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この本を読んじゃえば,このブログを読まなくていいですよ パート5
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なぜ大学改革がダメだったのか詳しく
ついにこの話題についての書籍です.
ちなみに,過去記事はこちら.
今回はこの本を紹介します.
苅谷剛彦 著『コロナ後の教育へ』
タイトルに「コロナ」と入っていますが,これはおそらく出版社の販売戦略だと思われ.
中身は,「昨今の教育・大学改革がなぜダメだったのか」についてです.
バカみたいに持ち上げられている「アクティブ・ラーニング」への批判もあります.
もちろん,アフターコロナの教育にも触れられていますよ.
このブログでは,開設当初から「教育問題」について取り上げてきましたし,特に2012年からは,あの,
「大学改革」
への批判記事を連投してきました.
ど真ん中直球な記事としては,
とか.
文字通り,「反・大学改革」です.
もう9年前の記事ですよ,これ.
あとは大学改革によって発生した現象について,茶化してバカにした記事も書いてます.
・・・で,そんなこんなで9年経ったら,もう笑ってられない状態になっています.
その昔,私はこんな趣旨のことを述べたことがあります.
「そのうち世間の人々は,『大学教育が大変なことになっている』『どうしてこんなことになったのか!』などと喚きだすでしょう.なんのことはない,その犯人は皆様一般大衆だし,もう既に,そうなることは確定しているのです」
結局,やっぱりそうなりました.
悪い予想は当たるものですね.
帰納型の英国,演繹型の日本
本書は,なぜ日本の教育改革・大学改革が杜撰なまま進むのか,その理由を詳細に解説している書籍です.
これについて,著者が所属するイギリス・オックスフォード大学を例に,日本の教育改革の考え方の違いを論じています.
曰く,イギリスでは,大学がこれまでにイギリス国民に貢献してきたことを論じているのに対し,日本では,「大学はかくあるべき」という主張が唐突に発せられているのです.
これを苅谷氏は,イギリスは帰納型,日本は演繹型と評価します.
さらに言えば,日本はその演繹についても,「根拠のない思いつき」のようなものからスタートしているため,「エセ演繹」だと喝破します.
氏は言います.
この論法の違いは,英国の大学が経済的に多大な貢献をしているのに対し,日本はそうではない,といった事実レベルの違いの単なる反映ではない.日本の政策文書には,判断の根拠の提示も,事実から帰納的に政策を考えた痕跡も見られないからだ.
こうした政策計画態度は,日本の行政や官僚の最も重大な欠陥点と言えます.
同じことが,新型コロナ対策でも発生しています.
典型的なバカ民族なんですね.
バカ民族のバカ官僚は,なんの根拠もなくこんなことを言っています.
■予測困難な時代において 生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ(文部科学省HP)
予測困難な時代にあって生涯学び続け、主体的に考える力を持った人材は、受動的な学修経験では育成できない。(中略)
学生同士が切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する課題解決型の能動的学修(アクティブ・ラーニング)によって、学生の思考力や表現力を引き出し、その知性を鍛える双方向の講義、演習、実験、実習や実技等の授業を中心とした教育である。
この点について,私も過去記事でいろいろ述べてきましたが,苅谷氏もこう言います.
「そもそも,日本に予測可能な時代などあったのか?」と.
そうした「未来予測」を基盤とした大学運営が成されていた時代があったのでしょうか.
あるわけがない.
人間社会とは,常に予測困難なのです.
いや,別に今が「予測困難な時代」だと言ってはいけないわけではないのです.
苅谷氏の言葉を借りれば,「そこまで断定的に提言するのであれば,その根拠を示してくれ」ということ.
だいたい,アクティブ・ラーニングがその他の教授法より優れているといった効果や根拠も公表されていません.
とにかく,アクティブ・ラーニングを現場に「周知・徹底」することが目的になっているのです.
さらに苅谷氏は言います.
大学改革は,大学性悪説に基づいていると.
つまり,大学を改革する原動力とは,現在の大学という存在が,社会にとって「悪」という認識です.
私も先日記事で,似たようなことを書きました.
では,大学はどのような「悪」の存在なのか?
それを一言で示せば,
「社会のニーズの変化に迅速に対応することが困難な旧態依然とした大学制度」
です.
これを改革することが「善」であり,その方向性を「感じる」方法が,これまでデタラメに採用されてきたのです.
しかもタチが悪いことに,この改革は表向き・建前としては,
「大学の自治・自主性を尊重する」
「各大学独自の取り組みを尊重する」
ということが大々的に謳われていました.
つまり,目標は示すけど,各大学が自由にやれと.
その一方で,自由にやらせてやる代わりに,国からの支援はしない.
規制緩和と自由競争を用意してやるから,市場原理主義的な淘汰の中に身を投じろ,というのが実態です.
しかし,官僚もバカではありません.
そんな自由と市場原理主義に任せてしまうと,教育・研究の質が低下することは分かっていました.
そこで用意したのが,大学同士がお互いに「質保証」のために評価し合う「大学評価制度」だったのです.
これについて苅谷氏はこう断じます.
だが,ここで問うべきは,そもそもの出発点にある,「社会のニーズの変化に迅速に対応することが困難な旧態依然とした大学制度」という見方が当を得ていたのか,さらに,旧態依然の大学を変えるために,「弾力化・柔軟化」や「多様化・個性化」を促す改革を行っても,それが実際に社会のニーズに対応できる人材の育成になるのかどうかという点である.この点については,政策文書を調べても明確な根拠が示されていない.にもかかわらず,こうした前提に立つ大学改革が続けられてきた.それを可能にしたのは,実態に即した事実に基づく帰納的な思考による政策ではなかったためである.
なんとも,「新型コロナ対策」とデジャヴを感じますね.
昔だと,大東亜戦争中の「隣組」とかです.
あるべき “姿” をお願いだけする.
でも,その姿であるべき根拠はない.
お願いしているだけで,各自の自由なのだから,そこに補償や支援はない.
自分の食い扶持は,自分で用意しろということ.
そんな調子で放っておいたら社会が不安定になることは予測できるから,国民同士,お互いに目を光らせ合わせておき,逸脱した者は晒し者にする.
新型コロナ騒動で明らかになった日本の行政方針は,もう既に教育改革・大学改革で発揮されていました.
それが今回は「大学」ではなく,「国民」に向かっただけなのです.
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