユラが言った。

「知っていて、書くのか」

「書く」

 梶原は、桐島に向き直った。

「あなたはどうだ」

 桐島は、しばらく答えなかった。

「私は、まだ決めていない」

「決めるのは、いまだ」

 梶原は言った。

「畳んだ記録を残せば、誰がどの谷を切ったかが残る。三年後に道が落ちれば、それは過失の証拠になる。五年後に人が死ねば、殺人ではないが、それに近いものとして扱われる。……あなたのところの三百人が、その責任を負う」

「負う」

 桐島は言った。

「それでいいのか」

「よくはない」

 桐島は答えた。

「だが、書かずに畳めば、三年後に道が落ちたときに、なぜ落ちたかが分からない。分からなければ、次の谷でも同じ順番で切る」

 梶原は、そこで少し黙った。

「あなたは、あの女の話を真に受けているのか」

「私は、数字を見ている」

 桐島は言った。

「二千八百に対して八百だ。この差は、来年も再来年も埋まらない。埋まらない以上、我々はこれから何度も切る。……何度も切るなら、切り方を改善する材料が要る」

 彼は、机の上で指を組んだ。

「材料は、記録以外にない」

 梶原は、その論理を受け取った。

 受け取って、彼はもう一度、ユラを見た。

「ユラ君。前に言ったことを繰り返す」

 彼は言った。

「記録は、責任者を作る。責任者を作れば、そこで話が終わる。この国は、原因を潰すより責任者を潰すほうが得意だ」

「そうだ」

 ユラは答えた。

「だから、俺は原因の欄を作った」

 彼は、端末を持ち上げた。

「決定者の欄だけじゃない。最後の維持実施者の欄がある。備考の欄がある。……なぜ止めたかを書く欄がある。人手が足りなかった、と書ける。何人日足りなかったかを書ける」

 彼は、画面を梶原のほうへ向けた。

「責任者だけを書けば、責任者が潰されて終わる。原因も一緒に書けば、潰したあとに原因が残る」

「残った原因を、誰が読む」

「読まないかもしれない」

 ユラは言った。

「読まない可能性が高いことは、俺も分かってる。……それでも、読める形にはしておく」

 梶原は、しばらく黙っていた。

「折衷はないと、前に言ったな」

 彼は言った。

「言った」

「今も、ない」

 梶原は言った。

「書けば人が捕まる。書かなければ繰り返される。……私は今でも、消すべきだと思っている」

 彼は、机の上の公告を取り上げた。

「だが、止める手段がない。鍵は君が持っている」

「持ってる」

「そして、私は君を切れない」

 梶原は、そう言った。

「あの千二百ヘクタールを回せる人間は、君以外にいない」

 部屋が、静かになった。

「では、条件を出す」

 梶原は言った。

「鍵を、三つに割れ」

 ユラが、顔を上げた。

「三つのうち二つが揃わなければ、記録の個人に関する部分は開けない。……君が一つ持つ。もう一つは、この共同体の誰か。三つ目は、外に置く」

「外」

「大学だ」

 梶原は言った。

「黒須という男がいる。私とあなたのゼミの同期だ」

 彼は、桐島のほうを見た。

「あの男は、どちらの側にも立たない。だから、押収されたときに最も抵抗する。研究資料の提供を拒む理由を、あの男は制度的に持っている。……そして、あの男は書き残すことに本気だ」

 桐島は、少し考えた。

「黒須は、承知するか」

「するだろう」

 梶原は言った。

「あの男は、二十年後に誰かが読むことだけを考えている」

 ユラは、その提案を検討していた。

「二つ目は」

 彼は訊いた。

 部屋の中で、巳之吉が立ち上がった。

「俺がやります」

 全員が、そちらを見た。

「巳之吉」

 ユラが言った。

「意味が分かってるのか。鍵を持つってことは、捕まったときに最初に調べられるってことだ」

「分かってる」

 巳之吉は言った。

 彼は、作業着のポケットから、部品の伝票の束を出した。裏に、鉛筆で書き込みがしてある。上寒河、十八枚。神谷の下、十二枚。大越、九枚。面積と、去年まで作っていた人間の名前。半分は空欄のままである。

「俺は、六月から、これを書いてます」

 彼は言った。

「誰にも言わずに書いてました。……名前の欄が、半分埋まらない」

 彼は、束を机の上に置いた。

「調べれば分かるものもあるが、分からんのもある。分からんまま畳んだら、それきりです」

 彼は、桐島のほうを見た。

「桐島さん。俺にやらせてください」

「なぜだ」

 桐島が訊いた。

 巳之吉は、少し黙った。

「十二年前に、俺は人を差し出しました」

 彼は言った。

「警察に囲まれた駐車場で、俺は、その人の名前を呼ばなかった。呼べば、俺が知ってることになるからです」

 部屋の中で、健太が動いた。

 彼は何も言わなかった。彼は、その駐車場にいた人間の一人である。

「俺は、名前を呼ばずに人を差し出した男です」

 巳之吉は言った。

「今度は、呼びます」

 誰も、何も言わなかった。

 梶原は、その男をしばらく見ていた。

「わかった」

 彼は言った。

「三つ目は、私が黒須に話す」

 彼は、公告の写しを鞄にしまった。

 扉のところで、彼は一度だけ振り返った。

「ひとつだけ、言っておく」

 梶原は言った。

「その台帳は、いつか誰かが、お前たちを裁くための証拠になる」

「知ってます」

 巳之吉が答えた。

 梶原は、頷いた。

 それから、出て行った。

 外は、まだ明るかった。六月の日は長い。彼は車まで歩き、運転席に座って、しばらくエンジンをかけずにいた。

 自分が今日、止められなかったことについて、彼は考えていた。

 十二年前、彼は擁壁の水抜き穴が詰まっていることを知らなかった。知らなかったから、止められなかった。

 今日は、知っていた。

 知っていて、止められなかった。

 どちらがましなのかを、彼はしばらく考えて、答えを出せなかった。


第九章


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