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モラトリアム・プロトコル 第九章

 

第九章 モラトリアム・プロトコル

9-1 一番高い工事

 佐々木が上寒河の斜面に立ったのは、七月の初めである。

 県と市の調整のために海崎へ来て、二か月が過ぎていた。崩落現場の応急工事は終わり、恒久対策の設計に入っている。彼の仕事は、県の担当と市の担当のあいだで、費用負担の区分を整理することだった。

 その日、彼は現場の下見に同行した。

 案内したのは市の職員である。農林水産課の高津という係長で、三十代の後半に見えた。無駄口を叩かない男だった。

 林道を上がる途中で、佐々木は足を止めた。

「あれは、何ですか」

 斜面を横に切る形で、溝が一本走っていた。長さは二百メートルほどある。上流側の縁がわずかに削られていて、斜面を下ってきた水がそこから溝に落ちるようになっていた。

 コンクリートは、使われていなかった。ただの土の溝である。

「集水路です」

 高津が答えた。

「誰が入れたんですか」

「……市ではありません」

 高津は、そう言った。

 佐々木は、それ以上訊かなかった。訊けば、この職員が答えられない立場にいることが分かった。

 彼は、溝の縁まで歩いた。

 しゃがんで、底を見た。勾配が緩い。緩いが、流れは止まっていない。底に泥は薄く溜まっているが、詰まってはいなかった。

 溝から出た土は、下の緩傾斜地に薄く広げられていた。締め固めてはいない。草が生えている。

 彼は、その土の上に立った。

 押え盛土だ、と彼は思った。

 上を軽くして、下を重くする。斜面が滑ろうとする面の上を軽くし、下を重くすれば、押さえる側が勝つ。教科書の最初のほうに載っている話である。

 佐々木は、その工法の名前も原理も知っていた。二十年以上前に覚えた。

 覚えていて、一度も使ったことがなかった。

「これ、事業費はいくらでしょうね」

 彼は、独り言のように言った。

 高津は、答えなかった。

 答えたのは、少し離れたところに立っていた若い男だった。防寒着ではなく、夏の作業着を着ている。二十代の後半に見えた。

「軽油と、俺の飯代だ」

 佐々木は、振り返った。

「工期は」

「五日」

 男は、それだけ答えた。

「五日ですか」

「凍ってなければ、四日でやれる」

 佐々木は、その男をしばらく見ていた。

「保証は」

「しない」

 男は言った。

「三年で詰まる。放っておけば、五、六年で元に戻る。だから毎年入る。春に一日、秋に一日だ」

「毎年、人が要る」

「要る」

 男は、それを欠点として言わなかった。

 佐々木は、そこに立ったまま、しばらく動かなかった。

 彼の頭の中で、三つの数字が並んだ。

 全国の水田を一ヘクタール以上の大区画に整備する。四十兆から五十兆円。二百年。

 畦畔を抜き、暗渠を入れる。二兆円。二十年。

 撤退エリアの水利施設と道路の、当面の維持管理。全国で年間四十億円。

 国は、一番目を選んだ。

 二番目は、絵にならないという理由で消えた。

 三番目は、世論に削られた。

 彼は、その順序を、一年半前から知っている。知っていて、そこから先へ進めなかった。進めなかったのは、削られた側の主張を組み立てられなかったからだと、彼は思っていた。

 いま、彼は自分が何を組み立てられずにいたのかを理解した。

 彼はずっと、集約を「やるかどうか」の問題として考えていた。国がやるべきか、費用に見合うか、どの工法を選ぶか。

 集約は、やるかどうかの問題ではなかった。

 起きている。

 人が減っている。減った分だけ、作る人間が広い面積を持つようになっている。東信夫が百八十ヘクタールを持っているのは、国が集約したからではない。周りが辞めたからである。

 集約は目標ではなく、現象だった。

 国が本当にやるべきだったのは、その現象を加速することではない。現象が起きたあとに残るものを、どう畳むかだった。

 残るのは、耕されなくなった土地と、使われなくなった水路と、下ろされなくなった雪と、誰も見なくなった擁壁である。

 それらは、集約が進むほど増える。

 国は、増える側には一円も付けず、減る側だけに四十兆円を用意した。

 佐々木は、溝の縁の土を一握り取って、指で潰した。

 乾いていた。表面だけである。少し深いところは、まだ湿っている。

「我々は」

 彼は言った。

 声に出したつもりはなかった。出ていた。

「一番高い工事を選んで、一番安い工事を捨てたんだな」

 若い男は、それに答えなかった。

 高津が、少しだけこちらを見た。

 佐々木は、立ち上がった。

 その日の夜、彼は宿の机で、一枚の紙を書いた。

 書いたのは、六月に一度書いて、自分で消した一行の続きである。

 事前の費用は、事後の費用の数十分の一である。ただし、事前の費用には、それを払う理由が存在しない。

 彼は、その一行を、今度は消さなかった。

 消さない代わりに、その下に三行を足した。

 払う理由が存在しないのは、事前の費用が「何も起きなかったこと」に対する支出だからである。

 この国の予算制度は、起きたことに対してのみ支出する構造になっている。

 したがって、事前の費用を制度化するには、「何も起きなかったこと」を計測し、記録する仕組みが先に要る。

 彼は、その三行を読み返した。

 三行目が、この二十数年で自分が書いた中で、最も実現の見込みが薄い文であることを、彼は知っていた。

 計測できないものに予算はつかない。予算がつかないから、誰も計測しない。

 その環を切るには、誰かが金にならない計測を先に始めるしかない。

 佐々木は、ペンを置いた。

 窓の外で、夏の日が長く残っていた。海崎の七月は、夜の九時近くまで、西の空に薄い明かりが残る。

 彼は、昼間の溝のことを考えていた。

 二年前の秋、北関東の農家の縁側で、七十九歳の老人にこう訊かれた。

 判こは押すよ。押すけんど、押したあとで、その草は誰が刈るんだい。

 あのとき、彼は答えを持っていなかった。補助事業のメニューに、草を刈るための欄がなかったからである。作ることに金は付く。直すことにも、条件を満たせば付く。生えたものを毎年刈り続けることには、欄がなかった。

 今日、彼は答えを見た。

 答えは、軽油と、飯代である。

 制度の外にいる人間が、名前を出せない状態で、記録に残らない方法で、やっている。

 それが答えだと、彼は老人に言えない。

 言えないが、それが現に効いている。あの斜面は、去年の融雪でも今年の融雪でも動かなかった。動かなかったことは、どこにも計上されていない。

 あの溝には、事業名がない。設計書がない。竣工検査がない。台帳にも載らない。

 だから、この国の会計から見れば、あの溝は存在しない。

 存在しないものが、あの斜面を持たせている。


9-2 停止

 桐島が「決め方」を出したのは、七月の第二週である。

 一週間くれと言ってから、七週間が経っていた。

 帳場に班長格が集まった。リクが、一枚の紙を配った。紙は珍しい。この共同体では、記録に残るものはたいてい画面の中にある。

「五項目ある」

 桐島が言った。

「一つ。維持に出せる人日を、先に決める。年に九百。これは収入から逆算した数字で、来年の三月に見直す」

 彼は、指を折らなかった。項目を読み上げるだけだった。

「二つ。九百の範囲で、守る対象を決める。決めるのは班長会議だ。全会一致は求めない。多数決でもない。……反対した者の反対理由を、記録に残す」

 健太が、顔を上げた。

「反対理由を残して、どうすんだ」

「三年後に、その反対が正しかったかどうかが分かる」

 桐島は答えた。

「正しかった場合、次はその人間の意見を先に聞く」

 健太は、何か言いかけて、やめた。

「三つ。守れないものは、畳むと明示する。……やっていないものを、やっていることにしない」

 彼は、そこで一度、言葉を切った。

「四つ。畳んだものは記録する。集落名、地番、施設の種別、停止年月日、決定者、最後にそこを維持していた人間の名前。名前は任意だ」

「五つ」

 彼は、最後の項目を読んだ。

「この五項目を変えるときは、変えた日付と、変えた理由と、変えた人間を記録する」

 部屋が、静かになった。

 トアンが、腕を組んだまま口を開いた。

「決め方を、決めたわけだな」

「そうだ」

「遅い」

「遅い」

 桐島は、認めた。

「七週間かかった。……その七週間で、上寒河の柵が三箇所倒れた。倒れたのは、決まらなかったからだ」

 彼は、それを言い訳にしなかった。

「では、中身を決める」

 彼は言った。

「来年の作付けは、百二十ヘクタールにする。今年の半分だ」

 部屋の何人かが、息を吐いた。

「ただし、残す場所を変える」

 桐島は続けた。

「湾岸の帯ではなく、四年目に入った圃場から先に外す。……辰造さんの案だ」

 辰造が、壁際のドラム缶の上で顔を上げた。

「柵が伸びるぞ」

「伸びる」

 桐島は言った。

「十キロで済むはずが、十四キロになる。維持の人日が、千五十から千四百七十に増える。九百では足りない」

「じゃあ、どうする」

「柵の仕様を変える」

 リクが引き取った。

「全部を電気柵で囲うのをやめる。獣道の通ってる方向を先に調べて、そっち側だけ二重にする。反対側は物理柵で、下草刈りの回数を年三回に落とす。……ユラの測量のデータを使って、獣が実際に通ってる線を出した」

 彼は、モニターに図を出した。

 斜面に、細い線が何本も走っている。上から下へ、まっすぐに。

「これが獣道だ。二年前の地形データと重ねると、ほとんど動いてない。……あいつら、毎年同じところを通る」

「全周を同じように守る必要はない、ということか」

 桐島が言った。

「そう。今まで、僕らは全周を同じ強さで囲ってた。それが二千人日の正体だよ」

 リクは、数字を出した。

「試算だと、九百三十人日。ぎりぎり収まる」

 部屋の空気が、少しだけ動いた。

 健太が、腕を組んだ。

「三割落ちるんだろ、収穫は」

「落ちる」

 辰造が答えた。

「四年目の田を休ませりゃ、来年は落ちる。じゃが、三年後には戻り始める。……五年目に入った田を無理に回すよりは、ましだ」

「その三年、どうやって食う」

「解体で埋める」

 桐島が言った。

「足りなければ、買う。……足りるとは言わない」

 誰も、それ以上訊かなかった。

 会議の終わりに、健太が手を上げた。

「反対理由を記録するってやつ、俺のを書いてくれ」

 リクが顔を上げた。

「書くよ。何て」

「面積を半分にするのは反対だ」

 健太は言った。

「理由は、来年の冬が越せるかどうかが分からねえからだ。……三年後に土が戻るのは、たぶん本当なんだろう。だが、三年後まで人が残ってるかは、誰も計算してねえ」

 彼は、机に手を置いた。

「それだけ書いてくれ。恰好つけて書かなくていい」

 リクは、そのまま打ち込んだ。

 健太は、それを画面で確認して、頷いた。

「これ、三年後に俺が間違ってたら、それも書くのか」

「書く」

 桐島が答えた。

「じゃあいい」

 健太は言った。

「間違ってたら、間違ってたと書かれるほうがいい。……黙って忘れられるよりはな」

 その夜、黒須が来た。

 鍵の三つ目を預かる件で、梶原から話が行っていた。彼は大きな鞄をひとつ提げて、いつものように帳場の椅子に座った。

「引き受ける」

 黒須は、開口一番そう言った。

「条件は」

「ない」

「ないのか」

「ない」

 黒須は言った。

「研究資料として受け取る。俺の側の手続きだけ整える。……開示請求が来ても、大学の規程で断れる形にしておく。押収の令状が出たら、そのときは出す。それは言っておく」

「令状が出るときは、終わりのときだ」

「そうだな」

 黒須は頷いた。

 彼は、鞄から古い紙の束を出した。

 角が黄色くなっている。表紙に手書きのタイトルがある。

「これ、また持ってきた」

「返さなくていいと言ったはずだ」

「返しに来たんじゃない」

 黒須は、束を机に置いた。

「訊きに来た」

「何を」

「今日の五項目を、お前は書いたのか」

 桐島は、答えなかった。

「リクが書いたな」

 黒須は言った。

「文体で分かる。番号の振り方も、お前のやり方じゃない」

「私が書くと」

 桐島は言った。

「また、立ち上げの話になる」

 黒須は、少し黙った。

「自覚があるのか」

「ある」

 桐島は言った。

「七週間、書こうとした。……何を書いても、拡げる方向に流れる。維持できる範囲を決めるという文章を書いているのに、いつのまにか、どうすればその範囲を広げられるかという文章になっている」

 彼は、机の上の紙の束を見た。

「三十年前に書いたものと、同じ形になる」

 黒須は、その言葉を受け取った。

「お前、あのとき、四十八ページ書いて、維持のことを一行も書かなかった」

「書かなかった」

「なぜだ」

 桐島は、しばらく黙っていた。

 部屋の外で、金属を叩く音が二度した。巳之吉のガレージである。

「……俺は」

 彼は言った。

「そこまで生きるつもりがなかったんだろうな」

 黒須は、何も言わなかった。

「今も、たぶん」

 桐島は、そう続けた。

 彼は、それを告白として言ったのではなかった。事実の報告に近い言い方だった。

「五十を過ぎて、三百人を食わせて、それで、まだそこまで生きるつもりがない」

 彼は言った。

「だから、五項目は私が書かない。書けば、私が消えたときに、誰も読めないものになる」

 黒須は、頷いた。

「それが、たぶん、お前がこの三年でやった中でいちばんまともなことだ」

 彼は、紙の束を鞄に戻した。

「持って帰る。……二十年後に、誰かが読む」

 彼は立ち上がった。

「読ませたくないなら、燃やしてもいいぞ」

「燃やさなくていい」

 桐島は言った。

「あれは、間違っている資料として、置いておいてくれ」


9-3 協定

 九月の第二週、海崎市庁舎の三階の会議室に、四人が集まった。

 窓のない部屋である。庁舎の中で、会議録を作成しない打ち合わせに使われる場所だった。

 巽冴子。県の農地整備課長。佐々木。

 そして、桐島。

 桐島は、市庁舎に入るのに正面玄関を使った。名簿には、地域振興に関する意見交換の出席者として、実在しない団体名で登録されている。手配したのは巽である。

「録音はしません」

 巽が、最初にそう言った。

「議事録も作りません。……ここで話したことは、どこにも残りません」

 県の課長が、落ち着かない顔をした。彼は今日、上司から「行って聞いてこい」とだけ言われて来ている。

「では、確認します」

 佐々木が言った。

 彼は、手元に何も置いていなかった。紙もペンも出していない。

「一つ目。国は、この区域における農地及び農業用施設の管理について、新たな介入を行いません。行政代執行の対象は、今回の崩落に関する三筆に限ります。それ以外の土地について、当面、代執行の発動は求めません」

「発動しない、ではなく、求めない」

 桐島が言った。

「国に発動する権限はありません」

 佐々木は言った。

「代執行は、市町村または都道府県が行います。国ができるのは、財政措置をつけないことだけです。……財政措置がつかなければ、発動は事実上できません」

「財政難が、こちらの防壁になる」

「そうです」

 佐々木は、それを否定しなかった。

「二つ目」

 彼は続けた。

「そちらは、この区域の外に実害を出さないこと。県道と、市道と、下流の人家。この三つに、土砂も水も出さない。……出た場合、この話は終わります」

「承知した」

 桐島が答えた。

「三つ目」

 巽が引き取った。

「市は、この区域における施設の維持管理について、実施主体を把握しません。把握しないので、委託もしません。委託していないので、事故が起きても市の責任は生じません」

 県の課長が、そこで初めて口を開いた。

「それは……市として、成立するんですか」

「成立します」

 巽は言った。

「農道は市、水路は土地改良区、ため池は所有者不明のものが多い。台帳がばらばらで、合計が出ないんです。これは嘘ではありません。本当に出ないんです」

 彼女は、そう言った。

「出ないものについて、市は何も決められません」

 部屋が、少し静かになった。

 佐々木は、その説明を聞きながら、一年半前の会議室のことを考えていた。

 列島が緑と黒に塗り分けられていた。黒は空白ではなかった。空白でないことを、誰も訊かなかった。

 いま、その黒の中で起きていることを、彼は正面から聞いている。

 聞いているが、これは政策ではない。

 国は、何も決めていない。市は、決めないと決めている。決めているのは、この部屋で唯一、法的な資格を何も持っていない男である。

「四つ目があります」

 桐島が言った。

 三人が、彼のほうを見た。

「畳んだものの記録は、残します」

 彼は言った。

 沈黙があった。

「記録、というのは」

 県の課長が訊いた。

「どの施設を、いつ、誰の判断で、維持の対象から外したか。その施設を最後に維持していた人間は誰か。……それを書いて、消えない形で保管します」

「それは」

 課長は、言葉を選んだ。

「そちらにとって、不利になりませんか」

「なります」

 桐島は答えた。

「三年後に何かが起きたとき、我々の過失を証明する材料になります」

「では、なぜ」

「書かなければ、三年後に何が起きたのかが分からないからです」

 桐島は言った。

「分からなければ、次の谷でも同じ順番で切ります。……我々は、これから何度も切ります。切り方を改善する材料が、記録以外にありません」

 佐々木は、その言葉を聞いた。

 聞いて、自分の心拍がわずかに上がるのを感じた。

 彼が、宿の机で書いた三行がある。事前の費用を制度化するには、何も起きなかったことを計測し、記録する仕組みが先に要る。その環を切るには、誰かが金にならない計測を先に始めるしかない。

 この男は、それを、誰にも頼まれずに始めると言っている。

 自分たちが不利になる形で。

「その記録を」

 佐々木は言った。

「国が受け取ることは、可能ですか」

 桐島が、目を上げた。

「受け取って、どうする」

「集計します」

 佐々木は言った。

「私は今年、全国の撤退エリアについて、区域内にある水路の延長、農道の延長、橋梁の数、ため池の数を照会しています。……ほとんどが『不明』で返ってきています。不明が何割あるかを知るための調査です」

 彼は、手を組んだ。

「不明の中身が一つでも埋まれば、それは全国で初めての実データになります。維持管理に実際に何人日かかり、何をやめると何年後に何が起きるか。……その数字は、いま日本のどこにもありません」

「渡した記録は、どう使われる」

「分かりません」

 佐々木は、正直に答えた。

「私が定年まで勤めて、この数字が予算の一行になる保証は、まったくありません。……ただ、数字がなければ、一行は絶対に立ちません」

 桐島は、しばらく黙っていた。

「個人が特定される部分は渡せない」

「不要です」

 佐々木は言った。

「必要なのは、施設と、日付と、人日です。誰がやったかは、国の予算には関係ありません」

 桐島は、頷いた。

「では、そうする」

 巽が、そこで初めて口を挟んだ。

「一つ、確認させて」

 彼女は言った。

「その記録に、決定者の欄があるのよね」

「あります」

「私の名前も入るということね」

「入ります」

 桐島は答えた。

「神谷の廃止を決めたのは、あなたです」

 県の課長が、居心地の悪そうな顔をした。彼は今日の話の中で、その部分がいちばん危ないと感じている。記録に名前が残るということは、いつかそれが公文書と突き合わされるということである。

「消せとは言わないわ」

 巽は言った。

「訊いたのは、いつ出てくるかということ」

「分かりません」

 桐島は言った。

「十年後かもしれないし、来年かもしれない。誰かが台帳を押収したら、その日です」

「そう」

 巽は、それだけ言った。

 少し間を置いてから、彼女は続けた。

「それでいいわ」

 佐々木は、その横顔を見ていた。

 この人は、来年の秋に選挙を控えている。その前に記録が出れば、確実に落ちる。落ちれば、この協定を市の側で維持する人間がいなくなる。

 彼女は、それを承知で頷いた。

 協定は、それで終わった。

 文書は作られなかった。署名もなく、判子も押されなかった。四人が部屋を出て、それきりである。

 ただ一つ、記録に残す条項だけが、記録に残すという内容ゆえに、文書になった。

 佐々木は、その夜、宿でその一枚を作った。

 表題を、しばらく考えた。

 移行期における農地及び農業用施設の管理に関する暫定的取扱い、と書いた。書いてから、長すぎると思った。

 翌週、彼はその紙を海崎の帳場へ持って行った。内容の確認のためである。

 リクが、表題を見て言った。

「長いね」

「地味なほうが通るんです」

 佐々木は答えた。

「モラトリアム・プロトコルでいいんじゃない」

 リクは、そう言った。

 佐々木は、その言葉を聞いて、少し黙った。

「猶予の、手順書ですか」

「そう」

 リクは、モニターに向き直った。

「返済が免除されたわけじゃない。先に延ばしただけ。……延ばしたぶん、利子はついてる」

 佐々木は、その紙を鞄に入れた。

 表題は、変えなかった。

 変えなかったが、彼は帰りの列車の中で、その言葉を三度、口の中で繰り返した。


9-4 神谷の最後の日

 十一月の第二週に、神谷のため池の水を落とした。

 工事の名目は、防災重点農業用ため池の廃止である。県の補助が付いた。撤退エリアの中で公費が入る工事は、これが唯一だった。

 壊すことにだけ、金が付く。

 朝、巳之吉は軽トラックで谷を上がった。荷台に、伝票の束とバインダーと、ユラの端末の予備を積んでいる。

 空は晴れていた。十一月の日本海側にしては珍しい。山は色を落とし始めていて、杉の緑の間に、褐色になった広葉樹が混じっていた。

 池の堤に、人が集まっていた。

 ユラと、コモンズから来た四人。県の職員が二人。市の高津。それから佐々木。

 少し離れたところに、玲がカメラを構えていた。

 岡崎は、堤の上に立っていた。

 工事は、斜樋から始まった。

 木の栓を、下から順に抜く。抜くたびに、水が音を立てて底樋へ落ちていく。ユラが手袋をはめて、栓に手をかけた。

「固い」

「腐っとるからな」

 岡崎が言った。

「最後に替えたのが、十年前だ」

 ユラは、木槌で栓の頭を横から叩いた。二度目で、抜けた。

 水が出た。

 池の水位が、目に見える速さで下がり始めた。

 巳之吉は、堤の上でバインダーを開いた。

 紙は、ユラが用意した様式である。台帳に入力する項目が、そのまま印刷してある。

 所在。施設の種別。規模。停止年月日。決定者。最後の維持実施者。備考。

 彼は、一行目から書き始めた。

 所在の欄に、神谷と書いた。地番は、市の台帳から拾ったものを写した。

 施設の種別に、農業用ため池と書いた。

 規模の欄に、堤高六・二メートル、貯水量およそ八千立方メートル、受益面積一・二ヘクタールと書いた。数字は、県の資料から取った。

 停止年月日に、その日の日付を入れた。

 決定者の欄で、彼は手を止めた。

「岡崎さん」

 巳之吉は言った。

「ここは、市長の名前でいいですか」

 岡崎は、水の落ちる音のほうを見たまま答えた。

「そうしてくれ」

「巽冴子、と」

「ああ」

 巳之吉は、書いた。

 次の欄が、最後の維持実施者である。

「この池は、誰が見てましたか」

 彼は訊いた。

「わしだ」

 岡崎は言った。

「いつからですか」

「二十年前からだな。その前は、庄司さんがやっとった」

「庄司さん」

「庄司清一。……もう死んどる。十五年になるか」

 巳之吉は、その名前を書いた。

「その前は」

「その前は、庄司さんの親父さんだ。名前は、忠一だ」

 岡崎は、言った。

「そのまた前は、知らん。わしが生まれる前の話だ」

 巳之吉は、三つの名前を書いた。

 庄司忠一。庄司清一。岡崎。岡崎の下の名前を、彼はそこで初めて訊いた。

「岡崎、栄一です」

 老人は、そう名乗った。

 巳之吉は、書いた。

 備考の欄に、彼はもう少し書き足した。斜樋の木栓は、庄司清一が自分で削っていたこと。栓の木口に年号が彫ってあること。岡崎が引き継いでからは、年に一度、業者から材を買って替えていたこと。

 その材が、五年前から手に入らなくなったこと。

「木が、なくなったんですか」

「木はある」

 岡崎は言った。

「削る人間がおらんようになった」

 昼前に、池の底が出た。

 玲は、その一部始終を回していた。

 彼女が撮っているのは、水が引いていく池ではなかった。堤の上でバインダーに書き込んでいる巳之吉と、その横で名前を挙げている岡崎である。カメラは、二人の手元に向いていた。

 昼の休憩に入ったとき、彼女は巳之吉のところへ来た。

「今日のは、使える」

 彼女は言った。

「何がですか」

「消えていくものを、消えていく時に撮るのは、誰でもやるの」

 玲は、堤の下を見た。

「誰かが、それを紙に書いているところを撮ったのは、初めて」

 巳之吉は、バインダーを見た。

 名前が三つ、並んでいる。庄司忠一、庄司清一、岡崎栄一。

 彼は、この三人のうち二人に会ったことがない。会ったことのない人間の名前を、彼が書いている。

 書く資格があるのかを、彼は自分に問わなかった。問えば、答えは出ない。彼は十二年前、この街で一番、名前を書くのに向いていない側の人間だった。

 向いていない人間が書いている。

 それでも、書かなければ誰も書かない。

 水の引いた斜面に、白い帯が残っていた。長年、水位があった位置である。底は黒い泥で、そこに古い木材と、錆びた一斗缶と、それから、何かの構造物の残骸が見えた。

「あれは」

 巳之吉が訊いた。

「昔の樋だ」

 岡崎が答えた。

「木の樋を使うとった時分のもんだな。わしの親父の代に、コンクリートに替えた。……替えたときに、古いのを引き上げんかったんだ」

 彼は、その泥の底をしばらく見ていた。

「あの池はな」

 岡崎は言った。

「わしの親父の代に、集落の者が総出で土を担いで造ったと聞いとる。三年かかったそうだ。当時、この谷に三十戸あった」

 巳之吉は、それも書いた。

 午後、堤を切る工事が始まった。

 バックホーが、堤の天端から下へ向かって掘り下げていく。土は、下流側へ落とされ、そこで均された。切るのは全体ではない。中央の一部を、下の川床の高さまで下げる。そうすれば、二度と水は溜まらない。

 水路の埋め戻しは、その隣で並行して行われた。

 谷の上を通っていた四百メートルのうち、二百メートルを埋める。コンクリートの側壁は割って、そのまま溝の中へ落とし、上から土をかけた。運び出さない。

 運搬費がかからない。梶原の側の工法である。

 夕方、工事が一段落したとき、県の職員が書類を出した。

 ため池の廃止に関する、受益者の同意書である。

 岡崎は、それを老眼鏡をかけて、一枚ずつ読んだ。

 読み終わると、上着の内ポケットから印鑑を出した。布の小袋に入った、古い実印である。

 朱肉に当て、位置を合わせた。

 押した。

 乾いた音がした。

 紙と、その下の下敷きのあいだの空気が抜けるような、短くて、それきりの音である。

 堤の下では、まだバックホーが動いていた。エンジンの音が谷に響いている。判子の音は、その中で、ほとんど聞こえなかった。

 巳之吉には、聞こえた。

 彼は、その音を書かなかった。書く欄がない。

 書けたのは、日付と、施設の種別と、三つの名前だけである。

「これで、終わりだな」

 岡崎が言った。

 彼は、印鑑を袋に戻した。

「岡崎さん」

 巳之吉は言った。

「あなたの名前、ここに残ります」

「そうか」

「最後にこの池を見てた人として」

 岡崎は、頷いた。

「残しといてくれ」

 彼はそう言って、堤を下りていった。

 巳之吉は、バインダーを閉じた。

 閉じてから、開き直して、備考の欄の最後に、もう一行足した。

 この池を造った者の名前は、記録がなく、判明しない。

 彼は、そう書いた。

 日が落ちるのが早くなっていた。谷の底に、もう影が入っている。

 池のあった場所は、黒い泥の広がりになっていた。


9-5 移行期

 工事の翌週、佐々木はもう一度、上寒河の斜面へ行った。

 今度は、一人で来た。市の職員も、県の担当も連れていない。長靴は、車のトランクから出した。去年の泥がついたままのものである。

 林道の終点に、軽トラックが一台停まっていた。

 ユラが、斜面の上にいた。

 佐々木は、笹を分けて登った。息が上がった。五十を過ぎてから、こういう登り方をするのは久しぶりだった。

「県の人か」

 ユラが振り返らずに言った。

「国です」

「同じようなものだ」

「同じです」

 佐々木は、そう答えた。

 ユラは、溝の底に溜まった落ち葉を掻き出していた。秋の一巡である。

「訊きたいことがあって来ました」

「言ってくれ」

「この方式は、いつまで続けるんですか」

 ユラは、鋤簾を止めた。

「どういう意味だ」

「毎年、人が入る必要がある。春に一日、秋に一日。……四十七箇所で、九十四人日。それを何年続けるんですか」

 ユラは、しばらく黙っていた。

「十年だ」

 彼は言った。

「十年」

「危ないのは、最初の十年だ」

 ユラは、斜面の上を指した。

「人が耕さなくなった土地は、最初の数年がいちばん脆い。畑や田だったところは、根が浅い。草の根は、深さ二十センチくらいまでしか行かない。……その下に、水が入る」

 彼は、掻き出した落ち葉を溝の外へ寄せた。

「二年目から、灌木が生える。柳とか、桑とか。五年目には、細い木が立つ。十年経つと、根が一メートル以上入る。……そこから先は、斜面が自分で持つようになる」

「植生が回復する」

「そうだ」

 ユラは頷いた。

「二十年から三十年経つと、雑木林になる。雑木林の斜面は、田んぼだったころより強い。……人が手を入れる前の状態に戻るからだ」

 佐々木は、その説明を聞いていた。

「では、これは」

 彼は言った。

「永久に維持する仕組みではない」

「違う」

 ユラは即答した。

「永久機関は詐欺だ。……そんなものはない」

 彼は、鋤簾を斜面に突き立てた。

「これは、間を埋めるだけの仕事だ」

「間」

「人が手を引いてから、山が自分で立てるようになるまでの間だ」

 ユラは言った。

「その間だけ、人間が持たせる。……十年から三十年だ。それが過ぎたら、俺たちは要らなくなる」

 佐々木は、その言葉の意味を、しばらく考えた。

 彼が国で見てきた事業計画は、どれも終わりの日付を持っていなかった。整備した施設は、更新期に来れば更新する。更新した施設は、また更新期に来る。永久に続く前提で、費用が積まれている。

 永久に続く前提の事業に、人が足りなくなった。

 目の前の男が言っているのは、逆の設計である。

 終わることを前提にした維持。

「終わったら」

 佐々木は訊いた。

「そこは、どうなるんですか」

「山だ」

 ユラは言った。

「田んぼじゃなくなる。畑でもない。……人が住まなくなった山になる。木が生えて、獣が住んで、それだけだ」

「取り戻せますか」

「取り戻さない」

 ユラは、そう言った。

「取り戻すつもりなら、この工法は選ばない。……取り戻すなら、水路を直して、畦を直して、土を作り直す。金がかかる。何十年もかかる。その間、誰かが金を出し続けなきゃならない」

 彼は、溝の線を目で追った。

「俺がやってるのは、その逆だ。畳んだ場所が、畳まれる途中で人を殺さないようにしてるだけだ」

 佐々木は、そこに立ったまま、谷を見下ろした。

 水路が埋め戻された線が、褐色の斜面の上に、うっすらと残っている。数年で分からなくなるだろう。

「あなたたちは」

 彼は言った。

「その十年が終わったら、どこへ行くんですか」

 ユラは、答えなかった。

 答えなかったのは、考えていなかったからではない。

「分からない」

 彼は言った。

「梶原は、十年か十五年もたせると言ってる。もった先のことは、設計してないそうだ」

「あなたは」

「俺も、してない」

 ユラは言った。

「十年後に、俺は三十八だ。その頃には、この四十七箇所のうち、半分は要らなくなってる。要らなくなった分だけ、俺の仕事が減る」

 彼は、そこで初めて、佐々木のほうを見た。

「仕事がなくなるのが正解の仕事だ」

 彼は言った。

「そういう仕事に、値段はつかない」

 佐々木は、その言葉を、頭の中で何度か反芻した。

「もう一つ、訊いていいですか」

 彼は言った。

「あなたのところで、いま何人が働いていますか」

「二十二人だ」

 ユラは答えた。

「そのうち、十年後もこの仕事ができる年齢の人は」

「六人か、七人だ」

 ユラは言った。

「あとは、六十を超える。……いちばん年上は六十八だ。斜面は、七十を過ぎると登れない」

「その人たちは」

「分からない」

 ユラは、また同じ答えを返した。

「一人、去年の冬から入ってる人がいる。名前は聞いてない。日本人で、六十近い。……この前、配給が減ったときに、いつまで持つかだけ訊いてきた。七月までだと言ったら、頷いて、それきりだ」

 彼は、鋤簾を持ち直した。

「あの人は、七月までに次を探す。探して、見つからなかったら、どこかへ行く。……どこへ行ったかは、誰も書かない」

 佐々木は、その話を聞いていた。

 聞いて、自分がこれから書く報告書に、その欄がないことを考えた。

 山を下りたのは、日が傾いてからである。

 林道の途中で、彼は一度立ち止まって、振り返った。

 斜面には、何も見えなかった。溝は笹に隠れていて、下から見上げると、ただの山の斜面である。

 彼は、車に戻って、運転席で手帳を開いた。

 書いたのは、三行だった。

 当該方式の想定期間は十年から三十年。恒久施設ではなく、移行期の管理である。

 したがって、費用は永続的な財政負担ではなく、期限のある支出として設計できる。

 ただし、期間の終期において、従事者の受け皿は存在しない。

 彼は、三行目を消そうとして、消さなかった。

 消せば、この方式は美しい制度として書ける。十年から三十年で終わる、期限のある支出。財政当局に対して、これほど説明しやすい形はない。

 三行目があると、その説明が成立しなくなる。

 成立しなくなるが、事実である。

 佐々木は、手帳を閉じた。

 その夜、海崎に初雪が降った。

 積もらなかった。翌朝には消えていた。ただ、屋根の北側に、うっすらと白い筋が残っていた。

 彼は、宿の窓からそれを見て、去年の一月に霞が関の会議室で見た地図のことを思い出した。

 緑と、黒。

 黒く塗られた場所の一箇所に、いま彼は立っている。

 その黒の中には、四十七箇所の斜面があり、六十四キロの水路があり、九つのため池のうち一つが今週埋められ、二十五戸の家が残っていて、三つの名前が新しく紙に書かれた。

 そのどれも、あの地図には映っていなかった。


終章


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