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「何を教えたか」から,「何を学び、身に付けることができたのか」への転換が必要となる

これからの大学・高等教育が目指すべき姿


タイトルの言葉ですが,これは私が言っていることではありません.
これまで過去記事で散々に批判していた文部科学省・中央教育審議会が提示した言葉です.

引用先はこちら↓
2040年に向けた高等教育のグランドデザイン(答申)(中教審第211号)(文部科学省HP 2018.11.26)

これから先20年の将来像,つまり2040年までのグランドデザインを文科省が取りまとめています.

実はこの将来像,私が過去10年間くらい批判してきた高等教育の現状についても考慮されており,かなりしっかりとしたグランドデザインが描かれています.


ただ,やっぱり注目されやすいのは「減少する18歳以下人口への対処」なんですけど,その点については現状把握にとどまっていて,2040年までに実行すべき方法は提示されていません.

しかし,その現状把握の断片を集めれば,結局のところ,
「現在の運営体制では立ち行かなくなるから,どこかで覚悟をもった大きな転換が必要」
であることは確実です.

これらのことについては,過去記事で「私なりの大学改革」を書いたことがあります.


ちなみに,文部科学省が出しているのは2040年に向けたグランドデザインですけど,行政の経済対策や国際政策によっては,2030年くらいに転換点がくると私は思っています.

その理由を簡単に言えば,
「2025年くらいから,学費を払える世帯が激減してくるので,学費補助政策が追いつかないと,大学に行く価値を見出さなくなる高校生や保護者が増えてくるし,求人に困っている企業側も,わざわざ大卒を採用するところが減ってくる」
といったところ.

このようなムーブメントが臨界点を突破すると,一気に「大学不要論」が幅を利かせるようになるから,大学関係者は気合を入れて,ここ5年くらいを過ごさなければならない,という話.


ただ,今回はそんなことを述べたいのではありません.
これまでデタラメな高等教育政策を展開してきたあの文部科学省が,
これからの大学教育は,「何を教えたか」から,「何を学び、身に付けることができたのか」への転換が必要となる
などと,極めてまともな答申をしてきたことです.
これは結構な勢いで光明です.




就職予備校モデルから生活技能開発モデルへ


これまでの大学は,
「学生に高い専門知識とスキルを習得させ,専門的技能を必要とする職業に就かせることを目指す」
というタイプが多かったと思います.

しかし,実はこれには大きな欺瞞があります.
圧倒的多くの職業で必要とされる知識やスキルとは,大学に通ったからといって身につくものではなく,就職後の研修や経験で習得している,という現実です.

「大学で勉強したことは,実際の仕事では役に立たない」
と揶揄されていることは,皆様ご存知の通りです.
っていうか,そんなつもりで大学側も教育していないし.


ですから,そんな建前や誤魔化しはやめにしましょう,実際に必要とされている「大学」の機能を優先しましょう,というのが文部科学省のグランドデザインにも記されています.
「何を学び、身に付けることができたのか」という点に着目し、教育課程の編成においては、学位を与える課程全体としてのカリキュラム全体の構成や、学修者の知的習熟過程等を考慮し、単に個々の教員が教えたい内容ではなく、学修者自らが学んで身に付けたことを社会に対し説明し納得が得られる体系的な内容となるよう構成することが必要となる。
句読点の打ち方が悪く,かなりの悪文ではありますが,言いたいことは分かりますね.

実際のところ,あとで玉虫色の解釈ができるようにしたいのでしょうけど,具体的な構想として以下のことを挙げています.
学生や教員の時間と場所の制約を受けにくい教育研究環境へのニーズに対応するとともに、生涯学び続ける力や主体性を涵養するため、大規模教室での授業ではなく、少人数のアクティブ・ラーニングや情報通信技術(ICT)を活用した新たな手法の導入が必要となる。
学修の評価についても、学年ごとの期末試験での評価で、学生が一斉に進級・卒業・ 修了するという学年主義的・形式的なシステムではなく、個々人の学修の達成状況がより可視化されることが必要となる。
そうなってくると,現在の「大学」という仕組みが必要なのか極めて怪しいものです.

ですから,私も例の「大学改革」の記事で,
「教員がやる授業はいらない.授業アプリで受講すればいい」
「教員はゼミ(少人数の面談授業)として実習・演習をする存在になる」
「大学は入学するのではなく “登録” する時代になる」
「卒業させなくていい」
といった提案をしているのです.


文部科学省の答申には,さらにこうあります.
また、個々の教員の教育手法や研究を中心にシステムが構築されるのではなく、学修者の「主体的な学び」の質を高めるシステムを構築していくためには、高等教育機関内のガバナンスも組織や教員を中心とするのではなく、学内外の資源を共有化し、連携を進め、学修者にとっての高等教育機関としての在り方に転換していく必要がある。
危険な匂いがプンプンする言葉が並んでいますが,きちんとしたグランドデザインを敷いた上で改革するなら,私はこの認識を全否定しません.


もし日本が,このままの方針で2030年〜2040年を迎えることになれば,ほぼ間違いなく「現在の大学運営方法」では教育現場が崩壊します.

ですから,特に上記の文の最後にある,
学内外の資源を共有化し、連携を進め、学修者にとっての高等教育機関としての在り方に転換していく必要がある。
というところは非常に重要.

これについては,特に以下の記事で詳しく書きましたが,
つまりは,学修者(学生)が大学教育を受ける価値を見出すためには,事前にその必要性を感じなければいけません.
教員がその必要性を喚起するなんてのは,かなり無理のある仕事です.

したがって,特殊な専門技能を有する職業(医師,教師,研究員など)以外であれば,その仕事に就いてしまってからの方が「必要性」を感じやすいでしょう.

ですから,一部の大学を除いては,「高等教育機関・大学」というところを「就職のためのステップアップ」としての場ではなく,「就職後のスキルアップ」のための場へと方針転換した方が良いのです.
むしろ,そうしなければ大学運営がままならないし,現在存在している大学教員のほとんどを無駄にリストラするハメになるんです.

もっと言えば,現在「就職に役立たない」からと切り捨てられている分野(文学,哲学,歴史など)の教員・研究者は,生涯学習としての位置づけや,市井の研究家との連携を模索することで復活できる可能性があります.


ただし,上記のような大学改革を進めるためには,高等教育としてのグランドデザインだけではなく,日本国としてのグランドデザインが必要です.

今まで以上に,「高等教育」や「大学」に国はお金を出さなければなりません.
つまり,国公立であろうと私立であろうと,純粋な学費だけで大学経営を賄うことは,より一層難しくなるでしょうから,
「大学は,日本社会と日本人の学術レベルを維持・啓蒙するためのインフラ」
と位置づけて,日本国民の生活の中に組み込まれるようにしなければなりません.

これも過去記事で詳しく述べていますが,今後の大学は,年間の学費を5〜10万円くらいまで抑えて,教員は授業ではなく「学生との共同研究」をする職業にすると良いと思います.
その方が,学生・教員にとってお互いのためというもの.


しかし,もしこのグランドデザインが,高等教育の予算削減と緊縮方針のもとで実行されたら,その時は目も当てられないほど悲惨な状況になることでしょう.

そうならないことを祈っております.


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