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井戸端スポーツ会議 part 41「スポーツで考えるファッション」

先日,柄にもなく服装・ファッションについて記事にしました.
若手研究者用:スーツの上手な買い方・着方

そこではスーツの買い方と着方を主軸に述べていますが,ここに通底しているのは,
「環境と身の丈に合った服装が望ましい」
という,ただそれだけのことです.
結局のところ,本人固有の雰囲気や,着用する状況・条件に合わせて「ファッション」は決まるのだと思います.

もっと言えば,ここにも「スポーツ」が入ってくる.
スポーツでファッションを考えることができると思うんです.
今回はそんなお話.

そもそも,「服装」とは何か.

アスリートは,練習やトレーニングによって「技能」を得ます.すなわち,そのスポーツ種目において最大のパフォーマンスを発揮すべく,最適化された「身体」を獲得しようとするわけです.
別にアスリートでなくても,スポーツ活動をしていれば,人はそのスポーツに適した身体へと適応します.大きな筋肉が必要なスポーツ,細い筋肉が必要なスポーツ,適度な脂肪や骨の量,適正な血液特性,神経反応等々,様々な適応現象が身体に発生しますが,そこには決して「あらゆるスポーツに万能な身体」というのは現れません.
さらに言えば,スポーツ種目だけでなく,個々人の体型やプレースタイルによって最適な身体は異なります.

これと同じことこがファッションにも言えます.
服装とは,言わばスポーツにおける「パフォーマンス」であり,より良いファッションの在り方を模索することとは,身体のトレーニングに相当するものではないか.

体毛が極端に少ない動物であるヒトは,衣服を纏うことで生き延びてきました.
古来,衣服はヒトにとって「身体」だったはずです.
だとすれば,こう言えるはずです.身体である衣服を使って「遊ぶ」,そしてその在り方を文化的に高めようとする営み.ファッションとは,まさしく「スポーツ」ではないでしょうか.

むしろ逆かもしれない.ファッションは,人類がスポーツに先駆けて作り出したものであり,身体遊戯であるファッションの延長線上にあるものがスポーツ(身体競技)である.そう考えることもできますが,ここではその点については割愛します.

ここで指摘しておきたいのは,人はファッションによって時代と環境と社会に適した「身体」を作り出してきたということです.
これは逆もまた然り.時代と環境と社会の変化に応じた「身体」を得るため,それに適したファッションが生まれたと言ってもいいでしょう.
職業や階級,既婚などによって,その「状況」にふさわしい身体を作り上げたのです.

であるならば,我々が直面している現代ファッションの源流を辿ると見えてくるのは,自由と平等,合理性と進歩的思想を崇拝する「近代化」です.

これについて,体育・スポーツ研究における重要な位置づけとなっている哲学者ヨハン・ホイジンガが指摘しています.
それ以後,男の服装は少しずつ色彩のないぼやけたものとなってゆき,しだいに変化をこうむることも乏しくなった.その品位,威儀を礼装のなかにはっきりと輝くばかりに示していたかつての優雅な貴人は,いまでは真面目な市民となった.(中略)この男子の服装が平均化していった,あるいは硬化していった過程を,文化現象としてとるにたらぬことと評価してはならない.その中にはフランス革命以来の精神的・社会的変革がはっきりと表現されているのである.(ホモ・ルーデンス 1938年)
近代化とは,規格統一と合理化にその特徴があります.
スポーツが「近代スポーツ」へと “衣替え” したことは,まさにファッションの変化をも促進しました.
ルールの統一と条件の平等を徹底した上で,「より速く,より高く,より強く」をモットーにする近代スポーツの普及と発展は,人類の多くに身体観の変化を促したはずです.

我々が直面しているファッションは,スポーツの影響を受けています.前述の通り,ファッションとはスポーツであり,スポーツはファッションから生まれているからです.
近代スポーツについて考えてみてください.ファッションにも同じことが言えます.すなわち,
1)身体が生み出すパフォーマンスの最大化
2)理想の身体の追求

意外に思うかもしれませんが,近代以降のファッションは,「着飾る」ことを嫌うようです.
自由に合理的に動く身体を目指し,理想とする体型を着用者に求める.

近代ファッションの祖であるココ・シャネルが,スポーツウェアに類似した「シャネル・スーツ」で注目を集め,男女とも体型と素肌の露出が多くなってゆく傾向がこれを暗示しています.
あらゆるバリエーションがあるように思えて,その美の基準は着用者の身体に委ねられている.実は着用者側に「遊び」がないのが現在のファッションなのです.

これは,スポーツが近代化したこととも関係があります.
ホイジンガも述べているように,かつてのスポーツはもっと遊ばれていました.
こうして現代社会では,スポーツがしだいに純粋の遊び領域から遠去かってゆき,「それ自体の」一要素となっている.つまり,それはもはや遊びではないし,それでいて真面目でもないのだ.(中略)(現在のスポーツは)遊びの内容のなかの最高の部分,最善の部分を失っているのである.遊びはあまりにも真面目になりすぎた.(ホモ・ルーデンス 1938年)
「遊びの中の遊び」であったはずのスポーツが,近代以降は遊ばれなくなり,人々はそこで発生する記録やスコアに一喜一憂するようになる.
身体を使った遊戯は,今,身体を使った競技となっています.

しかし,そんな時だからこそ,あらためて自分の「身体」の特性や特徴に焦点を当てることが大事なのだと思うのです.
これはなにも「流行のファッションを安易に追いかけるな」と言っているわけではありません.
自分の身体と,それを取り巻く環境に合わせた衣服を選択することが,個性的なファッションを作り出すのではないか.ひいてはそれが,近現代を生きる我々の “ファッション” ではないか,ということです.


※この記事を読んでイマイチ分からないことがあるという人は,以下をどうぞ.
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今回と類似したことを,ガンダムで話すとこうなります.