2018年9月20日木曜日

Deus ex machinaな未来(4)

世間ではいろいろニュースがありますが,たいして面白くないし楽しくもないので,私の好奇心に従って記事にしたいと思います.
そんなわけで,
Deus ex machinaな未来(1)
Deus ex machinaな未来(2)
Deus ex machinaな未来(3)
の続きです.

人類は将来,サイボーグ化することで高い知能と感情コントロールを身に着け,「神」を必要としなくなる時代が到来するのではないか?
ユヴァル・ノア・ハラリ氏は,これは人間が神になることと同義ではないかと考え,そうやってアップグレードされたホモ・サピエンスのことを「ホモ・デウス」と呼称しました.
その著書『ホモ・デウス』が話題となっています.
  

前回の記事では,仮に人類全てがホモ・デウスに進化する可能性があるとしても,その黎明期や過渡期においては「ホモ・デウス vs. ホモ・サピエンス」という状況が現れることは必然であり,そこには差別問題や主従関係が発生するのではないかという話でした.
さながら,ホモ・デウスのペットとしてホモ・サピエンスが存在するような時代が到来するのかもしれないわけです.

しかし,ホモ・サピエンスがホモ・デウスにペットとして飼われたり,悪く言えば家畜化された状態になったとしても,それはホモ・サピエンス自身にとって不幸なことではないと思います.
そもそも,ホモ・サピエンスをペットや家畜だとする認識は,ホモ・デウス側の見方です.

今にしたって,ホモ・サピエンスはイヌをペットにしていますが,飼われているイヌは自分を「ホモ・サピエンスのペットだ」とは認識していないでしょう.それなりに頼りがいのあるリーダーだとイヌ側は見ているはずです.
イヌにしてみれば,ホモ・サピエンスは姿形が自分(イヌ)とは違えど,いろいろ摩訶不思議な能力を発揮して食べ物や快楽を与えてくれる便利なリーダーだと捉えているかもしれません.そして,おそらくはイヌはイヌなりに幸せな生活が送れて満足しているものと思います.

これには反論もあるでしょう.ペット(家畜)になったイヌは,やはりイヌらしい生き方ができていないのだから,不満足で不幸な生き方をしているのだ,と.
その通りではあるのですが・・・.
しかし,これは壮大で盛大なブーメランなので,ちょっとずつ説明していきますね.

著者のハラリ氏はこの点について,本書内で「家畜」についても言及しています.
たしかに家畜は,野生にいた時よりも病気や害獣から襲われる心配もなく,食べ物の心配もしなくて済みます.安定した繁殖も約束されており,種族としての平均的な価値観があるとすれば,彼らは快適に繁栄できているとも言えるのです.
しかし,人工的な品種改良を経たとしても,その種族が野生の頃に必要としていた能力や欲求を閉じ込めることはできません.家畜として生きることは,元来想定されていないからです.

例えば,近年の研究ではブタは非常に知能が高い社会性豊かな動物であることが解明されてきました.最近の実験では,ヒトやチンパンジーといった霊長類と同程度のコンピューターゲームができることも知られています.
しかし,現在のブタは人間の都合により,野生の頃とは明らかに異なる,狭い檻に密集した状態で生活し,妊娠と子育てをさせられています.
これによりブタは,ブタ本来の健康福祉を害し,欲求不満を募らせている状態にあるとされています.そしてそれは,他の家畜たちにも同じことが言えるのではないかということで,前衛的な動物愛護団体は批判を高めている,というニュースをご存知の方も多いことでしょう.

ところが,それを言うなら我々ホモ・サピエンスも同様である,というのもハラリ氏の主張.その内容は『ホモ・デウス』ではなく,前著である『サピエンス全史』にあります.

『サピエンス全史』の趣旨は,我々ホモ・サピエンスは,「認知革命」「農業革命」「科学革命」という三大改革により,人間らしい発展を遂げてきたというもの.
そして,そのうちの「農業革命」によって,ホモ・サピエンスには「人口増加」と「定住」による都市化が齎されたことが知られています.

しかしハラリ氏によれば,この「農業革命」はホモ・サピエンスにとって悲劇も生んでいるとします.というか,ぶっちゃけ悲劇の方が大きい.
まず,一般によく知られたところでは,人類が農耕をするようになってから部族間で「戦争」が発生するようになりました.

ホモ・サピエンスという種族は,本来は狩猟採集生活がおくれるように心身が最適化された動物です.
狩猟採集生活では,その土地に食料や資源がなくなれば移動すればいいですよね.1万2千年前までの私たちは,そうやって生きていたんです.こと日本人に至っては,農耕が始まったのが3千年〜6千年前くらいだと言われていますから,世界的にみれば狩猟採集生活が非常に長かった民族だということになります.
余談ですが,「農耕民族」「狩猟民族」の違いが論じられることがありますけど,人類学的にみれば,ホモ・サピエンスは全て狩猟民族です.

ところが,農耕では特定の土地に定住する生活になったわけですから,ホモ・サピエンスはこの頃から土地を移動しなくなりました.
それもこれも,農耕することによって麦や稲が大量に手に入るようになって嬉しかったからです.
しかし,実はここに大きな落とし穴があったのです.

もともと,農耕をするためには人手が必要です.ですから,農耕を始めたホモ・サピエンスは,狩猟採集生活をしていた頃よりも繁殖するようになりました.人口を増やすことに価値を見出すようになったんです.
農耕を始めた民族の神話に,生殖器や生殖行為を強調するものが多いのはそのためだとされています.

こうして大人数により麦や稲といった穀物を栽培することで,食料がたくさん手に入るようになったかに思えましたが,その一方でホモ・サピエンスは,この頃から飢饉や人口密集生活による病気に悩まされるようになりました.
大人数での農耕中に飢饉にあったら深刻な食糧難になりますし,病気により人手が不足したら農耕ができなくなる.
で,結果として食料を奪いに戦争をふっかけたり,農地や奴隷を得るために戦争したりするようになりました.

そうです.実は,農耕するようになったホモ・サピエンスは,狩猟採集生活をしていた頃よりも一人当たりが獲得できる食料が減り,さらにその獲得確率も不安定になってしまったんですよ.
おまけに,その後は「人類の歴史は戦争の歴史」と言われるほど,自分たちで人口を増やしては大量死を引き起こすスパイラルに突入しました.これが悲劇と言わずになんと言う.
ハラリ氏は,農業革命は人類史上最大の詐欺だとします.

だったら狩猟採集生活に戻ればいいのにと思うのですが,農耕生活の怖いところは,その依存性です.
豊作などで一発当てたら大きいので,どうしてもやめられません.育て方を研究してみたら,それなりに結果も出るから面白い.
長期的なスパンで見たら損をしているのに,元の暮らしには戻れなくなったんです.
パチンコみたいなものですね.

じゃあ,この農耕によって得をした奴は誰なのか? つまり,農業革命で詐欺を働いた奴は誰か? ということ.
既にお気づきの方もいるかと思いますが,ハラリ氏によれば農業革命の本質は,「ホモ・サピエンスが麦や稲に家畜化された」ことだと述べます.
詐欺師の正体は「麦」や「稲」といった穀物です.

実際,彼ら穀物は,農業革命以前は地球のごく一部に生息していた弱い種族でした.
ところが,ホモ・サピエンスをたぶらかしてからというもの,地球中にその生息範囲を広げることができたのです.

え? 奴らは人間に食べられているじゃないか,って?
これには様々な回答ができます.
まず,植物という種族は,私たち霊長類や哺乳類とは幸福観が異なると考えられます.
山火事にならないと発芽しない種子があったり,ミツバチや鳥に食べられることを前提として繁栄する植物がいるように,彼らは「より広範囲に広がり,気候や病気に負けないようになる」といったことを目指して生きている可能性が高い.
だとすると,これだけ繁殖させてもらった上に,品種改良もしてくれる「ホモ・サピエンス」という生物を利用できた麦や稲たちは,自然界の中では勝ち組と言っていいかもしれません.

次に,じゃあ人間は彼らの何を食べているのか? ということです.
別に植物としての息の根を止めているわけではなく,いわば,彼らが出した種の一部を食べさせてもらっているに過ぎません.ご丁寧にも,繁殖に必要な種子は別にとっておくわけですから.
これを哺乳類で例えれば・・・,いえ,ちょっと気持ち悪いのでやめときましょう.

「ホモ・サピエンスは麦の家畜」という表現には,語源的にも重要な示唆を含んでいます.
「家畜」の語源は「Livestock」,つまり「生かして蓄えておく」という意味です.そして,もう一つの言葉が「Domestic animal」,つまり「家にいる動物」です.
故に,イヌやブタ,ニワトリといった動物は,ホモ・サピエンスにとっての家畜と言っていいでしょう.イヌやブタが本来生息していたところから引っ張り出してきて,ヒトが住んでいる家に蓄えられた動物だからです.

では,ホモ・サピエンスにとっての本来の生息地はどこか?
狩猟採集生活をしていた時代のホモ・サピエンスは,「定住」していなかったんですよね.ヒトは「家」を転々とする動物だったんです.
ところが,農業革命以後のヒトは,麦や稲という「定住」している生き物に合わせて生活するようになった.つまり,麦や稲にとっての「家」に束縛され,できるだけ密集して生活し,麦や稲に都合がいいように繁殖するようになった動物なんです.客観的にみれば,それが事実.
これってまさに家畜ですよね.

実際,ヒトの生活の全ては,麦や稲のために捧げられています.
麦や稲に直接手を出しているのは「農家」ですが,人間社会とは結局のところ「農家」の生産性を高め,効率的に麦や稲を繁殖させる手法を構築している存在に過ぎません.
一見,農業とは関係が無さそうな工業,金融業,サービス業,教育関係といったありとあらゆる業種は,よくよく考えてみれば麦・稲が地球上に広く繁栄するための「家畜」として働いているんです.
稲・麦にとっては,農家以外の仕事をしているホモ・サピエンスは,まさに「Livestock」であり,「Domestic animal」ということになります.

現代人が「自分の仕事の価値」とか「存在意義」に疑問を持つのも当たり前ですよ.
だって,ぶっちゃけ意義なんかないんだもん.あなたは麦や稲の家畜として,ただ人口を増やしておくために存在してるんですから.
これに限らず,現代のホモ・サピエンスが抱えている様々な問題(心身の健康福祉,人間関係,政治経済など)は,ホモ・サピエンスの家畜であるブタが抱えている問題と同じ,つまり,その種族本来の生活パターンから引き離された「家畜特有の苦しみ」なのです.
言い換えれば,私たちがよく知る人間社会のルールとは,その源泉をたどれば,麦や稲を効率よく繁殖させるために作り出されたものと言えます.

逆に,麦や稲の家畜でなかったら,飢餓に喘いだり,肥満で悩む必要はないし,上司と部下,結婚や家族といった人間関係で苦しむ必要もありません.実際,こうしたトラブルは狩猟採集生活をしているホモ・サピエンスには見られないそうです.

ホモ・サピエンスによる「国家」という集団は,約1万年前から現在までずっと変わらず,より人口を増やし,より多くの穀物を必要とする集団になることを目指してきました.すなわち国家とは,麦や稲たちが用意した,家畜用の「檻」や「柵」のようなもの.
もっと言えば,国家という字の「家」とは,その国の主食・穀物を指していると言っても過言ではないでしょう.
そういう意味では,日本はたしかに「瑞穂の国」と言えるのです.

一方,我々ホモ・サピエンスの側からすれば「私たちは穀物の家畜だ」とか「僕は稲のペットだ」という認識はありませんし,それで差別意識を持つこともありません.
上述してきたように,そういう見方ができることを理解しても,それで麦や稲に恨みを持ったり嫉妬することはありません.
なぜなら,麦や稲には絶対に勝てないし,勝とうとする相手ではないからです.

話を「ホモ・デウス」に戻せば,もし仮に人間社会がホモ・デウスとホモ・サピエンスに分かれることがあったとしても,ホモ・サピエンスの側に差別意識が湧いてくることはないんじゃないかと思います.
ハラリ氏が述べているように,ホモ・デウスの誕生とは,初めてホモ・サピエンスがどうあがいても絶対に越えられない能力をもった存在と対峙することを意味します.
そしてそれは,ホモ・サピエンスが1万2千年前に「麦」と出逢った時と同じく,飼い慣らされていることにすら気づかない「2度目の家畜化」のスタートになるのかもしれません.

他の可能性も考えてみれば,ホモ・デウスとしての生き方に魅力や価値を感じない人々はいるはずなので,そういう人は同じ価値観を共有できる人達同士でコミュニティを作って生活するんじゃないですかね.
その時ホモ・デウスたちは,きっとホモ・サピエンスの生活と存在を許容するでしょうし,ホモ・サピエンスもホモ・デウスに干渉することもないと予想されます.

実際,ハラリ氏はSF映画にありそうな超人的な能力を持ったホモ・デウスが,突如として社会に現れて大混乱を引き起こすわけではないく,小さなアップグレードを長い年月をかけて積み重ねていくものだろうと予測しています.
もちろん,その小さなアップグレードのたびに,社会は小さな混乱を起こすでしょう.
人間にそんな能力が必要なのか? とか,人間性が失われるのではないか? とか,健康や安全面の保証ができないのではないか? といったものだと思われます.
そうやって徐々に知能や心身の機能アップを進めていったホモ・サピエンスは,ある時,かつてホモ・サピエンスが作り出してきた文学や遊戯に興味を持たなくなっていることに気づくだろうとハラリ氏は述べます.

こうした世界を小説作品を通して考えてみるには,森博嗣氏のSF小説がおすすめです.
Wシリーズ(wikipedia)
百年シリーズ(wikipedia)

このシリーズ内では,「ホモ・デウス」ほどではないアップグレードされた人類が主要登場人物になっていて,ホモ・サピエンスのままで生きる人や,まさに「ホモ・デウス」のような人物も登場します.
森氏の小説によれば,そうやってホモ・サピエンスがアップグレードされていった先にあるのは,
・人は子供を産まなくなる
・国家や共同体の規模が小さくなる
・内向的になる
といった人間社会が描かれています.
その世界観は,ハラリ氏が提唱する「ホモ・デウス」の世界と非常に類似しています.

以前もこのブログで紹介しましたが,「ホモ・デウス」の世界が到来した先にある人類の未来を示唆する,小説の一文がこちらです.
「このままでは,人類は滅亡する.それさえも望んでいるのかもしれない.我々の子孫は,人工知能とウォーカロン(人造人間)だ.あとは,彼らに任せよう,といったところかな」森博嗣『ペガサスの解は虚栄か?』
ホモ・デウスであることを選んだ人類は,ホモ・サピエンスであることを捨てるだけでなく,生物であることを捨てる日が来るのかもしれません.
しかしそれは,悲しい最後ではなく,淡々とした流れの中で起きることなのでしょう.


関連書籍
  
 


2018年9月18日火曜日

Deus ex machinaな未来(3)

Deus ex machinaな未来(1)
Deus ex machinaな未来(2)
の続きです.

ユヴァル・ノア・ハラリ氏が,その著書『ホモ・デウス』が描いている,「このままの調子で行った先にある」我々人類の未来を紹介するシリーズです.
「このままの調子で行った先にある」と括弧付けをしたのは,ハラリ氏も本書で述べているように,我々人類がどこかで「いや,こういう未来はダメでしょ」と考えて,進路変更する可能性もあるということ.
前回記事で解説したような,「科学革命」を推し進めていった先にある「データ至上主義」では,どうやら人類にメリットがないぞ,幸せになれないかも,と踏んだら『ホモ・デウス』は誕生しないのです.

さて,今回の記事ではもっと具体的に,ハラリ氏が描くホモ・デウスが誕生した未来をイメージしてみます.

ざっとおさらいしておくと,ハラリ氏の言う「ホモ・デウス」とは,私たちホモ・サピエンスが科学技術を駆使し,データ処理能力や身体機能,精神・感情などを高度にコントロールできるよう “アップグレード” されたホモ・サピエンスのことを指します.
 さしずめ,SF作品に出てくる「強化人間」などのサイボーグみたいなものです.
まさに,Deus ex machina(機械仕掛けの神)なんですね.

最初のうちは,めっちゃ高性能なスマホとかグーグルグラスみたいなものから始まるでしょうが(というか,既に現在のスマホは「ホモ・デウス」へのスタートラインと言える),そのうちこういったガジェットを体内に埋め込んだり,神経に直接働きかけて認識させるようになると考えられています.
ここらへんは,ウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」とか,士郎正宗の「攻殻機動隊」なんかでイメージしやすいかと思います.

ただ,ここで重要なのは,ハラリ氏がそれを「強化人間」や「超人」ではなく,「ホモ・デウス(人神)」と称するのは,高度なデータ処理と,感情や精神をコントロールできるようになったホモ・サピエンスは,「神」を必要としなくなるだろう.そしてそれは,ホモ・サピエンスが「神」へとアップグレードされることを意味すると考えているからです.

しかしハラリ氏は,全てのホモ・サピエンスがホモ・デウスへとアップグレードするわけではないだろうと予想しています.
まず,いわゆる「宗教的な理由」とか「思想信条の理由」でホモ・デウスになることを拒否する人はいるでしょうし,他にも様々な理由で,最も単純なものとしては経済的な理由が考えられます.

ホモ・デウスへのアップグレードは,あくまでも人為的で任意的なものです.ある時,ホモ・サピエンスが自然に進化するわけではありませんし,危機的状況で「その時ふしぎなことが起こった」とナレーションが入って進化するわけでもありません.
これはちょうど,自分の容姿に不満を持つ人が「美容整形手術」を受けたり,目の悪い人が「レーシック手術」を受けたりするのと同じです.彼らは自分の容姿や視力をアップグレードしているわけですが,それを本人が拒否したり,いろんな理由で不可能な人がいるのと似ています.

もし「ホモ・デウス」へのアップグレードによって,期待通りに「安全」で「高機能化」を成し遂げられたとすると,そこには旧式のホモ・サピエンスと,上位種のホモ・デウスが同時に暮らす未来があります.
それはどういうものなのでしょうか.

すぐに思いつくのは,ホモ・サピエンスとホモ・デウスの間で差別感情が現れるのではないかというもの.
その時々の科学技術レベルによって,現れてくる能力格差に違いがあるでしょうが,ホモ・デウスにとってホモ・サピエンスは,今の私たち(ホモ・サピエンス)がチンパンジーと対峙しているようなものになるでしょう.
「私たちホモ・デウスと似たようなことはできるけど,認知能力や作業能力,記憶力や身体機能も劣っているし,ちょっとしたことで感情的になる」と見るような時代がやってくることは時間の問題です.
そのうち,チンパンジーではなくイヌやネコ,ハムスターのように扱われる時代も来るかもしれません.
つまり,ホモ・デウスがホモ・サピエンスを奴隷として扱う危険性が考えられるわけです.

ただ,こうした事態を好意的に捉えてみると,それはホモ・サピエンスにとって不幸な状況なのか? という疑問が出てきます.
ホモ・デウスは,余程の技術革新(胎児状態からの改造手術)でもない限り,必ずホモ・サピエンスとしてこの世に生を受けるわけで,ホモ・サピエンスに対する愛着は,現行の愛玩動物である「ペット」以上の存在になることは予想できます.
おそらく,ホモ・デウスにとってホモ・サピエンスは,大人が子供を見るようなものではないでしょうか.

仮にホモ・サピエンスが,ホモ・デウスから「ペット」のような扱われ方になったとしても,そういう「ホモ・デウスが活躍する社会」においては,ホモ・サピエンスがどんな活躍ができるのか,それが現在の生き甲斐とか価値観と同じままなのか甚だ疑問です.
ホモ・デウスが活躍する社会では,ホモ・サピエンスは経済活動や政治に寄与していないかもしれませんよね.
馬鹿の考え休むに似たりと言いますが,そういう時代において人間社会は,ホモ・デウスとして経済・政治活動を担うことを希望する人々にそれらを委任し,それ以外の人々(ホモ・サピエンス)は,ホモ・デウスの脛をかじって悠々自適にニート生活をしているかもしれません.

経済政策のひとつに,「ベーシックインカム」という考え方があります.
これは,国が国民に最低限度の生活ができる環境を提供し,その中で稼ぎたい人は稼ぎ,自由気ままに暮らしたい人は自由にするというものです.
つまり,稼ぎたい人はホモ・デウスになって活躍し,気ままに暮らしたい人はホモ・サピエンスのままで暮らすということ.
ベーシックインカムには様々な批判がありますが,もし「ホモ・デウス」が誕生すれば,これが可能になるのではないでしょうか.

一方,ホモ・デウスはポジティブな話ばかりではありません.
ハラリ氏も本書で述べていることですが,ホモ・デウスへのアップグレードは際限がないことが予想されています.
今年買ったiPhoneも,来年のAndroidスマホより性能が落ちます.再来年には次世代iPhoneが出てきて,以前の性能を明らかに凌駕するようになる.そうこうするうち,スマートフォンとは異なる革新的な携帯端末が誕生して,それまでのものがガラクタのように見えてきちゃいますよね.

おそらくは,ホモ・デウスへのアップグレードも同じようなものになるでしょう.
ホモ・デウスたちは,自分がホモ・サピエンスより優れているからという理由で満足したり優越感に浸ることはありません.
ホモ・デウスの生き甲斐や存在意義は,飽くなき身体機能の向上です.自分自身をより性能の高い存在にすることが得策であることは間違いなのですから,ホモ・デウスたちは,新しい機能の追加に余念がない人々となります.
ホモ・サピエンスは,ホモ・デウスとなった時点でホモ・デウスとして生きることになります.
これはちょうど,iPhoneを購入した人にとっては,その機能の比較対象は同じiPhoneシリーズやAndroidスマホであって,ガラケーではなくなるのと同じく,ホモ・デウスの競争相手はホモ・サピエンスではなく,同じホモ・デウスになるのです.
つまり,ホモ・デウスへと進化した人々は,彼らなりにさらなるテクノロジー競争,アップグレード競争に放り込まれる可能性があるとハラリ氏は述べます.

しかし,これはあくまでも我々ホモ・サピエンス視点からのネガティブ予想.
ホモ・デウスは,高い知能と感情コントロールができる存在と予想されているのですから,そういった際限のないアップグレード競争に「嫌気がさす」なんてことはないのかもしれませんし,知能や感情コントロールの性能がある一定水準以上になってくれば,アップグレード競争におけるネガティブな側面を解決する手段を見つけ出すかもしれません.
なんせ,ホモ・デウスは私たちホモ・サピエンスにとって神のような存在なのですから,どんなことを考えつくか分からないのです.

ところで,ホモ・デウスにアップグレードすることと,ホモ・サピエンスで居続けること,どちらかを選ぶとなったら,私はホモ・デウスを選ぶと思います.
そして,ホモ・デウスとなって政治経済を担い,ホモ・サピエンス達を養ってあげる,のではなく,田舎にでも帰って,世の移ろいを眺めながら隠遁・ニート生活をしてみたいんです.
そういう神様がいても悪くないと思います.


参考書籍
以下が『サピエンス全史』と『ホモ・デウス』です.

   

2018年9月16日日曜日

Deus ex machinaな未来(2)

Deus ex machinaな未来(1)
の続きです.

先日出版された『ホモ・デウス』がとても面白かったので,著者であるユヴァル・ノア・ハラリ氏の前著である『サピエンス全史』と一緒に紹介してみようという記事です.

『サピエンス全史』は,我々「ホモ・サピエンス(ホモ・サピエンス・サピエンス)」という何の取り柄もない人類の一種族が,その他の人類を滅ぼした上に,地球中に繁殖できた理由を最新人類学をもとに解説したものです.
まとめると,我々は3つの革命が起きたことにより現在に至っています.
20万年前に誕生したホモ・サピエンスは,7万年前に「認知革命」が,1万2千年前に「農業革命」が.そして500年前から「科学革命」が起こっている状態にあります.
特に,7万年前から始まった「認知革命」が,その他の人類を抑えてホモ・サピエンスだけが生き残り,これだけの文化と文明を築く礎になっています.

今回の『ホモ・デウス』では,絶賛進行中の「科学革命」を経たホモ・サピエンスが,未来においてどこに向かうのか解説しています.
結論から言えば,科学とテクノロジーが発達していった先にあるのは,人類がホモ・サピエンスであることを捨てて「ホモ・デウス(人神)」へとアップグレードする未来です.

ホモ・サピエンスは,人として生きていく上で必ず生まれる不安や苦しみ,不完全性を補うために「神」を置きましたが,近い将来,科学がその役割を担うようになるだろうという話.
ときどきSFもので目にする「強化人間」とか「超人」みたいなものですね.ですが,よくあるSFものの「強化人間」では,「現在の人間のライフスタイル」のままで特定の能力を発達させたものが多いのですが,実際の生命科学・人間科学を進めていった先にあるのは,(無宗教という意味ではなく,本当に)「神」を必要としない人が誕生するという将来像です.
つまり,その時人類は科学によって「神」そのものになる.故に「ホモ・デウス」なのです.

前回の記事では,そのひとつの例として,莫大な量のデータを瞬時に記録・分析できるようになることと,その記録・分析装置を体内に埋め込めるようになることで,現在のホモ・サピエンスでは成し得ないデータ処理と認知・判断能力を身につけられるようになることを紹介しました.
これについて,もう少し詳細に話してみたいと思います.

ハラリ氏によれば,500年前に発生した科学革命により,ホモ・サピエンスは「人間至上主義」になってきたとします.人間至上主義とは,農業革命までのホモ・サピエンスが崇めていた「神」とは異なり,人間を崇めることをその教義とするものです.

言い換えると,科学革命以前のホモ・サピエンスは,「神」を神として崇拝して物事や自然と向き合っていたのに対し,科学革命以後は,人間自らの行いによって自然をコントロールするようになってきたのです.つまり,そこには崇拝したり祈ったりする神はおらず,「人間の行い」こそが崇拝対象になるわけです.故に「人間至上主義」.
そして今から100年くらい前には,「神は死んだ」とまで言われました.

実際,ここ500年ほどの我々ホモ・サピエンスは,「幸福とは何か?」とか「人生とは何か?」とか,「神とは何か?」「人間とは何か?」「仕事とは何か?」といったことを科学的な視点から考察してきました.
私たち人間は,いつか自分自身のことを論理的・科学的に理解できるのではないかと構えているからです.

難しく考える必要はありません.例えば,医療事故とか原発事故っていうのがありますよね.人間至上主義以前の世界では,仮に医療事故によって死んだとしても,それは「天命だった」と言って医者や看護師が大きな責任を負うことは少なかったし,原発が吹っ飛んでも「天罰だった」とか言って納得できる人が結構いたでしょう.
しかし,人間の行いが崇拝される人間至上主義の現在ではそうはいきません.
人間は人の命を左右できる,原子力をコントロールできると構えるからです.

しかし,だからこそ人間至上主義は,まだ「神」を必要としているのです.
なぜなら,人間は完璧・完全ではないからです.それゆえに悩み,不安を抱く.
何かの判断をする際には,その不安や苦しみから逃れたくて,「神様助けてください」とか,「えぇい!一か八かだ!」などと天や神に祈ることもあるでしょう.

しかし,科学とテクノロジーが発達した先にあるのは,人間至上主義を捨てる未来だとハラリ氏は述べます.
人間至上主義に代わるのは,「データ至上主義」です.
人間の判断,人間の責任,人間の想いや感情よりも,「データ」を崇拝するのがデータ至上主義.この世界の森羅万象は全て「データ」として記録し,解釈することができると構える思想です.これをハラリ氏は「データ教」と呼んでいます.
そもそも,科学革命以後,現在主流となっている「科学」はデータ至上主義を目指していると言っていいでしょう.

もう既に,データ教はホモ・サピエンス界に浸透していると言っても過言ではありません.
天気予報なんかが典型で,これを頼りにイベントを組んだり,雨雲レーダーを頼りに外へ出たりしていますよね.

上述したように,これまでの人類は,何かを判断したり将来の予想をするにあたり,神に祈ったり自分の運命を信じたりして決めていました.
しかし,今後の科学・テクノロジーの発展によっては,ある人が判断や将来予測を必要とする場面に,高性能なデータ処理装置を持ち込める未来が描かれるのです.
少し長くなりますが,その点を『ホモ・デウス』から引用すると,
データ至上主義によると,ベートーヴェンの交響曲第五番と株価バブルとインフルエンザウイルスは三つとも,同じ基本概念とツールを使って分析できるデータフローのパターンにすぎないという.この考え方はきわめて魅力的だ.全ての科学者に共通の言語を与え,学問上の亀裂に橋を架け,学問領域の境界を越えて見識を円滑に伝え広める.音楽学者と経済学者と細胞生物学者が,ようやく理解し合えるのだ.
その過程で,データ至上主義は従来の学習のピラミッドをひっくり返す.これまでは,データは長い一連の知識的活動のほんの第一段階とみなされていた.人間はデータを洗練して情報にし,情報を洗練して知識に変え,知識を洗練して知恵に昇華させるべきだと考えられていた.ところがデータ至上主義者は,次のように見ている.もはや人間は厖大なデータの流れに対処できず,そのためデータを洗練して情報にすることができない.ましてや知識を知恵にすることなど望むべくもない.したがってデータ処理という作業は電子工学的アルゴリズムに任せるべきだ.このアルゴリズムの処理能力は,人間の脳の処理能力よりもはるかに優れているのだから.つまり事実上,データ至上主義者は人間の知識や知恵に懐疑的で,ビッグデータとコンピューターアルゴリズムに信頼を置きたがるということだ.
ということだそうです.
その際の「データ処理装置」が,今の携帯電話やスマホ,腕時計のようなものになるであろうし,もっと先には,体内に埋め込んで視神経を介して情報を表示させる未来が待っていることでしょう.

人間至上主義における人は,人間のこと,そして自分自身のことが分かっていません.分かっていないから崇拝対象だったのです.
どうして本当は好きなのに嫌いと言っちゃったんだろう.
どうしてあの時私は欲しくもない健康器具を買っちゃったんだろう.
どうしてダメだと分かっててもお酒を飲んだあとにラーメンを食べちゃうんだろう.

ところが,データ至上主義とテクノロジーが結びついた未来においては,こうした人間らしい,もとい,ホモ・サピエンスらしい判断ミスは起こりません.
過去の自分自身の記録データを基にして,最適な判断を下せるようになるのです.
その時,それは「自分の判断」とは言えないかもしれません.あくまでデータ処理です.

脳を刺激することによって,気持ちよくなったり気持ち悪くなったり,特定の行動をとりたくなったり,その反対に嫌ったりすることが分かっています.
ラットの研究では,脳に刺激を与えることで,右に歩かせたり左に歩かせたり,ハシゴを登らせたりといった運動動作を,リアルタイムにリモートコントロールできることも分かっています.この時,ラットは自分の意思に反して無理やり動かされているわけではなく,脳(自分)が望んだ動きをやっている認識しかないでしょう.

これが人間に採用されれば,欲しくもない物を買ってしまったり,お酒を飲んだあとにラーメンを食べることもなくなります.
もっと言えば,集中してやりたいことがあれば,意図的にその行動を促進させる刺激を脳に与えて「途中で飽きる」「面倒臭がる」といった状態になることをなくせます.
飲み過ぎ食べ過ぎ,運動不足,だらけた生活習慣で悩むことはないのです.

良かったですね.これでニート問題も解決.
これがホモ・デウスにアップグレードしたホモ・サピエンスの未来です.

っていうか,そもそもホモ・デウスにアップグレードした社会において,人,もとい神はニートになりたがるんじゃないか? とも思ったりするんです.

だって,現在の人間たちが,こんなにもしゃかりきに仕事しているのは,将来への不安とか,ステータスとか,自己実現のためだったりするわけでしょ?
でも,「神」になった人間はそんなこと気にするのかな?
しないよね.

なんせ,「生存」のためのデータ処理の最適解は算出できちゃえるのです.だから,将来への不安なんてものはありません.不安に思ったとしても,それを抑え込むこともできるわけで.
しかも,ホモ・デウスは一人だけじゃないんですよね.
ホモ・デウスによる社会が誕生するわけですから.

そんな中にあって,どういう社会政策や政治が行われるのか.
それは未知数ですけど,きっとディストピアな状態になることはないだろう,っていうデータと根拠の薄いホモ・サピエンスらしい展望が私にはあるんです.


参考書籍
以下が『サピエンス全史』と『ホモ・デウス』です.

   

2018年9月14日金曜日

Deus ex machinaな未来(1)

このブログのタイトルを冠した記事になりましたが,これは最近出版された書籍に啓発されたものです.
ユヴァル・ノア・ハラリ著『ホモ・デウス』がとても面白いのでオススメしておきます.
なお,この著者は2年前に世界的ベストセラーとなった『サピエンス全史』を出版したことで知られています.
   

その『サピエンス全史』が非常に面白かったので,昨年から私は,飲み会や授業,世間話の機会に『サピエンス全史』から引っ張ってきたネタを話していました.体育・スポーツ学という領域からしても,とても興味深い考察ができるからです.

『サピエンス全史』が世界的ベストセラーになったのは,著者のその興味深い考察もさることながら,最新の人類学と人間科学の研究結果を統合して紹介したことにあります.
分かりやすい例を挙げれば,皆さんも以下のような図を見たことがあるかと思いますが・・・,
図:教科書のウソ 人類の進化を表す“あの図”は間違いだったよりhttps://logmi.jp/152154
我々ホモ・サピエンスは,左から右へと徐々に進化して現在に至るという見慣れた図.
しかしこれは今の人類学では否定されており,例えばウィキペディアでは以下のように表現されています.
「人類の進化」wikipediaより
このように,ホモ・サピエンスは約20万年前からホモ・エレクトスから枝分かれした人類の一つであり,一時期(約3万年前まで)はネアンデルタール人やホモ・エレクトスが一緒に地球を闊歩していた時代があったと考えられています.
なお,上図にはありませんが,ネアンデルタール人やホモ・エレクトス以外にも多種多様な人類がいたことが分かっています.

ちなみに,これもウィキペディアに載っていますが,我々ホモ・サピエンスはネアンデルタール人の遺伝子を少し持っている(混血している)ことが分かっていますし,ジャワ原人や北京原人といった聞き覚えのある種族も,ホモ・エレクトスの一種として現在は分類されているんです.これはちょうど,我々ホモ・サピエンスの中にも白人,黒人,黄色人種といった違いがあることと同じと考えてもらえればいいでしょう.
こういう研究結果はここ20年くらいでバンバン出てきたので,一般にはまだ普及していないのです.
ホモ・エレクトス(wikipedia)
ネアンデルタール人(wikipedia)
ジャワ原人(wikipedia)
人類の進化(wikipedia)

また,人類の進化を語る上で,以前はミステリーとして注目されていた「ミッシング・リンク」も,そんなものは「無い」んです.
分かっていることは,それまでうだつの上がらない種の一つであったホモ・サピエンスが,ある時期から覚醒して今の「ヒト(ホモ・サピエンス・サピエンス)」となり,同時代に生きていた人類である,ネアンデルタール人,ホモ・エレクトス,ホモ・フローレシエンシスといった種を滅ぼして現在に至るとされます.

現在の我々サピエンスが,どうして地球中を覆うほど繁殖したのか? そして我々サピエンスはどこに向かっているのか? といったことが『サピエンス全史』で述べられています.
興味のある人は,ぜひこちらも御一読ください.

話を『ホモ・デウス』につなげると,『サピエンス全史』においてハラリ氏は,我々サピエンスがこんなにも躍進を遂げたのは,人類史において3つの革命があったからだとします.
「認知革命」「農業革命」「科学革命」です.
その中の最後の「科学革命」は,今から約500年前(西暦1500年頃)に起こったとされ,それまで別々のものであった「科学」と「テクノロジー」が結びつき,「科学が発展することで,テクノロジーが向上する」という,今の私たちが当然のものと捉えている知的活動が人類に齎されます.

こうして科学が発展してきた現在,私たちは科学によって鬱病を軽減できる薬を作り,セックス以外の手段で生殖できるようになり,莫大な量のデータを瞬時に分析できるようになりました.
これが意味することは,今後の人類にとって非常に重要だとハラリ氏は述べます.

気分や思考が外的刺激(薬や磁気刺激など)によってコントロールすることができるようになることは,これまで人間に幸福感や生きる価値を与えていた「宗教」から取り去る可能性があります.
これによって人間は,宗教ではなく,科学とテクノロジーによって苦痛から開放され,人生の意義を感じるのです.

また,インターネットやビッグデータ解析に代表されるような,莫大な量のデータを短時間で分析できるようになってきたことは,「自分の考え」よりもデータ分析結果を基に判断する未来が考えられます.
もし将来,自分の発言や行動と,その時の心拍数や発汗,ホルモン分泌などをウェアラブル装置で常時データを取得・記録できるようになったとしましょう.ハラリ氏によれば,このようなデータが入手できるようになると,その時人は,その判断を「自分の意志」ではなくデータを基にして決めるようになると述べます.
例えば選挙などの投票行為において,人はしばしば自分自身が置かれている社会的状況や考え方(本音)とは矛盾する判断をすることがあり,それは「昔からの支持政党だ」とか「なんとなく」で決めているものでした.
しかし,データ分析が容易になった世界においては,自分がどのような状況・環境に置かれるとストレスを感じたり幸福感を感じるのか解析できるようになります.そして,過去の自分の発言や行為の記録から,自分自身も認識できていない,自分にとって本当に最適な政策を打ち出している政党や政治家はどれかを選択できる可能性があるわけです.

最初はウェアラブル装置とタブレット端末から始まるでしょうが,そのうち身体に埋め込まれるようになるであろうことが推測できますよね.

『ホモ・デウス』では,科学革命を経た人類ホモ・サピエンスが,今後も現在と同様の価値観によって科学を突き進めていくことで,いつしかホモ・サピエンスであることを捨て,「ホモ・デウス(神)」へとアップグレードする時代の到来を予測しています.
こう聞くと,SFものでよくある「超人」とか「強化人間」と同じものですが,現在の科学研究結果から,十分にそれが可能である未来を描いていると言えるでしょう.

ハラリ氏が指摘するのは,それが単なる「強化人間」やサイボーグといったものではなく,これまで人類が多種多様な宗教によって作り出していた「神」という存在と機能を,人類自らがその身に取り込む未来です.

この『サピエンス全史』と『ホモ・デウス』の話は面白いですから,このブログでもう少し続けてみたいと思います.