2017年12月16日土曜日

道徳教育は体育でやりましょう

「昨今喧しい『道徳教育』は,体育でこそ実現できるものだ」
そんな記事を書こうと思っていたら,大学の体育教員控室に置いてある雑誌にこんなのがありました.

体育科教育という我々の業界の雑誌でして,その12月号の特集が「いま,体育と道徳の関係を問い直す」「体育から発信する『学びに向かう力,人間性等』の育成」っていうやつだったんです.タイムリーでした.
興味のある方は御一読ください.

過去記事でも述べたことですが,体育は人間らしさを育てる上で重要な機会です.
体育ではスポーツを教材として扱う事が多いのですが,この「スポーツ」をきちんと楽しむためには人間らしさ,すなわち,倫理,道徳,人間性が求められます.
スポーツには,これらから惹起される「スポーツマンシップ」とか「フェアプレー精神」をもって取り組まないと,最初はそうでもなくても,途中からつまらなくなったり飽きたりします.
以前にも言いましたが,バカはスポーツができません.バカなのでなんとなくバカ騒ぎをするも,途中から投げ出します.
ですから,「スポーツを楽しもうとする営み」に取り組むことは,自然と道徳教育につながるのです.

人が何かを学び取るためには,その行為によって自分が楽しい思いをするであろうことが予想されなければいけません.
道徳教育であれば,道徳的に振る舞うことがどれだけ自分にとって価値あるものかを実感できなければ,道徳を身に着けることにはならないでしょう.

一部の気合いの入った人たちは,(道徳教育に限らないけど)熱弁をふるって,怒ったり喚いたりすることで道徳の重要性を説くことが多いですね.
最近は「いじめ問題」なんかでもそうなんですけど,とにかく怒鳴り散らすことが熱血的な教育だと考えているフシがあります.悲しいかな,そういうのって教育関係者以外の人に多いです.そんな人たちが教育現場に向かって「もっと道徳教育を徹底しろ」などと要求し,それに必要なのは「修身教育」とか,はたまた「人権教育」を説くことだなどとデタラメなことを言い出します.
でも,そんなものは子供はもちろんのこと,人には効果的に伝わらないですよ.

人が説得を受けるのは,自分がその行動を採用することによって楽しい思いをすることが予想できる状況においてです.
道徳教育であれば,「道徳的」とされる行動をとることが,自分自身にどのような価値をもたらすのか分かっていないといけません.

その点,スポーツを楽しむためには道徳的な行動をとることが条件になります.
「自分だけが楽しい思いをすればいい」と考えて取り組んだとしても,よほど競技性が強い場合は別でしょうが,そのスポーツはつまらない活動になってしまいます.
スポーツを楽しむためには,「私」の相手となってくれる存在(人間,動物,自然)も,「私」と対峙することで楽しめなければ成り立たないからです.

大学生を対象に一般体育をやってみますと,それが如実に現れます.
例えば,30人くらいの学生に場所をボールを与えて「サッカーをやりなさい」と課題を出してみると,ウォームアップをしてチーム分けをしてゲームをする,という一連の流れを達成するのは非常に困難です.実際,残念ながらこれは「偏差値」と相関してしまいます.
偏差値が低い学生はバカだとは言いたいわけではありませんし,偏差値が高い学生の全てがしっかりスポーツできる者ばかりではありませんけど,現状,これにはゆるい相関があるのも事実です.

元来,スポーツ教育はエリート育成のために用いられていました.
スポーツする場において,自分がどのような振る舞いをするべきなのかを考えられるのは,やっぱり人間社会におけるエリートなんですよ.
これは別に,リーダーシップを発揮したり,上手にプレーしたりといったことではありません.スポーツを楽しめる場を強調・協力して作れているかどうかという話.リーダー格になっている学生を補佐してあげたり,チーム内での役割を感じ取ったり,そこにいる人達が心地よくプレーできるように配慮した行動がとれることが大事なのです.

私自身,さまざまな大学で体育の授業をやってきましたし,知り合いの先生方と情報交換してみましても,これには非常に関連があります.
低偏差値大学では,学生は瞬発的に盛り上がることはあっても,90分持ちません.仮に90分持ったとして,次の週には飽きています.
そんな大学では,スポーツ嫌いの学生は嫌々取り組んだりするのはもちろん,それを堂々と態度に出します.
たとえ誰かがリーダーシップをとろうとしても,その人に協力してあげようという学生は少なく,むしろ甘えたり反抗したりします.せっかくサッカーのウォームアップを皆でやろうとしているのに,「俺,バスケがやりたい」とか言い出して脇で遊び出し,それだけならまだしも,「お前も一緒にやろうぜ」などと周囲の何人かを誘って場をメチャクチャにします.
あぁ,これがバカっていうんだな,ってことが観察できます.

で,結局はこういうのが専門ゼミでの議論・討論とか,研究ミーティングなどの場面でも表出するんです.
スポーツに対する態度はアカデミックな態度と通底しています.

ある先生が仰っていたなかで印象的だったのが,「低偏差値大学の学生の特徴として,『上手くいったのは自分の努力,上手くいかなかったのは誰かの責任』という態度が強い」というもの.
つまり,「私が心地良い思いをしていないのは,誰かがそれを阻害しているからだ」というメンタリティがあるのではないか? ということであり,そんな彼らは,自分自身が能動的に働きかけて心地良い状況を作り出そうという意志が弱いということなんです.

こういう学生をどのように教育するのかが大事になってくるわけですが,私なりに授業期間を通して様々なアプローチをかけてはいますよ.別に野放しにしているわけじゃありません.
ただ,「言う事聞かないと単位を出さないぞ」とか「指示をしっかり聞いて行動しろ」などと指導したくはないんです.
私も昔はそんな授業をしていましたが,今はやっていません.だって,そんな体育の授業に教育意義が見いだせないからです.
指示通りのことをやらせて,それでスポーツの技能が上がったところでどうだっていうんです?

上述したバスケを始めた学生にしたって,「おい,こっち来てサッカーしろ」と毅然とした態度をとってその場を治めても,彼は依然として「周囲の迷惑を顧みず,スキあらば天邪鬼な行動をとって気を引こうとする人間」という困ったチャンであることには変わりない.
これまた別に「困ったチャン」であること自体が悪というわけでもありません.そういった行動を可能な限り自制してコントロールできるようになりましょう,ということです.

実際,バスケを始めた学生としても,実は自分なりに「楽しい状況」を作るために能動的に働きかけた可能性もあります.そんな彼に必要なのは,指導者からの「やめろ」という指示・命令ではなく,周囲の学生から迷惑がられているというレスポンスと,本人自身もその行動によって深い楽しみを得られなかったという結果です.
そういった状況を得る機会として,体育とスポーツは非常に便利であると言えます.

頭では分かっていても,実際の行動にはつながらない.
体育が扱っているのは言動一致を目指すことです.
実際,体育の学習指導要領は,改正を繰り返してもこの文言は変わりません.
心と体を一体として捉え,生涯にわたって心身の健康を保持増進し豊かなスポーツライフを実現するための資質・能力を次のとおり育成することを目指す。■新学習指導要領(文部科学省)
正しい答えを身につけるのではなく,正しい答えを導く力を養うこと.
それが体育の授業に課せられた使命であり,豊かなスポーツライフを実現することとは,これすなわち道徳の陶冶に他なりません.


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