2015年7月27日月曜日

英語教育の必要性

前回の記事では,英語教育に国をあげて取り組むことの危険性について,施光恒氏の著書『英語化は愚民化』を引きながら取り上げましたが,今回はその英語教育をどのように進めれば良いか? という話です.

「おいおい,英語教育の危険性を論じておいて,今度はその逆かよ」
と思われるかもしれませんが,私は別に英語教育に取り組むこと自体を悪いことだとは考えておりません.
むしろ,大学のような高等教育においては非常に重要なことだと思っています.
同じ物事であっても,日本語だけでなく英語やその他の言語を使って捉えることは大事です.

『英語化は愚民化』の著者である施氏にしても,英語教育自体が悪いと述べているわけではありません.
「英語で教育する」「英語で生活する」ことの危険性を訴えているのです.

勢い,ここらへんのことをゴッチャにして
「英語を勉強しても意味がない!」
「英語よりも日本語の方が優れている!」
果ては,
「英語を教えることは,悪いこと!」
という論調を見ることもあったりしますが,これはこれでバカバカしい話です.

だいたい,どの言語がどのように優れているか,なんていう議論は意味がありません.
むしろ,どの言語が優れているか?という発想こそが危険なのです.

日本語の方が優れているから英語教育に反対しているわけではありません.
この国のほぼ100%の国民が日本語を使える状態にあるのだから,その普及している言語で高度な教育ができる環境を整えることこそが我々の社会にとって有益だろう,という話をしているのです.

言語の優劣で評価するというのであれば,ではもし日本語よりも優れた言語があれば,そっちに乗り換えるのでしょうか? そういうわけではないでしょう.

愛国心まじりに「日本語は言語として優れているのだから・・・」などと言い出す人がいますが,恥ずかしいので黙っててほしいものです.
日本語の方が英語よりも優れているなどと評価すること自体が低能な発想です.
英語を母語とする人にとっては,英語の方が日本語よりも大事であるというだけのことなのですから.

では現在の日本にとって,特に大学においてはどのような英語教育が求められるのでしょうか.
それは,
多くの日本人が,日本語だけで日常を完結できる環境を作り上げるための英語教育
ではないかと考えられます.
なんだか矛盾しているのではないかと思われるかもしれませんが,これは意図的です.

つまり,日本語を基本とする高等教育を発展させることが大学としての最優先課題であり,英語等の外国語を交えた論議は,そのために取り扱われるべきだと思うのです.

例えば,新しい科学理論や哲学・思想が外国語によって生み出されたとします.
そうした時,我々学者や研究者がすべきこととは,まずはそれを外国語を介して理解し,咀嚼・反芻した上で,日本語という形にして学生や社会に普及させることです.

こうした活動の中で,ゆくゆくは日本語による科学理論や哲学・思想を生み出すことに繋げていく.それが日本の大学が取り組むべき学術活動ではないでしょうか.

まさにそれをやってきたのが,ここ150年ほど(いえ,それよりずっと以前から)の日本の高等教育ではないか.そう考えますと,そもそも「英語」教育というところに偏重する必要がありません.
外国語全般を等しく扱えばいいはずです.

そんなわけで,やっぱり「英語」教育は必要無いのではないか? という気分になりそうですが,そうではありません.
英語教育に偏重してはいけないとは言え,英語教育が必要であることには違いないのです.そして,英語教育だけである必要もありません.

日本語による高等教育を,より良く充実させていくための外国語教育という着想が求められるところです.



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