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モラトリアム・プロトコル 第四章
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第四章 拡大
4-1 全国の空白
四月に入って、雪が消えた。
消えたあとに出てきたのは、去年の秋に倒れたままの枯れ草と、その下で腐りかけた稲株と、誰も片付けなかったものの一切である。海崎の湾岸から北へ向かう旧県道沿いには、冬のあいだに屋根の抜けた家が三軒増えていた。
桐島は、その道を車で走りながら、数字を数えていた。
一月に施行された法律は、彼にとって、地図の書き換えでしかなかった。撤退エリアに指定された区域では、国の新規投資が止まり、交付金の経過措置が始まる。それが意味するのは、土地の値段が消えることである。
値段の消えた土地は、押さえるのに金がかからない。
三月からの三か月で、コモンズが実際に作付けに入った農地は、二百四十ヘクタールを超えた。前の年の同じ時期が、六十ヘクタールである。
押さえ方は、地味だった。
まず、耕作放棄地のうち、所有者の追跡が事実上不可能なものを選ぶ。共有者が数十名を超え、うち何名かが行方不明であるもの。その条件に当てはまる筆は、いくらでもあった。市役所が三か月かけて追跡している一筆と、同じ性質の土地である。
次に、その筆の周囲に、実際に人が住んでいるかを確認する。住んでいれば、必ず一度、話をしに行く。
話をするのは、たいてい健太かトアンの役目だった。作らせてくれとは言わない。荒れているので草を刈らせてもらう、と言う。刈った土地に、翌年、稲が植わっている。文句を言う人間は、ほとんどいなかった。言う相手が誰なのかを、誰も知らないからである。
地代は、払っていない。
払う先がないからである。
その二百四十ヘクタールで、桐島は多収穫米を回している。売り先は、正規の流通ではない。陳のネットワークを通って、外食と加工と、それから国外へ出る。値は正規の半分に届かないが、生産費も比較にならないほど低い。
同じ三か月で、解体の受注も伸びていた。
こちらは合法である。空き家の除却工事は、都市部の相続人から直接来る。持ち主が県外に住んでいて、現地を見たこともなく、とにかく安く更地にしたいという依頼が、月に何十件も入る。正規の業者の見積もりの三分の一で受け、廃材の処理を陳のルートに乗せる。
産廃の受け入れは、そのルートの一部だった。
桐島は、この部分を自分で細かく見ていない。陳が持ってくる案件のうち、受け入れ地を確保できるものを受ける。受け入れ地というのは、要するに、誰の土地でもなくなった山である。
旧県道から分岐する林道の奥に、廃業した砕石場の跡地がある。四月に入ってから、そこへ入る大型車が増えた。夜に走らせている。昼に走らせない理由は、単純に、対向車と擦れ違えない道だからである。
その週、市役所に匿名の通報が三件あったことを、桐島は知らない。
通報を受けた職員は、報告書に現地確認の欄を作り、未実施と書いた。末尾の一行も、前と同じものを書いた。市にパトロールを行う予算と人員はありません。
知る必要も、感じていなかった。
陳とは、月に二度会う。
場所は決まっていない。その月は、湾岸の倉庫の二階だった。陳は五十がらみの男で、いつも同じ黒いブルゾンを着ている。日本語は流暢で、必要なこと以外は喋らない。
「解体の量が増えている」
陳は、書類を出さずに話す。
「廃材は捌ける。問題は、混ざっているものだ」
「混ざっているもの」
「古い家からは、いろいろ出る。屋根と壁のものだ」
桐島は、その意味を理解した。
「分けて出す。処理費は乗せてくれ」
「乗せると、価格が正規業者に近づく。そうなると、あんたに頼む理由がなくなる」
陳は、指で机を二度叩いた。
「北の受け入れ地の話をしたい。あそこは、あと何年使える」
「所有者は追跡できない状態だ。当面は問題ない」
「当面か」
陳は、初めて少し笑った。
「私は、当面という言葉で二回潰れている。……まあ、いい。今のところ、あんたのところが一番安い」
その会話を、桐島はその日のうちに忘れた。忘れたのではなく、優先順位の下のほうに置いた。彼が管理しているのは、人と面積と回転である。受け入れ地に何が入っているかは、陳の管轄だった。
人は、増えていた。
三月から六月までに、コモンズに新しく入った人間は、七十四名である。内訳は、在留資格を失ったベトナム人が二十二名、同じくインドネシア人とミャンマー人が合わせて十九名、日本国籍の者が三十三名。日本人の多くは、四十代から六十代の男で、前の職場が倒産したか、身体を壊して弾かれたかのどちらかだった。
トアンが管理している名簿には、名前と、寝ている場所と、割り当てた作業だけが書いてある。
書いていない者もいた。
六月に入ってきた女が一人、名前の欄が空いたままになっている。年齢は四十前後に見える。日本語は分かるが、ほとんど喋らない。最初は炊き出しの手伝いに入り、いまは寮になっている旧事務所棟の清掃に回っている。
トアンが名前を訊いたとき、彼女は答えなかった。答えなかったので、それきりになった。
この共同体では、それは珍しいことではない。
桐島は、その名簿を月に一度だけ見る。見るのは人数の合計だけである。
六月末の帳場で、リクが表を出した。
「面積は四倍。人は一・八倍。粗利は、三・二倍」
モニターに棒が並んでいる。
「解体のほうも伸びてる。受注は月に六十件を超えた。……ただ、現場が回りきってない。着工待ちが四十件ある」
「原因は」
「人だよ。オペレーターが足りない。重機を動かせるのは、いま二十二人。そのうち八人は農地のほうに取られてる」
健太が、腕を組んだ。
「農地は今、草刈りに人を持ってかれてる。刈っても刈っても追いつかねえ」
「その話は、後で聞く」
桐島は言った。
「今日は、数字を確認する」
彼が見ていたのは、伸び率だった。
六年前、この共同体が最初の冬を越したとき、飯を食えたのは百人に届かなかった。いま、三百人を超えている。増えたぶんの人間は、増えたぶんの現場が支えている。現場が増えなければ、その人数は養えない。
だから、拡げる。
桐島にとって、それは選択ではなかった。
止まれば死ぬ。この共同体は、回転が続いているあいだだけ、全員に飯が行き渡る仕組みである。回転が落ちれば、いちばん下から順に食えなくなる。いちばん下にいるのは、在留資格のない人間と、身体を壊した年寄りである。
彼は、二年前の冬、その計算を一度も間違えなかった。間違えなかったから、ここまで来た。
「面積は、秋までにあと二百上乗せする」
桐島は言った。
「北の谷筋を入れる。上寒河と、神谷の下のほうだ」
「神谷は、まだ人が住んでる」
トアンが言った。
「六戸だ。畑の場所は聞いてある。避けて入れる」
桐島は、そこで一度、言葉を切った。
「揉めるな。刈るだけにしろ。刈って、来年考える」
トアンが頷いた。
帳場を出るとき、桐島は窓の外を見た。
旧農協の廃工場の前庭は、雑草が膝の高さまで伸びていた。二週間前に刈ったばかりである。
彼はそれを見て、刈る予定を組み直す必要があるな、と考えた。
考えて、次の議題に移った。
その週の粗利は、前の週を上回っていた。
伸びているあいだは、誰も、何も気づかない。
4-2 獣
七月の朝、健太は上寒河の田で、倒された電気柵を見ていた。
支柱が三本、根元から曲がっている。ワイヤーは二段とも切れて、草の上に垂れていた。柵の内側の田は、三分の一ほどが踏み荒らされている。稲が寝て、泥の上に、深い蹄の跡が並んでいた。
「イノシシだな」
後ろから来た若いのが言った。
「大きいのが一頭と、あと何頭かだ」
健太は、切れたワイヤーを拾い上げた。断面が潰れている。噛み切ったのではなく、体で押して切ったのだと分かった。
この柵は、五月に張った。ワイヤーと支柱と電源装置で、一枚の田あたり四万円前後かかっている。上寒河に入れた田は十八枚ある。
「今月、これで四回目だ」
健太は言った。
柵は、張ったら終わりではない。下の草が伸びて、ワイヤーに触れると漏電する。漏電すれば電圧が落ち、電圧が落ちれば、獣は柵をただの紐だと学習する。だから、柵の下は常に刈っておかなければならない。
十八枚の田を囲む柵の総延長は、二・四キロほどになる。その全部の下草を、二週間に一度刈る。
刈るのは、人である。
健太は、七月に入ってから、農地に十二人を張り付けていた。そのうち八人が、ほぼ草刈りだけをやっている。
「割に合ってねえのは、分かってんだよ」
彼は、ワイヤーを結び直しながら言った。
この十八枚から取れる米は、収穫が良くて十五トン前後である。買い叩かれる値で売って、二百万円か、そこら。柵の材料費と、人件費に相当する飯代と、刈払機の燃料と替刃を積み上げると、粗利はほとんど残らない。
健太が計算できないのは、そこではなかった。
人を八人ここへ置いている、ということは、解体現場に八人出せていない、ということである。解体は日銭になる。一件で数十万が確実に入る。着工待ちが四十件溜まっていることを、彼は帳場で聞いていた。
草は、金にならない。
金にならないのに、刈らなければ、田が食われる。
午後、健太は谷を一本奥へ入った。
二年前まで作られていた田が、二十枚ばかり並んでいる場所である。今年は手を付けていない。
その一帯は、もう田に見えなかった。
背丈より高い草が一面に立ち、その間から、細い木が何本も伸びている。柳と、桑と、名前の分からないものが混じっていた。去年の秋に見たときは、まだ地面が見えていた。
健太は、草をかき分けて中に入った。
地面に、幅四十センチほどの筋が通っていた。草が両側に倒れ、土が露出している。
獣道である。
筋は、谷の奥から下りてきて、健太たちが作っている田の方向へ、まっすぐ伸びていた。
夕方、廃工場に戻って、健太は辰造にその話をした。
辰造は、ドラム缶に座って、ワンカップを開けたところだった。
「二年で薮になって、三年目に道ができる」
辰造は言った。
「そのあとに、柵が倒れる。……順番どおりじゃ」
「順番ってのは、何だ」
「集落が終わっていく順番よ」
辰造は、山のほうを顎で示した。
「人が減ると、まず端の田を作らんようになる。作らんようになった田は、二年で薮になる。薮になると、獣が下りてくる。……獣ってのはな、人がおらんようになった順に下りてくるんじゃ」
健太は、しばらく黙っていた。
「じゃあ、上寒河の柵は」
「上寒河のあの谷は、もう獣の側の土地じゃ。おまえらが入ったのは、獣の通り道に、後から柵を張ったということになる」
「先に薮を潰しゃあいいのか」
「潰せるか」
辰造は、ワンカップを一口飲んだ。
「あの薮は、二十枚ぶんある。刈るだけなら、人を入れりゃできる。じゃが、刈ったあと、毎年刈らんと元に戻る。一か月で腰の高さまで戻るぞ。……刈り続ける人間を、おまえは何人出せる」
健太は、答えなかった。
答えは、出せない、である。彼が出せる人数は、解体現場との取り合いで決まる。取り合いの結果は、いつも決まっていた。今日の金になるほうが勝つ。
「桐島に言ったか」
辰造が訊いた。
「言った」
健太は、地面に唾を吐いた。
「面積を増やせ、と言われた」
辰造の手が、一瞬止まった。
「一枚あたりの損が出るなら、枚数を増やして総額で取れ、ってことらしい。……あの人の言うことは、いつも算数としては合ってる」
「合っとらんよ」
辰造が低く言った。
「枚数を増やしたら、柵の長さも増える。柵が増えたら、下草を刈る人間がもっと要る。人が足らんかった結果が今の状態じゃ。……足らんものを、もっと足らんようにして、どうする」
健太は、それに答える言葉を持っていなかった。
持っていないのは、彼が算数に弱いからではない。
彼には、娘がいる。十九になった。十二年前のあの冬、まだ四つだった娘である
母親は出て行き、彼が育てている。娘の飯は、彼が現場から持って帰る金で出ている。共同体の食堂で食えるのは、共同体が回っているあいだだけだ。
三年後に土が痩せるとか、五年後に薮が戻るとか、そういう話を、彼は理解できないわけではない。
理解したうえで、こう思う。
明日死ぬかもしれない人間に、十年後の話をするのは、贅沢だ。
「親方」
健太は言った。
「あんたの言うことは、たぶん正しいんだろ。だがな、それで今日の飯はどうなる」
辰造は、答えなかった。
彼は空になったワンカップを鉄骨の根元に置き、そこに並んだ何本かの瓶と同じ向きに、丁寧に揃えた。
「……そこは、わしも三十年、答えられんかった」
夏の日が、まだ高かった。
工場の前庭の雑草は、二週間前に刈ったところが、もう膝に届いていた。
その夜、健太は寮に戻った。
旧事務所棟の二階の、六畳ほどの部屋である。娘はいなかった。
去年から、市街地のスーパーで働いている。週に三日は向こうの寮に泊まるので、この部屋にいるのは半分ほどだった。
健太は、床に座って、靴下を脱いだ。足に草の切れ端が入り込んでいて、皮膚が細かく切れていた。刈払機を一日回すと、こうなる。
机の上に、書き置きがあった。
夜勤入るから帰らない、と一行だけある。その下に、握り飯が二つ包んであった。
健太は、それを食った。
娘は、彼が何をしているかを訊かない。訊かなくなったのは、三年ほど前からである。それまでは、父ちゃんの仕事は何、と何度も訊いた。健太は、そのたびに答えに詰まった。
解体だ、と言えば嘘ではない。だが、その解体がどこの誰の家で、その廃材がどこへ行っているかを、彼は説明できない。
娘が働き始めた店には、レジがあり、名札があり、給与明細がある。
健太には、そのどれもない。
彼は、包み紙を畳んで、天井を見た。
三年後に土が痩せるとか、五年後に薮が戻るとかいう話は、この部屋の中では、意味を持たない。この部屋にあるのは、握り飯が二つあったという事実と、来月も同じようにあるかどうかである。
辰造の言うことが正しいことは、分かっている。分かることと、動かせることは、別だった。
4-3 土が死ぬ
九月の稲刈りで、数字が合わなくなった。
最初に気づいたのは、コンバインを回していた若いのだった。タンクの満ちる速さが、去年と違う。同じ枚数を刈って、運ぶ回数が減っている。
三日目に、辰造が田へ出た。
彼が見に行ったのは、四年前から作り続けている、湾岸に近い一帯である。コモンズが最初に押さえた田で、面積は二十ヘクタールほどある。
辰造は、刈り残した一枚に入り、株を一つ引き抜いた。
根が短かった。
白い根が、思ったところまで伸びていない。先が茶色く変色し、細くなっている。土を握ると、粘って、団子になった。指で押しても、崩れなかった。
彼は、その株を持って、しばらく畦に座っていた。
収量は、十アールあたり五百二十キロだった。
四年前、この田で最初に取れたのは、七百二十キロである。多収穫の品種に、彼が設計した施肥をかけた結果だった。三年目までは六百キロ台を保っていた。今年、一気に落ちた。
落ちた理由を、辰造は知っている。三年前から言っていたことである。
その夜、帳場に呼ばれた。
桐島がいて、リクがいて、健太がいた。モニターには、圃場ごとの収量の表が出ている。赤くなっている行が、半分以上あった。
「原因を説明してくれ」
桐島が言った。
その前に、リクが表を一枚めくった。
「先に、これを見てほしい。落ち方に、規則があるんだ」
モニターの表が、圃場の作付け開始年で並べ替えられた。
「四年前から作ってる圃場は、全部落ちてる。三年前からのは、半分。去年入れたところは、まだ落ちてない。……面積でも、場所でも、水利でもない。作り始めてから何年経ったかだけで、きれいに揃ってる」
リクは、椅子を回した。
「つまり、天候でも病気でもない。僕らのやり方そのものが原因だ」
辰造は、机の上に、田から持ってきた土をビニール袋のまま置いた。
「土が、傾いとる」
「傾く」
「土の中には、カルシウムとマグネシウムとカリが、決まった割合で要る。この割合が崩れると、根が働かんようになる」
辰造は、指を三本立てた。
「わしが組んだ肥料は、窒素とカリを多く入れとる。多収穫の品種を、限界まで走らせる設計じゃ。三年か四年は、それで数字が出る。……出るあいだに、カルシウムとマグネシウムが抜けていく」
「補給すればいい」
「補給しとった。石灰も入れた。じゃが、カリが多すぎると、根がマグネシウムを取れんようになる。入れても入らんのじゃ」
辰造は、袋の土を指で押した。
「それから、土の粒の話がある。もともとこの田は、有機物を入れて、粒が団子みたいに固まっとった。団子の隙間を、水と空気が通る。……化学肥料だけで四年回すと、その団子がほどける。ほどけると、土は詰まる。詰まった土の中では、根が伸びん」
部屋は、静かだった。
「引き抜いた株を見りゃ、わかる」
辰造は、根の短い株を机に置いた。
「これは、痩せたんじゃない。壊れたんじゃ」
桐島は、しばらく表を見ていた。
「回復には」
「時間が要る」
「どのくらいだ」
「堆肥を入れて、緑肥を回して、カリを絞る。三年目に少し戻る。五年で、まあまあになる」
「その間の収量は」
「落ちる。三割から四割は落ちる」
桐島は、椅子の背にもたれた。
彼が計算していることは、辰造にも分かった。三百人を超える人間が、この共同体の飯で生きている。三割落ちる、というのは、抽象的な数字ではない。
「二十ヘクタールを五年休ませて、その間の穴を埋める方法は」
桐島は言った。
「面積を増やすしかない」
辰造の顎が、わずかに動いた。
「北の谷筋は、秋のうちに押さえる。来年の春に作付けする。……失った二十ヘクタールぶんは、新しい四十ヘクタールで埋める」
「同じことになるぞ」
辰造は言った。
「同じ肥料で、同じ品種を、同じように走らせるんじゃろ。四年経ったら、その四十も同じになる」
「そのころには、また別の場所が空いている」
「桐島さん」
辰造は、机に手をついた。
「あんた、それを何回続ける気じゃ」
「続けられるあいだは、続ける」
桐島の声には、熱がなかった。
「辰造さん。あなたは正しい。土を五年休ませるのが正解だ。だが、その五年、誰が食う」
辰造は、答えられなかった。
この男の言うことは、いつも算数として合っている。合っているから、四年前、辰造はこの設計を引き受けた。
最初に、土を四年で使い切る肥料を組んだのは、彼である。
誰にも命じられていない。桐島は多収穫の方法を求め、辰造はそれを設計できる数少ない人間だった。設計しながら、彼はこの土がどうなるかを、正確に知っていた。三年か四年で傾く。傾いたら戻すのに五年かかる。
知っていて、組んだ。
あのとき、共同体には冬を越せる米がなかった。
辰造は、その冬のことを覚えている。
四年前の十二月だった。倉庫にあった米は、三百人が二か月食える量に届かなかった。桐島が地図を広げて、押さえられる田の面積を示した。面積は足りていた。足りていないのは、そこから取れる量だった。
辰造は、その場で、一枚の紙に施肥の設計を書いた。
窒素を通常の一・五倍。カリを追加。分施の回数を増やし、出穂の直前にもう一度乗せる。品種は、食味を捨てて収量だけを取るものに替える。
書きながら、彼は桐島に一度だけ言った。この土は、四年で傾く、と。
桐島は、こう答えた。四年ぶんの時間を、いま買いたい。
辰造は、紙を渡した。
あの冬、誰も死ななかった。それは、この設計のおかげである。それも事実だった。
「わしが設計した」
辰造は言った。
誰も、何も言わなかった。
「三年前から言うとったのは、責任を逃れるためじゃない。言うとけば、あとで、わしは言うたと言えるからじゃ。……そんなもんは、言うとらんのと同じだ」
彼は、机の上の株を取り上げた。短い根が、机の木目に泥を残した。
「桐島さん。これは、あんたのやり方が間違っとるという話じゃない」
辰造は、初めて桐島の目を見た。
「これは、わしとあんたが、同じ勘定書を先送りしてきたという話じゃ。……勘定書は、来た」
桐島は、その言葉を受け止めた。
受け止めて、それから言った。
「北の谷筋の作付け計画を、来週までに作ってくれ」
辰造は、しばらく動かなかった。
それから、株をビニール袋に戻し、袋の口を縛って、部屋を出た。
外は、九月の夜にしては冷えていた。稲刈りの残りは、あと四日ある。
彼は工場の裏へ回り、いつものドラム缶に座って、ワンカップを開けた。
開けて、飲まずに、しばらく手に持っていた。
4-4 軽油と金属疲労
午前二時に、油圧ホースが破れた。
解体現場から戻ってきた〇・七立米のバックホーを、巳之吉がガレージに入れて、アームを下ろそうとしたときである。ブームの根元のあたりで、破裂音がした。
黒い霧が噴いた。
作動油は、百五十気圧を超えて回っている。ピンホールから噴き出したそれは、霧というより刃物に近い。巳之吉は反射的に若いのの襟を掴んで、後ろへ引いた。
油は、若いのが立っていた場所の壁に、扇形の跡を残した。
「触るな。まだ圧が残ってる」
巳之吉は言った。
エンジンを切り、圧を抜き、それから照明を当てて破れた箇所を見た。ホースの外皮が擦れて、中の補強層が露出している。擦れていたのは、フレームの角である。振動でホースが当たり続け、一年か二年かけて、少しずつ削れていた。
こういう壊れ方を、巳之吉は知っている。
いきなり壊れたのではない。ずっと前から壊れていて、今日、限界に来ただけである。
夜が明けてから、彼は在庫を確認した。
同じ規格のホースは、二本あった。今月、これで三本目である。
巳之吉のガレージには、いま十一台の重機が入っている。台数だけなら、この二年で倍近くになった。増えたぶん、彼のところに来る故障も倍になっている。
朝、彼は履帯の点検表を作り直した。
キャタピラは、金属のリンクをピンで繋いだものである。ピンとブッシュが摩耗すると、リンクの間隔が伸びる。伸びると、履帯全体が長くなり、緩む。緩んだまま走らせると、スプロケットの歯が飛ぶ。
摩耗の速さは、走った距離ではなく、走った場所で決まる。砂利と瓦礫の上を走ると、速い。解体現場は、そればかりである。
いま、コモンズの重機は二交代で回っている。一台あたりの実働は、日に十六時間を超えることもある。
メーカーの想定は、日に八時間だろう、と巳之吉は思っている。
昼過ぎに、桐島が来た。
ガレージまで来ることは珍しい。巳之吉は、ウエスで手を拭いて立った。
「稼働率の話を聞きたい」
桐島は言った。
「着工待ちが五十件を超えた。台数を増やせば消化できるか」
「増やせば、消化はできます」
巳之吉は答えた。
「ただ、うちが持ってる十一台のうち、まともに動くのは、いま八台です」
「三台は」
「一台は油圧のポンプがへたってます。部品待ちで二週間。一台は履帯を組み直してる最中で、明後日。もう一台は……エンジンです。これは、たぶん時間がかかる」
「新しい機械を入れる案はどうだ。陳のルートで、程度のいい中古が入る」
巳之吉は、少し黙った。
「入れるのは構いません。ただ、年式が新しいのは、うちでは直せません」
「なぜだ」
「電子制御が入ってるからです。壊れると、エラーコードを出す。コードの意味は、メーカーのサーバーにしかない。読むには認証の端末が要って、端末は正規の代理店にしかありません。……山の中で止まったら、レッカーを呼ぶしかない」
桐島は頷いた。理解した顔ではなく、記録した顔だった。
「もう一つ、聞きたい。燃料の備蓄は、どこまで積める」
巳之吉は、そこで初めて、はっきりと首を振った。
「軽油は、貯められません」
「タンクを増やせば」
「タンクの問題じゃないんです」
彼は、ガレージの隅にある千リットルのタンクを指した。
「軽油ってのは、空気中の水分を吸います。タンクの中で温度が上がったり下がったりすると、内側に結露が出る。水は油より重いから、底に溜まる。……その水と油の境目に、微生物が湧くんです」
「微生物」
「湧きます。菌と黴です。増えるとスラッジになって、燃料フィルターを詰まらせる。詰まったフィルターを積んだエンジンは、負荷がかかった瞬間に止まります。斜面の途中で止まったら、それだけで事故です」
巳之吉は、タンクの側面を軽く叩いた。
「添加剤を入れて、水抜きをこまめにやって、それでも、まともに使えるのは三か月が限度です。今のうちの規模だと、貯められるのは、実質三日ぶんです」
桐島の表情は、変わらなかった。
「三日か」
「はい。……ブローカーからの供給が一日止まったら、現場ごと止まります」
沈黙があった。
巳之吉は、その沈黙のあいだに、言うつもりのなかったことを言った。
「桐島さん。面積を倍にするって話ですが」
「ああ」
「無理です」
彼は、ウエスを握り直した。
「人の数の話じゃありません。飯の話でもない。……機械が保ちません」
「保たない、というのは」
「二交代で回してる機械は、寿命が半分になります。半分どころじゃないかもしれん。いま壊れてるのが三台ですが、来年の春には五台になる。再来年には、動くほうが少なくなる」
巳之吉は、自分の声が少し大きくなっていることに気づいた。気づいたが、止めなかった。
「機械ってのはな、カネと気合で動いてるんじゃないんです。摩擦と熱と応力ってルールの中で動いてんだ。ルールのほうは、こっちの都合を聞いてくれません」
桐島は、彼を見ていた。
巳之吉は、この男に対して、こういう言い方をしたことがなかった。少し前まで、彼はこの共同体の隅で、言われたことだけをやっていた。名前を呼ばれることも、意見を訊かれることも、ほとんどなかった。
「必要なものを、書いて出してくれ」
桐島は言った。
「部品でも、人でも、金でもいい」
「時間です」
巳之吉は言った。
「一台ずつ、順番に止めて、直させてください。止めてるあいだ、その現場は動かない。……それを認めてもらえるかどうかの話です」
桐島は、しばらく答えなかった。
「検討する」
彼はそう言って、ガレージを出て行った。
巳之吉は、その背中を見ていた。
検討する、という言葉が何を意味するかは、分かっている。着工待ちが五十件ある。止められるわけがない。
彼は、破れたホースを手に取った。擦れて薄くなった部分を、指でなぞった。
この機械は、一年前から壊れ始めていた。彼はそれを、毎日見ていた。見ていて、直さなかった。動いていたからである。
動いているものを止めて直す、という判断を、彼は一度もしてこなかった。
夕方、若いのが一人、ガレージに来た。
朝、油を浴びかけた男である。二十二歳で、ミャンマーから来て、去年から解体現場に入っている。日本語はまだ拙い。
「教えてください」
彼は、そう言った。
巳之吉は、ホースの切れ端を彼に渡した。
「これ、見て、何が分かる」
若いのは、断面を覗き込んだ。
「破れてる」
「どこが先に減ったか、見えるか」
彼は、しばらく見て、外皮の擦れた側を指した。
「こっち」
「そうだ。当たってたんだ。フレームの角に、ずっと当たってた」
巳之吉は、バックホーのブームの根元を指した。
「機械が壊れるのは、たいてい、こういうとこだ。無理してるところじゃない。擦れてるところだ。……毎日ちょっとずつ減ってて、ある日、なくなる」
若いのは頷いた。
「見つけたら、どうしますか」
「ゴムを巻くか、ホースの取り回しを変えるか。減ってたら替える」
「どのくらいで、替えますか」
巳之吉は、そこで答えに詰まった。
基準は、彼の手の中にしかない。ホースを握って、硬さを見て、擦れた部分を親指で押す。押した感触で決める。三十年やってきたわけではない。この二年で覚えた。教わったのは、前にいた男からで、その男はもういない。
どこにも書いていない。
「……そのうち、分かるようになる」
彼は、そう言うしかなかった。
若いのが帰ったあと、巳之吉はしばらく、そのホースを持っていた。
自分が明日いなくなったら、この判断は誰も引き継げない。引き継げないことに、誰も気づかない。気づくのは、一年か二年経って、どこかの現場で機械が止まったときである。
止まった原因は、そのとき、別の名前で呼ばれるだろう。整備不良、とか。
4-5 維持している人間の顔
神崎玲は、三日かけて撮った素材を、四度見直した。
四度目を見終わって、彼女はモニターを止めた。
使えるものが、何もなかった。
撮ってきたのは、上寒河の柵の下草を刈る作業である。刈払機を持った男が四人、二・四キロの柵に沿って、朝から夕方まで刈っていく。彼らが刈り終わったあと、その場所は、何も変わっていないように見える。
映像としては、草を刈っている人が映っているだけである。
玲は、この三年、いくつもの配信をやってきた。最も数字が出たのは、機動隊とコモンズが対峙した夜の中継だった。次が、廃工場の炊き出しの列を撮ったものである。どちらも、目に見える何かが起きていた。
今回、彼女が撮ろうとしているものは、何も起きない。
起きないことが、成果だからである。
その夜、彼女は帳場の隅で、企画のメモを書き直していた。
三日目の撮影で、一度、断られていた。
柵沿いを刈っていた四人のうち、いちばん端にいた男に、玲はカメラを向けた。顔は映さない、と説明した。声も変える、と。
男は、刈払機を止めて、首を横に振った。
トアンが後から説明した。あの男は、在留の資格が切れて三年になる。国に妹がいて、金を送っている。映れば、送金の口座から辿られる可能性がある、と本人は思っている。
「思ってるだけで、実際にはそこまで辿れない」
玲は言った。
「辿れるかどうかじゃない」
トアンは答えた。
「辿られたことがある人間は、そう思う。……ここにいる人間の何割かは、記録されたことで、前の場所を出てる」
玲は、それ以上訊かなかった。
彼女が撮りたいのは、維持している人間の顔である。顔を出せない人間だけが、その仕事をしている。
通りかかった巳之吉が、モニターを覗いて足を止めた。
「草刈りですか」
「そう。……使えないの」
玲は、椅子を回した。
「柵の下を刈らないと漏電して、獣に破られる。だからこの人たちは、二週間に一度、丸一日かけて刈ってる。刈ってるあいだ、田は無事。無事だから、絵にならない」
巳之吉は、モニターの中の男たちを見ていた。
「この作業に、値段がついたことは一度もないの」
玲は続けた。
「解体は、一件いくらで請求できる。米は、キロいくらで売れる。……柵の下を刈る仕事には、単価がない。誰も買わない。買わないから、記録もされない」
「そういうもんです」
巳之吉が言った。
「そういうもの、で済ませてきたから、この国はここまで来られたのよ」
玲は、モニターを消した。
「維持って仕事は、成功してる間は誰の目にも映らない。目に映るのは、失敗した時だけ。だからこの国は、維持に一円も払わずにここまで来られたの」
巳之吉は、しばらく黙っていた。
それから、椅子を一つ引いて、玲の斜め後ろに座った。
彼がそうやって座り込むのは、珍しいことだった。玲は何も言わずに待った。取材で覚えた癖である。
「神崎さん」
「なに」
「前に、あんたに嘘をついた」
玲は、彼のほうを見た。
「三年前です。あんたが俺に、家族のことを訊いた。俺は、女房は俺の貧しさに愛想を尽かして出て行った、と言った」
巳之吉は、床を見ていた。
「あれは、嘘です」
玲は、すぐには答えなかった。
彼女は、そのやり取りを覚えている。取材の初期、まだ彼が誰なのかもよく分かっていなかったころだった。あのとき、彼女は追及しなかった。追及しなくても記事になったからである。
「どうして、嘘をついたの」
「あんたが」
巳之吉は、そこで言葉を探した。
「あんたが、俺を許しそうな顔をしてたからです」
玲の指が、机の縁で止まった。
「貧しさに愛想を尽かされた男なら、可哀想な男だ。あんたはたぶん、そう書いてくれた。……俺は、可哀想な男でいたかった」
彼は、顔を上げなかった。
「実際は、逆です。出て行ったんじゃない。俺が、差し出した」
玲は、何も言わなかった。
言わなかったのは、驚いたからではない。彼女は、その断片をすでに知っていた。三年前、別の場所で、彼自身が口を滑らせている。俺の元女房で、雪女と呼ばれてたユキ、と。
彼女はそれを記事にしなかった。書けば、彼が壊れると分かっていたからである。
「知ってた」
玲は言った。
「あんたが、別のときに自分で言ったのよ。……だから、嘘だってことは、最初から分かってた」
巳之吉が、そこで初めて顔を上げた。
その顔を見て、玲は自分の言い方が正確ではなかったと気づいた。彼女は、彼を許すつもりで言ったのではない。彼を許さないつもりで言ったのでもない。
「私は、あなたを裁く立場にいないの」
玲は言った。
「私は、差し出された側じゃない。差し出す側の言葉を作ってきた側よ」
彼女は、消したモニターの黒い画面を見ていた。
「震災のあと、私は現地に入って、絆とか、復興とか、そういう言葉を毎日読んでた。原稿にも書いた。……あの言葉を聞くたびに、私の育った集落の人たちが、どういう顔をしてたか、覚えてる」
玲の故郷は、東北の農村である。中学生のときに、そこは無くなった。無くなったあと、テレビはその土地を、何年も同じ言葉で呼び続けた。
「あの言葉は、誰かに何かを差し出させるための言葉だった。差し出す側は、絶対に自分の名前を出さない。……私は、その側の技術を覚えて、それで食べてきた」
彼女は、椅子を回して、巳之吉のほうを向いた。
「だから、あなたの話を聞いても、私は何も返せない。返せる立場じゃないの」
巳之吉は、ゆっくり頷いた。
しばらく、二人とも黙っていた。ガレージのほうから、金属を叩く音が二度聞こえた。
「ひとつだけ、訊いていい」
玲が言った。
「その人の名前は」
巳之吉は、少し黙った。
「ユキです」
彼は言った。
「雪と書いて、ユキ。……本当の名前は、俺も知りません。あの人が持ってた名前は、あの人のものじゃなかったから」
玲は、その言葉を書き留めなかった。
書き留めない代わりに、覚えた。
「あんたは、その人が今どこにいるか、知ってるの」
「知りません」
巳之吉は言った。
「探したことも、ないです」
彼は立ち上がり、ガレージのほうへ戻りかけて、途中で止まった。
「神崎さん。さっきの、草刈りの映像ですが」
「うん」
「あれ、何も起きてないところを撮ってるんじゃないと思います」
巳之吉は、モニターのほうを見た。
「あの人らが刈らんかったら、来年、あの田は無くなってます。無くなってから撮ったら、絵にはなる。……絵になったときには、もう終わってるんです」
玲は、彼を見た。
「私、その言い方を使っていい」
「どうぞ」
彼はそう言って、ガレージへ戻っていった。
玲は、モニターをもう一度つけた。
草を刈る四人の男が、また画面の中で動き始めた。彼女は、その映像を最初から流し直し、今度は最後まで、早送りをせずに見た。
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