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危ない大学には危ない教員がいる

先日,本ブログの「危ない大学シリーズ」を読んでくれている大学教員のお一人から,私と情報交換をしたいとのお誘いがありましたので一席設けてきました.
興味深いお話とビールをありがとうございます.この場を借りてお礼申し上げます.

この先生,いわゆる「危ない大学」として,その名を業界の津々浦々まで響き渡らせている,知る人ぞ知るマジで危ない◯◯大学に勤務されている方です.
関係者の皆様に悪影響があると良くないので,大学名は伏せさせていただきます.


赴任した後「まさかこれ程までとは」と思われたそうですが,実はその大学とは私もちょっとしたご縁がありましたので,内部事情が気になっていたところでして.
私がその大学の採用面接を受けた時,面接担当者が話す建学の理念を聞いて「この大学はダメだ」と思っていたので,あぁ,あそこはやっぱりダメだったんですね,と確認できたところでございます.

「建学の理念なんて,あってないようなものだ」と言う人もいますが,建学の理念を舐めてはいけません.
自分たちがどのような大学を作りたいのか,それが人間のためになるのか否かが大切です.
大学が運営方針などに悩んだ時,そこでどのような舵取りをするのかは建学の理念に依るからです.

建学の理念がおかしいと,そこに所属する人たちの行動もおかしくなります.まともだと思っていた人も,タガが外れたように狂った行動をとるようになる.
結果,建学の理念がおかしくて運営方針がデタラメな大学は「危ない大学」になってしまいます.

危ない大学の条件はいろいろありますが,その一つに「教員として危ない奴がいる」というものがあります.
まあ,これは上述したこととの合わせ鏡になっているので,危ない大学だから教員も危ない奴になってしまうという側面もあります.
ですが,危ない大学では危ない教員がのさばりやすくなるのは確かです.

以前,そんな記事も書きました.お暇でしたら,こちらもどうぞ.
危ない大学に奉職してしまったとき「厄介な教員対策」
こんな大学の教員は危ない part 1


でも,今回お話ししたいのは,危ない大学にいることによって「危ない教員」になってしまうことではなくて,「もともと危ない教員」が危ない大学に奉職することによる害悪です.
冒頭にご紹介した危ない大学においても,やっぱり危ない教員がいるそうです.そして,こういう教員が職場を荒らす.

過去記事でも書いていますが,私は「危ない大学は潰してしまえ」とは思いません.潰れてしまうのは仕方ないですが,わざわざ潰す必要はない.
それぞれの大学に集まっている先生方は,その多くがまともな大学教員だからです.
皆さんがまともに仕事をすれば,大学はどこもまともになれます.
ところが,それを「危ない教員」は阻害します.

よく,危ない教員は「こんな大学やってられるか!」と文句をたれますが,実は彼らはまともな大学を望んではいません.
まともな大学では,彼ら「危ない教員」は生き残れなくなりますし,彼らが声を荒げて主張しているようなことを「まともな大学」は受け入れませんから.

突き詰めるところ,危ない教員とは,己が「大学教員」でありたいだけなのです.
大学教員になりたいから大学教員になった.そんな感じ.
そして,得てしてこういう教員は危ない大学に奉職し,不満を撒き散らして職場を荒らします.
どうしてそんなことになるのか.

危ない大学では,とりあえず在籍してくれてれば誰でもOKみたいなところがあります.
当然,そうなると売名目的や「大学教員」というステータスが欲しいという理由,「それだけ」で働く奴が現れます.
働いてくれてればまだマシ.働かない奴もいます.

大学教員になる人って,たいていは「研究するのが好き」もしくは「就活せずに流れに任せてたら成り行きで」とか,あとは本気で「学生の教育がしたいから」という理由です.
この内のどれか一つということではなくて,この3点が混在しています.

ところが,危ない教員は「大学教員」という仕事をするよりも,他にやりたいことがあるんです.
つまり,「研究」と「教育」と「浮世離れ」といった大学教員として必要な要素ではなく,それとは180度異なる,売名とステータスなんですね.
典型的なのは,テレビやラジオ,大衆紙に取り上げられることを好みます.

悲しいのは,彼らにとっての大学教員とは,偉くて,有名になれて,チヤホヤされている存在だと考えていることです.
まともな大学教員だとそういう価値観そのものが弱いので気にしませんが,俗物根性にまみれた人はそう考えちゃうんです
むしろ,「大学教員の多くは,非現実的な世界で脳天気に暮らしている」などと言い出すのは,こういう危ない教員であることが多い.

でも,こういう危ない教員は何かにつけて劣等感を持つことになります.
大学とは第一に研究と教育を行うところであり,浮世離れした存在でも許されるからです.
研究も教育もバリバリやって,それで上記のようなことを言うのであればいいんです.
でも,いわゆる危ない教員は,研究も教育もしません.

一般書籍や大衆紙に向けて書くことは多いのですが,研究誌や学術書は書かないのが危ない教員です.
もちろん,大学ではそんな人は蔑まれます.だから彼らはそういう自分のコンプレックスを隠すため,「私はこんなに有名だ」「社会的な評価を得ている」とアピールしたがります.「研究業績はないけど社会的な業績はある」「教育に時間を割いていないけど,それは別の仕事が忙しいからだ」というように.
彼ら危ない教員にとっては,それこそが大学教員らしい評価だと考えているからです.

つまりは「困ったちゃん」なのですが,現在の余裕のある大学であれば,そういう奴は放っといてもさほど害はありません.
たまにブツクサ言うこともありますが,その大学における常識的空気や,それらが作り出す周りの目が怖いから黙ってることが多いんです.
ところが危ない大学においては,こういう教員こそ「発信力がある」とか「大学教育の在り方を変える突破力がある」などと評価され,そして意外と経営者からのウケはいい.
だから問題です.

他の教員がまともに「大学教員」ができなくなるんですよ.
ちゃんとした授業をやろうとしても,それにコンプレックスを持っている彼らが潰しにかかってきたり,意味不明なイチャモンをつけたりします.
研究しようとしても,そんなところに回す予算があったら,もっと学生のためになることに割いてはどうか? などと心にもないことを言い出します.

教員自身がちゃんと研究して,それを資源とした教育をする.
それが大学教育の根幹ですが,危ない教員としては,それを否定しなければ自分の立つ瀬がないと思っているので潰したいんです.
結果として,その大学が立ち直るための道を断つことにもなっています.
負のスパイラルというやつですね.

ある意味において,研究しない教員がいたっていい.私はそう思っています.
でも,それにはきちんとした条件と理由がありますし,マイナーな存在だとも考えています.
ところが,危ない教員はそういう評価軸があることを理解してくれません.

寂しい話ですが,こうした事態を改善することは絶望的です.もう無理だと思っています.
これについては話が長くなるので,詳しくは過去記事を読んで下さい.


 
 

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