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モラトリアム・プロトコル 第五章

 

第五章 二つの台帳

5-1 勧誘

 十月の終わりに、その男は前触れなく来た。

 トアンの若い衆が門のところで止め、名前を訊いた。男は名刺を出さず、桐島に取り次いでくれとだけ言った。用件を訊かれると、こう答えた。

 大学のゼミが同じだった、と。

 桐島は、帳場でその伝言を受け取った。

 名前を聞いて、彼は五秒ほど動かなかった。それから、通せ、と言った。

 梶原は、廃工場の中を歩いてくるあいだ、一度も足を止めなかった。重機の並ぶ土間も、寮になった旧事務所棟も、食堂の列も、視界に入れながら、速度を変えずに歩いてきた。値踏みをしている歩き方だ、と桐島は思った。彼自身が、かつてそうやって工場を見て回っていた。

「久しぶりだ」

 梶原は言った。

「三十年以上か」

「そのくらいだ」

 桐島は、パイプ椅子をひとつ、机の反対側に置いた。梶原は座った。

 二人が同じゼミにいたのは、まだ両方が二十代の初めだったころである。財政学の教授のもとに、十人ほどが集まっていた。桐島は金融に行き、梶原は役所に行き、黒須は大学に残った。それだけの話である。

「工場の前庭の草が、伸びているな」

 梶原が言った。

「刈る順番の下のほうにある」

「そうだろうな」

 梶原は、鞄から紙の束を出し、机に置いた。

「用件を話す。撤退エリアの土地を、私は引き取っている」

「聞いている」

 桐島は言った。

「所有者から金を取って、権利を追跡不能にする商売だな。ここらでも、去年から名前が出ている」

「正確だ」

 梶原は否定しなかった。

「私が引き取った土地は、県内で二百件を超えた。山林、廃屋の敷地、汚染された工場跡、それから農地。合わせると、面積で千二百ヘクタールほどになる」

 桐島は、その数字を頭に入れた。

「その土地を、あなたに使ってもらいたい」

「使う」

「正確に言えば、維持してもらいたい」

 梶原は、紙の束を一枚めくった。

「私が引き取った土地の多くには、構造物が残っている。擁壁、水路、ため池、農道、橋。これらは、放置すれば壊れる。壊れて外に実害が出た場合、追跡が始まる。私の作った権利構造は、人が死ぬと開けられる」

「だから、壊れないようにしたい」

「そうだ」

「そちらの人員でやればいい」

「足りない」

 梶原は、初めてわずかに言い方を変えた。

「私の下で実務をやっているのは、一人だ。彼は優秀だが、一人でできる面積には限りがある。千二百ヘクタールを回すには、最低でも常時三十人、繁忙期には六十人が要る」

「それを、うちから出せと」

「対価は払う。現金でも、燃料でも、部品でもいい。あなたのところが、いま何に困っているかは、外から見ても分かる」

 桐島は、机の上の紙を一枚だけ引き寄せた。

 地図だった。県内の、梶原が押さえた土地の分布である。赤い点が、山あいに散らばっていた。散らばり方に、意味のある集中はなかった。ただ、人がいなくなった順に打たれた点だった。

「この土地から、何が取れる」

 桐島は訊いた。

「取れない」

「作物は」

「農地として使えるものは、千二百のうち二百程度だ。それも条件は悪い」

「木は」

「出せる道がない」

「では、この事業は何を生む」

「何も生まない」

 梶原は、そう答えた。

「生まないものを、壊れないようにしておく。それだけだ」

 桐島は、紙を戻した。

 彼の頭の中では、計算がすでに終わっていた。常時三十人。年間の延べで、およそ一万人日。それを他の現場に出せば、解体で数億の売上になる。対価として梶原が払える額は、その水準には届かないはずだった。届く額を払えるなら、この男は最初から業者に頼んでいる。

 もうひとつ、桐島が計算に入れていることがある。

 七年前の冬、彼は海崎の駅の裏で、凍死しかけていた。追放され、口座を止められ、旅券も事実上使えなくなり、二週間ほど何も食べていなかった。拾ったのは、トアンの下にいた若い男である。名前も知らない相手に、その男は自分の食っていたものを半分渡した。

 あのとき、その男には何の利益もなかった。

 だから桐島は、利益を生まない行為の価値を知らないわけではない。知っていて、なお、共同体の運営としては採らない。三百人を食わせる仕組みは、善意では回らないからである。

「断る」

 桐島は言った。

「理由を聞かせてもらえるか」

「利益を生まないものに、俺は人を割けない」

 桐島の声は、いつもと同じだった。

「うちは三百人を超えた。その全員が、毎日食う。食わせるには、現場が要る。現場は、金を生むものでなければならない。……あんたの土地は、金を生まない。生まないものに人を出せば、その分だけ、うちの誰かが食えなくなる」

 梶原は、頷いた。反論はしなかった。

「予想していた答えだ」

「なら、なぜ来た」

「言っておきたかったからだ」

 梶原は、紙を鞄に戻し始めた。

「あなたのやり方には、期限がある。それを、あなたが自分で気づく前に、一度言っておきたかった」

「期限」

「あなたは、放棄された土地を押さえて、そこから収穫を取っている。押さえる先は、今のところ無限にあるように見える。……だが、押さえた土地は、押さえた瞬間から劣化を始める。畦が崩れ、水路が詰まり、柵が倒れ、土が傾く。あなたは、それを直さずに次へ行く」

 梶原は、鞄の口を閉じた。

「焼き畑だ」

 桐島は、表情を変えなかった。

「新しい土地がなくなったときに、あなたの後ろに残っているのは、あなたが通り過ぎたあとの荒れ地だけになる。……そのとき、三百人はどこで食う」

「そのときは、そのときに考える」

「あなたは昔からそう言っていた」

 梶原は立ち上がった。

「学生のころ、あなたは面白い論文を書いていた。国家が機能を止めたあと、下の層がどうやって回るかという話だ。黒須がまだ持っているはずだ」

「読み返す気はない」

「読み返したほうがいい」

 梶原は、扉の前で振り返った。

「あの論文には、書いていないことがある」

 桐島は答えなかった。

 梶原は出て行った。外は、もう暗くなり始めていた。

 桐島は、しばらく机の前に座っていた。

 それから、リクを呼んで、他の議題に移った。

 その夜、彼は梶原の言った「期限」という言葉について、一度だけ考えた。

 考えて、結論を出した。期限があるのは、こちらだけではない。国家の側にも、この共同体を潰す余力はない。どちらが先に息切れするかの勝負であり、そのときまでに、こちらの人数を増やしておくことが唯一の防御である。

 その結論は、この三年、一度も彼を裏切っていなかった。


5-2 バックホーの前で

 十一月の初め、上寒河の田に水が来なくなった。

 正確には、来なくなったのは秋の落水後だから、作物への影響はない。問題は、水路の水が別の場所へ流れていることだった。谷の斜面を伝って、下の農道に出ている。

 このままだと、冬に凍って、路面が持ち上がる。春には路肩が抜ける。

 巳之吉は、その報告を受けて、谷を登った。

 水路の取水口は、谷の中腹にある。行ってみると、そこに人がいた。

 古いバックホーが一台、林道の終わりに止まっていた。〇・二五立米の小さい機械である。塗装は褪せていて、キャタピラの張りは、遠目にも整っていた。

 その脇で、若い男が斜面に立って、溝を掘っていた。

 手掘りである。

「あんたか」

 巳之吉は、斜面の下から声をかけた。

「水路の水を、切ったのは」

 男は手を止めて、振り返った。二十代の後半に見える。作業着の上に古い防寒着を着ていた。

「切った」

 男は言った。ユラという名前を、巳之吉はあとで知った。

「なんで切った。下の道に出てるぞ」

「出してる」

「わざとか」

「わざとだ」

 巳之吉は、斜面を登った。

 近くで見ると、掘っているのは、水路とは別の溝だった。斜面を横に切る形で、緩い勾配で伸びている。長さは、もう五十メートルほどある。

「説明してくれ」

 巳之吉は言った。

「その水路は、上の谷から水を引いてる。取水口から下、四百メートルのうち、二百メートルが崩れかけてる」

 ユラは、上を指した。

「側壁のコンクリートが、根で押されて割れてる。中に土が入って、断面が半分になってる。このまま水を通すと、冬に凍って、割れが広がる。春の融雪で一気に抜ける」

「なら、直せばいい」

「直さない」

 ユラは言った。

 巳之吉は、その言い方に引っかかった。

「直せない、じゃなくてか」

「直せる。二百メートルなら、俺一人で三週間。材料を入れれば、もっと早い」

「じゃあ、なんで」

「直しても、意味がないからだ」

 ユラは、掘りかけの溝を指した。

「この水路が水を送ってた先は、下の田が十四枚だ。そのうち、いま作ってるのは何枚だ」

 巳之吉は、答えを持っていなかった。

「四枚だ」

 ユラは言った。

「残りの十枚は、二年以上作ってない。薮になってる。……四枚のために、四百メートルの水路を維持する。毎年、泥上げに二日、補修に随時。二十年続ければ、それだけで数百人日になる」

「四枚は作ってるんだろう」

「作ってる。だから、そっちには水を回す」

 ユラは、溝の先を指した。

「この溝は、上の谷の水を、直接、下の四枚のところまで落とすやつだ。距離が半分になる。コンクリートは使わない。ただの土の溝だ。詰まったら掘り直す。……古い水路のほうは、水を通すのをやめる」

「やめたら、どうなる」

「乾く。乾いた水路は、割れても土砂が動かない。水が入らなければ、崩れるのは遅くなる」

 巳之吉は、その説明を最後まで聞いた。

 聞いて、腹の底のほうが、熱くなった。

「あんた、あの十枚は捨てるってことだな」

「そうだ」

「捨てるって、あそこは……」

 巳之吉は、言葉を探した。

 あの十枚を作っていた人間を、彼は知らない。会ったこともない。ただ、田の形が残っていて、畦が残っていて、石積みが残っていることは、見れば分かる。

「誰かが、作ってたんだぞ」

「作ってた」

 ユラは頷いた。

「もう作ってない」

「だから捨てるのか」

「捨てるとは言ってない。直さないと言った」

「同じことだろうが」

 巳之吉は、思ったより大きな声を出していた。

「あんたのやってるのは、見殺しだ」

 言ってしまってから、巳之吉は、自分がその言葉をどこから出したかに気づいた。

 見殺し。

 彼はその言葉を、他人に向けて使ったことが一度もない。使ったことがあるのは、自分に向けてだけである。

 八年前の冬、彼は水産加工工場の冷凍庫の前にいた。中に、茂作という男がいた。扉が開かなくなっていることを、彼は知っていた。

 彼は、何もしなかった。

 助けを呼べば、自分の担当していた作業のことが表に出る。出れば、母の入院費が止まる。彼はそう計算した。計算して、二十分ほど、その場を離れた。

 あのとき彼がしたのも、順番を決めるということだった。

 彼は、そう思ったことはない。今日まで一度も、そう考えたことがない。彼は自分のしたことを、卑怯だと呼んできた。卑怯という言葉のほうが、まだ楽だったからである。

 ユラは、鍬を斜面に突き立てて、手を離した。

 それから、初めて巳之吉のほうへ、正面から向き直った。

「全部を直そうとすれば、全部が壊れる」

 彼は言った。

「俺は、順番を決めているだけだ」

 風が、谷を吹き上げてきた。落葉の匂いがした。

「順番を決めるのは、誰だ」

 巳之吉が言った。

「今は、俺だ」

「なんであんたが決める」

「他に決める人間がいないからだ」

 ユラは、そう答えた。

 言い訳の調子はなかった。困っている調子もなかった。ただ、そこにある事実を読み上げているだけの声だった。

「あんたが決めなかったら、どうなる」

 巳之吉は訊いた。

「全部に水が入る。全部の水路が、同じ速さで壊れる。三年か四年で、四枚のほうも作れなくなる」

 ユラは、掘りかけの溝を見た。

「決めないというのは、全部が壊れるほうを選ぶってことだ。それも決定だ。……決めなかった人間は、決めた責任を負わなくていいだけで、結果は同じか、もっと悪い」

 巳之吉は、そこで何も言えなくなった。

 彼が思い出していたのは、田のことではなかった。

 彼のガレージには、いま十一台の重機がある。まともに動くのは八台である。彼は、三台を後回しにした。後回しにしたのは、動いている八台のほうが、今日の現場を回すからだ。

 あれは、順番を決めたのではなかった。

 決めずに、動いているものだけを触っていただけである。

 三台は、そのあいだに、もっと悪くなった。

「あんた、名前は」

 巳之吉は訊いた。

「ユラだ」

「俺は巳之吉だ」

 ユラは頷いて、また鍬を握った。

「機械のことを、少し訊いていいか」

 巳之吉は言った。

 自分でも、なぜそう言ったのかは分からなかった。腹の中の熱は、まだ引いていない。

「そのバックホーの、履帯の張り方だ。……ずいぶん、丁寧に合わせてある」

 ユラは、手を止めずに答えた。

「自分で組んだからだ」

 その日、巳之吉が谷を下りたのは、日が暮れてからだった。


5-3 傾く

 辰造がその斜面へ行ったのは、巳之吉に連れられてである。

 十一月の半ばで、朝の霜が昼まで残るようになっていた。二人は軽トラックで林道の終点まで上がり、そこから歩いた。

 ユラは、前と同じ場所にいた。

 溝は、前より長くなっていた。斜面を横に切って、二百メートル近く伸びている。上流側の縁が、わずかに削られていて、斜面を下ってきた水が、そこから溝へ落ちるようになっていた。

 辰造は、その溝を上から下まで、黙って歩いた。

 途中で二度、しゃがんだ。

 一度目は、溝の底の勾配を見るためである。彼は指を水につけて、流れの速さを測った。速すぎず、遅すぎない。速ければ底を掘る。遅ければ泥が溜まる。

 二度目は、溝から出た土がどこへ行っているかを見るためだった。

 土は、下の緩傾斜地に薄く広げられていた。均してあるが、締め固めてはいない。草がすでに生え始めている。

「これは、押えか」

 辰造が訊いた。

「そうだ」

 ユラが答えた。

「上を軽くして、下を重くしてる」

 辰造は、その土の上に立った。踵で二度、地面を踏んだ。

 それから、斜面の全体を見上げた。

 彼は長いあいだ、そこに立っていた。巳之吉は声をかけなかった。

「巳之吉」

 辰造が言った。

「なんですか」

「わしらが三十年やってきたのは、何じゃったと思う」

 巳之吉は、答えを持っていなかった。

「土地改良じゃ。区画を直して、水路をコンクリートで固めて、法面にモルタルを吹いて、崩れそうなところにアンカーを打つ」

 辰造は、溝の縁を指した。

「あれは全部、重力に逆らっとる。水が下へ行こうとするのを、壁で止める。土が滑ろうとするのを、杭で刺して止める。……止めるには、力が要る。力を出す物は、必ず古くなる」

 彼は、ユラのほうを見た。

「こいつは、逆をやっとる」

「逆」

「水を止めとらん。下へ行かせとる。行かせるついでに、行き先を変えとるだけじゃ。土も止めとらん。上から下へ落として、落ちた先で足元を重くしとる」

 辰造は、初めて少し笑った。

「わしらは重力に逆らってきた。こいつは重力を使うちゅう」

 巳之吉は、その言い方を聞いて、朝から自分の中でうまく形にならなかったものが、少し形を持つのを感じた。

「親方。これ、金はどのくらいかかってるんですか」

「軽油と、俺の飯代だ」

 ユラが答えた。

 辰造は、しばらく黙っていた。

「四十年、遅いな」

 彼は言った。

「わしの集落に、これがあったらどうなっとったか、という話じゃない。……こういうやり方があると、誰も教えてくれんかった、という話じゃ」

 辰造は、溝の縁の土を一握り取って、指で潰した。

「補助のメニューになかったからじゃ。土の溝を掘る事業に、補助はつかん。コンクリートの水路を作る事業には、つく。……わしらは、金の付くほうを、正しいやり方だと思うようになっとった」

 その週から、二人はときどき、その斜面へ行くようになった。

 巳之吉は、ユラのバックホーを見に行った。〇・二五立米の古い機械は、彼が整備している十一台のどれよりも、状態が良かった。

「オイルの交換は」

「二百時間ごとだ」

「早すぎませんか。メーカーは五百でしょう」

「五百は、新品の話だ」

 ユラは言った。

「この機械は、俺が組んだときで一万時間を超えてた。摩耗した粉が回ってる機械に、新品の間隔を当てても意味がない。……間隔は、機械が決める。カタログじゃない」

 巳之吉は、その言葉を、しばらく反芻した。

 彼のガレージでは、整備の間隔をカタログで決めていた。それが正しいと思っていたからではない。他に基準がなかったからである。

 辰造は、ユラに土のことを訊いた。

 斜面の土は、押えに使う。使うなら、その土がどういう土かを知っておいたほうがいい。粘りの強い土は水を通さない。砂の多い土は流れる。ユラは、それを手の感触で分けていた。辰造は、その分け方が自分の分け方とほとんど同じであることに気づいた。

 二人は、その日、三時間ほど土の話をした。

 十二月に入る前、玲が一度、その斜面まで上がってきた。

 彼女はカメラを回さず、ただ溝を見ていた。

「これ、撮っても、何も映らないでしょうね」

「映らない」

 ユラは答えた。

「掘る前と、掘ったあとで、写真はほとんど同じだ。何も起きてないものを撮ってるんだから」

「あなたは、記録を取ってるって聞いた」

「取ってる」

「見せてもらえる」

「見せられない」

 ユラは、それだけ言った。

 玲は、それ以上は訊かなかった。訊かなかったのは、遠慮ではない。取材で断られたときの引き方を、彼女は身につけている。

 下りる途中で、彼女は巳之吉に言った。

「あの人、たぶん、私と同じところで詰まってる」

「同じところ」

「起きなかったことを、どうやって残すか」

 十一月の終わりの帳場で、健太が口を開いた。

「親方と巳之吉が、最近、上の谷にばっかり行ってるらしいじゃねえか」

「行っとる」

 辰造が答えた。

「あそこは、梶原って男の土地だろ」

 健太は、机の縁を指で叩いた。

「うちの人間が、あっちの現場に出てるって話も聞いた」

「二人だ」

 巳之吉が言った。

「土曜だけです。飯は向こうが出してます」

「そういう問題じゃねえよ」

 健太は言った。声は大きくなかった。

「あの男は、桐島さんの話を断られた側だ。断られた側が、うちの人間を一人ずつ引っぱってるなら、それは横から抜いてるってことだ」

「引っぱられとらん」

 辰造が言った。

「見に行っとるだけじゃ」

「見に行って、帰ってきて、うちのやり方を変えろって言い出すんだろ」

 健太は、辰造を見た。

「親方。あんたの言うことが正しいのは、俺も分かってる。土は死ぬ。柵は倒れる。機械も保たねえ。……全部そのとおりだ」

 彼は、指を三本立てた。

「だが、それを全部聞いてたら、うちは面積を減らすことになる。減らしたら、人が食えなくなる。食えなくなった人間は、出て行く。出て行った先には、何もねえ」

 トアンが、腕を組んだまま、低く言った。

「出て行った先で捕まる者が、必ず出る」

 部屋が静かになった。

「俺たちは、あんたらを疑ってるんじゃない」

 トアンは続けた。

「ただ、あんたらは、順番を決める話をしている。順番を決めれば、後ろに回された者が出る。……ここにいる人間の多くは、前の場所で、後ろに回された者だ」

 辰造は、それに答えなかった。

 巳之吉も、答えなかった。

 その夜、帳場を出たあと、巳之吉はガレージに戻って、後回しにしていた三台のうちの一台の、エンジンカバーを開けた。

 開けて、中を見た。

 見ただけで、その日は何もしなかった。


5-4 論文に無かった一行

 黒須は、十二月の初めに来た。

 前もって連絡があった。研究のためではなく、個人的に来る、という断り書きがついていた。桐島はそれを読んで、断らなかった。

 黒須は、大学の准教授である。専門は社会学で、この三年、コモンズについて何本か書いている。批判的な内容ではない。かといって好意的でもない。読んだ人間が、書いた本人の立場を判断できないような書き方をする男だった。

 彼は、大きな鞄をひとつ提げて来た。

「相変わらず暖房が弱いな」

 黒須は、帳場の椅子に座って言った。

「窓が多いからだ」

「工場だからだろう」

 黒須は鞄を開け、中から古い紙の束を出した。

 角が黄色くなっている。ワープロで打った文字が、印字のかすれごと残っていた。表紙に、手書きのタイトルがある。

 国家機能停止下における、アンダークラスの生存・資本循環モデル。

「持ってきた」

 黒須は言った。

「返す。俺のものじゃない」

 桐島は、その束を見た。

 手を伸ばさなかった。

「捨ててくれてよかった」

「三十年捨てなかったものを、いま捨てる理由がない」

 黒須は、束を机の上に置いた。

「読み返したか」

「一度も」

「そうだろうな」

 黒須は、自分でページをめくり始めた。

「第一章。前提。国家が最低限の再分配機能を停止した状況を仮定する。ここは、まあ、二十代の書くことだ」

 彼は、ページを飛ばした。

「第二章。労働力の集約。ここが面白い。制度から排除された層は、排除されているがゆえに、既存の労働市場の価格に縛られない。彼らを組織化できれば、既存の産業より低い費用で労働を投入できる。……お前は、これを実際にやったわけだ」

 桐島は、答えなかった。

「第三章。資源の獲得。放棄された資産——土地、建物、機械——は、所有者が管理費を負担できなくなった時点で、実質的に無主物に近づく。これを利用する主体が現れれば、その主体は取得費用ゼロで生産手段を得る」

 黒須は、指でページの端を弾いた。

「第四章。循環の確立。生産物を既存の流通の外側で捌き、得た資源を再投下する。回転が続く限り、この系は自立する」

 彼は、そこでページをめくる手を止めた。

「終わりだ」

「終わり」

「ここで論文が終わってる」

 黒須は、束を閉じた。

「全部で四十八ページある。四十八ページのうち、四十四ページが、系を立ち上げる方法について書いてある。……立ち上がったあと、その系をどう保つかについては、一行も書いていない」

 桐島は、机の上の束を見ていた。

「維持のフェーズがない」

 黒須は言った。

「回転が続く限り自立する、と書いてある。回転が落ちたらどうなるかは、書いてない。回転を落とさないために何が要るかも、書いてない。……機械が摩耗すること、土が痩せること、人が年を取ることが、この四十八ページのどこにも出てこない」

 桐島は、しばらく黙っていた。

「学生の書いたものだ」

「そうだ。学生の書いたものだ」

 黒須は頷いた。

「だから責めてるんじゃない。……ただ、二十代のお前は、そこまで生きるつもりがなかったんだろうな」

 桐島の指が、机の上で一度止まった。

「どういう意味だ」

「言葉どおりだ」

 黒須は、椅子の背にもたれた。

「二十代で、国家が機能を止めたあとの生存モデルを書く人間は、たいてい、自分がそのモデルの中で四十年生きるとは思っていない。立ち上がる瞬間までを書いて、満足する。……そこから先は、他人の人生の話だからだ」

 彼は、束を桐島のほうへ押した。

「お前は、それを実際に立ち上げた。三年で三百人だ。学生の書いたものが、実際に動いた例を、俺は他に知らない」

「褒めているのか」

「観察している」

 黒須は言った。

「立ち上げは、天才的だった。維持は、まだ一日もやっていない」

 石油ストーブが、部屋の隅で音を立てていた。

「梶原に会ったか」

 黒須が訊いた。

「先月来た」

「断ったんだろう」

「利益を生まない」

「そう言うと思った」

 黒須は、少し笑った。

「あいつも、二十代のころは、お前と同じ側の人間だった。制度は書き換えられると思っていた。……あいつが変わったのは、自分の書いた条文で自分の土地が落ちて、その土地が人を潰してからだ」

 桐島は、初めて顔を上げた。

「その話は、知らない」

「本人が言わないからな」

 黒須は、鞄を閉じた。

「言っておくが、俺はどちらの側にも立たない。お前のやり方は、下の層を確実に食わせている。これは事実だ。梶原のやり方は、誰も食わせていない。ただ、崩れる速度を落としている。これも事実だ」

 彼は立ち上がった。

「どちらも正しくて、どちらも足りない。……足りないもの同士を足せる立場にいるのは、いまのところ、お前だけだ」

「あんたは、どこにいる」

 桐島が訊いた。

 黒須は、鞄の持ち手を握ったまま、少し考えた。

「安全なところだ」

 彼は言った。

「大学の任期は五年ごとに更新される。俺はここを観察して、論文を書いて、それで飯を食ってる。……お前が明日潰れても、俺の生活は変わらない」

「それを恥じてはいないだろう」

「恥じてはいない」

 黒須は答えた。

「ただ、俺が書いた論文を、二十年後に誰かが読んで、こういう共同体があったと知る。それだけの仕事だ。……書く人間が一人もいなければ、あったこと自体が消える。俺はそこは、割と本気でやってる」

 桐島は、それに答えなかった。

「俺は足さない」

 彼は、話を戻した。

「三百人を食わせるのが先だ」

「知ってる」

 黒須は、鞄を提げて、扉のところで振り返った。

「三十年前、お前は俺にこう言った。制度の中で議論している連中は、制度の外にいる人間を数に入れていない、と。……いまのお前は、明日の飯の中で議論している。二十年後の人間を、数に入れていない」

 彼は出て行った。

 桐島は、机の上の紙の束を、しばらく見ていた。

 それから、手に取った。

 三十年前の自分の字が、表紙に残っている。四十八ページのうち、彼が最も時間をかけたのは第二章だった。労働力の集約。あの章を書いていたころ、彼はまだ、その労働力の一人ひとりに名前があることを、真剣には考えていなかった。

 彼は、束を引き出しにしまった。

 しまってから、リクを呼んだ。

「来年の作付け計画に、燃料と部品の想定を入れてくれ」

 桐島は言った。

「巳之吉から出させろ。……あと、柵の総延長を出せ」

「柵の」

「刈らなきゃならない距離だ」

 リクは、一瞬だけ手を止めて、それから頷いた。


5-5 荘園

 ユラがリクに会いに行ったのは、十二月の半ばである。

 自分から人を訪ねることは、ほとんどない。行ったのは、三月から解けていない問題があったからだった。

 廃工場の帳場の隅で、リクは三つのモニターに囲まれて座っていた。

「君が、ROOTを作った人」

 リクは、振り返らずに言った。

「見たのか」

「見た。というか、君のところの人が、報酬の受け取り方が分からないって相談に来たんだよ。それで中を覗いた」

 リクは椅子を回した。

「よくできてる。素人が組んだにしては」

「素人だ」

「うん。だから、よくできてるって言った」

 リクは、モニターの一つにユラの台帳の構造を映した。

「一行ごとに前の行のハッシュが入ってる。書き換えたら後ろが全部合わなくなる。ここまではいい。……問題は、最初の一行だ」

 ユラは、椅子に座らずに立っていた。

「言ってくれ」

「誰かが山に登って、溝を掘って、写真を撮って、記録を送る。その記録が本当かどうかを、この仕組みは判定できない。掘ってないのに掘ったと書いても、後ろの行は正しく繋がる」

「知ってる」

「だろうね」

 リクは頷いた。

「これを解く方法は、いくつかある。複数の人間に同じ現場を確認させるとか、位置と時刻を機械で取るとか。でも、どれも面倒くさくなる。面倒くさい仕組みは、誰も使わない」

「今は、俺が全部見てる」

「そう。それがいちばん確実で、いちばん脆い」

 リクは、指を組んだ。

「君が死んだ日に、台帳は止まる。止まった台帳は、ただのファイルだよ」

 ユラは、しばらく黙っていた。

「もう一つ、言っていい?」

 リクが言った。

「これは技術の話じゃないんだけど」

「言ってくれ」

「記録は、守るためにも使えるし、狩るためにも使える」

 リクの声の調子は変わらなかった。

「君の台帳には、誰が、いつ、どこで、何をしたかが、消えない形で書いてある。書き換えられないのが売りなんだよね」

「そうだ」

「じゃあ、それが誰かの手に渡ったら、消せない」

 ユラは、答えなかった。

「ここにいる人間の三分の一くらいは、在留資格がない。何割かは、名前を書かれること自体を避けてる。……その人たちが、いつどこにいたかを、書き換え不能で記録してある台帳が存在する。それが何を意味するかは、分かるよね」

「分かる」

 ユラは言った。

「だから、座標は現場の識別子に変換してある。個人の欄は、鍵でしか開かない」

「鍵は誰が持ってる」

「俺だ」

「うん」

 リクは、両手を軽く上げた。

「そこなんだよ」

 ユラが梶原の事務所へ戻ったのは、その日の夜である。

 梶原は、机で書類を見ていた。ユラは扉を閉め、立ったまま切り出した。

「ROOTの発行量を、誰が決めてる」

「私だ」

 梶原は、顔を上げずに答えた。

「タスクの単価は」

「私だ」

「配給の中身は」

「私だ」

「作業の割り当ては」

「あなたが現場を組み、私が承認している」

 梶原は、そこでようやく顔を上げた。

「何が言いたい」

「これは共有地じゃない」

 ユラは言った。

「荘園だ」

 梶原は、ペンを置いた。

「否定はしない」

 彼は言った。

「私は解放者ではない。領主だ」

 その答え方に、ユラは一瞬、間を置いた。恥じている様子も、開き直っている様子もなかった。

「入会地というものが、昔はあった」

 梶原は、壁の古い公図を指した。

「誰か一人のものではなかった。集落の者が使い、集落の者が管理した。使う者と管理する者が同じだったから、掟が要らなかったわけじゃない。掟はあった。……村があったからだ」

 彼は、公図から目を離さずに続けた。

「村は、もういない。いない場所で、誰も掟を書かなければ、そこは無法地帯になる。無法地帯になれば、いちばん弱い者から死ぬ。……だから、誰かが書く。いま書ける立場にいるのが私だというだけだ」

「あんたが死んだら、どうなる」

 ユラが訊いた。

 梶原は、答えなかった。

「あんたは、俺が死んだら台帳が止まる、と言った」

 ユラは続けた。

「同じことだ。単価も、発行量も、配給も、全部あんたの頭の中にある。あんたが死んだら、それは誰にも読めない」

 梶原は、しばらく黙っていた。

「そうだな」

 彼は認めた。

「認めるだけか」

「今は、それ以外にできることがない」

 梶原は、机の上の書類を一枚、脇へ寄せた。

「ユラ君。私は、あと十年か、十五年、この構造を保たせるつもりでいる。その間に外へ実害を出さなければ、私の目的は達成される。……その先のことは、設計していない」

「その先に、人が住んでる」

 ユラは言った。

「住んでいる」

「あんたの目的は、十五年で終わる。人は、そのあとも生きる」

 梶原は、それに答えなかった。

 ユラは、それ以上言わなかった。

 言わなかったのは、納得したからではない。この男に言っても、構造は変わらないと分かったからである。

 彼が本当に引っかかっていたのは、荘園という言葉ではなかった。

 単一の権限しか持たない台帳。

 彼を登録しなかった台帳が、まさにそれだった。窓口の職員は誰も悪くなかった。悪くないまま、彼という値は、どの帳簿にも入らなかった。入らなかったのは、その帳簿を管理していた者が一人だったからではない。誰も、その帳簿の外にあるものを見る役目を負っていなかったからである。

 いま、彼が作っている台帳も、同じ形をしている。

 鍵を持っているのは、彼一人である。

 外へ出ると、雪が降り始めていた。

 ユラは、事務所の階段の下でしばらく立ち止まり、それから、廃工場のほうへ歩き出した。

 リクに、もう一度会う必要があった。

 その夜、リクは帳場に一人で残っていた。

「早いね」

「解き方を聞きに来た」

 ユラは、椅子を引いて座った。座ったのは、この日が初めてだった。

「解き方はない。減らし方ならある」

 リクはモニターに図を描き始めた。

「一つ目。一人で書かない。同じ現場を、別の人間が確認して署名する。二人でいい。二人が結託したら破れるけど、二人分の手間を毎回かける人間はあまりいない」

「二人目を、どこから出す」

「そこは君らの問題だよ。……二つ目。鍵を割る」

 リクは、線を三本引いた。

「今は君が全部の鍵を持ってる。それを三つに割って、二つ揃わないと開かないようにする。君が死んでも、残り二人で開ける。君が気を狂わせても、一人では開けられない」

「三人目は」

「だから、そこも君らの問題」

 リクは笑わずに言った。

「技術でできるのは、権限を分ける形を用意するところまで。分けた先に誰を置くかは、技術じゃ決まらない」

 ユラは、その図をしばらく見ていた。

「もう一つある」

 リクが続けた。

「消す仕組みだ」

「消す」

「書き換え不能ってことは、間違いも消せないってことだよ。誰かが名前を書かれたくないって言ったとき、君の台帳は、それに応えられない」

「消したら、台帳の意味がなくなる」

「うん。だから、消せる部分と消せない部分を分ける。……作業が行われたという事実は消さない。誰がやったかは、本人が取り消せる」

 ユラは、そこで初めて反応した。

「それだと、誰がやったかが残らない」

「残したいの」

「残したい」

 ユラは即答した。

 言ってから、彼自身が少し驚いた顔をした。

「なんで」

 リクが訊いた。

 ユラは、答えなかった。

 答えられなかったのは、理由がなかったからではない。理由は一つしかなくて、それを口に出すには、まだ整理がついていなかった。

 佐吉という名前を、どこにも書かなかったのは、この国の台帳である。

 同じことを、自分の台帳でやりたくなかった。

「……考える」

 ユラは、そう言って立ち上がった。


5-6 芋の計算

 十二月の下旬、リクが帳場に全員を集めた。

 桐島が指示した宿題——燃料と部品の想定、それから柵の総延長——を出すための会議である。集まったのは、桐島、健太、トアン、辰造、巳之吉、玲。梶原とユラも呼ばれていた。呼んだのはリクである。桐島は、それを聞いて何も言わなかった。

「先に、柵から」

 リクがモニターを出した。

「今の作付け面積で、獣害柵の総延長は十九キロ。下草刈りを二週間に一度やるとして、一回あたり、延べ四十八人日。年に、およそ千二百人日」

 健太が短く息を吐いた。

「来年、面積を倍にすると、柵は二十九キロになる。囲む形が悪くなるから、面積ほどには増えない。それでも、年間二千人日を超える」

「二千人日」

 トアンが言った。

「常時六人が、一年中、草だけ刈ってるのと同じだ」

「そう」

 リクは頷いた。

「次、燃料」

 彼は表を切り替えた。

「巳之吉から出してもらった。今の稼働で、軽油は月に十二キロリットル前後。備蓄できるのは三日ぶん。……で、これが本題なんだけど」

 リクは、別の表を出した。

「僕、一回、全部を数えてみたんだ」

 画面に、項目が並んだ。

 軽油。エンジンオイル。作動油。ホースとフィルター。刈払機の刃と混合燃料。肥料。石灰。農薬。種籾。ビニール。鉄線。電気柵の電源装置と電池。溶接棒。ボルト。タイヤ。

「これが、外から買ってるものだ」

 リクは言った。

「今年、この共同体が外に払った金の中で、いちばん大きいのは軽油。二番目が肥料。三番目が機械の部品。……この三つで、支出の六割を超える」

「収入は米と解体だ」

 桐島が言った。

「そう。だから帳簿としては黒字だよ。問題は、そこじゃない」

 リクは、指を立てた。

「僕らは、米を作ってる。米は、カロリーだ。でも、そのカロリーを作るために、僕らは軽油と肥料を燃やしてる。軽油も肥料も、この土地では作れない。……つまり、僕らが自給してるのは、食べ物じゃなくて、食べ物の一部だ」

 部屋が静かになった。

「じゃあ、外からの供給が止まったら、どうなるか」

 リクは、表を切り替えた。

「そこで、芋の計算をした」

「芋」

 健太が言った。

「サツマイモ。十アールで、だいたい二トンから二・五トン取れる。カロリーは一キロで千三百くらい。……十アールで、二百六十万から三百二十万キロカロリー。人が一年に食う量を七十万として、一人あたりで割ると」

 リクは、数字を出した。

「十アールで、四人分だ」

 部屋の中で、何人かが同時に計算を始めた。

「三百二十人だと、八ヘクタール」

 辰造が言った。

「八町歩か。少ないな」

「そう。面積だけ見れば、少ない」

 リクは頷いた。

「肥料をほとんど使わなくても育つ。機械もいらない。人力で植えて、人力で掘れる。……僕らが持ってる二百四十ヘクタールのうち、たった八ヘクタールでいい」

「なら、問題ないだろう」

 健太が言った。

「作れる場所が、八ヘクタールないんだよ」

 リクは言った。

「イノシシは、芋が大好きだ。米より好きだ。芋を作るなら、必ず柵で囲わなきゃいけない。……いま、僕らが実際に柵で守れてる面積は、十二ヘクタール。そのうち、水はけがよくて芋に向いてるのは、五ヘクタールもない」

 健太が黙った。

「柵を増やせばいい、って話になるよね。柵を増やすと、下草刈りの人日が増える。人日が増えると、その人は解体現場に出られない。解体現場に出られないと、現金が減る。現金が減ると、軽油が買えない。軽油が買えないと、田が回らない」

 リクは、手のひらを上に向けた。

「全部が、同じ二千人日を取り合ってる」

「補填は、どうしてる」

 玲が訊いた。

「食堂の話ですか」

 巳之吉が答えた。

「粉が入ってます。工業用の、でんぷんから作った糖の粉です。あれを汁物に混ぜてる。あと、大豆のたんぱくの乾いたやつ。どっちも陳のルートで、安く入ります」

「量は」

「食堂で出してるカロリーの、たぶん三割前後です」

 玲は、それを書き留めなかった。

「つまり」

 彼女は言った。

「私たちは、自給していない」

 誰も、否定しなかった。

 梶原が、初めて口を開いた。

「あなた方が食べているのは、二十世紀の備蓄だ」

 全員が、そちらを見た。

「安い軽油、輸入原料の肥料、償却の終わった中古の機械、それから、誰かが四十年前に整備した農地と水路。……あなた方は、それを取り崩して回している。取り崩している間は、数字が伸びる。伸びているうちは、誰も気づかない」

「それは、あんたの土地でも同じだろう」

 辰造が言った。

「同じだ」

 梶原は認めた。

「私がやっているのも、取り崩しだ。違いは、取り崩す速度を落とそうとしている点だけだ。……私は、生産していない。ただ、崩れる速度を遅くしているだけの人間だ」

 彼は、机の上を見た。

「モラトリアムというのは、返済の免除ではない。猶予だ」

 石油ストーブの音だけが、部屋に残った。

「猶予期間に、何かを作れなければ、期限が来たときに、同じ額を払うことになる。利子がついた分だけ、多く払う」

 桐島は、その言葉を最後まで聞いた。

 聞いて、それから言った。

「作付け計画は、予定どおり出す」

 健太が、わずかに息を吐いた。

「ただし」

 桐島は続けた。

「芋の五ヘクタールは、来年、必ず入れる。売らない。全部、内に回す」

 リクが顔を上げた。

「本気で」

「保険だ」

 桐島は言った。

「それ以上の意味はない」

 トアンが、そこで初めて口を開いた。

「芋を、誰が掘る」

 全員が、彼を見た。

「掘るのは秋だ。秋は解体がいちばん動く。……人を出せと言われたら、俺の下から出すことになる」

「そうなるだろうな」

 桐島が言った。

「なら、先に言っておく」

 トアンは、机に手を置いた。

「うちの人間は、断らない。断ったら次に飯が回ってこないかもしれないと思ってるからだ。……実際にはそんなことはない。あんたはそういう配り方をしない。それは俺も知ってる」

 彼は、桐島を見た。

「だが、思ってるほうが本当なんだ。ここに来る前に、そういう場所にいた人間ばかりだから」

 桐島は、しばらく黙っていた。

「人選は、あなたが決めてくれ」

「そうする」

 トアンは、それだけ言って腕を組み直した。

 会議は、そこで終わった。

 人が出ていったあと、辰造だけが残っていた。

 彼は、机の上に置きっぱなしになったリクの表を、しばらく見ていた。

 外から買っているものの一覧である。上から順に、軽油、肥料、部品、種籾。

 その一覧の下のほうに、彼が三十年、当たり前だと思って使ってきたものが、全部並んでいた。


第六章


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