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大学無償化が有する薬効と害毒
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初等教育から高等教育までを無償化,もしくは大型の補助金を施した方が良いという議論は以前からありました.
既に高校無償化には着手していますが,大学もようやくそれが実ることになったというニュースです.
■大学無償化へ「教育国債」…自民が検討方針(読売新聞)
実際,現政府もそのような姿勢で臨んでいます.
「高校はまだしも,大学までもを義務教育と呼ぶのはいかがなものか」
と言う人もいましょうが,そういう人は教育のことを「社会に出て経済活動を営むための手法を学ぶこと」と考えているフシがあります.こういう人は,なにかにつけて「数学なら掛け算,割り算までできればそれでいい.方程式とか対数だとかイラネぇから」と言い出すので判別が容易です.
先日の記事,■「学校」が誕生した理由でも書きましたが,学校教育というのはビジネスマンや労働者を作るための機関と期間ではありません.
大学は就職予備校ではないのです.
前置きが長くなりました.
私なりに大学無償化について所感を述べておきます.
ネットを見ていますと,「国公立は無償化してもいいけど,私立はダメ」っていう意見が多いみたいですね.アンケートをとったわけではありませんが,どうせそんなことだろうと思います.大衆ってそんなものですから.
それなら,経営難に苦しむ私立大学から国公立化したい大学を募って,そこを国公立大学にしてしまえばいいのです.これで「私立の無償化はダメ」っていうのを解決できます.
これは冗談でもなんでもなくて,過去記事でも繰り返していますが,大学教育に関する最大の問題点は,
「大学を一般企業感覚で経営しなけばいけない状態にしてはならない」
ということに尽きます.
詳細は過去記事に譲りますので,「なんだか気に入らない」と感じる方は,先に本文末で紹介している過去記事一覧からご一読ください.
(■反・大学改革論のシリーズが面白おかしく読めるのでオススメです)
というか,私がこの「大学無償化」を進める上で危惧しているのは,まさにこうした「国公立大学は無償化してもいいけど,私立はダメ」という一般大衆のメンタリティ,乃至,思考パターンが,この政策に反映されてしまうであろうことです.
経営難大学の肩を持つわけでも,私立大学を擁護したいわけでもありません.
むしろ,この無償化政策において一番危険なのは,他でもない「国公立大学」です.
問題は至ってシンプル.
無償化の対象となる大学は,当然のことながら経営難からは解かれます.学費を払わなくてもいいのであれば,入学希望者は確実に増えるからです.現に,国公立大学を目指す学生の少なくない者が「学費が安いから」という理由で受験しています.
どのような制度になるのか今のところ不明ですが,おそらくは「入学者一人あたり◯円の運営費が充てがわれる」といったものになるのではないでしょうか.
つまり,無償化対象となる大学は大学運営上間違いなく「恩恵」を受けることになります.
するとどうでしょう.こうした恩恵を受ける大学に対し,「取引」として何かを「要求」したくなるのが人情というものでしょう.
「大学無償化の代わりに,政府や国民の要求を聞いてくれよ.例えばそうだな,スーパーグローバル化とか,ガバナンス重視とか,一部事業の外注化とか・・・」
そういうバーターが用意される可能性は非常に高い.
「大学の自治」「学問の自由」「人類普遍の価値の追求」こうした大学本来の存在意義が脅かされます.これが一番問題です.この問題が直撃するのが国公立大学なのです.
いや,むしろそうした「要求」を通すために用意したのが今回の「大学無償化」ではないのか? いわゆる “大学改革” が遅々として進まないことに苛ついた末の “飴” なのではないか?
現在の政治や民意を信用していない私としては,どうしてもその不安があります.
大学無償化は,繰り返される「社会的要望」と,「改革」の連続によって崩壊している現在の大学教育にとっては一筋の光明です.
しかし,もしこれが「社会的要望」と「改革」を推し進めるための起爆剤という裏の顔を隠しているのであれば,大学教育にトドメが刺されることになります.
文句ばかり言っててもしょうがないので,ちょっと理想を述べましょう.
大学教員である私としては,なるべく多くの人に大学教育を受けてもらいたいと思っています.この腐敗してきた現代社会において,本来の大学教育は必須です.
それこそ安倍首相が言うところの,「高等教育も全ての国民に真に開かれたものでなければならない」のです.
専門業務(医師,教員,技術者など)を目指した専門課程もありますが,これとはまた別に,一般教養を身につける必要があります.ここで言う一般教養とは,具体的な知識や技術ではなく,『モノの考え方』を指します.
※「モノの考え方」については過去記事で詳細を述べていますので,そっちをどうぞ.
例えば■これが身につけば大学卒業 とか
オルテガの大衆論は有名ですので割愛します.ここで注目したいのは,オルテガ自身が「バカ」と侮蔑する大衆のために,大学が機能しなければいけないと説いていることです.
これに関連して,何年かかってもいいので,是正した方がいい日本の大学の慣習があります.
偏差値や就職実績等による「大学の格付け」と,その格付けによる入学希望者の偏りです.
これについては興味深い事例があります.
例えばヨーロッパ諸国,なかでもドイツの大学には偏差値などの格付けがないため,どこの大学を卒業しても,同じ『大学卒業生』として認識されるという,日本人には俄に信じがたい状況があります.
これは大学論に関する書籍でも紹介されていますし,私もドイツ系大学を卒業した人から直接聞いたので間違いないでしょう.彼らはどこの大学に入学/卒業したかではなく,何を専攻していたのかが問われるのだそうです.むしろ,日本のように「東大・京大」「Fラン大学」などと格付けしていることが不思議なんだそうです.
なぜなら,どこの大学に行っても同じ教育が受けられるはずだからです.
大学教員なら分かってくれるかと思いますが,これは日本においても同様です.
「嘘だ!」と思われるかもしれませんが,本当です.
どの大学に通っても同じような教育は本当に受けられます.なぜなら,教員の質はどこの大学でも同じだからです.田舎の短大にも世界的権威はいますし,都市部の偏差値の高い大学であっても碌でもない教員はいます.
問題なのは,入学希望者の多少や,それに伴う経営状況によって,「一般人」だけならまだしも「文部科学省」からの格付としても優劣がつくこと.これによって大学ごとに授業スタイルや試験難度・評価基準が違ってきてしまうのです.
大学ごとで授業内容や質が違ってしまうのは,大学に対し格付をし,それが大学経営に影響するからに他なりません.
「お金を払って入学しているんだから,責任持って4年間で卒業させろ」という理屈が幅を利かせていますから,「学士」としての基準は大学ごとに違ってきてしまいます.
だって,Fラン大学でそれをやったら,「あそこは卒業しにくい」ということで入学希望者がさらに減り,経営難に拍車がかかりますから.
「◯大学は入学希望者が多いから優良,◯大学は定員割れしているから低劣」
いつから教育は大衆消費財になったのでしょうか.『ぐるなび』の星の数で居酒屋を決めるのとは訳が違うんですから.
まさにこの「大衆」を是正するのが使命のはずなのに,これでは世も末です.
大学数が多く「全入時代」と呼ばれているにも関わらず,それでいて予算が割かれていないという日本の現状を考えてみるに,私はこのヨーロッパ・スタイルの大学の在り方を模索することが大事なのではないかと思うんです.
もし,大学無償化と共に「卒業評価基準の均質化」にも着手するならば,私はここに希望を見ます.
そのためには,一定期間,一定数の「定員割れ大学」が出てきてしまうことを許容してもらわなければなりません.冒頭にも述べましたが,大学教育に関する最大の問題点は,「大学を一般企業感覚で経営しなけばいけない状態にしてはならない」ということに尽きるからです.経営努力によって高等教育の質を上げようとするのは間違いです.断言しておきます,碌なことになりませんから.
でも,社会的要望とか改革を進めるための取引材料として「無償化」を言い出しているのであれば,日本の大学教育は衰退を加速させることになるでしょう.
私の主張が根本的に納得できないという人は,根本的なボタンの掛け違いをしている可能性があります.
まずは以下の過去記事をご覧ください.
■この国難をなんとかするために大学教育
■大学教育を諦める
■大学における体育授業の意義
■大学における体育授業の意義2
■大学改革の凄惨さがニュースになっている
■オープンキャンパスをやって想う
■鳥無き島の蝙蝠たち(4)空海
既に高校無償化には着手していますが,大学もようやくそれが実ることになったというニュースです.
■大学無償化へ「教育国債」…自民が検討方針(読売新聞)
初等教育から高等教育までが一貫して無償である国はたくさんあります.
大学だけをみても,非常に高い水準でありながら,無償,もしくは極めて安価で高等教育を受けられる国があります.しかも外国人留学生を含めて.
有名なところでは,フィンランド,フランス,ドイツ,スペイン,スイス,スウェーデン,シンガポール,南アフリカ,メキシコなどでしょうか.
というか話は逆で,日本は教育費がめちゃくちゃ高いことで有名です.
■日本は教育に掛ける予算が少な過ぎ―実は先進国の中で最低クラス!(マイナビニュース)
しかも,国の教育予算もケチっているんです.なかでも大学,すなわち高等教育にかける国の予算が非常に低い.
■日本の子育て、教育予算 OECD最下位 国の怠慢は明らか
その上で「学校や教員はもっと努力しろ」って根性論を説かれるのですから,鬼畜以外の何者でもありませんでした.
■日本の子育て、教育予算 OECD最下位 国の怠慢は明らか
その上で「学校や教員はもっと努力しろ」って根性論を説かれるのですから,鬼畜以外の何者でもありませんでした.
ですから,教育関係者にとって「教育費の改善」は悲願でした.
大学無償化も,その願いの一つです.
大学無償化も,その願いの一つです.
さて,この「大学無償化」,これまで小学校から中学校までだった義務教育の範囲を大学まで拡大し,日本国憲法から文言を引けば,
すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。を論拠として採用することになるのでしょう.
実際,現政府もそのような姿勢で臨んでいます.
1月20日の施政方針演説では「憲法が普通教育の無償化を定め、義務教育制度がスタートした。高等教育も全ての国民に真に開かれたものでなければならない」と述べた。(読売新聞)高校や大学が「普通に受けさせた方がいい教育」であることは間違いありません.ですから,義務教育として扱って良いものと思われます.
「高校はまだしも,大学までもを義務教育と呼ぶのはいかがなものか」
と言う人もいましょうが,そういう人は教育のことを「社会に出て経済活動を営むための手法を学ぶこと」と考えているフシがあります.こういう人は,なにかにつけて「数学なら掛け算,割り算までできればそれでいい.方程式とか対数だとかイラネぇから」と言い出すので判別が容易です.
先日の記事,■「学校」が誕生した理由でも書きましたが,学校教育というのはビジネスマンや労働者を作るための機関と期間ではありません.
大学は就職予備校ではないのです.
前置きが長くなりました.
私なりに大学無償化について所感を述べておきます.
ネットを見ていますと,「国公立は無償化してもいいけど,私立はダメ」っていう意見が多いみたいですね.アンケートをとったわけではありませんが,どうせそんなことだろうと思います.大衆ってそんなものですから.
それなら,経営難に苦しむ私立大学から国公立化したい大学を募って,そこを国公立大学にしてしまえばいいのです.これで「私立の無償化はダメ」っていうのを解決できます.
これは冗談でもなんでもなくて,過去記事でも繰り返していますが,大学教育に関する最大の問題点は,
「大学を一般企業感覚で経営しなけばいけない状態にしてはならない」
ということに尽きます.
詳細は過去記事に譲りますので,「なんだか気に入らない」と感じる方は,先に本文末で紹介している過去記事一覧からご一読ください.
(■反・大学改革論のシリーズが面白おかしく読めるのでオススメです)
というか,私がこの「大学無償化」を進める上で危惧しているのは,まさにこうした「国公立大学は無償化してもいいけど,私立はダメ」という一般大衆のメンタリティ,乃至,思考パターンが,この政策に反映されてしまうであろうことです.
経営難大学の肩を持つわけでも,私立大学を擁護したいわけでもありません.
むしろ,この無償化政策において一番危険なのは,他でもない「国公立大学」です.
問題は至ってシンプル.
無償化の対象となる大学は,当然のことながら経営難からは解かれます.学費を払わなくてもいいのであれば,入学希望者は確実に増えるからです.現に,国公立大学を目指す学生の少なくない者が「学費が安いから」という理由で受験しています.
どのような制度になるのか今のところ不明ですが,おそらくは「入学者一人あたり◯円の運営費が充てがわれる」といったものになるのではないでしょうか.
つまり,無償化対象となる大学は大学運営上間違いなく「恩恵」を受けることになります.
するとどうでしょう.こうした恩恵を受ける大学に対し,「取引」として何かを「要求」したくなるのが人情というものでしょう.
「大学無償化の代わりに,政府や国民の要求を聞いてくれよ.例えばそうだな,スーパーグローバル化とか,ガバナンス重視とか,一部事業の外注化とか・・・」
そういうバーターが用意される可能性は非常に高い.
「大学の自治」「学問の自由」「人類普遍の価値の追求」こうした大学本来の存在意義が脅かされます.これが一番問題です.この問題が直撃するのが国公立大学なのです.
いや,むしろそうした「要求」を通すために用意したのが今回の「大学無償化」ではないのか? いわゆる “大学改革” が遅々として進まないことに苛ついた末の “飴” なのではないか?
現在の政治や民意を信用していない私としては,どうしてもその不安があります.
大学無償化は,繰り返される「社会的要望」と,「改革」の連続によって崩壊している現在の大学教育にとっては一筋の光明です.
しかし,もしこれが「社会的要望」と「改革」を推し進めるための起爆剤という裏の顔を隠しているのであれば,大学教育にトドメが刺されることになります.
文句ばかり言っててもしょうがないので,ちょっと理想を述べましょう.
大学教員である私としては,なるべく多くの人に大学教育を受けてもらいたいと思っています.この腐敗してきた現代社会において,本来の大学教育は必須です.
それこそ安倍首相が言うところの,「高等教育も全ての国民に真に開かれたものでなければならない」のです.
専門業務(医師,教員,技術者など)を目指した専門課程もありますが,これとはまた別に,一般教養を身につける必要があります.ここで言う一般教養とは,具体的な知識や技術ではなく,『モノの考え方』を指します.
※「モノの考え方」については過去記事で詳細を述べていますので,そっちをどうぞ.
例えば■これが身につけば大学卒業 とか
大学教育について,スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットは,著書『大学の使命』でこう述べています.
大学は,まず第一に,平均人が受けるべき高等教育として存立する.ここで出てきている「平均人」とは,いわゆる「大衆」のことです.
オルテガの大衆論は有名ですので割愛します.ここで注目したいのは,オルテガ自身が「バカ」と侮蔑する大衆のために,大学が機能しなければいけないと説いていることです.
この平均人を何よりもまず,教養ある人間にすること,すなわち,その時代の高さへと導くことが必要である.それゆえ,大学の第一の,かつ中心的な課題は,大きな教養学科の教授にある.
そのためにこの日本で出来ることはなんでしょうか?
大学の数は足りています.「全入時代」と揶揄されるくらいです.
では,実際に「全入」できるかと言うとそうではありません.学費が大学教育を受けるためのハードルになっています.大学無償化は,そのハードルを下げることに貢献するでしょう.
バカは群れることで力を発揮します.
ネットで炎上してたり,街角で拡声器持って行進してたりする連中です.誰かが上げた声に同調,便乗することによって元気づくのがバカの特徴です.安心感を得たいのですね.これについてもオルテガは述べています.
ネットで炎上してたり,街角で拡声器持って行進してたりする連中です.誰かが上げた声に同調,便乗することによって元気づくのがバカの特徴です.安心感を得たいのですね.これについてもオルテガは述べています.
人々はきわめて安易な,気まま勝手な世界を自分のまわりに作り上げて暮らしているのだ.だが彼らは不安を抱いている.今日の平均人は,大言壮語の身振り手振りをしてはいても,心底ではひどくものおじしている.彼らは,非常に多くのことを要求しきたるであろう真実の世界が現れるのを恐れている.だから彼らは,むしろ進んで生をいつわり,最も安易な,虚構の世界の殻の中へ,おのれの生を深く封じ込んでしまうのである.
そこに,大学の使命の歴史的重大性が存している.人間を啓発すること,時代の全文化を伝達すること,生が真正であるためにそこへ生がはまり込まねばならぬところの巨大な現代の世界を,明瞭かつ正確に露呈すること.この中心課題を大学は取り戻さねばならない.
より多くのバカを治すためにも,より多くの人に大学教育を受けさせる必要があります.
でも,今のままではダメなところもあります.
群れて拡声器持って行進するような奴が,大学にこそ多い.
大学について真面目に考えてこなかった,この国らしい姿です.
偏差値や就職実績等による「大学の格付け」と,その格付けによる入学希望者の偏りです.
これについては興味深い事例があります.
例えばヨーロッパ諸国,なかでもドイツの大学には偏差値などの格付けがないため,どこの大学を卒業しても,同じ『大学卒業生』として認識されるという,日本人には俄に信じがたい状況があります.
これは大学論に関する書籍でも紹介されていますし,私もドイツ系大学を卒業した人から直接聞いたので間違いないでしょう.彼らはどこの大学に入学/卒業したかではなく,何を専攻していたのかが問われるのだそうです.むしろ,日本のように「東大・京大」「Fラン大学」などと格付けしていることが不思議なんだそうです.
なぜなら,どこの大学に行っても同じ教育が受けられるはずだからです.
大学教員なら分かってくれるかと思いますが,これは日本においても同様です.
「嘘だ!」と思われるかもしれませんが,本当です.
どの大学に通っても同じような教育は本当に受けられます.なぜなら,教員の質はどこの大学でも同じだからです.田舎の短大にも世界的権威はいますし,都市部の偏差値の高い大学であっても碌でもない教員はいます.
問題なのは,入学希望者の多少や,それに伴う経営状況によって,「一般人」だけならまだしも「文部科学省」からの格付としても優劣がつくこと.これによって大学ごとに授業スタイルや試験難度・評価基準が違ってきてしまうのです.
大学ごとで授業内容や質が違ってしまうのは,大学に対し格付をし,それが大学経営に影響するからに他なりません.
「お金を払って入学しているんだから,責任持って4年間で卒業させろ」という理屈が幅を利かせていますから,「学士」としての基準は大学ごとに違ってきてしまいます.
だって,Fラン大学でそれをやったら,「あそこは卒業しにくい」ということで入学希望者がさらに減り,経営難に拍車がかかりますから.
いつから教育は大衆消費財になったのでしょうか.『ぐるなび』の星の数で居酒屋を決めるのとは訳が違うんですから.
まさにこの「大衆」を是正するのが使命のはずなのに,これでは世も末です.
大学数が多く「全入時代」と呼ばれているにも関わらず,それでいて予算が割かれていないという日本の現状を考えてみるに,私はこのヨーロッパ・スタイルの大学の在り方を模索することが大事なのではないかと思うんです.
もし,大学無償化と共に「卒業評価基準の均質化」にも着手するならば,私はここに希望を見ます.
そのためには,一定期間,一定数の「定員割れ大学」が出てきてしまうことを許容してもらわなければなりません.冒頭にも述べましたが,大学教育に関する最大の問題点は,「大学を一般企業感覚で経営しなけばいけない状態にしてはならない」ということに尽きるからです.経営努力によって高等教育の質を上げようとするのは間違いです.断言しておきます,碌なことになりませんから.
でも,社会的要望とか改革を進めるための取引材料として「無償化」を言い出しているのであれば,日本の大学教育は衰退を加速させることになるでしょう.
私の主張が根本的に納得できないという人は,根本的なボタンの掛け違いをしている可能性があります.
まずは以下の過去記事をご覧ください.
■この国難をなんとかするために大学教育
■大学教育を諦める
■大学における体育授業の意義
■大学における体育授業の意義2
■大学改革の凄惨さがニュースになっている
■オープンキャンパスをやって想う
■鳥無き島の蝙蝠たち(4)空海