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『21 Lessons』を読む|これからの人類の教育について

『21 Lessons:21世紀の人類のための21の思考』を読んだので,その感想を述べます


『サピエンス全史』『ホモ・デウス』の著作で有名な,ユヴァル・ノア・ハラリ氏が最近上梓した『21 Lessons(トゥエンティワン・レッスンズ)21世紀の人類のための21の思考』.


出版されたのは先週くらい.
出来たてホヤホヤの本です.
読了したので,この本で語られていること,考えさせられたことを皆様にもお裾分けしたいと思います.
興味が湧いた人は,実際に手にとって読んでみてください.


今回は,その中でも我々教育関係に携わる者として「教育」の部分に焦点を当ててみます.
本書の中では,第5章にあたるところです.


まず,この本の性格ですが,ハラリ氏がこれまでに出してきたものから位置づけると,『サピエンス全史』が人類の過去,『ホモ・デウス』が未来に焦点を当てたものであるのに対し,今回は「現在(近い将来)」についてです.
これはハラリ氏自身が本書内でそのように述べていますし,実際にそのようになっています.

「現在(近い将来)」とはどの範囲のことかと言えば,今から先,10年〜20年程度のことが語られています.

もちろん,ハラリ氏も本書内で言うように,
「将来のことを完全に予測・予言することはできない」
わけなので,ここで氏が語っているのは,『サピエンス全史』によって考察された人類のこれまでの歩みと,『ホモ・デウス』で予見した,人類が求めるであろう遠い将来の姿から,
「現在の人類の振る舞いから察するに,おそらくこんな状態になっていくであろう」
ということを分析しているのです.


例えば,「雇用」や「政治」について言えば,この先,人工知能技術や検索アルゴリズムなどが高度に発展してくると,そうしたテクノロジーの方が,人間の理性的判断や直感といったものよりも「有益」で「正確」になってしまうことが考えられます.

現在においても,多くの人々は「グーグル検索」にひっかかるものを「正しいもの」「この世に存在するもの」として認識するようになっていますし,Amazonのオススメ商品やフェイスブックのコミュニティ検索についても,以前よりも精度の高い結果が示されるようになっています.

こうしたテクノロジーがさらに発達し,いろいろな職業における「検索業務」や「適切な工程判断」といった業務のために導入されたらどうなるか.

すると,いくつかの仕事や政治活動においては,人間よりもコンピューターの判断に頼った方が有利になる時代が現れるのです.
特に,今現在において「高度な知的判断が必要な仕事」だとされていた職業こそが,一気に存在意義を失う可能性があり,その影響は他の職業にも波及するであろうというもの.

実際,テクノロジーの発達によって真っ先にクビが飛ぶ職業として,法律事務所関係や金融関係の仕事が挙がることが多いようです.
オックスフォード大学が認定 あと10年で「消える職業」「なくなる仕事」(講談社HP 2014.11.8)

さて,そんな10年〜20年後の将来における「教育」の様子はどのようなものでしょうか?





現在の「知識を詰め込む」タイプの教育は消える


かねてより提唱している人が多い「詰め込み教育不要論」は,テクノロジーの発達によって現実のものとなります.

ハラリ氏は,情報収集の規模が大きく多様になっていく将来において,詰め込み教育では対応できなくなると述べます.


この教育論については,以前から反論もありました.
テクノロジーが発達して情報収集が容易になったからと言っても,ある程度の知識を「教育」によって植え付けなければ,「生きた知識」にならない,というものです.

しかし,情報収集の方法が新聞,テレビ,パソコン,スマートフォンといった進化までならそれも言えるでしょう.

ところが,これから先に考えられるのは,「自分で調べる」「検索する」といった手間暇をかけることなく,本人に必要な情報が自動的に提示されるテクノロジーの誕生です.

具体的な表示方法がどのようなものになるかは不明ですが,例えば以下のような社会が考えられます.

スーパーマーケットで商品,例えば魚の「サンマ」を買おうとすると,購入者本人の身体動作や姿勢を読み取って,コンピューターが自動的に目当ての商品に関する情報を提供します.
それは指向性高い立体ホログラムなのか,視神経や聴覚神経を介してアップロードされるかは不明ですが,購入者にその商品が「サンマ」であることだけでなく,調理例や旬の季節,どこで採れたものか,とった情報を提供します.
さらには,現在の家計や冷蔵庫の中身から考えて,他に購入しておいた方がいい商品や,各種ニュースから商品に関連する情報をシームレスに本人に伝えるようになります.
しかもこれは,Amazonのオススメ商品の仕組みのように,本人の好みや事情を学習したものになっているでしょう.


「そんな世界になったら,人間はコンピューターに支配されているようなものだ」
「人間としての能力が失われる」
と警鐘を鳴らす人もいるかもしれません.

しかし,それは現在においても同じことです.

電話やインターネット,メールが誕生した時,人間としてのコミュニケーション能力が失われると警鐘を鳴らした人はたくさんいました.
実際,かつての人々が培ってきたコミュニケーションは失われています.

もはや今どき,メールを送信する際に,相手に電話を一本入れる人なんかいません.

あと,携帯電話と共に「アプリケーションとしての電話帳」が普及したことで,電話番号を覚えることがなくなりましたが,その黎明期においては,これを「人間の能力が低下する」と心配する声もあったのです.


では,我々人類は電話やインターネット,メール,SNSを手放すでしょうか?
当然,手放すことはありませんし,人間としての能力が失われているわけでもありません.

人間は,テクノロジーを発達させれば,それに適応するための能力を求められます.
テクノロジーが発達したからといって楽になるわけではなく,楽になった分を他のことに注ぐことになります.





これからの人類は何を教育すべきか?


多くの教育学の専門家は,将来の学校は方針転換して,子供たちに「4つのC」を教えるべきだとしています.

それは,
(1)批判的思考(critical thinking)
(2)コミュニケーション(communication)
(3)協働(collaboration)
(4)創造性(creativity)
です.

これについてハラリ氏は,これまでの学校のように専門的な技能の習得に重点を置かず,汎用性のある生活技能を重視するべきだ,としています.
ここで高めたい能力とは,
「変化に対応し,新しいことを学び,馴染みのない状況下でも心の安定を保てる能力」
だと述べています.


さて,この文言に聞き覚えのある日本の大学教員は多いでしょう.
そうです.
文部科学省の大学改革の方針がこれなのです.

予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ(文部科学省HP 2013年)

そこにはこうあります.
高度成長社会では均質な人材の供給を求めた産業界や地域が今求めているのは、生涯学ぶ習慣や主体的に考える力を持ち、予測困難な時代の中で、どんな状況にも対応できる多様な人材である。
つまり,日本の大学改革の方針を,学校教育にも向けるべき時代になったのです.


ハラリ氏は,これからの学校教育全般に求められているのは,
情報を収集する能力ではなく,膨大な情報の海のなかで,重要なものとそうでないものを見分ける能力.
そして,大量の情報の断片を結びつけて,世の中の状況を幅広く捉える能力だ.
と分析しています.


手前味噌になりますが,この「能力」は,私がかねてより本ブログで唱え続けてきた大学教育論とも通じます.

例えば,以下のような記事でそれを紹介しています.

さらに,上述されている「4つのC」についても,それを「体育」の授業で学習できることにも言及したことがあります.

最近は,ようやく分野外の先生方にも周知され始めましたが,大学生にとって「体育」って結構重要な学習科目なんですよ.
その意義を再確認した方がいいのですが,時既に遅しであるようにも思います.


ちなみに私は,大学教員の公募資料でよく求められる「教育の抱負」においても,
「これからの学生に必要なのは,情報を収集する能力ではなく,取捨選択する能力だ」
という趣旨の作文をいつも書いて提出していました.
面接とかでもそのように答えています.
相手がどう感じているか知りませんけど.


ところで,
「だったら日本の大学改革の方針は正しいんじゃないのか?」
と思われる人も多いかもしれませんが,残念ながらそうはなりません.

たしかに,
「予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学」
というスローガンはいいですよ.
私もそういう教育・指導をしているつもりだったし.

ですが,文部科学省が提唱している大学改革は,そのスローガンとは真逆の方向性を有する「教育方法」をとらせようとします.


本当にこの「予測困難な時代において 生涯学び続け、主体的に考える力」をつけさせたいのであれば,ハラリ氏が述べるように,
「専門的な技能の習得に重点を置かず,汎用性のある生活技能を重視する」
となるはずなのですが,日本の大学改革はなぜか「専門的な技能の習得」を頑張ろうとします.

キャリア教育だの,実践的指導だの.
就職やビジネススキルとは縁遠い領域(文学とか哲学とか,あと体育とか)は置いてけぼりです.
本来ならば,そういう学術領域にこそ「汎用性のある生活技能」が埋め込まれているのに,パッと見でイメージしづらいからでしょう.

最近では「専門職大学」なるものを構想し,無理やり押し通しています.
その件については私の過去記事シリーズをどうぞ.


なんのことはない.
ようするに,
「(経営が苦しい)企業の要望を聞き入れた大学カリキュラムにしたい」
「(将来のことよりも)即戦力になる社会人を輩出させる教育機関にしたい」
ということ.


その仕事,10年後に消えてるかもしれませんよ.

・・っていう次元の議論をしなきゃいけない省庁なのに,そんな時代が「予測可能」であることを前提とした改革を進めているのが,なんともシュールでたまりません.

おいおい,予測困難なんじゃないのかよ,って感じです.


最後に・・・


これからの大学の在り方についても,ハラリ氏の見解は私の予想と類似しています.
本書を基に,また追って記事にしたいと思います.

私なりの「将来の大学」はこちらをどうぞ.


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