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モラトリアム・プロトコル 第六章
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第六章 融雪
6-1 春が来る
二月の終わりに、雨が降った。
雪の上に落ちた雨は、そのまま染み込んでいった。翌朝、積雪の表面がざらついた粒に変わっていた。踏むと、じゃり、と音がする。巳之吉が長靴で崩すと、下から灰色の層が現れた。
冬のあいだ、雪は物としてそこにあった。屋根を押し、枝を折り、道を狭めていた。それが動き出す。
「今日から、上に入る」
ユラがそう言ったのは、その日の朝である。
巳之吉は、ガレージの仕事を昼までで切り上げ、軽トラックの荷台に道具を積んだ。鋤簾、鍬、剪定鋏、それから塩ビの管が数本。管は長さが一メートルほどで、側面に細かい穴が開いている。
「これは」
「水位を見るやつだ」
ユラが答えた。
「斜面に挿しておく。中に溜まった水の高さを測れば、土の中がどうなってるか、だいたい分かる」
林道の終点に車を止め、そこから歩いた。
その途中で、谷の入口をひとつ通り過ぎた。
道の脇に、古い石の道標が立っている。文字は摩耗していて読めなかったが、その先が神谷であることを、巳之吉は知っていた。
谷の奥に、屋根がいくつか見えた。数えられる数である。屋根の上には、まだ雪が残っていた。下ろされた跡のあるものと、ないものが混じっている。
「あそこ、六戸だそうだ」
巳之吉が言った。
「知ってる」
ユラが答えた。
「上にため池がある。堤の下に四戸だ」
「見に行ったのか」
「去年の秋に、外から」
ユラは、それだけ言った。
梶原の土地ではない。だから彼は、点検の一覧にその池を入れていない。入れていないことを、彼はわざわざ説明しなかった。
雪はまだ膝の高さに残っていたが、南向きの斜面はもう地面が出ている。露出した土は黒く、湿って、踏むと足が沈んだ。去年の落ち葉の下から、細い水が何本も流れ出していた。
巳之吉は、その水の音を聞いた。
冬のあいだ、山は静かだった。いま、どこを歩いても水の音がする。地面の下を、目に見えない量が動いている。
「詰まってるな」
ユラが立ち止まった。
斜面を横に切る溝の、上流から二十メートルほどのところである。落ち葉と枯れ枝が溜まって、水が溢れ、溝の外を流れていた。
二人で掻き出した。三十分ほどで終わった。
「これで、あと何箇所ある」
巳之吉が訊いた。
「梶原が押さえてる土地で、俺が見なきゃいけないと思ってる斜面は、四十七だ」
ユラは、防寒着のポケットから折り畳んだ紙を出した。手書きの一覧である。番号と、地名と、前回入った日付が並んでいた。
「四十七」
「そのうち、下に人家か道路があるのが、二十九」
巳之吉は、その紙を受け取って見た。
「一箇所に、どのくらいかかる」
「移動を入れて、半日から一日だ。林道が使えないところは、歩きで往復二時間を足す」
巳之吉は、頭の中で割り算をした。
一日に一箇所。四十七箇所。休みなしで、四十七日。
「一巡するのに、一か月半か」
「そうだ」
「一巡目が終わるころには」
「最初のところが、また詰まってる」
ユラは、そう言った。
言い方に、諦めも苛立ちもなかった。天気の話をするのと同じ調子だった。
巳之吉は、紙をもう一度見た。
四十七の欄のうち、日付が入っているのは十一箇所だけである。残りは空白だった。今年はまだ、そこまで手が回っていない。
「増やすしかねえだろう」
「そうだ」
「人を出せって、桐島さんに言ったのか」
「言った」
「返事は」
「春の作付けが終わってから、と言われた」
ユラは、鋤簾を肩に担ぎ直した。
「作付けが終わるのは、五月の中頃だ」
巳之吉は、それ以上何も言わなかった。
三月の初旬から五月の中旬まで、二か月以上ある。その二か月が、いちばん水が動く時期だということを、彼はこの数か月でユラから聞いて知っていた。
その日、二人は三箇所を回った。
二箇所目は、集水路の勾配が緩すぎて、底に泥が溜まっていた。掘り直すのに二時間かかった。三箇所目は、上流の斜面から小さく崩れた土が溝を半分埋めていた。それも掻き出した。
夕方、ユラは塩ビの管を三本、それぞれの斜面に挿した。
挿す前に、彼は手回しのオーガで穴を掘った。深さは一メートル半ほどある。掘った土を指で潰し、粘りを見て、砂の量を見て、それからまた掘った。
「何を見てるんだ」
「層だ」
ユラは、掘り出した土を並べた。
「上から五十センチは、去年の落ち葉が混ざった土だ。その下が粘土。粘土は水を通さない。……水は、粘土の上を横に走る」
彼は、掘った穴の底に手を入れた。
「この深さで、もう濡れてる」
「まずいのか」
「まずくはない。三月なら、こんなもんだ。……まずいのは、これが上がってきたときだ」
ユラは管を挿し、周りに砂利を詰めた。
「この管の中の水が、地面から三十センチのところまで上がったら、その斜面は動く準備ができてる」
「動く」
「滑る。上から下へ、まとめて」
巳之吉は、その斜面を見上げた。
何も変わったところはなかった。杉が立ち、笹が生え、雪の残った窪みに水が溜まっている。どこにでもある山の斜面である。
「見た目じゃ、分からんな」
「分からない」
ユラは立ち上がった。
「だから、測る」
巳之吉は、その管を見た。
「これで何が分かるんだ。水が高いと、なんで滑る」
「土が浮くからだ」
ユラは、掘り出した土を手に取った。
「土ってのは、粒の集まりだ。粒同士が押し合って、噛み合って、形を保ってる。斜面が立っていられるのは、その噛み合わせのおかげだ」
彼は、掌の土を握り、それから開いた。
「粒の隙間に水が入って、その水に圧がかかると、粒同士を押し広げる。押し広げられた粒は、噛み合わせが弱くなる。……上に載ってる重さは変わらないのに、支える力だけが減る」
「浮く、というのはそういう意味か」
「そうだ。水が土を持ち上げてるわけじゃない。粒と粒のあいだを、こじ開けてるだけだ」
ユラは、土を捨てた。
「だから、水の量じゃなくて、水の高さを見る。溜まって、行き場がなくなった水が、いちばん危ない」
巳之吉は、頷いた。
整備の間隔と同じだ、と彼は思った。摩耗した粉が回っている機械に、新品の間隔を当てても意味がない。土も、その土の事情でしか壊れない。
帰りの車の中で、巳之吉は自分のガレージのことを考えていた。
彼のところには、いま十一台の重機がある。動くのは八台。三台は後回しにしたまま、冬を越した。
あれも、見た目では分からなかった。油圧のホースは、破れる前の日まで、破れていないホースと同じ形をしていた。
「ユラ」
「なんだ」
「あんた、その四十七を全部回れたことは、あるのか」
ユラは、しばらく黙っていた。
「ない」
彼は言った。
「去年は、二十二までだ」
巳之吉は、それ以上訊かなかった。
軽トラックが林道を下りていく。ヘッドライトの中を、細かい霧が流れていた。気温は上がっている。この調子なら、来週には雪の大半が消える。
消えた雪は、どこかへ行くわけではない。
全部、水になって、地面の中へ入る。
6-2 止まった集水路
三月の第二週、巳之吉は帳場に立った。
自分から議題を出すのは、この共同体に来て初めてだった。
「北の斜面の話です」
彼は、ユラの手書きの一覧を机の上に広げた。
「四十七箇所あります。うち二十九は、下に人が住んでるか、道路が通ってる。……いま、回れてるのは十一です」
桐島は、その紙を手に取った。
「これは、梶原の土地だな」
「そうです」
「うちの土地ではない」
「そうです」
巳之吉は、そこで少し詰まった。
「ですが、うちが作ってる田の上にある斜面が、そのうち九箇所です。上寒河の谷は、上が全部あの人の土地だ。上が動いたら、下の田は埋まります」
健太が、腕を組んだまま口を開いた。
「巳之吉。それ、何人要るんだ」
「二人でいい。ユラと、あと一人。俺が入ってもいい」
「二人か」
健太は、少し考える顔をした。それから首を振った。
「無理だな」
「なんでだ」
「解体の着工待ちが五十二件だ」
健太は、指を折った。
「そのうち十九件は、期限がある。相続の期限だったり、税の期限だったり、こっちの都合じゃねえやつだ。今月中に着工しねえと、話が流れる。流れたら、その分の金が入らねえ」
彼は、机の上に手を置いた。
「それに、芋の五町歩がある。作付けの準備に、人と機械が要る。桐島が去年の暮れに決めたやつだ。……あれも、やめるわけにいかねえだろう」
巳之吉は、答えられなかった。
どちらも、正しい。
「巳之吉」
桐島が言った。
「あなたの言っていることは、理解している」
彼は、一覧を机に戻した。
「順番の問題だ。作付けと解体は、五月には手が空く。そこから斜面に人を回す」
「五月じゃ、遅いんです」
巳之吉は、思ったより強い声を出していた。
「水が動くのは、いま入ってる雪が全部融けるまでです。それが四月の頭までだ。五月には、もう終わってる」
「終わっているなら、危険も去っているということにならないか」
「去りません」
巳之吉は、ユラから聞いたことを、そのまま言った。
「詰まった溝は、詰まったままです。今年の融雪で持ったとしても、詰まったところに来年また水が入る。……壊れるのは、水が来た年じゃない。溜まりきった年です」
桐島は、しばらく黙っていた。
「危険が高いのは、四十七のうちどれだ」
「ユラは、五箇所と言ってます」
「その五箇所だけなら、二人を一週間出せる」
「五箇所は、一週間じゃ終わりません」
「では、終わる範囲でやってくれ」
桐島は、そう言った。
冷たい言い方ではなかった。むしろ、譲歩の言い方だった。
巳之吉は、それ以上食い下がる材料を持っていなかった。
その日から、彼とユラは五箇所を回った。
一箇所目は、二日かかった。上流の斜面から崩れた土が三十メートルにわたって溝を埋めていて、掻き出すだけで手が塞がった。
二箇所目は、半日で終わった。
三箇所目に着いたのは、四日目の午後である。
旧県道から分岐する林道の、砕石場跡の上にある斜面だった。
ユラは、そこへ入る前に一度、立ち止まった。
「ここは、去年の秋に一度入ってる」
「詰まってたのか」
「詰まりかけてた。掻き出して、上流側に木の枝を組んで、落ち葉が入りにくいようにした」
二人は、笹を分けて上がった。
集水路は、埋まっていた。
枝を組んだところが、まとめて崩れていた。冬の雪の重みで枝が折れ、その上に落ち葉と土が乗り、堰き止められた水が横から溢れて、溝そのものを削っていた。
削られた土は、下へ流れていた。
流れた先を、ユラは目で追った。
斜面の中腹に、緩い凹みがある。そこに水が集まり、地面に染み込んでいる。凹みの下は、灌木と笹に覆われていて、その先が見えなかった。
「掘り直すのに、どのくらいだ」
巳之吉が訊いた。
「新しく引き直す。上で受けて、横へ逃がす。……三日だ。バックホーを上げられれば、二日」
「バックホーは」
「林道の途中が崩れてる。直すのに、また一日いる」
ユラは、そこで空を見た。
雲が低かった。西から流れてきている。
「明日から、雨だ」
彼は言った。
巳之吉は、携帯端末を出して天気を確認した。三日間、雨の予報だった。気温は十度を超える。
雨と、融雪が重なる。
「五箇所のうち、ここが一番まずい」
ユラは言った。
「下に、何がある」
「県道だ」
二人は、その日のうちに帳場へ戻った。
巳之吉は、もう一度、人を出してくれと言った。
桐島は、いなかった。北の谷筋の交渉に出ていた。健太は解体の現場に出ていた。トアンは寮の割り当てで手が離せなかった。
残っていたリクが、話を聞いた。
「明日から雨か」
「三日だ」
「……僕から桐島に伝えるよ。ただ、今から人を集めても、動かせるのは明後日の朝になる」
リクは、正直にそう言った。
「明後日の朝でいい」
巳之吉は言った。
その夜、ユラは事務所の古いノートパソコンを開いた。
台帳の入力欄に、日付と、現場の識別番号と、作業の種別を入れた。
種別の項目には、あらかじめ用意された選択肢がある。集水路の新設、泥上げ、草刈り、斜樋の点検、暗渠の清掃、押え盛土。
ユラは、そのどれも選ばなかった。
彼は、自由記入の欄に打ち込んだ。
点検。閉塞を確認。対処せず。
その下に、もう一行足した。
人員の割り当てなし。判断者、桐島。
巳之吉は、その画面を横から見ていた。
「それ、書いて何になるんだ」
ユラは、送信を押した。
「今は、何にもならない」
彼は言った。
「後で、何かになる」
翌日から、雨が降った。
初日は細かい雨だった。二日目に強くなった。気温は十二度まで上がり、山に残っていた雪が、目に見える速さで減っていった。
巳之吉は、二日目の午後、一人で軽トラックを出した。
人が集まるのは明後日の朝である。それまで何もしないでいることが、彼にはできなかった。
林道の入口に車を置き、雨具を着て歩いた。途中の崩れた箇所を越えるのに時間がかかり、斜面に着いたときには、もう三時を回っていた。
水の音が、前に来たときの倍になっていた。
埋まった集水路は、完全に水没していた。溝の形はもう分からない。溢れた水が、斜面を面で流れている。
彼は、鋤簾を持ってきていた。
上流側から、掻いた。落ち葉と土が水を含んで重く、一掻きで持ち上がる量が知れている。三十分で、二メートル進んだ。
雨が強くなった。
彼は、そこで手を止めた。
止めたのは、疲れたからではない。掻いても掻いても、上から同じ量が流れてきていたからである。溝の上流側の斜面そのものが崩れ始めていて、掻き出した先から埋まっていた。
二メートル進むのに三十分。残りは二十メートル以上ある。
一人では、間に合わない。
彼は、斜面の中腹の凹みを見た。
水が集まっていた。地面が黒く濡れて、周囲より一段沈んで見える。踏むと、靴の周りに水が湧いた。
巳之吉は、しばらくそこに立っていた。
それから、山を下りた。
車に戻ったときには、日が暮れていた。運転席で、彼は雨具を脱がずに座っていた。フロントガラスを雨が流れ、その向こうに、黒い斜面の輪郭だけが残っていた。
明後日の朝でいい、と彼は言った。
自分がそう言ったことを、彼はその晩、何度も思い返した。
6-3 崩落
梶原がその報せを受けたのは、三月十九日の午前十時過ぎである。
事務所の机で、彼は登記の書類を確認していた。電話が鳴り、ユラの番号が表示された。ユラが電話をかけてくることは、月に一度あるかないかである。
「出た」
ユラは、それだけ言った。
「どこだ」
「砕石場跡の上だ」
「下は」
「県道」
梶原は、受話器を持ったまま、椅子から立ち上がった。
「人は」
「二人。市の車だ。両方生きてる」
梶原は、しばらく何も言わなかった。
言えなかったのではない。声が出なかったわけでもない。ただ、言うべきことが何も思い浮かばなかった。
「向かう」
彼はそう言って、電話を切った。
現地に着いたのは、午後三時である。
県道は、両側で通行止めになっていた。梶原は手前で車を降り、規制の外側に立った。
視界の先で、斜面がひとつ、抜けていた。
幅は五十メートルほどある。上の杉が何本か、根ごと倒れて泥の上に横たわっていた。落ちた土は県道を完全に塞ぎ、反対側のガードレールを押し倒して、その下の沢まで流れていた。
土は、黒くなかった。
灰色がかった、油の混じったような色をしていた。その中に、白っぽい板状の破片が何枚も混じっている。
石膏ボードと、それに似た形の建材だった。
梶原は、それを見ていた。
県の職員が二人、防塵マスクをつけて泥に近づき、破片をひとつ拾い上げて、袋に入れていた。
規制線のそばに、地元の消防団の男が立っていた。梶原は、通行止めの理由を訊く体で声をかけた。
「土砂ですか」
「そうだ。今朝の九時前らしい」
男は、道の先を指した。
「市の水道課の車が通りかかってな。前が急に真っ黒になって、止まったところに横から来たと。運転席の若いのが右腕を折って、助手席のが頭を打った。両方、意識はある」
「亡くなった方は」
「おらん」
男は言った。
「運がよかったんだ。あと十秒早けりゃ、車ごと沢に落ちとった」
梶原は、頷いた。
頷いてから、自分が何に対して頷いたのかを考えた。
運がよかった。
十二年前も、そう言われた。死者は出なかった。運がよかった。あのとき彼を慰めようとした人間は、たぶん本気でそう思っていた。
彼は、その言葉を一度も受け取れなかった。
死者が出なかったということは、生きている人間が一人増えたということである。生きて、これから何十年も生きる。終わりの日付を持たないまま。
今日、それが二人増えた。
規制線の内側で、県の職員が電話をしていた。声が切れ切れに聞こえてくる。
……アスベストの含有が疑われます。現場は封鎖を継続します。……ええ、飛散防止の措置を先にやらないと、重機も入れられません。……土地の所有者ですか。まだ照会中です。
梶原は、その言葉を聞いた。
土地の所有者。
あの斜面は、四年前に彼が引き取った。前の持ち主は、隣の市に住んでいた高齢の女性である。父から相続した山で、一度も見に行ったことがないと言っていた。彼女は三百万円を払って、名義を手放した。
名義は、そのあと五つに割れた。割れた先が、また割れた。いま、あの土地の持分を持っている法人は十一ある。うち二つは国外にある。
誰も辿り着けない。
辿り着けないように、彼が作った。
現場の照明が入ったのは、日が落ちてからだった。
夜間工事である。発電機の音が谷に響き、白い光の中を、バックホーが一台、泥を掻いていた。作業員は防護服を着ていた。
梶原は、規制線の外に立ったまま、それを見ていた。
斜面には、黒い口が開いている。
十二年前と、同じ形をしていた。同じ角度で、同じように上が抜け、同じように根が空中に垂れていた。あのときも、夜だった。あのときも、バックホーが一台だけ動いていた。
彼は、そこで初めて、自分が震えていることに気づいた。
寒さではない。三月の夜は冷えるが、彼はコートを着ていた。
この十二年、彼は毎月、決まった日に決まった額を振り込んできた。振込の控えには、相手の妻の名前が印字される。忘れることは、構造的にできないようになっている。
彼は、その仕組みを受け入れていた。
受け入れていたのは、それが一度きりのものだと思っていたからである。
自分は一度、人を潰した。だから残りの人生を、その一度に対して払う。そういう構造だと理解していた。理解していたから、耐えられた。
二度目があるとは、考えたことがなかった。
「梶原さん」
背後から声がした。
ユラだった。防寒着に泥がついている。上まで登って、見てきたのだろう。
「上を見てきた」
「言え」
「集水路が、二箇所で完全に埋まってた。……秋に一度直したところだ。冬の雪で組んだ枝が潰れて、その上に落ち葉が乗った」
ユラは、淡々と続けた。
「水は、斜面の中腹の凹みに集まって、そこから地面に入ってた。凹みの下に古い盛土がある。たぶん、砕石場をやってたころの残土だ。締まってない土だ。……そこに水が入って、飽和した」
「いつから、そうなっていた」
「秋の時点で、詰まりかけてた。三月十五日に確認した。四日前だ」
「対処は」
「してない」
ユラは言った。
「人を出せなかった」
梶原は、それについて何も言わなかった。
言えることは、いくつもあった。誰が人員を決めたのか。誰が優先順位を決めたのか。四日あれば何ができたのか。
だが、それは全部、責任の話である。
責任の話は、いま彼の目の前で泥に埋まっている県道を、一センチも掘らない。
「記録は」
梶原は、それだけ訊いた。
「取ってある」
ユラは答えた。
「点検した日付と、詰まっていたことと、対処しなかったことと、その判断をしたのが誰かを、書いてある」
梶原は、初めてユラのほうを見た。
「それは」
彼は言った。
「いつか、我々を裁くための証拠になる」
「知ってる」
ユラは言った。
「書かなかったら、何が起きたのかを誰も知らないまま終わる。……それは、もっと悪い」
谷の底で、バックホーのエンジンが唸った。
泥の山が、少しだけ低くなった。
その夜、梶原は宿を取らずに車の中にいた。
彼は、報道された内容を端末で追った。市の水道課の職員二名。二十九歳と、五十四歳。二十九歳のほうが右上腕を骨折し、五十四歳のほうが頭部を打って、経過観察のために入院している。
名前は出ていなかった。
出ていないことに、彼は安堵しなかった。
十二年前、被害者の名前を彼が知ったのは、事故の四日後である。警察から連絡が来て、示談の話が始まり、書類に名前が印字された。それから、その名前は毎月、彼の目の前に現れることになった。
今回、名前は出ないだろう。
なぜなら、彼は所有者ではないからである。少なくとも、書類の上では。
十一の法人が持分を分けて持っていて、そのうち二つが国外にある。誰も辿り着けない。辿り着けないなら、賠償の請求先も存在しない。
あの二人の治療費と休業補償は、市の公務災害から出る。市の予算は、市民の税から出る。
つまり、彼が壊したものの費用を、彼が壊した街の人間が払う。
梶原は、その構造を四年かけて自分で組んだ。
組んだときには、これが誰かに損害を与える形で作動するとは考えていなかった。作動しないようにするために、ユラを雇った。ユラは警告し、記録し、そして人手が出なかった。
彼は、フロントガラスの外の照明を見ていた。
白い光の中で、防護服の男が四人、スコップで泥を袋に詰めている。
あの作業に、いくらかかるのか。彼は反射的に見積もった。飛散防止の養生、汚染土の分別、運搬、処分。桁が三つ変わる。
その金額の百分の一で、四日前に溝は掘れた。
彼は、端末を伏せた。
6-4 目を覚ます制度
照会の文書が佐々木の手元に回ってきたのは、崩落の四日後である。
県からの技術的助言の依頼だった。撤退エリア内で発生した土砂災害について、所有者不明の土地に対する応急措置と恒久対策の進め方を確認したい、という内容である。
彼の部署は本来、こういう照会を受ける場所ではない。
回ってきた理由は、添付されていた一枚で分かった。現場の位置図である。海崎市の北部、旧県道の分岐から林道へ入ったあたり。撤退エリアの中である。
撤退エリアの指定に関する事務を、彼が担当していた。
佐々木は、その一枚をしばらく見ていた。
週明けから、事態は速かった。
まず、報道が動いた。土砂に含まれていた建材からアスベストが検出されたことが、地方紙に出た。翌日には全国紙が追い、夕方にはテレビが現場のヘリ映像を流した。撤退エリア、という言葉が、初めて一般の見出しに載った。
国会で問われたのは、その二日後である。
国が管理から手を引いた区域で、所有者不明の土地から有害物質を含む土砂が流出し、住民が負傷した。国の責任をどう考えるか。
答弁は、当該区域における維持管理は地域の実情に応じて実施されるものであり、国としては必要な技術的助言を行ってまいります、という趣旨だった。
その答弁の起案には、佐々木も加わった。
同じ週の金曜日に、県が動いた。
所有者不明土地管理制度に基づく管理人の選任を、裁判所に申し立てる方針が固まった。あわせて、応急対策として、災害関連緊急事業の枠組みで国庫補助の要望が上がった。
佐々木は、その要望書に添付された概算を見た。
応急工事、およそ一億二千万円。飛散防止のための養生と、汚染土の分別を含む撤去。恒久対策として、斜面の安定化と排水施設の設置、それに調査と設計を加えて、五億から七億円。
合計で、六億から八億。
彼は、その数字を三度読み直した。
それから、机の引き出しから、一年前の資料を出した。
法案の最終調整で削られた一行の、積算の基礎になった資料である。撤退エリア内の水利施設および道路について、当面の維持管理に要する経費。全国分で、年間およそ四十億円だった。
全国で、四十億。
この現場ひとつの事後処理で、六億から八億。
彼は、電卓を出した。
海崎市の撤退エリアで、ユラのような人間が年に二度、集水路の点検と泥上げをして回るとしたら、何人日かかるのか。四十七箇所を、二人で一箇所あたり一日として、年に二巡で百九十人日。日当を一万五千円として、二百八十五万円。機械の燃料と償却を足しても、五百万円に届かない。
一年に五百万円。
十年で五千万円。
四十年で二億円。
それでも、今回の事後処理費用の半分にも達しない。
佐々木は、電卓を置いた。
この計算を、彼は一年前にやろうとして、できなかった。撤退エリアの中に水路が何キロあり、橋が何本あり、ため池がいくつあるのかを、誰も把握していなかったからである。台帳がばらばらで、合計が出なかった。
いま、彼の手元には、少なくとも一箇所ぶんの、正確な数字がある。
人が怪我をしたから、である。
彼はそのことを、皮肉だとも、悲劇だとも思わなかった。
思ったのは、もっと単純なことだった。
この国の会計は、壊れなかったことに一円も計上しない。壊れたときの費用だけを、正確に記録する。だから、壊れる前の費用が、いつまでも見積もれない。
見積もれないものには、予算がつかない。
予算がつかないから、壊れる。
壊れると、正確な数字が出る。
その数字は、次の年度の予算には反映されない。事後処理の費目に計上されて、それきりである。
彼は、一年前に自分が書いた議事メモのことを思い出した。
あの一行が削られたとき、彼は反対しなかった。反対する材料を持っていなかったからである。撤退エリアの中に水路が何キロあるのかを、彼は答えられなかった。答えられない金額を、財政当局が認めるはずがない。
いま、彼は一箇所ぶんだけ、答えを持っている。
その答えは、六億から八億という形で書かれている。
部下の一人が、資料を運んできたときに言った。
「これ、去年削った経費の話と、関係ありますよね」
佐々木は、顔を上げた。
「関係あるか」
「あの一行が残っていたら、この現場に点検が入っていたかもしれない、という話です」
若い職員だった。悪意はなかった。
「入っていなかった」
佐々木は答えた。
「あの経費は、市町村が管理している施設を対象にしていた。あの斜面は民有地だ。国が金を出しても、誰も入らない」
「じゃあ、防げなかったということですか」
「そうは言っていない」
佐々木は、書類を揃えた。
「あの一行があれば、市が点検の体制を持てた。体制があれば、民有地の斜面から水が出ていることに、誰かが気づいたかもしれない。……気づいたかどうかは、分からない。ただ、いまは気づく人間がどこにもいない」
部下は、それ以上訊かなかった。
週が明けて、佐々木は動き始めた。
彼が最初にやったのは、全国の撤退エリアについて、同じ形式の照会を県に出すことだった。区域内にある水路の延長、農道の延長、橋梁の数、ため池の数。把握できている範囲でよい、把握できていない場合は「不明」と書いてよい、という条件をつけた。
部下が、この照会の意味を訊いた。
「不明と書いていいなら、ほとんど不明で返ってきますよ」
「それでいい」
佐々木は答えた。
「不明が何割あるかを知りたい」
彼は、その集計に「維持管理対象施設の把握状況調査」という名前をつけた。地味な名前である。名前が地味であるほど、通りやすいことを、彼はこの二十数年で学んでいた。
同じ週、彼はもう一枚の紙を作った。
全国の撤退エリアで、崩落や決壊が起きた場合の事後処理費用の推計と、事前の点検・清掃を継続した場合の費用の比較である。前者は今回の現場を単価の基礎にした。後者は、日当と人日で積み上げた。
紙の下のほうに、彼は一行だけ書いた。
事前の費用は、事後の費用の数十分の一である。ただし、事前の費用には、それを払う理由が存在しない。
書いてから、その一行を消した。
消したのは、正しくないと思ったからではない。この一行があると、資料そのものが受け取ってもらえないと分かっていたからである。
金曜日の夕方、彼は上司に呼ばれた。
「現地に行ってくれ」
そう言われた。
「県と市の調整に、うちからも一人出せということになった。……君は撤退エリアの事務をやっていたな」
「はい」
「海崎市だ。問題があるか」
佐々木は、少し間を置いた。
「ありません」
彼はそう答えた。
庁舎を出ると、東京の三月の夕方は、まだ明るかった。風が生温い。歩道の脇に植えられた木に、小さな芽がついていた。
海崎は、まだ雪が残っているだろう。残った雪が融けて、地面の中を流れているだろう。
佐々木は、車のトランクを開けた。
長靴が、去年の泥をつけたまま入っていた。
6-5 上って、誰だ
崩落から二週間で、梶原の側の現場は止まった。
県道の規制が続き、林道の入口が封鎖された。作業に入れない。入れないだけではなく、入ろうとすれば記録に残る。記録に残れば、あの土地に誰が関心を持っているかが分かってしまう。
梶原は、全面的な停止を指示した。
彼の下で維持の作業に入っていた人間は、常時で二十二人いた。全員が、その日から仕事を失った。
二十二人のうち、十四人は在留資格を持たない。残りの八人のうち五人は、身分証は持っているが正規の雇用に入れない事情を抱えていた。
彼らへの支払いは、現金ではなかった。
作業の記録に応じて台帳に数字が積まれ、その数字と引き換えに、寮の寝床と、一日三度の食事と、必要な物資が出る。梶原はそれを配給と呼んでいる。
三月の終わり、彼はその配合を変えた。
主食に混ぜる工業用の糖質粉末の比率を、二割から三割五分に上げた。米の消費量を落とすためである。
理由は単純だった。
現場が止まっている以上、収入がない。彼が持っている現金は、崩落の事後処理に関する諸費用と、いくつかの法人の維持に必要な費用で、急速に減っていた。備蓄していた米は、当初の計算では六月まで持つはずだった。実際には、五月の頭に尽きる見込みになっていた。
計算が狂った理由も、単純だった。
現場が止まって、寮から通いで働いていた人間が、寮に居続けるようになった。動かない人間は、外に出ない。外に出なければ、三度とも寮の飯を食う。
人が働かなくなると、食う量が減るのではない。増える。
梶原は、その事実を、実際に帳簿の上で見て初めて知った。
配合を変えた三日目に、報告が上がってきた。
寮の配給の窓口で、一人が問い返している、という内容だった。
梶原は、その日の夕方に現地へ行った。
寮になっているのは、閉鎖された縫製工場の建物である。梶原が四年前に引き取った物件のひとつで、二階が広い一室になっていた。
一階の隅に、配膳の台がある。台の向こうに、ユラが立っていた。
ユラが窓口に立つのは、彼が現場に出られないときだけである。
列の先頭に、三十前後の男がいた。名前はダットという。ベトナムから来て六年、在留資格が切れて三年になる。梶原は、名簿でその名前を見たことがある。
男は、椀の中身を見ていた。
「これ、前と違う」
彼は言った。日本語は、ゆっくりだが正確だった。
「量は同じだ」
ユラが答えた。
「量は同じ。中身が違う。米が減ってる」
「減ってる」
「なんで」
ユラは、一拍おいて答えた。
「配合が変わった」
「誰が変えた」
「上だ」
梶原は、入口の陰でそれを聞いた。
ユラが嘘をついたわけではない。彼は決定に関与していない。関与していない以上、彼が言える言葉は「上」しかなかった。
男は、椀を台に置いた。
「上って、誰だ」
列の後ろのほうで、誰かが小さく笑った。冗談として笑ったのではない。答えが出ないことを知っている人間の笑い方だった。
ユラは、答えなかった。
答えられなかったのではない。答えは知っている。名前を言えば済む。
だが、名前を言ったところで、何かが変わるわけではないことを、彼は知っていた。
梶原は、そこで陰から出た。
「私だ」
彼は言った。
列が静かになった。二十人ほどが、一斉に彼を見た。
ダットは、驚かなかった。彼は梶原の顔を知っていた。知っていたうえで、窓口に訊いていた。
「あんたが決めた」
「そうだ」
「理由は」
「米が足りない。現場が止まって、金が入らない。このままだと五月の頭に尽きる。……比率を下げれば、七月まで持つ」
梶原は、事実だけを並べた。
ダットは、しばらくその説明を聞いていた。
「わかった」
彼は言った。
それから、こう続けた。
「あんたが決めたなら、あんたに言えば戻るのか」
梶原は、答えられなかった。
「戻らない」
彼は言った。
「じゃあ、あんたに言っても同じだ」
ダットは、椀を取り上げた。
「上が誰かを知っても、何も変わらない。……そういう意味だな」
彼は列を離れ、階段を上がっていった。
列は、そのまま進んだ。
三人目に並んでいた男が、椀を受け取りながら、ユラにではなく梶原に向かって言った。大石という。六十を過ぎた日本人で、この共同体の古参だが、去年の冬から梶原の側の現場に出ている。
「あんた、いつ現場が戻るか言えるか」
「言えない」
「じゃあ、いつまで持つかは」
「七月までだ」
男は、頷いた。
「七月か」
彼は、それだけ言って列を離れた。
文句ではなかった。予定を確認しただけの口調である。七月までは食える、と分かれば、それまでに次を探せばいい。彼はたぶん、そういう計算を何度もしてきた人間だった。
梶原は、階段の下でしばらく立っていた。
彼が予想していた反発は、来なかった。怒鳴られることも、詰め寄られることも、椀を投げつけられることもなかった。
ただ、理解された。
その理解の内容が、彼にとっては最も悪いものだった。
誰が決めているかを名指しできても、その人間に言っても戻らない。ならば、名前を知ることに意味はない。彼らはそう結論した。
それは、彼らが前にいた場所で、何度も学んだ結論のはずだった。
工場の班長に言っても戻らない。役所の窓口に言っても戻らない。ブローカーに言っても戻らない。だから言わない。
梶原がこの四年間で作ったのは、それと同じ形の場所だった。
「梶原さん」
ユラが、台の向こうから声をかけた。
「なんだ」
「あの男が訊いたのは、誰が決めたかじゃない」
ユラは言った。
「どうやったら変えられるか、だ」
梶原は、ユラのほうを見た。
「変えられる仕組みが要る、と言いたいのか」
「そうだ」
「君は、その仕組みを設計できるか」
「できない」
ユラは即答した。
「俺が作れるのは、何が起きたかを書く仕組みだけだ。決め方を作るのは、別の仕事だ」
彼は、配膳の鍋の蓋を閉めた。
「ただ、書いてないものは、変えようがない。今日、配合が二割から三割五分に変わったことを、どこにも書いてなければ、来月には誰も、前がどうだったかを憶えてない」
「書いたのか」
「書いた」
ユラは言った。
「日付と、変更前と、変更後と、決めたのがあんただということを」
梶原は、それについて何も言わなかった。
言わなかったのは、止める理由が見つからなかったからである。
彼はその夜、事務所に戻って、帳簿をもう一度開いた。
五月の頭に尽きる。比率を下げて、七月。それ以上は、下げられない。下げれば、働ける身体でなくなる。
働ける身体でなくなった人間を、彼は雇い続けられない。
その先に何があるかを、彼は初めて具体的に考えた。
考えて、答えが出なかった。
6-6 キエンの反発
四月の第一週、帳場に人が集められた。
崩落から三週間が経っていた。県道の規制は続き、北の谷筋一帯で車の出入りが制限されている。上寒河へ入る林道も封鎖された。
この三週間で、コモンズ側の現場も三つ止まっていた。
「順に確認する」
桐島が言った。
集まったのは、健太、トアン、リク、辰造、巳之吉、玲。それに、トアンが連れてきた若い衆が三人。キエンと、ルアンと、もう一人。
リクがモニターに表を出した。
「解体は、北側の九件が着工できない。市が現場周辺への立ち入りを制限したから。……この九件で、今月入るはずだった金が消える」
「代わりの現場は」
「南に三件ある。合わせても、九件の半分にならない」
リクは、次の表を出した。
「農地のほう。上寒河の十八枚は、今年は入れない。林道が封鎖されてるから、機械が上がらない。神谷の下の分も、同じ道を使うから、たぶん無理」
「面積で」
「四十二ヘクタール」
部屋が、少し静かになった。
「加えて、報道が続いてる」
玲が言った。
「アスベストの話が全国に出た。撤退エリアという言葉が、初めて一般の見出しに載ってる。……今のところ、うちの名前は出てない。出てないのは、うちがどこにも登記されてないからだけ」
「出るとしたら、いつだ」
桐島が訊いた。
「県が管理人の選任を申し立てて、審理が始まったら。……名義を追う過程で、この辺で実際に土地に手を入れている人間は誰か、という話になる」
桐島は、しばらく黙っていた。
「では、話を整理する」
彼は言った。
「今年の収入は、去年の六割か七割になる。人は、去年より四十人多い。……この状態で、全部の現場を回すことはできない」
巳之吉は、その言い方を聞いた。
初めて聞く種類の言葉だった。この六年、桐島が「できない」と言ったことは、一度もなかった。
「どこを外す」
健太が訊いた。
「それを、これから決める」
桐島が答えた。
その瞬間、椅子が倒れる音がした。
キエンが立ち上がっていた。
二十四歳になる。トアンの下で四年働いている。日本語は、この一年でずいぶんうまくなった。
「決めるって、何を決める」
彼は言った。
「現場だ」
桐島が答えた。
「現場を止めたら、そこにいた人間はどうなる」
「別の現場に回す」
「回す場所が足りないから、この話をしてる」
キエンの声は、大きくなかった。震えてもいなかった。ただ、まっすぐだった。
「桐島さん。俺は、この四年で三回、リストを見た」
彼は、指を三本立てた。
「前の会社で一回。その前の農場で一回。その前の解体で一回。全部、人の名前が並んだ紙だ。上から順に、要る人間と、要らない人間が分かれてる」
彼は、机の上を指した。
「今から、それを作るんだろう」
「現場のリストだ。人のリストではない」
「同じだ」
キエンは言った。
「現場を止めれば、そこにいた人間が余る。余った人間は、飯を食う理由がなくなる。……名前を書かなくても、順番はつく」
部屋の空気が、はっきりと変わった。
トアンの下の若い衆が二人、キエンの後ろに立った。それを見て、健太の側の何人かが腰を浮かせた。
「誰を切るかを決める権利が、あんたらのどこにある」
キエンが言った。
「あんたらは、俺たちを拾った。飯を食わせた。それは本当だ。俺は感謝してる。……でも、拾った人間には、捨てる権利があるのか」
桐島は、答えなかった。
答えなかったのは、答えを持っていなかったからである。巳之吉には、それが分かった。
この男は、拡げることだけで三年やってきた。拡げているあいだは、誰を入れるかを決めればよかった。入れる決定には、断られた側が存在しない。
止まった瞬間に、初めて、外される側ができる。
トアンが、椅子から立ち上がった。
彼は、キエンと桐島のあいだへ歩いていった。
巳之吉は、身構えた。三年前の冬、公開の交渉が決裂しかけた夜、暴発しかけたキエンを、トアンは一度だけ殴っている。その場にいた全員が、それを覚えていた。
トアンは、殴らなかった。
彼は、キエンの正面ではなく、その斜め前に立った。桐島のほうを向いた位置である。
「桐島」
トアンは言った。
「こいつの言うことは、正しい」
「トアンさん」
キエンが、少し驚いた声を出した。
「黙ってろ」
トアンは、振り返らずに言った。
「俺が話す」
彼は、机に片手をついた。
「俺の下に、いま六十一人いる。そのうち四十四人は、資格がない。ここを出たら、次の場所はない。……あんたが現場をひとつ止めるたびに、その四十四人のうち何人かが、外に出ることになる」
「外に出せとは言っていない」
「言わなくても、そうなる」
トアンは言った。
「飯が減れば、人は自分から出て行く。追い出したことにはならない。追い出さないまま、いなくなる。……俺は、それを三回見た」
彼は、そこで初めて振り返り、キエンを見た。
「こいつは、そのうちの一回で、兄貴を失くしてる」
キエンは、何も言わなかった。
トアンは、桐島に向き直った。
「だから、決めるなとは言わない。決めなきゃ全部沈むのは、俺も分かってる」
彼は、机を一度、掌で叩いた。
「だが、決め方を先に決めろ。誰が、何を根拠に、どうやって決めるのか。それを先に決めてから、中身を決めろ。……順番が逆になったら、この共同体は割れる」
桐島は、その言葉を最後まで聞いた。
「わかった」
彼は言った。
「決め方を先に置く」
それで、その日の会議は終わった。
人が出ていったあと、巳之吉は帳場に残っていた。
彼は、自分が一度も口を開かなかったことを考えていた。
開こうとしなかったわけではない。キエンが「拾った人間には、捨てる権利があるのか」と言ったとき、彼の喉まで出かかった言葉があった。
俺は、捨てた側だ。
言えば、この部屋の全員が彼の過去を知ることになる。十二年前、この街で何が起きたのかを知っている人間は、まだ何人か残っている。健太はそのうちの一人である。
言わなかった。
言わなかったことを、彼は自分で正確に記録した。
巳之吉はガレージへ戻り、工具箱の底から、部品の受け取り伝票の束を引っ張り出した。裏が白い紙である。彼は油性ペンを取り、いちばん上の一枚に日付を書いた。
その下に、何を書くかを、しばらく考えた。
書いたのは、その日の会議で誰が何を言ったかではなかった。
上寒河、十八枚、今年入れず。神谷の下、入れず。合わせて四十二ヘクタール。
彼は、そこまで書いて、ペンを止めた。
それから、行を変えて、もう一行足した。
この四十二ヘクタールを、去年まで作っていたのは誰か。
答えを、彼は知らなかった。
調べよう、と思った。
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