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井戸端スポーツ会議 part 44「スポーツの精神が大切なわけ」

前回記事である,「小林秀雄が語るスポーツの精神」ですが,ちょっと抽象度が高い話だったかもしれないので,もう少し具体例を挙げて話してみたいと思います.

その前に前回記事をまとめると,
ヒトはスポーツをしなければ人間たり得ない.
危険な登山を楽しむ者が遭難したとして,それを「無駄」「迷惑」と切って捨てるのは人間のすることではない.むしろ,スポーツする者に対し,「無駄」「迷惑」という観点から論じる社会は,おおよそ健全な人間社会ではないと言える.
スポーツする者には対しては,スポーツの精神から論じられる必要があるだろう.
といったところです.

スポーツごときにどうしてそんな言われ方をされなければならないのか? と不満の方もいらっしゃるでしょう.
そして,前回記事だけでは「スポーツの精神」がどのように人間社会に影響しているのか納得できなかった人もいるかもしれません.

スポーツの精神が大切なわけを考えてみます.
例えば小林秀雄は,著書『人生について』でこう述べています.
リアリストというものをひと口で定義するなら,好きなものは文句なく好き,嫌いなものは文句なく嫌いだという信条の上に知恵を築いている人だ.利害打算に追われ,現実的観察なぞに追われている人々が,実はどんなに不安定な夢想家であるかを見抜くのは,難しいことではない.
スポーツに取り組む者の姿勢と,それを取り囲む人々の眼差しは,この社会の縮図と言えるのではないか.小林秀雄が言いたいのはそういうことではないでしょうか.

登山で遭難する者をみて,これを「無駄死」だとか「迷惑をかけているから辞めろ」などと評価し,危険を承知で「人間らしい欲望や情動」に動かされて行動,判断する者を嘲笑う.そのような者たちを「リアリスト」と呼ぶのであれば,それは違うと小林秀雄は言います.

真の「リアリスト」は,人間,いつどこでどのように死ぬのか分かったものではないし,確実に予測可能な判断というものなど存在しないと考えます.
であるならば,我々にできるのは「自らの信条に基づく生き方」を,慎重に,かつ堅実に貫く知恵を磨くことなのです.

「現実的には,アメリカの圧力があるから,今は売国的になるのは仕方がない」といって政権や政治家を擁護する人がいますよね.主に保守・右翼系に多いです.
逆に左翼系には,「現実的には,この国際情勢を見れば自衛隊の容認も仕方がない」という人もいます.
どちらにも「スポーツの精神」がありません.
これが小林秀雄の言う「利害打算に追われ,現実的観察なぞに追われている人々」です.

アメリカの圧力があろうとなかろうと,自分の信条に照らして行動・判断すればいいのです.圧力を受けようとも,それが日本の在り方に関わるなら,これを貫くのが政治家です.
逆に,非武装中立という政治の在り方が善だと考えているのなら,国際情勢なんか気にせず自衛隊を否定すればいい.

私はどちらでもいいと思います.もちろん私個人としては日本が非武装中立することには反対ですが,そういう意見が出ること自体を叩くつもりはありません.「自衛隊(国防軍)無し」で国際情勢を渡っていく知恵を絞り出すのが,彼らのすべきことです.
国防軍を用意しない国として存在する,もしくは国家という枠組みを廃して新たな共同体概念を作るという,「極めて危険な登山」に挑もうとする心意気を否定するつもりは無いと言っているだけです.私は反対だけど.

リアリストは,実のところ夢想家であり妄想家です.それはなぜでしょうか?
「現実的には,アメリカの圧力があるから,今は売国的になるのは仕方がない」と言いつつ,その判断の先には壮大な夢と希望,そして妄想が待っているからです.代表的なのが,日本の自主独立です.
「今は臥薪嘗胆」が合言葉ですね.

しかし,彼らが採る現実路線によって,彼らの夢と希望が叶えられることはありません.仕方がないと言い訳しながら採る行動が,さらなる足かせとなって夢と希望を霞ませます.
自主独立したいなら,あらゆる局面で自主独立のための行動をとるべきです.もちろん叩かれ,潰されます.それでもやるべきです.
これが本当の「臥薪嘗胆」のはずです.今のままでは「保身賞賛」になってしまいます.

登山が好きなら,好きなだけ山登りするのが人間です.そこに利害打算があったら,彼は
スポーツマンではありません.スポーツは利害打算でやるものではないからです.

ところが,リアリストがやっているのは「今は危険だから,登山するのはやめておこう.それが現実的な判断だ」と言って登山しないことなのです.
危険だから,死ぬかもしれないから登山はしないという登山家がいましょうか? いるわけがない.そんな人は「登山が好き」と言いつつ,実は登りたくないのです.そのうち「もう山を登るのはやめよう」と言い出すに決まっています.

同様に,「負けるかもしれないから試合をしない」というサッカー選手や,「ケガをするのが怖い」というボクシング選手が,まともなスポーツマンとは言えません.
こういうのが「カッコつけ保守」なんでしょうね.サッカーやってる俺,カッコいいんじゃね?みたいなもの.

「俺が本気出したら・・」と言いつつ,「でも,今は試合をする状況じゃないから」と言い出す,絵に描いたような腰抜けがいます.
リアリストの言動に通じるものがあります.
彼らにはスポーツの精神がない.あるのは「負けず嫌いの俗物根性」です.

実は彼らが欲しているのは,試合に勝つための「戦い方」ではありません.
試合会場への道が渋滞しているとか,今は腹痛で動けないという「言い訳」です.
渋滞しているなら走っていけばいいのだし,腹痛になったのは自分の体調管理が悪かっただけのこと.
リアリストの言動とは,これと同じことです.

スポーツの精神について,ここでも小林秀雄の言葉を引いておきます.
この精神は,おそらくオリンピック以来少しも変わっていないと思う.オリンピックが語るとおり,スポーツの起源は,宗教的なものだ.選手たちは戦いの動機の純粋性を互いに信じ合い,戦う条件や手段の公示と潔白とを認め合い,審判の絶対性に対する共通の信仰を持つ.
だから,たとえ敗北したり失敗したとしても,その者を批判することはしません.それこそが「スポーツする者」を受け入れる姿勢であり,人間らしさの象徴です.

故に,この精神は,洋の東西を問わず「人間社会」に存在します.
ただ,名称がいろいろ異なります.
「勇者」とか「英雄」と言ったり,あるところでは「騎士道精神」,またあるところでは「武士道精神」,よく知られるところでは「スポーツマンシップ」,人間社会ではないところでは「サイヤ人の心意気」と呼ばれます.

スポーツの精神がない社会では,現実から逃げ回る「現実主義者(リアリスト)」が跋扈します.
危険を承知で立ち向かう気概(スポーツの精神)がなければ,現実に向き合うことはできません.




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