2018年6月8日金曜日

体育学的映画論「万引き家族」

例のパルム・ドール受賞作.

今日が公開初日.
ちょうど都内で仕事があったので,その帰りにレイトショーで観てきました.

ネットでは,本作の監督をした是枝裕和氏がウヨクから嫌われていることもあって,「きっと反日サヨク映画に違いない」と,公開前からネガキャン三昧だったことでも有名な作品です.

実際に観た感想としては,全くもって反日でもサヨクでもない映画です.
ウヨクの皆さんも,安心してご覧頂けることと思います.

【以降,ネタバレと思われる内容を含みますので,ご注意ください】
とは言うものの,私としては本作の予告映像以上の「ネタ」は無かったと捉えていますので,以下を読んでから本作本編を観てもらっても大丈夫だと思いますが.
(だって,予告で物語の全容は全て開示されてますから)

さすがパルム・ドール.丁寧な作りです.
どうしてそんな展開になるんだ.
そうじゃないだろ.
なぜこんな行動をとる?
・・といったツッコミ所が見当たらず,日本における貧困層の暮らしを舞台とした家族ドラマを描いています.

公開前は「貧乏生活のために万引きをすることを肯定しているのではないか」という(映画を見もしないで)批判がありましたが,本作ではそんなことを描いているわけじゃありません.
むしろ逆で,万引きを肯定してはいけないことに目覚めていく少年・祥太の姿を撮っているんです.
さらに言えば,そのための押し付けがましい演出がないのも素晴らしい.

それだけに展開が単調に映るので,レイトショーということもあってか,私の周囲の観客数名はいびきを掻いて寝落ちしていました.
さすがパルム・ドール.一般大衆にはハードルが高い.

唯一の「押し付けがましい演出」は,柄本明さんが演じた売店のジジイが少年に対してとった言動ですが.
それ以外の部分が徹底して抑制されているので,売店のジジイがとった「万引き少年に対するさりげない行動」がとても際立つんですね.

少年・祥太役の子役も良かったですが,なんと言っても安藤サクラさんの怪演でしょう.
池脇千鶴演じる取調官との対話が特にすごい.取調官の言っていることが事実なだけに,その事実を突きつけられて苦しむ「母親になりたかったわけではないが,本当はなりたかった女」の姿を見事に表しています.
あの取調官との対話で,彼女がそれまでに劇中で見せてきた少年・少女との関わりが一気に思い起こされ,観ているこちらは胸をえぐられる.

人の心はシンプルじゃないんです.それをシンプルに描いています.

少年はダメな大人である「オジサン」のところに顔を出す.オジサンと他人になることを望み,毅然として乗り込んだはずのバスの窓から「お父さん」を見るため後ろを振り返りたくなる.
女の子の方は,あの家族と過ごした時に教えてもらった数の数え方を口ずさみながら,彼らに拾ってくれたアパートの玄関前で一人遊んでいる.
そんな子供たちの姿をみせて終劇.

本作では終始,大人は目に見えるモノ・耳に聞こえるモノを求めたがり,子供はそれを見せないし言わない.
安っぽい作品では,登場人物に「本当に大事なものは,目には見えないんだ」などとセリフを吐かせたがりますが,さすがパルム・ドール.それを全て映像で語る.

最近,児童虐待のニュースが世間を騒がせていますね.
死亡の5歳、ノートに「おねがいゆるして」両親虐待容疑(朝日新聞2018.6.6)
日本の格差社会問題だけでなく,そういう点でもタイムリーな映画になりました.
私も以前,近所で途方に暮れる少女と関わったことがあるし.
幼女に興味はないですよ
なんだか親近感の湧く映画です.

印象的だったシーンは,夜,家族が団欒しながら隅田川の花火を音だけ鑑賞するために夜空を見上げるところ.
あそこに日本の貧困層の孤立と疎外感が強く表現されています.
彼らも自分たちが社会的に落ちぶれていることを知っている.それを知っているだけに,表に出てきて花火を見ようという気分にならない.理由は,「一度見に行ったことがあるけど,大雨が降って大変な目にあったから」とお婆さんは言いますが,それは己の過去への暗喩であろうと解釈できます.
昔は華やかな表舞台で楽しんでみたけど,痛い目を見て今に至っている,ということ.
私達は花火大会を「音」だけ聞いて楽しむ身分です,という卑屈と自虐.
これは同時に,表に出てきて花火大会を楽しんでいる人たちには彼らの姿が見えないことをも意味します.

本作はまさに,こうした「世間から見えにくい家族」にスポットライトを当てたものであり,このシーンで上空から家屋を映しているショットは,本作のテーマそのものを表現しているように思えます.


ところで,先日,大学の体育・スポーツ実技系授業で久しぶりに学生を叱りつけました.
普段から「注意」とか「指摘」する程度のことは頻繁にあるのですが,時間をとって学生を集合させて叱るのは何年かに1度あるかないかです.
クラスをチーム分けして,バスケットボールの試合をやっていたんですけど,そのうちの1つのチームの雰囲気が悪いったりゃありゃしない.バスケ経験者でこの授業を「優越感にひたりたくて履修してきた奴」と,それとは対象的な「運動音痴」が混在するチームです.

普通なら,バスケ経験者が運動音痴の学生にいろいろ指示を出したりサポートに回って,むしろそうしたサポート・プレーに全力を注いだり,相手チームを含めた総体における楽しさや面白さを見出そうとするのが体育の教育意義だったりするのですが,そうはならないタイプの人間がやっぱりいる.
自身が得意な活躍できるスポーツ種目で,周囲に対し優越感を得るためにプレーするタイプの人間.それでも黙ってプレーしてればいいのですが,運動音痴や未経験者を露骨に見下しながらゲームをする輩は,「スポーツする」という人間性が低いと言っていい.

で,件の叱りつけた学生たちは,まさにそれをやっていたんですね.
一見,運動音痴の学生のためを想って出しているパスに見えるんだけど,その出し方や態度がそうでないことは明らか.
点差が開いてきても「こっちには未経験者がいるから」と言いながら,自分が点を取りに行こうとはしない.あくまで「俺は後方でサポートしているんだよ」という見せ方をする.わかりますよ,自分が全力で点を取りに行ったとして,そこでミスしたり実力の程が知れるのを恐れているんです.全力プレーした結果,負けることを怖がっている.
だんだん相手チームも面白くなくなってきて,こういうチームによる試合はお通夜のようになっていきます.
「面白くないのは他人のせいじゃない.自分から面白くないゲームにしているんだ」ということを分かってもらうのが体育の意義だと思います.
そういう意味では,今回の一件は履修学生にそれを再確認する場になったかもしれないし,そうであることを願いたいところです.

人間の社会活動とは,過去記事でも述べたように「スポーツ」そのものなのです.
人間はスポーツする存在である
「お金稼ぎ」や「ビジネス」といったことも,お金・所得というスコアを獲得するために,皆がゲームしていることと言えます.

スポーツにおいて「初心者」や,どうししても上手くなれない「運動音痴」がいるのと同様,所得獲得ゲームにおいてもそうした人々がいます.
逆に言えば,初心者や運動音痴がいるからこそ,そこそこ上手い人や平均人,運動センスの良い人が存在し得るとも言えます.
その上で,ゲームを楽しむためのコツとは,あらゆる人が楽しくゲームに関与できる配慮や仕組みをつくることです.そうでなければ,結局そのゲームそのものが楽しくなくなっていきます.参加することが苦痛になっていくのです.

話が逸れてきましたが,そんなことを「万引き家族」を見ていて考えさせられました.
少なくとも,楽しくないゲームをしている人に対しては,柄本明が演じた「売店のジジイ」のような存在が不可欠です.そこに人間社会というスポーツ・ゲームを楽しくするエッセンスがあるはずです.

関連記事
大学における体育授業の意義
大学における体育授業の意義2
井戸端スポーツ会議 part 39「日本のスポーツの定義に物申す」
海軍の学校での体育
体育学的映画論「ロッキー・ザ・ファイナル」