2017年4月14日金曜日

井戸端スポーツ会議 part 43「小林秀雄が語るスポーツの精神」

先月,
大学生用:一人で運動しよう
という記事を書いて,「雪山の武甲山に登ったよ」という話をしました.
そこでは,
「単独登山は危険ではないか?」については,また別の機会に取り上げます.
ってことにしていましたので,ここでそれを取り上げます.
そう言えば 昨日の記事でも,少し前に発生した「雪崩遭難事件」のことにも触れましたので,この手の「危険が伴うレジャー・スポーツ」に関する話をしたいと思います.

本件について,マスメディアでも学術界でもいろいろ論じられていますが,今回はちょっと毛色の違う引用をしてみました.
小林秀雄 著『人生について』に掲載されている「スポーツ」からの引用です.

小林秀雄は「批評家」として知られる著名な作家,文芸評論家です.
小林秀雄(wikipedia)
保守思想家としての側面も持っているとされますが,私はまだイマイチぴんと来ません.
ただ,この人の著書や講演音声記録は以前から目・耳に入れているのですが,スルメのように噛めば噛むほど味わい深いので気に入っています.

そんな小林秀雄ですが,実は大のスポーツ好きだったという話はあまり目にしませんね.
本人もいろいろな評論文で言及しており,スキー,野球,ゴルフ,登山などを熱心に楽しんでいたようです.
ゴルフを嗜む小林秀雄
wikipediaより
上述した『人生について』で,小林は「危険が伴うレジャー・スポーツ」について論じていますので,それを引いてみます.
新聞を見ていると,近ごろ,山の遭難が非常に多い.まことに遺憾なことである,と世の識者は嘆いている.むろん,遺憾でないことはないのだろうが,貴い青春を,たかが山登りなぞというつまらぬ遊びで失うのは愚の骨頂だ,という意見には組することはできない.考えてみれば人生,なんのために死ぬのが愚であるか,わかったものではない.そんな高踏的な意見を,私は持っていない.ただ私は,スポーツが好きだから,スポーツの好きな人々のスポーツから来る幸不幸には,スポーツの精神をもって対したいというまでだ.
「スポーツの精神をもって対したい」というのが重要な視座です.
スポーツの精神をもって対すれば,登山における遭難事故に対する批判,例えば,「レスキュー隊を出すにも予算がかかるんだ」「危険な登山は自己中のやることで,社会にとっては迷惑でしかない」などという批評は的外れだということです.

では,スポーツの精神とはなんでしょうか?
小林秀雄はこう述べています.
この精神は,おそらくオリンピック以来少しも変わっていないと思う.オリンピックが語るとおり,スポーツの起源は,宗教的なものだ.選手たちは戦いの動機の純粋性を互いに信じ合い,戦う条件や手段の公示と潔白とを認め合い,審判の絶対性に対する共通の信仰を持つ.
これを私なりに解釈したのが■人間はスポーツする存在であると■スポーツと資本論になると思います.
詳細はそれらの記事に譲りますが,つまりは,ヒトが人間であるための精神性,その根源がスポーツであるということです.
「スポーツの精神」が人間を形作ることについても,小林はこう述べます.
野球のような,団体の競技にしても,スポーツの精神の力でたちまち理想的な団体が出来上がる.成員を結ぶものは理論でも主義でも党派心でもない.もっと人間的な信頼感が彼らを結ぶのだが,これは個人的な関係をこえたものでありながら,各人の個性の発揮を,少しも妨げていない.
スポーツが健全な人間社会を「保守」します.
スポーツにはそういう力があるのです.
どんな社会的条件の下に行われようと,スポーツというものが行われる以上,スポーツ固有の精神が現れざるを得ない,というところをはっきり知る方が良いと思う.(中略)われ知らず求めているものは,人間らしい道義ではあるまいか.
逆に言えば,スポーツをないがしろにする社会は,その社会自体が健全ではなくなる危険性も孕んでいるということです.これについては私の過去記事をどうぞ.本文末に関連記事を掲載しています.

ところで小林秀雄は,自身が雲取山の登山にて遭難しかけた(ほぼ遭難状態)ことがあると告白しています.しかも,登山をしようと思い立ったのも「遭難記事」を読んだのがきっかけとのこと.
山というものが,突然,不思議な魅力で,私をとらえてしまった.仲間三人と語らい,米,みそ,油紙(これは野宿用である)などをひそかに家から持出して,雲取山に出かけた.
ところが地図を読み間違え,必至になって歩くも力尽き,谷川の洞穴でビバーク(緊急野営)したそうです.
翌朝,水をのみのみ沢を下ったが,空腹でもう歩けぬというところで,偶然いわな釣りに出合った.(中略)いわな釣りに会わずに沢を下っていたら,むろん命はなかったのだが,そんな事でこりるどころか,これが,私の登山熱のきっかけを作った.だから,私は,自分の経験に照らして,近ごろの山の遭難記事は,いよいよ青年たちの登山熱を挑発するであろうと思っている.
素晴らしい洞察です.
登山に限らず,スポーツに存在している「魅力」とは,この「危険性」だからです.
危険性のないスポーツは,もはやスポーツとしての魅力はありません.
ケガをするかもしれない,命を落とすかもしれない,不健康になるかもしれない.不満を抱くことになるかもしれない.そうした自らの心身をチップとして賭けることで得られるスリルを味わうのがスポーツの本質と言っていいでしょう.
そして,その危険性を遊ぶことにヒトが人間であることを見出すことができるのであり,その危険性を遊べない,スポーツできない社会は健全とは言えないのです.

今はこう言っておきましょう.
社会が,スポーツする者に対し「スポーツの精神」をもって対峙できなければ,その社会に存在するヒトは「人間」ではなくなるのだと.
山好きが慎重に行動して,しかも事故に会うことに,だれが文句をつけられよう.私は山好きを少しもロマンチストなどと思っていない.私の考えで,リアリストというものをひと口で定義するなら,好きなものは文句なく好き,嫌いなものは文句なく嫌いだという信条の上に知恵を築いている人だ.利害打算に追われ,現実的観察なぞに追われている人々が,実はどんなに不安定な夢想家であるかを見抜くのは,難しいことではない.
そう! 私が言いたかったのも,これ!
なんとなく頭の中で形作られているんだけど,それがなかなか言葉にできない,ということについてバッチリ文章にしてくれている感動.

近頃の右翼・保守を自称する人には,自らを「リアリスト」であると説く者が多い.彼らにとっては耳が痛い話ではないかと思うんですが・・.
上述した山好きに対する小林秀雄の文章を,国家の「安全保障」とか「経済政策」などとして読み替えてみれば,スポーツの精神が国の在り方と密接に関係することが理解できるでしょう.

でも,先日記事にした■「笑ゥせぇるすまん」が始まったよで述べたようにに,こうした意見・見解を述べたところで,この現代においては「なんかよく分かんないけど,ムカつく」ということで一笑に付されるのではないかと考えられます.



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