2018年8月8日水曜日

体育学的映画論「夢」

前回は現在上映中の『カメラを止めるな!』の感想を少しだけ述べましたが,詳しく論評するのはネタバレを含むことになるので,もっと後になってからとします.
ひとまず,「カメラを止めるな!」は,私は好きな映画です.三谷幸喜の「大空港2013」とか,「ラヂオの時間」みたいな作品は嫌いではありません.
漂う空気も,実写版パトレイバーである「THE NEXT GENERATION パトレイバー」と類似性があったりするので,こっちも好き.
いずれも追って論評したいと思います.

で,全然作風が違う映画ですが,さっき,黒澤明『夢』を見たんです.
私は今,猛烈に感動しています.
(wikipedia)

ネットのレビューでは,結構賛否両論なんですね.
たしかに,そんな感じの映画ではある.
つまらないっちゃ,つまらないもん.

映画って,ある程度のクオリティを超えてくると,あとは好みの問題になってくるように思います.
万人受けする作品,映画通に受ける作品,熱狂的ファンに受ける作品などなど.そこからさらに細分化した後は,個人的嗜好になっていくものです.

今,物凄い人気を博している「カメラを止めるな!」にしたって,たぶん映画通にしてみれば「過去にもこういう作品はあった」とか言うんだろうけど,その時代との融和っていう要素もあると思うんです.いろいろ書きたいことはありますが,これについては,また別の機会に.

さて,「夢」ですが,これはその時代の空気との融和とは無関係な作品です.
黒澤明の映画は概ねそういう作品が多いとは思いますけど,これは特にそう.

黒澤明本人が見たとされる夢を映画化したものとされていますが,その映像は鳥肌が立つほど綺麗で,まさに「夢の中の出来事を映像化したらこうなりました」というもの.
8つのエピソードから成るオムニバス形式の映画です.

特に少年時代のエピソードとして出てくる映像は,「小さい子供にとっての自然や伝統慣習の見え方」が見事に現れています.
たしかに,私も子供の頃にはこういう夢を見ていた覚えがあります.
例えば「日照り雨」のラストシーンである「花畑と山にかかる虹」の映像は,田舎育ちの私にとっては背筋が凍るような既視感.それは懐かしさと怖ろしさが同時に込み上げてくる複雑な感情.
雨上がりの土と花と緑の匂いも同時に想起され,思わず唸ってしまった.

次のエピソード「桃畑」も映像が凄くきれい.
桃の段々畑を雛壇に見立てて演舞するシーンは圧巻の一言.
望遠レンズの圧縮効果を使って,段々畑をシームレスな「1枚」の舞台として撮影したものですが,こういう見せ方もまさに「夢」のような映像です.
ちなみに,私にとっても段々畑は幼少期の琴線に触れるものなので,これにも猛烈に感動しました.
難しいこと考えなくても,色使いがヤバいのでそれを堪能するだけで十分です.

あと,印象に残ったエピソードは「鴉」と「トンネル」.
「鴉」はゴッホの絵の中に迷い込んだ夢です.
この夢の中ではゴッホとも出会うのですが,そこでゴッホは名言を口にします.
「絵になる風景を探すな.よく見るとどんな自然でも美しい.僕はその中で自分を意識しなくなる.すると自然は夢のように絵になってゆく.いや,僕は自然をむさぼり食べ,待っている.すると,絵は出来上がって現れてくる.それを捉えておくのが難しい」
黒澤監督も,この言葉にシンパシーを感じていたのでしょうか.
というか,このエピソードの映像自体がそれを体現しています.
実際,このエピソードはゴッホの絵の中が舞台となっているんですけど,特に最初の「アルルの跳ね橋」のシーンに驚きました.
ゴッホの絵のタッチと色使いを,現実世界に再現するという離れ業をやってるんです.
文章じゃ伝わらないので実際に映画を見てもらうしかないんですけど,黒澤明は絵になる風景を探さない代わりに,「絵を風景にした」んですね.
CGも使わず,さすが黒澤明,ここまでやるんだ.

「トンネル」のエピソードは,戦争で失った部下たちの亡霊と対峙するもの.
第二次大戦で徴兵されていない黒澤明が「戦地での部下の夢をみる」というのも変な話ですが,このエピソードは「出兵しなかった自分への負い目」と捉える向きがあるようです.
亡霊たちに「いつまでも彷徨っていないで,静かに眠ってくれ」と訴え,暗闇(トンネル)に向かって「前進」の号令をかけたのは,「戦争に出兵しなかった」ことがどれだけ黒澤自身にとって深い傷になっているかを告白したものと考えられます.
あと,このエピソードで登場する「吠えかかってくる犬」の解釈ですが,ネットでもいろいろな意見が飛び交っているようです.
私が直感したのは,これは当時の(もしかするとずっと最後まで)黒澤が「『戦争の犠牲』というコンプレックスを振り払ったものの,まだ私(黒澤)が知らないだけで,忘れられている『戦争の犠牲』があるのではないか」という不安感を象徴していると受け取りました.

この「吠えかかってくる犬」は,軍用犬です.
そして,犬の体に巻き付けられている物は手榴弾であることが分かります.
つまり,この犬は爆弾を抱いて相手に飛び込み,自爆攻撃をさせられていた犬なんですよ.
黒澤としては,先の大戦で犠牲となった者は,個人的に名前を知っているものを含めて「共に出兵したかもしれない『軍人』」のことには頭が回ります.しかし,共に従軍したかもしれない「その他」への想像がは働かない.
例えばそれは何かとなった時,映像化できるものとして「自爆攻撃犬」を登場させたのかもしれません.
もっと言えば,寺尾聰演じる黒澤は,亡霊たちに「君たちは犬死だった!」と嘆くのですが,この「犬死」と,吠えかかってくる「犬」とが関連していると考えてしまうのは私だけでしょうか.

他にも,原発やテクノロジー過多に警鐘を鳴らすエピソードが入っていますが,どれも映像がすこぶる良くて飽きません.
これを面白い映画と捉える人は少ないかもしれませんが,私にとっては定期的に見ておきたい映画の一つに加わりました.


2018年8月7日火曜日

学校教育対談(5回目)

和田慎市先生との学校教育対談の季節になりました.
昨日,都内某所で開催.
これで5年目となります.

過去の対談はこちら↓
学校教育対談(2回目)
学校教育対談(3回目)
学校教育対談(4回目)

和田先生は,学校教育現場について現場目線での情報発信をしている方です.
著書はこちら↓
  

ホームページも作成されていますので,こちらも御覧ください.
先生が元気になる部屋(和田慎市ホームページ)

あと,先日はiRONNAにも記事を掲載されていました.
「ズボン脱がされてもイジメじゃない」それってどうなの?(iRONNA 2018.5.3)


この対談も5回目ですが,当初は和田先生との2人だけだったのが,次第に参加者も増えていきまして,さて今回はと言うと,なんと私のゼミ生までもが参加しました.
今年の教員採用試験を受けている学生で,一次試験を突破して次は二次という状況.
その学生も他大学の教採仲間を一人連れて来てくれたので,かなり広範囲の会となったわけです.

彼らとしては,教員採用試験の参考(特に面接など)になればという考えもあったのですが,教員の仕事を現場目線で,且つ,俯瞰的に捉えておきたいというのが参加を決めた動機.
楽しいことばかりではない職場だと分かってはいるものの,それをより詳しく聞いておきたいと考えたようです.
そんな彼らにとって,和田先生との対談はとても有意義な時間になったようです.

教員の仕事の大変さを知りたいということで,いろいろなトラブルや職場での「あるある」の話もしたのですが,そうはいってもこの仕事の魅力とは,そうしたネガティブな部分を含めたものと言えます.

「私はこの仕事を通して何をしたいのか?」
ということがしっかり見つめることが大事です.
それは他の仕事においても同じでしょうけど.

その時に和田先生もおっしゃっていましたが,トラブルを起こしたり反抗的な生徒は嫌いじゃない,ということ.私もこれには同感です.大学生にも同じことが言えます.
別にトラブルを起こしたり反抗的な態度をとる生徒こそが「良い生徒」だと言っているわけではありません.そのあたりを勘違いされることが多いので注意が必要です.

小説や映画,アニメなどでも「反抗的だけど,実は物事の本質的な部分を見ている人だった」とか,「トラブルメーカーだけど,実はそこに巣食う大問題を感じ取っている人だった」といったキャラクターは,古今東西,枚挙にいとまがありませんよね.典型例としては,黒澤明監督作品の『乱』における三男・三郎直虎がそれですし,最近のものでは庵野秀明作品の『シン・ゴジラ』における巨災対メンバーがそれです.

これは人間界における「あるある」なのですが,いかんせん現実の当事者にとってはただのトラブルメーカーであり,反抗的で嫌な奴として扱われます.
映画やドラマの世界では理解できても,実際に自分の身に降り掛かってくるとそうはいかないという人は多いものですよね.っていうか,そういう人が圧倒的多数だと思います.

こういう「トラブルメーカー」な人種は,学校現場においては「不良」「ヤンキー」「ませたガキ」というレッテルを貼られることになりますが,彼らを排除したり強制的に統率することでは,本質的な問題を改善したことにはなりません.

ではどうすればいいのか?
それは,葛藤することです.
葛藤していく中に人間としての成長があり,学校教育としての価値がある.
典型的な授業を受けて,典型的なクラブ活動をし,典型的な友人関係を築くことが最良の学校生活ではないのです.
それは大学においても同様で,分かりきっている知識や手順を学ぶことは大学教育ではありません.学友と,教員と,そして学界や自分自身と問答し,葛藤することに価値があるんです.
そして教員の役割とは,生徒や学生の「葛藤」をタイミングよく,適度に,そして安全に後押ししてやることに他なりません.

もちろんそれは難しい仕事です.
失敗すれば生徒や学生に大きな傷を負わせるかもしれません.落胆させたり,無気力になってしまうかもしれない.
しかし,それでも「葛藤させない」よりはマシです.
世の中は驚きに満ち溢れている.自分に都合よく出来てはいない.
そもそも,自分にとって「都合がいい」と今そこで考えていることは,本当に自分にとって都合がいいことなのか?
そうしたことを考える機会が,学校であり,大学です.


ところで,今回の和田先生を囲む会に行くまでの道すがら,時間があったので近くの映画館に寄り道してきました.
今,物凄い人気でニュースにもなっている,上田慎一郎 監督『カメラを止めるな!』を見てきましたよ.
あまりに「面白い!」との前評判のため,期待値とハードルが上がりまくっている作品ですが,その高いハードルをしっかり跳び越える面白い映画でした.

内容に少しでも触れただけでネタバレになってしまうので,現時点でこの作品の詳細は述べられませんが,「こういうのが人間として生きてて楽しいところだよね」ってことが詰まった良作です.
この作品では「映画」が舞台になっていますが,「学校」とか「教育」においても同じだなぁって思わされました.きっとどの職場にも通じると思う.

なお,本作は「ホラー映画」「ゾンビ映画」としてカテゴライズされていることが多いですが,これはコメディ映画です.ホラー映画が苦手だと思っている人はご安心ください.
三谷幸喜の『ラヂオの時間』に似ていますし,きっと元ネタはそれなんでしょうが,私としては「ラヂオの時間」よりも「カメラを止めるな!」の方が好きかな.泥臭さが魅力的です.
細かい事抜きにしても,『カメラを止めるな!』は見て損はありません.

2018年7月30日月曜日

井戸端スポーツ会議 part 55「学徒動員」

スポーツの記事なのに「学徒動員」とはどういうことか?
2020年オリンピック東京大会のことなんです.

先日,学生の頃から仲が良かったとは言え,中年にもなった我々大学教員が,故あって合宿所で一泊することになり.
そこで研究とか教育の話をお酒を交えて(面白おかしく)議論する機会がありました.

その話題の中に「オリンピック東京大会における,学生ボランティアをどうするか」というのがあったんです.
ぶっちゃけ,結構困っています.

以前から「学生ボランティアを出せ」とか「海外チームの合宿地・練習地を用意しろ」といった類の要望はあったんですけど,このたび文部科学省・スポーツ庁より大学に以下のような要求が入りました.
東京五輪・パラ「授業避けて」国通知、ボランティア促す(毎日新聞 2018.7.27)
スポーツ庁と文部科学省は26日、2020年東京五輪・パラリンピックの期間中にボランティアに参加しやすいように全国の大学と高等専門学校に授業や試験期間を繰り上げるなど柔軟な対応を求める通知を出した。
多くの大学は7~8月が試験期間となる。通知では学生がボランティアをすることへの意義を説き、大会期間中は授業や試験を避けることを促した。授業開始時期の繰り上げや祝日の授業実施は学則などに基づき、学校の判断で特例措置を講じることができる。
当初の想定以上に学生ボランティアが集まっていないから,とのことです.
当たり前です.
文部科学省はこれまでに「大学は授業をシラバス通りしっかりやれ」「学生は授業に出席することが義務」「大学は学生が授業に出席しているかどうか管理しろ」といった圧力をかけてきました.
大学の授業なんてのは数回休むのは当たり前だと思っている30代以上の人たちには想像できないでしょうが,今の大学でその感覚は通用しません.

結果,現在の大学生は授業にちゃんと出席するようになり,授業に出席することが目的となっています.
その帰結として,大学も学生も,「授業出席」に支障をきたすようなシステムや行為を極力排除するようにりました.「部活の試合があるので休みます」とか「ゼミの活動で休みます」なんて理由は,授業を欠席できる理由になりません.これはボランティア活動も同じ.普通に「欠席」です.
一応,各大学独自の規定によって授業担当教員宛に「欠席理由書」「欠席への配慮のお願い」といったものがありますが,用意されない大学もあります.
原則は「欠席扱い」です.
私の授業でも,例えそういった書類を受け取ったとしても,いちいち理由を判断したり考慮するのが面倒なので,一律「欠席」にしています.こっちの理由は良いけど,こっちの理由はダメ,などと判断するのは公平性が保てないからです.欠席した分のマイナスは,出席態度と試験結果で取り戻せということにしています.

そんな中で,オリンピックごときのためにボランティア活動しようなんて思うわけがないでしょう.
それもこれも,元はと言えば文部科学省が仕向けたこと.
そのくせ,今になってオリンピックがあるからって「授業をしなくてもいい」とか「ボランティアを出せ」って,どうなのよ.
なので,これって「学徒動員ではないのか?」という話も出てきているわけです.

そもそも,なんで学生ボランティアを要求してくるのか?
スポーツ庁からの通達にはこうあります.
平成28年4月21日付け28ス庁59号で通知したとおり、学生が、オリンピック・パラリンピック競技大会等に参加することは、競技力の向上のみならず、責任感などの高い倫理性とともに、忍耐力、決断力、適応力、行動力、協調性などの涵養の観点からも意義があるものと考えられます。さらに、学生が、大学等での学修成果等を生かしたボランティア活動を行うことは、将来の社会の担い手となる学生の社会への円滑な移行促進の観点から意義があるものと考えられます。(30ス庁第236号より抜粋)
たったそれだけの理由です.
それだけの理由で,ボランティア活動できるように大学のスケジュールを変更しろと?
授業スケジュールや教務システムって,そんなにホイホイと簡単に変更できるものではないのです.

参加したい学生,参加できる学生だけボランティアすればいいのではないか.
いくらなんでも虫が良すぎます.
他の大学教員とも話していたのですが,「これも外国人留学生で対応できるよう規制緩和すればいいのではないか」と吐き捨てる人もいました.

繰り返しになりますが,オリパラでどうしてこんなにも学生ボランティアを要求してくるのでしょうか.
それは教育的価値があるからではありません.
大学の斡旋を通じて参加してくる学生ボランティアなら,ドタキャンが少ないからです.
上記の文言にしたって,これはあくまで建前です.本気にしてはいけません.

私も「神戸マラソン」を始めとして,関西地域のスポーツイベントのボランティア斡旋を担当していたことがあります.
そんな記事も書いたことがありました.

つまりこういうこと.
学生ボランティアと言っても2種類あるんです.
完全に自分の意思で参加するボランティアと,大学教員や部活指導者等の斡旋によって参加を促されたボランティアです.

前者には参加のモチベーションが高い人が多いのですが,反面,冷やかしに参加している人もいてドタキャンが怖い.しかもこのタイプは登録人数が少ないので,運営側としてはギャンブルな要素があるんです.

一方,後者は総じて参加モチベーションは高くないものの,斡旋した教員や部活指導者との人間関係を介して参加しているため,運営側の指示にも従順でドタキャンも少なく,必要人数が大量に確保できる上に,不必要とあらば簡単に切ることができます.端的に言えば,人数が読めて使い勝手がいいわけですよ.
全部が全部とは言いませんけど,大学でスポーツボランティアの斡旋業務をやっていた私としては,それが率直な意見です.

なにより悲しいのは,私も含め学生ボランティアを斡旋している人たちが,不本意ながらボランティア募集の時に使っていた「学生がスポーツボランティアに参加する意義」なる理由を,文部科学省・スポーツ庁が堂々と大学に向けて発していること.

責任感,倫理性,忍耐力,決断力,適応力,行動力,協調性の涵養.
授業で学んだことを生かす.
将来,社会に出た時に役立つ.

嘘じゃないけど,そんなに胸を張って言うことではありません.
っていうか,やっぱりこんなの嘘だし.ボランティアごときでそれらが身につくのなら,教育機関は指導に苦労していません.
これならまだ,「ボランティアスタッフの人数が確保できないから,オリンピックを無事に開催するためにも,大学と学生には人員確保の役割を担ってほしい」とお願いされた方が筋が通ります.

私もボランティアを広域に募集する際には「責任感がぁ〜」とか「キャンパス外での学びがぁ〜」とか「社会に出たときにぃ〜」などと歯の浮くような文言を使いますが,いざ集まった学生たちにこんな言葉はかけません.
必要とされているからやる.やりたいからやる.
ボランティアをすることによって自分自身が何かを得るのは結果であって,それを参加の理由にしてはならないのです.

ましてや大学の授業スケジュールを変更してまで取り組ませようとすること.
文部科学省とスポーツ庁は,まずは,そうまでしてオリンピックを開催しなければならない意義や魅力を,大学に示すことが礼儀ってものではないでしょうか.


2018年7月22日日曜日

やっぱり多くの国民に等しく大学教育が受けられる機会を与えることは重要だと思う

前回の記事では,昨今話題の女子大とトランスジェンダーの問題を取り上げましたが,もう一つ最近の話題である「大学教育無償化」について,それを推進する方向での意見を提示しておきます.

このブログでは,7年くらい前から「大学教育はチャラいことせずに硬派にいこう」と主張する一方で,「難関大学,高偏差値大学以外は役に立たないから潰せ」というのも間違いだと繰り返してきました.
で,そのこころは「大学教育をあまねく国民に享受させよう」というものです.

「無謀だ」「そんな予算がどこにある」「低偏差値の子供を大学に行かせてもお金の無駄」といったご意見もあるかと思いますが,これは次代を担う子供をどのように育てるのか? という日本人としての心意気の問題だと考えられます.
私としては,現状,国防費や福祉予算は据え置いても教育にかけた方が,皆さんが気にする「コスパ」は良いと思っています.

何年か前に,ある学会で研究のポスター発表をした際に,その場で安藤寿康先生という方とディスカッションする機会がありました.
我々の研究に興味を持ってもらえたようで,いろいろ興味深い質問をいただいたのですが,私はその時は安藤先生のことを,質問をしてきた研究者の一人として捉えていたのですけど,あとでこの学会に講演者として招かれた先生であることを知りまして.
その講演内容が非常に面白かったことと,私が常々考えていた体育・スポーツ論や教育論とも親和するものだったので,その後,著書も読ませていただきました.
例えば以下のようなものです.
 

一言で言えば,
「人間のパフォーマンスは,育った環境条件が同じであれば『遺伝』の影響が大きい」
というもの.
さらに言えば,
「教え上手な教師に習おうと,教え下手な教師に習おうと,その子供にとっての中長期的な教育効果に差は無くなる」
ということも,様々な研究データを根拠として主張されています.

これについては,御本人も講演や著書でも「安易に受け取られて誤解されることが多い」と困っているようですが,決して「遺伝で全てが決まる」わけでもないし,「教育を受ける意味がない」というわけでもないことが重要です.
つまり,教育においては「学校で教師から指導を受ける」という環境条件が同じであれば,あとはそこで子供がどのように育つのかは遺伝によるところが大きいということ.
逆に言えば,学校教育を受けた者と受けなかった者とであれば,そこには差が現れるわけです.

安藤先生の著書から引用すれば,例えば一卵性双生児の研究では,一方は優良大学を卒業,もう一方はFラン大学を卒業したとしても,一定期間が経って両者の社会的地位(所得・収入など)を比べると,そこに差はなくなっている場合が多いんだそうです.
たまたま通っていた高校レベルや入試対策の違いによって,入学・卒業した大学レベルが異なったとしても,そこから先の「社会人としての振る舞いやスキル」は遺伝によるところが大きいからです.だいたい7〜9割くらいが遺伝の影響だそうですよ.
ただし,ここで問題なのは「だから学校・大学教育なんて不要だ」というわけでないこと.
両者は,学校や大学の教育を受けるという「環境条件」が同一だからこのような結果になるんです.ここがこの現象を理解する上でのポイントになります.

別の観点からこの現象を見てみます.これは以前,私の後輩である東京都の高校教師から聞いた実話です.
あるクラスの担任を受け持っているその教師は,指導スキルに問題があることが校内でも危惧されていたそうです.社会人としても問題があるとされ,例えば会議でも不適切な言動をすることで有名.
実際,クラス運営もヤバいので生徒たちからも不安視されていました.
「生徒の名前を覚えていない」なんて当たり前で,「ホームルームや授業中に『先生』が寝る」,「学園祭の用意を生徒に丸投げ」,「進路指導を一切しない」等々,メチャクチャな先生だったそうです.
しかし,このクラスの生徒はなぜか「教育困難校」とされる当該高校の中でも不思議とトラブルや問題を起こさない.しかも,クラスの平均学力は学年トップ.
一生懸命親身になって生徒指導しても,トラブルが絶えず,勉強しないクラスがたくさんあるのに,どうしてコイツのクラスは安定しているんだ?
そんなわけで学校が調査してみると,どうやらこのクラスの生徒たちは「この担任に自分たちのことを任せると冗談抜きでヤバいことになる」ということで,自発的に勉強するようになり,生活態度も節制し,進路も自分で決めるようにしていることが分かりました.
絵に描いたような反面教師ですね.

もちろん,この教師は「現代日本社会」においては極めて問題のある教師です.
受け持った生徒やクラスが,たまたま重大事件を起こさなかったから,マスコミや保護者に糾弾されずに済んでいるとも言えます.
教師失格の烙印を押されても仕方無いでしょう.
しかし,ではこの教師が「生徒に悪影響を及ぼしているのか?」「悪い人間を育てているのか?」と問われれば,これは判断や評価は難しいことが分かってくれるかと思います.
と同時にこの事例が教えてくれるのは,人間とは,与えられた環境下で課題に取り組む中にあって,その最適解をひねり出すということ.そして,それこそが教育の本質なのではないか.

この問題教師は,たしかに一般的に認識されている「良い教育」はしていないかもしれません.
やっていることも極めて非常識.このクラスは当初,大混乱だったことは想像に難くありません.
ですが,彼なりに「高校教育(中等教育)」を生徒にしっかり授けているわけだし,それによる効果もタイムラグを置いて現れている言えます.

教育の語源である「エデュケーション(Education)」には,その人が持っている能力を「導き出す」という意味があります.
能力は植え付けるものではなく,引き出すもの.
まさにその通りだということです.

では,話を大学教育無償化につなげましょう.
現在,日本で取り沙汰されている大学教育無償化構想は,「無償化する代わりに,政府の要望を聞き入れさせる」こととの抱き合わせで進んでいます.
具体的には,「卒業に必要な単位の1割以上を企業の実務経験のある教員が担当する授業とすること」とか,「外部理事を複数任命すること」といったこと.
だからとても危険です.
大学無償化、支援対象に私立大学などから異論(大学ジャーナル 2018.5.28)
「大学を支援する政策なんだから,政府の要望を聞くのは交換条件として当たり前じゃないか」と思う人は結構多いと思いますが,それがダメな理由は過去記事でいっぱい書いていますし,ある意味このブログ全体の一貫したテーマなのでここでは割愛します.

大切なのは,大学で行われている高等教育を多くの国民が受けられる機会を,純粋に増やすことです.
何かにつけて今の政府は,大学を「就職予備校」とか「職能養成学校」にしたがりますが,重要なのは高等教育の普及です.
高等教育は役に立たないからと,社会や世間の要望を取り入れることではありません.大学は学術研究を追い求めて,そのエッセンスを学生に振り掛けていればいいのです.
それによって学生がどのように育つか,それは本人の資質(遺伝)にかけるしかありませんが,まっとうな高等教育を受ける機会が与えられることは,国や社会全体のことを考えれば決してマイナスにはならないことを意味します.

では「高等教育」とは何か?
それは「モノの考え方」を身につける機会です.
これは,昨今流行している「考える力」とは微妙に違います.
以下,昔の記事で書いたものをそのままコピペしたものですが,大事なので繰り返しておきます.

大学において学生が学んでいるのは,それぞれの教員が授業で扱うモノに対する「考え方」です.
例えば「経済学」であれば,その教員が「経済」や「経済学」というものをどのように捉えているのか,その「考え方」を学ぶのです.決して「正しい経済学」なんてものではないし,もともとそんなものは存在しない.

ときどき,「大学で学んだことは実社会では役に立たない」とか「5年もすれば価値は下がる」などと言われることもありますが,これこそ大学の授業を「何かに役立てるための “パッケージ” を手に入れる場」だと勘違いしている典型です.
大学は職能養成学校になってはいけないし,そもそも大学では職能養成できない理由がそこにあります.

大学教員が学生に受け取ってもらいたい事とは,この世界を見つめる上での羅針盤となる「モノの考え方」なのです.
具体的な例で言えば,学生が将来一人で,もしくは誰かと或る “それ” について議論しなければいけない際に,より正しい結論や答えを紡ぎだすための体力をつける時間が大学の授業と言えるでしょう.
それはどのような科目であれ関係ありませんし,何年経っても価値は下がるものではないのです.

誤解を恐れずに言えば大学の授業に「答え」はなく,「考え方」が問われているのであって,それゆえ「教師」ではなく「(答えを探し求めている者)研究者」が授業を行っています.

ところで,学校教育や高等教育をあまねく国民に享受させることは,決してバラ色の未来を約束するわけではありません.
冒頭にご紹介した安藤先生も解説していますが,教育が平等に普及すればするほど,『遺伝』による差が明瞭になっていくのです.
すなわち,どうしようもない格差,越えられない壁が明らかになってくることを意味します.

しかし,それがどうしたというのでしょう.
もともと,人間の才能には差があること,その能力の上限に差があることは本能的に知っていることではないか.
だからこそ,そうした差を認めた上で,お互いが与えられた役割をこなしつつ楽しむスキルを養う機会が必要になります.
それが如実に現れるのが身体能力であり,体育・スポーツの場ではないかと私は考えています.
教育において,わけても高等教育にこそ「スポーツ教育」が必要な理由がここにあります.
大学における体育授業の意義

そのへんも含めて,あとは以下の関連記事も読んでください.

関連記事
道徳教育は体育でやりましょう