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どうして「絶対理解してくれない高等教育論」なのか

前回の記事,
絶対理解してくれない高等教育論
その理由編です.

大学に代表される高等教育に関する,デタラメな政策が止まりません.
現政権はそれを加速させています.

本ブログではずっと以前から繰り返しているように,おそらくはもう大学教育は致命傷を負っているので手遅れです.
まだ本格的に表在化していないだけで,そのうち
「どうしてこんな事態になるまで放置したのか?」
などと言い出すに決まっています.

でもそれは,決して国民自身の判断を問うようなものではなく,きっと「大学側の情報発信や主体性が弱かった」とか,「文部科学省にヴィジョンが無かった」とか,もしくはその時になってもまだ「時代に取り残された象牙の塔」などと言うに決まっています.


5年前の記事でも取り上げましたが,大学改革を始めたのが間違いなんです.
反・大学改革論
改革をすれば良くなるという意味不明な信仰が,将来の,少なくとも向こう50年くらいの日本人の知性を破壊してしまいました.
享保の改革とか天保の改革とか,とにかく「改革」と名のつくことは碌な結果にならないというのは学校の授業で教わることですが,この麻薬のような中毒性を喜ぶ人は多いものですね.

この破壊は自己回復不可能です.
これからまた100年くらいの時間をかけて直さなければなりませんが,まだ絶賛破壊中ですので,そのスタートラインに立つ日はずっと先のようです.
少なくとも,私達の世代が引退するくらいの時には,そのスタートラインに立てるように頑張っていきたいものですね.期待薄ですが.


さて,そんな高等教育に関するデタラメっぷりですが,これをまともな方向で是正しようと考えても,絶対理解してくれません.

絶対理解してくれないのには理由があります.

前回の記事でもお話ししたように,例えば「大学無償化」は,現状のまま取り組んだり,現政権が目論む「民間経営的手法」を促進させる政策と抱き合わせることによって,教育現場を壊滅させることができます.

これをまともな方向で是正しようとすれば,その一つとして考えられるのは,「大学無償化」と合わせて「卒業基準の厳格化」をすることで教育現場は救済されます.
大学教育を無償化(現実的には格安化)する代わりに,簡単には卒業できない仕組みへと徐々にシフトさせるものです.

これはつまり,現在の「学生から人気のある大学が優良大学」という捉え方から,「高い学術レベルの学生を輩出する大学が優良大学」と捉えることへと移行することを意味します.

実際の教育現場にいる方々からはご賛同いただけるかと思いますが,高い学術レベルをもった学生を輩出するためには,大学教員や研究グループが不断の研究活動をしていなければいけません.

「教え方がうまいから,学生が伸びる」というのは,極めて初歩的な段階の話.
極一部の領域を除き,大学は何かを教えるところではありません.
学術的思考力を鍛えるところです.
それは「教え方」でなんとかなるようなものではないのです.


ところが,こうした着想はメディアで取り上げられることもなく,政策にも反映されることはありません.

巧言令色な現在の大学よりも,質実剛健な大学に変わってくる方が喜ばれるかと思うのですが,そんな声は聞こえませんね.

なぜなら,そんな大学を多くの人が望んでいないからです.

もっと煽った刺激的な言い方にすれば,そんな大学にしてしまうと,次代を担う若者のレベルが自分たち自身より高くなってしまうので,それが悔しいからです.


もっと簡単ところから言えば,教育全般について「無償化」や「機会の平等化」を嫌う人は,おそらく自分自身を「勝ち組」と認識している人が多いのではないでしょうか.

そんな人が考える「教育システムの成功モデル」とは,自分自身の履歴です.

故に,自分自身が歩んできた道を「この日本社会における成功モデル」として固定化させたいという欲求が出てきてしまう.
別に批判するつもりもありません.それは人間らしい欲望ですからね.
可愛らしいですね.


勝ち組の人達からすれば,自分たちの成功モデルを否定することは難しいものです.
もっと言えば,その成功モデルにありつけた人は,できるだけ少ないほうがいい.
なぜなら,希少価値が高くなるからです.

あれだけ頑張って受験勉強して合格した大学が,これからは簡単に入学できる大学になってしまう.なんてことは避けたいという心理が働くのもわかります.
ましてや,「入学した」ことよりも「卒業した」ことの方が価値があるなんてことになったら,現在自分が保有している「◯◯大学卒業」という肩書がキャンセルされてしまうわけです.
彼らにとって「卒業」とは「入学」のことを意味しているからです.

斯くして,「大学を卒業した人々」は,高等教育の研究教育レベルを向上させる政策を望みません.

一方の,「大学を卒業していない人々」も,高等教育の研究教育レベルを高めようという気はありません.
絶望的な話ですが,これには2つ理由があります.

1つ目は,単純に,大卒のレベルが高まることを望まないからです.
簡単な話です.
彼らにとっては,大学で学ぶ人が受ける恩恵は低い方がいい.
大学に行くことは,あくまで肩書をつけることであってほしくて,本当に実力がついてしまうと悔しいという話です.

ようするに,これからもずっと「大学なんて所詮は肩書をつけに行くところさ」と罵りたいという心理です.


2つ目は,学校教育の延長でしか要求ができない,というものです.
つまり,この人達には学校と大学の違いが分かっていません.
いえ,むしろこれには大卒の多くも含まれていることでしょう.

学校と大学の違いが分かっていない人達だから,しかもウィキペディアでその違いを調べることすらしない人達だから,自分の頭の中だけで「教育」を語りたがります.
結果,上述したような「教え方がうまい」ことに価値を見出したり,大学を「職能を伸ばしてくれる」ためのサービス機関だと捉えています.

そんな人達が求めるのは,学生が寝坊しないためのモーニングコールであり,より多くの資格を取得できるカリキュラムであったりします.

そして,「人気のある大学が優良大学」「定員割れする大学はダメな大学」というドグマに支配されることにより,大学側もそれに対応した経営をするようになります.

あとは負のスパイラル.

とどのつまり,嫉妬と妬みなんですね.
これが大学教育と,日本の学術研究を破壊しています.
大学が一体何をするところなのか? それに立ち返って考えてもらいたいものです.