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邪馬台国はここにあったんだと思う

統計学だとか大学改革だとか考えるのも大事ですが,たまには趣味の世界も楽しみたいものです.
ときどき古代日本を妄想する記事も書いておりますので,今回はそれについて.

以前,邪馬台国の比定地をご紹介したことがありますけど,あれは私説へ強引に結びつけるところがありました.
その後も時間があるときに古代日本のことを調べていたのですが,今回,私なりに現時点で最も納得できる「邪馬台国があった場所」が見つかりましたので,その理由とともに取り上げたいと思います.



**邪馬台国はここにあった**
結論から言えば以下の通り.
(1)邪馬台国があった場所は,九州北部(福岡県〜大分県にかけての沿岸部)
(2)邪馬台国とは,「筑紫国」の前身となる連合国のこと
(3)一般的に邪馬台国と称される「女王国」があった場所は,福岡県行橋市周辺から宇佐市周辺
(4)邪馬台国に属さないとされる「狗奴国」とは,九州東部のことで,のちの「豊国」に相当する地域のこと
(5)邪馬台国への道中にあるとされている「投馬国」とは,九州西部のことで,のちの「肥国」のこと

図示すると以下のような感じ.

その理由を示していきます.魏志倭人伝の記述に沿って読み解いていきましょう.
魏志倭人伝の記述は,ウィキペディアから引用しました.

倭人が住んでいる場所
原文:倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。
和訳:倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、もとは百余国で、漢の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。
この魏志における「倭人伝」を書いている人は,自分たちの支配している「帯方郡(韓国・ソウル周辺)」から南へ海を渡った島に「倭人(日本人)」が住んでいる国があって,大陸へ使者が来ていることは知っているのです.
全くの未知の領域というわけではないようですね.

でも,倭人がどんなところに住んでいるのか,詳しくは知らない.だから今回,偵察として使者を送り,その様子を記録したのだと思われます.
ここだけでなく,倭人伝全体を読んでみても,どうやらそんなニュアンスが伝わってくるんです.

ポイントなのは,この「魏志」における「倭人伝」は,あくまで「倭人伝」であり,邪馬台国のことをメインで紹介している記録ではないということ.
詳細は後述するとして,まずは倭人の国への道のりを解いていきます.


**九州上陸まで**
原文:從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
和訳:帯方郡から倭国に至るには、水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で〔倭の〕北岸の狗邪韓国(こやかんこく)に到着する。
図示するとこんな感じ.

この文章はシンプルに読み解けると思います.
帯方郡というのは,現在の韓国・ソウル周辺だとされています.
大陸から日本列島に渡るのも,対馬と壱岐島を経由するのが通常の感覚でしょうから,「狗邪韓国」とされているのは現在の韓国・釜山あたりとみてよいでしょう.

帯方郡(ソウル)とされる場所から狗邪韓国(釜山)に行くとすれば,海岸を伝って南下し,そして東に向かうことになりますから,この解釈が成り立ちます.

次は,狗邪韓国から対馬国に渡ります.
原文:始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶㠀、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。
和訳:始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。
これはそのものズバリ,現在の対馬のことでしょう.

ここからさらに南下します.
原文:又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。
和訳:また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000許(ばか)りの家が有る。田畑は有るが田を耕すが食糧には足りず、南北から市へいく。
一大国というのは,現在の壱岐島とみて良いと思います.対馬から南方に見える陸地は壱岐島です.
当時の船のテクノロジーからすれば,そこを目指すのが自然です.

一行はさらに南下.九州の東松浦半島に到着です.
原文:又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。
和訳:また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
末盧国というのは,東松浦半島にあった国と考えられています.
これまでの道中を図示します.
ここで重要なことを一つ.
渡航者の距離感覚についてです.

当時はGPSや精密な測量器などありませんし,時間を測る時計もありませんから,距離はだいたいの感覚で測るしかないことが予想されます.
これについて,韓国〜対馬〜壱岐島〜東松浦半島のそれぞれの距離は異なるのに,全て「1000里」としているところに注目です.

当時の船はガレー船という手漕ぎボートですから,1日に進める距離は「体力×日照時間」で推定されることになります.
おそらく,1日に船で進めた距離を「1000里」として記録したのだと思うんです.
そう考えると,1000里は約60km〜80kmくらい,1里は約60〜80mですね.
これなら,帯方郡(ソウル)から狗邪韓国(釜山)の距離とも類似します.たぶん,帯方郡から釜山までは7日かけて来たと推定されます.

「壱岐島から末盧国までが1000里では短いのではないか」という記述を見ることもあるんですが,1日必死で漕いだものを1000里としてカウントするのは普通の感覚だと思いますし,天候が少しでも悪くなったら漂流の危険がある時代ですから,壱岐島から最も近い陸地を目指すのが常識的ではないでしょうか.

末盧国を東松浦半島の北端ではなく,現在の唐津市市街地だと考えることもできます.
船出した時に目指したのはの半島の北端.そこから流れの速い対馬海流を受けながら,唐津市市街地を目指すのが人力のガレー船での航行としては妥当かと思います.
それに,半島東部をまわって唐津湾から唐津市市街地へと入ったとすると,対馬から壱岐島へと至る距離と同程度になります.
しかも,この航路であれば,対馬海流に流されたとしても取り付く島があるので安全です.
これなら「船で1日かけて漕いだ距離が1000里」という解釈ができるのではないでしょうか.


**陸路で女王国を目指します(邪馬台国ではない)**
末廬国からは陸路です.
原文:東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
和訳:東南に陸行し、500里で伊都国に到着する。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。世、王が居た。皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。
南東に向かって歩き出したとすれば,やっぱり末盧国は唐津市市街地からやや北部にかけてだと考えられます.
以下のような感じです.
伊都国は末盧国のちょうど真東にあたりますが,御一行が歩き出した方向は南東なんですよ.
末盧国があったとされる唐津市周辺から,伊都国があったとされる糸島平野(および福岡市西部)までは約35km.
文中に示されている距離「500里」は妥当なものと考えられます.

ちなみに,当時は方角を知るには日の出日の入りを頼りにしていたはずです.
さらに,手漕ぎのガレー船で日本海を渡海できるのは7月〜8月にかけてだとされており,御一行は夏に来たものと考えられます
ですから,夏の日の出日の入りの方角を知ることで解釈できるはずです.
日の出日の入りマップというサイトで,7月の各地における「日の出日の入りの方角」を見ることができます.
試しに,7月15日の唐津市から見た日の出日の入りを以下に示してみました.

このように,唐津周辺から東進しようとすると,まずは唐津湾をまわるために南東に進むことになるのです.
もし冬に来ていたら「南東」ではなく,「東」と書いたのかもしれません.

次は大都市と考えられる奴国に至る道です.
原文:東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
和訳:東南に100里進むと奴国に至る。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。
図示するとこんな感じ.
これも末盧国から伊都国と同様,夏季の日の出日の入りの方角からすれば「南東」に位置します.
そこから100里(約7km)という短い場所で想定されるのは福岡市西部になります.
さらに,この「奴国」というのは魏志倭人伝とは別の中国の文献でも福岡市周辺にあった国であることが知られています.
この奴国も,その奴国である可能性は高い.
原文:東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
和訳:東へ100里行くと、不弥国に至る。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)。1000余の家族が有る。
奴国は大きな都市とされていますから,きっと福岡市西部で広範囲に広がっているものと考えられます.
その郊外からスタートして,福岡市中心部を流れる川を渡った反対側にある国が不弥国だったのではないでしょうか.
現在ここには宇美町という地域があり,これが不弥国の名残ではないかとも言われています.


**邪馬台国までの道のりを示した謎の文章の解釈**
さて,不弥国までの道程は多くの研究や著作で同じものが語られていますが,そこから先が問題です.
原文:南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。
和訳:南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。
そして,
原文:南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。
和訳:南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。
いきなり距離が示されなくなり,「水行20日」などと日数が示されるのです.
その日数が非常に長いことから,これを根拠に「邪馬台国・近畿説」などが語られます.

さらにもう一つ重要なこと.
「邪馬台国」の国名が出るのはここが最初で最後です.
しかも,ここの人口(戸数)の記述だけ投馬国も邪馬台国も推定値になっています.
それまでの記述とは毛色が違っているんですよ.

こう考えることはできないでしょうか.
つまり,著者としては「奴国」という魏(中国)国内でも少しは知っている人がいるほどの,ちょっと有名な国までの距離を記述してきたので,ここで一旦文章をまとめ,『魏志倭人伝』としての全体像を示しているのです.

例えば,東京から京都の金閣寺へ旅行した人の旅行日誌として,こんな文章があっても不思議ではありません.
東京駅から京都駅まで新幹線を使い西へ約500km.
京都駅からは地下鉄で北上し,北大路駅まで約7km.
北大路駅からはバスに乗り換え西に約2.5km向かえば,金閣寺に到着します.
ちなみに,品川駅から大阪までなら「のぞみ号」を使って140分で,
京都の金閣寺までなら「のぞみ号」の120分と,電車と車の移動が60分かかります .
最後の2行のように,旅程を所要時間で示したり,比較対象と一緒に示すことがありますが,これが「投馬国まで水行20日」と「邪馬台国の女王国まで水行10日陸行1日」ではないかと思います.

そして,ここでいう「大阪」と「京都」が,上述した「投馬国」と「邪馬台国」になると考えられます.
ウィキペディアでは「南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る」という訳文になっていますが,もしかすると「南に水行10日と陸行1月で邪馬台国(女王の都がある所)に至る」と解釈するのかもしれません.
魏志倭人伝の日本語訳は確定的ではないとされていますし.

そう考えると,投馬国と邪馬台国の戸数をあえて「推定値」として記述している理由も分かります.
つまり,投馬国と邪馬台国はいずれも連合国であり,ここ倭人の国に出向いた御一行は,その全てを見ているわけではないのです.
ですから,伊都国,奴国,不弥国といった女王国に属しているとされる「邪馬台国」の総戸数は7万戸であり,もう一つの倭人の連合国である「投馬国」は5万戸であると考えられます.
常識的に考えてみて,古代日本の一地域に5万戸や7万戸もあるのは不自然です.
逆に言えば,それだけ「奴国(2万戸)」が倭国を代表する巨大都市だったとも言えます.


**基本情報である「帯方郡から女王国まで1万2000里」**
「南至投馬国・・・」から「・・・自郡至女王國、萬二千餘里。」までの文章は,女王国の位置を説明している一連のものです.
ですから,それぞれ別々に解釈するのではなく,一連の文章として読む必要があるんです.
長いですが,そのまま掲載します.
原文:自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。
其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。
自郡至女王國、萬二千餘里。
和訳:女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である。
其の南には狗奴国がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず。
帯方郡から女王国に至る、1万2000余里である。
帯方郡(ソウル)から邪馬台国の女王国まで1万2000里だと明言しています.
不弥国までの総距離は1万700里です
ということは,女王国は不弥国から1300里(約80〜100km)のところにあるということになります.

これは長すぎても短すぎてもいけませんから,以下の緑色の領域内が有力候補です.

だとすると,その前に書かれている「水行10日 陸行1ヶ月」の意味も分かってきます.
上述したように,船で進める距離は「1日で1000里」でしたよね.
では,その計算で帯方郡から水行した日数はどれほどでしょうか?
帯方郡〜狗邪韓国:7000里(7日)
狗邪韓国〜対馬国:1000里(1日)
対馬国〜一大国:1000里(1日)
一大国〜末盧国:1000里(1日)
合計10日.つまり,水行10日なのです.


**羅列された21カ国にも掲載するだけの意味がある**
そして,陸行1ヶ月ですが,これを考えるためには「女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶たっていて、詳に得ることができない」のあとに紹介されている国の合計が21カ国であることがポイントです.

著者は「詳らかにすることはできない」と書いていますが,その後に書かれている国々は,女王国までの「陸行1ヶ月」の間に訪問できた国々のことではないでしょうか.
常識的に考えてみてください.彼らは偵察も兼ねた大陸からの使節団ですよね.1日毎に隣町まで移動して1泊し,その都度,現地の首長からのおもてなしを受けつつ,1ヶ月かけて女王国まで向かったと考えるのが普通でしょう.
そう考えれば,末盧国,伊都国,奴国,不弥国を加えれば25カ国です.
もちろん1日で辿り着けない時もあったでしょうから(末盧国から伊都国の間など),諸々あわせて約1ヶ月.
これが「水行10日,陸行1ヶ月」の正体ではないでしょうか.


**女王国(いわゆる邪馬台国とされた都市)はどこにあったのか**
では,女王国の場所はどこなのでしょうか?
「自女王國以北、其戸數道里可得略載・・・」とありますから,女王国から見て北方に土地があることになります.
さらに,位置を特定するためのヒントは以下の文章です.
原文:女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
和訳:女王国から東へ1000里渡ると,また倭人の国がある。
つまり,女王国の東には海があるのです.
北方に多数の国々を位置させることができて,東方に海を望む場所.
そこが女王国.
ということは関門海峡から東側,福岡県東部から大分県北部が有力候補になります.
これまでをまとめて図示するとこんな感じ.
福岡県行橋市から大分県豊前市辺りが,最もその条件を満たしています.
それに,この位置は不弥国から約1300里(約100km)にも位置しているのです.

さらに言えば,ここは地政学的にも重要です.
船を使った外交や商取引(特に鉄の輸入),情報交換などが活発になってきたこの時代において,関門海峡周辺を押さえることは日本列島の覇権を握ることを意味します.
日本海勢力と瀬戸内海勢力に睨みを効かせられるからです.
原文:自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國。
和訳:女王国より北に特に一大率という官が置かれ、諸国を検察し、諸国は之を畏れており、伊都国に常駐していた。
この記述は,現在の北九州市あたりに監察官を担う本部があったことを示していると考えられます.場所としても,ここにそれを置く意義は十分にある.
そして,その監察官は伊都国に常駐していたというわけです.

そう考えると,邪馬台国とは現在の糸島半島から宇佐市までを勢力下に置いていた連合国,つまり「筑前」から「豊前」までの領域に相当し,のちの「筑紫国」の前身になった国ではないかと思えます.


**投馬国はどこにあったのか**
もう一つの疑問を解釈してみましょう.
「南至投馬國、水行二十曰」の投馬国とはどこを指すのか?
東松浦半島までにかけた「水行10日」に追加して,さらに水行10日(合計20日)で行ける場所が投馬国ということになります.

私は,末盧国を分岐点として,九州西部に水行した先の国を差しているのだと思うんです.
理由は2つあります.
(1)魏志倭人伝では,女王国より東方を未知の倭人の土地として描いている.ゆえに「投馬国」が瀬戸内海勢力(安芸,吉備,伊予,讃岐など)や,日本海勢力(出雲,丹後,但馬など)とは考えにくい.
(2)より安全な陸行ではなく,危険でも水行した方が便利な場所にある

当時の大陸(中国・朝鮮)にとって「倭人の国」とは,邪馬台国と投馬国が有名所として知られていたのではないかと思われます.
だから,「魏志倭人伝」として「両国とも帯方郡から南下したところにある」と記した.
邪馬台国と投馬国の両国は,末盧国〜対馬国を経由して大陸と交流をしていたのかもしれません.

投馬国のことが詳しく記載されていない理由としては,大陸からの御一行は邪馬台国にしか行かなかったからではないかと考えられます.
そして,魏志倭人伝においては,詳しく偵察することができた邪馬台国の記録を記述した.
一方の投馬国については,末盧国で「ここから西側に船で10日くらい行けば,投馬国に着くよ.規模は邪馬台国よりちょっと小さいくらいだよ」という情報を集めただけなのかもしれない.
だから,「南へ水行20日で投馬国.同じく南へ水行10日と陸行1ヶ月で邪馬台国の女王国に行ける」という文章になり,投馬国についての詳しい距離や首都の記述がないわけです.

陸行せずに,水行20日のみである理由も簡単です.
以下を御覧ください.

九州西部は,リアス式海岸と諸島が続いており,ここを陸路で旅することは困難です.
陸行は不可能というわけではないけど,船を使った移動の方が便利だった可能性があります.
なので,「水行20日」とだけ記述した.九州西部では陸行することはないと考えられたからです.

投馬国の中心地がどこだったのかは不明ですが,私の妄想としては「大村湾内・諫早市周辺」というロマンを描いています.
ここは川と平地が適度にあり,水路の確保が容易で,しかも有明海を越えて現在の佐賀県や熊本県との交流もできます.
その海洋航路技術も高かったでしょうから,大陸とのつながりも深かったのではないかと思うんです.


**狗奴国はどこにあったのか**
次に,「其の南には狗奴国がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず」についても考えてみましょう.
女王国が行橋市周辺だとすると,その南方には大分県の別府市や大分市があります.豊後の国ですね.
位置関係をおさらいするため,冒頭に示した図を再掲します.
そのまんまです.狗奴国は九州東部の国だと考えられます.

おそらく,狗奴国としては大陸と通じて鉄などの希少資源や新しい技術・知識を欲しがっていたのではないかと思います.
そのためには,関門海峡を押さえている邪馬台国が目の上のタンコブだった.
私の妄想としては,きっと国東半島が九州の火薬庫だったと推察しています.

そんな九州の火薬庫のど真ん中に,日本の歴史上極めて重要で,武運の神「八幡神」を祀る八幡宮の総本社「宇佐神宮」が鎮座しているのも,何かを意味していると考えたくなります.

それに,「狗奴国は別府市・大分市周辺にあった」のだとすると,実は私のもう一つの妄想である「日本神話における『天孫降臨』は四国勢力による九州平定の物語だった」を別の形から説明してくれるんです.
詳細は■古代四国人・補足(国譲りと天孫降臨から空想する)を読んでほしいのですが,つまりは,
「邪馬台国(卑弥呼=アマテラス)と争っている狗奴国(豊日=サルタヒコ)が,四国勢力(ニニギ?)を導いて制圧に乗り出した」
ということです.
興味があったら上記リンク先をどうぞ.


**邪馬台国が近畿ではない最大の理由**
最後に,「邪馬台国九州説」の念押しをしておきます.
原文:參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里
和訳:倭地について參問(情報を収集)すると、海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは連なり、一周めぐるのに五千里ばかりである。
これって島ですよね.そこそこ小さめの.
本州じゃないですよ.
「一周するのに5000里(約400km)」というのは九州にしては小さいですけど,現地で情報収集したところからの分析ですから,精緻なものではないと考えられます.
ちなみに,グーグルマップで九州1周分を計測すると,約1000kmになります.
もしかすると,一番遠いところまでの距離と間違えたのかもしれませんね.


なお,こちらのサイトのほうが充実していて詳しいです.
古代日本まとめ


関連書籍
  



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