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体育学的映画論「プラダを着た悪魔」
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先日からファッション関連の記事を続けたので,せっかくですからもう一つ.
『プラダを着た悪魔』は,私が「ファッション」について考えるきっかけになった映画です.研究室の助手をやっている頃(26歳くらい)に見たのが初めてでした.
とは言え,先日来述べているように,私はオシャレやファッションにこだわっているわけではありません.むしろ,その逆の行動をとってきたと言ってもいいくらいです.
この映画を見るまでは「ファッションなんかに関心を持つ人生は避けていきたい」と思っていたほどでしたが,いやいやなんで,ファッションとは奥が深いものだと気付かされました.
今回は,ストーリーに関わる話をしたいわけではありません.
この映画で語られているテーマについて,別の角度から眺めてみたいと思います.
先日は,スポーツと体育から「ファッション」を考えてみたのですが,この際,もうちょっと勉強してみようと鷲田清一 著『ちぐはぐな身体』と『ひとはなぜ服を着るのか』を読んでみました.
新しい考え方が得られてとても勉強になりましたし,ファッションに関する問題意識については私が過去記事で書いたことと類似点も多い.「身体」について興味がある人にはオススメです.
と同時に,こうした考え方をおさえておくと,映画『プラダを着た悪魔』も一味違った見方をすることができるようになります.
以前の記事で私はこんなことを書きました.
過去記事→■井戸端スポーツ会議 part 41「スポーツで考えるファッション」
論じる上で大事なことなので,冗長ですが過去記事からもう少し引用しておきます.
近代以降のファッションが目指している方向性とは,限りなく「身体」となる服装なのです.
もちろん,そこを崩そうとするのがファッションです.鷲田氏曰く,ファッションの発端は「与えられた服をわざと,ちぐはぐに,だらしなく着くずすことからはじまるしかない」のです.だから学生服を着崩し,スーツを着崩し,流行の服装を着崩す.
とは言え,近代ファッションの歴史を顧みれば,一貫してスリム化の流れをとります.
スリム→ユルユル→スリム→ユルユルの順番で,徐々に「よりスリム」に,そして「身体的」なっているのです.
現に,昨今はスリムでタイトなものが流行していましたが,去年あたりからユルユルの流れがきているそうです.でも,きっと数年後にはさらに「スリムに見える(身体化した)」ファッションが登場するのでしょう.
人はなぜ服を着るのか?
服は「体を保護するためのもの」「着飾るもの」という考え方が一般的ですが,これに鷲田氏は疑問を呈します.
体を保護することになっていない服,着飾ることを放棄していくファッションの流れ.
服は身体の一部であり,身体のパフォーマンスです.その身体を使った遊戯・スポーツがファッションなのです.
鷲田氏は「スポーツ」についてこう言います.
そもそも,「近代」とは「modern(モダン)」を日本語に訳出したものです.
modernとは,モード(mode)とモデル(model)に由来します.
modeは流行,modelとは模型のことを指していますから,近代とは「ある一つの模型(理想形)に向かった流行が起きる時代」ということを指しています.
そうであるならば,近代以降のファッションが,ファッションモデルに合わせたデザインになっており,それを追いかけるように流行していくことは不思議なことではありません.
そして,近代化したスポーツである「近代スポーツ」が,こと現代においては科学的トレーニングの発達とドーピングによる「サイボーグ化」と揶揄される状況.
理想とするものは模型(モデル,観戦)として眺めていた近代のファッションとスポーツは,現代においては自らがその模型となるべくコントロール(操作)する時代に入ったと言えるのかもしれません.
もっと言えば,ここには自分の理想とする姿,つまり「身体」を自分自身でコントロールすることができるという考えがあります.
そしてこれは,ファッションとスポーツを通じて,社会とその政治経済にも伝播します.
しかし,私も過去記事■大学における体育授業の意義3 で述べたように,そして,鷲田氏もうこう述べているように,
つまり,ファッションとスポーツへの眼差しが,現代社会に生きる者にとって重要な意味を持っているのではないかと考えられます.
ファッションとスポーツについて,一個人として健全に向きあることが出来れば,現代社会に生きる者としてのバランス感覚の涵養につながるのではないかということです.
映画「プラダを着た悪魔」のラストで主人公の女性がとった選択について,上記のような視点から見てみると,「輝く女性©」といった見方とは異なる姿が見えてくるのではないでしょうか.
関連記事
■井戸端スポーツ会議 part 20「プロレスはスポーツである」
■井戸端スポーツ会議 part 39「日本のスポーツの定義に物申す」
今回と類似したことを,ガンダムで話すとこうなります.
『プラダを着た悪魔』は,私が「ファッション」について考えるきっかけになった映画です.研究室の助手をやっている頃(26歳くらい)に見たのが初めてでした.
とは言え,先日来述べているように,私はオシャレやファッションにこだわっているわけではありません.むしろ,その逆の行動をとってきたと言ってもいいくらいです.
この映画を見るまでは「ファッションなんかに関心を持つ人生は避けていきたい」と思っていたほどでしたが,いやいやなんで,ファッションとは奥が深いものだと気付かされました.
今回は,ストーリーに関わる話をしたいわけではありません.
この映画で語られているテーマについて,別の角度から眺めてみたいと思います.
先日は,スポーツと体育から「ファッション」を考えてみたのですが,この際,もうちょっと勉強してみようと鷲田清一 著『ちぐはぐな身体』と『ひとはなぜ服を着るのか』を読んでみました.
新しい考え方が得られてとても勉強になりましたし,ファッションに関する問題意識については私が過去記事で書いたことと類似点も多い.「身体」について興味がある人にはオススメです.
と同時に,こうした考え方をおさえておくと,映画『プラダを着た悪魔』も一味違った見方をすることができるようになります.
以前の記事で私はこんなことを書きました.
過去記事→■井戸端スポーツ会議 part 41「スポーツで考えるファッション」
体毛が極端に少ない動物であるヒトは,衣服を纏うことで生き延びてきました.ということは,人間にとってスポーツの在り方がファッションに及ぼす影響は大きいと考えられます.
古来,衣服はヒトにとって「身体」だったはずです.
だとすれば,こう言えるはずです.身体である衣服を使って「遊ぶ」,そしてその在り方を文化的に高めようとする営み.ファッションとは,まさしく「スポーツ」ではないでしょうか.
論じる上で大事なことなので,冗長ですが過去記事からもう少し引用しておきます.
スポーツが「近代スポーツ」へと “衣替え” したことは,まさにファッションの変化をも促進しました.SF映画やSFアニメの描写として「未来の服装」が出ることがありますが,その多くが身体にピタッと張り付くようなファッションデザインになっていることが,それを暗示しています.
ルールの統一と条件の平等を徹底した上で,「より速く,より高く,より強く」をモットーにする近代スポーツの普及と発展は,人類の多くに身体観の変化を促したはずです.
我々が直面しているファッションは,スポーツの影響を受けています.前述の通り,ファッションとはスポーツであり,スポーツはファッションから生まれているからです.
近代スポーツについて考えてみてください.ファッションにも同じことが言えます.すなわち,
1)身体が生み出すパフォーマンスの最大化
2)理想の身体の追求
意外に思うかもしれませんが,近代以降のファッションは,「着飾る」ことを嫌うようです.
自由に合理的に動く身体を目指し,理想とする体型を着用者に求める.
近代以降のファッションが目指している方向性とは,限りなく「身体」となる服装なのです.
もちろん,そこを崩そうとするのがファッションです.鷲田氏曰く,ファッションの発端は「与えられた服をわざと,ちぐはぐに,だらしなく着くずすことからはじまるしかない」のです.だから学生服を着崩し,スーツを着崩し,流行の服装を着崩す.
とは言え,近代ファッションの歴史を顧みれば,一貫してスリム化の流れをとります.
スリム→ユルユル→スリム→ユルユルの順番で,徐々に「よりスリム」に,そして「身体的」なっているのです.
現に,昨今はスリムでタイトなものが流行していましたが,去年あたりからユルユルの流れがきているそうです.でも,きっと数年後にはさらに「スリムに見える(身体化した)」ファッションが登場するのでしょう.
人はなぜ服を着るのか?
服は「体を保護するためのもの」「着飾るもの」という考え方が一般的ですが,これに鷲田氏は疑問を呈します.
体を保護することになっていない服,着飾ることを放棄していくファッションの流れ.
衣服は身体を保護するものだという考え方では,服飾の問題は説明がつかない.(中略)服飾とは,身体に合わせてモデルを作る行為なのではなく,むしろモデルに身体を合わせる行為なのではないかということなのだ.(『ちぐはぐな身体』)激しく同意です.なので私は「ファッションはスポーツ」だと考えています.
服は身体の一部であり,身体のパフォーマンスです.その身体を使った遊戯・スポーツがファッションなのです.
鷲田氏は「スポーツ」についてこう言います.
スポーツは,服の下にあるオリジナルとみえる身体そのものを変換する作業,つまりは身体を衣服に変える行為なのだ.(中略)完全な身体? そう,これは現代の「エクササイズ中毒」とほとんど交錯している.「皮下脂肪が少なく,エクササイズによって鍛えられ,引き締められたからだ」というあのパーフェクト・ボディの幻想である.それが現代のファッションを追いかける人達の姿であり,それを追いかけていない人であっても,心の奥底では「それ」を理想的なファッションとして羨望の目で捉えているのです.
(中略)
そのためにひとびとは,フィジカルコントロールに心を配り,フィジカル・エクササイズに汗を流し,ボディ・コンシャスな服を装着するのだ.まるで,もって生まれたその身体がよほど気に入らないかのように,ひとびとは自分の身体の改造に高額の費用を投入してとりかかっている.(「人はなぜ服を着るのか」より)
そもそも,「近代」とは「modern(モダン)」を日本語に訳出したものです.
modernとは,モード(mode)とモデル(model)に由来します.
modeは流行,modelとは模型のことを指していますから,近代とは「ある一つの模型(理想形)に向かった流行が起きる時代」ということを指しています.
そうであるならば,近代以降のファッションが,ファッションモデルに合わせたデザインになっており,それを追いかけるように流行していくことは不思議なことではありません.
そして,近代化したスポーツである「近代スポーツ」が,こと現代においては科学的トレーニングの発達とドーピングによる「サイボーグ化」と揶揄される状況.
理想とするものは模型(モデル,観戦)として眺めていた近代のファッションとスポーツは,現代においては自らがその模型となるべくコントロール(操作)する時代に入ったと言えるのかもしれません.
もっと言えば,ここには自分の理想とする姿,つまり「身体」を自分自身でコントロールすることができるという考えがあります.
そしてこれは,ファッションとスポーツを通じて,社会とその政治経済にも伝播します.
しかし,私も過去記事■大学における体育授業の意義3 で述べたように,そして,鷲田氏もうこう述べているように,
自分の身体が意のままになりうるものではないということを発見するためにこそ,われわれはスポーツをするのだと言いたい(「ひとはなぜ服を着るのか」より)ということ.
つまり,ファッションとスポーツへの眼差しが,現代社会に生きる者にとって重要な意味を持っているのではないかと考えられます.
ファッションとスポーツについて,一個人として健全に向きあることが出来れば,現代社会に生きる者としてのバランス感覚の涵養につながるのではないかということです.
映画「プラダを着た悪魔」のラストで主人公の女性がとった選択について,上記のような視点から見てみると,「輝く女性©」といった見方とは異なる姿が見えてくるのではないでしょうか.
関連記事
■井戸端スポーツ会議 part 39「日本のスポーツの定義に物申す」
今回と類似したことを,ガンダムで話すとこうなります.
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