2018年4月17日火曜日

モリカケ問題とか日報問題を,大学教育で例えてみる

「その問題というのは,例えて言うなら,総理大臣と懇意にしていた会社が特別に利益を得られる仕組みになっていたようなものだ.だから政府や総理大臣は,その疑惑をすぐに払拭できるよう準備していないといけいないし,それが出来ないのであれば責任をとって退陣しなきゃいけないでしょう.それと一緒だよ」
などという例え話が通用しなくなっているのが現代日本なのです.
もう既に末期症状だと思います.

「メディアは疑惑ばかり報じるだけで証拠を出さない」とか,「総理は悪魔の証明を求められている」などと,おおよそ民主主義国家の国民とは思えない言動をしている人が結構います.
少なくとも我が国の首相は王様ではありません.政府も教会ではない.
国民は,政府や政治家を常に疑ってかからないといけないし,政府と政治家の側も,疑惑をかけられたらそれをすぐに払拭できる証拠を用意しておくのが健全な状態というものです.

例えば,夫が女と週に何度も食事していて,ラブホテルへ一緒に出入りしているところを,妻が写真に収めて「この女は誰なのよ!」と迫ったとします.
その夫が「こいつとは何もないよ.浮気だというのならその証拠を出せ!」と反論してきたからって,
「そうね,これは浮気を示す決定的証拠じゃないから疑惑のままね.その女とやってるところをおさえることが出来るまでは,夫を信じるわ」
なんて悠長な妻はいないでしょう.
「浮気してるんじゃないか?」という疑惑,それ自体が夫婦関係の問題になっているわけですから.
国家運営で言えば,この政府は議会制民主主義を進行していく上で信頼できるのか? ということが問題となっているわけですよ.
「じゃあ,代わりは誰かいるのか!?」なんて,トンチンカンにもほどがある.そんなの,離婚してから考えればいい.

夫が本当に潔白なのであれば,妻からの信頼を取り戻すために証拠をこれでもかと出し,件の女を呼び出して事実関係を証言させるはず.国家運営で言うなら,公文書公開とか証人喚問ですね.
もちろん,それだけじゃ妻は納得しないだろうから(都合のいい証拠しか出さなかったり,女と口裏合わせしているだろうから),ラブホテルに女と同行した退っ引きならない事情や,その事情を知る関係者を集めるなどして,疑惑を払拭するために説得するものです.
ところが,それに応じず「疑惑をかけられているのは俺なんだから,証拠を出すのはそっちだ」とか,「ほら,あの女も俺とは何もなかったと証言しているじゃないか」などと言い出すような奴とは離婚するに限ります.
そんな男は信頼できないでしょう.同様に,そんな態度をとる政府はどう考えてもおかしい.

さらに言えば,夫がホントに本当に潔白だったとしても,妻が納得する証拠提出と説得ができない男や,特定の女と日常的に食事したりラブホテルに行く行為を普通だと思っている男は,その時点で離婚です.
前者は無能だし,後者はバカです.
「浮気の証拠が出てこないのだから大丈夫だろう」などと考えてる場合ではありません.
こいつに「夫」としての資質があるのか? ということが問われているんです.

モリカケ問題とか自衛隊日報問題に揺れる安倍政権というのは,「証拠がないなら無罪」とか,「悪魔の証明」などといった次元で論じられるものではないので,こうした色恋沙汰で例えることもできるのですが,もうちょっと上品に例えることもできます.

これを大学教育現場で例えてみましょう.
大学教育において,教員−学生間に生じる「疑惑」と,その対処が求められるものに試験結果の根拠説明があります.
最近の大学って,期末試験とか中間試験をとても厳密にやるようになってきています.昔のような適当な試験方式はだんだんなくなっているんですよ.

具体的に言うと,学生は授業の成績を左右する試験の結果については,その採点に疑惑や不服がある場合は,大学事務(主に学生課とか教務課)を通じて訴えることができるようになっています.
以前(20年くらい前)であれば,学生が教員の研究室に直接出向いて交渉されていたのですが,徐々に「コンプライアンス重視」とか「説明責任」といったことが浸透してきて,現在のように大学事務局を窓口にするようになりました.

「教授のところに地酒を持参して懇願したら,テストの点数が可になった」とか,「胸元がパックリ開いた服で訪問して訴えたら,特別に追試を受けることができた」などという話を聞いたことがある40代以上の大卒の人は多いでしょう.
実際,そういうことは以前はたくさんあったんです.そういう意味では,昔の政治も似たようなものかもしれない.
でも,今はそういうことができないような成績管理システムになっていたり,採点方式の公平公明性が強化されてたり,教員が勝手に成績変更できないようになっていたりします.

ようするに,学生としては自分の成績が「おかしい」と疑惑をもったら,それを自由に訴えればいいという形式になっています.
このため,昔と現在の成績評価に関する最も大きな違いとしては,現在では「試験の採点手続きや,成績・点数の割合が説明できるようになっている」ことにあります.
つまり,現在の大学教員は,「どうしてA君が75点で,B君が80点なのか? この5点の差は何から生じているのか?」ということを,きちんと説明するよう求められているんです.

え? 昔は違ったのかって?
そうです,昔は適当に採点していた先生方が多かったみたいですね.なんとなく,こいつは80点だろう,こいつは65点だな,って感じで.

そんなことしてると,「なんで私が65点なんですか!」って怒ってくる学生が出てくるわけですけど,あんまり煩いからそいつを80点に変更したら,それを聞きつけた80点の学生が「訴えたら点数が上がるんすか!」って怒り出して面倒なことになっちゃったから,ちゃんと窓口用意して,教員が勝手に成績変更できないようにしようと.そういう経緯があって現在のシステムになっています.

あと,どうしてこの学生が「70点」なのか,その割合もきちんと説明できないとダメになっている大学がほとんどです.
実際,いろいろな大学のシラバス(履修要項)を見てもらえれば,成績の算出方法が掲載されています.
出席30%,レポート10%,テスト60%などと書かれることが多いですね.担当教員によって,この割合や項目が違いますが,つまりは点数の割合を説明できるようになっています.
ちなみに,最近は「出席」を点数化させることを嫌がる大学も増えています.授業に「出席」するのは当たり前だから,これを成績の点数にするのはダメでしょう,っていう理屈です.

もちろん,レポートやテストも,どうしてその点数になったのかを説明できるよう求められています.
なので,レポートやテストの結果(つまり,解答用紙)は規定期間を過ぎないと破棄できないようになっています.こういうのを「根拠資料」って言います.
教員自身ではなく,大学事務で保管するところもあるそうですが,たいていは成績確定する年度内もしくは1年間,あとは卒業年の目安である4年間とかです.
その期間は,学生からの成績評価に対する訴えや調査があった場合に備えて,「どうして◯点なのか?」に答えられるようにしています.

最近では,教員側も「どうして君が◯点なのか」を後々説明するのが面倒なので,授業内でフィードバックできる仕組みにしている先生方もいます.
例えば,出席1回で3点,遅刻は1点,課題提出1つが10点満点で,グループワーク1回参加が5点ですよ,といったリストを第1週目の授業から学生に渡しておいて,学生自身に自分の成績点数が明確に分かるようにするものです.これだと学生は「僕は少なくとも80点だな」とか,授業期間の途中で「俺は欠席が多いから,今から全部出席したとしても単位が出ないな」ということが判別できます.

まぁとにかく,一部の学生にとってはそれほどでもないけど,他の一部の学生にとっては大変重大な関心事である「成績評価」に対する説明責任を果たせるよう,大学は準備されています.
長くなりましたが,これが疑惑を持たれた政府と同じです.

実際,「私が◯点なのは,どういう理由からですか?」なんて訴えてくる学生はほとんどいませんよ.極めて稀です.
たいていは,教員の裁量を信じて「あぁ,私はこういう点数なんだな.まっ,単位をくれているから良しとしよう」って感じで何事もなく過ぎることです.
でも,その評価基準に疑義を持った学生が現れるのもたしかで,どうして君が◯点なのか? ってことを説明できなきゃいけないのが大学当局,担当教員ということになります.

学生からの「これって,いい加減に採点した結果じゃないんですか?」という疑惑に対し,「その採点を適当につけたと言うなら,その証拠をお前が出せよ」なんて態度が通用するわけないでしょう.
「あなたが◯点なのは,これこれ云々の結果ですよ」って回答できなきゃいけないのが当たり前です.成績評価っていうのは,それだけシリアスなものだからです.

それが国家運営・行政だったら尚の事でしょう?
誰かが「それって不公平じゃないですか?」とか「間違ったデータに基づいて話を進めてていませんか?」などと疑惑をかけたら,その疑惑が的外れであることを明瞭に示すことができなきゃダメなんですよ.それが議会制民主主義の行政を行っている担当者の責任です.

それが出来ずに,いつまで経ってもツッコミを受けているような安倍政権は,その時点で退陣したほうが日本のためです.
もしかすると,本当に安倍政権は潔白なのかもしれない.でも,身の潔白を証明するのにここまで混乱を引き起こしているのは,行政を取り仕切る能力がないものと考えるのが妥当です.

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2018年4月15日日曜日

初めてのオーダーメイド・スーツ(3)

初めてのオーダーメイド・スーツ(1)
と,
初めてのオーダーメイド・スーツ(2)
の続きです.なので(3)です.

先般,故あってスーツやシャツをオーダーメイドにしたことから本記事を書き始めたのですけど,今回書こうとしていたことと関連するかもしれないニュースを見つけました.
こういうのです↓
生き残りをかけた紳士服チェーンの戦略、軍配が上がるのは多角化か本業重視か?(投信1 2018.4.14)
今後、少子化などにともない、スーツ市場はさらに縮小することが予想されます。生き残りをかけて、各社ともに新たな取り組みを進めています。その一つが「非スーツ」の多角化です。
大手4社の中で、早くから多角化を進めてきたのがAOKIホールディングスです。連結子会社を通じて、結婚式場・披露宴会場の運営、カラオケ・複合カフェ・フィットネスクラブの運営などの事業を行っています。同社グループでは現在、ファッション以外の売上構成比が4割近くに達しています。近い将来にはそれを5割にするとしています。
(中略)
AOKI、青山、コナカが「非スーツ」の多角化を進める中、独自の戦略を展開しようとしているのが、業界4位のはるやまホールディングスです。多角化には走らず、オリジナル商品などの「本業」に力を入れています。
創業二代目の治山正史社長は「スーツで日本を健康にする」宣言をかかげ、健康をサポートする機能性商品の開発を積極的にすすめています。
過去記事でも書いていますが,私はこの15年ほど服装はほぼ全てAOKIで購入しています.
偶然ですけど,引っ越すたびに近所のアパレル店がAOKIだったというご縁だからです.
わざわざ都市部へ出かけて服を買いに行くのも手間だし,こだわりがあるわけでもないので,店員と相談しながら「最近の」,そして「無難な」スーツやカジュアルウェアを買っていました.

ちなみに,ここ数年はAOKIでもカジュアルウェアのコーナーで服を買うことはなくなりました.
カジュアルはジャケパンとスポーツウェアで済ましています.
どうしてこんなことになってきたのかと言うと,当然のことながら私の現在のライフスタイルとしてスーツとジャケパン,あとはスポーツウェアで事足りるからというのもあるのですけど,実は(近所の)AOKIの品揃えや売り方の影響も多少あるんです.

他の店も同様なのかは分かりませんが,5年前に私が越してきた近所のAOKIの店員の対応が雑なんですよ.
いえ,その店の全員というわけじゃないですし,けっこう店員の入れ替えも激しいから何とも言えないことは確かですが,これまでに通ってきたAOKIの対応とは別物でして.
まあ,かつて出会った例の「ハイスペック・ババア」が特殊過ぎたのかもしれません.
若手研究者用:スーツの上手な買い方・着方

今行ってるAOKIでは,とにかく「お客様,お似合いですよぉ〜」って言っとけばいいと思ってるフシがあります.
どっちがいいですかね? って聞いても,「どちらもお似合いですよぉ〜」って.
あのハイスペックババアなら,「そっちはダメよ.こっちにしなさい」って言ってくるだろうことは容易に想像できます.

当初は「これだから関東は・・」と思ってしまいましたが,人生いろいろ量販店もいろいろと諦めています.
だからなんですけど,もしかすると上記記事にあるように,ファッション分野以外のところに注力してきている影響が出てるのかなぁって思ったりしました.そこまで鮮やかに現れるわけではないでしょうけど.

もちろん,中にはきちんと対応してくれる店員さんもいるのですが,名札とか見てみると,どうやらAOKIには「認定スタイリスト」みたいな制度があるらしく,そういう人だとアドバイスもしっかり受けられるようです.
店に入ったら極力その人に対応してもらえるよう微妙にアピールしてました.あっちも私のことを覚えてくれたぞ,って思ってたら,最近店を異動になったっぽい.以前までレジに飾ってあった,認定スタイリストの証書みたいなのが無くなってたから.

で,そんな中での「初めてのオーダーメイド・スーツ」というわけですよ.
きっかけは卒論学生からのプレゼントですが,この機会に量販店とは違う体験をしてみようと.

そしてスーツを作って1ヶ月になりました.
卒業式を含めて何度か着る機会があったわけですが,実のところ,量販店で購入したスーツとの目立った違いはあまりないのが実情です.
今回作ったスーツが「やや英国調のクラシックなもの」だったので,生地もシルエットもこれまでの手持ちのものと違うのはたしかですが,それを言い出したら量販店でも似たようなものは手に入ります.AOKIにもパターンオーダーのスーツがありますから.
これから先,時間を経ていく中で違いが現れてくることも予想されますが,今のところはそんなに劇的な差は感じません.

ただ,同じ値段クラスなのにサイズピッタリ,デザイン自由のものが手に入るのは大きなメリットでしょうね.
これまでAOKIでは「体型に合うスーツ」を手当たり次第着てみて決めていたのが,「これがいい」というものを作れるわけですから.

逆に言えば,AOKIのように量販店でスーツを購入するメリットとしては,完成品を試着して購入できるので,「間違いない」ものが手に入る安心感があります.
詳しくアドバイスをもらえる店員に対応してもらえれば,細かいサイズ調整もしてくれますので.
その一方で,あまり詳しくない店員が相手だと,「余計なこと言って失敗したくない」という遠慮もあるでしょうから,オプションによる別料金を払わせずに既製品をそのまま売ろうとする力学が働くのは仕方がありません.その場合,こちらからいろいろと注文しなきゃいけないことになりますが.
そんなわけで,私としては,オーダーメイドのお店ではかなり詳しく店員からアドバイスや評価がもらえるので心強かったです.
オーダーメイド店の強みはここが大きいかもしれません.

ところで,この度オーダーメイド・スーツを作った際に一番感動したのが,実はスーツの方ではなくシャツだったんです.これについては前回記事で書きました.
初めてのオーダーメイド・スーツ(2)

シャツなんてジャケットの下に着るんだから適当なもので大丈夫と考えていたのですが,よくよく考えれば夏場はジャケットを羽織らないし,今回のオーダーシャツだと裾が醜く上がってこない事がすっかり気に入ってしまい,今後はサイズにこだわることにしました.
私の体型だと,既製品ではどうしても腹回りがブカブカヨレヨレになっちゃうんですね.
それに困っていたのですが,最近になって,なんとAOKIでもパターンオーダーによるシャツを作ってくれることを発見したんです.昨年から始まったそうですね.

ほらね,こういうことを紹介してくれないんですよ,ここのAOKIでは.こっちはずっと「もっと腹回りをすっきりまとめたいですねぇ」って言ってたんですから,「では,オーダーすることもできますよ」って紹介してくれれば,もっと早く注文できたのに.

そんなわけで,有名オーダーメイド店のオーダーシャツとAOKIのオーダーシャツにどんな違いがあるのか検証してやろう,と考えて注文してみました.
なお,まだ受け取っていませんので,今回は注文状況だけのご報告です,.

タブレット端末を使って入力していくんですけど,案の定,ここのAOKIの店員からは細かいアドバイスは受けられませんでした.ご自由にどうぞって感じなんです.
でも,今の私には既にオーダーシャツの着心地やサイズ感の知識があります.これを頼りに模索していきました.
見本を着ながら注文していくもので,基本となるS〜Lサイズのシャツから,腹回りをもっと細く,袖をもっと長くなどと,意外と各パーツを細かく微調整できます.よほどこだわりがない限り,これで十分な気もします.

サイズの違うシャツを着分けて,「どっちが適切ですか?」って店員さんに聞いても,「どっちでも大丈夫のようですよ」って答えてくるので,こりゃ当てにならないなと諦めて,例のオーダーシャツの着心地を思い出しながらサイズ変更していく感じ.
逆に言えば,見た目のサイズなんてのは,こだわりを持ってる人以外は気にならないものなんでしょうね.

今回は,ひとまず1着だけ注文.
あまり攻めたオーダーはしていないですが,とりあえず完成したものを着てみて,細かい調整は今後検討していくということで.
でも,そんなことするくらいなら最初からオーダーメイド店で作れよって話かもしれませんが.

そのうち,ついでにAOKIのオーダースーツも試してみようかなって思ってます.


2018年4月11日水曜日

国立新美術館の「ビュールレ・コレクション」に行ってきたよ

印象派好きとしては見逃せない.
そう思いまして,国立新美術館で催されている「ビュールレ・コレクション日本展示」に行ってきました.
これがそのチケット.


至上の印象派展 ビュールレ・コレクション(国立新美術館)
ビュールレ・コレクション(wikipedia)

感想としては,大変満足です.

「美術作品の良さがわからない」という人もいますよね.
こういう仕事をしているとそんなことを言う学生も時々いるのですが,その折に話すのが「美術作品をしっかり何度も見ること」と「本物をちゃんと見ること」を勧めています.
それで「つまらない」と思うのであれば,それはそれで美術に合わない人なのですから仕方ありません.

何度か野球を観戦してみて,しかも結構本気で選手や試合分析をしてみて,それでも「面白くない」と思う人は,野球というスポーツが合わなかっただけのこと.
無理して観戦しても幸せにはなりません.それと一緒です.
ちなみに,私は元野球選手ですが野球観戦は嫌いです.誘われて見に行くことはありますが,自分から進んで行くことはありません.プレーは好きなんですけどね.
美術にしても,見るのは嫌いだけど,描いたり彫ったりするのは楽しいという人だってたくさんいるでしょう.そんなものです.

「本物をちゃんと見る」ということについてですが,今は美術作品をネットで見れるようになったとは言え,やっぱり実物を肉眼で見るのとは大きく違います.
文書の推敲にしても,PCモニタで確認するのと,紙に印刷されたものを確認するのとでは,誤字脱字の発見とか文章スタイルの直しが違ってきますよね.あれと類似しています.
作者は,その作品が完成した時のサイズや見られ方などを全て考慮して仕上げています.PCモニタではそれが再現できません.
だから実物を見なければ,美術作品を楽しむことはできないんです.
私が一番好きな作品に,ゴッホの「花咲くアーモンドの木の枝」という絵があるんですけど,これがまた写真とかウェブ画面ではクソみたいな絵に見えるんですね.
なお,「花咲くアーモンド」ってのは,この絵です↓
フィンセント・ファン・ゴッホ「花咲くアーモンドの木の枝」(wikipediaより)
ご覧の通りのつまらない絵ですが,実物を見ると感動します.そりゃもう目が釘付けになりますよ.ゴッホ美術館の数ある作品の中でも,「マジこれやべぇ!」ってビビったものの一つです.
お金があるなら数十億出しても手に入れたい.そんな人の気持ちも分かります.

そういう意味では,高度な贋作であれば,本物と同じ感動が得られるとも言えます.
私としては,高度な贋作は「偽物」と言えども美術作品としての価値は高いと考えています.こういうのは贋作というかレプリカというのでしょうけど.

「花咲くアーモンド」に感動した私は,その土産物売り場で実物大写真を見つけたのですが,やっぱりクソみたいな絵に見えるのでとても買う気にはなれず.印刷・コピーは実物の絵とは違います.
本物と同じ感動をくれる「花咲くアーモンド」の忠実なレプリカがあれば,ぜひとも手に入れたいですね.100万までなら出す.

話をビュールレ・コレクションに戻します.
今回は平日に行ったのですけど,それでもたくさんの人が集っていました.休日はもっと凄いんでしょうね.平日で正解です.
そうじゃなきゃ作品の前でまともに時間が過ごせないでしょう.流れ作業のような鑑賞になってしまうのは容易に想像できます.

このイベントのポスターや上掲したチケットに載っている目玉展示が,ルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」なんですけど,目玉に設定されてることもあって,その作品の前は特にごった返しちゃって落ち着いて見れたもんじゃない.
空いてるタイミングを見計らって見るに限ります.
なお,実際に見た感想ですが,やっぱりあの髪の毛のルノワールらしい表現はハンパないですね.これも写真やモニターでは全然分からないところ.実物の鑑賞を強くオススメします.

出口の前には,これまた目玉展示であるモネの「睡蓮」.日本初公開なんですって.
ここが「写真撮影OK」になってるもんだから,皆さん携帯・スマホを取り出してこれでもかと写真撮りまくってます.
モネの絵を前に,家族揃って記念撮影している人がいます.「すみません.撮らせてください」と周りにペコペコ頭を下げてパシャリ.なかなか微笑ましいではありませんか.
それはまだいい.バカじゃないかと思うのは,「睡蓮」だけを必死になって撮ろうとしている他の大多数です.
巨大な絵の全景を正面から収めようと,鑑賞している私の耳元とか頭頂部とかでスマホを位置取りパシャリ(ピロロ〜ンとかも).さらには腰の前までかがみ込んできて撮影を頑張る人もいます.いい加減にしろ.落ち着いて見れないじゃないか.
上述してきたように,写真ではその絵の良さが全くわからないんです.だから無駄.
そもそも,「睡蓮」だけを写真で見るならウェブでダウンロードしてこれるじゃないですか.
ほら,こんな感じで↓
クロード・モネ「睡蓮」(国立新美術館:http://www.buehrle2018.jp/works)
自分で撮影するより,よっぽどキレイで高画質に手に入れられます.
ですから,どうせ撮るなら「家族写真」として撮影する方がなんぼか価値がありますよ.

ちなみに,この展示会で私が最も気に入ったのはピサロの「ルーヴシエンヌの雪道」です.
カミーユ・ピサロ「ルーヴシエンヌの雪道」(国立新美術館:http://www.buehrle2018.jp/works)
私は人物画よりも風景画や静物画が好きでして,ゴッホの「花咲くアーモンド」もそうですけど,こういう単調な中での微妙な色使いから生まれる鮮やかさに魅力を感じます.
あと,気に入る基準は「部屋に飾りたいか?」という点ですかね.

ゴールデンウィークになると大混雑になる恐れがありますので,空いている時に行くことをオススメします.

2018年4月2日月曜日

体育学的映画論「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」

スティーヴン・スピルバーグ 監督『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』を見てきました.
モリカケ問題に揺れる日本の政界との類似性とは関係なく,この映画は以前からちょっと関心があったので,公開して間もないこの時期から映画館へ.
モリカケ問題とベトナム戦争を同列には見れないですし.

社会派ドラマで,しかも平日の真昼間というのに結構お客さんが入っていたのが意外.
率直に言って,エンターテイメント性が低くて映画としての盛り上がりには欠けます.
ウィキペディアの記事を読んでみても,スピルバーグ監督は本作を手の込んだ作りにはしていないような節があります.
「スピルバーグの作品で「最も短期間で完成」した作品となり、「この映画は私たちにとっての『ツイート』のようなものです」とも発言をしている。」
ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書(wikipdeia)

実際,メリル・ストリープとトム・ハンクスの演技を楽しむ映画です.
特にメリル・ストリープは,「敏腕でもない元専業主婦が,大手新聞社の経営を頑張っている」という中年女性の姿を,わざとらしいんだけど,何故か自然に見えるという離れ業で演じています.
トム・ハンクスも老練な新聞記者を,これまたわざとらしく,且つ,自然に演じている.
これを見るための2時間と言っていい.

ただ,先述したように,エンターテイメント性は低い映画ですから,何人かのお客さんはイビキをかいて寝てました.
はっきり言って退屈な映画です.
さらに言えば,ベトナム戦争を対岸の火事のように感じる日本人としては,件のニューヨークタイムスによる機密文書スクープへの思い入れは皆無でしょう.
たぶん,「シン・ゴジラ」が国内ではヒットしたのに,海外では反応が低かったことと似ています.

けど,描かれている問題意識は日本にこそ重要な視点を提供しています.
本作でメリル・ストリープ演じるワシントン・ポスト社の経営者キャサリン・グラハムにつきつけられる重大な選択は,「報道の自由か,安定した経営か」ということになっています.
でも,私がもう一つ考えさせられたのは,彼女につきつけられているのは「ジャーナリズムに人間関係を入れない」ことではないかと思うのです.

作中にも描かれているように,かつてのアメリカの政治新聞記者は,政治家や有力者と食事会などを通じて友人関係を築き,彼らから新聞記事のネタを提供してもらうというものだったようです.
政治ニュースは大事件がしょっちゅうあるわけでもないですから,安定して政治ネタを得るためには,記者は政治家と仲良くして小ネタ・裏話をコンスタントに書くことの方が生活のためには有効です.

ところが,本事件をきっかけとして,そうした政治家と記者の関係が再考されはじめます.
キャサリンも,ペンタゴン・ペーパーズの当事者であるロバート・マクナマラ国防長官と友人関係にあり,文書の新聞掲載に悩み,振り回される姿が描かれています.
政治家と懇意にしておけば,政治記者として安定する.ただし,そのためには国家運営上の重大事を,政治家との関係を絶たないためにも揉み消す場面も出てくるだろう.
報道がそれでいいのか? なんのための政治ニュースなのか? という点が突きつけられているわけです.

劇中のクライマックスで,以下のようなセリフが出てきます.
「報道は国民のためのものであって,統治者のためではない」

そう言えば,いまだに政治家と新聞記者の食事会を重要視している国があります.
日本です.
もっと言えば,どちらかって言うと政治家のほうが積極的です.
安倍首相のマスコミ記者との会食についての情報公開請求とその驚くべき結果(BLOGOS 2015.9.6)
政治家とメディア記者の「近すぎる関係」、接待の手法とは(ライブドアニュース 2014.11.5)

「懐柔されるメディア・記者が悪い」という批判はその通りで,これは完全に記者の側に矜持が無いことが問題です.
だからこそ,「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」は日本の大手メディアにとっては見たくない映画だと思います.
「もう政界有力者と食事をしながら記事を書く時代は終わった」という趣旨のセリフが映画でも出てきますが,まだそんな時代にいるのが日本です.

大手メディアが馴れ合っていたとしても,個人・市民ジャーナリストがスクープすればいいのでは? と考えられますが,やっぱり情報発信力と波及力,取材のマンパワーと平常時の生活力に差があります.
それはちょうど,「今の日本の大学は研究できる環境にないというのであれば,個人で研究すればいいじゃないか」と言うのと一緒.

あの時のニューヨークタイムスとワシントン・ポストという大手メディアによる決断は,アメリカのジャーナリズムの姿勢を決定づけました.
別にアメリカに限らず,民主主義国では政治家とジャーナリストが食事会をしながら馴れ合うことはご法度とされているそうです.
政治家とメディアの会合 米は「コーヒー1杯」超えると癒着(News ポストセブン2015.6.4)
懐柔策か 取材機会か 首相とメディアの会食にはどんな問題があるのか?(THE PAGE 2015.3.17)

当たり前ですが,政治家としては自分や党のことをメディアに良く書いてほしい欲望があります.
でも,それをメディアに頼むのは卑劣な手法ですし,それを取引材料にコンスタントな記事を求めるジャーナリストはそれに輪をかけて卑劣です.
そもそも,政治家としてもメディア連中とつるむのは「李下に冠を正さず」に反することでしょう,これだけでも政治家として失格です.
関連することで,詳しくは前回記事に書きました.

ジャーナリストは,常に統治者の批判を続けなければいけません.
馴れ合って生活の糧にしていては,その存在意義がないのです.

なかには「良いことをしたら,その政治家を褒めることも大事」だとか言って,特定与党を持ち上げるメディアもあるようですが,これは論外です.
良いことをしようがしまいが,政治家を褒めるなんてトチ狂った考え.ジャーナリズムの死です.

ウォルター・リップマンというジャーナリストであり政治評論家が,ジャーナリズムの役割を「人々が正しい判断をするための材料の提供」と言っています.
そのためには,あらゆる視点から批判を続ける必要があります.
同質のものとして科学論文にも同じことが言えますが,人間が正しい判断をするためには,「褒める」必要などありません.褒めるかどうかは,その課題に向き合った個々人がすればいいことです.
ジャーナリズムもサイエンスも,「批判」にその存在意義があります.

最後に話を映画に戻すと,ラストシーンが粋な演出になっていて,さすがスピルバーグ監督だなぁって思わされました.