2017年11月13日月曜日

体育学的映画論「メッセージ」

これ,つまるところガンダムですよね.
ハリウッド版「ニュータイプ論」.

現在公開中の『ブレードランナー2049』のドゥニ・ヴィルヌーヴ監督が,昨年に製作したSF映画が『メッセージ』(2016年)です.

ブレードランナー2049も良かったですが,SF映画としてはこちらの方が遥かに出来が良いと思います.
まあ,ブレードランナー2049はファンサービスとして作られたものかもしれませんので,それなりの楽しみ方をするものなのでしょう.

【以下,ネタバレを含みつつ話していきます】
映画を楽しむ上では以下の話を読まない方がいいかと思います.
観てから読むことを推奨します.

ネタバレを含む映画のあらすじは,ウィキペディアで読むことができます.
メッセージ(映画)(wikipedia)

非常に質の高いSF映画です.
近い将来,「死ぬまでに観ておきたい映画◯選」などと形容されるようになることと思われます.

次元の異なる知的生命体とどのようにコミュニケーションをとればいいのか? というのがこの映画の基本的なストーリーになっています.
突如,世界中の地域に現れたUFOに対し,各国は独自に対応を始めるというもの.
学者たちによるエイリアンとの交流が描かれるのですが,「どうやって交流できることになったのか?」といった細かい経緯はぶった切られていて,「エイリアンとのコミュニケーションをどのようにとるのか?」という点に絞った展開が無駄がなくて良い.

言語学や数学などを駆使した,エイリアンが使う言語を解読してゆく過程が非常に興味深いんです.
「ほうほう,なるほど.へえ〜,そういうふうに解釈するわけねぇ〜」と,引き込まれること間違いありません.
めちゃくちゃ難しい話なのに,むちゃくちゃ分かりやすく映画にしてくれています.
これは圧巻です.

でも,この映画の一番大きなテーマは「もしも “刻” が見えるようになったら」というものです.
だから冒頭述べたように,ニュータイプ論なんですよ.

実は,この映画の構成自体が,主人公である言語学者・ルイーズの「認識」そのものを示しているんです.
原作はテッド・チャン著『あなたの人生の物語』というタイトルなのですが,まさにこの映画は「ルイーズの人生の物語」と言えます.

どういう事かというと,この映画の基盤となる考え方として,映画前半のヘリコプター内でのシーンに「思考は言語により形作られる」と語られるところがあります.
言い換えれば,物事の捉え方は,用いられる言語によって異なるということです.

これは,日本語を使っていれば日本語の考え方になり,英語を使っていれば英語の考え方になる,などと言われることの延長と言えます.
ただ,ここでいう「言語の違い」とは,日本語と英語の違いといった小さなものではなく,もっと大きな違いである「言語の次元」の差を指します.
で,その言語の次元の差は何によって生まれているかというと,「体育学的映画論」らしく「身体」によって現れているんです.

劇中でも示されているように,このエイリアンは空中に漂う生命体です.
つまり,1Gの重力下である地球で,「地面」に根付いて生きている我々「人間」が作り出した言語とは異なる思考をしている知的生命体,それがエイリアンということになっています.

富野由悠季氏が製作した『機動戦士ガンダム』においても,人類は宇宙へ移住することによってニュータイプへと覚醒する.という設定があります.
ニュータイプとは,宇宙に飛び出して地球の重力から解き放たれることによって認識能力が進化し,「“刻” が見える」ようになった人類とされているんです.
この映画と設定が全く同じではありませんか!
凄いぞガンダム,凄いぞ富野由悠季.

環境が違えば言語が異なり,言語が異なるので思考と認識が異なります.
で,このエイリアンはニュータイプと同様,「“刻” が見える」んですね.
だから,物語の途中からルイーズは,自分がエイリアンの言語を理解できたことを思い出します.

いえ,正確には思い出したのではなく,理解できることを認識したんです.
「理解できることを認識した」っていう表現が意味不明かと思いますが,どうしてそんな表現なのかというと,エイリアンの言語を理解できたルイーズにとっては,「時間」とは流れるものではなく,見るものになったからです.
その瞬間,ルイーズにとっては,彼女の人生そのものが一塊の物体を見るようなものになっています.

というのも,言語学者の彼女は,近い将来にエイリアンの言語を研究・理解して,それを本にして出版することになります.
なので,ルイーズはエイリアンの言語によって思考し,物事を認識できるようになるわけですが,そんな「エイリアンの言語を理解できた彼女」にとっては,過去も未来も同じもの.

だから,映画の冒頭からずっと自分の娘との思い出のシーンが,ストーリーの合間合間に流れ続けているんですね.
実はこの「娘との思い出のシーン」とは回想シーンではなく,ルイーズにとっての未来なんです.

しかし,こうした映画の作りも,時間のことを「流れる」ものとしてしか捉えられない私達にはこのように認識するしかなく,エイリアンやルイーズには「あのように」は見えていません.

これはちょうど,知っている小説や映画を繰り返し読んだり見たりするようなものです.
だから原作タイトルが「あなたの人生の物語」なんだと思います.
こうなってくると,例えば人生のことを「一度きりの人生だから・・」などと捉えたりはしません.
よく,この映画の感想などで,「ルイーズは,新しい言語を手に入れることで,決められた未来に向かって生きるしかない状態になった」とか,「自由意志がなくなった」などといったものが見られますが,これは間違いだと思います.
なぜなら,この言語を手に入れ,それによる思考と認識ができるようになったことで,いわゆる「一度きりの人生」という捉え方そのものが無くなり,その捉え方から惹起されていたはずの「決められた未来」という価値観それ自体が意味を成さなくなっているからです.

ルイーズにとって自分の人生とは,小説や映画を何度でも読み返すようなものになっています.
いえ,もっと正確に言えば,読んだり見たりするようなものですらない.
「そういうもの」として認識しているんです.
それが分からない私達は,そんなふうに「時間」を捻じ曲げた認識として想像するしかありません.

これは例えば,目の見える人と目の見えない人が何かの物体を認識しようとした時の違いと似ています.
目の見えない人は,その物体を手で触りながら,「ここが出っ張ってる.凹んでいる.ここは輪になっている」などと,ちょっとずつ時間をかけて知ることになります.
しかし,目の見える人にとってはその物体を見るだけで認識できるので,そこに時間は必要ありません.
目の見えない人が時間をかけて物体を認識しようとしているのが「人類の人生」であれば,エイリアンにとっての人生とは,目の見える人が物体を見ているようなもの.
しかし,「物体」は時間をかけようとかけまいと,同じ物体であることに違いはありません.
人生とか生涯といったものへの認識も,用いられる言語と認識能力が違えば異なるということです.

そしておそらく,ルイーズの娘もエイリアンの言語を理解した人間だった可能性は高いんです.
そんな描写が映画の冒頭からいくつか出てきます.

例えば,娘が幼い頃にやっている粘土遊びでは,彼女が知らないはずのエイリアンを造形していたり,同じく幼い頃に書いたクレヨン画の両親(ルイーズとイアン)には,エイリアンとコミュニケーションをとる任務についていた2人のそばにあった「籠の中のカナリア」が一緒に描かれています.

つまり,ルイーズの娘は全てを知っていたんです.全ての刻を知っていてなお,(一般的な人間の認識からすれば)短い生涯を生きていたことになります.
と同時に,それは彼女にとって哀しいことかというと,実はそうではない.
「短い生涯を生きた」という認識そのものが,時間のことを「流れる」ものだと認識する我々の捉え方でしかありません.
むしろ,ルイーズは自分の娘を「救うため」にエイリアンの言語を教えたのではないか? つまり,いわば「ニュータイプ」へと覚醒させたのではないかとも考えられます.

ここらへんの「次元」に関する哲学的なことを分かりやすく解説されているのが,飲茶 著『史上最強の哲学入門』です.


『メッセージ』を理解する助けになるはずですので,一読をオススメします.


ガンダムで考える関連記事は以下のとおりです.
人間は身体を通して理解する「ファーストガンダム編」
人間は身体を通して理解する「Zガンダム編」
人間は『身体』を通して理解する「ガンダムW編」

こちらもどうぞ.
井戸端スポーツ会議 part 11「人間は『身体』を通して理解する」
井戸端スポーツ会議 part 12「なぜ障害者スポーツへの関心が低いのか」


2017年11月11日土曜日

どうして「絶対理解してくれない高等教育論」なのか

前回の記事,
絶対理解してくれない高等教育論
その理由編です.

大学に代表される高等教育に関する,デタラメな政策が止まりません.
現政権はそれを加速させています.

本ブログではずっと以前から繰り返しているように,おそらくはもう大学教育は致命傷を負っているので手遅れです.
まだ本格的に表在化していないだけで,そのうち「どうしてこんな事態になるまで放置したのか?」などと言い出すに決まっています.

でもそれは,決して国民自身の判断を問うようなものではなく,きっと「大学側の情報発信や主体性が弱かった」とか,「文部科学省にヴィジョンが無かった」とか,もしくはその時になってもまだ「時代に取り残された象牙の塔」などと言うに決まっています.

5年前の記事でも取り上げましたが,大学改革を始めたのが間違いなんです.
反・大学改革論
改革をすれば良くなるという意味不明な信仰が,将来の,少なくとも向こう50年くらいの日本人の知性を破壊してしまいました.
享保の改革とか天保の改革とか,とにかく「改革」と名のつくことは碌な結果にならないというのは学校の授業で教わることですが,この麻薬のような中毒性を喜ぶ人は多いものですね.

この破壊は自己回復不可能です.
また100年くらいの時間をかけて直さなければなりませんが,まだ絶賛破壊中ですので,そのスタートラインに立つ日はずっと先のようです.
少なくとも,私達の世代が引退するくらいの時には,そのスタートラインに立てるように頑張っていきたいものですね.期待薄ですが.

さて,そんな高等教育に関するデタラメっぷりですが,これをまともな方向で是正しようと考えても,絶対理解してくれません.
絶対理解してくれないのには理由があります.

前回の記事でもお話ししたように,例えば「大学無償化」は,現状のまま取り組んだり,現政権が目論む「民間経営的手法」を促進させる政策と抱き合わせることによって,教育現場を壊滅させることができます.

これをまともな方向で是正しようとすれば,その一つとして考えられるのは,「大学無償化」と合わせて「卒業基準の厳格化」をすることで教育現場は救済されます.
大学教育を無償化(現実的には格安化)する代わりに,簡単には卒業できない仕組みへと徐々にシフトさせるものです.

これはつまり,現在の「学生から人気のある大学が優良大学」という捉え方から,「高い学術レベルの学生を輩出する大学が優良大学」と捉えることへと移行することを意味します.
実際の教育現場にいる方々からはご賛同いただけるかと思いますが,高い学術レベルをもった学生を輩出するためには,大学教員や研究グループが不断の研究活動をしていなければいけません.

「教え方がうまいから,学生が伸びる」というのは,極めて初歩的な段階の話.
極一部の領域を除き,大学は何かを教えるところではありません.学術的思考力を鍛えるところです.
それは「教え方」でなんとかなるようなものではないのです.

ところが,こうした着想はメディアで取り上げられることもなく,政策にも反映されることはありません.
巧言令色な現在の大学よりも,質実剛健な大学に変わってくる方が喜ばれるかと思うのですが,そんな声は聞こえませんね.
なぜなら,そんな大学を多くの人が望んでいないからです.
もっと煽った刺激的な言い方にすれば,そんな大学にしてしまうと,次代を担う若者のレベルが自分たち自身より高くなってしまうので,それが悔しいからです.

もっと簡単ところから言えば,教育全般について「無償化」や「機会の平等化」を嫌う人は,おそらく自分自身を「勝ち組」と認識している人が多いのではないでしょうか.
そんな人が考える「教育システムの成功モデル」とは,自分自身の履歴です.
故に,自分自身が歩んできた道を「この日本社会における成功モデル」として固定化させたいという欲求が出てきてしまう.
別に批判するつもりもありません.それは人間らしい欲望ですからね.可愛らしいですね.

勝ち組の人達からすれば,自分たちの成功モデルを否定することは難しいものです.
もっと言えば,その成功モデルにありつけた人は,できるだけ少ないほうがいい.なぜなら,希少価値が高くなるからです.

あれだけ頑張って受験勉強して合格した大学が,これからは簡単に入学できる大学になってしまう.なんてことは避けたいという心理が働くのもわかります.
ましてや,「入学した」ことよりも「卒業した」ことの方が価値があるなんてことになったら,現在自分が保有している「◯◯大学卒業」という肩書がキャンセルされてしまうわけです.彼らにとって「卒業」とは「入学」のことを意味しているからです.

斯くして,「大学を卒業した人々」は,高等教育の研究教育レベルを向上させる政策を望みません.

一方の,「大学を卒業していない人々」も,高等教育の研究教育レベルを高めようという気はありません.
これには2つ理由があります.

1つ目は,単純に,大卒のレベルが高まることを望まないからです.
簡単な話です.彼らにとっては,大学で学ぶ人が受ける恩恵は低い方がいい.
大学に行くことは,あくまで肩書をつけることであってほしくて,本当に実力がついてしまうと悔しいという話です.
ようするに,これからもずっと「大学なんて所詮は肩書をつけに行くところさ」と罵りたいという心理です.

2つ目は,学校教育の延長でしか要求ができない,というものです.
つまり,この人達には学校と大学の違いが分かっていません.いえ,むしろこれには大卒の多くも含まれていることでしょう.
学校と大学の違いが分かっていない人達だから,しかもウィキペディアでその違いを調べることすらしない人達だから,自分の頭の中だけで「教育」を語りたがります.
結果,上述したような「教え方がうまい」ことに価値を見出したり,大学を「職能を伸ばしてくれる」ためのサービス機関だと捉えています.
そんな人達が求めるのは,学生が寝坊しないためのモーニングコールであり,より多くの資格を取得できるカリキュラムであったりします.

そして,「人気のある大学が優良大学」「定員割れする大学はダメな大学」というドグマに支配されることにより,大学側もそれに対応した経営をするようになります.
あとは負のスパイラル.

とどのつまり,嫉妬と妬みなんですね.
これが大学教育と,日本の学術研究を破壊しています.
大学が一体何をするところなのか? それに立ち返って考えてもらいたいものです.


関連記事

2017年11月9日木曜日

絶対理解してくれない高等教育論

大学等の高等教育を無償化させたり,学部の切り売りを促したりといったニュースが続いています.

「教育無償化」高等教育に8000億円 2兆円配分の大枠(毎日新聞2017年11月9日)
政府は教育無償化など2兆円規模の政策パッケージについて、配分の大枠を固めた。大学など高等教育の無償化に約8000億円を配分。幼児教育・保育の無償化では、0~2歳児に100億円程度、3~5歳児は8000億円程度を充てる。高等教育と0~2歳児については、無償化の対象を住民税非課税世帯(年収約250万円未満)に限定する方針。

私大に「学部の切り売り」認める…大学再編促す(読売新聞2017年11月8日)
18歳人口の減少で経営悪化した大学の「学部の切り売り」を認めることで大学再編を促す。(中略)学部の譲渡が可能になれば、経営が行き詰まった大学が学部の一部を他大学に売却し、当面の運転資金を確保できる。また、経営の効率化を図りたい大学の場合は、不人気学部を切り離し、研究成果が顕著な学部や人気学部を強化できるようになる。
具体的な方策が見えていないのでなんとも評価し難いのですが,どれもこれもデタラメ臭さが漂っています.

以前の記事でも取り上げましたが,私は大学無償化には反対していません.どのような方策になるかにもよりますが,多くの国民が高等教育を受けられる状態にすることは,国家として望ましい在り方だからです.

ただ,「学部切り売り」とかいう政策を考えているところからして,おそらく碌な思想・信条に基づいていないことが推測されます.
現政府には注意が必要です.

教育無償化に反対する人のなかには,「そんなことしたらFラン大学をのさばらせるだけだ」という人がいます.
お気持ちはわかりますが,ご安心ください.そんなことにはなりません.
「高等教育(大学)無償化」については,ある教育政策と抱き合わせることで,現在のFラン大学であっても有名大学と変わらない教育が実現できるのです.

昨今のニュースでも取り上げられているように,現在の日本の大学は,研究レベルや教育水準の低下が著しいんです.
「このままではノーベル賞がとれなくなる」という懸念もされていて,まあ,ノーベル賞はどうでもいいですけど,まともな学術研究ができない環境にあります.
実際,日本では大学・研究所と研究者は増えているのに,発表論文数は低下しています.

その理由はというと,現在の日本の大学は,教員や研究員が「研究」するよりも「経営」することに注力しなければいけない状態にあるからです.
安定した経営ができない大学運営者としては,教職員に学生募集とか広報といった活動を精力的に取り組ませることで,「この難局を皆で分かち合いたい」という気分にさせています.
結果,当初は上層部の先生たちの研究する時間が減っただけだったのですが,次第に大学全体で取り組むようになり,そのうち若手に振るようになったもんだから,若手が研究できなくなっている状態にあります.

ノーベル賞もそうですけど,その研究者が自身のキャリアにおける代表的な研究業績に取り組んでいた期間というのは,30歳〜40歳ぐらいの若手の時なんです.当たり前ですよね,その時が頭脳も体力も充実しているわけですから.
ところが,現在の大学はというと上記のような次第で,非常に多くの「画期的な研究の芽」をこれでもかと潰しまくっている状態です.

大学教育というのは,研究者である教員が取り組んでいる研究成果を資源としていますので,教員が研究できない状態というのは,これすなわち教育できない状態となります.
ところが残念なことに,世の中の多くの人々は,大学教育を学校の延長だとしかイメージできない人や,大学教育とまともに向き合わずに卒業した人が圧倒的多数を占めています.
だから,「大学で学んだことは社会で役に立たない」とか「これからの大学は,研究よりも教育にシフトすべきだ」などとトンチンカンな事を言い出しますし,それが多数派となる.

前置きが長くなってしまいましたが,高等教育無償化と抱き合わせるべき政策というのは,大学卒業基準の厳格化です.
現在のように,「Fラン大学」だとか「難関大学」だとか言って,「入学」することに価値を見出しているかぎりは,大学教育の無償化は絶対失敗します.

Fラン大学であっても,そこにいる教員の質が低いわけではありません.Fラン大学に勤めている時に良い研究業績を積んだり,流行りの研究テーマになったからということで有名大学に招かれるケースは多いものです.
なので,有名大学には「ハズレ」の先生が少ないとは言えますけど,研究者・教育者としての能力は,どの大学であっても,そこにいる教員に差はありません.

ところが,Fラン大学は「Fランだから」という理由で学生数確保に難儀し,入試による基礎学力の差から,卒業させるためのハードルは大学間で相対的なものになってしまいます.
その結果,「Fラン大学の卒業生よりも有名大学の卒業生の方が優秀」という状況が,なんだかんだで発生してしまう.

「Fラン大学の学生でも,しっかり育てれば学術的思考力はつくし,有名大学と比べても遜色ない能力を引き出せる」と考えている人たちは多く,私もその一人です.
しかし,文部科学省から大学に向けられる指示には,有名大学であろうとFラン大学であろうと,進級や卒業といった場面で,一定数以上の留年者や卒業延長者を出してはいけないという圧力が作用します.まさにお役所的発想ですね.別に批判するつもりはありませんが,非難したい話です.

学士のレベルを維持・向上させたいのであれば,進級・卒業のレベルを維持,または引き上げれば済む話です.
Fラン大学ではなおのこと,学習目標が達成できていない学生が多くなるはずなので,どんどん落とせばいい.
そうやって,どの大学に入学しても教育レベルが一定になるようバランスをとれば,卒業生の学術レベルは保たれることになります.
簡単な話だと思うのですが,世の人々には受け入れられません.不思議ですね.

それよりも「手厚い指導と支援により,進級できない学生や,単位を落とす学生を減らすように努力する」ことを求められます.
最近の大学では,学生が寝坊しないようにモーニングコールをしたり,保護者説明会や学生親睦会を頻繁に開くなどして,大学に登校しやすい配慮をするようになっているのをご存知の方も多いかと思いますが,それは上記のような理由によります.

もちろん,Fラン大学で優良大学並の厳しい(?)指導をしてしまうと,退学する学生や定員割れする大学が “最初のうちは” 頻出するであろうことは容易に予想できます.
しかし,それこそが「大学教育無償化」によって,Fラン大学の経営難を緩和すべきことなのです.

どの大学であっても卒業生のレベルに差はない.
もちろん完全にそんなことにはならないだろうし,各大学のオリジナリティなども出てくるはずですし,そうであってほしいとも思っているのですが,日本の大学教育無償化が目指すべき方向性だと思います.
これは夢物語ではなく,例えばドイツ系の大学では,「私は◯◯大学卒業です」といったステータスはなく,どんな学問領域を専攻したのかが問われるそうです.ドイツの人から聞いたので間違いないはず.
むしろ,日本のように大学間でステータスの差があることに驚いていました.

ですが,そんな簡単なはずの話が,なぜか「学部の切り売り」などという政策との合せ技になっているようですね.
つまり,政府としては大学教育を「民間経営」の思想と基準で進めていくつもりなのです.
ニュースにもあるように,経営を効率化させたり,人気学部を強化したりしたいのだそうです.
そもそも学部を切り売りしたところで,そんな学部を買う機関があるのか? あったとして,そんな機関はどんな所なのかが気になりますが,脳ミソがとっ散らかっているような政策であることは間違いありません.

この記事のタイトルですが,「絶対理解してくれない」というのは,大学教育を充実させ,大学教育を受ける機会を増やすことの恩恵を,世の人々が理解してくれないという意味です.
これは世論の理解は期待できませんから政治的に進めるしかないのですが,現政権には期待できません.むしろ悪化させる可能性大です.

一昔前も,どの国の「世論」も似たようなことを言っていました.
「学校なんかで勉強するよりも,丁稚奉公させたほうが仕事ができるようになる」
「頭のいい子供だけが勉強すればいい.こいつは頭が悪いから肉体労働をさせる」

時代が変わり,学校が大学に変わっただけのこと.10歳くらいの話が,20歳くらいの話になったわけです.
将来,50年〜100年くらい経ったら,今度は30歳,40歳といった社会人が学ぶ(という概念ではなくなっていると思うけど)機会を,国がどのように提供するか? について議論されていると思います.

教育とは,そこに完成形として存在するものではありません.流れのある話です.
遠い将来についての私見としては,「勉強・学習」というよりも,「研究・調査」という概念で進められる活動だと考えていますが,まぁ,これは完全に推測です.

学校や大学で勉強するのは,良い就職先にありつくためではありません.勉強が仕事に役立つわけでもない.
それらは,学校や大学で勉強することによって,随伴して得られるものであって,最大の目的ではないのです.

人が勉強するのは,より良く生きるためのヒントを得るためです.
それを踏み外した教育政策にならないよう注視していく必要があります.


2017年11月7日火曜日

私の天皇論

今上陛下が生前退位の意向を表明されてからというもの,ネット上でもこの議論をよく目にするようになりました.
平成30年を節目として譲位することが計画されているようです.
元号が変わることが決まっていると,なんだか楽しみですね.

私は生前退位には賛成します.
死ぬか心身がボロボロになってからじゃないと譲位できないというのは惨い話です.
歴史的には天皇の生前退位はいくらでもあったのですから,あとは在位中の天皇の意向に沿っても良いのではないかと思います.

私としては「天皇」のことについて何か論じるほど知識も関心も無いので扱ってこなかったのですが,一臣民として天皇をどのように捉えているかブログしておくことも良いかと思いキーを叩いています.
今回は,生前退位の件で取り沙汰されることの多かった,「万世一系」「男系継承」という点について.

まず明らかにしておいた方がいいであろう私の考え方として,日本に天皇をおくことについては諸手を挙げて賛成しています.
今の日本の在り方を象徴する存在として,天皇と皇室は無くてはならないものです.

しかし,天皇と皇室を廃止するような動きがあったとしても,これに頑なに反対するつもりはありませんし,何かしらの事件・事故等で皇室の皆さんがいなくなったとしても,日本が混乱して立ち行かなくなるような事態にはならないだろうと楽観してもいます.

右翼系の人のなかには情熱的に皇室を捉えている方々がいます.皇室がなくなったら日本ではなくなる,と考えている人も少なくありません.
別に彼らを批判しようってわけではありません.
むしろ,熱心な人達だなぁ,と感心している次第です.

逆に,皇室や天皇制を廃止しようと訴えている人たちを批判するつもりもありません.
彼らは彼らで,天皇に代わる何かを用意して日本国と日本人をやっていけるのでしょう.
別にそれでも構わないと思いますよ.

作家で元東京都知事の極右政治家とされる石原慎太郎は,「皇室は役に立たない」とか「天皇を最後に守るべきものではない」と言っているようですが,これは私も別の意味で賛成します.賛成するというのは,石原氏の考え方にではなく,表現に対してであって,私は真逆の意味で言っています.
つまり,皇室は役に立つためにあるのではないし,天皇よりも守るべきものは日本にはある.天皇や皇室とは,そういう「機能」とか「価値のランキング」にかけるようなものではない,というのが私の考えです.
もし,皇室や天皇が今の日本からなくなったとしても,おそらく日本人は「天皇のようなもの」を新たに創造して「日本」であることを確立させる.今,天皇制に反対している人たちは,そういう日本が見えているのかもしれません.

もちろんこれは今の日本であって,遠い将来においては,日本は天皇を戴いていたとしても「日本」ではなくなるであろうし,その時が,おそらくは天皇制を廃止する潮目なのかもしれません.
言い換えれば,「皇室があるから日本たりうるのではなく,日本たりえているからこそ皇室がある」ということ.
私は天皇と皇室の存在をそのように捉えていますし,どちらも遠い将来においては消えゆく定めをもっているものと考えています.
日本が近代に入ったことで,「消える」ことは決定的になったとも言えるでしょう.
そういう意味で,天皇制反対を唱えている人は,私からすれば時期尚早だし,せっかちだと思います.そんなに急がなくてもいつか必ず「天皇制の廃止」はやって来きますので,のんびり待っていてはどうでしょうか.

さて,そんな天皇の跡継ぎ問題ですが,私はこれにも楽観的で,むしろ男系であれば誰でも天皇にしていいのではないかと考えています.
これについては男系男子にこだわる右翼系の人たちとも意見が一致すると思います.

でも,私はそもそも歴代の天皇が男系だけで継承されてきたとは思っていません.
だからもっとゆるく捉えてもいいのではないかと,そういうことです.

皇位継承ですが,神話である神武天皇からのつながりはもちろんのこと,実在が有力視されている応神天皇や,一度途切れているのではないかされる継体天皇からの血筋も怪しいものです.
おそらく,明治天皇から現親王までの皇統は,メディアにさらされているので本当なのでしょう.
ですが,それ以前なんてかなり適当だと思いますよ.

昼ドラ的な話で,その女性が皇族ではない男性の子を身籠ってしまい,その子かその子孫が天皇になってしまった,なんて事態は容易に想像できます.
昼ドラ的な話じゃなくても,皇室がどうしても男子が欲しいという事態に迫られた時に誤魔化した場合だってあるでしょう.例えば,キチガイ地味た天皇やその側近が「男子が生まれなかったら殺すぞ」などと側室の女性を脅していたとしましょう.で,産まれたはいいけど残念ながら女子だった時に,その周囲の人達がこの女性を憐れんで,昨日どこかで産まれた男子を拾ってきて入れ替えた,なんて歴史ミステリーも想像できます.
こんなに複雑な話じゃなくても,都合に合わせて子供を用意したというのはあり得たのではないでしょうか.

なんにせよ,天皇の血統が男系だけで「本当に」継承されているというのは,人間模様を含めて考えれば確率的に言って非常に怪しいと思うんです.
私はなにも「皇統はデタラメだ」と言いたいわけじゃなくて,「万世一系」「男系継承」について,もっと遊びを持って捉えたほうがいいのではないかと言っているんです.

天皇の存在は,万世一系,男系継承されてきたから価値があるわけではない,ということ.もっと別のところにあるのではないか,私はそのように考えています.
現段階で私が捻り出せる言葉としては,「日本人が天皇という存在を共有する」という状況それ自体に,その存在価値があるのではないかと思うんです.そしてそれが,天皇を中心とした国の在り方と評される.

福田恆存が書いた『芸術とは何か』の冒頭に,「呪術について」という評論があります.
「呪術を用いていた原始人は,その効果を本当に信じていたのか? いや,彼らは呪術に効果などないことを知った上で,それでも呪術を用いていたのではないか」という趣旨なのですが,これが天皇を戴く日本にも同じこと言えるのではないかと思います.
これは,天皇が「君主」という側面よりも,「祭主」としての存在が強いことも親和性が高くなることに影響しているでしょう.

私が天皇を「役立つもの」でも「守るべきもの」でもないと言うのは,福田氏のこの文章で説明できます.
呪術は自然を客観的に説明するためのものでもなく,また直接的に自然を支配するためのものでもありません.それは人間が自然と合一するための行為であり,より純粋に,そしてより強烈に,みずからが自然物であることを意識し,その自覚に酔うための行為であります.
天皇は,世界に誇れるから残した方がいいわけでも,万世一系を保ち続けているから価値があるわけでもない.ましてや,価値があるから守るべきだとも思っていません.
天皇には何かの機能があるわけではない.我々日本人が,日本人であることを確認するために見つめているもの,それが天皇ではないかと思うのです.

その「見つめ方」には人それぞれあるでしょう.
天皇に国家の伝統を見る人もいれば,世界への自慢を見る人もいる.存在に反対する人もいれば,抹殺を企てる人もいる.彼らは各々の理由でもって天皇を見つめ,考え,それに酔っている.
でも,そういう見つめ方がたくさんあること自体が,この日本を形作っていることの証左であり,だからこそ私は天皇に「存在理由」などいらないというわけです.

天皇と皇室がどれだけ偉大なのかを,あれこれ理由をつけて説明したがる人がいます.
でも,そういうのに私は気持ち悪さが湧くんです.なんか違う,と.
これについても福田氏の文を引いておきます.
われわれ現代人が原始人を嘲笑することなど,もってのほかだ.かれらは知っていたのです.なにもかも知っていた ― すくなくとも現代の文明人以上に.つまり,かれらはだまされることを意識してだまされた.が,われわれはだまされまいとして,いや,だまされていないと安心していて,その結果,けっこうだまされている.
今の日本ほど,天皇のことを騒ぎ立てている時代はないのではないか? そして,その騒ぎ方は小賢しい理屈にまみれていて,天皇を戴いていることの本質から外れているのではかいかと感じています.