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古代四国人・補足(邪馬台国の位置)

「鳥無き島の蝙蝠たち」のシリーズで書けなくなって半年近く.
ことのほか面白くなって続編が書きたくなったので,タグをいっそのこと「古代」としました.


これまでに,古代四国人に焦点をあてて記事を書いたものがあります.
もちろん私の暇つぶし妄想の類ではあるのですが,一つのロマンとして読んでもらえればと思います.
鳥無き島の蝙蝠たち(14)古代四国人2
鳥無き島の蝙蝠たち(15)月読尊(ツクヨミ)
波多国・七星剣が置かれた国

各記事は散発的に書いているので,かなり読みにくいものとなっています.
なので,この連休を使って上記記事を理解してもらう上での基本的な部分をまとめてみます.
私は考古学や歴史学のトレーニングを積んでいる身ではないのですが,“体育学” 的に捉えたらこうなると考えてください.

以下,私が考える古代日本の様相です.
今回は,邪馬台国はどこにあったのか?について.

私は邪馬台国は「九州のどこか(おそらく熊本県北部)」にあったと考えています.
魏志倭人伝を私なりに解釈すれば,そうではないかと.

そもそも『魏志倭人伝』は「我々(魏)の東方に無視できない部族が住んでいるぞ」ということを報告・記録するために紙面を割いているもので,「倭国(日本)について分析されたものではない」ということに留意する必要があります.
魏志倭人伝(wikipedia)
もちろん,知的好奇心から綴られた内容もあるでしょうけど,基本的には使節団による偵察資料だと思うんですよね.つまり,スポーツで言うところのスカウティング資料です.そう考えると,体育学的に捉えることの意味も出てきます.

さて,その上で邪馬台国が九州のどこにあったのか? についてです.
「魏志倭人伝の記録をそのまま読み取ると,邪馬台国は太平洋のど真ん中に出る」などと言われますが,これについてはどうしても,「倭人伝に書かれている地域は『日本』だ」と捉えた上で分析する必要性が出てきます.

しかしながら,『魏志倭人伝』に時代的には先立つ記録となっている『後漢書東夷伝』に記されている「奴国」が本書でも出てくる点や,その他の地名が日本語による音と類似していることから,「倭人伝」で書かれてる場所は日本である可能性が極めて高いと言えます.

そのような前提の上で,魏志倭人伝の記述を分析していきましょう.
以降,ウィキペディア・ベースでそれらの記述を示していきます.
帯方郡〜邪馬台国: 帯方郡から女王国に至る、1万2000余里である。
帯方郡というのは現在の韓国・ソウル市周辺にあったと考えられている,魏(古代中国)の地方拠点のことです.おそらくは朝鮮半島周辺を治めるために用意されたところです.
帯方郡(wikipedia)
そこから「約12,000里」の位置にあるのが「倭国」だというわけです.

魏志倭人伝には,帯方郡(ソウル)から倭国と邪馬台国に至るまでの経路が記されています
まとめると,ソウル(帯方郡) → 釜山(狗邪韓国) → 対馬(対馬国) → 壱岐島(一大国) → 東松浦半島(末羅国) → 糸島半島(伊都国) → 博多(奴国) → 宇美(不弥国) → 宮崎?(投馬国) → 熊本県北部(邪馬台国)です.

では,魏志倭人伝の記述に沿って,距離を測っていきましょう.
ソウル周辺〜釜山周辺 : 帯方郡から倭国に至るには、水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で倭の北岸の狗邪韓国に到着する。
釜山周辺〜対馬:(狗邪韓国から)海を1000余里渡ると、対馬国に至る。
対馬〜壱岐島: また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。
壱岐島〜東松浦半島: また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。
合計,10,000里.
というわけで,この時点で残り「2,000里」しかない!
つまり,「魏志倭人伝の記述通りに進むと,邪馬台国の位置は九州から出ない」というのが邪馬台国九州説の論拠なのですね.

しかし,この「1000里」とか「7000里」という距離・単位にそもそも問題があるとされています.例えば「1000里」は,現在の距離に換算して「400km」だとされており,それゆえ,“太平洋のど真ん中に出てしまう” ということなのですが.
もちろん,その説をとれば「畿内説」も無くなるわけですので,「魏志倭人伝に書かれている場所は日本ではない.ニューギニアかミクロネシアあたり」ということになります.

ですから,仮に魏志倭人伝に書かれていることが「倭国(日本)」のことだとすれば,この「1000里」とか「7000里」の方を改める必要があります.
つまり,「里」を「1里=0.4km」ではなく,短めに解釈しようということ.これを短里説と呼ぶそうです(詳細はウィキペディアをどうぞ).

ここは一つ,実際に現代の距離で測ってみましょう.グーグルマップで測ったらこうなりました.
ソウルから釜山までは,沿岸部をどのように通るかによりますが,ざっくりと約600km.
釜山あたりから対馬北部までが約60km.
対馬南部から壱岐島までが約50km.
壱岐島から松浦半島までが約30km.
魏志倭人伝では,
ソウル:釜山間= 7000里
釜山:対馬間&対馬:壱岐島&壱岐島:東松浦半島= それぞれ1000里
ということでした.

ソウル:釜山間については,仮に1000里を60kmだとしても「60km × 7 = 420km」だからちょっと少なめになります.
日本海渡海については,いずれも「1000里」としている距離には倍近い差異があることになります.

なお,釜山(狗邪韓国)からの位置関係は以下の通りです.

この差異について私は,「まあ,それくらいの誤差は出るんじゃない?」と考えており,これは当時の距離感覚を分析することで説明できます.

どうやら,当時の船の航行能力では,1日に進める距離は約20kmだったそうです.
当時の船は,以下のような手漕ぎのガレー船です.もちろん,3世紀頃の手漕ぎ船は下図のような立派なものではなく,丸太をくり抜いて,それに板を貼り付けたものだったようです.
16世紀のガレー船(wikipedia)
「え? でも釜山から対馬までの約60kmを漕ぎきってるじゃないか」ってなるでしょう?

私はこう考えます.
当時の「魏」が使っていた手漕ぎ船で1日かけて全力航行できる距離は,「1000里」とした.
というものです.
海路の距離を正確に測る技術が無い時代ですから,その単位は「体力」と「時間(日)」から算出することになります.

身近な例で言えば,一般ランナーが約1時間ランニングしたら,だいたい10kmになります.1時間のランニングを終えたら,一般ランナーは「まあ,10kmぐらい走ったかな」と考えるものです.当然,地形の影響を受けるので実際には6kmしか進めないこともあるし,15km走っていたという場合もある.それと一緒です.
おそらくそれが魏の漕手にすれば「終日フルパワーで漕いだ = 1000里」ではないかと思います.

日本海は沿岸部ではないので,渡航者にすれば漕ぐのをやめたら即「死」を意味する海です.1日で岸にたどり着かなければアウトなんです.
そんなわけですから,天候と潮の満ち引きを入念に読み,漕手の体力コンディショニングもばっちり決めてから「さあ,者ども! 死ぬ気で漕ぐぞぉ!!」と気合を入れて出航したはずです.
海岸を横目に安全航行すれば「1日・約20km」だったのかもしれませんが,海峡を越えようという場合には「本気」を出したと考えられます.
逆に言えば,全力航行ですから距離が算出しやすいわけです.

そう考えると,帯方郡から釜山までが短めになっているのは,そもそも帯方郡の港がソウル市周辺ではなく南部よりだった可能性があることと,ここの海流や地理的条件が良かった可能性があること,既に統治済みの場所なので海路が整備されていた(連日フルパワー航行できるよう,漕手が途中で交代できる等)ことが考えられます(これも詳しくはウィキペディアをご覧ください).

さて,決死の覚悟で対馬,壱岐島,そして東松浦半島に到着した一行は,伊都国があると考えられる糸島半島に向かいます.
東松浦半島〜糸島半島: 東南に陸行し、500里で伊都国に到着する。
末羅国から伊都国までは,徒歩で進んだということですね.

「ちょっと待って.東南に進んだということだが,糸島半島は位置関係からすれば北東ではないのか?」
という疑問もあるかもしれません.しかし,この理由については2つ考えられます.

まず,古代中国では,日本の位置関係は以下のように捉えていたそうです.
個人サイト様から画像を拝借しました.赤丸部分が日本列島です.
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_94.html
つまり,東西南北を90度傾けた状態で認識していた.北を東,東を南,南を西,西を北というように.現在の衛星写真を使えば,こういうこと.

さらに言えば,東松浦半島の南西部に位置している半島のことをなんと呼ぶか?
「北松浦半島」と呼ぶのですよ.
南西部にあるのに「北」と名付けています.古代九州における認識の名残なのかもしれません.

もう一つの理由については,東松浦半島と糸島半島の「形」を確認してみてください.
もし末廬国が東松浦半島の北部もしくは半島の東側にあった場合,そこから陸路で糸島半島を目指すと,最初は南東方面に進むことになります.
仮に東西南北の位置関係が「言うほどにそんなに傾いていない」としても,進む方向は南東の方角になるのです.

続いて伊都国から奴国,つまり博多に進みます.
糸島半島〜博多: 東南に100里進むと奴国に至る。 
「奴国」というのは,魏志倭人伝より時代としては先にあたる『後漢書東夷伝』にも書かれている勢力の大きな国だとされています.奴国がその「奴国」だとすれば,場所は博多市周辺である可能性が高いのです.
また,実際の距離,そして地形の易しさからしても「糸島半島〜博多」と考えて妥当です.

さらに進んで,現在の宇美町周辺(博多市東部)と比定されている不弥国へ向かいます.
博多〜宇美町: 東へ100里行くと、不弥国に至る。
さて,ここからが問題となっている部分です.

続いて「投馬国」,そして「邪馬台国」に向かう記述に移るわけですが,この部分が「邪馬台国九州説」として解釈することが難しいとされているところでもあります.
魏志倭人伝にはこうあります.
不弥国〜投馬国: 南へ水行20日で、投馬国に至る。
投馬国〜邪馬台国: 南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。
これをそのまま解釈すれば,船を使って20日で行ける距離は約400kmほどになりますから,投馬国は日本海側の「出雲」や,音の似ている「但馬」,瀬戸内海側の「鞆の浦」ではないかとされていますが・・・.

ここで私が気にするのは,「里」による距離表記が消えたことです.
さらに,この魏志倭人伝が偵察資料であることを考慮すれば,以下のようなことが考えられます.

思い出してください.
帯方郡から邪馬台国までは「約12,000里」でしたよね.それが魏志倭人伝における彼我の距離の結論です.
そして,倭国本土である末廬国までで10,000里,隣の伊都国までで10,500里,かつての倭国中心地であった奴国まで10,600里という所まで来ているのですから,あとはそこから50kmほど進めば約12,000里になります.

つまり,最後の1,500里ほどの記述を省いている? と捉えることもできるわけですが,これについては以下のように考えられるのではないでしょうか?
魏の倭国記録担当者としては,「邪馬台国は “例の” 『奴国』の近くにある」ということが解されれば十分だった.
ということです.

これは言わば偵察資料ですから,そこで重要なのは帯方郡および本国と邪馬台国の最短距離です.
そして,邪馬台国と朝鮮半島との玄関口は,やはり例の「奴国」だと記録した.その奴国周辺には不弥国があり,本国(および帯方郡)との間には伊都国,末廬国,壱岐島,対馬があり,それらの距離関係を記述したわけです.
少なくともそれらが分かれば,侵略・防衛の糸口になるでしょ?

ですから,これ以降は正確な距離を測れずとも,「裏口」としてどのような経路があるのかを記していると考えられます.
必然的に朝鮮半島との玄関口にある奴国(博多)から,さらに沿岸部を船で進むこと20日で投馬国という所に出るというわけです.ここがどこなのか確定的には言えませんが,おそらくは日数的に宮崎県沿岸部(日向国?)ではないかと思います.

さらに10日ほど船で進むと,鹿児島県に至りますので,そこから陸路で1ヶ月ほどかければ邪馬台国に出られるというのです.


かなりザックリした記述のように思われますが,ようするに偵察者が言いたいのは,
「船で1ヶ月ほどかければ邪馬台国の裏側に出ることができ,その一番遠いところから徒歩で1ヶ月かければ邪馬台国に出られる.つまり,邪馬台国周辺地域の移動に要する時間は最大で2ヶ月ほど」
ということ.
これってめちゃくちゃ重要な偵察資料ですよね.邪馬台国周辺の広さが丸わかりです.
恐るべし中国・使節団,もとい偵察団.

もっと言えば,それまで「里」という単位で距離を示していたのに,奴国・不弥国以降は「日数」で距離を示しているのは,もしかすると魏の使節団本人たちが実際に進んだ距離ではないからとも考えられます.
つまり,現地の倭人に「え? ここは島なんですか? じゃあ,ここから南進して,最果ての地から邪馬台国に戻ってくるとすると,どんな国があって,どれくらいかかるの?」と聞き込みした話である可能性もあります.
倭人としては魏の距離単位である「里」が分かりませんから,「そうですねぇ,だいたい20日くらいで宮崎県日向について,そこから10日くらいで一番遠いところでしょうかねぇ.そこからここまで歩いたとしたら,たぶん1ヶ月くらいかかるんじゃねぇかなぁ」と答えたのかもしれません.

さらに,魏志倭人伝にはこんな記述もあります.
邪馬台国(倭国)が九州だと考えられる決定的な記述です。
倭地について情報を収集すると、海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは連なり、一周めぐるのに5000里ばかりである。
少なくともこれって本州・近畿地方ではないですよね.四国の可能性もありますが,九州西部の半島・島々を想起させます.
そしてこの「5000里」という距離は,聞き込み調査からの「推定距離」です.魏の使節団としては倭人が「30日くらいで最果ての地までいける」という話をもとに,「じゃあ,我々が全力航行したとすれば5000里くらいかな」と捉えた可能性があります.

というわけで,私は特別な事情がない限り「邪馬台国九州説」を採用しています.
もちろん,今後「古代日本史」を考えていく中で「畿内説の方がうまく合致するなぁ」と思えばそちらを採るつもりでもいます.
もっと言えば,瀬戸内海・吉備説や四国説,出雲説だって例外ではありません.

最後に,魏志倭人伝にも書かれている,邪馬台国に抗う敵国「狗奴国」について.
其の南には狗奴国がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗が有る。女王に属せず。
狗奴国(wikipedia)

一般的には,九州南部にその「狗奴国」があると考えられていますが,魏志倭人伝の解釈が上述してきたようなものであれば,これはちょっと考えにくいんです.
なぜなら,この狗奴国に相当するところ(九州南部)を魏の記録係がすでに語ってしまっていることになるから.

だから私としては,この狗奴国とは「四国」のことではないかと考えています.
この説は,古事記研究でも著名な本居宣長も「四国・伊予」として説いているものです.

別に四国でなくても,邪馬台国九州説であれば,狗奴国と想定されるところはたくさんあります.広島・安芸,岡山・吉備,四国・讃岐,近畿地方がそれに該当しそうです.


なお,こちらのサイトのほうが充実していて詳しいです.
古代日本まとめ

なお,狗奴国とは四国のことではないのか? として考えたのが,
鳥無き島の蝙蝠たち(14)古代四国人2
ですので,こちらも読んでみてください.

後日,私の「邪馬台国の位置」をアップデートしました.
邪馬台国はここにあったんだと思う


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